少し長い話たち

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私の身長は1m70cmだ。
私には付き合っている彼女がいる。
しかしちょっと問題がある。

ちなみに私は61歳だ。去年に定年を迎え、その後は無職で、退職金と年金で生活している。
結婚して家庭も持っていたが妻には先立たれ、子供たちはみな独立している。
だから今は独り住まいだ。贅沢するわけでもないし、もう働きたくないから、退職金と年金で十分やって行ける。

彼女とはある駅で知り合った。
なんとなく電車にでも乗ってみたいなという気持ちで、自宅から最寄りの駅に行った。
ホームに出て電車を待っていると、少し遠くで若い女性が何かを落とした。
彼女はそれに気付かずにそのまま歩いて行く。
私は急いで彼女が落とした物、それはタオルハンカチだったが、それを拾って彼女を追いかけ追いついた。
「あの、これ落としましたよ」
彼女の背後から声をかけた。彼女は振り向いた。
「え?あ、ありがとうございます」
礼を言う彼女の声は思ったより低く、その顔は高齢女性のそれだった。
「?」
その時はそのまま別れたが、あれは見間違いだったのだろうか?ハンカチを落としたのはたしかに若い女性だった。
老眼とはいえ、私は近眼ではない。視力はこれでも両目とも1.5はある。あれはやはり若い女性だったはずだ。だからもっと高い声を想像していた。まぁ声は若くても低い子はいる。しかし顔は若かった、絶対。

数日経って、私はまた同じ駅の同じホームにいた。あの時彼女を見た同じ時刻にここにいるのは、どうしてもあの時のことが腑に落ちなかったから、出来ることなら確かめてみたかったからだ。
ホームを見回したが彼女らしき人はいない。たまたまあの日、あの時間限りの出来事だったのかと諦めかけた頃だ。
「あの」
あの時の声だ。声の方へ眼を向けた。
そこにはあの高齢女性の顔があった。
「先日はどうも」
改めて聞けば低いが上品な声と物言いだ。いい所の奥さんだろうか。
私はさっそくこの前の疑問を確かめることにした。しかしまさかいきなり「おいくつです?」などと聞けるわけもないから
「あぁ、あの時の」
と、差し障りのない返事をした。
「はい、その節はありがとうございました」
たかがハンカチ…と言いそうになって口をつぐんだ。代わりに愛想笑いで返した。彼女も微笑んだ。その微笑み、どこかで見たかな?
そう思いながら「では」という言葉とともに背を向けた彼女が何歩か歩いた時、何かが変わった。
「嘘だろ?」
服装は変わっていない。確かに彼女だが、明らかに若い。
高齢者と若者の違いは背中からでも分る。明らかに彼女は若い。それも20歳代以下の雰囲気だ。
私はあっけにとられて肝心の確認作業が出来なかった。慌てて彼女の後を追った。遠ざかっていた彼女の背中が近づいて来る。確かに若い背中だ。
しかし背中まであと数歩という時
「嘘だろ?」
私はまた呟いてしまった。
明らかに高齢者だ。
「どうなってるんだ?」

「すみません」
私は再び彼女に声をかけた。
少し驚いたように振り向いた彼女は、やはりさっきの高齢女性だった。どうしよう、もうダイレクトに疑問を投げかけようか。そう思った時彼女から
「不思議でしょ?」
という言葉が出たからまた驚いた。
「え?」
わけが分からず絶句している私にまた彼女の言葉が被さった。
「落とし物をしたのはあなたよ」

結果から言おう。彼女は私から半径170cm、つまり1m70cm、私の身長以内では60歳の高齢女性になり、それを外れると25歳の若い女性になるという、考えればちょっとどころじゃない問題を抱えているのだ。
25歳の彼女は、当時26歳の私とほんの少し接点があった。

当時私は社会人一年生であり、失恋一年生だった。
ここ、つまり私が定年まで勤めた会社に入るまでの私は、夢を追ってのバイト三昧だった。
夢は著名な画家になること。そのために芸大に行き、卒業後は定職に就かず、バイトすることで無職への批判をごまかしながら、いずれ必ず入選すると信じ込んで家で絵画の制作に没頭しては、さまざまな公募に送っていた。いずれ必ずだからまだ入選はしていなかったが。
同時に私は恋愛もしていた。相手は芸大の後輩の女の子だった。彼女には才能があり、既にいくつかの公募に入選し、中には最優秀賞を取ったものもあった。だから彼女は学生の頃からプロの画家だった。賞金でいろんなものを買ってくれたり、高級レストランで食事させてくれたりした。私はその状況を喜ぶというよりひがんで捉えていた。男のバカな性だ。
しかしもっとバカなのは、彼女に対する劣等感が彼女の肉体を貪ったことだ。それは空しい動物の行為だった。オスが力でメスを押さえつける、そんなひがみの解消行為だったのだ。
しかし高度な知能を持った人間の脳を、そんな下等な優越感が満足させられるはずはない。貪れば貪るほど、貪る自分が惨めになるだけだった。そんな私に反比例して、卒業後の彼女は売れっ子画家として華やかな場所に立っていた。私と彼女を知る人間からは、私は彼女の恋人から「ひも」へと見方を下げられていた。「ひも」のあがきほど見苦しいものはない。私は有名画家の身体を知っていると自慢して回っては苦笑を買っていた。
彼女が私のどこが好きだったのかは分からないが、そんな私の行為の中でそれは確実に壊れたようで、私は「もう二度と会いたくない」という彼女の言葉を受け取る羽目になってしまった。それ以来今まで、彼女とは音信不通のままだ。
私はかなり参っていた。彼女を連想させる一切のものから目を背けるようになった。もちろん絵画もそのひとつだった。私は画家になる夢を捨てた。いや、汚れ切った私自身を捨てたのかも知れない。そして周囲の言う通りに一般の社会の中へ入って行った。
サラリーマンとして1年過ごすうち、私はずいぶん常識的な、言い換えれば面白みのない人間になっていた。そして判で押したような、やはり面白みのない毎日を送っていた。それはそれで穏やかだったが、だんだん退屈になっていた。何か刺激が欲しかった。

そんな時、一つ年下のアルバイトの女の子が私の勤め先に入った。
特に美人というわけでもなかったが、親しみやすい子だった。
私を振った彼女は芸術家肌で気難しい所があり、それがかえって私を惹きつけ、征服欲を掻き立てたのだが、この子にはそういう部分がまったくなかった。だから初めはなんの関心もなかった。
その子は私の補助に付けられた。私の事務仕事のヘルパーだった。だからいつも私の隣にいた。
関心がなくても、いつも隣にいる異性、それも歳が近いとなればいつの間にか気にかかるようになるものだ。私は時々、その子をちらちらと観察するようになった。その子の名前は「冬湖(ふゆこ)」という、古風なような斬新なような不思議な名前だった。その不思議さがまた気になった。なぜなら冬湖はとても冬の湖らしくなく、どこまでも天真爛漫だったからだ。それに体型も天真爛漫に太目だった。
初めは「太目」だった体形は、いつしか私の中で「豊満」になり「妖艶」になった。
妖艶になった分、相変わらずの天真爛漫さとのギャップが、冬湖の魅力となった。私は明らかに冬湖を意識していた。
それがはっきりと分かったのは、冬湖から付き合っている彼氏のことで相談があると言われた時に、嫉妬する気持があったからだ。

また振られたなと思いながらも、持ちかけられた相談だから乗らなきゃなと、仕事帰りに待ち合わせた喫茶店で話を聞いた。正直、力が抜けていた。1年の間に2回も振られたのだから。
よほど女性運がないなと思いながら聞く冬湖の話は、彼に対する愚痴ばかりだった。かなりわがままで身勝手な男らしく、ドライブ中に助手席で寝るなとか、男より先に物を食べるなとか、男が聞いてもひどい奴だなと思った。そして愚痴の最後にようやく、冬湖は相談らしき言葉を言った。

「別れた方がいいと思いますか?」

反射的に「その方がいい」と言いそうになったが、それは相手のことを考えた答ではなかった。
本当はそう言いたかったが、仮にも相談を受けているのだ。気が向かなくてもそれなりに考えてそれなりの答を出さなければと思い、少し考え込んだ。そして
「彼と話すことはもうできないの?」
と、心にもないセリフを言ってしまった。すると冬湖は

「バカ」

それだけ言って席を立って店を出てしまった。
それで冬湖の気持はなんとなく分かったのだが、自分の奢りかも知れないと思ったので私はそのまま座って、コーヒーの残りをすすった。
そのうち冷や汗が出て来た。それはまさかこのまま冬湖が会社を辞めてしまうんじゃないかという焦りからだった。所詮冬湖はアルバイトなのだ。
私は慌てて立ち上がると喫茶店を飛び出た。キョロキョロと周りを見たら、その狭い視界の中に冬湖の顔があった。意外な所にその顔があったので、私の頭は安堵と疑問で混乱した。ただ曖昧に微笑むしかなかった。
「ごめんなさい。彼とは別れます。会社も辞めます」
冬湖はそんなふうに言う。やっぱりと思った。
「いや、それは極端だ。もうちょっと話そうよ」
自分でもまどろっこしい言葉しか出て来なかったが、冬湖は黙って何度か頷いた。

夜の街をしばらく二人で並んで歩いた。
ずっと無言だった。
普段歩かない遠くの道まで来てしまった。
手ごろな公園があったので、そこのベンチに座った。広い公園だが私らの他には誰もいなかった。街の喧騒だけが微かに聞こえる。
タイミングを見て言った。
「どうして会社を辞めるの?」
冬湖はうつむいているがなんとなく笑っていた。そのままの顔を上げて
「私に言わせるんですか?」
と言った。

思い出に浸る今の私が驚いた。

「あの顔だ」

駅で見た高齢女性の微笑み、どこかで見たと思ったあの微笑み。
そうだあの時の冬湖の顔だ。
「落とし物をしたのはあなたよ」と言ったあと、少し間を置いて彼女は「また私に言わせるんですね?ご無沙汰してます、冬湖です。忘れてたでしょ?特徴ない顔だから」と言った。
彼女の言葉は当たっていたが、冬湖のことは記憶の中にちゃんとある。だから忘れていたというより分からなかったのだ。あまりにも会わなかったから、その変貌について行けなかったのだ。面影はあるけど、それが冬湖だとはまさか思えない変わりようだった。目の前の女性は落ち着いていて、あの天真爛漫の塊みたいな冬湖ではないし、何より体型が違った。あのふっくらして弾けそうな冬湖ではなく、どちらかというと細身の、穏やかな姿だった。
それを彼女に話すと、彼女はいたずらっぽく微笑んでうしろずさりした。すると2メートル近く離れた所であの時の若い冬湖になったのだ。服装は変わらないが、体型にちゃんと合っている。まるで冬湖が、ふざけておばさんの服を着ているようだ。
「今はおばさんやってるのよ!」
大きな声で冬湖が言った。
私は足が震えた。
私はただ恐ろしくなり、そのまま逃げ帰ってしまった。
そして頭を整理しようと、冬湖とのことをいろいろ思い出した。その中で、ふたつの微笑みがやけに頭に残った。
駅で見た今の冬湖の微笑みと、公園で見た昔の冬湖の微笑み。どうして冬湖は微笑みを私の頭に残すのだろう?
私はすぐにでも冬湖に聞いてみたかった、それは私が冬湖を捨ててしまった時も、たしか冬湖は微笑んでいたから。

私は逃げ帰ったことを後悔した。しまった、喫茶店の時と同じだ。冬湖とはもう会えないかも知れない。
私はまた駅にとって返した。恐ろしさよりも愛おしさの方が勝っていた。

ホームに辿り着くまでの光景は覚えていない。どうしても得たいものがある時、人は他のものを省略する。ホームまでの景色もそんなものだった。
私はかつて、冬湖を省略してしまった。そして今があり、今また冬湖を求めている。
ホームに着いた。すっかり夜になっていた。ラッシュの時間もとうに過ぎて、ホームは閑散としていた。
ふと見たベンチに、冬湖がいた。見るなり走った。止まった先には、高齢女性がいた。まだ馴染めないが、これも冬湖だ。
冬湖は顔を上げた。また微笑んでいた。微笑みながら「戻って来たんだ」と言った。
息が収まるまで言葉が出なかった。冬湖は少し横にずれた。冬湖の隣に座った。
私が落ち着くまで、冬湖は黙って待ってくれた。そしてようやく言葉が出た。自分でも呆れるような言葉だった。

「なぁ、君は生きてるの?」

あの現象に対する素直な言葉だったが、現実からあまりにも掛け離れていたので、言った尻から呆れてしまった。

「生きてるわ。ほら」
冬湖は私の手を自分の腿に乗せた。
ちゃんと肉があった。
「あれはなんなの?たしかに若かったよね?離れたら」
「さぁ、なんでだろう?」
冬湖は正面を仰ぎながら言った。
「なんで僕がこの駅にいることを知ったの?」
「見かけたから」
「いつ?」
「離れてから1年後」
「1年後?…って、34年前?」

冬湖とは私が27歳の時、つまり公園の夜から1年後に別れてしまった。というより、私が離れてしまったのだ。
実を言うと、公園であれから出た言葉は私が言った「分かったよ」だけだった。それに対して冬湖は無言で微笑んで私の手を握った。
そのまま手を繋いで駅まで歩いて別れて、翌日からはまた隣同士で仕事を続けた。いずれまたどちらからともなく、次のキーワードが出るのを待つような毎日が続いた。時間が来たら別々に退社して、また別方向から出社する毎日だった。そんな日々の中には、私を信頼する冬湖の姿があった。私も当然、冬湖を信頼していた。だから彼のことは聞かなかった。しかし私は冬湖から離れた。

ある日、退勤時間に上司に誘われた。
一緒に行った酒場で上司から、自分の娘が君のことをあれこれ聞くからなぜかと尋ねたら、どうも君を好きみたいなんだよ、と言われた。
「一目惚れってやつかな?」
酒を注いでくれながら上司は言葉をついだ。
入社当時からなぜか上司は私を買ってくれた。家にも何度か呼ばれた。私は過去を捨てて、ただマニュアル通りに仕事をしているだけだったが、それが勤勉な奴に見えるらしいのかなと思っていたが、たった1年の間に何度も呼ばれるのも変だなとは思っていた。たしか初めて上司の家に呼ばれたのは入社の翌日で、あぁそうだ、あの時娘さんを紹介されたなと思い出した。そういえば行くたびに娘さんがいたなとも思った。
そうか、だからかと合点した。
「君のことは私が分かっているから、君さえよければ反対はしない」
上司は勝手に話を進める。
「な、今度またうちに来てくれないか?娘を交えて話したい」
そんなことまで言う。
ふっと、冬湖の顔が浮かぶ。しかしその印象の薄い顔は、上司の娘さんのあの目鼻がくっきりとした顔の後ろにすぐに隠れてしまった。

上司の娘さんと私が婚約したことを冬湖が知るのには時間はかからなかった。私が変な所で律儀なものだから、婚約した翌日に彼女に話したのだ。そこには、冬湖とはまだ何も関係していない、だから早く冬湖を自由にしてやらなければならないという、本当に勝手な正義感があった。まったく私は、相手、いや、女性のことを考えない奴だった。
冬湖に話したのは昼休みに入ってすぐだった。その日は私も冬湖も出入りの弁当屋に昼を頼んでいた。それはその日のメニューが冬湖の好きなトンカツ弁当だったからだ。冬湖は朝からウキウキしていた。冬湖の元気は、その日の昼のメニューでほとんど賄われていたと言っていい。
デスクに弁当を置いて、私はどのタイミングで話を切り出すべきか考えていた。
ふと隣を見ると、冬湖が嬉しそうに弁当を開けて、トンカツにソースを掛けている。せめて食べ終わってからにしようか、いや退社後の方がいいんじゃと迷ったが、それまでがまるで偽善の時間に思えて耐えられなくなった。だから勝手に口が動いてしまった。その時からあの場面は、今までずっと、時々脳裏に浮かんではチクチクと私の胸を刺した。

「あの」
「ん?」
「婚約した」
「ん?」

誰が?と冬湖のことだから聞くと思った。
だが冬湖は何も聞かず、手付かずの弁当の蓋を閉めた。そして私に顔を向けた。
冬湖は割り切ったような表情で私を見て、何も言わず、そのまま席を立ち、部屋を出て行った。ほんの少し、口許が微笑むように上がっていた。
さすがに私も弁当を食べる気にはなれず、蓋を閉めた。閉めたまま、蓋に両手を置いてしばらく放心していた。

しばらくして冬湖が隣席に戻って来た。湯呑みを2つ持っていた。それは給湯室にある湯呑みで、中にはお茶が入っていた。そのうちの1つを私のデスクに置くと今度は明らかに微笑んで
「毒なんか入れてないから」
と言った。
もう1つを自分のデスクに置き、蓋を閉めた自分の弁当箱を弁当屋のカゴに入れ、席に戻ると一口だけお茶を飲み、黙って仕事を始めた。それを見て私も、冬湖の入れてくれたお茶を飲んだ。飲み終えて立ち上がり「ありがとう」と冬湖の背中に声をかけたが、返事はなかった。
私は給湯室に湯呑みを戻しに行った。給湯室には女子社員が2人いた。構わずに流しで湯呑みを洗った。背中越しに、さっき、お茶を淹れながら冬湖が泣いていたと話す彼女らのヒソヒソ声が聞こえた。

冬湖は次の日から病欠し、そのまま会社を辞めた。私は半年後に上司の娘さんと結婚し、今に至った。
今思えば、冬湖は私が言う遥か前に、こうなることが分かっていたのだろう。なかなか出ない私の一言を待つうちに冬湖にはきっと、その一言が自分にとって悲しいものなのだという予感があったのかも知れない。だから冬湖も、次の一言を出さなかったのかも知れない。

「疑いという信頼」
矛盾した言葉だが、冬湖は私は裏切ると信じていたのだろう。事実私は裏切ったし、冬湖を安全牌にしていたと思う。冬湖はいつも隣にいて、その安心感の中で自分はこれから起こるかも知れない刺激を待ち、起こればそこに移るというずるい目論見が私の心の中にはあったと思う。そして刺激はやって来た。
しかし私にとって「本命」だったはずの結婚生活は白けたものだった。私を白けさすものを、冬湖は私に植え付けた。最後に淹れてくれたあのお茶だ。
別れを言った後になぜ冬湖はお茶を淹れてくれたんだろう?そう思いながら湯呑みに口をつけた瞬間、これは夫婦が飲むお茶だと強く感じた。隣で冬湖が同じお茶を飲むのを見たからそう感じたのだ。その強烈な印象は、その後何十年も飲んだ本物の夫婦のお茶を味気ないものにした。
妻との間にはすぐに子供ができ、当然のことだが妻の愛情は子供に移った。私はただ、生活費を稼ぐ人になってしまった。妻と子供だけが住む国を外から眺めながら、なんのために俺は生きてるんだという空虚感に襲われる時、あの時の光景がやって来て胸を刺すのだ。それはあの時の仕打ちがもたらした冬湖への憐憫と、夫婦のお茶の温かさだった。そして冬湖はさらに「微笑み」という爆弾を私に仕掛けて、離れて行った。しかし実はすぐそばに居続けたのだ。自分だけにしかない魅力を味わわせるために、と今、目の前の冬湖を見て思う。

「少し縮んだんじゃない?身長」
冬湖は私の頭に手を当てて言った。まるで長い時間をかけて育てた生き物に語りかけるように言った。
手を当てられたまま
「なぁ、本当に君は生きてるのか?」
と私は聞いた。
「生きてるわ。60歳のおばさんとしてね?」
「だって、離れたら若返るなんてあり得ないだろう?」
「それはあなたがそう見てるだけ。他の人はみんな、私をおばあちゃんと見てるわ、どこまで行っても。ね?あなた170センチだったわよね?身長」
「あぁ、そうだけど。よく覚えてるね」
「よかった。合ってた」
すると冬湖は急に立ち上がり、またうしろずさりした。
「170センチなの、ここまで」
はっきりとした声でそう言う冬湖は、25歳の冬湖だった。
「僕だけ?僕だけがその君が見えるのか?」
「人の身長ってね?両手を広げた分なんだって。だからあなたがどんなに片手を伸ばしても、私とは手を繋げないのよ。私が手を伸ばしても届かないし、届いたとしてもそれは、おばあさんの手なのよ」
手を繋ぐって、公園の帰り道…
「当たり前のことでしょ?今のあなたはあの日の私と手を繋げるはずがないじゃない」
当たり前…
そうだ冬湖の言うことは現実なんだ。冬湖は二人の現実を見せているのだ。

「あのね…」
隣に戻った「今」の冬湖が呟いた。
「私もあの時のあなたを見てるのよ」
「え?」
「離れたらあなたも若返ってるの」
「え?僕が?」
思わず自分の体を見回した。
「じゃ、僕は27歳?」
「そうよ、私と離れた歳」
離れた…
冬湖は「別れた」とは言わなかった。それがふと気になって、冬湖に聞いた。
「結婚はしてるの?」
その質問を待っていたように冬湖は微笑んで
「独りよ」
と短く言った。そして
「当たり前じゃない」
と、私を正すように言った。
「当たり前?」

「ずいぶん変わったわね…」
冬湖は私の問いをはぐらかすように言い
「僕がか?」
という私の言葉に
「あなたもだけど周りが」
「周り?」
「あの頃はスマホなんてなかったもんね?」
と、世間話めいたセリフを言った。
「あの頃…」
私も当時を思い出していた。スマホなんて、ここ十数年のものだ。あの頃は今言うガラケーさえもヨチヨチ歩きだった。
電話はまだほとんど家にあるか電話ボックスにあるかだった。携帯は高価で、仕事用として会社が支給するような時代だった。
パソコンも立ち上がりに10分以上かかったと思うし、ネット社会なんて想像もつかない。車もセダンかクーペが主流だったが今はどちらも絶滅状態だ。車といえば、変速を手足でやっていたなんて今ではあり得ない話だろう。
ファミレスとコンビニはようやく当たり前の範疇に入っていたが、ショッピングモールはまだスーパーの延長だったしアウトレットなんて影すらなかった。
今はすっかり廃れたパチンコ屋やガソリンスタンドが街や郊外に溢れていて、かつて走り屋と言われた同年代の若い連中が、車やバイクの腕を競った急カーブの山道は、今は廃道になって草に埋もれている。その下を通る広く明るい新道のトンネルを、ミニバンのファミリーカーが快適にくぐって行く。

「ガラケー…」
ふと呟いてしまった。携帯だけでなく、私らが馴染んだ周りの何もかもが絶滅危惧種になってしまったのだ。そして私らの世代も絶滅して行く。
30数年という年月は、常識をどんどん塗り替えていた。いずれはそれに取り残されて、寂しく死んで行くんだ。

「懐かしいでしょ?」
私が一通り思い出に耽るのを待っていてくれたかのように、しばらく黙っていた冬湖が口を開いた。
「うん、昔っていいもんだね」
昔の余韻に酔って言うと
「なぜか分かる?」
と冬湖が聞く。
「若かったからかな?」
「そしてもう、どこにもないからよ」
人は皮肉な生き物だ。今をちっとも美味しく思えないのに、今がどこかへ行って過去に名前を変えると、途端にそれは美味になる。
「なぁ」
私は不意に言った。それはそんな人の性にたまらなくなって口をついた言葉だった。
「鏡に映したらどうなるんだ?」
私は続けて言った。
「君が鏡をこちらに向けて離れたら、映ってる僕は…」
すると冬湖は私の言葉を遮るように手を振って
「鏡?…あぁ、鏡に映った姿が若いのかって思ってるでしょ」
「あぁ」
「無駄よ。鏡を見るのは誰?」
「もちろん僕だ」
「若いあなたは私にしか見えないし、若い私はあなたにしか見えないのよ。だからあなたが見るあなたは、どこまで離れてもおじいちゃんよ」
冬湖は笑った。
「そうか…そうだよな」
私はこの時、初めて生老病死という言葉を実感した。人の永遠の苦しみだ。生まれて老いて病んで死ぬ…人はそこから逃れられない。それを分かっていても分かろうとしない。そして足掻く。
あの頃は自分が老いることを、頭で分かっていても実感しなかった。仮にここに鏡があっても、それをどう扱おうが映る自分は年寄りなのだ。だけどやはり足掻いてしまう。

「なぁ、離れてみてくれよ」
不意に冬湖に言った。
「え?」
不意の言葉に冬湖は少し驚いたようだった。
「離れてみてよ、170センチ」
「え?…ん、いいわ、いいけど何をするの?」
「あの日のやり直しさ」
「あの日?」
「トンカツ弁当の日」
「あぁ…」
冬湖は呆れたように微笑んで立ち上がった。そして背を向けて歩き、170センチの辺りで振り向いた。
あの日の冬湖だ。
「これでいいの?」
冬湖は少し大きめの声で言った。
「あぁいいよ」
同じくらいの大きさの声で返事をして
「なぁ、僕と付き合ってくれないか?」
さらに大きな声で言った。

と、ここまでが私が冒頭で話した「彼女」の意味でこの話の前置きだ。
長い長い前置きになってしまったが、この話、本題があまりないのだ。

「やっとあの日に帰ったわ」
そう言う冬湖の目にはあの日の私が映っているんだ。そしてもちろん、私の目に映る冬湖もそうだ。しかしもどかしい。ここから一歩か二歩近づけば、あの日のお互いは消えてしまうのだ。
「なぁ、僕を駅で見かけてからずっと見続けているわけか?」
「そうよ、あれから駅を通るあなたを毎日見たわ」
「何十年も?」
「そうよ、だって私の願いが叶うか確認したかったんだもの」
「願い?」
「最後に私がお茶淹れたの覚えてる?忘れるわよね、そんなこと」
「君がいなくなる前に淹れてくれたお茶だろ?覚えてるよ」
「え?そうなの?嬉しいわ。実はね、あの中にね、涙が落ちたのよ、淹れる時」
そういえば、冬湖は泣きながらお茶を淹れていたと女子社員が言っていた。
「偶然なんだろうけど、あなたと私のお茶に一滴ずつ落ちたの。…ね?」
「ん?」
「お茶の味が最後の一滴で決まるって知ってる?」
「聞いたことあるな。紅茶を淹れる時の話でかな?最後の一滴まで大事に淹れるって。そうだその時、願いごとするとか言ったな、美味しくなりますようにって」
「テレビでよく見るでしょ?死んだ人に涙が落ちたら生き返る場面」
「あぁ、あるよな」
「私あの時、涙は偶然落ちたんじゃないと思ったの。これは何かの意味があるって。だからお願いしたの」
「お願い?」
「あなたと私は最後は抱き合えるって。そうなるようにって。涙って不思議な力があると思って。だって涙は、その人が搾り出るんだもの」
「それでずっと?」
「私、これでも現実主義者なのよ?」
「現実?何それ」
「あなたの身辺は興信所に頼んで調べてたの。あなたを見失わないようにね」
「え?」
「だって、願いごとの確認がしたいもの」

私は冬湖が恐ろしくなった。
絵空事のような願いごとの確認のために何十年も私を追うこともだが、何よりも「興信所」という言葉の響きに狂気を感じた。
「奥さん、よくお子さんと一緒にこの駅にいたわ。でもあなたはほとんどいなかった。寂しかったんじゃない?」
そんなところまで見ていたのか。
「寂しいというより虚しかったよ」
正直なところを言った。
夜が更けて行く。次第に人気がなくなる駅に大きめの声で話す二人の会話が流れている。まだ周りには人がちらほらいるが、みんなスマホに目を落としていて私らの会話には関心がないようだ。こんなところにも時代の流れを感じる。人の関心は、目の前の現実ではなく、画面の中の仮の世界にすっかり移っている。「仮想」「仮面」「仮名」あやふやなものにみんなすがっている。
うつむく人たちにとっては、ボケた年寄りが二人で何言ってるんだくらいなものなのだろう。反面、私らの会話は深くなって行く。

「ある時からよ」

冬湖の話の角度はころころ変わる。
「離れて見るあなたは変わらないのに、近くで見たら少し老けているの。当たり前よね?歳とるんだから。だったらあっちにいるあなたは一体なんなの?と思ったの」
この現象のことだ。
「私は目がおかしくなったと思ったわ。だから何度も確かめたの」
「ってことは、君は僕のそばに何度も来ていたのか?知らなかった」
「そりゃ、私も考えたもの。ラッシュの時を選んだり、顔を伏せたり、少し変装したり。決して気づかれないようにずいぶん気をつけたわ。でもそのうち、年齢は私の面影を薄めて行ったから、あなたから見たら、いえ、見もしないほどその辺のおばさんになってしまったのよ」
私に気付かせなく動いている冬湖の姿を想像した。もう、恐ろしさは感じなかった。むしろ変なありがたみを感じた。空虚な生活に疲れた男の近くに、いつもそいつを意識して動いている、まるで妻みたいな女性がいたのだ。

そういえば私も一時期スマホゲームにはまっていた。この駅で通勤電車を待ちながら、加点や減点に一喜一憂していた。そのすぐそばの現実に、冬湖はずっといたのだ。
「思い出の世話係みたいだな。いや、思い出の母親かな」
心の中で呟いて苦笑した。
「何がおかしいの?」
隣の冬湖が微笑んでいる。声が変わっている。低く、太くなっている。そして静かだった。
あれから冬湖はゆっくり歩いて、隣に戻っていた。ゆっくり歩きながら、急に歳をとった。
「こんな形で私の願いは叶ってしまったわ。でも、聞きたかった一言が聞けたから、ま、いいか」
穏やかだが、口調は若い頃のままだった。
「一言?」
「さっきあなたが言ったでしょ?」
「あぁ…」
今さら照れ臭い。
「付き合ってあげるわ。もちろん。待ってたんだもん」
そう言って冬湖は私の手に自分の手を重ねた。初めての感触だった。

…不意に冬湖が立ち上がった。

「おい!」
冬湖は線路のある方向に駆け出した。
後ろ姿がまた若くなった。
私は慌てて立ち上がり冬湖を追った。
駅のアナウンスが電車の入線を告げ出した。
「おい!待て!」
冬湖はホームを飛び降りた。
私の大声に周りの人間が一斉に頭を上げる。みんなが現実に目を向ける。しかしなんてことだ、助けようと立ち上がる者がいる反面、この様子にスマホを向けている奴がいる。私は靴を脱いでそいつに投げつけた。しかし奴は靴をかわし、より強くスマホを向ける。スマホが仮面に見えた。
「クソッ!」
足がもつれた。地面に両手をついた。もう片方の靴を足で脱いで後ろへ蹴飛ばした。
立ち上がって駆けた。何度も前のめりになる。後ろから何人かが駆ける音がする。
そして冬湖が飛び降りた辺りから飛んだ。
線路に仰向けになった冬湖がいた。
とっさに被さった。
冬湖の変化を見る余裕などなかった。
柔らかい肉の感触がする。
私の背中に手が回る。
「抱き合えた」
冬湖の呟きが聞こえる。
ほんの数秒のことだろうが、長く感じる。でもとにかく立ち上がらなければ。

だがもう間に合わない。
観念して冬湖を抱きしめた。
線路の振動が大きくなりけたたましい警笛が聞こえ、ギーッ!というブレーキ音…悲鳴…様々な人声…救急車のサイレン音…

…薄らいだ記憶はそこで途絶えた。

と、本題はこれで終わってしまう。

ちなみに今、私が見る冬湖は若いままだ。
どうやら私は彼女からいつも170センチ以上離れているようだが、どこにいるのだろうか?
とにかく冬湖は、ここが希望通りの場所だったらしく、あの天真爛漫な笑みを浮かべている。

この先はあなたがあなたの希望に沿って考えてほしい。

私はもう考えたくない。

…私もこのままがいいから。






















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サクッとお手軽に読めちゃう意味がわかると怖い話集です! 前作オリジナル!(な、はず!) 思い付いたらどんどん更新します!

【厳選】意味怖・呟怖

ねこぽて
ホラー
● 意味が分かると怖い話、ゾッとする話、Twitterに投稿した呟怖のまとめです。 ※考察大歓迎です✨ ※こちらの作品は全て、ねこぽてが創作したものになります。

【実話】女子校の不思議な話、怖い話

早奈恵
ホラー
【本当にあった怖い話】【本当にあった不思議な話】作者自身が過去に体験した話や、家族や友人の体験など、創作ではないと確信できる話を載せていきます。

意味がわかると下ネタにしかならない話

黒猫
ホラー
意味がわかると怖い話に影響されて作成した作品意味がわかると下ネタにしかならない話(ちなみに作者ががんばって考えているの更新遅れるっす)

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