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夜会チョコレイト
その人だけの香り
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子槻のささやきに合わせて足を踏み出す。音楽は緩やかで、付け焼き刃の記憶を総動員すると、おそらく『ワルツ』というものだろう。
「何だ春子、上手じゃないか。謙遜はほどほどにしたまえよ」
「話しかけないでください! 間違って踏みますよ!」
「踏まれてもよいから話したいのだが……」
必死の剣幕で遮ると、子槻は目に見えてしおれた。
「春子、もう少し力を抜くといいよ。というわけでこのあいだの話なのだが」
勝手に話し始めた。
「わたしが庭の桜を切っただろう。それで庭師に苦言を呈されてしまってね。桜は素人が切ると切り口が腐ってしまうのだそうだ」
桜の香水を國彦に認めさせるために、子槻が自ら桜の枝を切ってきてくれたときのことだ。
「そ、それでは枝を切った桜は腐ってしまったんですか?」
「いや、庭師が処置してくれたおかげで大丈夫だったよ。ただしもう二度と切らないでくれと怒られてしまったよ」
「よかった。あ、いえ、子槻さんにとってはよくなかったかもしれませんが、桜にとってはよかったですね」
さすがに春子の香水の犠牲になって桜が腐ってしまったら申し訳なかった。
子槻は柔らかく慈しむように目を細める。
「桜には申し訳ないことをしてしまったが、わたしは桜より春子のほうが大事なのだ。あのときも、今も、これからも」
不意打ちで、春子は数拍遅れて首筋に熱が上がってきた。顔をそらすが、こんなに間近では赤みが分かってしまうだろうし、手で隠すこともできない。
子槻が小さく笑い声をもらす。
「少し力が抜けたかい」
そういえば、最初より踊りの足運びが無意識にできるようになっている。慣れただけかもしれないが、少し心に余裕が生まれる。
顔を戻すと子槻と目が合ってしまったが、無邪気な少年のように笑顔を向けられた。微笑んだ黒っぽい瞳が、橙色の炎の明かりを含んで、深く赤い色を見せる。
こんなに近くで見たことがなかったから、気付かなかった。子槻の瞳は黒ではなくて赤だったのだ。
最近、同じような色をどこかで見た、と思ったとき、子槻が顔をかたむけてほんのわずかに近付けてきた。春子は反射的に体ごと引いたが、踊りの体勢のせいで離れられない。
「いい香りだ」
春子は今日、自分自身が見本として桜の香水をつけている。そのことか、と少し安心した。
「そ、そうですね。桜はみんな好きですし」
子槻はおかしそうに笑う。
「それもそうだが、それだけではないよ。香水はやはり人の肌につけてこそだ。同じ香りでも混ざり合って微妙に違ってくるだろう。『春子の』桜の香り、とてもいい匂いだ」
香水はその人の肌の香りと混ざり合って、同じ香水でもその人だけの香りになる。子槻の言っていることは正しい。笑顔にも何の含みもないように見える。だから春子の思考がおかしいだけなのかもしれない。けれど、『春子の肌の香り』と混ざり合った香りをいい匂いというのは、春子自身の香りをかがれたようで、それは。
(子槻さんの破廉恥!)
声には出さなかったものの、春子は子槻の足を思いきり踏んでいた。羞恥からの無意識だ。意図的にではない、断じて。
足を踏んでしまったことを謝って、春子は何とか踊り終えることができた。続けて踊りたがる子槻をなだめすかして、踊りの輪から離れる。
「何だ春子、上手じゃないか。謙遜はほどほどにしたまえよ」
「話しかけないでください! 間違って踏みますよ!」
「踏まれてもよいから話したいのだが……」
必死の剣幕で遮ると、子槻は目に見えてしおれた。
「春子、もう少し力を抜くといいよ。というわけでこのあいだの話なのだが」
勝手に話し始めた。
「わたしが庭の桜を切っただろう。それで庭師に苦言を呈されてしまってね。桜は素人が切ると切り口が腐ってしまうのだそうだ」
桜の香水を國彦に認めさせるために、子槻が自ら桜の枝を切ってきてくれたときのことだ。
「そ、それでは枝を切った桜は腐ってしまったんですか?」
「いや、庭師が処置してくれたおかげで大丈夫だったよ。ただしもう二度と切らないでくれと怒られてしまったよ」
「よかった。あ、いえ、子槻さんにとってはよくなかったかもしれませんが、桜にとってはよかったですね」
さすがに春子の香水の犠牲になって桜が腐ってしまったら申し訳なかった。
子槻は柔らかく慈しむように目を細める。
「桜には申し訳ないことをしてしまったが、わたしは桜より春子のほうが大事なのだ。あのときも、今も、これからも」
不意打ちで、春子は数拍遅れて首筋に熱が上がってきた。顔をそらすが、こんなに間近では赤みが分かってしまうだろうし、手で隠すこともできない。
子槻が小さく笑い声をもらす。
「少し力が抜けたかい」
そういえば、最初より踊りの足運びが無意識にできるようになっている。慣れただけかもしれないが、少し心に余裕が生まれる。
顔を戻すと子槻と目が合ってしまったが、無邪気な少年のように笑顔を向けられた。微笑んだ黒っぽい瞳が、橙色の炎の明かりを含んで、深く赤い色を見せる。
こんなに近くで見たことがなかったから、気付かなかった。子槻の瞳は黒ではなくて赤だったのだ。
最近、同じような色をどこかで見た、と思ったとき、子槻が顔をかたむけてほんのわずかに近付けてきた。春子は反射的に体ごと引いたが、踊りの体勢のせいで離れられない。
「いい香りだ」
春子は今日、自分自身が見本として桜の香水をつけている。そのことか、と少し安心した。
「そ、そうですね。桜はみんな好きですし」
子槻はおかしそうに笑う。
「それもそうだが、それだけではないよ。香水はやはり人の肌につけてこそだ。同じ香りでも混ざり合って微妙に違ってくるだろう。『春子の』桜の香り、とてもいい匂いだ」
香水はその人の肌の香りと混ざり合って、同じ香水でもその人だけの香りになる。子槻の言っていることは正しい。笑顔にも何の含みもないように見える。だから春子の思考がおかしいだけなのかもしれない。けれど、『春子の肌の香り』と混ざり合った香りをいい匂いというのは、春子自身の香りをかがれたようで、それは。
(子槻さんの破廉恥!)
声には出さなかったものの、春子は子槻の足を思いきり踏んでいた。羞恥からの無意識だ。意図的にではない、断じて。
足を踏んでしまったことを謝って、春子は何とか踊り終えることができた。続けて踊りたがる子槻をなだめすかして、踊りの輪から離れる。
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