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第一章 この世界は愛に満ちている

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 俺が住んでいる部屋は、日本で言うところの賃貸に該当する。

 一人暮らしの住人を想定したワンルームの一室は、最近出来た同居人の存在によりやや手狭となっていた。

 しかし、住処を移す気はなかった。というか俺にそんな選択肢は無い。

 単純に金銭の余裕が無いのだ。引っ越しというのは、一大事業。それは日本の常識と同義で、軽はずみに決断出来る事ではなかった。

 だから、恐れていた。

 一人暮らし用のアパートに同居人を迎えている事。

 それにより生じる騒音、廃棄物の増加、共有スペースの汚染、その他のインシデント。住人の苦情、或いは管理業者からの通達。

 つまるところ、住人トラブルの発生を心の底から恐れ、慄いていた。



☆☆★★★☆★☆



「リー君、いらっしゃいますか?」

 今日も今日とて暑い。

 どうやらこの世界にも四季はあるらしく、日本で言う所の春が過ぎた真夏日、窓越しにカーテンを灼く陽射しに震えていた所、招かれざる客人は俺の部屋を訪ねた。

「お会いしたかったです。あれからずっと、貴方の事ばかり考えていました」

 インターフォンの画面に映るのは、目を疑う程に可憐な少女。

 その素肌は透き通る様に白く、艶があった。

 また、草色の瞳は潤いに満ち、やや垂れ目がちな双眸は、見つめるものを吸い込んでしまいそうな引力を秘めている。

 インターフォン越しに見る身長は百五十センチくらいかな? 小柄な体格が愛らしさに拍車をかけている。

 そして髪は金色の長髪。この子の髪は同居人の様なヅラではなく、正真正銘天然由来のものだろう。

 一目でそれと分かる美少女。こういった人種と出会うのは、今世に来て三度目だ。

 しかし、彼女の特徴は容姿に留まらない。何だ、その装いは。

 いや知っている。俺は知っているぞ。

 それは前世から持ち越された知識の中にある一つの幻想、男のロマン。

 彼女は襟と袖口だけが白い、漆黒のワンピースを着て、その首元にリボンを締めている。

 しかもこの暑さの中、長袖だと?───嫌なことを思い出すが、それどころではない───そして更に、その上には白い清潔感のあるエプロンを着ている。

 その姿は、間違いない。

 ワンピース、リボン、エプロンにそれぞれ控えめな装飾が施されているその姿は!!

 この暑さの中、それでもその装いを身に纏う事を宿命付けられた君の正体は!!!!

───メイドさんだぁぁぁあああ!!
 この世界の人間は、前世の日本人よりも幾らか容姿に劣る特性があった。

 ひょっとして、と思い、インターフォンの画面越しに彼女の耳を注視すると、やはりエルフの特徴的な耳がそこにあった。

───メイド服エルフ!!!
 ここにあったのか、遂に見つけたぞ、始まったな俺のファンタジー!!!!!

「本当にずっと、ですよ? あの日の事を、どうしても謝りたくて」

 俺の興奮を他所に、エルフメイド美少女は語り続ける。

 何やら彼女は謝意を示したいらしかった。

「そして伝えたくて。わたくしあれから頑張りましたの。旅立ちのお許しが出たのも、つい先日の事ですわ」

 自身の行いを反省し、誠意を見せるため、ここを訪れたと言う。

───ムショ上がりかな?
 謝罪、反省、努力と来れば、想像するのは刑務所だ。彼女は刑期を終えて出てきたところなのかも。

 しかし、更生してやり直す事の報告ならば相手を間違えている。

 俺自身、エルフの被害に遭った経験には心当たりしかない。でもそれは彼女とは別の人物による犯行だ。

 そして、奴は未だ捕まっていない。凶悪犯は今も日常に溶け込み、社会で野放しになっているのだ。恐ろしい。

「それにしても、人間の都市は活気がありますわね。人、物、娯楽に溢れ、眠らない街では夜空を見上げる事も忘れてしまいます」

 少女の言葉に内心で同意する。

 どこの世界線でも人間の価値観ってそんなに変わらない。

 狡猾で競争を好み、他人を出し抜いてでも自分が上に立つ事若しくはそれに準ずる地位を築く事のみに没頭するんだ。

 例えば娯楽。小説が流行ればその中で一番を目指し、それがブームを終えれば劇、映画、漫画、アニメ、果てはもっと手軽な動画配信サービスへとエンターテインメントの幅を拡大した。

 文字で勝てないと悟れば絵に、それがダメなら映像に、それもダメならプラットフォームを移してでも、自身が最も輝ける場所を渇望したものだ。

 そういう姿を見てると心配になる。疲れないのかな? ってね。

 自分が肯定される世界を探す気持ちは分かるけど、程々にしないとキリがないよね。

「環境の違いに戸惑う事もありますが、少しでも早く身を立ててリー君のお役に立てるよう努めていますわ」

 まぁこの子に限ってそんなあくどい事はしないだろう。さっきは前科持ちの汚名を着せてしまったけど、それはきっと濡れ衣だね。

 丁寧に洗濯されたエプロンと同じ様に、その心根も純粋なはず。

「わたくし、薬屋で働いていますの。幼少からの教養が役に立っていますわ。もちろん、今も変わらず研鑽の毎日ですの」

───薬屋、それでメイド服か、なるほどな……ん? なるほどか?
 取り留めのない違和感は実態がなく、脳裏に消えていく。

「そうして今日まで、精進してきましたわ」

 言葉には確かな誠意が宿っている。

 彼女の服装がその人柄を裏打ちする。

 メイドさんとは清廉潔白で裏表が無く、主人に対して従順でなければならない。

 これが嘘だというなら、大したペテン師といった所だ。

 そうではない。彼女はきっとそんな人物ではないと信じさせる、信じたくなる、信じずには居られなくなる、そんな印象だった。

「わたくし、覚悟は出来ていますの。だからどうか、扉を開けて頂けませんか?」

 しかし、と思う。一方で俺は知っているのだ。

「そして生涯を共にするつがいの契りを結びましょう」

「すみません、マルチ商法なら間に合ってます」

 俺はそっとインターフォンを切って溜息を吐く。

 美少女と詐欺トラブルはセット、流石に学習した。

 今日は休日で予定があるのだ。

 これ以上下らないトラブルにかかずらっている余裕は無い。


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