短い話たち

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向かいの席

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夏の寝苦しい夜、ベッドにうつ伏せになってまどろんでいる僕の脳裏には、あの日の景色が浮かんでいた。

あの日…
もう半世紀も昔のあの日だ。
僕の向かいには彼女がいる。外はとても寒いけど、ここは暖房がよく効いている。お互い着ていた上着を脱いでコーヒーを注文した。
「暖かいね、ここ」
そう言い出す僕は隣を見ている。
隣にはだれも座っていない椅子があるだけなのに。
「どうして隣に言うの?」
となぜか悲しそうな彼女の言葉が聞こえる。

あ、そうか。
僕が隣を見るのは、いつもそこに妻がいるからだ。
妻とは、彼女と別れたすぐ後に知り合った。寂しかったのかも知れない。すぐに結婚した。

妻はどういうわけか、僕の向かいに座りたがらない。結婚前から今までずっと、僕の隣にしか座らない。半世紀ずっと、僕の隣にいる。だから僕は、隣を見るのがすっかり癖になっている。

「癖なんだよ」
前に向き直ってそう言うと、そこには誰もいない。
ただ、一人分のコーヒー代が置かれている。
「お待ちどうさま」
店の人が二人分のコーヒーを置いて行った。
コーヒーからは確かに湯気が上がっている。
今日は確かにあの日だし、ここは確かに、今は廃墟になっているあの喫茶店だ。

僕は慌てて、これは夢なんだと思い直す。
でも、景色はさらに鮮明になる。コーヒーは湯気を立てたままだ。
僕は藁をも掴む気持ちで、向かいに置かれた、湯気のまだ立つコーヒーを隣に回した。
顔を上げたら妻がそこにいて、コーヒーを飲んだ時にこの夢が覚めると思った。

しかし隣には、誰もいなかった。
湯気の立ち続けるコーヒーがあるだけだった。
そして僕の目の前には、一人分のコーヒー代があるだけだった。

たまらなく寂しくなった。
妻に電話しようとしたらアドレスに名前が無かった。
しばらく茫然としていた。
僕はコーヒーを口にした。
淹れたてのまま熱かった。
誰もいない向かいを見て、隣を見て、飲み干したカップを置いた。すぐに飛び出して、家に帰ろうと思った。

店の人が、二人のカップと、店を引き上げた。

夢が覚めた。
僕は喫茶店の廃墟の前に倒れていた。
救急車の音が聞こえる。

そして確かに蝉が鳴いている。
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