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第三章 7
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テレーゼに従い、何度か分かれ道に行くにつれて、徐々に地面や壁が湿っていることに気がついた。
気づくと、足跡がくっきりつくようになっていた。
壁もしっかりと固まり、まるで人工物のようだ。
いや、“まるで”じゃない。本当に人工物だ。煉瓦のようだ。
どうやら、少なくとも人がいるところまで近づいたようだ。
明かり一つない、長く、冷たい洞窟。というより下水道といったほうが正しいようだ。
そこを、ただ前へ前へと進むしかなかった。
「なんか、いやーなところね」ユズハが、湿った洞窟の壁を伝いながら、呟いた。その声が、不規則に反響する。
「下水道に通じていたとはな」という砕封魔の呟きに対し、
「お前の勘も大したことはないな」
と、レッドが嬉しそうにツッコんだ。
足元には、地下水が溜まっており、歩く度に掻き混ぜられていた。
「何とかならないの。レッド」
一方エルザは、淀んだ水のせいか、異臭に鼻を摘みながら、爪先で歩いていく。
「何とかって、どうすれば良いんだよ」
その言葉に、顔を歪めたレッドが聞き返す。
「私を背負え」
「はぁ!?」
ユズハが慌てて顔を近づけた。
「宝よ! いっときの辛抱よ!」
「あのな。俺は、ここに来るまで相当辛抱してると思うけどなぁ」
「“若い内は、苦労は買ってでもしろ”って言うでしょ」
「少なくとも、お前より年上だよ!」
レッドの声が大きく反響した。――その時だった。
彼の声が、洞窟の奥に届いたらしい。何かが反応したようだ。
まずは、音だった。羽ばたくような音が、複数。耳朶に触れる――前に、空気がうねる。
『キキキ――ッ!』
直後、時間差で鋭い鳴き声と共に、何かが一斉に飛び掛かって来たのだ。
蝙蝠の大群だ。
「何よ。蝙蝠じゃな――」言い終わらない内に、ユズハの言葉が止まり、表情が固まった。
蝙蝠が彼女を通り過ぎていったのだ。
直後、その頬からは、血が垂れていた。
「……?」
ユズハが、不思議そうに自分の頬を触り、手で拭った血を視界に入れた。
呆然としているユズハを無視し、蝙蝠達は何度も飛翔を繰り返している。
その軌跡は、刃物のように鋭かった。
暗くて見えないが、目を凝らすと蝙蝠が通過する最中に、火花が連続で散る。その度に周囲が明るくなった。
蝙蝠の翼がトンネルの壁を削っていたのだ。
どうやら相当の硬度を持っているらしい。――などど分析できる余裕など与えてくれなかった。
『――!』
慌てたレッドやエルザが逃げようと踵を返した。――その背中を、遅れてしまったユズハが必死に掴んだ。
「ち、ちょっと!」
「五月蝿い! 放せ!」レッドが振り解こうとする。――そんな二人の間を蝙蝠が通り過ぎていく。
『……』
――助かった?
レッドとユズハが顔を見合わせた。時間差で緩んだ。
ところが、二人の体は何か見えない力によって吹き飛ばされていた。
トンネル内に、複数の風切り音が轟音となり、駆け抜けたのだ。
「な、何だ!?」
無様に転んだレッドの問に、砕封魔が珍しく緊張した声色で答えた。
「“かまいたち”――空気の刃だ!」
目の前の真空の渦に、体が持って行かれそうになっていた。
「嘘だろぉぉぉ!」
真空の渦に巻き込まれまいと、レッドが必死に壁に掴まった。
悲鳴すら、風切り音に掻き消されていた。
「五月蝿いっ!」
一方ユズハは、転倒して地下水に身を沈めながら、糸を瞬く間にトンネル内に張り巡らせた。
といっても、流されるほどの水深ではないが。
そんな糸の集合体が、レッドの体を絡め取り、瞬く間に包み込んでいく。
レッドの「俺を殺す気か!」という文句に、ユズハが「五月蝿いっ!」と反撃する。
二人が言い合っている内に、かまいたちが目前に迫って来ていた。
強風に煽られたレッドが「本当に死ぬ!」と喚き散らす。
しかしレッドが喚いたところで、かまいたちは止まるわけでもなく――。
むしろ、周囲の蝙蝠や下水を巻き込み、勢力を拡大させる。
もはやレッドは、細切れになる自分しか想像出来なくなっていた。
「!」
ところが、彼の体は幾分か風で煽られたものの、痛みは一切感じなかった。
実はレッドの体を、ユズハの糸が守ってくれたのだ。
直後、糸が解けて、レッドの体が下水道に投げ出されてしまった。
「……あれ? 助かった?」と、呆然とするレッドの側で、ユズハの糸が空気の刃によって次々に切り落とされていた。
「また、出費がかさむ!」
何とか上体を起こしたユズハの嘆きが聞こえた。
別に助かった訳ではない。
ただ、かまいたちからは逃げることが出来たに過ぎないのだ。
「……」
他方テレーゼは、網をくぐり抜けて来た蝙蝠を、立て続けに斬り落としていた。
蝙蝠が、狭い空間を自由に滑空する。
その軌跡は、トンネルの天井を沿うように円を描いたかと思うと、自身を絞り上げ、螺旋状に回転しながら、レッド達に狙いを定めるに至っていた。
まるで銃弾だ。
もちろん、一匹や二匹の話じゃない――。
群れの一つはトンネルの壁を削り、別の群れは水面すれすれに飛翔していた。
おかげで、周囲を火花と水柱、そして旋風が突き抜けていく。
「……」
テレーゼの視線は、蝙蝠の動きに反応する気もなかった。
ただ、前を見ている。
その代わりに、右手だけは激しく振られていた。
ちなみに狭いトンネル内では、刀を振り回せば、壁に当たり、弾かれてしまう。
彼女は、いや砕封魔はそこまで計算して、動きを最小限にして刀を振るっていた。
『キキッ!』
たった今、数匹が右頭上から頭目がけて急降下してきた。
しかし、彼女は黒目を動かすこともなく、その進入ルートへ刃を滑り込ませた。――ように“見えた”。
その刃が、蝙蝠の翼によって弾かれてしまったのだ。
「!」
テレーゼの目が思わず丸くなる。
「痛てっ!」という刀の声すらも、連なる風切り音に吸い込まれていった。
それだけは終わらなかった。
刀だけでなく、女の腕を“空気の刃”が斬り付けていったのだ。
どうやら、目の前を通過する群れの一つに気を取られていたらしい。――足元の水柱の先を飛ぶ蝙蝠に反応するのに、ワンテンポ遅れてしまったのだ。
飛び退ろうとするふくらはぎを、翼と空気が斬り付けた。しかも間断なく、次々と――。
「ちょっと、大丈夫!?」というユズハも声を掛けるだけで精一杯だった。
ちなみに、すでに立ち上がり、視線と糸が蝙蝠を追跡していた。
何しろ、糸で絡め取ることができるのは、一度に数匹が関の山。きりがない。
一方ユズハの問いに、テレーゼが答える代わりに怪我をしたふくらはぎが悲鳴を上げる。
体が痛くない方へと自然と傾く――その透きを狙うが如く、再び蝙蝠の群れが反対側の足を急襲する。
思わず膝が折れてしまう。
彼女の体が、勢い良く崩れ落ちた。
他方、レッドはエルザの体を庇うようにして覆った。
「ちょっと! 離れて!」と、ジタバタともがく彼女の耳が、通過する激しい風切り音を捉えた。――刹那、眩しい閃光が辺りを飲み込んだ。
「!」
時間差で、爆風と共にレッドの低い呻き声が、聴覚を刺激した。
爆風と閃光が収まり、目をゆっくりと開けると、そこには体中斬り傷に覆われ薄れゆく意識の中、それでも自分を守ろうとするレッドの姿があった。
どうやら、トンネル内にメタンガスが溜まっていたようだ。それに火花が引火したらしい。
でも今は、そんなことはどうでも良い。
「え。嘘……」これ以上、エルザの口からは言葉が出ることはなかった。
――ボロボロになってまで、私を守る? 普通……。
あれほど、私を嫌ってたのに――。
「……」
ついに意識を失ったレッドが、エルザの小さな体に無造作に凭れ掛かってしまった。
水温に冷やされる中、彼の体が沈まないように必死に支えた。
その間も、蝙蝠の攻撃は止むことはなかった――。
折角、眼前の男が守ってくれたというのに、エルザの体も少しずつ傷つけられていく。――今右肩をやられた。
痛みが、レッドを支えた右腕まで伝わり、今にも落としそうだ。――いや、今度は右腕を斬り付けられ、結局落とす結果になってしまった。
「あっ!」
エルザの声が、トンネル内に反響した。唇を噛み締めた。
水深はせいぜい膝下ぐらいまでだから、彼の体が流されるほどでもない。
だからといって、顔面が水面に浸かっている。――溺死するのは、時間の問題だ。
「ハァ。ハァ……。んしょ!」
非力なエルザが、必死にレッドの体を引き上げようとする。
しかし、そのか細い腕は、彼を数センチ浮かせたところで、すぐに音を上げてしまった。
おかげで、その勢いのまま尻もちをついてしまった。
しかし、自分の無力さを恨む暇など、神様は与えてくれてなかった。
視界の向こうから、蝙蝠が一匹――彼女目がけて突っ込んできたのだ。
「嬢ちゃん、伏せろっ!」声の主を確かめる術もなく、エルザが思わず蹲る。
その際、水面に浮かんだのは、男が立ち上がる姿だった。
――え。嘘……。でも、良かった。
頭を抱えて目を瞑ったエルザの顔は、何故か笑みを浮かべていた。
直後、駆け抜けたのは風切音ではなく、蝙蝠の断末魔だった――。
そこには、手にした砕封魔を縦横無尽に振り回すレッドが立っていた。
その勢いは尋常ではなく、蝙蝠の起こした旋風ですら、レッドを捉えることができないほど、その動きは速かった。
たった今、自分に向かってきた蝙蝠を、撫で切りにした。
鳴く暇すら与えられず、水中に落下した。
まさに、目にも留まらないほどに――だ。
「……」
しかし、いつもの彼とは様子が違っていた。その証拠に目が虚ろというか、生気がないというか……。
『キキキキキキッッッ……!』
しかしそんな異変に気付けないほど、レッドに蝙蝠の大群が一斉に飛び掛かってきた。
野生の本能か。
多分、今その場にいる中で、危険なのがレッドだと悟ったのだろう。まずは、この男を始末しないと――と思ったのか。
トンネル中が蝙蝠の鳴き声、旋風、爆発、水柱――それぞれが、無秩序に発生し、五感がすべて麻痺する。
「……」
しかしレッドは怯むどころか、眉一つ動かさずに、蝙蝠を次々に斬り伏せていく。
その剣閃は、硬い翼ではなく、胴体に狙い定めていた。
次々に襲いかかって来るなかで、そんな芸当が出来るとは、神業といっても良い。
まるでテレーゼのようだった。
少なくとも、ユズハはそういう印象を受けていた。
いや、それ以上だ――。
今度はレッドが、刀を握っていない左手で、蝙蝠を鷲掴みにし、それを力尽くで壁に投げつけた。
それも、立ち止まらず、壁や天井を駆け抜けながら、だ。
もはや、人間の動きではなかった。
そんな姿を呆然と見ていたユズハが、何かを思い出した。
大蜘蛛との戦いだ。
――もしかして、刀が操ってるの!?
それにしては、前とは違い、理性が飛んでいる。一体、何が……。
ユズハはそんなことを頭に浮かべながらも、エルザを抱えて、レッドから飛び退いた。
もちろん、彼女を危険から遠ざけるためだ。
「ねぇ! 大丈夫なの?」というエルザの問いかけに、ユズハが視線を合わせずに答えた。
「――さぁ。でも、あの様子だと、蝙蝠を心配した方が良いかもね」
ユズハの視線は、レッドに向けられていた。口元を歪ませながら。
視線の向こうで、レッドの活躍は終わらなかった。
未だにトンネル内を縦横無尽に走り回っていた。
それだけじゃない。
走りながら、壁や天井を切りつけていたのだ。
「痛って!」という刀の声が聞こえた気がした。
だが、レッドを操っているのが砕封魔だとしたら、何故わざわざ自分を痛い目に遭わせるのか――?
刹那、火花が不規則に、断続的に、明滅する。
そして刀が叫んだ。
「糸を出せ!」
「!」
突然の命令に関わらず、エルザの体が勝手に反応していた。
両手を真横に広げた瞬間、無数の糸がトンネル内に広がった。
時間差で、火花が糸を伝って、瞬く間に燃え広がっていく。
瞬間、「皆、伏せろぉぉぉ……!」という、刀の叫び声とともに、辺りに火炎地獄が広がった。
爆音と爆風、熱波がトンネル内を埋め尽くした――。
気づくと、足跡がくっきりつくようになっていた。
壁もしっかりと固まり、まるで人工物のようだ。
いや、“まるで”じゃない。本当に人工物だ。煉瓦のようだ。
どうやら、少なくとも人がいるところまで近づいたようだ。
明かり一つない、長く、冷たい洞窟。というより下水道といったほうが正しいようだ。
そこを、ただ前へ前へと進むしかなかった。
「なんか、いやーなところね」ユズハが、湿った洞窟の壁を伝いながら、呟いた。その声が、不規則に反響する。
「下水道に通じていたとはな」という砕封魔の呟きに対し、
「お前の勘も大したことはないな」
と、レッドが嬉しそうにツッコんだ。
足元には、地下水が溜まっており、歩く度に掻き混ぜられていた。
「何とかならないの。レッド」
一方エルザは、淀んだ水のせいか、異臭に鼻を摘みながら、爪先で歩いていく。
「何とかって、どうすれば良いんだよ」
その言葉に、顔を歪めたレッドが聞き返す。
「私を背負え」
「はぁ!?」
ユズハが慌てて顔を近づけた。
「宝よ! いっときの辛抱よ!」
「あのな。俺は、ここに来るまで相当辛抱してると思うけどなぁ」
「“若い内は、苦労は買ってでもしろ”って言うでしょ」
「少なくとも、お前より年上だよ!」
レッドの声が大きく反響した。――その時だった。
彼の声が、洞窟の奥に届いたらしい。何かが反応したようだ。
まずは、音だった。羽ばたくような音が、複数。耳朶に触れる――前に、空気がうねる。
『キキキ――ッ!』
直後、時間差で鋭い鳴き声と共に、何かが一斉に飛び掛かって来たのだ。
蝙蝠の大群だ。
「何よ。蝙蝠じゃな――」言い終わらない内に、ユズハの言葉が止まり、表情が固まった。
蝙蝠が彼女を通り過ぎていったのだ。
直後、その頬からは、血が垂れていた。
「……?」
ユズハが、不思議そうに自分の頬を触り、手で拭った血を視界に入れた。
呆然としているユズハを無視し、蝙蝠達は何度も飛翔を繰り返している。
その軌跡は、刃物のように鋭かった。
暗くて見えないが、目を凝らすと蝙蝠が通過する最中に、火花が連続で散る。その度に周囲が明るくなった。
蝙蝠の翼がトンネルの壁を削っていたのだ。
どうやら相当の硬度を持っているらしい。――などど分析できる余裕など与えてくれなかった。
『――!』
慌てたレッドやエルザが逃げようと踵を返した。――その背中を、遅れてしまったユズハが必死に掴んだ。
「ち、ちょっと!」
「五月蝿い! 放せ!」レッドが振り解こうとする。――そんな二人の間を蝙蝠が通り過ぎていく。
『……』
――助かった?
レッドとユズハが顔を見合わせた。時間差で緩んだ。
ところが、二人の体は何か見えない力によって吹き飛ばされていた。
トンネル内に、複数の風切り音が轟音となり、駆け抜けたのだ。
「な、何だ!?」
無様に転んだレッドの問に、砕封魔が珍しく緊張した声色で答えた。
「“かまいたち”――空気の刃だ!」
目の前の真空の渦に、体が持って行かれそうになっていた。
「嘘だろぉぉぉ!」
真空の渦に巻き込まれまいと、レッドが必死に壁に掴まった。
悲鳴すら、風切り音に掻き消されていた。
「五月蝿いっ!」
一方ユズハは、転倒して地下水に身を沈めながら、糸を瞬く間にトンネル内に張り巡らせた。
といっても、流されるほどの水深ではないが。
そんな糸の集合体が、レッドの体を絡め取り、瞬く間に包み込んでいく。
レッドの「俺を殺す気か!」という文句に、ユズハが「五月蝿いっ!」と反撃する。
二人が言い合っている内に、かまいたちが目前に迫って来ていた。
強風に煽られたレッドが「本当に死ぬ!」と喚き散らす。
しかしレッドが喚いたところで、かまいたちは止まるわけでもなく――。
むしろ、周囲の蝙蝠や下水を巻き込み、勢力を拡大させる。
もはやレッドは、細切れになる自分しか想像出来なくなっていた。
「!」
ところが、彼の体は幾分か風で煽られたものの、痛みは一切感じなかった。
実はレッドの体を、ユズハの糸が守ってくれたのだ。
直後、糸が解けて、レッドの体が下水道に投げ出されてしまった。
「……あれ? 助かった?」と、呆然とするレッドの側で、ユズハの糸が空気の刃によって次々に切り落とされていた。
「また、出費がかさむ!」
何とか上体を起こしたユズハの嘆きが聞こえた。
別に助かった訳ではない。
ただ、かまいたちからは逃げることが出来たに過ぎないのだ。
「……」
他方テレーゼは、網をくぐり抜けて来た蝙蝠を、立て続けに斬り落としていた。
蝙蝠が、狭い空間を自由に滑空する。
その軌跡は、トンネルの天井を沿うように円を描いたかと思うと、自身を絞り上げ、螺旋状に回転しながら、レッド達に狙いを定めるに至っていた。
まるで銃弾だ。
もちろん、一匹や二匹の話じゃない――。
群れの一つはトンネルの壁を削り、別の群れは水面すれすれに飛翔していた。
おかげで、周囲を火花と水柱、そして旋風が突き抜けていく。
「……」
テレーゼの視線は、蝙蝠の動きに反応する気もなかった。
ただ、前を見ている。
その代わりに、右手だけは激しく振られていた。
ちなみに狭いトンネル内では、刀を振り回せば、壁に当たり、弾かれてしまう。
彼女は、いや砕封魔はそこまで計算して、動きを最小限にして刀を振るっていた。
『キキッ!』
たった今、数匹が右頭上から頭目がけて急降下してきた。
しかし、彼女は黒目を動かすこともなく、その進入ルートへ刃を滑り込ませた。――ように“見えた”。
その刃が、蝙蝠の翼によって弾かれてしまったのだ。
「!」
テレーゼの目が思わず丸くなる。
「痛てっ!」という刀の声すらも、連なる風切り音に吸い込まれていった。
それだけは終わらなかった。
刀だけでなく、女の腕を“空気の刃”が斬り付けていったのだ。
どうやら、目の前を通過する群れの一つに気を取られていたらしい。――足元の水柱の先を飛ぶ蝙蝠に反応するのに、ワンテンポ遅れてしまったのだ。
飛び退ろうとするふくらはぎを、翼と空気が斬り付けた。しかも間断なく、次々と――。
「ちょっと、大丈夫!?」というユズハも声を掛けるだけで精一杯だった。
ちなみに、すでに立ち上がり、視線と糸が蝙蝠を追跡していた。
何しろ、糸で絡め取ることができるのは、一度に数匹が関の山。きりがない。
一方ユズハの問いに、テレーゼが答える代わりに怪我をしたふくらはぎが悲鳴を上げる。
体が痛くない方へと自然と傾く――その透きを狙うが如く、再び蝙蝠の群れが反対側の足を急襲する。
思わず膝が折れてしまう。
彼女の体が、勢い良く崩れ落ちた。
他方、レッドはエルザの体を庇うようにして覆った。
「ちょっと! 離れて!」と、ジタバタともがく彼女の耳が、通過する激しい風切り音を捉えた。――刹那、眩しい閃光が辺りを飲み込んだ。
「!」
時間差で、爆風と共にレッドの低い呻き声が、聴覚を刺激した。
爆風と閃光が収まり、目をゆっくりと開けると、そこには体中斬り傷に覆われ薄れゆく意識の中、それでも自分を守ろうとするレッドの姿があった。
どうやら、トンネル内にメタンガスが溜まっていたようだ。それに火花が引火したらしい。
でも今は、そんなことはどうでも良い。
「え。嘘……」これ以上、エルザの口からは言葉が出ることはなかった。
――ボロボロになってまで、私を守る? 普通……。
あれほど、私を嫌ってたのに――。
「……」
ついに意識を失ったレッドが、エルザの小さな体に無造作に凭れ掛かってしまった。
水温に冷やされる中、彼の体が沈まないように必死に支えた。
その間も、蝙蝠の攻撃は止むことはなかった――。
折角、眼前の男が守ってくれたというのに、エルザの体も少しずつ傷つけられていく。――今右肩をやられた。
痛みが、レッドを支えた右腕まで伝わり、今にも落としそうだ。――いや、今度は右腕を斬り付けられ、結局落とす結果になってしまった。
「あっ!」
エルザの声が、トンネル内に反響した。唇を噛み締めた。
水深はせいぜい膝下ぐらいまでだから、彼の体が流されるほどでもない。
だからといって、顔面が水面に浸かっている。――溺死するのは、時間の問題だ。
「ハァ。ハァ……。んしょ!」
非力なエルザが、必死にレッドの体を引き上げようとする。
しかし、そのか細い腕は、彼を数センチ浮かせたところで、すぐに音を上げてしまった。
おかげで、その勢いのまま尻もちをついてしまった。
しかし、自分の無力さを恨む暇など、神様は与えてくれてなかった。
視界の向こうから、蝙蝠が一匹――彼女目がけて突っ込んできたのだ。
「嬢ちゃん、伏せろっ!」声の主を確かめる術もなく、エルザが思わず蹲る。
その際、水面に浮かんだのは、男が立ち上がる姿だった。
――え。嘘……。でも、良かった。
頭を抱えて目を瞑ったエルザの顔は、何故か笑みを浮かべていた。
直後、駆け抜けたのは風切音ではなく、蝙蝠の断末魔だった――。
そこには、手にした砕封魔を縦横無尽に振り回すレッドが立っていた。
その勢いは尋常ではなく、蝙蝠の起こした旋風ですら、レッドを捉えることができないほど、その動きは速かった。
たった今、自分に向かってきた蝙蝠を、撫で切りにした。
鳴く暇すら与えられず、水中に落下した。
まさに、目にも留まらないほどに――だ。
「……」
しかし、いつもの彼とは様子が違っていた。その証拠に目が虚ろというか、生気がないというか……。
『キキキキキキッッッ……!』
しかしそんな異変に気付けないほど、レッドに蝙蝠の大群が一斉に飛び掛かってきた。
野生の本能か。
多分、今その場にいる中で、危険なのがレッドだと悟ったのだろう。まずは、この男を始末しないと――と思ったのか。
トンネル中が蝙蝠の鳴き声、旋風、爆発、水柱――それぞれが、無秩序に発生し、五感がすべて麻痺する。
「……」
しかしレッドは怯むどころか、眉一つ動かさずに、蝙蝠を次々に斬り伏せていく。
その剣閃は、硬い翼ではなく、胴体に狙い定めていた。
次々に襲いかかって来るなかで、そんな芸当が出来るとは、神業といっても良い。
まるでテレーゼのようだった。
少なくとも、ユズハはそういう印象を受けていた。
いや、それ以上だ――。
今度はレッドが、刀を握っていない左手で、蝙蝠を鷲掴みにし、それを力尽くで壁に投げつけた。
それも、立ち止まらず、壁や天井を駆け抜けながら、だ。
もはや、人間の動きではなかった。
そんな姿を呆然と見ていたユズハが、何かを思い出した。
大蜘蛛との戦いだ。
――もしかして、刀が操ってるの!?
それにしては、前とは違い、理性が飛んでいる。一体、何が……。
ユズハはそんなことを頭に浮かべながらも、エルザを抱えて、レッドから飛び退いた。
もちろん、彼女を危険から遠ざけるためだ。
「ねぇ! 大丈夫なの?」というエルザの問いかけに、ユズハが視線を合わせずに答えた。
「――さぁ。でも、あの様子だと、蝙蝠を心配した方が良いかもね」
ユズハの視線は、レッドに向けられていた。口元を歪ませながら。
視線の向こうで、レッドの活躍は終わらなかった。
未だにトンネル内を縦横無尽に走り回っていた。
それだけじゃない。
走りながら、壁や天井を切りつけていたのだ。
「痛って!」という刀の声が聞こえた気がした。
だが、レッドを操っているのが砕封魔だとしたら、何故わざわざ自分を痛い目に遭わせるのか――?
刹那、火花が不規則に、断続的に、明滅する。
そして刀が叫んだ。
「糸を出せ!」
「!」
突然の命令に関わらず、エルザの体が勝手に反応していた。
両手を真横に広げた瞬間、無数の糸がトンネル内に広がった。
時間差で、火花が糸を伝って、瞬く間に燃え広がっていく。
瞬間、「皆、伏せろぉぉぉ……!」という、刀の叫び声とともに、辺りに火炎地獄が広がった。
爆音と爆風、熱波がトンネル内を埋め尽くした――。
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だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
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国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
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