上 下
35 / 35
宝石市

二度とその汚い口をひらくな

しおりを挟む
 ヴィンセントが男に歩んで、胸倉をつかみ上げる。見えたヴィンセントの横顔は、殺気と凍てつく温度で、まさに先ほどナイフを向けられたときのようにわたくしの体から一気に熱が引く。

「失せろ。二度とその汚い口をひらくな」

 ふだんの会話と同じ声量で、けれど声には爆発しそうな感情がつまっていて、それが余計に怖かった。

 男が意味のない声を発して、ヴィンセントを振りほどこうと暴れ始める。あまりの力だったのか、男がヴィンセントの手から逃れてわたくしのほうへ転がり出る。とっさに持っていた扇子を投擲していた。

 男が潰れた声をあげる。扇子の先が見事に男の喉に命中したのだ。

 駆けてくる靴音とともに、路地の入口に黒い外套のルイが現れる。ルイは男に走り寄ると、素早く男を後ろ手に固定して立ち上がらせた。

「申し訳ありません。遅くなってしまい」

「連れていけ」

 ヴィンセントの言葉に、ルイは男を引っ張って大通りのほうへ消えていった。

 うそのような静けさが訪れる。

「ええと……あの……あ、ありがとう。助けてくれて……ヴィンセント」

 不安になって名前を呼んでしまったのは、ヴィンセントが男に対して信じられないほどの殺気を向けていたからだ。

 振り向いたヴィンセントはわたくしからすぐに目をそらして、痛々しい表情になった。

「礼を言われる立場じゃないよ。気を付けきれなかった僕の責任だ。恐ろしい思いをさせてしまって本当にごめん」

「あなたが悪いわけじゃないわ。わたくしの不注意だったし……あの人、殺されてしまうの?」

「警察に引き渡しに行っただけだよ。どうするかは彼らが決めることだ。僕は殺してしまってもいいと思うけどね」

 ヴィンセントの物言いが、鋭く、冷たく、憎悪に満ちている。基本的に誰に対しても物腰柔らかでひょうひょうとしているふだんとはあきらかに違う。

 わたくしを危険な目にあわせた奴に優しくする必要はないということかもしれないけど。殺されていたかもしれないし。

 男が路地に落としていったナイフが目に入って、思い出したように体温が引いて背に冷や汗があふれた。今まで忘れていたのがうそのように脚から力が抜ける。路地に力なくへたりこむ。

「ヘレナ!」

 ヴィンセントが慌てた顔でそばにしゃがみこんで背に手を回してくる。

「情けないけど、でも、やっぱり……怖かった」

 今さら、体の中から震えがやってきた。こんな時間差でへたりこまれてもヴィンセントも困るだろう。ごめんなさいねと何とか立ち上がろうとしたとき、体が浮いて悲鳴をあげていた。

 ヴィンセントの顔が間近にある。抱き上げられて、いる。

「ちょっと! 何してるの下ろして!」

「馬車まで運ぶから。じっとしてて」

「ちょっといいから! 自分で歩けるわ!」

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】第三王子殿下とは知らずに無礼を働いた婚約者は、もう終わりかもしれませんね

白草まる
恋愛
パーティーに参加したというのに婚約者のドミニクに放置され壁の花になっていた公爵令嬢エレオノーレ。 そこに普段社交の場に顔を出さない第三王子コンスタンティンが話しかけてきた。 それを見たドミニクがコンスタンティンに無礼なことを言ってしまった。 ドミニクはコンスタンティンの身分を知らなかったのだ。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。

秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚 13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。 歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。 そしてエリーゼは大人へと成長していく。 ※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。 小説家になろう様にも掲載しています。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

ひとりぼっち令嬢は正しく生きたい~婚約者様、その罪悪感は不要です~

参谷しのぶ
恋愛
十七歳の伯爵令嬢アイシアと、公爵令息で王女の護衛官でもある十九歳のランダルが婚約したのは三年前。月に一度のお茶会は婚約時に交わされた約束事だが、ランダルはエイドリアナ王女の護衛という仕事が忙しいらしく、ドタキャンや遅刻や途中退席は数知れず。先代国王の娘であるエイドリアナ王女は、現国王夫妻から虐げられているらしい。 二人が久しぶりにまともに顔を合わせたお茶会で、ランダルの口から出た言葉は「誰よりも大切なエイドリアナ王女の、十七歳のデビュタントのために君の宝石を貸してほしい」で──。 アイシアはじっとランダル様を見つめる。 「忘れていらっしゃるようなので申し上げますけれど」 「何だ?」 「私も、エイドリアナ王女殿下と同じ十七歳なんです」 「は?」 「ですから、私もデビュタントなんです。フォレット伯爵家のジュエリーセットをお貸しすることは構わないにしても、大舞踏会でランダル様がエスコートしてくださらないと私、ひとりぼっちなんですけど」 婚約者にデビュタントのエスコートをしてもらえないという辛すぎる現実。 傷ついたアイシアは『ランダルと婚約した理由』を思い出した。三年前に両親と弟がいっぺんに亡くなり唯一の相続人となった自分が、国中の『ろくでなし』からロックオンされたことを。領民のことを思えばランダルが一番マシだったことを。 「婚約者として正しく扱ってほしいなんて、欲張りになっていた自分が恥ずかしい!」 初心に返ったアイシアは、立派にひとりぼっちのデビュタントを乗り切ろうと心に誓う。それどころか、エイドリアナ王女のデビュタントを成功させるため、全力でランダルを支援し始めて──。 (あれ? ランダル様が罪悪感に駆られているように見えるのは、私の気のせいよね?) ★小説家になろう様にも投稿しました★

酒の席での戯言ですのよ。

ぽんぽこ狸
恋愛
 成人前の令嬢であるリディアは、婚約者であるオーウェンの部屋から聞こえてくる自分の悪口にただ耳を澄ませていた。  何度もやめてほしいと言っていて、両親にも訴えているのに彼らは総じて酒の席での戯言だから流せばいいと口にする。  そんな彼らに、リディアは成人を迎えた日の晩餐会で、仕返しをするのだった。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

処理中です...