少し長い話たち

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似顔絵の父(完了)

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似顔絵の父が帰って来た。
さっき遺骨になった父が、私が子供の時に描いた似顔絵の顔で帰って来たのだ。
似顔絵はたしか、父の棺に入れたはずなんだけど。
子供だった私のタッチだから、クレヨンの香りがプンプンするその顔はずいぶん歪んでいるけど、声も仕草もたしかに父で、何よりも雰囲気が若い。
なんでも父は、ちょっとやり残したことがあって帰って来たのだという。
父はまず自分の祭壇に線香をあげ、おもむろに骨壷を開け、中にあるカラカラの遺骨をつまみ上げて眺めていた。
「ダメだわ」
父は落胆のため息をついて私の方を見た。
「ところで俺の下半身、なんとかしてくんないかなぁ」
よく見ると、父の胸から下は鉛筆の線だけで、なんでもそれは借り物だそうだ。
あ、そうか、私が描いた似顔絵は胸から上しかなかったんだった。
「分かったわ、クレヨンで胸から下を繋げてあげるわ」
「すまんね。いやー無理だとは思ってたけど遺骨でなんとか作れないかと思ったんだけどさー、やっぱりバラバラの粉々だね。骨粗鬆症どころじゃないな」
しかし父の言う、やり残したことってなんだろう。
「クレヨンは明日にならないと買えないからお父さん、今日は我慢してね」
「ああいいよ、四十九日まではこの世にいられるから。しかしこの四十九日ってさ、なんか社会保険の延長みたいだな」
「お父さん、死んでるのに俗っぽいこと言うのね」
私はさっきから不思議だった。目の前にいるのは死人の魂なんだ。なのになぜ怖くないんだ。
変な顔だから?
いや違う。
それは子供の私がそこにいるからだ。
子供の私が父を追って描いた線や色がそこにあるからだ。
父がやり残したことって、何かその辺に秘密があるんだろうか。
とにかくこんな具合に、私と父の数日が始まった。

夜中、私の隣で寝ている父の似顔絵の顔がうなされていた。
下手な私の絵がもっと歪むから面白くて仕方がなかったけど、でも切なかった。
まぶしいのか、鉛筆線の右腕で目を覆うんだけど、中身がないから目が丸見えだ。だけどその目は、私が描いていない瞼でぎゅっと閉まっている。私の描いてない睫毛がある。
私の似顔絵に、父が乗り移ったのがしっかり分かる。
「でもねお父さん。やり残したことやったら、ちゃんとお母さんの所に行ってあげるんだよ」
祭壇の斜め後ろくらいには小さな仏壇があって、開いた扉の中には父と母が一緒に写った写真が置いてある。どちらも若い。もっとも母の老け顔の写真はない。
母はこの写真を撮って1年足らずで亡くなったからだ。
写真をよく見ると母のお腹が少し大きい。
実は中に私がいるのだ。だからこの写真は、厳密には3人写っているのだ。
ま、つまり母は、私と入れ替わりであの世に行ったんだ。ほとんど遊び人だった父も残して。
でも気の毒なんだけど、祭壇が立派過ぎて仏壇は遠近法で遠くに小さく描かれたお堂みたいに見える。
祭壇は父が仕事の付き合いで入っていた冠婚葬祭の会社が設置してくれたもので、なんでも何十万円も父は積み立ててたそうだ。それは自分の葬儀用じゃなく、私の結婚用にということらしかったけど、私はそんなこと全然知らなかった。知ったのはその会社の人が父のお見舞いに来てくれた時、こっそり私を呼んで「ということなんですわ」って言ったからだ。
父には亡くなる前の日だったかに「ありがとう」って言ったけど、私はそれをこの祭壇に使った。
それは母が亡くなった時、自分がまじめに仕事してなくてお金がなかったから、母は一番安い送り方しかしてあげられなかったって、常日ごろ父が悔やんでいたからだ。
この祭壇はね、お母さんの葬儀のやり直しのつもりでもあったんだよ、私的には、お父さん。
そんな意味深い祭壇だけど、火葬場のちょっと上くらいから急にUターンした父は、帰るなりこれ見てどう思ったろう?
とても私の力じゃこんな祭壇置けないから、まさかあの金使ったんじゃないか?
って、落胆したんじゃないかな。
でも父はあの時ガッカリした様子はなかったな。さっそく骨壷触ってたとこみたら、下半身が気になってそれどころじゃなかったろうな。
やっぱり知らないな、私の花向け。

しかし父はなんでうなされているんだろう?
もしかして母の所まで行ったけど母にぶたれたんだろうか?
なんであの子残してここに来たの?!とか言われて。

母が亡くなってから私はしばらく父の母親、つまりおばあさんに育てられた。
父方の祖父と母方の祖父母はもう亡くなっていた。
考えてみたら寂しい家系だ。
唯一のおばあさんも私が中学に上がる頃に亡くなった。それからはずっと父と2人で暮らした。
「それもほんの10年ちょっとよね」
クレヨンでカチカチの父の髪をなでながら私は囁きかけた。

「うーん」と言って父が寝返りを打った。
鉛筆の線の足で布団を蹴飛ばした。意外と力あるんだ、この線。
白い敷布団の上で寝苦しそうに動く父は、まるで布団に描かれたプロトタイプの動画だった。

「変なの」
私はしばらく父という動画を鑑賞していた。

「ん?」
と、父の目が開いた。私の描いた目に戻った。なんの悩みもないぱっちりした真っ黒い目がこっちを見た。思わず笑った。
ぱっちりした目なのに太い声で「水!」って言う。
「お水?」
台所でコップに水を入れて持って来たら。父は布団から飛び起きて隣の部屋に逃げた。
「どうしたの?!」
私が叫ぶと隣の部屋から声がする。
「水は怖いんだ!俺は絵だよ!」

あ、そうか。父はもともと私が画用紙に描いた絵なんだ。だから水に濡れるのが嫌なんだ。でも…
「だったらお父さん、どうやってお水を飲むの?!」
隣の部屋に向かって聞いてみると
「紙に描いて!」
と声がした。
「コップと水を描くの?!」
「そう!」
「何で描いたらいいの?…って今は鉛筆かサインペンしかないわ!」
「サインペンは油性?!水性?!」
「油性しかない!」
「じゃ、それ油だからダメ!鉛筆でいい!」
「分かったわ!」

私はメモ用紙にコップの線を描いて、その8分目あたりにスーッと1本の横線を引いた。
一応水の入ったコップのつもりだった。それをハサミで切り抜いて隣の部屋でおびえている父に見せた。
「え?!」
私はびっくりした。
父のぱっちり真っ黒い目から、水色のクレヨンで描いた涙がボロボロ流れていた。
「怖かったの?お父さん」
「水は、嫌なんだよ」
私が差し出した絵のコップの水を、父はおいしそうに飲んだ。
横に引いたはずの線が斜めになって、そのうち消えてしまった。

あれから父は落ち着いて寝た。
「クレヨン、何にしようか」
布団に入って私は明日のことを考えた。
「あ、朝ごはん」
そうだ、父に朝ごはんを作らなければ。
あの様子だと、ごはんも絵にしなきゃならないんだろう。

翌朝、目覚めた父に聞いた。朝ごはんのこと。
やっぱり絵で描いて欲しいって言った。
でも父は何が食べたいんだろう。
私は父と一緒に朝ごはんを食べたことがほとんどない。
父は私が起きる頃には仕事に出ていてもういなかった。
私が小さい頃は、朝ごはんは祖母が作っていた。父の分も私の分も。
祖母が亡くなってからは父が私の分を作って…というか会社帰りにお弁当を買って用意してくれた。
たまに食べてもそれは外で、よく食べたのはファミレスのモーニングだった。
あ、そうか、父はいつも和食を頼んでいたな。
え?和食?
ごはんに焼き魚に味噌汁に漬物?
なんか描くの大変じゃない。

「お父さん、悪いけどごはん炊いてないの。だから今朝はパンにするね」
洋食なら簡単だ。
パンと目玉焼きと牛乳だったら、ほとんど図形で描ける。
「なんでもいいよ」
その声に安心した。
でも昼も夜も明日の朝も、ごはんを作らなきゃならない。それを思うとゾッとした。
まぁとにかく、朝ごはんを作ろう。
紙に鉛筆で食パンを描く。
食パンの輪郭を鉛筆で描いておしまい。
あ、そうだ。

「パン、焼く?」
「うん」

食パンの中に斜め線をいっぱい引いて、また反対からいっぱい引いてクロスさせたら、なんとなくトーストになった。
あ。

「何かつける?」
「うーん、ジャムかな?」

ジャム?
難しい。

「ごめん、ジャムないわ。バターでいい?」
「いいよ」

無数のクロス線の真ん中を消しゴムで四角く消す。一応バターになった。
周りに丸くお皿を描いてバタートーストが出来上がった。
あとは夕べの水の要領で牛乳を描いた。
描いたものはまったく同じだけど、今朝は牛乳だ。
さて、あとは。
一応聞こうか?卵はどうするって。
いや、やめよう。スクランブルエッグなんて言われたらたまったもんじゃない。
独断でここは目玉焼きにする。

大きなお皿の円を描いて、中にウニャウニャウニャーっと目玉焼きの白身の輪郭を描いて、真ん中に黄身の丸を2つ描いて、そうだな、黄身の中に点々々ってお塩を描いて出来上がり。
あとはそれぞれを切り抜いてテーブルに並べて…

「お父さーん、出来たよー」

簡単な顔の父が、簡単な朝ごはんを食べている。
「ねえお父さん?やり残したことってなんなの?」
簡単な顔に聞いたけど、簡単な顔は難しい顔になった。
「今は言えない」
難しい顔は、簡単な返事をした。そして
「一緒にいれば分かる」
と、また簡単に言った。
簡単な言葉ほど、心に響く。それにこれは私が描いた顔。
描いた私に説教してる。
って、まるで私が私に何か教えているみたい。小さい頃の私が。
私は、小さい頃の私に何かを教えられるんだろうか?これから。

私は母と入れ替わりでこの世に来たんだって父がよく言っていた。
私にはお兄さんかお姉さんになる人がいたらしい。でも母のお腹の中で死んでしまった。
父と母はどうかこの子が生まれ変わりますようにと願って、すぐにお腹の中に入ったのが私だったらしい。
だから私は、私の兄か姉があの世から帰って来た子なんだと父母は思ったそうだ。
その代わりに母があの世に行ってしまった。私を生んだ日に。
私が絵が描けるようになる遥か前に母はいなくなったし、何よりも私は動く母の顔を知らない。知ってるのは仏壇の中の動かない顔だけだ。
そうだ、だからあの写真は、もっと厳密に言うと4人が写っているんだ。

「牛乳、おかわり出来る?」

ボーっと考えていたら父の声で我に帰った。
「あ、うん、あるよ」
父が渡す絵のコップの横線が消えていた。
鉛筆の黒い線一本で牛乳なんだ。
私はある意味、似顔絵の世界がうらやましくなった。
「お金、あんまり要らないもんなぁ。だって、紙と鉛筆さえ買えばいいんだもん。あ、お母さん…」
もしかしたら、母の似顔絵を描いたら母も帰って来るかな?
私の頭の中にそんな考えが閃いた。
そうだ、父の下半身と一緒に、母も描いてみよう。

私の目の先に仏壇の写真があった。

「お父さん、お昼も同じものしか出来ないけど我慢してね」
父の朝食の後片づけをしながら声をかけた。
「気を遣わなくていいよ」
テレビを観る父の後ろ姿が答える。
父の後ろ姿は真っ白だ。つまり画用紙の裏なのだ。
借り物だという鉛筆線の手足は、どう言ったらいいんだろう?黒い線が見えたり消えたりしているのだ。たぶん光が鉛筆の粉に反射するから消えて見えたりするんだろう。そんな姿は「やっぱり父は死んだんだな」と思わせる。
しかし絵とはいえ、食べ物の後片付けをしていると本当に料理をして、その始末をしている気持ちになる。
私が食べた、父と同じメニューの朝食の食器を洗った後で、父が食べた後の、残っているコップとお皿の線の中を一応ティッシュペーパーで拭く。すると本当にコップやお皿を洗って拭いている感覚になる。

「お父さん、その姿じゃ家にいるしかないわね」
「まぁそうだな。出たらたちまち逮捕だ」
「逮捕どころじゃないわ、攻撃されるわよ」
「それもそうだ。また死ななきゃなんないな」
「とにかくここにいる間はゆっくりテレビでも観て過ごしてね」
「それよりおまえの顔を見ていたいな」
「嬉しいこと言うじゃない。じゃ、クレヨン買って来るわ。まだ1週間お休みだから買い物以外は家にいるね」
「あぁ、行ってらっしゃい」
「あ、お父さん、誰かが来ても絶対出ちゃダメよ!」

「鍵はちゃんと掛けておかないと」
あの顔がドアを開けたら来た人が卒倒するわ。お父さんは居留守を使わない人だから、ドアチャイムが鳴ったら走って行って勢いでドアを開けちゃうから。
私は外から「父ストッパー」の鍵を掛けた。

外は晴れている。春の風が気持ちいい。
駅前の商店街に向かって歩く。商店街には画材屋さんがある。そこに行けば、上等のクレヨンがあるだろう。せっかくだからクレヨン、奮発していいの買おう。
画用紙もワトソン紙とかキャンソン紙とかいう、本格的なのを買ってみようか。
でも上手く下半身描けるかなぁ。クレヨンや紙がよくても私、絵なんて本格的に描いたことないし。
あ、待てよ。描くのは子供の簡単な絵なんだ。難しくはないはず。
でも考えてみたら今の私は小さい頃の私じゃない。大人になって姿形がずいぶん変わった私なんだ。考えることも変わっている。
父の下半身は、小さい頃の私の絵がお手本なんだ。かなり乱暴で紙が凹むくらいの筆圧で描いてあるから、今度もそれと同じ動きをしなきゃならない。
そして同じ気持ちにならなきゃならない。
「それはそれで難しいなぁ」
私は変な気持ちになった。
私が描いた絵なのに、どうしてそれを私が学ばなきゃならないんだろう?
なんだか昔の自分がとても偉く思える。
本当に私は成長したんだろうかと思う。
ふと、歩道と車道の間にあるガードレールが目に入った。
小さい頃、あのガードレール、私の背のどこまであったんだろう?
今の私は、あんなガードレール、跨ごうと思えば跨げるけど、あの頃の私にはとても高くて、ずいぶん頼もしく映ったんだろうなぁ。
あぁそんなところからもう違うんだわ。

いつの間にか商店街に着いた。
ここは昔と景色があんまり変わらない。
ホッとする場所だ。
昔ながらのアーケードがあって、結構古い建物があって。
コンビニやスーパーもないし。
画材屋さんはアーケードの、あっちの端っこ辺だったな。

あ、お母さんがしゃがんで子供の口を拭いている。

そうだ、昔私が見る大人はみんな大きくて、逆に大人が見る私はしゃがまなきゃ話せない背丈だったんだな。
だからこのアーケード、もっと高く見えたんだ。
景色は変わってないようで、私が変わった分、知らないうちに変わっていたんだ。
私はアーケードの真ん中でしゃがんでみた。
高く見える通りすがりの人が、ちらちら私を見る。

私はすっかり大人なんだな。
「お父さん、描けるんだろうか?」

画材屋さんから帰る途中の公園のベンチに座り、スケッチするみたいにクレヨンの試し描きをした。

とても粘りのあるクレヨンだ。
画材屋さんで、絵は描いたことないけど描きやすいのありますかって聞いたら選んでくれた。
紙はワトソン紙にした。なんかちょうどいい粗さだったから、クレヨンが伸びやすくて何より、しっかり食い込んでくれそうだったから。
私は少しでも長く父といたかった。
だから少しでも絵が長持ちして欲しかった。49日しか一緒にいられなくても。
そして写真のお母さんを描いてみる。もしお母さんがお父さんみたいに浮かび上がったら、一緒にここでごはんが食べたい、3人で。きっとお母さんも絵のごはんを食べるんだろう。その時はお米のごはんと、お味噌汁と煮魚と、卵焼きと、野菜の煮物を描いてあげられるようにしろう。難しいだろうけど一生懸命に描いてみよう。
私の頭の中にどんどんクレヨンの絵が広がって行った。

「ただいま」
ドアを開けたらテレビの音が聞こえる。
どこにでもある家の風景だ。
「お父さん、下半身描けるよ」
父は相変わらず、白い背中を見せて、テレビのバラエティを観て笑っていた。笑いながら「おかえり」と、簡単な顔をこっちに向けた。まんまるの黒い目は、私が帰ったことを思い切り喜んでいるのか、バラエティを思い切り楽しんでいるのかどちらか分からなかったけど、とにかく思い切り見開いているのが可愛らしいかった。

「お父さん?その歯って入れ歯?」
私は変なことを聞いた。
朝と同じように私の簡単な絵の昼ごはんを食べる時に見えた父の歯が気になったのだ。私の描いた父の口はまんまるく開いていたけど歯はなかった。
「あ、これ?さぁな。おまえが描いたんじゃないの?」
「うん」
「どういうシステムなんだろうな」
システムってお父さん、まるで他人事ね。
「私が描いてないところが所々あるんだよ」
「霊かな?」
「言わなくても霊じゃない」
こんな昼食の会話ってあるだろうか。
だけどたぶんそうだろう。霊だけど一応生きてるんだから生活に必要なものは揃ってるんだろう。
でも面白い。まんまるの口はまんまるのまま食べるし、まんまるのまましゃべるのだ。だけど時々、まんまるの中の白い空間に「あ」とか「い」とか「へ」みたいに歯の線が浮かぶのだ。ホントどんなシステムなんだろう?

「ねえ、お父さん」
熱心に目玉焼きを食べている父に、母も描いてみたいと言ってみた。
父は
「それなら俺の下半身より先にそっちを描いて欲しいな。ちょっとでも早く、お母さん見たいな」
と言った。
「いいわよ。でもお父さん、不便じゃない?線だけで」
「ちっとも?」
「うん、じゃ、お母さん描いてみるね」
私はまず、居間の畳の上に買って来たワトソン紙を何枚か並べてみた。お父さんは一応大人の背丈で帰って来てるから、お母さんもそれくらいの大きさにしなければ釣り合わないし、もしも本当に浮き上がってその時画用紙1枚に全身を描いていたら、お母さん、小人になってしまう。
画用紙は大きめのを30枚くらい買ってある。失敗した時の描き直し用に何枚か多めに買ったのだ。ずいぶんお金は使ったけど。
念のためにお父さんに畳の上に仰向けになってもらい、仏壇から持って来た写真を見ながら大体の背丈を判断した。
この画用紙なら縦横合わせて10枚くらいが、お母さんに必要だった。
私はそれを裏からセロハンテープで貼り合わせた。初めは両親とも後ろ姿を描くつもりだった。だからこれでは後ろ姿描く時に不細工になる。
だけど父は真っ白なんだし、何よりも後ろ姿なんて知らないから描かなくていいやと思って、迷わずにセロハンテープをぴちゃぴちゃ貼り付けた。表返してなんとかお母さんの土台が出来た。
この上にお母さんを描くのだけど、緊張してなかなかクレヨンに手が伸びない。
向かいで父も画用紙を覗き込んでいる。
似顔絵が似顔絵を描く画用紙を覗き込んでいるなんて、ホント、これこそ写真に撮りたい。
輪郭線は黄土色で描くことは決めている。肌色に近くて、でも見やすい色だし、黒で描いて失敗したら取り返しがつかないからこの色にしたのだが、ん?父の顔、しっかり黒で輪郭描いてる。
私、いくつだったかなぁ、父を描いたの。たしか4つくらいだったと思うけど、失敗しないでしっかり描いてる。思い切りよく描いてる。
4歳の私は、失敗なんて考えなかったんだな。それに引き換え今の私は、大人なのにもじもじしている。

私の中で、上手に描こうとする私と、下手に描こうとしている私が喧嘩している。
だからお母さんの下絵の顔は、色が黄土色だからかも知れないけど、なんだかハニワみたいになってしまった。
父がそれを見て笑った。
「描き直すわよ!」
私は少し拗ねた。
「いいよいいよ、いい感じじゃないか」
慰めているのか本当にそう思っているのか分からない父の口調だが、まぁそれならそうするわと私は先を描き始めた。
母の写真もお腹の辺りから下がない。スカートや靴は想像で描くしかなかった。
お腹の中の私の膨らみも描いた方がいいかな?
あれこれ迷いながら、なんとか全身の輪郭が描けた。お腹は少し、膨らませた。
「大人のおまえが描いたお母さんか…」
父がしんみりと言った。
黄土色の輪郭線の母はまるで幽霊のようだった。顔がハニワだからなおさらだった。
「なんだか違うね?お父さん…」
父と見比べると母の姿は弱々しかった。
色のせいもあるだろうけど、それだけじゃない。なんか怖がってる。恐る恐る描いている。たしかに父の顔よりは上手いんだけどもどかしい。これが私の成長なんだろうか。
「さぁな。ま、進めてみろよ」
と言うのは父というより昔の私だ。帰って来たのは父ではなく子供の私なのじゃないかと思えた。
父の言うまま絵を進めた。体の中身になかなか手がつけられないから、写真を真似て髪を描いた。母はセミロングのストレートヘアだ。普通の黒髪で、特に自分を飾っていない。隣の父も派手じゃないけど、それよりもおとなしい。
「ねえ、お母さんって、どんな人だったの?」
半分イタズラ書きをするような仕草で、乱暴に髪の線を引きながら父に聞いた。
ここで初めて黒のクレヨンを持った。迷いを断つような力のある色だった。
「おとなしいけど、視線が強い人だったな」
そう言う父のまん丸の黒い目が宙を見ていた。
「えらく文学的なこと言うじゃない」
「これでも一応文学部」
「え?大学行ってたの?」
「志望だったんだ」
「だよね。ね、視線が強いって?」
「そうだな、いつも見るものを気にかけるっていうか、うーん、どういうのかな、心配性っていうかなんていうか」
「真面目なんだ」
「そうそう、そんな感じ。あ、ところでさ」
「何?」
「コーヒー飲みたい」
「うん。いいよ」
お互いの会話ごとに母の髪が引かれて行く。私はその黒で、父のごはんを描いた紙にコーヒーカップを描いて、また切り抜いて渡した。父はそれを口に当てて飲んだ。本当に似顔絵って楽だなと思った。
「お父さん、それって本当にコーヒーなの?」
自分で描いておきながら、やっぱり信じられないところがある。
「あぁ、ちゃんとコーヒーなんだよ。特にこれはクレヨンだから油が効いててコクがあるね。あ、知ってるかい?コーヒーにはコーヒー豆の油分が入ってるの」
「うん、なんとなく」
「それが味なんだよな。いやぁ、この前、この下半身借りた所でコーヒーご馳走になったんだけどさ、鉛筆だったんだよね、コーヒーが。だからなんて言うか、アメリカンのもっと薄い出がらしみたいな味でさ。だからこいつは本当に美味いよ」
「じゃあやっぱり鉛筆は味気ない?夕べも今朝も鉛筆のごはんだったけど」
「いや、そんなことないけど、ちょっと薄味?関西風?かな」
「無理しなくていいよ。ま、次のごはんはこのクレヨンで描くわね。今度は色もあるから」
「あぁ、楽しみだな」

母の黒髪が出来上がった。

「かつらかぶったハニワだ…」
どう見ても母じゃない。
「まだ途中だろ?」
父の似顔絵の顔が…励ましているの?
でも真っ黒な髪の線は小さい時の私の線そのままだ。それは父の髪とおんなじに見えるからだ。そうだこの線は無心になって引いてたなぁ。父と話しながら絵のことは何も考えないで、ただただ線を引っ張ってた。父の髪も、小さい私は無心で引いていたんだろう。似てるとか似てないじゃなく、ただ父を描くんだってことしか考えていなかったんだろう。
だったら大人ってなんだろう?
成長するってなんだろう?
なんだか私は、子供の私に負けた気がして悔しかった。

「ちょっと休む。あ、お父さん、ごはん炊こうか?」
「ん?いいね」
ごはんは丁寧に描くわ。大人の私が腕を振るうわ。

カリカリカリカリカリカリカリカリ…

「あー、もういやだ!」
米粒を丁寧に描いていたら100粒くらいで嫌になった。
クレヨンでそれらしく描いた茶碗の絵の上に、ボールペンで描きかけの米粒がある様子を見てたらなんだか…

「あ、寝てる?」

父は退屈だったのか、瞼を閉じて眠っているようだ。
不思議な顔。
私が描いていない瞼や睫毛がまた見える。
その下の口はポッカリ開いている。
子供の絵だからか口の中は肌色だ。先に顔を肌色で塗ってから赤い丸を描いただけの口だからそうなってしまう。
この前はここに歯の幻が見えた。
私はそっと、口の斜め下くらいに白い米粒をひとつ、クレヨンで描いた。

「お父さん、お父さん」
私は父を起こした。
「ん?」
まんまるの黒い目が開いた。
「食べながら寝ちゃだめよ。あとこのごはんだけだから早く食べて。洗い物終わらないから」
私はそう声をかけた。
まったくずるい考えだ。ごはんを途中まで描いて放棄した上に、おかずなんて全然描いていない。だけど父が寝ていたのをいいことにこんな嘘をつく私。
ちょっとかわいそうかな?
父は「あ、ごめん、って俺、ごはん食べてたか?」と聞いて来た。
「ほらぁ、そこにごはん粒ついてるじゃない」
と私は言って手鏡で父の顔を映した。
「あ、ホントだ。ごめん」
父は素直に謝って、実は描きかけの食べ残しを口に運んだ。
「ごめんね、お父さん」
私はこんな形で大人になってしまったんだ。

「お父さん、お腹は大丈夫?」
さすがに良心がとがめて、そんなこと聞いてしまった。
「あぁ、お腹いっぱいだよ」
本当だろうか?ほんの数口のごはんを食べただけなのに。
そういえば、私が描いた米粒、最初は小さかったけど、だんだん面倒臭くなって
途中からは一粒が倍近くの大きさになっていたから、もしかしてそれ、団子かお餅になってたんじゃないかな?そういうことだと祈ろう。
まぁいいや、お腹いっぱいって言ったんだから。

私は後ろめたい気持ちで自分のごはんを作って食べて
「さぁ、お父さん⁈」
母の絵の続きを描くことにした。
私の嘘のせいで、ずいぶん早い夕食を私も食べるハメになった。
父には時間の感覚があるのだろうか?
昼ごはんを食べてまだそんなに時間が経ってないのに、私が本当のことを言ったと思っているようだけど。
まぁ幼児の似顔絵だから適当なんだろうか。

母の姿とまた向き合った。向かいにいる父の顔と見比べたらはるかに整った輪郭だ。でも勝ってはいない。父の素朴さがないのだ。
「難しいか?」
あっけらかんとした父の顔が言う。
「うん、なんか違う」
正直に答える。
「それだけ成長したってことだ」
父が言う。
「それだけ何かなくしちゃったのかも」
私が答える。
「とにかく描いてみろよ。描かなきゃ分かんないだろう?」
「うん、下手に描いてみる」
「それはお母さんかわいそうだろう」
「だって」
「普通に描いてやれよ」
「普通?」
「そう、今のおまえの普通でさ」
「うーん…」

とりあえず描き出した。
黄土色の輪郭を黒でなぞった。
今の私が引いた線を、幼児の私が引き直している。
「おねえちゃん、絵はね、見えたまま描くんだよ」
なんて偉そうに言う自分の声が聞こえそうだ。
「下手なくせに何言うのよ」
思わず声が漏れた。
「ん?」
父が声に気づいたようだ。
「なんでもない」
半分野生で黒の線を引いた。
「なかなかいいんじゃないか?」
向かいで父が言った。
真っ黒で雑な髪に真っ黒で野性的な輪郭の母の顔がそこにあった。
「うれしいな」
父がしんみりと言う。
「何が?」
私には分からない。ただ、幼児の絵を真似ただけだ。
「家族っていいなって思ったんだよ」
「どういいの?」
「なんていうかなぁ、当たり前で素朴でさ」
「意味が分かんない」
「子供が親の顔描いてるってことがさ」
「ますます分かんない」
「親には分かるんだよ」
「そうなの?親ってそうやって偉ぶるんだから」
「偉ぶってなんかないよ」
私はいつの間にか、肌色のクレヨンで顔の輪郭の中を塗っていた、というより塗り殴っていた。
なんでだろう?誰かに何か言われるとすぐ反抗してしまうのだ。
輪郭や髪の黒が、所々肌色に引っ張られて顔に入り込んでいる。
「あぁ!なんでよう」
母の顔の隅はジグザグに汚れていた。
「あとで化粧してやれよ。今のおまえにしか出来ないだろ?」
父の言葉が妙に響いた。

「まるであごひげ付けたハニワだな」
「お父さん!」

でも確かにそうだ。女というより男だ。
「これからちゃんと中身を描くわよ」

お母さん…って言っても、私は母を知らない。気が付いたら祖母と父しかいなかった。
そして今、もう誰もいない。一応、仮の父は目の前にいるけど、時間は限られている。
私にはもう家族はいないんだ。そう、いないんだ。
「家族っていいなぁ」
父の呟きがなんだか染みた。
「家族っていいなぁ」
これが父のやり残したことと関係あるんだろうか?

私は無意識に茶色のクレヨンを取っていた。それで母の眉を引いた。
目は…
目はどうしよう。父に揃えてまんまるの黒にしようか。
「ねぇお父さん?」
「ん?」
「お母さんの目、リアルがいい?」
「そうだなぁ、うん、写真通りがいいかな?あの時のお母さんに会いたいしな」
「ここからリアル?」
「ん?変か?」
「だってここまでは幼児の絵だよ?」
「う~ん、ま、いいんじゃない?趣があって」
「おもむき?」
「うん、趣」
「まぁいいか、描いてみる」

不思議なことに、今の私には、写真通りに描く方が簡単だった。
目って、瞼の下の線を強調したら目らしくなるって聞いたことがあるから、開いた目の上側のラインになるそこを黒で引いて、目の下側のラインは一応グレーで引いてみた。
ハニワが目を開きかけてる。中に瞳を入れたら母が起きて来そうだった。
目玉自体は水色にしてみた。澄んだ目の色だ。
瞳は茶色で入れてみた。中心の瞳孔だけ黒にして、光の反射を瞳の斜め上に白の点でアクセントみたいに入れたら、母が私を見つめていた。
鼻の両側には少し影を入れて立体感を出してみた。
口もとの描き方にもコツがあって、上唇はしっかり、下唇は唇よりも唇の下の線を強調したら「らしく」見えるって聞いたことがあったので、その通り描いてみたらホント、らしくなった。
私はすっかり夢中になっていた。それは絵を描くというより、お化粧をしてるみたいだったからだ。
そう考えたら女って、毎日自分という絵を描いているようなものだなと思った。
さっき失敗した顔の周りの黒の滲みも、白いクレヨンをゆるくゆるく塗って行ってぼやかした。するとそれがいい影の効果になって、母の顔を浮き上がらせた。
最後の仕上げは本物のお化粧だ。

「女性はなんで化粧するのかなぁ」
母の顔をお化粧する私に父が聞く。
「わかんない。普通にやってるから」
言いながら普通に母の化粧を進める。
「自分をよく見せるためか?」
無茶苦茶な化粧をしたみたいな顔で父がまだ聞く。男の人ってそんなに化粧に興味があるんだろうか。
「女は化けるって言うけどなぁ」
そういうお父さんこそ化け物じゃない。
「面倒臭くないか?」
「何が?」
「化粧すんの」
「別に」
「ふーん?」
なんてことない会話だけど、会話があるってなんだかいい。何かをずっと話していると、その熱で部屋が温まって行くようだ。
「ねぇお父さん?」
「ん?」
「お母さんって、やっぱりお化粧したの?」
「うん、してたなぁ。短い時間だけど」
「だろうね、あんまり化粧っ気ない顔だもんね」
「そうだな。素顔の印象があったな」
だから私がする母の化粧も、肌色に近い色が多かった。青は化粧というよりも陰影に使っていた。そういえば、母の絵で使っているクレヨンは淡い色が多く減るだろうな。写真を見ても、強い色は髪の毛くらいだから。色にも人の性格は出るんだな。
それに対して目の前の父は、派手だなぁ。
そうこうしてたら、母の顔が一応出来上がった。
髪の毛が髪の毛だからどう言うんだろう?子供の絵をくり抜いて母親が顔を出しているみたいなアンバランスな顔になった。
「なんか変」
私がそう言うと
「これはこれでいいんじゃないか?」
そう父は言うけどどこがいいのか分からない。
「とにかく体まで描いて修正するわ」
「あぁ、任せるよ」
父はさっきから乗り気でもないようなそうでもないような曖昧な返事ばかりする。どうも興味は母にあるのではないようだ。
「ねぇお父さん?本当にお母さんが見たいの?」
父の態度に私はそう言ってしまった。
「ん?あぁ、もちろん。だけど」
「だけど?」
「いや、初めは楽しみだったけど、今は描いているおまえを見ていたい…かな?」
「私?」
「あぁ、ほら、今からお母さんのお腹を描くだろ?そこにいたおまえが今ここにいるのがな、なんともなぁ」
「家族がいいとかまた言うんでしょ?」
「まぁそうかな?」
「ねぇ」
「ん?」
「そのうち分かるってなんなの?教えてよ」
「あぁ、やり残したことか?」
「そう」
「もう、始まってるかな?」
父はまた意味深なことを言った。
まんまるの口の中で、話す時だけ歯が浮かんでは消えていた。

私が母のお腹のあたりを描き出した時、父が急に歌い始めた。外国の有名な子守唄で「眠れ良い子よ~」とかいうやつだ。
それに続いてなんだか歌謡曲みたいな変なメロディーで、あ、そう、父の顔みたいな漫画チックな演歌と言った方がいいだろうか、そんな節で
「検定一級を取って~っ、アメリカ人に込み入ったお願いをしよう~っ、検定一級を取って~っ、中国人に込み入ったお願いをしよう~っ、検定一級を取って~っ、韓国人に込み入ったお願いをしよう~っ、検定一級を取って~っ、インド人に込み入ったお願いをしよう~っ、検定一級を取って~っ、フランス人に込み入ったお願いをしよう~っ」
って妙な歌詞を歌うのだ。歌というより半分呪文だった。

「お父さん、何よその変な歌」
私がうるさそうに聞くと父は
「夢に掛ける子守歌だよ」
と言った。
私が膨らみの陰影をつけている母のお腹を、父は借り物の手でゆっくりとさすり始めた。そしてまたあの呪文を歌い出した。私は絵が描けなくなった。
「お父さん、邪魔だよ」
私が文句を言うと父は
「これはおまえに歌ってるんだぞ」
と、父は言いながらお腹を撫でている。
「あ、そうよね」
私は変な気持ちになる。
「人ってさ、夢の連鎖なんだよ」
おかしな顔が哲学的なことを言う。
「なにそれ?」
「俺にも夢があったんだよ、若い頃はな。とってもでっかい夢だ。でもでか過ぎて持てなかった」
と父は笑った。
「ふ~ん。その変な歌と関係あるの?」
私は聞いた。
「まぁな。外国へ行きたかったんだ。結婚しても夢ばかり追ったからまじめに働かなかった。お母さんには気の毒なことばかりした。だけど子供が出来て諦めた。子供が出来ると、子供が夢になるんだよな、不思議なもんでさ」
父は顔に似つかわしくないしんみりした口調になった。だからだろうか
「なぁ、この顔、なんかしっくり来ないなぁ、この話にさぁ」
と愚痴った。
「とにかく夢なんだよ、おまえはさ」
吹っ切るように言うと、父はまた呪文を歌い出した。
私はしばらく、歌いながらお腹をさする父の姿を見ていた。
小さい頃の私は、どんな気持ちでこの父を描いたのだろう?そしてその頃の私には、もう夢があったのだろうか?覚えてないなぁ。
私は父の夢、あぁもちろん母の夢としてお腹の中に生まれて、この世に出てからは自分の夢を追ったはずだけど、私、今夢を持っていたっけ?
そうだ高校までは大学に行くという、漠然とした夢があった。本当の夢は、大学に行って考えようと思っていた。だけど結局大学には行かなかった。時間に縛られるのが嫌で、高校を出たらすぐに派遣会社に登録したんだ。その時々で好きな仕事をしながら、そのままダラダラと来てしまった。
夢らしい夢なんてないし、恋らしい恋もしてないな。ただ美味しいものを食べて、綺麗なものを見るだけが楽しいだけかな?
あんまり毎日が平べったいから、こうやって父がオカルト的に帰って来てもあんまり驚かなかったのかも知れないな。
なんでぼんやり考えていたら
「邪魔したな、終わったよ」
という父の声がした。

母の体を描く私の向かいで、父は床に広げた画用紙の隅に、どこから持って来たのか私のボールペンで何か書いている。
「お父さん、絵に落書きしないでよ」
私は注意して、でも少し気になってそれを覗いてみた。

「目覚めると
黒い太陽が二つの
君の顔がある」

「日」は「月」と夫婦だが
「日」は「音」と不倫している
それが私というアパートの中の
ふたつの部屋で営まれている
「明」と「暗」
私の中の天使と悪魔

「何これ?意味分かんない」
「俺にも分かんない。頭に浮かぶから書いただけ。この顔のせいかな?なんだか時々、変なフレーズが浮かぶんだ」
生きていた時の父は決してこんなこと書かなかったし言わなかったから、やっぱりこの顔のせいなんだろうか。考えたらあの歌だって変だった。
父が落書きした遥か下で、私は母の体を描き終えた。
「どう?こんな感じだけど」
父は変なフレーズの先に手こずっているようで、自分が書いた落書きをじっと見ている。ちょっと何かを書いてすぐに手を止めている。でも目がまんまるで、口もまんまるく開いているから、悩んでいるのか呆れているのか分からない。
「あ?終わったか?どれどれ?」
父は私の隣に来て、母の全身、とは言っても写真通りだから膝くらいから上だけど、その姿を見て
「思い出すな…」
とだけ呟いて、またじっと見つめている。
「この私って、何ヶ月くらいなの?」
「お腹が目立ち始めているから7ヶ月くらいだろうけど本当はな…」
「え?…本当は?」
「これ、おまえじゃないんだよ」
「えっ⁈」
父は黙っている。
「えっ⁈うそっ!」
これは私だってずっと言ってたよ、お父さん。
「嘘ついてた。ごめんな」
父は目を瞑って謝った。またあの睫毛が見える。
「じゃ、これはもしかしてお腹の中で死んだっていうお兄さんかお姉さんなの?」
「あぁ」
「お父さん、もしかしてやり残したことってこれを言うこと?」
「ひとつはね」
「え?じゃ、まだあるの?分かんない。もういい加減言ってよ」
すると父は改めてこっちを向いた。目はまんまるに戻っていた。
「俺の体、描いたら言うよ」
父はじっと私を見ている。
「分かった」
とは言ったものの、私は疲れていた。
「明日描くからね」
と言って、母の絵を部屋の隅にずらした。紙とは言っても、母は重かった。
セロハンテープが外れないように引っ張るのは案外難しい。私は母の体のあちこちに回っては、力を入れ過ぎないように少しずつずらした。
「手伝うか?」
父が言ったが無視した。
でも父の顔をチラッと見たら、ポカンとした表情がおかしくて愛らしくて
「大丈夫」
と言ってしまった。

なんとかセロハンテープを外さずに母の絵を部屋の隅にずらしたあと、私は母の時と同じように画用紙を床に並べて貼り合わせる作業を始めた。
「明日の準備よ」
ずっと私の動きを見ている父に言った。
明日はここに父の胸から下を描く。母に合わせるからやはり膝くらいまでだけど。
その前に借り物の体を外してもらわなければならない。光の加減でキラキラ光る鉛筆線の体を。
「お父さん、その体はどこに返すの?」
作業をしながら父に聞いた。
「あぁ、外したらね、消えるんだよ」
「え?でも借りたんでしょ?返さなきゃ」
「いや、借り捨てってやつさ。保険の掛け捨てと一緒」
「まるで旅行保険みたいね」
「レンタカー保険の方が近いんじゃない?」
ここだけえらく現実的な会話だ。
「服装は適当になるよ?」
「あぁ、いいよ」
いつの間にか父は母の絵の隅っこをちぎって、私のボールペンでタバコを描いてちゃっかり吸っている。
口からエクトプラズマみたいな煙が出ている。
「お父さん!」
「あ、ごめん」
「体に悪いじゃない」
「もう死んでるからいいんだよ」
「まぁ、そうだけど…服の好みはないのね⁈」
「あぁないよ」
父は横を向いてタバコを吸ったまま気のない返事をした。
子供の頃の私が見た父の服装なんて覚えていないけど、絵から想像すると、襟が白い緑色のポロシャツみたいなものを着ていたみたいだ。それに今の私の感性で適当に考えた「そこから下」をつなげるしかない。
「適当」って言って私は、私なのに私が知らない私がいることを実感して、なんだか寂しかった。
過去の私を今の私はもちろん忘れているけど、この絵を通して考えたら、今の私を過去の私が捨てたみたいに感じた。こんなの私じゃないって。
それはやはり寂しいことだった。
過去の私はきっと、今みたいな私を夢見ていなかったはずだ。だから今の私が見る景色は、ゴミ箱の中のそれなんだ。
「もしかしてお父さんは…」
そんな私に何かを言いに戻ったのだろうか?
「もしかして俺がどうかしたか?」
父が顔を向けた。
「ううん、なんにも」
思わず呟いていたみたいだ。
それにしても面白い顔だな。この顔を今描けって言われても描けないよ。でも幼い私にはこの顔がお父さんだったんだな。一生懸命父を描く私の顔が、こちらを見ているようだ。
作業を終えた私は立ち上がって窓の外を見た。すっかり夜更けになっていた。所々街灯が点いている。車も歩く人もいない静かな景色だ。
「散歩したいけどできないよね、その顔じゃ」
「即、尋問、で、速攻逮捕だな」
「でもその顔で逮捕されて報道されたら、お父さん、スターだよ?」
「アイドルかもな?子供の」
「怪獣?」
「逮捕というより自衛隊出動かな?」
こんな会話、普通の親子じゃしないなって思ったら、なんだか今の時間がとても貴重な宝物のように思えた。
「お腹すかない?夜食でも食べる?」
親しい会話をしたら、ほんの少しの米粒しか食べていない父がとてもかわいそうになった。
「いや?大丈夫」
「ほんと?」
やっぱり絵って、空腹感が人間と違うんだろうか?
私の方は正直すいていた。でも嘘ついた罰だ、食べないでおこう。
「ねぇお父さん?」
「ん?」
私は外を見たまま聞いた。
「死ぬ時って、どんな感じなの?」
「死ぬ時か?うーむ」
父は少し考えて
「ルービックキューブだな、俺の場合」
と意味深なことを言った。
「ルービックキューブ?」
「あぁ、ルービックキューブがグルグル回ってるみたいな」
「どういうこと?」
「例えば俺は青だったとする。それがグルグル回って赤やら黄色やらが出て来て、あれ?俺どうなってんだ?俺、分解されてるぞって気になる」
「それで?」
「おかしいぞって考えてる俺が消えて行くんだ。ほら、眠りに落ちる時、なんだかわけの分からない風景っていうか夢っていうかそんなの見るだろ?そんな感じ」
「ふーん?でさ、誰か迎えに来ないの?よく臨死体験で親しい人が迎えに来たって言うじゃん」
「そんなのなかったな。ただグルグルバラバラの世界だった。でもそれが気持ちいいんだな、これみたいに」
父はタバコを指差した。
「そうなんだ…」
死ぬのって、苦しいとか寂しいとか、悲しいとかいうのかなと思っていたけど、案外それは気持ちよくて、死んだことも分からないものなのかなぁと思った。
死んだ人が目の前で言うんだから、きっと確かなんだろう。
「でもその腕借りた時は意識あったんでしょ?お父さんとしての」
「あぁ、もちろんあったよ。やっぱりやり残したことがあると、バラバラになれないみたいだね。目が覚めちゃったんだ、あの辺で」
と、今度は父は私の立っている窓の所を指差した。
「空?」
「まぁな。なんだか空中を飛んでたからな」
「やっぱり死んだら空に上がるんだ」
「みたいだな」
「体はどこで借りたの?」
「なんか声がしてさ、これ貸すからって。そしたら付いてた、もう」
「で、返さなくていいって言ったの?」
「うん、借り捨てですって受付の女の人みたいな声でね。説明はないけど、なぜか意味は分かるんだよな」
「まぁ、霊だからテレパシーか何かあるのかな?」
「そうだろな」
「じゃ、四十九日の、なんだったっけ社会保険のことも受付の女の人の声が言ったの?」
「言われればそうだったな」
「ふーん?」
私はまた窓の外を見た。今度は地上じゃなく、空を見上げた。

「いいな、そうだ、上を見るんだ」
急に父が呟いた。
「え?」
「夢を見るんだよ」
「夢?」
「おまえの夢だ」

やはり父は私の未来を心配してるんだ。だからこんなこと言うんだ。

「さ、寝よ?明日はお父さん描くよ!」
勢いよく言って私は布団を取りに行った。

布団に入って目を閉じると、父といるこの時間の中で、ずっと私は昔の私を見ていた気がする。
「当たり前よね」
ずっと自分が描いた絵を見ていたのだから。
私は昔の私に負けっぱなしなんだろうか?
思わず目が開いてしまった。
隣で寝ている父を見る。
あの睫毛が見える。睫毛は父のオリジナルだから、これは本当の父だ。
そうだ明日はこの睫毛も描こう。片目を瞑らせて、ウインクさせよう。
今なら父をもっと父らしく描ける。明日はリアルに描こう。

と思った途端
「いや違う」
私は下手に描くことも出来るんだと思った。
今の私は、昔の私の線や彩色を再現することが出来るんだ。それだけ意識がしっかりして来たんだ。自分の体をコントロールする意識が。
「これって成長?」
父の寝顔に言った。
そうだ自分の不満や劣等感の陰で、私は毎日、確かに成長しているはずなんだ。それに気づかないんだ。私ばかりじゃない。この世の人みんなが自分の成長に気づいていないのかも知れない。不満や落胆の方が大きいからそれが見えないのかも。

父がやり残したことって、さっきの
「上を向くんだ」
なんだろうかな?
ま、明日になったら分かる。
明日が楽しみだ。

私は「明日」っていう言葉の意味がなんとなく分かって来たような気がした。

次の日はいい天気だった。まさに「明日」がやって来た。
作るのが楽な「洋朝食」を作って2人で食べた。
ごはん粒を書くのが嫌だったんじゃない。むしろ「和朝食」を作ってあげたかった。ただ、私は早く描きたかった。父の体を。借り物じゃない本当の体を。
その代わり、夕ごはんは必ず和食にしようと思った。描くことが難しい食材を選んで、時間をかけて作ろうと思った。
そのことを父に言うと父は
「楽しみだな。それも自分の手で食べられるんだな」
と、大喜びした。
「さ、そろそろ始めようか、お父さん」
声を掛けたら、父はなぜか黙ってしばらく私を見ていたが
「そうだな、始めよか」
と、踏ん切ったように言うとぎこちない手つきで借り物の腕を外し始めた。
腕が外れると、その下の体も一緒にスーッと消えてしまい、父の似顔絵だけがひらひらと、敷き詰めた画用紙の上に落ちた。
「お父さん?」
声を掛けたが返事がない。そこにあるのは父の似顔絵だけだった。
「もしかして」
体を描いたらまた起き上がって喋るんだろうか?
だってさっき、自分の手でごはんが食べられるって言ったから、体を描いたらまた起き上がって喋るんだと私は信じた。
その時は母も一緒に起き上がるんじゃ?
そう考えたらなんだか、怖いけど楽しみになって来た。
「家族かぁ…」
父が言った言葉を呟いてしまった。

「待っててね?」
私は父の似顔絵をそっと取ると、そう声を掛けて画用紙の上の方の真ん中に糊付けした。
似顔絵の下にさらの画用紙の真っ白な空間があった。
その白と比べると、似顔絵の画用紙が古くなってすっかりくすんでいるのがよく分かった。それだけ父も私も年齢を重ねたんだ。
それに似顔絵の画用紙は安物なのがよく分かる。紙の厚みや表面の凹凸が全然違うのだ。
「幼稚園の画用紙だもんね」
でも新しい画用紙は、私が働いたお金で買ったんだ。私も結構立派になったのかなって、変に感動してしまった。
しかし難しいな。描いて行くと画用紙もだけど、クレヨンの色もなんだか合わない。新しい部分が浮き上がってしまって、取って付けたような絵になってしまう。質や値段の違いもあるだろうけど、何より違うのは年季ってやつだ。
父の絵には年季が入っている。まさに父そのものだ。それはこの絵が私と一緒にいた年月が醸し出したくすみと馴染みだ。これは人間が描くことは出来ない。
「神様の色よね」
決して合わせることが出来ないんだって分かったら
「冴えないおじさんに新しい服を買ってあげたような絵にしよう」
と決めたからか一気に筆、じゃない、クレヨンが進んだ。
白い襟のグリーンのポロシャツと茶色のスラックス、なかなか垢抜けた父の姿が出来上がった。垢抜けた分、顔は余計に面白くなってるけど。

あとは輪郭に沿って切り抜くんだ。母の絵も。

と、母の絵の上の端っこが目に入った。
父が昨日、タバコを作るのにちぎった所があった。その下にはあの、わけの分からない詩みたいなのが書いてあってその下に…

・夢を叶えてくれてありがとう
             あかねへ

え?何これ?お礼?

お父さんもしかしてあの時、ずっと悩んでこれを書いたの?

そして「あかね」って…

…私の名前なの?

…私、あかねっていうの?

…私…

「そうだよ、あかね」
描き上げて床に並べた私と妻の絵の、妻のお腹の膨らみに、私はそう言った。
そして床に散らばったクレヨンを片付け始めた。

私と妻の初めての子供は、残念ながら死産だった。

娘だった。夕方に取り上げられたから「あかね」と名付けた。
それだけではない。
妻は出産のショックがもとで娘の後を追うように亡くなってしまった。

だが正直、私は安心した。
どちらも同じ所で、いつまでも一緒にいられるんだからと。
ただ私は独りになってしまった。
ぼんやりと妻と娘を失った日の終わりの夜景を、病院の窓から眺めていた。

それからの私は、みんなが生きていたらどんな家庭になったんだろうとポカンと考えるだけの毎日を送っていた。
ある日私は思い立って紙とクレヨンを買った。
もし娘が生きていて私を描いたらどうなるんだろうなと、自分の似顔絵を描いてみることにしたのだ。
娘の霊に、私の体を使ってちょっとくらいこの世で遊んで行きなって語りかけながら、自分が子供の時ならどう手を動かしたんだろうと、記憶を辿りながら描いてみたが、これが意外に難しいものだった。
成長するうちに私は、いろんな知識や常識が身につき過ぎて、あの時のように無心に手を動かすことが出来なかったのだ。まるで借り物の手だなと思った時、このストーリーが浮かんだ。
成長した娘が私の似顔絵をもとに私と妻を描く妄想のストーリーだ。
私は決めた。
娘の霊が成人して初めて迎える回忌法要の年に妄想を現実にしてみようと。
こういう形でふたりを供養して、新しい世界へ送ってやろう、その一念で生きて来た。その一念こそ私にとっての家庭であり夢だった。
そして娘の23回忌の今、私は妄想を頭に流しながら、自分の手でこの絵を描いたわけだ。

「さてと」

私は立ち上がり、妻と娘の仏壇の所に行き祈った。そして何も話さない絵に向かって囁いた。
「何も話さなくていいんだよ。俺はもう、前世の夫で前世の親なんだ。俺は今日、やり残してたことをやった」
そして

「おまえはもう、生まれ変わっているんだ。もう「私」じゃないんだよ」

そう声を掛けながら、私は妻のお腹の膨らみに赤のクレヨンでそっと描いた、似顔絵の娘を撫でた。(了)
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