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法華経推理
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この物語は、史実ではないけど史実に近いかも知れない。というのも、歴史は勝ち組の言い伝えや書き伝えが唯一の根拠だから、果たして本当か嘘かなんて分からない。だから私が勝手に書いたこの話も、どこかがまぐれ当たりしているかも知れないからだ。
と、いきなりなんの話をしているんだていう方のために、この物語がここにある経緯をお話ししておこう。
私は信仰者だ。
と言うと、どこかしら気の触れた人のように思われるかも知れないけど私はいたって正気で、なぜ信仰者なのかというとあるお経に書いてあることを身をもって体験したかったからだ。
その辺の詳しいところは別項目の「日記の抜粋」に記している。
私が体験したいのは仏教界で最高と言われながら、読んでみたらそのお経の褒め言葉ばかりで中身がぜんぜんないという「法華経」というお経だ。
なんで自画自賛してるだけのこのお経が最高なのかを、とにかく追っかけたいと思って、信仰団体に入ってみたり論文書いてみたり物語書いてみたりしているけれど、追いついたかと思うとスルッと逃げられるようなことの繰り返しだ。
これから先の物語は、インドで生まれて中国を経由して、日本にやって来た法華経が、本当に言いたいことを推理して書いたものだ。推理だから当たっているかどうかは分からないけど、先に言った通り歴史は水ものなので、ほんの一部は当たっているかも知れない。
法華経に興味があったら解説本がたくさん出ているので読んでみたらいいし、ネットでもいっぱい記述がある。その上でこれを読んだら少しはこの難解な話が言っていることが分かるかも知れない。
ちなみにこの物語は、海外から来た法華経を日本に広めた「日蓮」というお坊さんの話から始まる。
またこの話は、法華経に限らずお経というものは一種のファンタジーで、その中を泳ぐことでそのお経が言おうとしていることが分かるのではという、私の私見が書かせたものだ。お経は頭が痛くなるものだが、一度でもその中に飛び込んでみたら、案外楽しめるものだし役に立つものだ。
1.
もしも日蓮がごくごく普通の人で、仕方なく僧侶になったのだとしたら?
いつしか私はその考えに取り憑かれるようになった。
という私は日蓮宗の信仰者だ。だから日蓮は宗祖でありもちろん尊敬すべき人だ。なのになぜその宗祖をそう考えてしまうのか?
それは私が日蓮宗の根本である法華経に惹かれたからだ。法華経から見れば、そう考える方が法華経の真実に近いような気がしたからだ。だから敢えて私はこの話を書いた。日蓮上人には大変申し訳ないのですが、どうかお許しください。
日蓮が学んだ天台宗の中にあって、その天台宗のもとが法華経だったそうだ。調べてみるとおおもとの法華経も、釈迦がいたインドから中国を通って日本に来る間にかなり形を変えていたようだ。いろんな人が書き写すうちに、それらの人々の考えが混ざったらしいからだ。
ともあれ天台宗は日本にやって来て、比叡山の延暦寺から発信された。そして日蓮は延暦寺で勉強した。だから日蓮が「これしかない」と言った法華経は延暦寺以後の法華経ということになる。ここにひとつのミソがある。この時点で恐らく法華経は「中国製」だったのだ。
それをまた日蓮が精製して発信したのが日蓮宗だ。いわば「日本製法華経」だ。これを私は信じているわけだ。
だから本来の法華経はここにないのは確かだろう。本来がなんだったさえもう分からない。今インドにある法華経も本物かどうかさえ分からない。しかしそんな中にも法華経はあると思う。それは意志の流れのようなもので、法華経は中国に行って日本に来て、その間に姿を変えてしまおうと最初から思っていたのではないだろうか。つまり法華経はお経の姿をした生き物なのかも知れない。
日蓮が中国語を知っていたかどうかも分からない。もしかしたら延暦寺で当てずっぽうでお経を読んでいたかも知れない。しかし布教の方便として下の一節を言ったのは確かだ。
「法華経の核心を語る自我偈(じがげ)という一節(このことはこの物語の中にいずれ出て来る)は自の文字で始まり身の文字で終わる。だからこのお経は自分自身のことである」
これは中国語、つまり漢文が分からなくても分かる話だ。なぜならそれは「絵」だから。
「この部分って自という字で始まって身という字で終わってる。自身って自分のことだなぁ。間にたくさん漢字があるけど何言ってんだろう?」
もし日蓮が漢文を読めない普通の人だったら、自我偈という「絵」を見てそう思っただろう。そして
「すみませーん、これなんて言ってるんですか?」
と、漢文が分かる延暦寺のお坊さんにそう聞いただろう。
聞かれたお坊さんは
「ん?これはな、仏は死んでいない。姿を消してすぐ傍にいる。そのことを信じるなら、いつでも仏は姿を見せて、いろいろ教えてくれる。仏はいつも、人を救うことを考えているからって意味のことを書いてるんだよ」
と、たぶん答えただろう。確かにそれが正解なのだが、それよりも日蓮が実際、布教の方便で使った「自」と「身」の話の方が、法華経を知れば当たっているのだ。
しかしお坊さんはこうも言った。
「でもねぇ、このお経、ほとんどは自分の褒め言葉ばかりなんだよ。どういうことかねぇ?」
「褒めてばかり?だったら分かりやすいか。とにかく素晴らしいと言えばいいんだから」
という理由で日蓮が法華経を選んだわけはないだろうが、実際日蓮は「法華経は褒め言葉ばかり。だから褒めれば褒めるほど、その力が増す」と言っている。
鎌倉時代、西暦で言うと1200年頃、一般人は無気力になっていた。武士が台頭して、日本は戦争だらけだった。
家を建ててもすぐに焼かれる。田畑を耕してもあっけなく踏みにじられる。人は簡単に殺される。直しても直しても壊される。殺される。その上飢饉やら天災やら疫病やら、悪いことが繰り返し起こる。そんな世の中、一般人はすっかり生きる気力を失っていた。
「それは今、釈迦の教えの効力が消えたからだ」
その頃日本にはすっかり仏教が定着していたから、そういう思想が現れた。法華経にも釈迦の跡継ぎがどうのこうのって書いている通り、釈迦は死んで(実際は隠れてるだけだけど)その効力が消えかけていた。
ここで言う釈迦の教えとはたぶん、四諦・八正道(人が守るべき事がら)の類いで、それを人間がちゃんと守るのは釈迦がいなくなって何百年の間って決まっていたようだ。その何百年目が日本では鎌倉時代だったようだ。
確かにこんなありさまは、その予言が当たっていることを証明していた。
するといろんな「自称釈迦の跡継ぎ」が現れて来る。
彼らは「こんな世の中にいいことなんてありはしません。だから仏様にお祈りして、死んであの世に行ってからいい思いをしましょう。あの世には極楽浄土っていう、とても平和で穏やかな世界があるんです。この仏様がそこに連れて行ってくれるんです。だからこの仏様を拝みましょう」と、一様に死後成仏を宣伝した。
これはまるで極楽ニュータウンの宣伝だ。鎌倉時代はニュータウンブームになった。いろんな代理店、いや宗派が誕生した。
2.
そんなブームの最後の方に布教し始めたのが日蓮だ。
しかし後発者だからありきたりの売り物じゃ誰も相手にしてくれない。ありきたりの説法をしても、無視されるか石を投げられるのが関の山だ。
「なんかないかな?」
日蓮は考えた。
「あ、この世で成仏っていいかも知れない。みんなあの世の話ばかりだからなぁ。極楽ニュータウンじゃなくて現世エンジョイタウンだ。でもなんか決め手が欲しいなぁ」
日蓮は延暦寺であと何聞いたかな?と思い出し始めた。
「法華経は褒めればいい」
「仏は意外な所にいる」
「法華経はいろんな神仏が守っている」
「法華経を信じる者も神仏に守られる」
「法華経は男女限らず仏にする」
「釈迦は姿を隠すがその後継者が出て来て法華経を広める」
「法華経の正式名は妙法蓮華経だ」
「蓮華はハスの花のこと」
ここまで思い出して日蓮は閃いた。
「そうかこれ、絵にしてみようか」
延暦寺で見た「自我偈」を思い出したのだ。あれは「絵」だったから、説法するにも難しい言葉は要らない。これはグッドアイデアだ。
そして日蓮は絵を描き始めた。
真ん中に「法華経は素晴らしい」と書いて、その周りに思いつく限りの神仏の名前を書いた。
それは「髭曼陀羅」(ひげまんだら)といわれる文字ばかりの曼陀羅(極楽を描いた絵)だった。
そこに書かれた文字が髭のように跳ねていることからその名前が付いた。ちなみにその跳ねは光を表すという。
髭曼陀羅に書かれたさまざまな神仏はバラエティーに富んでいて、インドの仏様はもちろん日本の天照大神まで書いてある。とにかく神様仏様ならば何でもいいのだ。日蓮が考えた構図はすべての神仏が法華経を守っている様子なのだから。
日蓮はこの絵を持って表通りに行き、この世で最高のお経を見つけたといって人を集めて演説した。
「そのお経はこの絵にすべてが描かれている。真ん中に書かれた南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という言葉の南無は、インドの言葉であなたにすべてを捧げますって言っているらしいが簡単に言えば素晴らしいとかステキとか偉大だって誉め言葉だ。その下の妙法ってのは不思議なことって意味で、その下の蓮華は蓮(ハス)の花だ。レンコン知ってるだろう?あれ、泥の中にあるだろう?ハスの花って知ってる?知らなかったら教えてもらったらいい。とても綺麗な花だ。ハスの名所もあるくらいだからな。その根っこが泥の中のレンコンなんだ。そして最後の経はお経のことだ。つまり泥の中にあるレンコンから伸びて来て、地上でとても綺麗な花を咲かせるハスみたいな不思議なお経ってステキって意味だ」
とは言ったものの、それが何を意味しているのか日蓮はさっぱり分からなかった。そこで苦し紛れにこう言った。
「泥とは泥のように汚いこの世の中だ。ほら今、極楽ニュータウンがブームだろう?あんなの嘘だ。極楽は死ななきゃ行けないんだろう?死んだらどうなるかみんな知ってる?見たことある?あの世。ないだろう?そりゃ死んでないもんな。こんな汚い世の中にはもう何も期待出来ません。だから今のうちに仏様にお願いして極楽の土地を買いましょうってセールス来てないか?あれ詐欺だぞ。お金払っちゃいけないぞ。それより泥の中からハスの花咲かすんだよ、この世で。ハスの花って極楽に咲いてる花なんだ、知ってるか?ってことはこの世で極楽が出来るんだぜ?そんな不思議な力が自分にはあるって言ってんだよこのお経は」
ここまで言った日蓮の頭の中にはドーパミンが溢れ出ていた。(ドーパミン=人間の脳内に発生する快楽物質)
そして例の「自と身の絵」の話をして
「その力は人の中にあるんだよ。その力を出すにはこの絵を飾って拝んだらいいんだよ。そしたら目の前に極楽が現れるんだぜ」
なんてことまで言ってしまった。民衆の中には感激して、つまりここにもドーパミン現象が現れて
「その絵、売ってくれ」
とまで言い出す者が現れた。
たちまち日蓮はスターになり、日蓮宗が生まれた。
まぁそんなとこでしょう。
3.
さて「自分の中の力を信じてこの世に極楽を作ろう」とは言ったものの、具体的にどうすればいいのか日蓮は分らなかった。
どうしようか考えるうちに、ドーパミンが溢れ出た日蓮のファンは髭曼陀羅を日蓮のサインの如く先を争って買う。売上金はどんどん貯まって行く。その大金を前に日蓮はまだ考えている。偉そうに言った手前、自分が買いたいものは買えないなと思う。やっぱり売上金は民衆に還元しなきゃみんな納得しないだろうなと思う。しかしどう還元するんだ?引きこもって考えていても仕方ない、外へ出てみよう。日蓮は気晴らしがてら街を歩く。街の風景を見る。粗末な造りの民衆の家に混ざって、やけに派手で目立つ建物がある。それは極楽ニュータウンの代理店だった。そうかあいつらも結構儲けてこんなの作ったんだな、俺もお金貯まったから代理店建てよう。そうだよな、あんな粗末な家に住んでる民衆がない袖振って髭曼陀羅買ってくれたんだもんな。それにその中で演説したら雨にも濡れなくて済むし。
日蓮は「この世ニュータウン事務所」という代理店第1号を建て、髭曼陀羅を中央に飾って、その前で演説を始めることにした。なんか教祖様らしい風景になった。
「この世ニュータウン事務所はこの世を照らすこの建物です」
そんな看板を代理店の入り口に掲げた。
後日ここからテラスという言葉が生まれ、それがなまって「テラ」になり「寺」になった。極楽ニュータウンの代理店もいつしか寺と呼ばれるようになった。鎌倉時代はニュータウンと寺の建設ラッシュになった。
みんな気軽に「テラ行こうぜ」なんて言うものだからここから先の時代しばらく「寺」はトレンドになった、鎌倉時代の先の室町時代には様々な寺院文化が生まれた。
しかし日蓮はたちまち壁にぶつかる。寺で何演説したらいいんだ?
あー失敗したと思う。極楽ニュータウンはあの世にあるから話だけすりゃいいけど、こっちはこの世にあるなんて言ったもんだから証拠見せなきゃならない。極楽見せなきゃならないんだ。でもそんなの作れないよ。作っても安物のテーマパークみたいになるだけだ。
日蓮は寺の中で頭を抱え込んでしまった。
そんな中、寺での演説の初日を迎えてしまった。
寺の中で日蓮が悩んでいると、表で喧嘩する声が聞こえ始めた。
「なんだ?」
表を見ると何人かずつの民衆が睨み合っている。
「何騒いでるんだ?」
日蓮が聞くと民衆のひとりが言った。彼は髭曼陀羅を買った客だった。
4.
「あいつら間違ってますよ」
彼は殴られたのか顔に青タンを作っている。
「あの世なんてないですよね?」
彼は聞く。
「ないけど喧嘩はよくないよ」
日蓮はそう言うと表に出た。
「どういうことなんだ?」
日蓮が叫ぶと石が飛んで来て日蓮の頭に当たった。
「痛っ!」
生きていたら痛いもんだな、石が当たるって。
腹が立つより先にそう思った。しかしやっぱり腹が立った。
「何すんだコノヤロー!」
日蓮は近くの石どころか岩を拾っていた。
「う、いけないいけない」
こんな自分、今、修羅界にいる。
日蓮は延暦寺で人間には十の心の世界があると教えてもらったのを思い出した。
その中の修羅界は争う心だ。だからみんなが喧嘩している表は「修羅場」だ。
日蓮は振り上げた岩を離した。
岩は下に落ちて地面を叩いた。
日蓮は顔を上げた。修羅場の光景がよく見えた。
「みんなボロボロの服を着ているじゃないか」
日蓮は呟いた。そしてじっと考えた。
そういえばこの日本にはいろんな仏教がある。極楽ニュータウンもそうだが、瞑想したら仏に会えますとか、節約生活してお金を貯めて、それでお坊さんに施しをしたらいいことありますとかまぁいろんな教えが蔓延している。
しかしそれを聞くのは民衆だ。そして相変わらずボロボロの服だ。これでいいんだろうか?
民衆がささやかに稼いだお金のいくらかはこの国の権力者の所へ回っているらしい。そう街の噂で聞いた。権力者は、それらの仏教を利用して民衆を黙らせているとか、そうも聞いたな。逆らったら殺される世の中だから、この世の他に楽しみ見つけましょうって宣伝すればみんな飛びつくだろうしな。そうなりゃこの世ではみんなおとなしくなるよな、諦めで。
だから極楽ニュータウンも瞑想生活も節約生活も、権力者が助けてくれるから礼金を渡しているとか、権力者は権力者で、政治がやりやすくなるから坊主の要求を聞いているとか、そんなふうにも聞いたな。
その話、本当かどうかは知らないけど、そうだ、こっちの教えにも「売り」を作ろう。ここまでやっちゃったから売りは反権力者ってことにしようか。あんたら利用されてる、騙されちゃいけないって。これは新鮮だ。ニューウェーブだ。絶対流行るぞ。この世を諦めるな教だ、コンセプトは。
それに反権力だから売り上げは丸もらいだな…あ、いけないいけない、売り上げは民衆に還元するんだ。ちょっとでもましな服着せてやらなきゃ。
「おい!みんな聞け!喧嘩やめて聞いてくれ!聞いてから喧嘩してくれ!」
日蓮は叫んだ。
喧嘩していたみんなが止まった。
日蓮は縁側に出た。
「とにかく聞いてくれ!」
とにかく叫んだ。
「私の考えを聞いてほしいんだ」
とは言ったものの、どこから話していいか分からない。とにかく叫んだものだから。
沈黙が流れる。
みんな注目している。
みんなみすぼらしい。
そうだ。
「なぁ、極楽、見えるのか?死んで腐ってさ。なぁ、瞑想して見えた仏が服買ってくれたか?なぁ、お金あげた坊主が家直してくれたか?」
さっきの思いを言った。
「これってさぁ、自分で見て買って直すもんじゃない?」
日蓮は聞いた。
5.
ここまではよかったんだけど場所が悪かった。
隣が武士の家だった。
「朝から騒がしいな!」
隣の武士が騒ぎに我慢出来なくなって怒鳴り込んで来たのだ。
「おまえか?最近この寺建てたの」
武士は日蓮を睨みつけて言った。
「そうですけど?」
日蓮は虚勢を張った。声が裏返ってる。
「喧嘩が収まったと思ったら今度は演説か?うるさくて寝られやしない。俺夕べ夜勤だったんだぞ!」
「そりゃすみません」
「すみませんじゃない!その演説済ませろ!」
「済ませます!済ませますからもう少し言わせ下さい」
「何演説してんだ?」
「この世教ですが」
「この世教?なんだ?それ」
日蓮はこの世を良くしなければみんな幸せにならないと言い切って
「あ、しまった」
と思った。
たちまち冷や汗が出て来た。
そうだ武士は極楽ニュータウン支持者だったんだ。
「誰がそんなこと決めた⁈」
武士はにじり寄った。手が刀にかかっている。
日蓮は
「やっちゃった」
と後悔したがもう遅い。
武士は刀を鞘から抜いていた。
「あーもうおしまい。極楽行けますように」
日蓮が頭を抱えて仏様に祈ったその時
「うるさいなー!」
とまた怒鳴り声がした。
日蓮が顔を上げるとまた武士だった。
「あ」
日蓮はあっけにとられた。
それは反対隣の家の人で、武士なのに髭曼荼羅買った人だった。新築の挨拶に絵の掛軸持って行ったら、間違えて髭曼荼羅持って来てしまったのだ。ちなみに今、刀を抜いてる武士の家は留守だったのでまだ新築挨拶していない。この人夜勤だったんだ。
髭曼荼羅見た方の武士はそれがありがたい絵だと思っていた。日蓮が口から出まかせにご利益のあるありがたい絵だと言ったからだ。
「なんであんたこいつに斬られるの?」
反対隣の武士は日蓮に聞いた。
6.
日蓮を斬りそこねた武士は
「これで済むとは思うなよ」
と捨てゼリフを残して行ってしまった。日蓮は身体から力が抜けてフニャフニャになった。
こうなっちゃ仕方ない。どのみち武士なんだからこの人も真相を知ったら自分を斬るだろうと思った日蓮は、開き直って武士に今までの経緯を話した。
ついでに生まれてからこのかたの話も付録でつけた。
自分は漁師の子供だったこと。
理由は分からないがお寺に預けられたこと。
そのまま坊さんになっていたこと。
比叡山でお経を勉強したこと。
お経の中では法華経が最高だと教えられたこと。
法華経には自分の中に極楽も仏もあると書かれているとも教えられたこと。
最高のお経なら広めてみようと思ったこと。
世の中に広まっていたお経には極楽があの世にしかないと書かれているのを知ったこと。
それはおかしいと思って、まだよく分からないけど最高のお経だという法華経を世に広めるんだと決心したこと。
でも武士はそれをよく思わなかったこと。
よく思わないからこうして斬られそうになっていること。
「だからあなたも斬るでしょ?」
日蓮は武士に聞いてみた。
しかし彼は
「でもあの絵はありがたいんでしょ?」
と日蓮に聞いた。
日蓮は
「そりゃもう、何せ最高のお経のエッセンスが描かれてるんですから」
と、途端にセールスマン口調になった。
「ふーん」
彼は腕を組んで考えた。
そしてボソボソと語り始めた。
「まぁ武士からすれば極楽ニュータウン的な考えの方が人を管理しやすいのは確かだ。この世に希望がないとなると人は無気力になる。逆らう気力さえなくなるからな。ただそれを我慢さえすれば、死んだら夢のニュータウンに行けるんだ。人はそっちに気力や財力を使うわな。だから極楽ニュータウン的な所と武士は繋がるわけだ。お互いの利益のためにな。
しかし武士も上から下まであるんだ。上はそれでいいだろうが下は使われっぱなしだ。だから反対隣のあいつも夜勤ばかりでしんどい目に遭わされるんだ。オレも下っ端だからおんなじだよ。オレたち下っ端もあの民衆とおんなじでさ、極楽ニュータウン行きたくなってんだよ。だからあんたが売ってくれたあの絵な、最初は極楽ニュータウンの新種かと思ったんだがどうも違うようだな。な、この世に極楽はあるのか?」
彼は頭を上げて日蓮を見つめた。
言った手前日蓮は言っちゃった。
「あります!それがあの絵に描かれているんです」
日蓮はまた得意の演説を始めた。
「このお経はですね」
例の「自我偈」を見せて、これは自分の中にいる仏の話し声を絵にしたもんですなんて乏しい知識なりに語った。
「なるほどな、確かにこの絵、自身に何かが挟まってるな」
日蓮も武士も、それが文字なんだろうなとは分かるのだが、それがなんて書いてあるのかは分からなかった。ただ、「自」と「身」の間に、いっぱい何かが挟まっているのは分かった。
今風に言えば、ビッグマックの写真だ。
「だがあいつに睨まれたのはまずいな」
武士は言った。そして
「ひとまずばここを出るべきだ。この近くに使われなくなった寺がある。そこへ身を隠すのがいい。オレが時々、食べ物やらを届けるから。あいつにはオレが追っ払ったと言っておく」
そう忠告した。
日蓮はさっそく、その荒れ寺に移った。
しかしここから彼の受難が始まった。
7.
どんな世の中にも支配者はいる。公平がいいのは分かるが、公平ほど治まらないものはない。みんなが公平に物事を言ったりしたりしたら収拾がつかなくなる。だからどうしても支配する者が出て来てそれを束ねなければならないし、必然的にそうなってしまう。
この頃の支配者は武士で、その頂点が鎌倉幕府だった。
民衆から生きる気力を失わせて束ねるために幕府は仏教を利用したと私は日蓮宗で教えられたが、私にそう教えたのが日蓮宗ということは、それは日蓮の考えだけなのかも知れない。何せひどい目に遭ったのだからヒガミも出るだろう。
ただ日蓮は、支配者に正しい統治を教えることはしなければならないと思っていたことは事実だ。
だから人をあの世に追いやるようなやり方を批判したんだと思う。
そんな意味のことを、はずみで言う羽目になった「例の日蓮」は、紹介された寺でもつい髭曼荼羅を売ってしまったものだから、また武士に睨まれた。
こんどはそこに火を点けられた。反面、先に日蓮を助けた武士のように、日蓮を擁護する武士も存在した。そんな人らに追われるは匿われるはで日蓮はなかなかひと所に落ち着けなかった。落ち着けないなりにも日蓮は髭曼荼羅を作り売りまくった。そうした日蓮の言動に勇気づけられた人はかなりいたと思う。何せ「ウリ」がこの世の極楽なのだから。
日蓮は「作っちゃった」ウリの中身をどんなものにしようかあれこれ考えた結果、先に言った正しい統治、正しい世の中の出現にしようと思った。仏様を自分の中に持った人間だから、仏様にチャンネルが合えば必ず平和な世の中になると「十界論」を唱え始めた。
これは日蓮が比叡山で聞いた話だったが、人は10のチャンネルを持っていて、それがどこに合うかで善人にも悪人にもなるというものだった。
このあたりになると日蓮の新鮮な考え方(なんというか成り行きでそうなっちゃったのだが)に賛同する者が増えて来た。
そういう人たちを日蓮もまた束ねなければならない。もういい加減なことばかり言ってられない。
「そろそろ本気で勉強しないとなぁ」
日蓮は自作の髭曼陀羅に向かって
「どうか難しいお経が読めますように」
と、今さらながらお願いをした。
そしてすがるような思いで髭曼陀羅を見つめた。
「これは自分だ」
そう言い聞かせて真ん中の「南無妙法蓮華経」の7文字をじっと見た。
そして周りに書いた神仏の名前を見た。
「しかしなぁ、こんな紙切れの上の文字に本当にご利益があるのかなぁ?」
肝心の日蓮がこんなふうだった。
「だけどここまで来たら信じるしかないじゃない」
日蓮はもう一度、法華経はもちろん、他のお経も読み返してみた。
比叡山ではあんまり真剣じゃなかったからなぁ。しかし真剣じゃないのになんでこんなに人がついて来てしまったんだろうなぁ。こういうのを使命っていうのかなぁ。でもいっぱいいじめられたしなぁ、鎌倉幕府に。なんなんだよこれ。
…などなどぶつぶつ言いながらお経を読みあさった。
8.
しかしお経と一言に言っても沢山ある。
それらは釈迦の生きている間や亡くなる少し前、亡くなった後とまちまちの時期に書かれているから内容もまちまちで、どれが本当か分からない。何より自分が広めるはめになった法華経は、褒め言葉ばかりで何が言いたいのかさっぱり分からない。
ただ、複数のお経と、法華経本体に「法華経を保つ者と法華経を侮る者には災難が降りかかる」と記されていることは分かった。日蓮はこれがどうも気になった。
侮る者への災難は分かる。でも守る者にまで災難が降りかかるってどういうことだ?
さっそく比叡山の延暦寺に聞いてみた。
「それは法華経が最高で唯一正しいお経だから、魔はそれを嫌い、法華経を保つ者に害を加えて彼らに法華経を放棄させようとするんだ。だが法華経を保つ者は必ず神仏に助けられると、その法華経にちゃんと書いてあるんだ。魔が邪魔をするということは、言い換えれそれだけ信仰が本物だと、魔が恐れているとも言えるな。神仏は魔に負けず法華経を保った者に、多大な功徳をもたらすようだ」
と、答えが返って来た。どうも日蓮、そこを飛ばしていたようだ。
「そういや、褒め言葉ばかりだからウンザリしてたしなぁ。その辺、いい加減に読んでたかもなぁ」
ということは今、自分が嫌な目に遭ってるのもそれかな?と思うと、ということは自分は法華経に認められてるのかな?とまた思い、日蓮はなんとなく嬉しくなった。
では侮る者への災いとはなんだろう?
日蓮はまた延暦寺に聞いた。
「まず飢饉、それから戦乱、そして疫病があるな。これを三災という。またこれとは別に七難と言って、やはり疫病、それから他国の侵略、国内の反乱、星々の異常、日蝕や月蝕、大風に大雨、逆に干ばつがある」
ということは戦乱に明け暮れる今の世の中そのものだと日蓮は思った。
たしかにここのところ気候が荒れ、飢饉や疫病も起こっている。なるほどこんなバチが当たるんだと感心していた日蓮は、ふと「他国の侵略?」と、まだ起こっていない災難のことに気を止めた。
今度は外国が攻めて来るのか?
日本は大丈夫なの?
「あの、やはり法華経じゃないとダメなんですかね?日本の仏教って」
日蓮は守ろうが侮ろうがが災難がやって来る法華経を自分が選んでしまったことが、だんだん怖くなってきた。今度は世界大戦だ。
「まぁよく分からんが、あんたは法華経を広めてしまったし、あんたについて来る人も増えたしなぁ。責任上、法華経しかないんじゃない?」
「はぁ」
あー、どうしよう。日蓮の頭の中にはもう、外国の船団が現れていた。
9.
「日本は島国だから絶対船で来るぞ。しかし一体どの国なんだ?」
日蓮が幻の船団を頭に描いている頃の世界では、モンゴル帝国が猛威を振るっていた。
かの源義経が実は死んでなくて、海を渡ってアジア大陸に行き、チンギス・ハーンになったという伝説があるが、そのチンギス・ハーンが起こした国がモンゴル帝国だ。その勢力はヨーロッパまで伸びていた。
そのうち、中国を制覇した勢力は「元」と名乗り、中国の歴代王朝に名を連ねていた。
元を起こしたのがフビライ・ハーンで、彼は東にチョコンとある日本を征服しようと考えていた。
そこまでは知らない日蓮だが、とにかく法華経を侮る者がいる限りは日本はいつか外国に攻められると危機感を募らせた。
しかし日本という国、小さい島なのに内輪揉めが絶えない国だ。
それはむしろこの後に激しくなり戦国時代になるが、ひとつの国で内輪揉めしてる場合じゃないだろうという事態は、このはるか先、幕末にもあった。
黒船来航だ。
なんだかしっかりした歴史の話になってきたが、こう度々外国の脅威に晒されても不思議と日本は日本のままだ。
この現象は、これから日蓮が辿る道と少なからず関係していると思うがそれは追々話すとして、ともかくこの時の日蓮は「こりゃ法華経、一気に広めないとまずいな」と、とにかく「怖かった」のだ。
そこで革新的、斬新的、これって論文?という、現代でもまだ斬新って思えるスタイルの論文を書き、鎌倉幕府に提出した。
論文のくせに戯曲。2人の人間の対話形式で書かれたのが「立正安国論」だ。その中身はまるで舞台演劇の世界だ。
これを書いてる私自身、こんな論文を書く日蓮が大好きだ。論文の内容ではなく、シナリオを論文というその前衛的というか先取性というかアートというか、日蓮のそんな芸術性が大好きなのだ。
10.
しかしこの時代に、よくこの戯曲に論って名前付けたなぁ。
日蓮ってアートセンスあるよなぁっていつまでも個人的に悦に入っている場合じゃない。
その斬新な論文の構成を大まかに言うと…
ある人の所へ客が来た。
客はこの国の悲惨なありさまを嘆いた。
それを聞いてある人は、それはこの国の宗教が間違っているからだと言う。
では何が正しい宗教なのだと客が聞くと、その人はそれは法華経だと答えた。
その後、二人は論議を戦わせるが、結局客はある人の理路整然とした語りに納得する。
ざっくり言うとこんな感じだが、この会話の中である人は法華経を軽んじた場合、内乱が起き外国の侵略を受けると語る。
日蓮が恐れたことがここに書かれているわけだ。
日蓮はこの新しい形の論文を持って幕府に乗り込んだ。
しかし相手にはされなかった。それどころか日蓮がそんな大胆なことをしたものだから、極楽ニュータウンはじめ幕府、つまり武士と利益関係にあった勢力が怒って、とうとう日蓮の殺害まで考え始めた。一旦島流しにしたりしたが、ここまで来たら日蓮も引くに引けなかった。
島から帰って来ては危機を訴える街頭演説を続けた。
ついに幕府は日蓮を追い詰める。
日蓮は命を狙われ、それに巻き込まれて日蓮宗について来た者が命を落とした。しかし彼らは死ぬことを喜んだという。俗に「殉教」と言われるやつだ。
これがあるから宗教は怖い。神仏のためになら命も惜しくないっておかしくないか?
そこでここでの日蓮はこう言ったとして話を進める。
「違う違う。たしかに法華経には不自惜身命…仏のためには命も惜しまないとは書いてるけど、命を捨てろじゃないんだよ」
後年、第二次世界大戦に招集された法華経信者が、戦争に行けば人殺しになって教えに背く。でも拒めば国を守らないことになる。どうしたらいいんだ?と悩んだ時、その人の恩師が「戦争に行って、銃を下向けに撃てばいいんだ」と教えたというけど、多分日蓮も見せかけは日蓮宗を捨てますと言って、心の中でだけ拝めばいいんだと思ったことだろう…と信じたい。
そんな周りの人の助けで命だけは繋げた日蓮だが、災難は次から次へと起こる。
まず内乱が起きた。幕府の中で揉めごとが続発したのだ。そしてとうとう、あのモンゴル帝国が攻めて来た。
「立正安国論」で書いたことが本当になってしまったのだ。
11.
今ではこれを「日蓮の予言」というが、これは延暦寺のお経に書かれていたことで、そのお経もインドから中国を渡る中で多分姿を微妙に変えていただろう。
それに結局モンゴル帝国、直接はその中の元王朝が2回攻めて来たが、どちらも暴風雨や疫病の蔓延で失敗している。
ここでふと、法華経を軽んじて当たる罰が複合してるじゃないかと、これを書きながら私は思った。
暴風雨も疫病も罰ならば、元が攻めて来たことも罰じゃないか。
ってことは罰が罰を無くしたのか?
って矛盾が生まれてくる。
内乱が起こったり外国が攻めて来たり、日蓮の予言の片方の罰が当たったことは
伝えられているが、暴風雨や疫病については、これは攻めて来た方に当たった罰だ、神風という暴風雨が吹いて日本は守られたのだと伝えている。神風だから守ったのは神様なんだろうか?
まぁそうかも知れないけど、ここで浮かぶのは「法華経の罰はそれも功徳だ」と、どこかで私が聞いた話だ。結局、最後は助かるということだ。
日蓮は
「今のところ日本の20パーセントくらいが法華経信じてるから、80パーセントくらいの罰と、20パーセントくらいのご利益があったんだろうな」
と、思ったかも知れない。
とにかく予言しちゃって当てちゃったわけだ。
とんでもないことを当ててしまった日蓮はたちまち株を上げてしまったが、これはますます幕府と極楽ニュータウンに危機感を抱かすことになってしまった。
そしてついに、なんだかんだ難クセをつけられた挙句、日蓮は捕らえられ処刑されることになった。
この時の話が有名な「龍ノ口の法難」というやつだが、この話、本当なら私が追っている宗教が宗教宗教したところ、つまり超常現象に超能力の証明になるんだけど、残念ながら当時写真機もビデオカメラもなかったから証明出来ない。せいぜい、運がよかったとか偶然が重なったとしか、科学万能の今に対しては言えない。
これはいよいよ首を切り落とされる段になって突然空から閃光が差して、刀を持った武士の目がくらんだとか刀に雷が落ちたとか言われるものだ。
幕府はこのことに恐れおののいて、処刑を中止し、代わりに日蓮をまた島流しにしたということだけど、事実はどうだったんだろう?
ま、なんだかんだで幕府にとって危険分子の日蓮がこうも運よく生きながらえたのは、日蓮の影響力を恐れた幕府が、下手に殺してはまずい、反乱が起こりかねないと思って、なんとか懐柔しようとしたのだと言う学説の方が現実的だろう。
私的には雷が落ちていてほしいんだけど。
12.
龍ノ口の法難にしろ、海が割れて道が出来たとかいう外国の話にしろ、本当に目の前で起こってくれたら宗教も信じやすいんだけどなぁ。「宗教宗教」してて。
あ、私の口癖が出た。説明しましょう。
「宗教宗教」とは、その宗教を信じていれば目の前で不思議なことが起こるということだ。
またそれに相対するものを私は「宗教経営」と呼んでいるが、「宗教経営」とは不思議なことをでっち上げてそれを金儲けにすることだけど、何せ今は宗祖も教祖も姿が見えない法華経やキリスト教は、その2つの間を行ったり来たりしているような気がする。
そんな問題があるから、何を私は信仰しているのか、その対象が宗教なのか経営なのか曖昧なので困っている。
また日蓮に聞いてみよう。
「しかしまぁ、いろんなことあったわ。首斬られそうになったり、あちこちの島に流されたり」
街を歩きながら日蓮は呟いていた。
「ま、でも、やっぱり人間なんだよな。人間が人間をなんとかしなきゃなんないんだよな」
と、もの思いに耽りすぎて日蓮は足許の石に気づかず躓いて転んでしまった。
「大丈夫ですか?」
誰かが声をかけて起き上がらせてくれた。
立ち上がって顔を見ると、普通のおばさんだった。
「お坊さんですか?」
「ええ一応、日蓮っていいます」
「あーぁ、あの、この世がすべてとかいう日蓮さん?」
「知ってます?」
「ええ、有名ですもん」
おばさんは日蓮の服に着いた泥を払ってくれた。
「あぁ、いやどうも、恐縮です」
日蓮がお礼を言うとおばさんは
「お互い様ですよ」
とニコニコ笑った。
そのままおばさんは立ち去ろうとしたが日蓮はちょっと気になって
「坊主だから聞くんですが何か信仰をお持ちですか?」
と聞くとおばさんは
「日蓮さんには悪いけど私は宗教が嫌いなんです」
と、笑顔のまま言った。
「いや、つまらんこと聞きましたね」
日蓮はそのままおばさんと別れたが、信仰がなくても仏様みたいな人はいる。法華経は法華経を保つ者を守るというけど、こういう人たちはどう扱うんだろう?と新たな疑問に襲われた。
「人間の中に仏がいるってこのことじゃないの?」
「だとしたら法華経の言うこと当たってるじゃない」
「ってことは当たり前のこと言ってるだけじゃない」
日蓮は今まで酷い目に遭ってでも叫んでいたことが、こんな簡単にその辺に転がっていたことに力が抜けた。
「俺、何やってたの?」
落胆はどんどん深くなって行く。
しかしそれじゃ自分が浮かばれない。日蓮はかわいそうな自分のために考えた。そして
「だから…だからその先なんだよ」
と、なんだか閃いたように呟いた。
「何やってたのじゃなくて、この先何するかだ。そこに法華経が言いたいことがあるんじゃない?」
とポカンと言った。
日蓮は宿に泊まった。そこであれこれメモを書いた。
「人間は本来優しいものだ」
「優しさとは他人を思いやる気持ちだ」
「優しさが発揮された時、人は喜びの世界にいる」
「それが成仏だ」
「みんなが優しくなればみんな成仏するし、争いなんて起こるはずがない」
「この簡単な仕組みからなぜ人は目を逸らすのか?」
ここで鎌倉時代からまた現代に飛ぶ。
私は日蓮宗の信仰の中で、人は他人のために働く時がいちばん元気になると教えられた。日蓮が道で転んだかどうかは分からないが、この時日蓮が考えたことは本当で、今に確かに伝わっているということに間違いはない。
他の宗教でも「奉仕」とか「救済」とかいう言葉や活動があるし、無宗教でもボランティアで他人に尽くす人がいる。仏教でも菩薩界とは人に尽くす境涯だと言っている。そう、菩薩こそ仏のことではないか。
こう書くと、日蓮の思いとは宗教というより哲学や道徳だと思えるが、これで済まないのが宗教の宗教たるところだ。
これはあくまで伝説だが、日蓮は祈祷合戦で勝ったというのだ。
13.
あの街であったおばさん。
実は街に水を買いに来ていた。
このところ日照り続きで、湧き水に人が殺到するものだから、水が枯れることを防ぐために販売制になったそうだ。
そこで雨乞いをすることになったのだが、その一人に日蓮が選ばれた。
何人もの祈祷僧が脱落する中、日蓮の祈祷が雨を呼んだ。
「日蓮にはとんでもない力がある」
世間では大評判だったが当の日蓮は…
「雨男なんですよね」
と思っているだけだった。
あの元の襲来に吹いた暴風雨も、龍ノ口で落ちた雷も、たまたま日蓮が雨男だったから起こったことだった。
…と、日蓮の奇跡を全部否定したとする。
ここで日蓮に残るのは…
人の心の中は優しい心、つまり菩薩心がある。
ということはもともと人は仏なのだ。
しかし人には欲望があって、なかなか優しくなれない。
そして欲望のために争いを起こす。
欲望は宗教を利用することもある。
そのために自分は何をすべきか。
といった宿で書いたメモだけだ。
「自分は何をすべきか」
結局日蓮は、明確な答えを残さずにこの世を去ってしまったが、この話、これから仮想現在に飛ぶ。
14.
…日蓮に子孫はいないと思われるが、日蓮の生まれ変わりはどこかにいるだろう。そしてその人物は、ある日ある所で変なメモ書きを発見した。
発見したのは女性で「未知 蓮」(みち れん)という。
彼女は何百年も続く老舗旅館の子だが、たまたま旅館の大掃除をしていたら屋根裏で細い和紙に書かれたメモ書きらしきものを見つけた。
彼女は大学生で、国際宗教学部にいた。
卒論のテーマに悩んでいた時、このメモ書きを見つけたのだ。
何やら筆で、ミミズが這ったみたいな文字が書いてあるが、さっぱり読めない。
そこで同じ大学で古文書を研究している文学部の教授に読んでもらうことにした。ゼミの教授だから気安く頼める。
案の定教授は気楽に受けてくれたがメモ書きを読むうち
「これ、本物なら大発見だ」
と叫びを上げた。
「あの日蓮が雨男だったなんて」
「大発見って、何が大発見なんですか?」
蓮は驚いたまま固まっている教授に聞いた。教授はハッと我に帰り、一息ついてから話し出した。
「いや、ここに書いてあるのは日蓮の覚え書き、つまりメモなんだけどこの日蓮、ほとんど法華経を知らずに当てずっぽうで広めてしまったと書いてる。私らが聞く日蓮は比叡山で、ありとあらゆるお経を研究し、その中で法華経こそが最高の経典だと確信して広めたんだ。それがほとんど知りませんでしたなんて」
「それが雨男とどう関係するんですか?」
「当時の世の中は浄土宗が主流だったんだ。死んだら仏の待つ極楽浄土に行けるって考えだね。それと対極にあったのが日蓮の考えだったんだ。極楽浄土はこの世にあり、仏は人の中にあるという」
「確かに真反対ですけど、それと雨男の関係は?」
「まぁ落ち着いて聞きたまえ。そのうち出て来るから。
当時の権力者は鎌倉幕府の執権である北条氏だったんだが、民衆を束ねる上では他力本願で厭世的な浄土宗と結ぶのが効果的だったんだ。しかし日蓮の考えは自力本願で世の中に執着してる。これを信じられたら民衆の自立が進んでともすれば反抗的になってしまう。これを嫌がった幕府は日蓮を弾圧した。時に住居を焼き、時に追放し、時に島流しにした。しかし日蓮は懲りなかった。それどころか法華経を信じないと様々な災厄に遭うとまで言ったんだ」
「雨男は?」
「もう少しだ。もう少しで雨男の段になるから。
そして災厄の具体的な話をまとめて論文にし、幕府に提出した。
さすがに幕府は怒り日蓮を処刑しようとした。しかし天から閃光が飛んで来て処刑は中止になった。ま、メモでは急に曇って雷雨になっただけなんだけどって書いてある。
日蓮の論文は的中し、蒙古襲来という、他国、この時は中国の侵略を2度も受けたが、2度とも暴風雨が吹いて失敗した。
メモではこれも雨男だからかなぁと書いてある。
さらには干ばつが続いた時に幕府は日蓮と浄土宗の僧を雨乞い祈祷で対決させたが、日蓮が見事に勝ってしまった。
メモでは雨男だから当たり前でしょ?
と書いてある。
これらのことは日蓮の奇跡として伝えられているが、当の本人がそれを否定してるんだ。だから大発見なんだよ」
「日蓮の奇跡については、私みんな知ってますよ」
「なんだ、もっと早くに言ってくれよ。興奮して話したから疲れたよ。でも、有名な話だからな、特に宗教専攻の君なら当たり前に知ってるわな?」
「それだけにメモには驚きました」
「いや、まだ全部読んでないけど、この調子だとこの日蓮は、自分の実績を全部否定するぞ」
「でもなんで否定するんでしょう?」
15.
「それは伝説を消すことで、世に法華経と言われるものの真の姿を伝えようとしたんじゃないかな?」
教授は言った。
「しかしだ、やはり先に筆跡鑑定だ」
教授はこの日蓮が、日蓮を騙った偽者だったら無意味な覚え書きになると、少し冷めた口調で言った。
たしかに日蓮とは言ってもメモの主が真の日蓮かどうかは分からない。今のところメモの末尾にあるサインが「日蓮記す」となっている事実だけでの判断だから。
メモは今に伝わる日蓮の書の文字と比較鑑定されることになった。
筆跡鑑定の結果は微妙だった。一致する箇所もあればしない箇所もあるという。
それもひとつのメモの中で混在するというのだ。まるでふたりの人間が交互に筆を走らせたようだというのだ。
結果を聞いて、教授は困惑した。しかし蓮は
「むしろ面白いと思います。だって、参考にされた筆跡が嘘かも知れないってことになるんじゃないですか?新しい筆跡が出て来たってことは」
と、かえって興味を深めた。
「しかも混在してるとはな。まるで半日蓮だ」
教授のそのセリフに蓮は目を輝かせた。
「教授、それもらいました!」
「え?」
「半日蓮、いいです」
「ん?」
「だって今の世の中、同じ日蓮宗でも枝分かれして反目さえしてるんです。半分どころか何分の一日蓮なんです。教授、このメモの状況って、もしかしたらこんな現在を予見してたんじゃないですか?」
「誰が?」
「日蓮を名乗る誰かです」
「え?それじゃ、このメモの日蓮は偽者なのかい?君の解釈は」
「偽者というより、大物です」
「どういうことだ?」
「もう一度メモを読みましょう」
ふたりはメモを見直した。やはりハチャメチャなメモだ。
自分はなんで僧侶になったのか分からない。とか、なんで法華経を広める羽目になったんだろう?とか、って法華経って何?とか、自分はただの雨男だ。とか、挙句は無宗教者にこそ仏あり。とか。
「このどこが大物なんだ?」
教授が首をひねる。
「私はこれは誰かが日蓮に書かせた気がするんです、なんとなく。あ、半日蓮ですかね?その半日蓮に」
蓮は指で額を押さえた。
「その誰かが大物ってことか?」
教授は聞いた。
「ええ、そうなんですが」
蓮の指は額から離れない。
「んー、まずは私、法華経をなぞってみます。すべてはそこからです」
蓮はようやく指を離した。
16.序品第一(じょほん)
「法華経28品かぁ」
蓮は呟いた。
この28章からなる話の何が最高なのだろうか?
とにかくおさらいしないと始まらない。
蓮は何冊もの法華経について著した本を抱えて研究室に入った。
ざっと目を通してみたがみんな表現が違う。もうここで法華経が見えなくなってしまいそうだった。
ともかく一番主観が入ってなさそうなものをひとつ選び出して読み始めた。
「序品第一」
品と書いて「ホン」と読む。
品とは章のこと。だから「ジョホンダイイチ」はつまり「第一章序章」の意味だ。
序品は霊鷲山(りょうじゅせん)という山が舞台になっていて、既にそこには釈迦の弟子や如来や菩薩、神や僧侶など12,000名あまりが集まって、これから始まることを待っている。
それは釈迦が何かの説法をすることらしいということだった。
釈迦は瞑想していた。
そのうち群衆の頭上からは曼殊沙華などの天の花が降り注いだ。そして地面が上下四方に鳴動した。
「おお、これは良いことが起こる前触れだ」
群衆は歓喜した。
すると釈迦の眉間から放たれた光が天地を照らした。
蓮は俗っぽく連想した。これって特撮ものに出て来た「なんとかマン」の世界じゃない?
これはお経なのだが、まるで演劇の幕開けだ。
まずその劇場性に、宗教について回る大仰さを感じる。悪く言えばうさん臭さ、良く言えば荘厳さだろうか。
これを見た群衆の中のひとりが、この風景は自分が前世に見た、釈迦が法華経を説いた場面に似てると言った。
蓮はまた俗っぽく連想した。それってあの有名なRPGの○○3部作みたいじゃない?要するにエンドレスな話。これって法華経の中でしょ?なのに法華経の中にもう法華経がある。どういうこと?
ふとここで蓮は例の「半日蓮」のメモのひとつを見た。
「あのおばさんの中にいた仏、あれが全て。無宗教な人こそ法華経。日蓮記す」
このメモだってそうだ。宗教が無宗教の中にあるって。まるでエンドレス。
宇宙の果てを探す話みたい。
これらが意味することはここから先、長く続く法華経のどこかにあるのだろうか?
蓮はまるで自分もプログラムを持ち、これから始まる何かを待つ群衆のひとりになったような気がした。
不思議と期待感と安心感が湧いた。なんだろう?これ。
序品はこう続く。
群衆の中から声がする。
「これこそ白い蓮の如き真実の法、妙法蓮華経が説かれる前兆です。みな合掌して待つのです」
群衆は合掌する。
思わず蓮も、心の中で手を合わせた。
17.方便品第二(ほうべんぼん)
「法華経って、話も複雑だし解釈も複雑だけど、それ以上に出て来る名前が多過ぎるわ」
蓮は法華経の筋に立ちはだかるように出て来る如来や菩薩、神に僧侶なんかの名前の多さにうんざりしていた。さらにその名の主は、急に知ったかぶりの話をするのだ。「これはかつてどうのこうのだった」とか「私が前世でどうのこうの」とか「これは誰々がどうしたものだ」とか、何の前触れもなしに話し出すものだからその関連性がさっぱり分からなかった。
名前があればその数だけ人生がある。人生が重なれば因縁が生まれる。それが何千何万もあればもう蜘蛛の巣を超えて綿ボコリだ。
それらをひとつひとつほどいて行ったら自分が何人いてもきりがない。
だから細かい因縁話はこの際無視しよう。
それに何より、法華経自体人から人へ渡って、そのうちにいろんな見解が入っているのだ。渡って来た国の民族性の違いだってある。この際はその中で装飾抜きで、そして矛盾抜きで流れている部分だけを繋げてみよう。
蓮はそう割り切って第二章に進んだ。
この第二章でもよく分からないことが前触れもなく出て来る。それは「二乗成仏」
とかいうもので、しかもこの、なんで出て来るのかわからない二乗成仏が、法華経を最高の経文とする根拠になっていると、蓮は宗教学の講義で聞いたことがあった。
なんでなの?なんでいきなり出て来ていきなり重要なのよ。中身の説明がどこにもないじゃない、第一章といい第二章といい。
蓮はこの気持ち、どっかで味わったなと思い、なんだったかなと頭を捻った。
「あ!そうだ」
これってパソコンやスマホのヘルプ機能と同じだ。
パソコンいじってて壁にぶつかってヘルプを読んでも、わけの分からない専門用語で説明するものだから「だからその言葉の意味が分かんないのよ!」とイライラするあの感覚だ。
「それはね?このモデムがああでブラウザがそのデバイスだからつまりルーターでどうのこうのだからなんでドメインがあれだからつまりそのモデムがなんなのかまず聞きたいのよ!」
まさにそれだ。
いきなり二乗成仏って言われてもそれが何で、なんで二乗成仏が大きな意味を持つのかの前触れがないのだ。
先の序品でのやたら複雑な名前といい、この二乗成仏といい、いったいなんのためになんの前触れもなく出て来るんだろう?
「ちょっと待って私」
もう二章に入る段階でこの壁。
私の知る日蓮も、メモ書いた半日連も、
この壁は味わったはず。
「うーん」
蓮はそれって、その中身じゃなくてもしかしてその「顔とかリズム」に意味があるんじゃない?と思った。
そういえば例の半日連が「法華経って何?」「法華経ってさっぱり分からない」
とメモに書いていた。
「そうだ、まずは序品に出て来た名前を書き出してみよう」
蓮は第一章を「絵画化」してみることにした。
そして第二章は…
「音楽化だわ」
蓮は宗教学を学んでいるがそれは宗教学全般であって、特定の宗教を掘り下げるものではない。
しかし今蓮は、それが宗教というものの本質じゃないかと思い始めている。
例の半日蓮の「法華経がなんだか分からない」がそのヒントだった。
今の世の中、宗教の違いで戦争をしているのが現実だ。
それは、それぞれがそれぞれを掘り下げ過ぎて、それぞれのどうにもならない沼に落ちてるからじゃないかと蓮はかねがね思っていた。
そんな所にこの奇妙なメモの発見があった。
蓮は法華経の「絵」の部分、第一章の序品に出て来る群衆の名前を列記してみた。これは様々な文献に出て来たもののいくつかを無差別に上げたものだ。
まずそれらを縦に書いてみた。
観音菩薩
舎利弗
帝釈天
弥勒菩薩
難陀
文殊菩薩
目連
阿那律
摩訶迦葉
耶輸陀羅
阿若憍陳如
摩訶波闍波提
梵天王
龍王
阿闍世王
名月天子
大迦葉
阿難
迦旃延
須菩提
いきなりこれらが出て来て好き放題喋るのが「序品」だ。なんのことかさっぱり分からない。真面目に読めば読むほどに分からない。
今度はこれを横に並べてみた。蓮はすっかり遊んでいた。しかし遊びながら、これは遊びではないと思っていた。
観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提
これだけを見て普通、人はどう思うだろう?
はっきり言って「見てられない」だろう。見てられないし読めないのだ。
蓮は序品にはもっとたくさんの名前が出て来ると思ったが、実際はこの程度で、あとは「その他多数」で片付けられていた。その辺、なんだかいい加減だなと思ったが、それでいいのだ。数が多いことさえ伝えれば、その関連性などどうでもいいのだ。それを視覚化、つまり絵画化してみよう。蓮は思い付く名前をパソコンでコピペした。これだけは書いてられないから。
観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀
観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀
「うわー」
…こんな感じで見るのも嫌になるほど大勢の人がいたのだろう。
簡単に言えば「序品」はこれですべてなのだ。見るのが嫌になる絵でいいのだ。
これだけの者が注目するもの、それが法華経なのだということなのだ。
そんなふうに、日本人である日蓮も半日連も思ったんじゃないだろうか?
蓮はそう仮定した。
そして今度は音楽だ。
「二乗成仏」
意味はちゃんとある。
声聞といわれる人たちと、縁覚といわれる人たち。
この2つを二乗と言い、これらも成仏出来ますということだ。
「にじょうじょうぶつ」
しかしいきなり言われても、それがなんなんだになるし、それがとても大きいと言われても、それがなんなんだがなんで大きいんだって「何」ばかりが増えて行く。
この「何何何何?」のコーラスが方便品だ。
この章で釈迦は結局「人間に仏は分からん」と突き放している。
「なんでなんでなんでなんで?」と群衆は食い下がる。
釈迦がメインボーカルなら群衆はバックコーラスだ。
二乗とは声聞と縁覚、つまり僧侶のことで、彼らは自分だけの悟りのために修行している。そして悟りを開き、仏になって超能力を得たのだが、そんなの偽物だと釈迦は言う。
「仏のことは仏にしか分からんのだ」
要するにあんたらは仏じゃないと言ってるようなものだ。
でも自分らは釈迦の言う通りの修行をしたんだぞと二乗は言う。
「それは方便だったんだ。あんたらに合わせたんだよ」
と釈迦が言ったから方便の章、つまり方便品なんだけどそれって何?なんで合わせるの?何も分からんあんたらに?
しまいに二乗の大半は怒って釈迦のもとを離れたらしいが釈迦は追わずに、その場に残った者に「では本当のことを教えよう」と言ったらしいがこの流れ何?
やっぱり「何何何何!」のコーラスになってしまうこの章って何?
蓮もブツブツ「何何何何?」と呟いていた。
しかしここで釈迦はスパッとタクトを振る。今度は指揮者だ。
一瞬の静寂。
これがこの章のツボだ。
まさに音楽。
方便品は音に身を委ねて感じる章だ。
静かになって釈迦は言う。
「実は悟らなくても仏は人の中にもうあるんだ」
とは書いてはいないがたぶんそうだったんじゃないか。
蓮はそう思う。
なぜなら仏教は「小乗仏教」と「大乗仏教」の2種類あって、法華経は大乗仏教だからだ。
小乗仏教は特別な修行をした者だけが仏の境地、つまり悟りを得るという考えだが、大乗仏教は誰もが仏になれる、いや、もう仏を持っているという考えだ。だからここで釈迦は小乗仏教を否定しているのだ。
言い換えれば怒って帰ったあの二乗だって、気は付いていないだろうがもう仏を持っているのだ。
「あら?これって」
なぜか蓮は半日蓮のメモを思い出した。無宗教者にこそ仏がどうのって言ってメモだ。
なんか関係ありそうな。
そしてなんで法華経が最高かというと、他の大乗仏教の経典では、あのいじけた二乗をどうも猛攻撃しているらしいのだが、法華経ではそんなことをせず、あの人らも仲間って受け入れているかららしいのだ。現代風に言えば宗教の融合だ。
よく昭和以前の頑固おやじが息子か娘を怒って怒鳴った後、自分が黙って泣いてしまうというドラマの場面があるが、方便品もそんな流れ、つまり
喧嘩 → 恫喝 → 静寂
といった喧騒と静寂のリズムでそんな背景があることを語っているんじゃないか。
「おまえらには何も分からん…」
と、頑固おやじが呟くように。
そう蓮は方便品を仮定した。
って、そういう釈迦も実は人間なのにいつの間にか仏様にされてしまった。
そして小乗仏教も大乗仏教もみんな自分を目指す。なんだこりゃ。
この辺、何が本当で何が嘘か分からなくなるのが仏教であり宗教で、それをしているのは伝導した人間なのだ。
もうこうなると何がなんだかさっぱり分からない。半日蓮の心境だ。「法華経って何?」だ。
結局こんな宗教騒動のもとは人間にあって、またそんな人間の中にある神や仏をどうやって表に出すかが「法華経と言われるもの」が言いたいことなんじゃないだろうか?
「そう、法華経じゃないのよ。【法華経って言われるもの】なのよ、法華経は」
蓮は顔を上げた。そして悟ったように呟いた。
「自分のためにするか他人のためにするか…これだわ」
18.譬喩品第三(ひゆほん)
第一章を絵で読んで、第二章を音で読んだ蓮は、さて第三章は何で読むべきかなと思ってこの章に関する文献を見てみた。そして
「これは普通に読んだらいいわ。例え話だから」
と、文字通り文字で読むことにした。
その例え話は、火事になった自宅から3人の子供を助け出す長者の話で、長者はまず、燃える自宅に向かって大声で「ここに3種類の車があるから好きなのに乗りな!乗ったらもっといい車をやるぞ!」と叫ぶ。すると中から3人の子供がその言葉につられて出て来たので、子供たちは助かったというなんてことない話なのだが、この話、まず長者が釈迦の例えで、3人の子供たちは「声聞」「縁覚」「菩薩」の例え、そしてもっといい車というのが法華経の例えだということだ。
これはつまり、法華経の宣伝文句だ。
と、ここで蓮は思考を変える。
これは二重構造の例え話じゃないだろうか?
先の章で、法華経とは「法華経と言われているもの」と考えた蓮の頭には、この例えの章は「どんな者も救う例え話で語られる法華経という例え話で語られる何か」に見えて来るのだ。それは釈迦に法華経を語らせ、それをいくつかの民族を介して日本という国に伝えさせ、日本人である日蓮に精製させた者が描いた大きな話の姿だ。
蓮は教授に、例の半日連のメモは大物が書かせたと言ったが、その大物は法華経という、大陸を股にかけた壮大な例え話を以て、人間の真実を今も伝えているのではないだろうか。
蓮の目はすっかり宙を見ていた。
「法華経と言われているものは、中身じゃなくて経過、文字じゃなくて轍を読むのよ」
蓮はその轍を付ける車輪が、今も回っている気がした。
息を抜こうと自販機コーナーへ行くと、備え付けのテレビが戦争のニュースを流している。蓮はそこに映る戦車の轍が、決して偶然に目に入ったとは思えなかった。
コーヒーを買い研究室に戻り、一息つく代わりに
「法華経は読み方よ。中身じゃなくて表面を読むのよ」
と呟いた。
ふと、開いていた参考文献のページのひとつに、日蓮の描いた「髭曼荼羅」の写真があった。
髭曼荼羅はすべてが文字で書かれた曼荼羅だ。その跳ねたような字体が、伸びた髭のように見えるからそう呼ばれるらしいが、文字の曼荼羅だから神仏の肖像はそこにない。みんな名前だけだ。
そして奇妙なのは、その中心には釈迦の名前ではなく「妙法蓮華経」と法華経の正式名が書かれ、その上に帰依します、つまり身を捧げますの意味の「南無」が乗った
「南無妙法蓮華経」
の7文字が書かれていることだ。
だからこれは特定の神仏ではなく、法華経を信じる不特定の者だということになる。
これを蓮はさっきの言葉に置き換えてみた。
「私は様々な例え話で構成された法華経と言われる何かの例えを信じます」
これが中心にあるということはこれが本尊なのだ。
つまり本尊は不特定の者、言い換えれば「法華経と言われるもの」を信じる誰もがなれるものなのだ。
「仮定が少し進んだかな?」
蓮はやっとコーヒーを口にした。
19.信解品第四(しんげほん)
コーヒーを飲みながら蓮は頭を整理した。
「まず二乗ね。これは自分だけを救う考え。大乗仏教はこれを否定している。あぁたしか、小乗は小さな船、大乗は大きな船だって聞いたことがある。あ!そうか、この乗るって文字、1人乗りか大勢乗りかのことかも!」
「たしかその船は、あのノアの方舟みたいな状況で出て来たんじゃなかったっけ?」
「そして大乗仏教は自分のことしか考えないことを許さないのね。だから二乗を爪弾きにするのかも」
「それに対して法華経は、この二乗も助けますって言ってるんだわ。この意味が大きいってどういうこと?」
「そして譬喩品ではこれに菩薩まで加わってる。だからみんな助けますなんだわ」
「でもみんなってことは、無宗教の人もでしょ?」
「そこに南無妙法蓮華経の本尊の存在」
「自分本位になるな。法華経を信じろ。
みんな助ける。仏はもう体内にある」
「これらの繋がりって何?」
あれこれ考えるうちに一瞬ウトウトした。
お坊さんが転んだ。
おばさんが手を差し伸べる。
お坊さんがお礼を言っている…
そんな場面が見えた。
「何?今の」
蓮は目をこすった。
「いけない、いけない。次よ次」
蓮は次の章のタイトルを見た。
「信解品」
「しんげほん」と読むらしい。
…信じたら解けるかぁ。
解けたらいいけどなぁ、この材料たちの繋がり。
とにかく読んでみよう。
と、これもまた例え話だ。
例え話に入る前に例の二乗の反省から始まっている。
彼らは自分らは奢っていましたと言っている。
今までは自分さえ救われればいいと思っていましたが、それは大間違いで、救われるのはみんなであるべきでしたとすっかり素直に反省している。
なんでこうなってる?
「ちょっと待って」
蓮は一度読んで閉じた文献をまた開き漁った。
話は方便品に戻る。
ここで釈迦は「おまえらに何が分かるんや!」と、恫喝風に言えばそう言ったわけだ。
「このクソ親父が!」
大半の二乗は怒って去って行った。
クソ親父こと釈迦は「ほっとけ」と、シャレじゃないが仏頂面で言った。
しかし残った二乗はしつこく教えをねだった。
すると釈迦は関西風に言えば
「実はな、これからが本番やったんやけどな」
と苦笑いした。
「実はな、あんたらみんな助かってんねんで。ただ気が付かへんだけや」
二乗は「えっ⁈」となる。
「あのな、自分だけ助かろうなんてそんな虫のええ話仏教ちゃう。仏の私が言うてるんやからウソやない。まぁなぁ、あんたらの船も私が作ったんやけどそうでもせなあんたら勉強せえへんやん。そやからそれが方便や言うねん。そのうちホンマのこと教えだろ思うてたんや。あんたらは船を乗り換えなアカン。つまりはや、心を入れ替えなアカンいうことや」
と、方便品の後にそんな頑固おやじこと釈迦の呟きがあり
「ほな今からええ例え話したろ」
と釈迦は言い、譬喩品へと雪崩れ込んだわけだ。
おさらいに譬喩品で出て来た3人の子供は人間たちで、火事になってることにも気付かずに遊び呆けている。ここで言う火事とは煩悩だろう。だからそれは堕落の始まりで、そのうち自滅、つまり焼死体になってしまうということだ。
とりあえず火事の家から出さなきゃ。
とりあえずだからとりあえずの車を3台用意してひとまずこいつらをおびき出そう。その3台は「菩薩」「声聞」「縁覚」という名前だ。それらを選ぶ3人もいうなれば「菩薩」「声聞」「縁覚」だろう。ひとまずはそれに乗せて、安全が確かめられたらその上のグレードの車を与える。それが法華経だ。だから法華経は最高だ。
グレイトだ。
そういう筋書きが譬喩品だ。
簡単に言えば、人それぞれの資質「自分本位」「他人本位」に合わせた教えをまずやってから、本当の教えに導きたかったわけと、頑固おやじこと釈迦はしんみり呟いたわけだ。
「オヤジ…」( ; ; )
その姿に二乗は反省させられたわけだ。
「そうなんだわ。やっぱりリズムよ。方便品で仮定した静寂の部分がこの例え話たちにあるんだわ」
「頑固おやじの呟きなのよね、この辺」
蓮は本題の例え話を読む。
と、また蓮は宙を見た。
「あぁ、そうか、小乗も大乗も釈迦に繋がるって、釈迦のマジックだったんだ。釈迦はまずいろんな人の性格に合わせて教えたもんだから小乗ってのが出来たのね。ひとつは解けたわ。んー、でも回りくどいなぁ法華経」
と、また信解品に目を落とし
「あーダメダメ。法華経に埋没しちゃダメ。法華経迷路に惑わされちゃダメ。頑固おやじにほだされちゃダメ。法華経は法華経と言われるものなのよ」
蓮は鉢巻のごとく呟いて信解品に向かった。
「ここは沈黙のリズムのはずよ。沈黙、沈黙」
信解品の例え話は「金持ちの親子の話」だ。
ある町に金持ちがいた。
そこの子供が家出した。
「金持ちなのに家出するなんてもったいない」
子供は各地を放浪して、数十年後にみすぼらしい姿で町に帰って来たが、そこが自分のいた町だとは分からなかった。
「なんで?あんた記憶喪失になったの?」
まだ生きていた親はたまたま子供を見つけたが、敢えて子供を召使いとして雇った。
「なんで?あんた親でしょ?よく帰ったなってなんで言わないのよ」
子供は雇ってもらったことに感謝して一生懸命に働いた。
「あんたもあんたよ。ホント、記憶喪失じゃない?親の顔も分からないの?」
そして親は自分が死ぬ間際にふたりが親子だと明かし、巨万の富を子供に与えた。
「だったらもっと早くそうしたらいいじゃないの」
これは親が仏、富が教え、家出してみすぼらしい姿になった子供は迷える人々という例えです。
「だからなんなのよ」
蓮はいちいち信解品にチャチャを入れて台無しにした。
しかしそれは、そういう例えが、法華経について回る「このお経は自画自賛だけ」という決まり文句を、講義の中で聞いて知っていたから「あぁまた始まった」と初めから受け流すつもりだったからだ。辿り始めてまだほんの少しだが、蓮はこんな法華経の滑稽さが、まるで友達のように親しく思えていた。
所詮この例え話も、法華経の滑稽な宣伝文句なのだが、蓮の想いは別にある。
それは「法華経と言われるもの」的に見れば、法華経が伝播する過程でいろんな人がこの宣伝文句をスピーカー片手にが鳴ったという光景こそが大事なんだという想いだ。だから蓮は茶化したのだ。
「中身じゃない、輪郭よ。文言じゃない、轍なのよ」
蓮はここまでの法華経各品を読むたび宙を見る自分の姿に、何かしらの意味があるような気がした。
20.薬草喩品第五(やくそうゆほん)
「これも例え話だわ」
この章にざっと目を通した蓮は呟いた。
ここまでで法華経は何を語ったろう?
まず大仰なオープニング。
次に頑固おやじの突きっ放し。
次に頑固おやじの呟き。
簡単にこう書けば派手でいじけたある男の描写じゃない。
でもなんでだろう?茶化すたびに可愛くなってくるわ、法華経。
(実はこの「可愛くなるわ」も大事なことなのだが、この時の蓮はそれを知らなかった)
ここでは降り注ぐ雨を語っている。
そして雨は薬草を育むと言っている。
雨は仏の教え、薬草は人に例えているそうだ。
つまり雨は大地に公平に降り注ぎ、どんな姿の(大きな木や小さな木、草とかいった形の違いの意味らしい)薬草も公平に育つという、法華経の教えの姿を例えているらしいのだ。
ということは誰もが薬草、つまり自分で自分を治せるということか。
「なんだか穏やかできれいな章ね」
蓮はここは分かりやすい絵だと思った。
前の信解品の「信解」とは「信じ理解すること」で、そこではこの場に残った者の中の4人の声聞が「信じ理解出来た」と釈迦は判断したから「信解品」なのだと文献のひとつに書いてあったが、その文献はさらに、この薬草喩品がでは何を信じ理解出来たかを語っていると言っていた。
それは菩薩・声聞・縁覚の三乗が、いわば合体して一乗になることが究極の教えであることを理解出来たのだ…こう言われてもよく分からないが、簡単に言うと「人の資質の違いに応じてそれなりに皆救われるのが本当の教えだということを理解出来た」ということのようだ。そしてその究極の教えが法華経なんですと、ここも見事に宣伝文句で括っている。
蓮はここで「あら?3つだけ?」と思った。
というのも蓮は以前受けた仏教講義で「人間は10種類いる」みたいなことを聞いていて、その中にあった3種類が「菩薩」「声聞」「縁覚」だったからだ。
ちなみにその10種類とは
「仏」
「菩薩」
「声聞」
「縁覚」
「天」
「人」
「修羅」
「畜生」
「餓鬼」
「地獄」
で、それぞれに特性があって、人間は誰もがその中のどれかに属しているそうだ。
そしてまたその個人の中にも同じ10種類の世界があるそうだ。
だから当然、人間の中には元から仏がいるわけだ。
蓮はここは、10種類を例えで3種類と言ったんだろうと、ぼんやり捉えてパスするのがいいなと思った。なぜなら大事なのは「轍」なのだから。
そういう意味でここは「やっぱり法華経って究極なのね。確認したわ薬草喩品」と「人間の中にある10この世界を思い出したわ。ありがとう薬草喩品」でいいのだと思った。
21.授記品第六(じゅきほん)
蓮は自分がしようとしていることを思い返してみた。
そもそもは私が見つけた「日蓮らしき人物のメモ」から全ては始まっているのだ。
教授はこれがもし日蓮の自筆なら大発見だと言った。しかしその信憑性は半々だ。
メモの内容はこれまで伝わって来た日蓮像を覆すものだった。そして宗教さえも覆すものだった。
このとんでもない内容の解明には私はむしろ、その半々の要因、つまりこのメモにおける2人の人物の筆跡の混在こそが鍵だと考えた。
これは日蓮という人物を使って、何者かが書かせたのではないかという、漠然とした鍵だ。あるいは超常現象的な何かかも知れない。日蓮は分身したか、日蓮は何者かに乗り移られていたか、また何者かに導かれていたか、ともあれ日蓮を構成するのは日蓮だけではないと鍵の向こうの世界は語るのだ。
そしてその日蓮は「法華経」を世に広めようとしていた。当然これも何者かの意思ということになる。
では「法華経」は何だ?ということになる。それを今、辿っているわけだ。
そしてこの先、何者かが誰で、なぜ日蓮でなぜ法華経なのかが判ったら、私はこれを卒業論文にまとめようと思うのだ。
その法華経の方は第五章まで眺めてみたが、その概要はというと
①大仰なオープニング
②もったいぶり
③褒めちぎり
④褒めちぎり
⑤褒めちぎり
と、ここまではほとんど賛辞で終始している。
ただ、賛辞の裏には賛辞される理由があり、それは賛辞しながらもちゃんと書いてある。
要は全てを救えるのはこのお経だけと言っているわけだが、救われるとはなんだろう?
その内容の前に、この第六章から先はしばらく、人々が次々と救われる様が描かれている。
この状況が語るのは何だろう?
蓮は今、第九章までを眺めたところで、こういう疑問の中にいる。
蓮は第六章から第九章までを簡単にメモしてみた。
第六章
釈迦はこの場に残った4人の弟子に、成仏を約束した。
さらにこの章では、他の者にも段階的に成仏の約束をして行く。
そのタイミングは今世、来世いろいろあるようだが、結果的にここでは数百人の者に成仏の約束をしている。
これを授記と言うようだ。
つまり授けることだ。
成仏とは救いのことだろう。つまり仏になることが救いだが、では仏とは何か?
私はどうもこの数や、案外やすやすと授記がされる様子に仏の意味があるような気がする。
加えてここでは、こうして授記を受けるのも、その前に釈迦や法華経と出会うのも、さらには今世で親子兄弟関係にあるのもみんな前世の因縁だと釈迦は語っている。
そしてこの次の章で因縁について説明すると最後に語っている。
22.化城喩品第七(けじょうゆほん)
第七章
「仮の城の例え」という意味のこの章、これも例えか。法華経は例え話が多い。
そういう私の仮定も、法華経自身が壮大な例えというものだが。
ここもまたまた専門用語の攻撃だ。
なんでも「大通智勝仏」とかいう仏が出家する前は国王で?
彼には16人の王子がいて?
父王の成仏を聞いた16人の王子は?
大通智勝仏になった父に願い出て?
自分たちも仏にして下さいと諸天と共に願い出て?
…まず大通智勝仏の読み方がややこしいし、王子の願い出になんで諸天が出て来るのかがよく分からない。
あー無視無視!
この言葉の迷路が嫌なのよね、お経って。
因果について教えると言っているけど、ますます因果関係が分からなくなる書き方だわ。
説明が丁寧になるほど煩雑になる現象がここにあるわ。細かいところは無視よ。大筋を追え私。
あら?メモがタメ口になってる。
大筋よ大筋。
因果の話だったはずだわ、ここは。
メモに戻す。
読み進めるとなんとここに「蓮の花に例えられし、仏が守る妙法を説く」って記述がある。これは大事かも知れない。これを短縮したら「法華経」になるからだ。法華経の根源はここにあるのか?
そしてそれを説いたのは「大通智勝仏」つまり父王で、聞いたのは16人の王子。
その後父王は瞑想に入り16人の王子は修行ののち成仏したと記され、その中の16番目の仏が釈迦だと記されていて、それが法華経とあなた方が出会う宿命の説明だと言っているがなんのことかさっぱり分からない。まるで砂漠の蜃気楼みたいだ。皮肉にもさっぱり分からない幻の城という意味でこのタイトルは当たっているような。
そもそもなんでここで「因果」が出て来るのだ?
因果って原因と結果。原因と結果。原因と結果。ん?
原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果…
これだ。また絵だ。これって「轍」だ。
やっぱり中身じゃない。輪郭だ。
さてこの章の本来のタイトルは先に語った二乗が学んだのは仮の教えのことが元になっていて、これを仮の城(化城)に例えたのだと言っているが、なんでここで二乗がまた出て来て、何が因果の説明なのかさっぱり分からない。
そんな今の私に一番よく分かるのは、あの半日蓮のメモ「法華経って何?」の一言だ。
こっちの方が簡明だし、核心を突いているような気がする。
法華経は人間の姿で例えれば、肉と皮が逆転したようなものかも知れない。つまり外見、輪郭、その名前の方に大事があるのだ。
法華経が分からなくなるたびに私は法華経が見えて来る。
23.五百弟子受記品第八
(ごひゃくでしじゅき)
実際、法華経をこの先読まなくても、私の仮定は語ることが出来ると思うが、完全無視は怖いところがある。
何も語らないようで所々、法華経の存在意図を匂わせるような記述があるからだ。
この章にしても、タイトルから大体の内容は分かるが、どこにそれらしき記述が出て来るか分からないので、まずは概要を記してみよう。
すでに500名以上に授記した釈迦はここでさらに500名、果ては1,200名あまりにも授記している。
その1,200名の詳細は私の中で必要はない。
ただその段階の途中でまた例え話が出て来るが、これは意外と大事なようだ。
しかし法華経は本当に例え話が好きだ。
例え話の内容は次の通り。()は私の注釈。
友人の家で酒を飲んだある人がすっかり酔いつぶれて眠ってしまった。
用があって外出する友人は、酔いつぶれて眠るその人の衣服の裏に、そっと宝石を縫い込んだ。(なんで?)
目が覚めたその人は(どういうわけか)各地を放浪して無一文になった。
無一文でさまようその人は、ある所で友人と再会した。
友人はその人に
「なんで私が衣服の裏に縫い付けた宝石を使わないんだい?」
と言った。
酔って眠っていたその人は、まさか自分の衣服の裏に宝石が縫い付けてあるなど知るよしもなかった。
(よく衣服がもったわね)
何かしら強引な話だが、この例えは人間誰もが自分の中にここで言う宝石を持っている、つまり美しい心をもともと持っているのだと私は解釈したい。
その例え話が法華経のこの辺りで出て来たということは、法華経のこの辺りが「授記の大盤振る舞い」を語っていることから、授記で与えられるもの、つまり成仏=仏=(私の解釈上)美しい心は与えられなくてもみんな持っているのだということの、とても回りくどい言い方なのではないかと推測する。
蓮はここまで書いて、ウトウトした時に一瞬見た「あの光景」を思い出した。
24.授学無学人記品第九
(じゅがくむがくにんきほん)
…おばさんが転んだお坊さんを助けた光景…
誰もがこんな経験をする。
転んだ人を見たら手を差し伸べるか声を掛ける。
高齢者や障がい者、妊婦を見たら座席を譲る。
眼の不自由な人を見たら腕を差し出す。
などなど。
これは誰もが「やってしまう」行為だ。
ここには信仰心があるからとかいうご立派な理由はない。
やってしまうのだ、なぜか。
これこそ仏がすでにあるという証ではないか?
そこへ半日蓮のメモだ。
蓮はこんなニュアンスのことを書いたメモがあったなと思った。
取っておいたメモのコピーを引っ張り出した。
「あった」
「無宗教こそ法華経。俺は何をやっていたんだ。おばさんに教えられた」
これだ。
「おばさん?あ、あの一瞬の光景はこれかも」
蓮はメモの端に
「①無宗教こそ法華経か?」
と記した。
それと蓮はひとつ気になっていることがあった。
それはここでの法華経の大盤振る舞いにおいて釈迦は「来世の成仏」を約束していることだ。これは何か意味があるのだろうか?
釈迦の時代からかなりの時が流れているから、ここで成仏を約束された者たちはもう仏になっているのだろうか?
いや、それは法華経の中にある蓮が目指す「法華経と言われるもの」的に言えば、その言い方はそれこそ方便、謎かけで、実は来世とは今のことで、今を生きる人すべてが仏=美しい心を持っているということではないか?
まだぼんやりした思考だが、蓮はそこにも何か鍵があるなと思った。
さて大盤振る舞いはまだ続く。
「授学無学人記品」
このタイトルが気になる。
「宗教って1つなら真理なのに2つになると戦争になる」
ふっと蓮はそんな言葉を呟いた。
さっきから無宗教のことばかり考えていたら、つい、口をついたのだ。
この九章のタイトルにある「無学」が無宗教に通じそうでならないが、さてこの章は具体的にはどうなんだろう?
蓮はメモを続ける。
ここでは「学・無学の弟子」という言葉が出て来るが、これは「学んでいる弟子・学んでいない弟子」ではなく「学ぶ必要がある、つまり学習中の弟子と、もう学ぶ必要がない弟子」の意味で、すべての人間ではなさそうだ。
ここではそれらの弟子すべてに「菩薩行=人に尽くすことに励むこと」を交換条件に成仏の約束をしている。その数はおおよそ2,000人とのこと。
「うーん」
蓮は「無学」という言葉から、てっきりここで釈迦は修行していない一般人にも授記をしたと思ったが、どうやらそうではなさそうだ。
これがすべてならば蓮の仮定は見当違いになりかねない。
ただ蓮は、菩薩行、つまり人に尽くすならばという部分がどうも引っ掛かった。
「法華経の内容じゃない、法華経の輪郭よ」
蓮は自分を鼓舞するように呟いて、とにかく法華経の中を根気よく眺め続けようと思った。
25.
ここで蓮はもう一度、自分がここまで考えたことをまとめることにした。城造りに例えるならここでしっかりと石垣を築いておこうといったところだ。
そもそもは蓮が見つけたメモが発端だった。それは古いメモで、当時は覚え書きとでも呼んだのだろう。
作者は日蓮となっているが、筆跡は二重で、日蓮とあと一人が書いたものかと推測される。そうでなければ複数の筆跡を操れるものが書いたかだ。それは日蓮とは全くの別人かも知れない。
そのメモの内容は大まかに言うと
「法華経って何?」
「自分が起こしたとされる奇跡は単なる偶然だった」
「無宗教こそ至上」
その3点に絞られる。
日蓮といえば法華経こそ最高の経文であり、それを信仰するのが人の勤めだと言い切り、他宗を否定する言動を行なったことで有名だ。
しかしこのメモの作者の日蓮は、肝心の法華経が何か分からないと言い切っている。さらに他宗を否定するどころか法華経さえ否定するようなことまで言っている。
この矛盾は何を表しているのか?
ここが蓮の思考の出発点だった。
蓮はこの「あやふやな日蓮の存在」を、半ば親しみを込めて「半日蓮」と呼ぶ時もあった。
蓮はここで思い切って、このメモは真実で、日蓮は法華経が何か分からないまま誰かに広めさせられたのでは?と考えた。そして法華経とは、誰かの意思の流れの呼称ではないかと仮定した。ただ、その誰かの意思の中身は法華経に隠されているのではないかと今は考え始めている。
法華経本文を読む傍らで蓮は、法華経の伝導の経路を調べるうち、法華経自体が3つあることを知った。
要は法華経を訳した者が3人いたということだ。これは例えで、実際はもっと多くの法華経があり、もっと多くの訳者がいたことだろう。
そしてここですでに、純粋な法華経は無くなっていると言ってもいいだろう。
仮にその中の1つが本物でも、それから何百年、いやそれ以上経った今となってはそれを証明する手立てはない。
今、法華経と言われるものはその中の鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の「妙法蓮華経」だと言うが、果たしてそれが法華経の作者である釈迦が語ったものかどうかは分からない。
またその釈迦さえ、法華経の中では仮の姿だと語っていて、その実体は分からない。
(実体は仏だというが、その仏が何なのかも分からない)
とにかく出発点からして謎だらけの法華経が、「一応鳩摩羅什が伝え」「一応日蓮が広め」て今、日蓮宗として日本にあることだけが確かなのだ。ただそれは日本の中の法華経だけで、伝導途中のチベットや中国、或いは朝鮮にとどまった法華経もあるということだ。
もうそれだけで、純粋な法華経がどれかなど分かろうはずもない。
だからなおさら蓮は、本物の法華経は、それが伝わった軌跡の呼称なのだと思え、そしてその中身は、宗教と大仰に言われるものの中にはないと思えるのだ。
蓮は今、それはもっともっと単純で身近にあるもの、しかしそれは意外と重いものという予感めいたものを感じている。
26.法師品第十(ほっしほん)
ここには「法華経の言葉を少しでも聞いた者には全て授記を与える」という釈迦の言葉が出て来る。
この際もう、釈迦が誰で、法華経が何かなどどうでもいい。
この言葉の通り、法華経の言葉を見聞きする私に何が起こるのか見てやろうと、蓮は思った。
今のところ蓮は、法華経は仏の取り扱い説明書みたいなものだと思っている。宗教ではなく、人が望む望まないに関わらず人の中にある仏の構造と、その位置と、その扱い方法について記しているものだと仮定して、法華経を読んでいる。
その仮定は、どのように法華経と化学反応するだろうか?
その期待感が蓮の中で高まる。
「法華経は褒めて広めよ」
誰が言っていたかは忘れたが、蓮の頭の中にはこの言葉が常にある。いつ私はこの言葉を聞いたのだろうと思うが、日蓮といわれる者のメモが、蓮の実家から出てきたことを思えば、蓮は法華経と割と近い所で育ったのかも知れない。
「ちょっと待って」
蓮は法華経を追い始めて少し経った頃から抱いている素朴な疑問を思い出した。
「私は法華経だけを追っているけど、他の宗教はどうなんだろう?」
法華経がもし「法華経という行ない」を誰かにさせられているなら、世界に散らばる他の宗教もそうなのだろうか?
蓮は自分が呟いた言葉を思い返した。
「宗教って1つなら真理なのに2つになると戦争になる」
宗教、つまり信仰行為は1つでいい。
言い換えれば「信じるものは1つでいい」
たしかに日蓮は信じるものは法華経だけでいいと言ったが日蓮さん、ちょっとニュアンスが違うような気がするのよ。
違うのよね、何かが。
一瞬、他の宗教を考えたけど、それがために宗教間に争いが起こっているではないか?
この小さな日本の中でさえそうなんだ。
信じるべきものは1つでいい。しかしそれは宗教の中にあるものだろうか?
そのモヤモヤをはっきりさせたい。
蓮は踏ん切るように法華経に目を落とす。
「釈迦、鳩摩羅什、日蓮」
救いを求めるように関連する者の名前を呟く。
法師品の頭にあった「すべての者に授記を与える」のくだりがその名に反応する。
誰もがすでに持っているもの、仏といわれる宝物…
あのメモにあった「無宗教」の文字が空を飛ぶ、そしてあの、なんてことない光景、転んだから助けた…
「勇気」とか「堪忍」とか「信念」とかいう、強い言葉の響きが頭の中に浮かぶのだが、なかなか1つにまとまらない。
しかしそれは人間の芯になるものだというのは分かる。
法師品では法華経を受持し、読み、説き、広めることを強調する。
そして法華経を受持する者への侮辱を許さず、受持する者を保護すると述べている。
さらに法華経は心と体で読めと語る。
しかし法華経が何かはここでも語られない。
法華経…どういう言葉で置き換えたらいいのだろう?
人間誰もがすでに持っている仏というものを、仏ではない言葉に置き換えられた時、その言葉こそ法華経の意味となるような気がする…
法師品の文言が滲んだりまとまったりしながら頭を往来する中、蓮は新たな仮定に近づく予感を感じた。
27.見宝塔品第十一(けんほうとうほん)
蓮はしばらく考えたのち、新たな仮定をこう定めた。
それはなんでもいい、強い言葉を「仏」に代入することだ。
それと前の法師品にあった「法華経を受持する者への侮辱」「法華経を受持する者の保護」から、法華経とは受持すると苦しいもの、それは何かを探ることだ。
意外なことだが、後者はすぐに分かった。
それは「自分」だ。
自分ほど保つのは難しい。
すぐに左右され見失う。
いつも苦の中にある。
だから「法華経」とは「自分」という「法華経と言われる【者】」ではないか?
ならばそんな自分の中にある宝物とは?
「仏」に代わる強い言葉…
蓮はそれを「信念」と定めた。
「法華経を受持する者の保護」
自分を保ち、守るのは「己の信念」だからだ。
この両者を合わせれば「自信」という言葉になる。
「自分を信じろ」
この声を法華経の姿だと仮定しよう。
そうすれば、その声の主がまた法華経だということになる。
「ちょっと待って。だったら法華経って、自分が自分を導いている軌跡ってこと?」
「大物って自分?」
「だったら自分が法華経と名乗って釈迦に説かせて鳩摩羅什が訳して日蓮が拾い上げて自分に戻したわけ?」
「因果って自分?」
「そう言えば自分って唯一無二よね」
「釈迦も唯我独尊って、似たような言葉を言ってるわね」
蓮はぽかんとした顔で第十一章を読む。
見宝塔品はこんな文言で始まる。
「いいかみんなよく聞け。釈迦は平等の教えを示し、人のために尽くす法であり仏に守られた法華経を説いた。釈迦の言うことはすべて真実なのだぞ」
法華経のここまでを要約したようなセリフだ。これは釈迦の声でありそうでもなさそうだ。前章を釈迦が語った後、不思議な塔が現れ、そこからしているようだ。
声の主を語る前に、蓮の仮定をこの文言に当てはめてみる。
「いいかみんなよく聞け。釈迦は人間は平等だと言い、信念のもとに他人に尽くすべき自分、つまりあなたのことを話したんだ。釈迦の言うことは本当なんだ」
何となく見えて来たような気がする。
ここで仮定がかなり前進したような気がした。
しかし改めて考えると、自分はいったい何をしているんだと思う。
たくさんのお金をかけて大学まで入って、またたくさんのお金を払いながら学んでいる宗教学を否定するようなことをしている。
だったら宗教ってなんなの?と思う。
自分が始めて自分に還る、もともと人の中にある、そんな結論なら宗教が宗派がああだこうだと言ってること自体空虚なことだ。
でも真理はそんなものかも知れない。
争う所に自らはいないと言っているのが真理かも知れない。
さっき「自分」とは唯一無二の存在だと私は思った。確かに自分とは不思議なものだ。この世に1つしかなく、自分の顔が見えない。そんな「自分たち」がお互いを助け合うことが大切…そうだ、意識的に助け合えるのは人間だけだ。
ところが人間はなかなか素直に助け合いをしない。逆に易々と虐め合いはする。この性質はいったいなんなんだ?もともと仏が自分の中にあるのに。
この辺りだろうか?自分、つまり法華経の言わんとしていることは。この辺りの解決だろうか?
あぁ自分、早く答を見つけて。
蓮はぐるぐる回る思考の中で、コンパクトを取り出し自分の顔を見た。
仏に似た顔が映っている。
蓮はこう考えてみた。
そもそもは日蓮(らしき人)のメモが発端だ。ならば日蓮のことも学び直そう。そして法華経を並行して読み進める。この2つの接点はどこか?
「うん、その方法を採るわ」
蓮は漠然とその作業を始めたが、これがこののち意外な進展を見せることになる。それはまた何章か後でおのずと解明される。
「さ、見宝塔品」
蓮は話を読み進める。
塔の中には「多宝如来」という仏がいて、声の主はその仏であったようだ。
多宝如来は昔、こののち誰かが法華経を説く時があったら大地から湧き出て、法華経が真実の経文であることを証明すると誓願したらしく、釈迦が法華経を語るこの場面が「その時」だったようだ。
多宝如来は諸仏が集った時に姿を現すそうなので、釈迦はここに集った仏たちを宙に上げ、虚空という空間に皆が上がった時に塔の扉が開いて多宝如来はその姿を現した。
多宝如来は釈迦に隣に座るよう促し、隣に座った釈迦はまもなく自分が入滅することを語り、自分の代わりに法華経を伝える者はいないか呼びかける。
蓮はこういう表現が経文の分からないところだと思った。ここに集まっているのは仏ばかりではないだろう?それか授記したらみんなもう仏なんだろうか?
まぁいい、内容はいいんだ、仮定から行けばここは「自分という厄介なものの扱いについて大切なことを伝える者はいないか?」という呼びかけの場面なんだと、浅く考えることにした。その方が煩わされずに法華経の筋を追えると思ったからだ。
そして話はここから法華経の核心に入るようだ。
28.
法華経が佳境に入る前に、蓮は並行して行う作業、つまり日蓮についての再考察を始めた。
「私の名前、いやに日蓮に似てるわね」
蓮は苦笑して作業を始めた。
そもそもあのメモの筆跡が2つということがずっと引っかかっている。
しかも同一のメモの中で筆跡が変わっているという。それならば複数の人間が書いたとは思えない。
極端に言えば、いちいち一文字一文字を交互にふたりで書くだろうか?そしてそれになんの意味がある?そう単純に思ったからだ。
すると同じ人間の中に複数の人間がいたのだろうか?だとしたら考えられることはひとつしかない。
「二重人格」
この病的な呼び名の現象だけだ。
ここで蓮は、宗教の特異性を思った。
そもそも宗教は古代の人間が、自然現象に対して抱いた畏怖の念から始まったと言われる。
「大雨」「台風」「落雷」「日照り」
天変地異とも言えるその現象は、何かとてつもない者の意思が関わっていると考えた人間の中に「神仏」という観念が生まれたのがそもそもの始まりだ。
だから宗教には「不思議」とか「不可思議」とかいう、科学を受け入れない部分がある。
ならばこの「二重メモ」も、科学の介入を拒むものだろうか?
話を日蓮に戻すと、蓮の浮かべたこの言葉通りだとすると日蓮は二重人格者だったということになる。
それは一般的に知られている日蓮と、知られていない日蓮という二重人格なのか、どちらも知られている日蓮の分裂性格なのかは分からないが、蓮は一番目の考えで思考を進めることにした。その方が作業の内容が分かりやすいからだ。
まずはよく知られた日蓮の軌跡についてをざっと記してみる。
日蓮は安房の国、今の千葉県の漁師の子として西暦1222年に生まれたと言われる。時代はちょうど鎌倉時代であった。
12歳の時に近くの寺、清澄寺(せいちょうじ)に預けられ、16歳で出家し僧侶になった。初めは「蓮長(れんちょう)」と名乗ったそうだ。
その後、鎌倉に出て様々な仏教を学んだという。その中には後に彼が否定する禅や念仏もあったそうだ。
21歳の時、今度は比叡山に入った。
比叡山といえば、天台宗の本山だ。彼は比叡山を拠点に、京や大和、高野山などの寺を回り、様々な経文を読み、さらに多く、深く仏教を学んでいる。
ここまでの動きから、後に批判の鬼となる日蓮だが、その対象の中身を熟知していたと思われる。
これらの研鑽から、彼は法華経こそが最良の経文だと結論付けたらしい。
32歳になり、彼は清澄寺に戻る。
ここで彼は「南無妙法蓮華経」の題目を初めて唱えたといわれる。そして名も「日蓮」と改めて、独自の宗派を立ち上げた。
「日蓮宗」だ。
ここで法華経は、手付かずの法華経と、日蓮宗といわれる法華経に別れたのは確実だ。
しかしさっそく、念仏信仰者の反感を買い、清澄寺を追い出される。
その後、鎌倉で辻説法を始めたとされる。日蓮はカリスマ性が高い。カリスマ性の高い者は演説が上手いとされるが、この辻説法で有力な信者(武士層)が集まって、日蓮宗は次第に影響力を持ち始めた。
この頃の世の中の不安定さに対して日蓮はさらに救済の術を研究すべく、駿河の国に渡る。
そして法華経こそが救済の法であると主張する「立正安国論」を著し、鎌倉幕府に上奏するがほとんど無視される。それどころかこのことに反発した念仏信者により住居を焼かれ、日蓮は下総の国に逃れる。その後再び鎌倉で布教するが幕府に捕らえられ、伊豆に流される。
罪を許された後も布教を続けるが、今度は念仏信者の襲撃を受け、弟子を殺され自らも負傷する。
この頃、日本は元の侵攻を受け始める。
これは法華経を蔑ろにすることに対する災いだと日蓮は捉えた。
日蓮は再度、幕府に対して法華経の正当性と必要性を訴え、他宗の代表と討論を行なうことを促すが、これは却って幕府と他宗の怒りを買い、ついに日蓮は処刑されることになる。
処刑は龍ノ口という所で行なわれたが、この時「奇跡」が起き、処刑は中止され日蓮は佐渡に流される。(注1)
佐渡では日蓮の重要な著作が多く著された。
佐渡から戻った後も幕府に諫言したが受け入れられることはなかった。
この間、元が2度日本に侵攻するがいずれも失敗した。(注2)
日蓮はその後身延山に入り、著作と弟子の育成に努め、1282年に亡くなった。
これが誰もが知る日蓮の概要だ。
蓮はここに2つの注釈を付けた。
いずれも例のメモに深く関係した箇所だからだ。
この2つの事柄に対するメモはこうだ。
「雨男なんですよね」
「奇跡」かたなしの表現ではあるが、現代人からするとこちらの方がしっくり来る。
メモは同一人物が書いたと蓮は仮定する。
仮定が出した結論は「日蓮は二重人格」という大胆な話だ。
概要で見る日蓮がその片方だとすれば、もう片方は何を言おうとしているのか。
概要の日蓮が古代の日蓮だとすれば、奇跡かなたしメモの日蓮は現代の日蓮だ。
メモは「奇跡と伝えられていることは偶然に過ぎない」と言っているようだが、蓮はその裏に「しかし単に偶然と片付けていいものか」と言っているようにも捉えた。
「雨男」「雨女」は今でもよく言われるが、実際雨男や雨女のそばにいれば、これが偶然か?と思うくらい雨に遭う。
このように不可思議なことは確かにあるのだが、日蓮の奇跡はもう少しずれた所にあるんだ。
そう思い蓮は追跡を続ける。
「雨男なんですよね」
雨男の表現の意図が、奇跡の表現を今風にせよということならば、日蓮はとにかく生かされた、生かされて身延山に入り、弟子も育成出来たという点に着目すべきだろう。
日蓮が生かされたのは、日蓮の評判や影響力を無下に葬っては、統治に悪影響が出るとの幕府の判断があったのだというのが今の学説だ。
これを踏まえた上で「奇跡」を語るならば、本来ならとうに葬られるべき日蓮が、理由はともあれ生きて畳の上で亡くなったことこそ奇跡であるということだ。
日蓮が生きるうちにどれだけの弟子が生まれたか。
その軌跡が文字通り奇跡なのだ。
29.提婆達多品第十ニ
(だいばだったほん)
この「奇跡」の解釈が蓮は今のところ一番の仮定になると思った。
まさに「法華経と言われるもの」の考えと一致すると思ったのだ。
さてまた法華経本体を追って行こう。どこかに日蓮の軌跡と合致する箇所があるかも知れない。
法華経第12章は「提婆達多品」だ。
ダイバダッタとカタカナで書いたら、どこかで聞いたような言葉になるが、これは人名で、釈迦の従兄弟だということだ。
ここにもう一人の人物(?)が登場するが、それは龍王の8歳の娘だ。
この両者、あるものの象徴として描かれている。
提婆達多は悪人、龍王の娘は幼齢の女性だ。
つまりここには3つのキーワードがあって
①悪人
②女性
③子供
これらがなぜここに出て来るかがこの章の肝だ。
このうち①と②は成仏から遠い距離にあるもの、③は速やかに成仏することのキーワードらしいのだ。
悪人が成仏し難いということは分かる。しかし女性が成仏し難いとは、納得し難いが、仏道神道ともに女性は忌み嫌われる傾向がある。これは明らかにおかしい。どうもこれは「血」や「女体」のイメージから来る偏見のようだが、日本でも「女人禁制」という言葉が今でも罷り通る。どう考えてもおかしい。ならば男性はそんなに神聖なのか?と言いたくなる。男性の行ないを思えばなおさら。
ただ法華経は、その2つの成仏を約束する。
この章の内容も前世がどうのこうの、誰々がどうのこうのと例によって難解な物語が流れているが、要するにこの章は、法華経を信じれば、成仏し難いと言われる者も速やかに成仏出来るという、法華経の解放性を謳っているのだ。
そういう意味では法華経はしっかり「現代」いや「未来」だ。
30.勧持品第十三(かんじほん)
ここでは2人の女性に対する授記が描かれている。
女性が仏になれば本当の平和が訪れる感じがする。
授記されるのは釈迦の養母と妻だ。
この章ではそれに絡めて、結構重要なことが書いてある。
それは釈迦が入滅し、この世界から姿を消した後、誰が法華経を広めるかということと、ただし法華経を広める者には様々な迫害があるということだ。
誰か法華経を広めるか?
「見宝塔品」での釈迦の問いかけに、菩薩たち、授記された者たちが競って応じた。そしてここで、釈迦は義母や妻をはじめとした女性(尼僧)たちにも授記を与えた。
ただこれからが大変だ。
この世界(娑婆世界と表現されている…シャバ、つまりこの人の世のことだ)で法華経を広める者には3つの場所に敵が現れる。
それは①在家(一般人や親族)・②出家(僧侶)・③高僧(他教を極めた僧侶や広い意味での権力者)の中に姿を潜めている。
それらは心身に苦痛を与える時もある。
例えば鞭で叩かれ石を投げられることもあるだろうが、ここはただ耐えて、釈迦を信じること、それが出来なければならない。
このことに、これが出来るのは菩薩だけだという結論が出る。他の者は別の世界で法華経を広めることになった。
しかしこの概要も、複数の文献から推測した蓮の解釈だ。
この一文はここにはあるけどあちらにはない、これはその逆みたいな感じで、1つのものさえ見ていればそれでいいというものではない。
こんな具合に文書としての法華経はどれが本当か分からない。
ただここにある迫害の話は、法華経が伝わるどの過程で書かれたことであっても、日蓮以前の話だから日蓮は予言通りの迫害を受けたのだろう。
ただ、やり方が強引だから迫害されたという、当たり前の解釈も出来る。それか日蓮は敢えて、予言通りになるように動いたのだろうか?
最後のこれが一番、腑に落ちるなと蓮は思った。
31.
最も現実的な流れ。
「法華経と言われるもの」の軌跡。
それをあくまで現実的に言えば…
釈迦が入滅前に語った言葉を記録したものが、法華経といわれる経文である。
その経文はインドからアジア大陸を東に向かって様々な人により受け継がれ、この日本に伝わった。しかしその時点でその経文には人の手が入り、複数の解釈が存在していた。
その中の「妙法蓮華経」と呼ばれる経文が、日本で一般的に言われる法華経らしい。
それを最高の経文と位置付け広めたのが日蓮だ。
だが日蓮の行為は他者排除の傾向が強かったため、当時の日本を治めていた鎌倉幕府にとっては厄介なものだった。
当時の日本は天災人災が多発し、統治にもかなりの困難があったようだ。
日蓮は、そのような国の状況は、幕府が法華経ではない念仏や禅などを厚遇するのが原因であると主張し、今こそ法華経を国教とすべきだと幕府に対し諫言した。
当時は神や仏が世界を支配するという考えが当たり前だったので、神仏が関わる宗教の存在は重大なものだった。
しかし既に日本に根付いていた念仏や禅の関係者(もちろん幕府も関係者だ)はこれに憤り、日蓮の排除に動いた。
日蓮は様々な迫害に遭ったが、その度に奇跡的にそれらをかわして、60年の天寿を全うするまでに多くの弟子を育成(中には武家や商人もいた)し、世に言う「日蓮宗」を確立した。その後日蓮宗は現在まで継続している。
また日蓮が法華経に基づき予言したことは見事に当たり(元寇…蒙古襲来)祈祷合戦(天災の際の祈祷を他宗と競った)にも勝ち、元寇の際は2度も「神風」が吹き、日本は守られた。
しかしこれらの伝説は現代の考え方からすればにわかには信じがたい。
祈祷については単なる偶然で片付けられるし、元寇が起こったことについては日蓮の予言(また改めて述べる)通りの世界の流れになったと言えないこともないが、それを追い払った「神風」については元寇の時期が台風シーズンだったとも言われているのでまるまる奇跡とも言えない。時期の偶然が必然だという考え方もあるが、蓮は偶然の疑いのあるものや、映像的証拠のないものはこの際消去しようと思った。
それは例のメモが引っ掛かって仕方ないからだ。
そして先の「勧持品」の中で考えたこと、勧持品の予言、つまり法華経を広める者は必ず迫害に遭うことを、そうなるように日蓮は行動し、自身の立場を明確化したのではないかという発想。
蓮は日蓮の全てを破壊するような自分の行為が恐ろしくなった。
自分の考えにたまらない不安を感じた蓮は、日蓮宗に関係するサイトを見漁った。日蓮に対し、世間はどういう思いを持っているのかを、何でもいいので確かめたいという、衝動的な気持からだった。様々な宗派のみならず、日蓮や日蓮宗の研究サイトも覗いた。他宗教にリンクするものもあった。リンクすればそこも覗いた。
それらは大抵は日蓮や日蓮宗を肯定しているが、中には否定するものもある。
日蓮宗同士でお互いを批判するものもあった。逆に日蓮宗のみならず仏教に歩み寄る他宗教もあった。
この状況を見る限り、真理はどこにあるのかさっぱり分からない。別の意味で法華経の世界のようだ。
「あーあ」
蓮が今日はもうやめようと思ってネットを閉じかけた時
「あら?」
マウスが滑って変なページを開いた。
それは日蓮宗の信仰者が、何やら日蓮を茶化しているページだった。
「主の冒涜じゃない」
蓮はその大胆かつ無謀な行為に興味を持って読み始めた。
読むうちに、ここには自分と一番近い考えがあると感じた。
蓮と同じく、このページの主は日蓮が何者かの意思に導かれて、知りもしない法華経を広める羽目になった顛末を面白おかしく書いている。「ドーパミン」という医学用語めいたものまで飛び出している。
そこにいる日蓮は、どこまでも弱く、どこまでも頼りなく、どこまでも憎めなかった。この主も、信仰する日蓮を冒涜するようなことを書くことに抵抗はあるが、法華経の真理を知るには、法華経の場合、法華経を一旦否定・解体する必要があると思った、日蓮についても然りだと解説欄に書いていた。
蓮はページの主と話してみたくなった。
これこそ本当の奇跡だと思った。
ページの隅にメール可の文字を見つけたので、さっそくメールした。
蓮は自身の法華経研究のこれまでをメールに記し送った。
返答は翌日にあった。
ページの主は自分は平凡な中年男性だと言った。そして自分は日蓮宗の信仰者であり研究者であると身分を明かした上で、自分は信仰の中で日蓮宗の宗派の複雑さに疑問を抱き、信仰するが故に、日蓮宗が拠り所とする法華経について客観的に調べたくなったと語った。それに加えて宗教の特異性である超常現象についても調べていると言った。
これは蓮も全く同じだった。
32.
「日蓮は目の前にある法華経が、さまざまな人の口を通って伝わったことくらい知っていただろう、言い換えれば、どこからどこまてが元々の法華経か分からないということをとうに認識していたということだ。
その上で日蓮は、目の前にある法華経、つまり人が作った法華経を最良と断定した。これはどういうことか。
つまりは「世にある経文の中でいちばん中身がない経文である現状」になっていたからではないだろうか。
中身がないからなんとでも解釈できる。
演劇の形をした論文の「立正安国論」を書いた日蓮のことだ。中身のない法華経を、さまざまな方法で最高の経文にするのはお手のものだったろう。
日蓮は、ポンと目の前に置かれた法華経ではなく、それに自己の手法で味付けしたものを初めて「最良の経文」と断定したのだ。
日蓮は日本人だ。だから最良の経文である法華経は日本製なのだ。
だから「自我偈の解釈」も「南無妙法蓮華経」も生まれたのだ。そしてまたそれが姿なき法華経の的を捉えてしまったのではないか」
彼のページでは、一通りの日蓮の茶化し話が終わった後に、この文書はこれから述べる持論の仮定であると断った上で記されていた。
これは蓮の考察通りのものだった。
「これから述べる持論」はまだ述べられてはいないが、却ってこのタイミングでこの人物と出会えたことは、蓮にとって希望的だった。蓮はメールの返信に、この先の持論について何か聞かせてほしいとしたためた。すると次のような返事が来た。
「あなたの考えと私の考えが行き着く先は同じかも知れませんね。
持論はまだ具体化していませんが、持論の元になるキーワードというかメモ書きをまずお送りします。これらをあなたがどう判断されるかをお聞かせ下さい」
この返事の後に、いくつかのメモ書きが続いていた。
「人はまず感情が入口
→出世の本懐→人に尽くす
→菩薩行→法華経を広める
→法華経とは?→広める軌跡
→途中で人助け→法華経
人の中には仏がいた。悪魔もいた。
ということは人は既に仏も悪魔も持った構造物だということだ。
世の中には自然が作ったものと人が作ったものが並立している。
潜在意識=無意識=無
霊鷲山とは人体内の風景ではないか
空、山、街を対比して眺めると真理が見えそうだ。
そして太陽と月。
宗教は現証を以て宗教となる
自身の中にある仏を出すことが肝要だ
仏とは善行
善行とは一般的な良い行ないにとどまらない
自分にとっての良い行ないも含んでいる
それは自分をどれだけ活かすかだ
人と人の間にいる自分がどれだけ活きるかだ
人の間=人間か…
苦行…そもそも自分を自分でなくしたらとんでもない力を得られると思い自分を虐める光景が、一杯のミルクで救われた。
虐める、つまり残虐はいけない。一杯のミルクを恵み恵まれたことが大事なんだ。ミルクは普通の人がくれた。
法華経の大事三つ
・法華経は唯一
・仏は死なない
・法華経を広める
(人のために尽くす)
人が日月と話す様子
法華経は宗教を出たがっている」
メモのほとんどが理解出来る自分が、蓮は不思議だった。
心強い味方を得た思いがあった。
蓮はこの人物とのやりとりと、ここから先の法華経解読に何かしらの出口の予感を覚えた。
33.安楽行品第十四
(あんらくぎょうほん)
「法華経はほとんどが褒め言葉。故に褒めることこそ法華経。故に南無妙法蓮華経なのだと、日蓮は言っています」
一番新しい、例の主のメールにあった言葉だ。
なるほど、褒めて広めよ…か。
「法華経を褒めればあなたが言われる現証というものは起こるのですか?
私はあなたのメモの中の、現証と潜在意識と、無という言葉がまず気になるのですが、これらは関連しているのですか?
それから自我偈のことや南無妙法蓮華経のことを書いておられますが、あれは具体的にどういうことなんですか?」
こう蓮はメールして、その返事を待つ間に「安楽行品」を読むことにした。
現証については大学で学んだ。要するに信仰する者の身に起こる変化だ。
仏教の優劣を決める「三証」のうちの1つで、三証の中の一番重要なものだ。
要は、その仏教を信仰する者に現実に起こることだが、これは仏教だけにとどまらないだろうと蓮は考えている。
無というのは認識で、悟りの境地といわれるものだが、蓮にはさっぱり分からないことだ。鎌倉時代に盛んに行われた「禅」は、無の境地に達する方法らしかったが、無の境地になって、何がいいのかが蓮の分からないところだ。
自我偈についてはこの先に出て来るが、この人は例の日蓮の茶化しで自我偈は絵だと言っていたが、それを詳しく聞きたいと思っていた。
南無妙法蓮華経についても、絵画的なものだと言っていた。褒め言葉であり絵画である南無妙法蓮華経ってなんだろう?
そう解釈してその先、この人は何を考えているのか、蓮は興味を深めていた。
「安楽行」とは、法華経を広めることに対する心得だそうだ。
その心得とは「勧持品」で出て来た3つの敵から身を守る心得でもある。
在家・出家・高僧の姿の3つの敵を「三類の強敵(さんるいのごうてき)」というが、これらには4つの方法で対処せよというのだ。
3つの敵の出方は簡単に言えば、在家の場合は「変な宗教に入るな」と家族や身内・友人に反対されることであり、出家の場合は「その教えは間違いだ」と非難されることであり、高僧の場合は「あれは間違っています」と上から喧伝されるか権力者に告げ口されるかということだ。
それらへの対処はこうしなさいとこの章は次の通り言っている。
1つ目は「身安楽行」(しんあんらくぎょう)
これは自分が身を置く場所を考えろということで、誘惑に惑わされる場所に近づかないこと、ひいては動揺する心を抑えよということだそう。
2つ目は「口安楽行」(くあんらくぎょう)
これは口を慎めということだそう。口は災いの元というが、罵りや嘲りをせず、常に言葉を選ぶことを心がけよということ。
3つ目は「意安楽行」(いあんらくぎょう)
これは心の持ち方をいうそう。常に穏やかにすることを心がけ、媚びやへつらい、怒りや軽蔑をしてはならないということだそう。
4つ目は「誓願安楽行」(せいがんあんらくぎょう)
これは常に慈悲の心を持ち、成仏出来た際には人々を救う誓いを立てよということだそう。
そしてそれぞれに、これらのことを心がけて法華経を広めよと付記されている。
蓮は「これって諸刃の剣だわ」と思った。
これらは法華経を他の宗教に言い換えれば、他宗は相手にならずという意味になってしまう。
どの宗派の盾にもなる言葉だ。宗教上で使うと、この言葉は却って争いの種になってしまう。
「だから法華経は宗教であってはならないんだわ」
これを自分の良心と置き換えたら、これほどしっくり来る内容はないだろう。
そしてこれらに付記すべき言葉は「これらを以って自分の中の仏を現しましょう」ではないかと思うのだ。
34.
メールの返事が返って来た。長い返事だった。
「現証については、私の個人的な話をしなければなりません。
私の祖母は日蓮宗の檀家でしたが、傍らで熱心な念仏行者でした。祖母の家にあった仏壇は日蓮宗の檀家であるにもかかわらず「阿弥陀如来」を祀った仏壇で、その前で鈴(りん)を鳴らして「南無阿弥陀仏」と唱え、挙句は真言宗の高野山詣でまでする無茶苦茶な人でした。
それでも祖母は平穏に長生きし、大往生しました。
そんな祖母の近くで育ったせいか、私は仏教というか、仏教文化にかなり馴染んでいました。寺院や仏像、曼荼羅などを見るのが好きでした。また、偶然が重なって命が助かったことが二、三度あったので、これは仏が守ってくれたのだと自然に思える人間になっていました。
その仏が、私を今の妻に出会わせたのですが、これがまた妙で、キリスト教が関係しているのです。
病気をして失業中だった私に職を与えてくれたのが、たまたまうちに布教に来たキリスト教の信者で、私はその人の会社で働くことになり、そこで働いていたのが妻でした。基本的に私はずっと無宗教でしたが、子供を失ったことがきっかけで、今は日蓮宗を信仰をしています。なんとも妙です。まさに妙法ですね(笑)
法華経の中で最も私が注目するのは「因果・因縁」を語る部分です。話の内容は複雑で理解に苦しみますが、人は前世の因により現世という果があるということを言っている部分は、自分のこうした縁を思うとスッと納得出来るところです。
ここまでの私の話の中には、いくつもの宗教名が出て来ます。そしてそれらは祖母や私を介して関係し合ってはいますが、私はもとより私の無茶苦茶な祖母にもなんら災いはもたらしていません。
つまり基本的に宗教は争わないということか、それかいっそ、それらはもともと無いということです。
私にとっての「現証」とは、こういう私自身の軌跡です。ですがこうした経緯から言えば、それは法華経の現証ではなく「法華経と言われるもの」の現証だと思うのです。
私は「南無妙法蓮華経」を唱えて現証を待つのではなく、現証を見たから「南無妙法蓮華経」と感心しているのです。
この辺りから私の法華経研究は始まりました。ややこしい話ですが。
さて、私が創り出してしまった「日蓮」について少しお話ししましょう。
彼はいわば私の分身です。と言えば宗祖に対して私は大変失礼な物言いをしているのですが、こうしなければ私が求める「法華経」の姿を追えないのです。
私は法華経はもとより日蓮の教え、他宗の内容、ましてキリスト教やユダヤ教の何も知りません。
何も知りませんが私は何かに助けられているという思いを何度もしました。
そんな私にとっての法華経の姿を、この日蓮の目を通して語ってみたのがあの話です。
私が創った「何も知らない日蓮」は、何も知らない私が何も知らないまま書いた日蓮に過ぎませんが、日蓮の軌跡を思えば、それはそれでいいんじゃないかと思っています。
潜在意識や無については、これはその人が信じているものがその人自身にすっかり染みついた時の状態だと思います。その状態が引き起こすものが現証であり、引き起こす力が仏とか神と言われるものだと私は思います。それはもともと自分の中にある力だと思います。
日蓮は一種の語呂合わせで法華経を広めました。自我偈の話は有名ですから宗教を学んでいるあなたはよくお分かりだと思います。この語呂合わせ、日本だから出来たと思いませんか?
もしお分かりでなければお教えいただければお答えしましょう。
南無妙法蓮華経については、「法華経は誉め言葉ばかりだが、その誉め言葉ばかりの中に沈められているのが、法華経はただ褒めよの意である」と日蓮が結論付けた真実だと言われていますが、私にとっては「南無”伝”妙法蓮華経」となるでしょうか。
「自我偈にある自と身の解釈は、法華経の実際と合致しない」
「南無妙法蓮華経の秘沈、それは日蓮が法華経を解明出来ないから言ったのだ」
これは私がいろいろ読んだ文献の中にあった言葉ですが、私はこれを否定しません。なぜなら日本で広まっている法華経は、日蓮が作り直したと思っているからです。日蓮は、法華経の骨格だけを使って、肉を付けたんだと思うんです。
長々と複雑な話をしましたが、お分かりいただけたでしょうか?
まぁ、分からないことの方が多いかも知れませんね。
不明な点は、遠慮なく聞いてください。では今日はこの辺で」
35.従地涌出品第十五
(じゅうじゆしゅつほん)
「法華経と言われるもの?」
自分と同じ言葉をメールの中に認めて蓮は驚いた。
そしてさまざまな宗教が絡み合いながらも、この人には良い影響は与えても悪い影響を与えていない事実に、たしかに宗教の存在とは何なのかを考えさせられた。
そしてあの日蓮の話だ。
何も知らない日蓮の話。
蓮はやはり、法華経は法華経を壊すか無視してこそ分かるものだと思った。
その上でなお法華経を読み進める。
法華経は次第に核心へと進んで行く。
この第15章では、地の底から無数の菩薩が現れる。
この章では釈迦の後継は誰がするのかが決定される。
章の始めではさまざまな菩薩が後継への名乗りを上げるが、釈迦はそれを丁重に断り、既に後継者はいると語る。
すると世界の地面が揺れ、地の底から無数の菩薩が姿を現す。
釈迦はこの菩薩たちを無限(久遠=くおん)の過去から教育して来たこと、その間、この菩薩たちはずっと地面の奥深くにいたこと、そして今、菩薩たちは自分の後継者にふさわしい力を得てここに現れたことを語る。
さらに父子の例えを語る。
例えば25歳の父がいて、100歳の息子がいたとしたら、これをどう説明出来るか?
釈迦はその答を次の章で語る。
「そしてその章に、自我偈が出て来るんだわ」
蓮は顔を上げて呟いた。
釈迦は地面の奥と言ったが、これは人間の体の中じゃないか?
無数の菩薩とは、無数の人間じゃないか?
無限の過去とは、前世・現世・来世の繰り返しを言うのではないか?
宙を見ながら蓮は考えた。
ただその関連性がまだ見えない。
36.如来寿量品第十六
(にょらいじゅりょうほん)
「私が悟りを開いたのはほんの40年ほど前です。しかしこの菩薩たちは私から無限の年数、教えを受けたのです。これがどういうことかを教えましょう」
たしかに前章の父子の話のように矛盾したこの現象を、釈迦はこの章で説明するのだが、この章が法華経の核心と言われていることは蓮も知っている。しかしその詳細までは、こんなことがない限りは追求しなかった。
今、蓮はここにいる無数の菩薩は人間ではと仮定しているが、それをここに当てはめたらどんな解釈になるのか、注意して読み進める。
ただここで心掛けを忘れてはならない。それは
①経文に飲み込まれるな(どこに人意の地雷があるか分からないから)
②日蓮の教えの内容よりも日蓮の軌跡に重点を置いて法華経を読み進めよ
③人間という生物を中心に思考せよ
この3点だ。
さて、この章でまず釈迦が話すのは、自分は釈迦という幻で、実は無限の昔からの仏であるということだった。
これはどう解釈したらいいだろう?
蓮はしばらく考えた。
蓮は「創造神」という言葉を思い浮かべた。
宇宙を創り、生命を創った存在だ。
人間は創造神が創った生命体が、長い年月をかけて進化したものだ。
釈迦のこの話と、地中から湧き出た菩薩の関係は、まさに創造神と人間の関係だ。
いや、それは単にその形だけではない。
今釈迦が語る場自体がまた人間の中で、湧き出た菩薩は人間の良心なのではないか?
創造神は人間の体内で、その体の主である1人の人間に、その成り立ちと構造を教えているのではないか?
なかなか三次元では語れない話ではあるが、法華経の「在って無い特性」を考えると、そういう考え方もありか、と蓮は思った。
話を読み進める。
釈迦はなぜ入滅するかを例え話で語る。
医者が毒薬で苦しむ我が子たちに良薬を調合した。すぐに飲む子もいればがなかなか飲まない子もいる。なかなか飲まない子は苦しみ続ける。そこで医者は良薬を置いて家を出て、なかなか薬を飲まない子に自分は死んだと伝えさせた。子供はその恋慕の心からようやく良薬を飲み救われたいう例え話をする。姿を消せば、人は私を求めるのだと。
この良薬こそが法華経ということらしいが。
釈迦はいなくなる。その代わり地面から湧き出た菩薩を置くとはどういうことだろう?
彼らは釈迦の代わりに法華経を説き、広めるということなのだろうが。
蓮は持論を引っ張り出す。
これを人間と仮定し、さらに良心と仮定する。
人間がいる。
さまざまな誘惑がある。つまり毒薬だ。
誘惑に負けて苦しむ。助けてくれ。どうしたらいい?
救いを求める。
そして何かが起こる。どうしたら起こる?
とにかく何がが起こる。何かが起こり…そうだ、考えを改めるだろう。
今風で言うなら、生活習慣を改める…だ。
すぐ改まるか、少し時間がかかるか、かなり時間がかかるか、まったく改まらないか…
改心?改心して良心が出る?
あぁ、分からない!
分からないけどなんとなくは分かる。
とにかく改心だ。
改心して現れるのは新しい自分だ。これが良心か?いや言葉が違う。的を得ていない。良心よりやはり改心だ。
改心して新しい自分が現れるのは地の底からだ。
それがあの菩薩たちか?
新しい自分が湧き出るイメージは分かる。
しかし具体像がまとまらない。
何をして、何が反応して、こうなるのか。
蓮は頭を絞った。
絞って出たのはこんな言葉だった。
湧き出る者はみな人間。
湧き出る場所はその個々の中。
湧き出る者は新しい自分。
そんな個々が集まり集団となる。
つまり菩薩団?
「私は私なりに今、如来寿量品と闘っています。いろいろ考えを巡らせた挙句に出て来た言葉は以下の通りです。
湧き出る者はみな人間。
湧き出る場所はその個々の中。
湧き出る者は新しい自分。
そんな個々が集まり集団となる。
つまり菩薩団?
私はまず、釈迦は創造神じゃないかと考えました。
創造神は宇宙を創り、生命体を創りました。
生命体の中で最も急激で高度な進化を遂げたのが人間です。ここは生物学の話ですね。現実的でいいなと思います。
しかし人間は、良い部分と悪い部分を生んでしまい、両方が一緒に進化してしまったんです。いやむしろ、悪い方が優先的に進化してしまったかも知れません。
そんな人間をなんとか良い方向へ向かわせようと創造神は考え、法華経を作ったのではないかと思ったのです。
こう表現すると西洋と東洋がごちゃ混ぜですね。でもそれでいいと思うんです。創造神はひとつであるべきですから。
そしてこの前章で地面から湧き出た菩薩、世に言われる「地涌の菩薩」も人間じゃないか?それも法華経の何かによって生まれ変わった新しい自分です。法華経の何かによって良い方向へ向いた人間ですね。でもその「何か」が分からない。何をしたら人は良くなるのか分からない。
そんな行き詰った現状です。この先、例の「自我偈」が出て来ますが、あなたは如来寿量品をどうお考えでしょうか?私の思考はこの通りここですっかり行き詰っています。何かお言葉をお掛け下さい」
蓮はページの主に思わずメールしていた。頭に浮かんだあの言葉をそのまま書いた。
するとさっそく返事が来た。
「なかなかいい解釈だと思いますよ。これは私もたどり着きませんでしたね、新しい自分の集団=地涌の菩薩団とは。それに創造神とは。それこそ原点探求にふさわしい言葉です。私も使わせてもらいましょう。
そうだここで、頭をほぐしてみましょう。日蓮じゃないですが言葉遊びをしましょう。
私の書いた日蓮は、中国語が分かりませんでした。(笑)
だから彼にとっての法華経は、文字で書いた絵だったんですよ。
私は地涌の菩薩についてこんな解釈をしています。
「私はあなたが勇気を出すことをいつも願っている。あなたの中で」
これは私の言葉で語った「自我偈」の最後の一節です。
ちなみに原文では
「毎時作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
(まいじさぜんねん いがりょうしゅうじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん)
「私は如何にして人々を仏にするかをいつも考えている」
となっています。
私が解釈した自我偈の最後の「勇気」とは良心のことです。そしてそれは涌くという文字を力一杯絞れば水が飛び「勇」の文字になるが如きです。日蓮みたいな文字遊びですね。しかしこの遊びが大事なんです。それはこの文字が日本の文字であり日本の音だからです。
こうして文字で見ると地涌の菩薩とは、勇気の源ではないでしょうか。それは自分を良く変える勇気の源です。
日蓮は日本人です。日本語はこういう思考が出来る言葉です。
だからあなたが言う創造神は、釈迦に語らせた(あなたは創造神を釈迦だと言っておられますが、私は別ものとして考えます)自我偈の言葉を、日本語で解凍したかったのではないでしょうか。
自と身の間にある文言はたしかにもっともなことを語っていますが、それよりも大事なのは、やはり自と身の2文字と、中に沢山の文字が詰まっているという構図なんですよ。
「自身は捨てたものじゃないぞ」っていう人体の構図です。
つまり法華経は「絵」なんです。文字で作った壮大な絵画なんです。
重ねて言いますが私の書いた日蓮は中国語が分かりません。(笑)だからこそ自我偈が絵として見えたんです。
実際の日蓮は、自我偈の例えを説法の方便として使ったのでしょうが、実はこれこそが「(あなたが言う)創造神が誰々にさせた法華経と言われる行為」に他ならなかったのだと私は今、思うんです。あなたのメールでかなり思考が進みました。ありがとうございます。
そして解凍された絵は「良いことをしたあとのすがすがしさ」だと私は思っていましたが、あなたのメールの中の「新しい自分」と言う言葉を見て、この方が的を得ていると思いました。ですからこれは「新しい自分が見る風景のすがすがしさ」なんです。それが人間というものだと創造神は言いたかったんですよ。と、私の思考はこの通りまとまりました。あなたのおかげです。重ねてありがとうございます。
ただ、ひとつだけ提案していいでしょうか?
私は法華経を宗教というものの枠で考えたくはありません。
ですからここでは、創造神というものは、もっと素朴な元素のようなものとして考えませんか?
いい表現がなかなか浮かびませんが、そうですね「細胞的な何か」とか。
創造神に代わるいい呼び名があったら教えてください。
では今日はこれで」
人間の身体のどこを切っても仏はいない。
しかし人間の中には仏はいる。
もしかして釈迦が姿を消したのはこういうことだろうか?
姿なき仏はどういう状態で人の中にいるのだ?
もしかしてこれがメールの主が言う「人の潜在意識がもたらす偉大な力」かも知れない。その力こそ仏の姿だ。だから肉眼で見えるはずがない。つまり釈迦は、潜在意識なのだ。
人が無意識、無自覚で持っている力、それを引き出す方法。それがまだ分からない「何か」のような気がする。
浅い眠りの中で蓮はそんなことを考えていた。
メールの返事を読んでから蓮は次第に自分の思考がまとまって来ているのを感じた。
やはりあのメモ書きは、日蓮を名乗る創造神(あぁそうだ、新しい呼び名を考えなければならない)が書いたものなんだと蓮は確信に近いものを持った。
潜在意識が釈迦で、釈迦が創造神なら、新しい呼び名は「潜在くん」でいいかなと思った。なんか小僧さんみたいで可愛らしい。メールで送ってみよう。
さて如来寿量品だが、一般に「如来寿量品」と呼ばれているのはその中の「自我偈」であって、本来の如来寿量品は長い経文だ。自我偈はその中の「詩文」の部分だ。
「私が仏になって無限の時が経つ。この間私は常に教を説き、人々を仏にして来た。私は死んだことにして姿を消しているが、常にここにいて教を説いている。私はここにいるが、人々には見えないようにしている。人々は私が死んだと思っているから、寺院を建て私を偲び慕う。人々がもし命を惜しまず素直な心で私の姿を求めるならば、私はいつでも姿を見せよう。私は姿を見せたり隠したりして、時々の状況に応じている。そんな私を信じ求める人がどこの国にいても、私はそこへ行き姿を見せよう。しかし大抵の人々はそんな私の言葉を聞かないで私は死んだのだと信じ、苦しみ続けている。実はそれは私が姿を消した大きな理由なのだ。苦しみの中で私の姿を渇望させるために私はそうしたのだ。人々の世界が大火事になってすべてが灰になっても、私のいる場所は常に平和で穏やかで、花が咲き音楽が流れている。神々や人々が溢れ、皆、美しい光景を愛でている。私のいる場所はこの景色が変わらず続くのに、私が見えない人々は私のいる場所も荒廃していると思い込んでいる。しかし私は何も変わらずにここにいるのだ。私の姿を見るためには徳を積み、素直な心になるのだ。そして命を惜しまず私を求めるのだ。私はその度合いに応じ度合いに応じた姿を見せよう。私はいつも考えているのだ。如何にして人々を仏にするかを」
これが自我偈の大意であり、その始めは「自我得仏来」で終わりは「速成就仏身」なので冒頭と末尾の一字を合わせると「自身」つまり自分になるわけだ。
「つまり私の中ではいつも仏が叫んでるのに、わたしには聞こえない、というか私は聞こうとしてないのね。それが自分自身の姿ってことか」
「そうか、お坊さんが転んでおばさんが手を差し伸べるって、当たり前なのに勇気がある行動なんだわ。一瞬の勇気だけど。人の目やほかの何かを少しでも気にしたら逸してしまう行動だわ。ましてもっと大きな人助けになるとそれこそ勇気が要るわ。場合によっては命がけだわ」
蓮はいつか夢うつつで見た光景を思い出した。
「ここにある徳を積むって、もしかしてこれが「何か」なのかしら?」
1人の人間が母胎に宿った時からそれは始まる。
1人の人間とは自意識で、何度も生死を繰り返す。自意識は前世の因子が形作る。その人の性格や地位、環境なども因子が決めたものだ。だから運命の出発点は既に決まっているわけだ。
そしてその先も、おそらく因子が決めているのだろう。そしていろいろな試練を与える。何もしなければ運命のまま現世を終えて、既に決まった来世を迎えるだけ。
どの自意識の中でも、その人間が胎内にある時に法華経に描かれる場面が展開し、釈迦は無意識という存在になり自意識の中に入る。
試練に遭った時、自意識が無意識を発動させることが出来れば、運命は変えられるのではないか?
つまり法華経とは、人間の無意識の中には、運命をも変える何か偉大な力がある事実を語っているのではないか?
現世の運命が変われば、因子が変わり、来世も変わる。
私の考えでは「勇気」とか「良心」とか「改心」とかいう言葉が、居所が定まらずに漂っている。
ともかく無意識の発動方向が「何か」なのではないか?
それと「南無妙法蓮華経」はどう関係するのだろう?
「絵」と「音」とはなんだろう?
あれからしばらく考えたことを、蓮はつらつらと書いてみた。
まだなんだかしっくり来ない。しかし今のところはこれが精一杯だ。
同じ文面を例の主にメールした。
創造神の呼び名は「潜在くん」では軽すぎるので、かつて大学の講義で聞いた「全てのものを創り出した偉大な何か」の名前「サムシング・グレイト」にすることにした。
となると、サムシング・グレイトは人間を創り、且つその中にいるということになる。
人間の中にいるサムシング・グレイトはいったい何を創り出すのだろう?
その証が「現証」だろうか?
「サムシング・グレイトとは考えましたね?知ってますよ、その言葉」
返事はすぐに来た。
「今の宗教界では違う宗派が手を取り合う動きがありますから、そこで出て来た言葉だと思います。
しかし宗派は無くなってませんがね。
とにかく宗派はいくつあってもいいと思いますよ。いろいろな考え方があるんだから。
ただ、お互いが迫害し合ったり、それこそ戦争するのはよくありません。あくまで考えの違いは、良い事の上であるべきです。
良い事の上である限り、入口はいくつあってもいいのですが、出口は一つでなければならないというのが私の思いです。
というか出口は一つしかないのです。
それは「自身」ですよ。
あなたの仮定、ほとんど固まりましたね?私もそこまではたどり着きませんでした。
そこでこれからは、あなたの仮定を元に考えて行きましょう。
私はずっと、宗教に於いて教祖といわれる者が現存していないことに痛手を感じていました。
もっとも各宗派の起源は遥か昔ですから現存していなくて当たり前なのですが、そのことで各宗派は人の中を伝わり、人の解釈によって姿を変え、枝分かれもしたわけです。だからどれが教祖の教えか分からなくなり、挙句はこちらが正しいの言い合いになっているのが現状です。
法華経に至っては、途中で釈迦自らが姿を消そうとしています。
そして法華経もまた、人の手を渡るうちにどれが本物かわからないくらい枝分かれしてしまいました。
でも私にはたしかに「現証」と言われるものはあった。
いやあったと信じる私がいるのは確かだ。
そんな思いから私は、これは法華経という経文よりも、法華経と言われる現象を探ろうという気になったのです。
そんな時にあなたの意見の中の「釈迦は自身の中に姿を消した」という表現を見て「これかも知れない」と思ったのです。
宗教を外れた所に潜む釈迦(釈迦と言えば仏教になるのでそれこそサムシング・グレイトと言いましょう)がいて、サムシング・グレイトが潜んだ人たちが信じるいろいろな宗教がある。
これが全体の構図かも知れない。
これが私の痛手の解決かも知れない。
そう強く思いました。
あ、また頭が痛くなる話、しましたね。
ではちょっと、頭をほぐしましょう。
「自身」の読み替えって、あなたはいくつ浮かびますか?
「地震」「自信」「自心」「慈心」「磁針」「慈真」「時辰」「侍臣」…
まだあるんでしょうが私に思い浮かぶのはこんなところでしょうか。
眺めてみると、なんだか仏教的ですよね。(笑)漢字ばかりで。(笑)
でもこの中の言葉を使って、法華経の核心めいたものは語れるんですよ。
例えば「地震」の場合は、自分を揺り動かす力とか、何がとてつもないエネルギーを連想させますし「自信」なら文字通り自分を信じること、そしてこのふたつが呼応すれば、自分の力を信じるという意味になって来ますね。この辺、あなたの法華経解釈に通じるものがあるでしょう?
「慈真」も「慈心」も繋がりそうですよね。
日本語って、こんなふうに語呂の中にも言霊があるんですよ。言霊はそれぞれ引き合い、新しい力を得るものだと私は思います。日蓮も、そんな言霊を使って、人の心を掴んだのではないでしょうか。
他の「じしん」もこういう観点から解釈すれば、それぞれが「自身」に繋がる解釈が出来るでしょうから、頭が疲れたらこの遊びをやってみて下さい。案外何か新しい発見があるかも知れませんよ。
また長くなりました。
私もまた、頭を整理してみます。
少しでも明確にご返事出来るよう努力します。
では今回はこの辺で」
「日本語の言霊かぁ。絵のことといい、音のことといい、法華経は単なる経文じゃないわ」
ただ、それらの要素の元になるのもまた経文である法華経だ。
さて如来寿量品だが、この章の肝心な部分は「仏の不滅」ということだ。
蓮は取っ散らかった頭を整理した。
例の医者の例えの通り釈迦は自分が死んだことにして、人々に自分への恋慕心を起こさせた。その恋慕心は自分、つまり偉大な力を呼び起こす原動力なのだ。原動力を人間に植え付けるために、釈迦は無意識化したのだ。
また「釈迦は人間の意識の中に消えた。しかし不滅であるということは、その母体である人間も不滅だということにならないか?」という考えも生まれた。前世の因子がもたらす現世の結果。そしてまたその現世の中での自分の変革、変革のために無意識化した釈迦を呼び出す。その連綿とした流れが法華経世界ではないか。
「う~ん、この辺の関係性、もっとすっきりまとまらないかなぁ」
すっきりしたようなしないような気持ちのまま、蓮は次章に進むことにした。
37.分別功徳品第十七
(ふんべつくどくほん)
この第17章については、蓮が読んだ様々な文献の大半が軽く流していた。
それは軽く流すというよりも、法華経自体が長々と話していないからじゃないかと、蓮は思った。
「分別」とは「分かる」ということだ。では何が分かるのだ?
これは分かるというより、分かったのではないかとこの章を読むうちに蓮は思った。
では何が分かったか?
それは「仏は死なない」ということだ。そして人間も長い目で見れば死なないということだ。
だから仏が死なないことを分かった者、そして分かった上で法華経を広める者には功徳を与えようというのがこの章の主旨ですべてだ。
主旨ですべてというくらいこの章は短くて明確だ。
蓮の考えに照らし合わせれば、不滅の力を不滅ゆえに永遠に内包しているということを知った人間は、不滅の力がもたらす効力を得ることが出来る、とでもいうことになるだろうか?
そして「知る」は、単に分かるという意味ではなく、意識するということではないだろうか?
さらに「広める」は人々に人間の構造を教え、自分を諦めないよう勇気付けることではないか?
蓮は今の思いの中の「意識」の音が気になった。
「意識?…自意識?…無意識?」
「意識」という響きの連呼、つまり音のリズムが何か大事なものを暗示している。
「法華経の音?」
蓮は少し胸が高鳴った。
「功徳を与える」
具体的にはどういうことなのだろう?
38.随喜功徳品第十八
(ずいきくどくほん)
前章からぼちぼち法華経を広めるという言葉が現れ始めている。
法華経とは、知って持って広める、すると功徳があると法華経自身が語るが、蓮の考えを当てはめるとそれは至極簡単なことになる。
「随喜功徳」…喜ぶ功徳…なんのことだろう?
知るとは超能力めいた無意識の力が自分の中にあることを知ることで、持つとはその存在を潜在意識化するまで信じることで、広めるとはその事実を人に教えるということになる。
もっと簡単に言えば「あなたは捨てたものじゃない」と声掛けすることだ。
この「広める」ことの連鎖がまた、功徳を与えることになると書いてあるがこれはどういうことだろう?
この「功徳」はやはり「超能力」だろう。言い換えれば「自分の可能性と、やっぱり超能力」だ。
「自分の可能性」は文字通り自分の未来は自分自身の思いようで変えられるという、現実的、言い換えれば哲学的な理屈だ。
「やっぱり」の部分は、それが未知だからだ。未だ科学で解明出来ないものだから。
「なんか環境が変わった」とか「なんか空気が変わった」とか「なんか良くなった」って、何かにつけ「なんか」がつくなんかだ。これがあるから宗教は哲学じゃないんだ。
医者が匙を投げた病気がなんだか知らないけど勝手に治ったって話を時々聞くがそれもこの「なんか」だろう。
そして「その連鎖の最後の方になると、もう広める力は無くなって、聞くだけのことが残っているだろうが、聞くだけでも功徳はある」と書いてある。これはなんだ?
蓮が考えたのは、これはたぶん、連鎖っていう、図に出来るような横の流れのことじゃなくて、伝える側の意識や感動がだんだん薄れて行くっていう、抽象的な縦の流れのことじゃないだろうか?ということだ。
「随喜」とは、その意識や感動の度合いのことでは?
「伝える側が法華経をあまり信じず理解出来ていなくても、聞きかじりの一言でも相手に言えば、その相手は聞きかじりなりの功徳を得るっていうことじゃないかしら?」
それは「ちょっとでも聞いたらそれなりにいいことがありますよ」ってことだろうか?
たしか「法華経を伝えるとは仏種を植えることだ」って以前講義で聞いたけど、それがこれだろうか。
法華経を信じようが信じまいが、聞いたら釈迦(=超能力)はあなたに宿りますよってことだろうか?
この章もこんなことを言ってさらっと終わっている。
次はどんな展開になるんだろう?
39.法師功徳品第十九
(ほっしくどくほん)
章のタイトルに「功徳」の文字が連続する。
「分かる功徳」に「喜ぶ功徳」そしてここではなんの功徳が書かれているのだ?
章に目を通しながら様々な文献を見るうち、ある文献にあった言葉が蓮は気になった。
それは「清々しい」という、なんでもない言葉だったが、その言葉、似たようなものをどこかで見た。
「あ、メール」
蓮はあのメールの主の言葉の中の「新しい自分が見る風景のすがすがしさ」という部分を思い出した。
ではその言葉があった法師品の部分は何が清々しいと書いてあるのだろう?
蓮は文献を読む。
法師とは、法華経を保ち、読み、書き、唱える者らしく、必ずしも僧侶ではなさそうだ。
この法師に与えられる功徳が「六根清浄」というもので、これはなかなか奥が深いようだ。
文献を掘り下げるとまた例の難解で
煩雑な仏教地獄にはまり込みそうなので、あくまで浅く考えようとここでも蓮は思った。
この言葉の中にある「六根」とは、目・鼻・耳・舌・身・意の6つのことで、このうち先の5つは人間の五感(視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚)で、最後の「意」は認識し思考すること(=知覚)だそうだ。
これらの感覚から人間は情報を得て生きているのだが、これらが汚れると生活に支障が出て来るらしい。
嫌なものを見たり、身体に良くないものを食べ続けたり、淫らなことをしたり、悪事を考えたりとかいうのがそれだろう。人間らしいと言えば人間らしいことだが、人間は本来、良心に基づいてものを見ているから、これらの汚れはいずれ苦痛となって来る。よく言う「煩悩」というやつだ。
蓮やメールの主も人の根源は良心だと思っている。良心の象徴が釈迦で、釈迦は人の心の中にいつもいるのだが、人はなかなかそこに到達出来ない。「こうしなければ」と思いながらなかなかそれが出来ない。煩悩が邪魔するからだ。法華経が言うには、その煩悩を除くには、法華経を保ち、読み、書き、唱えることだとここでは言っているようだ。
これはやはり、電化製品の「取扱説明書」の例えるのがいちばんだ。
常に持って、要点を書き写して、修理する者に教える、こんな取扱説明書のまつわる行為をしなさい、つまりは自分をよく知って行動しなさいというのが、蓮やメールの主が考える法華経だろう。
こうして良心に到達した時、それを最も身近な例で言えば、お年寄りに座席を譲ってあげた時に感じるすがすがしさが、人間が本来求めているものなのだ。その数が増えれば、この世の中、きっと平和になるだろうにというのがこの章の簡単な答えだろう。だから伝えろなんだろう。取扱説明書を。
40.
「分別功徳」「随喜功徳」「法師功徳」と法華経の中ほどでは3つの功徳が並んでいる。
これをもう一度整理してみようと蓮は思った。
と同時に、蓮はあのメールの主が創り出した「何も知らない日蓮」のことを思っていた。
私は深くはまらないようにと心がけてはいるが、ある程度は法華経に顔を突っ込んでいる。でもあの日蓮は、法華経の中身は何も知らず、絵と音だけでそれを勝手解釈してしかし広めた。
これはどういうことなの?
蓮は深呼吸して考えた。そして次のようにまとめた。
これら3つの功徳は、段階的に大きくなるという。
知った功徳が喜んで大きくなり、伝えればさらに大きくなる功徳の連鎖を呼ぶそうだ。
実際の日蓮は「法華経は褒め言葉ばかりだから、ただ褒めたらいいのだ」と「南無妙法蓮華経」が法華経の全てだと言ったが、メールの主がわざわざ日蓮を法華経無知に描いたのはやはり法華経は文面でなく絵や音で認識・表現するものだということではないか。つまりは学ばなくても身に備わっていて、そのことを知るのがまず肝要だというのがこの功徳の連鎖が語ることではないか。
確かに法華経は絵であり音ではあるけど「これがあなたの人体構造よ」という呼び掛けだけは文章で表さなければ伝わらない「あなたは自分の中にあるすがすがしさに気付かなければならない」ただそれだけが法華経の文章で、あとの複雑な文言は五臓六腑の姿形、そう、腸や細胞のぐちゃぐちゃした様子を文言にしているようなものなのではないか?
そしてそれらを知って、人間の本当の姿に出会った時、それを功徳というのではないか?
この連鎖、自分が段々人間になる様子を表しているようだ。
「あぁでもなかなか上手く言い表せない」
サムシング・グレイトと法華経と日蓮は、どういう構図で表されるのだろうか。
41.常不軽菩薩品第二十
(じょうふきょうぼさつぼん)
ここに書かれた「不軽菩薩」とは、釈迦の前世の姿であるという。
しかしその前世がどうも未来のことらしいのだ。なぜなら不軽菩薩がいたのは「仏滅後の末法の世」と書かれているからだ。
仏滅とは釈迦の死で、末法とはその遥か先の世、つまりは今だからだ。
「え?どうなってるの?」
蓮はまるでキツネにつままれたような気持ちになった。
不軽菩薩の不軽とは「人を軽く考えないこと」だそうだ。
不軽菩薩はその末法の世で、誰もが仏になれると説いていたが、人の中にはそんなはずないと、不軽菩薩に石を投げたり杖で突くような暴行を加える者もいたそうだ。しかし不軽菩薩はそんな目に遭っても、その人らに手を合わせて敬ったという。だから「不軽菩薩」なのだ。
不軽菩薩は死に際して永遠の命を授かり釈迦になり、不軽菩薩を罵った人は一旦地獄に堕ちたのち釈迦の説法を聞いて仏になったというが、これは何を言っているのだろうか。
「つまりは例えだわ」
蓮はここに書かれた釈迦とは、法華経を広める人で不軽菩薩はその姿勢、つまりどんな人にも偉大な力があることを、強く信じて伝える人の姿だと捉えた。
「石や杖は不信や罵声のことね」
今の世の中、宗教を信じて伝える人は変人扱いされる。なぜなら「信じることと熱に浮かされることは紙一重」の印象だからだ。
それは何も法華経に限らない。仏教、キリスト教、ユダヤ教みんなそうだ。
肝心なのは、伝える人の中に、ちゃんと当たり前の良心や常識があるかどうかだ。それがないと、誤解され攻撃される。つまりは「当たり前の常識」が「当たり前の常識の有無」を見ているのだ。
蓮はここで言う「釈迦」を「当たり前の常識」と「人間の持つ可能性」そして「不軽菩薩」を「信じる宗教を伝える人」と定義付けた。
まだしっくり来ない解釈だが蓮はただこれだけは強く思った。
「やはり法華経は、宗教の枠を出るべきだ」
42.如来神力品第二十一
(にょらいじんりきほん)
この章ではあの地面から涌き出た菩薩団が、釈迦の後を自分たちが引き継ぐことを誓う様子が描かれている。
菩薩たちの誓いの言葉に対し釈迦は、如来、つまり仏の神通力を見せるが、この描写は蓮が人間の内臓や細胞に例えた摩訶不思議な絵画なので、蓮は内容を追わずに眺め読みした。
この描写の大意は、とにかく法華経の功徳はこのように計り知れないのだということが、すぐ後ろに釈迦の言葉として記してあった。
法華経は偉大な力の宣伝と、自己の賛歌を何度も繰り返すが、これはやはり人間の可能性の認識を絶えず訴えているということだろうと蓮は思う。自己を投げず、諦めずに追い続けろという励ましの姿なのだと、自分の仮定に基づいた言葉で蓮は考える。その場面はみんな美しい。それはまた、法華経が人の良心に基づいているものの象徴なのだと蓮はこの考えを結んだ。
では励ます姿は誰の姿なんだ?と蓮はまた考える。
それはやはりサムシング・グレイト、この世のすべてを創造した力だろう。
その力が「人間用」に作った取説が法華経なのなのだろう。
「人間はこういうふうに作ったんだ、私は」
と、その力は言っているんだろう。
この章の最後は、法華経のある場所はどこでも道場だという言葉で締めくくられている。それはやはり、法華経は寺院にとどまらないものだということを表していると蓮は考える。そう、道端でおばさんがあの日蓮を助けたように、どこにでも仏の湧現の場はあるんだと。
43.嘱累品第二十二(ぞくるいほん)
この章で釈迦は、全ての求道者に法華経を広めることを命じている。
結局法華経は、ここに登場する誰もが得て、誰もが広めるものになっている。
「これって、法華経とは言うけどそれはなんの変哲もない普通の、当たり前のものだってことじゃないのかしら」
そして命を受けた菩薩たちはそれぞれ、
それぞれが受け持つ世界へ帰って行ったと書かれているが、そこはどこなのだろう?
少なくとも、娑婆(しゃば)といわれる人間の世間は、例の地面から涌き出た菩薩が布教を任されている。
だからその各世界は人間界ではないだろう。だったらどこなんだ?
「宇宙?ほかの星?どこなの?」
暫定的には宇宙としか、今の蓮には考えつかない。
「そうだ、メールしてみよう」
あのメールの主ならどう解釈するだろう。
蓮はさっそく、迷いの旨をメールした。
迷いの中でも蓮は、この菩薩団は人間の伝導行為の象徴では?と、今は考えている。
案外早く返事が来た。ということは、メールの主は既になんらかの解答を出しているのだろうか。
「嘱累品についてですか。うーん、菩薩の行き先ねぇ。
私も今のところはあなたと同じ解釈しか出来ませんね。菩薩たちは人間界と違う空間、それは宇宙空間かも知れないし、十界のそれぞれかも知れない。
しかし法華経は人の手が加わっています。だから今から、私たちが手を加えてもいいんじゃないでしょうか。
私ならこう手を加えますね。聞いて下さい。
私は日蓮の描いた髭曼荼羅から推理しました。
髭曼荼羅の中心にある「南無妙法蓮華経」の文字は「法華経の当体」と言われ、法華経を信じる者を指しています。つまり法華経の信者自身ですね。
そしてその周りを「諸天善神」といわれる様々な神仏が囲んでいます。これらの神仏は、法華経と法華経信者を守っています。また、法華経信者が法華経に祈る時の橋渡し的なこともしているのではと私は考えます。
簡単に言えば「祈りが通じる」時の信号の伝達役でしょうか。
私たち信仰者は祈りが通じたと思える現象に遭遇した時
「諸天善神が動いた」
と表現するのですが、私は嘱累品で方々に帰ったとされる菩薩たちの行き先は、この曼荼羅の中ではないかと思うのです。それは宇宙空間でもいいでしょう。結局、願いの通じ先である法華経=釈迦=サムシング・グレイトまでの伝達役、神仏に対して失礼な例えですが祈りが電気なら菩薩は電線と電柱みたいな、そういう任務に戻ったのではないかと思うし思いたいのです。
法華経より後に描かれた曼荼羅に、法華経より前にいたなんておかしな話ですが、宇宙が時空の世界であることを考えたら、これもあり得る話だなと私は思いますね。
人間とは不思議なもので、存在するのも宇宙なら、その体内も宇宙なんですよ。
あ、また難しいこと言い始めましたが、何かの参考になりましたか?」
44.薬王菩薩本事品
(やくおうぼさつほんじほん)
法華経はふたつの舞台構成から成る。
霊鷲山(りょうじゅせん)という地上と、虚空(こくう)と言われる空中がこのふたつだが、虚空で語られるのは法華経の核で、地上では法華経の輪郭を成すことが語られているようだ。
法華経の章(品=ほん)で言えば第1章から第10章までと、この第23章から第28章までが地上、第11章から第22章までが空中で語られている。
イメージ的に蓮は、地上は人間の体表、空中は人間の体内の話みたいなものだなと感じている。
そういうイメージから言えばこの章から先は法華経の体表の箇所になる。
この章、結構物騒なことが書いてある。
人間の性として、物騒や残酷には惹かれてしまう。
蓮もこの章の物騒な表現に惹かれて、他の章以上に念入りに読んだ。
ここには、薬王菩薩の前世が描かれているが、その表現が、蓮が思った「人の内臓や細胞のようなややこしさ」を端的に表していた。
薬王菩薩は、今、法華経が説かれている場にいる菩薩群のひとりだ。
薬王菩薩の前世は「一切衆生喜見菩薩」という名で、「日月浄明徳如来」という仏の弟子だったという。その仏から法華経を聞き感激した菩薩は、修行ののちに香を飲んで自分の体を焼いたというのだから物騒だ。しかしこれは焼身自殺ではないようで、菩薩は1,200歳になるまで燃え続け、世の中を明るく照らしたということらしいから、結果良いことなのだろうが、しかしこの表現は荘厳なのだろうが残酷だなと蓮は感じた。それは蓮自身が人間だから感じることかなとも思った。
しかしこの話、やはりややこしい。まさに「内臓表現」だ。
法華経を聞いて感激したと法華経に書いてありますということなのだからわけが分からない。
とにかく1,200という数字や、身体を焼いて世を照らすという表現は、法華経の装飾性と不可思議性の表れだとは思う。
これは輪郭の話において法華経は「私は素晴らしく不思議なものです」と言っているようだ。
そしてそれはそのまま「人間は素晴らしく不思議なものです」と言っているのだなと蓮は簡単に解釈した。
それが蓮が探る法華経だからだ。
45.妙音菩薩品第二十四
(みょうおんぼさつぼん)
「これを入れてあと5章かぁ」
残り5章は蓮の感覚からいけば体表の部分になるので、蓮はその表面を撫でる程度で読むことにしたが、この先1つだけ、撫でるだけでは済まない章がある。そしてその章が法華経の伝導と大きく関わることになるのだが、まずは残り5章の1番目から軽く眺めてみる。
先の「薬王菩薩本事品」からこの先は、法華経信者を守る働きや信者の心得などが記されているようだ。
この妙音菩薩とは六道輪廻(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を往来して苦しむ人の感情の様子)する人間を救うために34の姿で現れるという。
その姿は帝釈天であったり毘沙門天であったりという神仏の姿でもあるし、人格者や尼といった人の姿でもあるという。
現実的には「この人がいたから助かった」ということがそうだろうし、逆に「反面教師」と言われるものもそうなのかも知れない。
とにかく法華経信者には、こういった機会が多々現れるということだろうと蓮は解釈した。
46.観世音菩薩普門品第二十五
(かんぜおんぼさつふもんぼん)
そしてここが問題の章となる。
この「観世音菩薩普門品」は、後から人為的に加えられたのではという説がある。そしてこの章は、法華経を出て、単独で「観音経」という経文にもなっている。いわば法華経の異端児だ。
蓮は一般的な講義の中でこれらのことは聞いていたが、今、法華経について考え直すに当たって、この章が人為的に加えられたという点が非常に気になった。
「本当の法華経」がどれなのか分からない中で、どの法華経にもこの章があるならば、もしも本当にこの章が後から加わったとなれば、本当の法華経は皆無だということになる。
しかし蓮は、それはどうでもいいことだと改めて思う。なぜなら蓮が追うのは「法華経と言われるものを伝える行為」という法華経だからだ。
ちなみにこの章、単独で経文になるくらい分かりやすい。
観世音菩薩が33の姿になって、苦しむ者を救うというストーリーの中で、困ったら「南無観世音菩薩」と唱えればよいのだと、実に簡単な信仰方法を語っている。まさに他力本願の経文だ。
昔の特撮ヒーローもので、何かを唱えたり鳴らしたりすれば、スーパーヒーローが現れる的な構図だ。
対して本体の法華経は、簡単に言えば「私は手伝うけど救いません。あなたを救うのはあなた自身です」という、どちらかと言えば自力本願なものだ。だから他の菩薩はそういう意味合いで描かれていると思える。その流れの中でこの章が突然現れるのは不自然だ。よって後から加えられたのだというのだ。
蓮はむしろ、こうやって「法華経と言われるもの」が伝播の中で固まり、最終的に日本に来て日蓮が精製したという流れが、むしろこの章があることで強調出来ると思った。
47.
あの人から急にメールが入った。
例のメールの主だ。
メールの主とのやり取りの9割方は蓮からだったから、向こうから来るのは珍しかった。それだけに「なんだろう?」という気持ちが高まった。
「突然メールしてすみません。いや、とんでもない語呂合わせを見つけたのでつい興奮して。
いや、ホントなんてことないものなんですけどね、でも私たちの考えることの核心はこれだって思ったものなんで。
まぁ、前置きはこれくらいにして、その語呂合わせなんですがこれ、英語なんですよ。それもよく知る英語。英単語かな?
それは「GOOD」です。そう「グッド」イコール「良いこと」
勘のいいあなたなら、これがどんな英単語に繋がるか分かるんじゃないですか?
それは「GOD」つまり「神」です。
ね?「良いこと」と「神」
私らの言う「良心や改心」と「仏」ですよ。
でもこれだけじゃないんです。これだけじゃただの似た文字です。
問題は「GOOD」と「GOD」の違いなんです。
どう違いますか?このふたつの文字。
「O」がありませんよね?「GOD」には。
では「O」を見て何を連想します?
…私は車輪を連想しました。そこから転がるとか運ばれるということをさらに連想しました。
つまりこれは「良心」が「仏」に変わる過程じゃないかって思えたんです。
ホント、単なる語呂合わせのこじつけです。でもこのふたつの単語の意味があまりに今追っているものと合致したのが不思議なんです。しかも英語で。
サムシング・グレイト…これも英語ですもんね」
48.陀羅尼品第二十六(だらにほん)
「GOODとGODかぁ。たしかに単なる語呂合わせにしては出来過ぎよね、私たちの理論の上ではだけど」
蓮は法華経を最後まで読んだ後、さてこの仮定をどうしようかと思った。
まずはおさらいをしなければならない。そしてすっきりとまとめる。さらにそこから、新しい法華経を構築しなければならない。そして何か名前を付けなければならない。それこそすっきりした名前を。などと考えながらこの「陀羅尼品」を読んでいるうち、蓮は宗教の閉鎖的な世界を、またここに見た。
この章では「陀羅尼呪」という、また物騒な言葉が出て来る。「だらにじゅ」というそれは一種の呪いで、法華経を伝える者に害を及ぼす者は、頭が割れて七分になるという。七分とはどういうことかは分からないが、イメージ的にはおぞましいさまを連想する。
法華経のことだから、この者たちも一旦地獄には落ちるが、また救われるのだろう。しかしいずれにしても痛い目に遭わされることには変わりない。体を焼いて称えるとか、頭を割ってしまうとか、このあたりの法華経はなんともサディスティックだ。
ただここで蓮は、これを自分の仮定に当てはめたらどうなるのだろうと考えた。
今のところの蓮の仮定では、法華経とは人間そのものあり、仏は人間が改心する機会をもたらすもの、そして人間は改心することでその個々の存在意義を知り、知り得た意義が個々を羽ばたかせる。
そういうイメージになる。
そこでこの呪文だ。
法華経を守り伝える者とは、人間を大切にし、人間の在り方、つまり扱い方を伝える者だろう。簡単に言えば、常識的に生きなさいという、なんでもない人たちだ。
それを迫害する者とは、人間を軽んじる者、端的に言えば殺人者、ひいては戦争を引き起こす者や、あるいは自分で自分を軽んじる者、ひいては自殺者というものだろうか。
この章はいろいろな解釈が出来る。
単に善人を守るという意味にも捉えられるが他に、ここでは法華経だが、他の教義に置き換えてもこれは呪文のもとに、信徒を教義に括り付ける副作用がある。
信徒は守られるが、その他は害されるという意味で。
それは「呪文」という言葉があるからだ。だからここに蓮は宗教の閉鎖性を感じるのだ。
「やはり法華経は宗教であってはならないわ」
49.妙荘厳王本事品
(みょうしょうごんのうほんじほん)
「簡単に言えば、一般人がお経なんて読みますか?特に日本人が」
陀羅尼品で考え込んでいた蓮の頭に、こんな言葉が浮かんだ。
このなんでもない言葉に、蓮は一連の思考の核を感じた。
「法華経は宗教であってはならない」
この言葉を何度繰り返しただろう。法華経はその名称も外さなければ、真の意味が発揮出来ないのではないか?
その読書もあと2章を残すのみになった。
この章では異教徒が仏教(広い意味での法華経か)に改宗する様子が描かれている。
内容を簡単に言うと、ある国の王が「外道」(げどう)と言われる仏教ではない宗教を信仰していた。
王には二人の王子がいたが、王子たちは仏教(外道に対して内道)を知り、父に伝え、改宗させたというものだが、ここに出て来る「外道」は、今の世では「人の道に外れた者」という、いわば過激な言葉として認知されている。
この章では他の宗教に対して攻撃的な姿勢と、仏教に対しては防御的(閉鎖的か)な姿勢を見せている。
要するに仏教を出るな、そして他宗には関わるなと言っているようなものだ。
法華経はその末尾がかなり過激なものになっている。これはどういうことなのだろう?ここまで法華経にそれなりに親しんで来た蓮にとっては、舞台が空中から降りたこの数章が手のひらを返したもののように映る。
しかしこの表現も、蓮はあくまで自分を大事にしろという言葉の裏返しだと捉えたかった。
ただこの章の表現の仕方では、宗教色が強まるばかりだ。この章こそがらりと書き換えなければならないと蓮は強く思った。
「法華経は宗教であってはならない」
その思いがますます強まった。
50.普賢菩薩勧発品
(ふけんぼさつかんぱつぼん)
蓮の法華経流し読みも最後の章となった。
法華経では第1章で文珠菩薩(ここにいた弥勒菩薩が文殊菩薩に法華経が始まる前兆について質問するくだりがある。その答えから法華経が始まる)、そしてこの最終章で普賢菩薩を描き、このふたつの菩薩に挟まれる形で釈迦如来を置いた姿が、釈迦三尊として今の世に伝わるらしいが、これは日蓮の自我偈解釈や、蓮たちが考える法華経の絵画解釈に通じるものがあると、蓮自身思った。
また法華経全体が集会の場を舞台にしていることは、今で言えば宗教の会合をイメージさせる。
これは「感化」という、信仰と妄信の諸刃の剣の場でもある。
ここで拾ったこういう材料を元に、これから法華経の再構築に入るわけだが、いくら内容が難解で、時に厳しく恐ろしいものでも、それなりに親しんだ法華経を見終わることに、蓮は一抹の寂しさを覚えていた。これはやはり、法華経が集会の場で、今その散会を迎えようとしているからだろうか。
そしてこれから、散会の場の章を読む。
普賢菩薩(この場にもいたのだろうか?)という菩薩は将来の法華経受持者の保護と救済を誓い、その決意を釈迦が称えたという話を釈迦は話す。
釈迦が話し終えると、ここに集った者は散会し帰路についたという、始まりがあれだけ神秘的で荘厳だった法華経が、なんともあっさりした終わり方をしている。あっさり、それに現実的な終わり方だ。まるでコンサートの終わりのようだ。さっさと片づけて、さっさと帰ってしまう。これはただの人の動きだ。
「これってなんとなく不自然だわ」
実はこの章にはいろいろな説があることを、様々な文献を読むうちに蓮は知った。
この説に限らず、第21章の「如来神力品」から第26章の「陀羅尼品」は後から付け加えられたという説があることも知った。
この章は法華経の最後ではないという説があるし、前述した観音経の話もある。
それは法華経の表現が過激になる部分と重複していないか?
蓮はそれは人為のなす業ではないかと思った。
蓮の法華経は、まさにここから始まる。
51.
法華経を一通り読んだ後、蓮は宗教について自分が抱いている疑問を列記してみた。
法華経を調べるまでの蓮は、大学の国際宗教学部で世界の宗教を学ぶ一大学生で、それも特に明確な目的もなく宗教の概要を学ぶに過ぎなかった。
そもそも蓮がこの学部に籍を置くのも、この学部が入試の競争率で一番下だったからだ。受ければ入れる。そんな倍率だったからだ。
蓮はいずれ、実家の旅館を継がなければならない。だったら少しでも長く遊んでいたいし、ま、大卒なら旅館の女将としての箔付けにもなるだろう。まして「国際」が付くなら、後の言葉がなんであれインテリっぽい。そんな軽薄な動機で蓮はここにいるのだ。
しかしふとしたことから見つけた日蓮らしき人のメモに興味を持ったことから、遊びが学びに変わってしまった。
「人間は本来優しいものだ」
「優しさとは他人を思いやる気持ちだ」
「優しさが発揮された時、人は喜びの世界にいる」
「それが成仏だ」
「みんなが優しくなればみんな成仏するし、争いなんて起こるはずがない」
「この簡単な仕組みからなぜ人は目を逸らすのか?」
これが蓮が見つけたメモの一部だ。他にも「奇跡の原因は自分が雨男だからだ」とか「法華経を知らないまま広めてしまった」とか、自己を否定するような走り書きまで見つかった。
さらに不可思議なことがあった。
このメモは、現代人の創作した日蓮が書いたものだったのだ。そしてその現代人とは、今、蓮がメールのやり取りをしている人物なのだ。
蓮は法華経追跡に行き詰まり苦しむ中、些細なきっかけでその人物が書くページを知り、そこで展開される「とんでもない日蓮」の行状を見るうちに、このメモのくだりを見つけたのだ。
まさに時空が歪んだ瞬間だった。まさに法華経の世界だった。
そのページでは日蓮はある宿でこのメモを書いたとある。まさかそれが実家?
メモが見事に一致するから恐らくそうだろう。
蓮はこういった材料をどうまとめるべきか考え始めた。
そしてようやく自分が籍を置く学部が本来の居場所であることを痛感した。それも思えば不思議なことだ。
52.
蓮は学部で受けた講義のうち、そもそも宗教ってなんなのだという、最も初期の講座のノートを引っ張り出した。
そこにはこう記されていた。
記したのは蓮本人ではなく、代返と代筆をバイトにしていた学生だったから、蓮は今初めてそこに記されたものを読む感覚だった。(実際はテストの前に読んだはずだが、丸暗記して用が済んだらすっかり忘れていた)
「俗に宗教と言われるものは、原始の頃には存在していた。原始の人間は自然界との関わりが深かった。狩猟や農耕などは、自然のサイクルの影響を受ける分、その自然に対する感謝の念と、自然の厳しさに対する畏怖の念が「神」という存在を生んだ。「神」は自然を創り、自然を動かす絶対的な能力を持つ存在であった。その背景には人間という生物の脳、つまり知能の発達があった。
知能の発達は人間独自の「喜怒哀楽」という感情を生み、それら感情の往来に人間は惑わされるようになる。そして惑いの解決のひとつに「神にすがる」行為が生まれた。すがるものがあることで人間は心の安定を得る。それが「信仰」である。信仰を選択した者にとって自然現象への感謝や畏怖は神の力の象徴となり、信仰はその恩恵を得る手段ともなった。またその力を信じる者は、場合によっては「祈祷」や「呪詛」「占い」「予言」なども行なうようになった。
信仰の動機も知能の発達とともに複雑化して行った。恩恵を受けるための信仰や、救済を求める信仰などその目的も多岐にわたるようになり、それに伴い様々な信仰形態が生まれた。そしてそれらはまた様々な信仰団体を生んだ。
知能の発達は科学の発達でもある。科学は原始の人間の自然に対する畏怖を和らげた、つまり神の力の正体を暴いたが反面「科学では解決出来ない現象」を浮き彫りにもした。「シンクロニシティ(偶然の一致)」「スピリチュアル(霊的現象)」とか言われるものがそれである。また、人間には不可思議の余地が必要だという説もある。行き過ぎた科学は時として「神への冒涜だ」と言われる行為を行ってしまう。そして皮肉にも科学の発達は味気ない現代社会を生み、そこからの脱出手段として人間は科学で解明出来ない未知の世界に憧れ、旧来の宗教の枠を超えた新たな信仰対象や団体を生む結果となった」
「なんだか人間って、自分の脳の発達と闘っているみたいね」
蓮はノートに語った。
53.
ふと蓮は、いつかの講義で講師が言っていた言葉を思い出した。
「日本の宗教観は特殊でね、神も仏もごっちゃなんだよ。ほかの国では神は神、仏は仏と、信仰の対象は厳格に絞られているのに、日本は曖昧なんだよね。ほら、よく結婚式は教会で上げて葬式は坊主を呼ぶなんて言うでしょ?それに神社の中に仏像があったり、その逆で寺の中に神棚があるってのもあるでしょ?」
「この感じ、どこかで見たわ。あ、髭曼陀羅」
日蓮が書いた髭曼荼羅には、日本古来の神である天照大神の文字が目立っている。これはあらゆる神仏は法華経と法華経の受持者を守る現れだと蓮は聞いたが、逆に言えば宗派に曖昧、よく言えばおおらかなことは、宗教の否定にもなるのではないかと蓮は思った。
日蓮の意図はあくまで法華経という宗教の強調だがその日蓮でさえ、ここに仏ばかりではなく神まで持って来ているのはそんな日本独自の宗教観、引いては宗教の曖昧や否定まで含んだものが、日蓮の中にもあったからではないか?
蓮はむしろ宗教の否定感こそ重要なのではと思った。
なぜなら法華経とは人間そのものと仮定するからだ。信仰の有無を問わない、人間が本来持つ姿と力の解説文だと思うからだ。
日蓮に手を差し伸べたおばさんの姿がまた脳裏に浮かんだ。
「なぜ日本なの?」
ここへ「法華経」が「法華経と言われるもの」を運ばせた何か、つまりサムシング・グレートは、この独自の宗教観を持つ日本という場所こそ、法華経の完成の場として相応しいと判断したのではないか?
蓮の謎解きはまた一歩進んだような気がした。
蓮はここで、例のメールの主とのやり取りをおさらいした。
そのやり取りを抜粋し、眺めてみた。そして簡単に列記してみた。
・日蓮は法華経の中身がない上に、それを人間が伝えたことに注目し、自論で再構築した。
・日蓮はそれを最良の経文とした。そして日本語ゆえの解釈をした。その際、法華経は文章としてではなく絵画として認識された。結果、法華経は日本製となった。それは経文ではなく行為としてだ。
・人間は神仏も悪魔も持つ構造物だ。その解説書が法華経ではないか。
・潜在意識と無意識と無は等しいのではないか。霊鷲山は体内風景ではないか。
・菩薩行と大げさに言うが、それは単なる人助けのことではないか。その方が現実的だ。
・善行は一般的な善行と、自分に対する善行がある。一般的な善行とはそれこそ親切というものだろう。自分に対する善行とは、自分を活かすことだ。
・人間=人の間=娑婆世界=菩薩の望む居場所
・釈迦がもらった一杯のミルクの意味するもの
・法華経の三大事である「法華経は唯一無二」「仏は不滅」「法華経を広める」ということが指すものは何か。
・因果因縁の不思議。
・複数の信仰をしてもバチが当たらなかったメールの主の祖母の話が意味するものは、宗教は争わないものか、或いは元々ないということではないか。
・釈迦は人の体内に姿を隠し、仏(良心や不思議な力)となった。その様子が法華経に書かれているのではないか。
・「南無‘伝‘妙法蓮華経」…法華経とは「法華経と言われるものが法華経として成立する場所へ運ばれること」ではないか。
「ふぅ、疲れた。ミルクを飲んで休憩、休憩」
「あぁ、おいしい。これが釈迦が飲んだミルクかしら」
「さて、再開」
蓮は作業を続けた。
・良心とは勇気。
・地涌の菩薩は新しい自分。
・日本語による「絵画の解答」をサムシング・グレイトは望んだ。
・日蓮は「法華経は褒め言葉ばかりだからただただ褒めよ」と言い「南無妙法蓮華経」となった。そしてそれは法華経の当体である自分自身だとも言った。ということは「自分は素晴らしい」と解釈出来る。
さてここで日蓮がしたことを簡単に列記してみようと蓮は思った。
これは実際の日蓮の軌跡だ。
・清澄寺という所で天台宗を学ぶ。
・天台宗の総本山である比叡山延暦寺に入り、そこから高野山などの諸寺を回って様々な経文を学ぶ。
・結果、天台宗の元となった法華経こそが釈迦の本当の教えだと確信する。
・その後、法華経の布教を始めるにあたり日蓮宗を立宗する。
・布教に当たり当時の鎌倉幕府からにらまれ、何度も命を落としそうになる。
・しかしその最期は平穏なものであった。
ここで法華経は日蓮宗と呼び名が変わるわけだが、変わったのは呼び名だけではなく、その内容や姿も変わったと思われる。なぜならそこに日蓮の解釈や言葉が入ったからだ。
しかし法華経自体、それまでに姿は変わっている。実際、真の法華経は釈迦の口から出た瞬間にしかなく、あとは操作と伝達と推測だけの経文になっていたと思われる。それは法華経の後半何章かが不自然に繋がっているからだ。
だがそれも法華経で、法華経はこの「法華経と言われるもの」を法華経に精製する場所へ向かう意思そのものだったのだ。
その結果が日蓮宗で、例のメールの主はその信仰者だ。しかしメールの主はその日蓮宗の在り方について疑問を抱き、架空の日蓮を創作し、架空の歴史を作った。その日蓮の姿はこうだ。
・中国語を知らない。
・まして法華経も知らない
・単なる雨男
これは要するに「ただの人」だ。どこにでもいる男だ。言い換えればこの世の誰もがこの日蓮なのだ。
そして彼は何かにそそのかされたように日蓮宗を立宗したが、それは発展し、実在の日蓮と同じ実績となった。
「…そのメモ書きが私の家にあった」
蓮はメールの主に尋ねた。
「あなたが抱いた日蓮宗への疑問って、何なのですか?」
さっそく返答が来た。
「疑問って言うのは、日蓮宗そのものへではないんです。むしろ、宗教そのものへなんですよ。
私の話の中の日蓮が、女性に助けられる場面がありますね?
あれって日常当たり前に見る場面ですよね?
そしてその女性は無宗教者です。でも当たり前に親切をした。しかしそれは当たり前なんですがなかなか当たり前に出来ない。いちばんいい例が電車やバスでの座席の譲り合いですよね。ただ立つだけなのになかなかそれが出来ない。実は私もそうなんです。なかなか座席を譲ることが出来ない。なんだかんだ理由をつけて結局立たない。ということはそれを当たり前に出来る人はとても偉いと思うんです。しかもそれが無宗教者なら、信仰者であるこの自分って、いったいなんなんだ?自分が信仰している宗教っていったいなんなんだって思ってしまったんです。
信仰者は「信仰しない者は救われない」と言いますが、じゃぁ信仰のないこの親切な人は救われずに、信仰はしているが座席が譲れない私は救われるのか?こんなのおかしいと思ったんですよね。
神や仏っていったい何を見ているんだって思ったんですよね。
だから神仏もその功徳も、実は絶対違う場所にあるんだって思ったんです。それがこのページを始めたきっかけでした。そして私は大病にかかり、その時の情けない感情からさら自分のちっぽけさを知った。信仰者がこれですよ?
あ、なんだか愚痴っぽくなって来ましたね。
話を座席に戻しましょう。
よく「優先座席」ってステッカーを見ますよね?
それを貼っている座席にはなかなか人は座らない。この光景ってなんでしょう?
それは人が自然に持っている「良心」の為せる業だと思うんです。
私はこのステッカーが「法華経への入り口」だと思っています。
それへの人の反応は次の3つでしょう。
①貼ってあるから座らない人。
②貼ってあっても座るけど、必要とする人か来たら譲る人。
③貼ってあっても座ったまま、必要とする人が来ても譲らない人。
そして
④貼ってあろうがあるまいが、当たり前に座席を譲る人。
がいます。
今度は①から④を目撃した自分の気持ちです。
どれがいちばん気持ちいいでしょう?
私はこんな何気ない人の生活の中にこそ、神仏はいると考えたんです。そしてそのシンボルとして、あの日蓮が出来たんです」
「その創作の人物のメモを見つけたのがここに実在する私だなんて、これこそ法華経の世界じゃない」
「でも、架空の人物のメモ書きが私の家にあったのなら、もしかしたら私自身も架空の人物かも知れないわ」
そんな思考を巡らせていると蓮は、いつだったかに聞いた宇宙の話を思い出した。
それは地球を起点に宇宙の距離を測る話だったが、その壮大さに目が眩みそうになった記憶がある。
地球が1ミリの点だとしても、わりと近いはずの隣の銀河系あたりまででもキロ単位の距離、それも何万、何億だと言われると、この間に地球と同じような星があり、神や仏もいて当たり前という気持ちになる。また光の到達時間が何千、何万年だと言われれば、時空の歪みや矛盾もあって当たり前だと思える。法華経で言う「私は今にも過去にも未来にも存在している」的なセリフもすんなりと体に入るような気がする。
何より人間の大きさが、1ミリの何万、何億分の1というちっぽけなものなのだ。しかも宇宙や地球や人間といった大小全てを、創った者がいるのだ。それは人や物体の姿ではなく「秩序」とかいうものだろうか。
ここまで考えただけでも蓮は、宇宙には想像を超えた力が動いていることを感じる。その動きはまた、このちっぽけな人間ひとりをも、丁寧に創造している。それが細胞であり免疫といったものだ。これらは宇宙の星々に似ている。
この壮大かつ緻密なものを手抜きせずに創り上げ、今もまた創り続けている者は、その足跡を法華経に記したのではないか?
そういえば法華経の「嘱累品」には「菩薩たちがそれぞれの受け持つ国に帰った」と書かれていたが、やはりそれは宇宙で、宇宙には人間と同じく法華経を必要とする生命が存在するのだと、今、蓮は確信した。だから法華経はやはり、生命のあるべき姿を書いた解説書なんだと蓮は思った。
「これを元に論文にまとめよう」
蓮はこの興奮を、まずメールの主に伝えたかった。さっそくこの思いをメールに打ち送ったが…
メールは宛先不明で返って来た。
54.
彼はどうなったのだろう?
幸い彼のページはダウンロードして取ってある。まだ全部は見ていないから、どこかに彼がいなくなった理由が分かる箇所があるかも知れない。
しかし気になる。
まさか彼自身がこの世から消えてしまったのだろうか?それとも違うアドレスであのページを続けているのだろうか?だったらなぜだろうか?
とにかく考えても仕方ない。彼は宇宙に消えてしまったのだ。そう思うことにしよう。これもまた法華経のような気がするから。
私はここまでの思いを、一つの論文にしなければならない。
それは私の使命になっている。
メールの主のアドレスが消えていたことで反射的に蓮が想像したのは、彼の死だった。
死は人間に確実に訪れるし、それはいつかは分からない。そういえば彼のページのどこかに死を匂わす表現があったような気がするが気のせいだろうか。
とにかく死は必ず来る。今日、事故で死ぬかも知れないし、今日、不治の病気を発症するかも知れない。
人は、いや生物は必ず死ぬ。この事実と苦悩が仏教、ひいては宗教の根源にあることは確かだ。
ではいったい「生」とはなんなのだろう?なぜ生物は生まれ死ぬのだろう?
この営みを蓮は動画のように考えていた。
例えば種が芽を出す。
芽は伸びて葉を出す。
そして花が咲き種を作る。
種は地に落ちてまた同じ種類の芽を出す。同じ花が咲き、同じ種が出来る。
その繰り返しの中で弱った草木や病んだ草木は枯れて死ぬ。
ただこれだけのことだ。
意味があるとすれば「種の保存」それだけだ。
植物はそれを当然のように淡々と行なっている。
それが同じ生物でも人間の場合はなまじ知能が発達しているから、生死を淡々と行えない。
生に対する喜びと、死に対する恐れに遭遇する。これはまるで、モノクロで淡々とした生死に、感情という色彩が施されたようなものだ。生も死も、鮮やかに輝いている。
「絵画?」
そうだ蓮の法華経研究の中にも「絵画」という言葉が出て来た。
それは経文や髭曼荼羅の所でだ。
そして法華経という絵画の中で語られるものは、自身の生死だ。
絵画として考えてみれば「種の保存」は「風景の保存」になる。
人間の感情世界を絵画的に見せて語る…法華経とはそういうものではないか。
またひとつのヒントが蓮の前に現れた。
蓮はいつか「一般人がお経なんて読みますか?特に日本人が」という言葉が頭をよぎったことを思い出した。
「そうだ私はこの言葉に、法華経を追う鍵があると思ったんだ」
生死の絵画というヒントが出たところでこれを法華経の伝わったルートに当てはめてみれば、法華経は読まれずに眺められる所に落ち着いている。それが日本だ。そして日本人は宗教に対して無頓着だ。特に仏教へのそれは顕著だ。日本人の中で真面目に経文を読むのは僧侶か学者、それに信仰団体くらいだろう。一般人はほとんど知らん顔だ。
さらにその僧侶でさえ、なんの都合か経文を仏前でバラバラめくって「読んだこと」にしているくらいだ。
葬式の場面がそれを端的に表している。
遺族のほとんどは出された経文のフリガナを読むが意味なんて理解していない。ただその音に「らしさ」を感じているだけだ。それよりも正座の苦痛の方に神経が行っている。
同じ宗教でもキリスト教や神道に対しては日本人はまだ正面から対峙している。
教会で聖書を読む光景や、神道で成り立つ街があることなどがそれだろう。そう、神を信仰することは生活に染み込んでいるのだ。それに比べて仏教は、考え方の違いは大きいだろうが信仰即生活という点については希薄だと思う。
最もいい加減なのは、日本では結婚式はキリストを含め神前が多く、葬式は仏前が多いことだ。確かに日本には神仏同居の思想が古来からあるが、これはそういうものではない。一種のファッションだ。これは明らかに信仰ではない。まさに無宗教状態だ。
しかしだ。
だからこそ仏教である法華経はここを発展の場所に選んだのではないか?なぜなら法華経は絵画であり音楽だから。
読むのではなく、感じるものだから。
読まなくても理解しなくても法華経を感じられるということは、もともと人の中に法華経が存在しているということではないか?
言い換えればそれは宗教ではなく、もともと体の一部だから無宗教なのがいいのだ。
それは真面目に経文を読む場所では得られないことだ。だからこの、仏教にはいい加減な日本に来たのではないだろうか?
では誰がそうしたのか?
もちろん、生死というものを創造した何かだ。
蓮はこれを核にした卒論を書くことにした。
そしてこの現象としての法華経を「法華経と言われるもの」の中に反映させてみれば、本当の法華経が姿を現すのではないかと思った。
蓮は卒論のタイトルを何にしようか考え始めた。
「法華経についての考察」ではあまりに平凡過ぎる。
「私は何を書こうとしているのだろうか?」
蓮はまず大まかな構成を考えてみた。
①法華経を敢えて「法華経と言われるもの」と呼び、それが辿った道のりを記す。
「いや違うわ、まずは動機よ」
①私がなぜ、法華経を調べるようになったか
「それよね。でも」
まさかネット上の人物が創作した日蓮という人物の記したものが自分の家から出て来たからとは、さすがに書けないなと思った。こんな変な話、ないからだ。動機からして信じてもらえない。
ならばメールの主が言っていた言葉をもらおうか。法華経は宗教であってはならないという言葉。
「でもその前に、じゃ、なぜ宗教であってはならないか?って話になるわ。さらにその前に宗教って何?になるわね。
うーん、どこから手をつけよう?」
と、ふっと蓮の頭に「芸術的法華経」という言葉が浮かんだ。
メールの主とのやり取りの中で何回も出た「絵画」と「音」がヒントになったのだ。
蓮の頭の中に、絵画を運ぶ日蓮の映像が浮かんだ。彼はただ「なむみょうほうれんげきょう」という音だけを発している。その音の中には「法華経と言われるもの」が語る真理が込められている。
絵画が運ばれる先は日本だが、その国の人は無宗教者が多い。
「そこが切り口だわ」
「タイトルは」
何も書いていないパソコンの画面を前に、蓮は少し考えて、保存しているあのメールの主のデータを開いた。
「浅い法華経」
メールの主のページタイトルだ。
あれこれタイトルを考えたが、これを超えるものはない。これを使わせてもらおう。法華経は法華経にあって法華経にあらず。だから法華経は浅いくらいがちょうどいいと、タイトルの断り書きにあった。
そしてその構成だが、核は「信者ではないと救われないはずがない」という思いだった。
蓮にしろメールの主にしろ、今までは信者側からそれを見ていたが、むしろ反対側にいる「無宗教の人たち」がなぜ無宗教なのかを考えるべきではないかと思った。特に蓮らが考える「法華経の精製地である日本」になぜ無宗教者が多いのかも併せて考えるべきだと思った。
そこで構成の①は「無宗教である理由と無宗教者が多い日本人の特徴」にすることにした。
そして②は「無宗教の人たちが無宗教のまま理解しているはずの法華経」にしようかと思った。これは「芸術的法華経」の部分だ。
「そこから先は…」
蓮は手許のノートパソコンにようやく卒論を書き始めた。
さわりを打って、まずは教授に見せなきゃと思った。
そこから先はその後だ。
55.
「さてと、教授へのさわりはどうしようか?つまりは卒論の冒頭ね」
論文のテーマはあくまで法華経だから、その冒頭はやはり法華経自体から入るのが自然だろう。
蓮は法華経のどこに切り口を持っていくかを考えた。
「法華経の中で重要視されているものはたしか…」
蓮は今回の研究はもちろん、大学で学んだことも含めて熟考した。そして
「方便品と如来寿量品だわ」
やはりそうかという結論になった。
「この二つを法華経という生き物は【法華経といわれる経文】を介して伝えたかったのかも知れないわ。誰もがこの二つは大切だと言って来たのだから」
如来寿量品ではやはり「自我偈」の一節が重要だろう。視覚効果として見る法華経を、これほど端的に表しているものはない。
そしてこの二つが言いたいことを簡潔に言えば
「方便品」は「信じるとは何か」
「自我偈」は「信じるものは自分」
ということになる。
そして何よりも「自我偈」の中に「自身」を見つけたのはかの日蓮、つまり日本人だということが大きい。この解釈を含んだ日蓮宗の法華経は、唯一無二の日本製法華経だ。唯一無二とは日蓮宗だけが正しいというのではなく、そんな解釈をするのは日蓮宗だけだという意味なのだが、もしも法華経の意思がこの唯一無二のものに辿り着くのなら、その背景に何があるのかを卒論の骨子にしたいのだ。
「だから日本人の特性が要るのよ。日本人の特性…そう、神仏混在のおおらかさ、悪く言えばいい加減さ…いい加減?いい加減って、もともとは良い加減っていい意味だったはずだわ。そして日本人のほとんどはそんなに深く信仰の中にいないわ。むしろ最近は信仰を怪しいものだと捉える向きがあるかも。あと、長い物に巻かれろとか、そう、なんだかんだいって諦めやすい。物事をあんまり深く追求しない、閉鎖的、保守的、だからかな、政治に対しても不満は持っても表立っての反論はしない。だから争いは起こりにくい。そういえば外国人と比べたら静かね。外国語も苦手よね。うーん、とにかく良いにつけ悪いにつけ適当で保守的なのよね」
蓮はこれら日本人の特性を簡単な言葉で紙片に書いて並べてみた。
「いい加減、適当、諦め、口よりも目で話す、保守的」
そして
「方便品、自我偈、日蓮宗」
これらをどう組み合わせて卒論の冒頭にしようか。
蓮はまるでカルタのように目の前に並んだ言葉たちを眺めていた。
56.
「そうだ、法華経はまるで友達みたいだと思ったことがあった」
蓮は以前感じたその思いにこそヒントがあるという前提で、目の前の言葉をもう一度眺めてみる。
「法華経は生きものだから友達で、それは誰?」
蓮は自問自答する。
「それは自身、つまり自分。友達だからもう一人の自分。そして」
「可能性。自分の可能性。友達は可能性を秘めた自分」
「それを本尊として信じろ?つまりは自信を持て?」
「法華経は生きものだから宗教じゃない。だから正面から自分を宗教と見ない土地で根を下ろそうとした?日蓮宗を介して?」
「それでもまだ今は宗教だと認識されているわ。ここから先、法華経は何をするの?」
そもそもはあのメモから始まった。そして教授とのやり取りがあった。この論文を教授に出すからには、あの時のやり取りをもう一度思い出そうと蓮は思った。
「また整理だわ」
何度も何度も整理をするのだが、本当に法華経の迷路は複雑だ。
「よし、何回目になるか分からないけど、もう一度おさらいよ」
蓮はまず、教授とのやり取りを思い出す。
「あ、雨男。そうだあれは蒙古襲来とか龍ノ口とかの…」
「雨男」…教授が興味を示した言葉だ。
「偶然とはいえ、日本や日蓮はこれで難を逃れたんだわ」
蓮は「雨男」とメモした。
「雨男はあくまで偶然。でも、偶然で片付けられないものが背後にあるようなきがする」
日蓮の伝説にも確証はないが、なぜか彼の法難と日本の国難は風雨が救っている。
「そして日本は侵略を受けず…あ、日本って不思議と侵略されずに今まで来てるわ。それに日蓮は結局、畳の上で往生して、日蓮宗も今に伝わっている。何か不思議ね」
蓮の頭の中では、日本の形が海の中から浮き上がり、その姿を自分に突きつける映像が流れていた。
蓮はその先を思い出す。そして
「あとは、あ、メールの主だわ」
今度はメールの主とのやり取りを復習しなければと思った。
「彼のページをもう一度開こう」
蓮はPCの電源を入れた。
立ち上がりを待つ間、いろいろと彼のことが頭に浮かんだ。
「彼はよく語呂合わせをしていた。あ、それは日本語だわ」
「そして語呂合わせがもたらす妙な共通点…うーん、言葉の共鳴?自身と自信とか。何かしら音だけで説法するような。これは言霊?日本人は言霊の民族なの?」
蓮は急いで「日本語・言霊」とメモした。
57.
「え!どういうこと⁈」
立ち上がったPCの中に、保存していたはずのメールの主の記録はどこにもなかった。代わりにデスクトップ画面に「蓮様」という名前の付いた、見知らぬファイルがあることに蓮は気が付いた。何かのウィルスかも知れないと念のためスキャンしてみたが異常はない。蓮は思い切って開けてみた。
そこには
「突然姿を消してすみません。想像されたかも知れませんが私はもう、この世には存在しません。あれから程なくして亡くなりました。しかし今はここにいます。あなたとはいろいろと言葉を交わしましたが、私は死ぬ段に至って簡単な悟りを得ました。それはあんなに迷っていた法華経の迷路が、なんだこれはというほどに単純な道だったことを、昇天しながら俯瞰で認めたからです。だから生前の迷いは却ってあなたを迷わすだけなので、それを消去し、代わりに私の悟りのヒントをここに置いておきます。あなたは私の産物ですが、私がいない今は私自身です。私は別の人間になりもうこの話を進めることは出来ません。ですから私であるあなたに私の以後を託します。
・本尊は宿命を克服した自分
・祈りはその自分に智慧をもらうこと
・信じるとは本尊を成せると思うこと
・布教とは本尊の存在を知らせること
・自意識が一つしかない事実
・一つだから本尊
ではよろしく」
という文言があった。
「やっぱりここは、あの人の中だったんだわ」
このような状況をどこかで見たような。
「そう、法華経よ」
蓮は自分がいるこの仮想空間こそが、法華経の空間であると思った。
「私は何者なの?」
自分は何者か?
この単純な疑問は単純だが無限に深い。
蓮も時々「自分」という存在の不可思議さについて考えることがある。しかしその度に分からなくなって投げ出してしまう。
まず自分は自分であるのに自分が見えない。鏡やガラスに映る自分は見えるがそれは実像ではない。他人はその数だけ実像が見えるのに、たった一つの自分だけが虚像なのだ。これはいったいどういうことなんだ。
そしてファイルにある「自意識」という言葉。自意識、つまり自分を意識しているということ。これは自分を除いた誰も感じることが出来ないものだ。そしてそこにある数字は「一」。
蓮はふと、釈迦が生まれた時に喋ったという言葉を思い出した。
「天上天下唯我独尊」
「独」とは「一」のことだ。
「そうだ」
ふと蓮は、どこでもいい、寺院という所に行ってみようと思った。
何をしに行くのか。
「一」の姿を確かめたくなったのだ。
58.
本尊とは宿命を克服した自分…
蓮は今、ある寺の本尊の前にいる。
この寺の宗派が何かとは問わない。蓮はただ、メールの主が残したファイルにあった、本尊とは何かの言葉を思いながら、本尊、法華経の場合の本尊である自分の姿を、本尊と言われる仏像を通して見てみたかったのだ。
本尊…本尊だからこの広い寺の中にはたった一つしかない。この本尊も一人孤独に佇んでいる。しかしそれは「孤独」というよりその色彩、光線の具合で「孤高」に見える。
その本尊とは宿命を克服した自分とあるが宿命とはなんだろう。
蓮が調べた辞書には、宿命とはその人が生まれる前から持っている運命だと記してあった。
つまり本尊とは、生まれる前から持っていた運命を克服した自分ということになるが、では克服とはなんだろう。
目の前の本尊は薄目を開けて立っている。その目はこれから開くのだろうか、それとも閉じるのだろうか。
とにかくこの薄目を開いて一人で佇む姿が宿命を克服した自分なのだ。
本尊をじっと見るうち蓮は、宿命とは各々の性格や容姿ではないかと思った。
外からははっきり見えるのに、内からはなかなか見えない。そう「自分」と「自意識」に通じるものだ。自分なのに自分が邪魔してなかなか見えないもの。その自分とは自分の性格であり容姿である。
たしか法華経の正式名は「妙法蓮華経」で、その「妙」とは蘇生のことだと日蓮は言ったという。
「蘇生」つまり生まれ変わること。
ならば本尊とは、自分の性格や容姿を克服して生まれ変わった自分ではないか。
蓮は本尊の薄目は、開くものでも閉じるものでもなく、本尊の前にいる現在の自分を見つめるものではないかと思えて来た。そこからは常に自分の性格や容姿がもたらす喜怒哀楽への答えが漂い出ているのではないか。
「1」が「1」を見つめる構図に今、蓮はいる。
蓮はこれは決して息抜きではなく、法華経という生き物がここへ自分を連れて来たのだと思った。
なんのために?
それはやはり法華経が、文言で読むものではなく、こうして立体的に体感するものであることを知らせるためだ。
「やはり法華経は絵画であり、音であり、こういう風景なんだわ」
本尊の前の薄暗い空間で、次第に論文の骨子が見えて来た。そして
「天上天下唯我独尊」
何気に呟いたこの言葉に
「あ…」
蓮は何かを見つけた。
「なんて簡単なことなの?」
目の前の本尊の薄目と目が合った。
「天上天下唯我独尊」
釈迦が生まれた時に喋ったとは言われているが、恐らくは後世の誰かの言葉だろう。
しかし言ったのは誰でもいいのだ。この言葉が今もこの世に残っていることが大事なのだ。なぜならそれが法華経の意思だからだ。
そしてこの8文字に法華経の全てがあるからだ。
「世の中にただ一人しかいない自分を大事にしろ。自分の性格や容姿がもたらす正のものを喜び、負のものに落胆せずにそれがもたらす正を探せ。無駄は決してないはずだ。落胆も失敗も財産になるはずだ。それが自意識の為すべき使命だ。そして自分の本尊たる姿に近づいて行け」
なぜかこんな言葉が勝手に自分の中を流れた。なぜだろう?急にだ。蓮はこのことをメモした。「なぜか、急に」と。
端的に言えば自分の正も負もみな財産のはずだ。それに気づけということだが、法華経の経文の中にも、自分の真の姿や自分の特性の利用方法に気づけという意味合いの文言が出ていた。
「つまり天上天下唯我独尊が法華経と言われるものが言いたいことで、南無妙法蓮華経が法華経と言われるものの言いたいことを実践しますで、布教と言われる行為は宗教を広めることじゃなくて、一人しかいない自分を大事にすることを教えて行くことなのよね」
あのファイルに記されていたことをまとめたらこういうことだろう。
「そして、法華経という生き物はその想いの発信の場所にこの日本を選んだ…のだろうか?」
だとしたら法華経はなぜこの日本を選んだのだろう?
論文の骨格はだいたい見えたが、そこに付く血肉の部分がまだ不明瞭だ。
「お茶でも飲んで考えよう」
蓮は寺を後にし、自宅の最寄り駅の前にある、お気に入りの喫茶店に行くことにした。
そこは「カフェ」ではない。古い喫茶店だ。駅前の古いビルの上階に昔からあり、そこからは駅を行き交う人々が俯瞰出来る。
今の蓮の思索にはうってつけの場所だった。
「何もかもが日蓮の自我偈解釈から始まっていたわ。【自身】から。そして彼と私はそれをまた【自信】に置き換えたりした。日本語の音として」
頼んだコーヒーが来るまでの間、蓮は眼下を行く人の流れを見ていた。
「みんな自分が見えない自意識なんだわ」
蓮がこの喫茶店を選んだのは、こうして人が客観的に見えること、そしてその適度な暗さだった。その暗さは、さっきまでいた寺の本堂の暗さに通じていた。
寺が自分を見つめる場所なら、ここは他人を見つめる場所だった。そしてその適度な暗さは、その行為に相応しかった。視界が暗さで狭まって、その分、自分を浮き立たせていた。
「みんな何かを求めて駅を行き来している。そういえば何一つ、同じ顔がないわ」
蟻の群れのごとくにこれだけ多くの人がいても、同じ顔はない。不思議なことだ。
「でも双子や三つ子がいるわ」
もしも完全に瓜二つの顔があったら、それはどうなるのだろう?蓮の想像は膨らむ。
「そう、それは双子や三つ子ゆえの顔だわ。つまりは双子だから、三つ子だからっていう環境だわ」
それが性格や容姿がもたらす正や負なのだろうなと蓮は思う。
そういえば蓮にも双子の友達がいた。女の子だった。親しかったのはその片方だったが、彼女はよく愚痴っていた。
「同じ顔なのに、向こうは賢くて私はバカ。向こうは明るいのに私は暗い」
その時はなんとも思わず聞き流していたが、今、考えてみると同じ顔だけにいろいろ比較されたのだろう。同じ顔ゆえの愚痴が出て、それが唯一の性格を作り、今頃あの子はその性格がもたらした環境の中にいるはずだ。
もしかしたら目の前の群衆の中にいるかも知れない。
コーヒーが来た。一口飲んだ。また思い出した。
前にもコーヒーを口にした時、苦行に弱った釈迦が飲んだ一杯のミルクを連想した。
あの話、なんの難しさもない。意味の無い苦行よりも、自分の身体に必要なものの方が大事だということだ。至って現実的な話だ。釈迦はそこで悟ったという。
寺からここまで、蓮は経文の一文字も眺めていない。なのに経文の核心のようなものにはしっかり触れている。それは目にする風景、つまりは現実が教えてくれたのだ。これは現実世界も見方次第で、お経の文字になるということではないか。見方を変えるとは、見る自分を変えるということではないか。これも難しい話ではない。少し立ち止まって、呼吸を整えたらいいだけなのだ。このコーヒーのように。
蓮はさっき、寺で書いたメモを見た。
「なぜか、急に」
この時に聞こえた言葉が本尊である自分の呟きだろうか。自分の見えない可能性がもたらしたものだろうか。祈りは智慧を授けると大学の講義で聞いたことがあるがこれがそうだろうか。だとしたら
「祈るって、本尊のあの薄目を見ることね」
なんとも不思議な一瞬だった。
「妙法」の「妙」は、蘇生の他に「不思議」
の意味があるというが、これがそうなんだろうか。「功徳」とは、これなんだろうか。
日本は宗教に関しては寛大というかいい加減な国だということは、蓮も彼も十分認識している。いや、そうでなくてもこの国の半数以上の人間はそう認識しているだろう。宗教は冠婚葬祭のためにあるのだと。
しかしその「いい加減」が実は「良い加減」の意味もあることは、案外知られていないと思う。
このあまり知られていない「良い加減」はもしかしたら法華経が言ったのではないだろうか、だったら面白いと蓮は思った。そして法華経は「良い加減」を「いい加減」という、あまり印象のよくない言葉で覆い隠した。
それはなぜか。
それは自分の姿を隠したいから。
なぜ隠すか。
自分が法華経という宗教名だから。
そんな突拍子もない推理が蓮を興奮させる。
では何が良い加減なのか。
それはこの国が宗教で縛られ切れていない様が良い加減なのでは?
では何に良い加減なのか。
それは法華経が宗教という殻から脱皮するのに良い環境なのでは?
なぜ脱皮するのか?
それは法華経が宗派や人種を問わない、人間自体のものだから。
そしてこの国の言葉の音。
半分不真面目に言葉遊びが出来る音。
それを持つ国。
何より宗教に不真面目な国。
ではこの国で変化しようとした法華経という生き物の正体は何か。
彼との話ではサムシング・グレイトと呼ばれる何かしら偉大な意思だとか、人間そのものだとかというところで止まっているが、突き詰めたらどうなるのだろう。
蓮はしばらく考えたが、ふと宙に呟いた。
「それは【何か】でいいと思う」
「それは【何か】でなければいけないと思う」
「【何か】でないと不思議でないから」
なぜそうなのか?
それはその生き物の名前が法華経だからだ。妙法蓮華経だからだ。妙イコール不思議だと名乗っているからだ。
人が不思議と感じる時、人の体内にはその力を倍増させる物質を生む。彼が言ったドーパミンがそれだろう。
人には不思議を思う時が必要なのだ。
その不思議は、日本語の語呂合わせの語呂が合った時の「なるほど」という感心から生じる。
相変わらず眼下には人が流れている。が、この中に自分の自意識はない。不思議なことだと思う。だから法華経の本尊は自分、つまり不思議な法華経なのだと思う。髭曼荼羅の姿が浮かぶ。
すっかり冷えたコーヒーがまた美味しい。なんとなく自分が書くべきことがまとまって来たと蓮は思った。
59.
家に戻り、さっそく蓮は論文のあらすじを考え始めた。
「まずは法華経と言われるものの軌跡からね」
PCを開き打ち始める。
これは蓮が大学で学んだ知識と、自身の思考体験を合わせたものだった。
【浅い法華経概要】とまず打った。そして以下の文章を続けた。
私は法華経は二つあると考える。
その一つは一般に法華経と言われる経文で、もう一つは法華経という生き物である。
まず法華経と言われる経文だが、それは釈迦の言葉としてインドで生まれ、中国大陸を経て日本へ来た。
途中、様々な人の解釈が入り、それは哲学・道徳といった現実的な側面、奇跡・呪術といった非現実的な側面を包含するものとなった。その時点で、法華経の真理は曖昧なものとなり、曖昧なまま日本に至った。
日本で法華経は、天台宗を介して広まるが、現実的な部分は日本の各宗派に取り入れられ、非現実的な部分は密教としてその後それぞれが発展、存続して今に至る。
ただ、曖昧になった法華経の中には、その真理を匂わせる部分がある。それは法華経の中の肝要なものとして伝えられて来た。それが法華経の第二章である「方便品」と、第十六章である「如来寿量品」だ。如来寿量品の中でも「自我偈」と言われる詩文の部分は、法華経の核心を語るものと言われている。
この二つの中にもう一つの法華経、つまり生き物としての法華経の秘密があると私は推理する。では残りの26品は何なのだろう。
私はそれを武具や防具に例える。
先の二品を法華経という生き物の生身の身体だとして、褒め言葉・保護・罰・宣伝で占められたその他の品は、その上に装備された衣服であり鎧であり矛や槍だと私は考える。法華経という生き物は、それらを人間の手で纏わせた。何のために。
恐らくは自分を宗教化するためだろう。
では何のために。
人間のいわば「畏れ」の感情を利用するためだ。そしてインドから中国という宗教圏を無事に通過するためだ。
ではその最終目的は?
それは無宗教圏である日本に至るためだ。
なぜ日本なのか。無宗教圏がいいのか。
それは日本が言霊の国であり、裸の自分を見せられる風土だからだ。その様子は日蓮が記した髭曼荼羅に顕著だ。ここには仏のみならず神や鬼(ある意味悪魔)まで描かれている。この無秩序はある意味宗教に緩いことを表している。法華経はここで自分が宗教ではないことを表したのではないか。日蓮という日本の人間を使って。
そして神仏や鬼、それが守るのは人間なのだ。
日蓮は自宗の本尊を「法華経の当体」だと言った。それはつまり「南無妙法蓮華経」、法華経を敬う者とは髭曼荼羅を持つ人間、つまり日蓮宗の信徒のことであり、それこそが法華経の本尊だと言ったが私は少し違う仮定をする。その解釈を広げ「法華経を敬わなくてもそれを知る者」が本尊、つまり法華経だと。その姿を言葉で表せば「見聞妙法蓮華経」となるだろう。
それがなぜかと言うと、経文としての法華経の中に「この中の一言一句でも見聞きした者はいずれ成仏する」と記されているからだ。この部分は先の装備に当てはめれば、生身の法華経に一番近い肌着の部分だと思う。
法華経を知った瞬間、ここに一人の人間は「当人」と「当体、つまり本尊」の二人になる。いずれ成仏、つまり仏になる自分が目の前に出現する。この段階では本尊はまだ仏ではない。ならば仏とは何なのだろうか。
ここまで記して蓮は呟く。
「自意識…数字の1…」
とりあえず蓮は、このあらすじを論文のさわりとして教授に見てもらうことにした。その際、ひとつ大事なことを話さなければならないと思った。それは蓮のみならず、教授自身にも関係することだった。
「かなり大胆なところまで来たんだね、君の推理は」
あらすじを一読しながら教授は言った。
「実はもっと大胆なことがあるんです」
蓮の言葉に教授が顔を上げた。
「なんだい?それは」
蓮は一息ついて言った。
「例の日蓮、いや、半日蓮ですが」
半日蓮という名前に
「あぁ。あの雨男のね?」
教授は思い出し笑いをして応えた。
「そうです、雨男。その日蓮って」
「ん?」
「その日蓮、ある人物の想像物なんです」
一瞬、教授は表情をこわばらせたが、穏やかに尋ねた。
「想像物…とは?」
蓮は例のメールの主の話をした。
教授は狐につままれたような表情をしている。そして
「つまりあの日蓮も君も、と言うかこの空間もみんな彼の想像の中の現実、つまり仮想現実なのか?だとしたらもちろんこの私もそうなのか?」
と、やや狼狽気味に言った。
「そうなりますね」
蓮は静かに答えた。
「とうなってるんだ…」
教授は眉をしかめた。
「私は彼のページの中にあの日蓮がメモを記し、それを残した家の末裔としてメモを発見したという件を見て愕然としました。そして私はどうも、あの日蓮の生まれ変わりみたいな。ただ、この感じ、何かに似ていませんか?この時空が歪んだような感じ、本末転倒を何度も繰り返す感じ」
「君が言いたいのは、それは法華経世界?」
「そうです」
「うーむ」
「ただ彼は先日亡くなって、これから先は君が私だと言いました。彼の死後もここの時間がこうして流れているということは、仮想現実は本物の現実になったのかも知れません」
「うーん、なんとも不可思議だ」
と、いきなりなんの話をしているんだていう方のために、この物語がここにある経緯をお話ししておこう。
私は信仰者だ。
と言うと、どこかしら気の触れた人のように思われるかも知れないけど私はいたって正気で、なぜ信仰者なのかというとあるお経に書いてあることを身をもって体験したかったからだ。
その辺の詳しいところは別項目の「日記の抜粋」に記している。
私が体験したいのは仏教界で最高と言われながら、読んでみたらそのお経の褒め言葉ばかりで中身がぜんぜんないという「法華経」というお経だ。
なんで自画自賛してるだけのこのお経が最高なのかを、とにかく追っかけたいと思って、信仰団体に入ってみたり論文書いてみたり物語書いてみたりしているけれど、追いついたかと思うとスルッと逃げられるようなことの繰り返しだ。
これから先の物語は、インドで生まれて中国を経由して、日本にやって来た法華経が、本当に言いたいことを推理して書いたものだ。推理だから当たっているかどうかは分からないけど、先に言った通り歴史は水ものなので、ほんの一部は当たっているかも知れない。
法華経に興味があったら解説本がたくさん出ているので読んでみたらいいし、ネットでもいっぱい記述がある。その上でこれを読んだら少しはこの難解な話が言っていることが分かるかも知れない。
ちなみにこの物語は、海外から来た法華経を日本に広めた「日蓮」というお坊さんの話から始まる。
またこの話は、法華経に限らずお経というものは一種のファンタジーで、その中を泳ぐことでそのお経が言おうとしていることが分かるのではという、私の私見が書かせたものだ。お経は頭が痛くなるものだが、一度でもその中に飛び込んでみたら、案外楽しめるものだし役に立つものだ。
1.
もしも日蓮がごくごく普通の人で、仕方なく僧侶になったのだとしたら?
いつしか私はその考えに取り憑かれるようになった。
という私は日蓮宗の信仰者だ。だから日蓮は宗祖でありもちろん尊敬すべき人だ。なのになぜその宗祖をそう考えてしまうのか?
それは私が日蓮宗の根本である法華経に惹かれたからだ。法華経から見れば、そう考える方が法華経の真実に近いような気がしたからだ。だから敢えて私はこの話を書いた。日蓮上人には大変申し訳ないのですが、どうかお許しください。
日蓮が学んだ天台宗の中にあって、その天台宗のもとが法華経だったそうだ。調べてみるとおおもとの法華経も、釈迦がいたインドから中国を通って日本に来る間にかなり形を変えていたようだ。いろんな人が書き写すうちに、それらの人々の考えが混ざったらしいからだ。
ともあれ天台宗は日本にやって来て、比叡山の延暦寺から発信された。そして日蓮は延暦寺で勉強した。だから日蓮が「これしかない」と言った法華経は延暦寺以後の法華経ということになる。ここにひとつのミソがある。この時点で恐らく法華経は「中国製」だったのだ。
それをまた日蓮が精製して発信したのが日蓮宗だ。いわば「日本製法華経」だ。これを私は信じているわけだ。
だから本来の法華経はここにないのは確かだろう。本来がなんだったさえもう分からない。今インドにある法華経も本物かどうかさえ分からない。しかしそんな中にも法華経はあると思う。それは意志の流れのようなもので、法華経は中国に行って日本に来て、その間に姿を変えてしまおうと最初から思っていたのではないだろうか。つまり法華経はお経の姿をした生き物なのかも知れない。
日蓮が中国語を知っていたかどうかも分からない。もしかしたら延暦寺で当てずっぽうでお経を読んでいたかも知れない。しかし布教の方便として下の一節を言ったのは確かだ。
「法華経の核心を語る自我偈(じがげ)という一節(このことはこの物語の中にいずれ出て来る)は自の文字で始まり身の文字で終わる。だからこのお経は自分自身のことである」
これは中国語、つまり漢文が分からなくても分かる話だ。なぜならそれは「絵」だから。
「この部分って自という字で始まって身という字で終わってる。自身って自分のことだなぁ。間にたくさん漢字があるけど何言ってんだろう?」
もし日蓮が漢文を読めない普通の人だったら、自我偈という「絵」を見てそう思っただろう。そして
「すみませーん、これなんて言ってるんですか?」
と、漢文が分かる延暦寺のお坊さんにそう聞いただろう。
聞かれたお坊さんは
「ん?これはな、仏は死んでいない。姿を消してすぐ傍にいる。そのことを信じるなら、いつでも仏は姿を見せて、いろいろ教えてくれる。仏はいつも、人を救うことを考えているからって意味のことを書いてるんだよ」
と、たぶん答えただろう。確かにそれが正解なのだが、それよりも日蓮が実際、布教の方便で使った「自」と「身」の話の方が、法華経を知れば当たっているのだ。
しかしお坊さんはこうも言った。
「でもねぇ、このお経、ほとんどは自分の褒め言葉ばかりなんだよ。どういうことかねぇ?」
「褒めてばかり?だったら分かりやすいか。とにかく素晴らしいと言えばいいんだから」
という理由で日蓮が法華経を選んだわけはないだろうが、実際日蓮は「法華経は褒め言葉ばかり。だから褒めれば褒めるほど、その力が増す」と言っている。
鎌倉時代、西暦で言うと1200年頃、一般人は無気力になっていた。武士が台頭して、日本は戦争だらけだった。
家を建ててもすぐに焼かれる。田畑を耕してもあっけなく踏みにじられる。人は簡単に殺される。直しても直しても壊される。殺される。その上飢饉やら天災やら疫病やら、悪いことが繰り返し起こる。そんな世の中、一般人はすっかり生きる気力を失っていた。
「それは今、釈迦の教えの効力が消えたからだ」
その頃日本にはすっかり仏教が定着していたから、そういう思想が現れた。法華経にも釈迦の跡継ぎがどうのこうのって書いている通り、釈迦は死んで(実際は隠れてるだけだけど)その効力が消えかけていた。
ここで言う釈迦の教えとはたぶん、四諦・八正道(人が守るべき事がら)の類いで、それを人間がちゃんと守るのは釈迦がいなくなって何百年の間って決まっていたようだ。その何百年目が日本では鎌倉時代だったようだ。
確かにこんなありさまは、その予言が当たっていることを証明していた。
するといろんな「自称釈迦の跡継ぎ」が現れて来る。
彼らは「こんな世の中にいいことなんてありはしません。だから仏様にお祈りして、死んであの世に行ってからいい思いをしましょう。あの世には極楽浄土っていう、とても平和で穏やかな世界があるんです。この仏様がそこに連れて行ってくれるんです。だからこの仏様を拝みましょう」と、一様に死後成仏を宣伝した。
これはまるで極楽ニュータウンの宣伝だ。鎌倉時代はニュータウンブームになった。いろんな代理店、いや宗派が誕生した。
2.
そんなブームの最後の方に布教し始めたのが日蓮だ。
しかし後発者だからありきたりの売り物じゃ誰も相手にしてくれない。ありきたりの説法をしても、無視されるか石を投げられるのが関の山だ。
「なんかないかな?」
日蓮は考えた。
「あ、この世で成仏っていいかも知れない。みんなあの世の話ばかりだからなぁ。極楽ニュータウンじゃなくて現世エンジョイタウンだ。でもなんか決め手が欲しいなぁ」
日蓮は延暦寺であと何聞いたかな?と思い出し始めた。
「法華経は褒めればいい」
「仏は意外な所にいる」
「法華経はいろんな神仏が守っている」
「法華経を信じる者も神仏に守られる」
「法華経は男女限らず仏にする」
「釈迦は姿を隠すがその後継者が出て来て法華経を広める」
「法華経の正式名は妙法蓮華経だ」
「蓮華はハスの花のこと」
ここまで思い出して日蓮は閃いた。
「そうかこれ、絵にしてみようか」
延暦寺で見た「自我偈」を思い出したのだ。あれは「絵」だったから、説法するにも難しい言葉は要らない。これはグッドアイデアだ。
そして日蓮は絵を描き始めた。
真ん中に「法華経は素晴らしい」と書いて、その周りに思いつく限りの神仏の名前を書いた。
それは「髭曼陀羅」(ひげまんだら)といわれる文字ばかりの曼陀羅(極楽を描いた絵)だった。
そこに書かれた文字が髭のように跳ねていることからその名前が付いた。ちなみにその跳ねは光を表すという。
髭曼陀羅に書かれたさまざまな神仏はバラエティーに富んでいて、インドの仏様はもちろん日本の天照大神まで書いてある。とにかく神様仏様ならば何でもいいのだ。日蓮が考えた構図はすべての神仏が法華経を守っている様子なのだから。
日蓮はこの絵を持って表通りに行き、この世で最高のお経を見つけたといって人を集めて演説した。
「そのお経はこの絵にすべてが描かれている。真ん中に書かれた南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という言葉の南無は、インドの言葉であなたにすべてを捧げますって言っているらしいが簡単に言えば素晴らしいとかステキとか偉大だって誉め言葉だ。その下の妙法ってのは不思議なことって意味で、その下の蓮華は蓮(ハス)の花だ。レンコン知ってるだろう?あれ、泥の中にあるだろう?ハスの花って知ってる?知らなかったら教えてもらったらいい。とても綺麗な花だ。ハスの名所もあるくらいだからな。その根っこが泥の中のレンコンなんだ。そして最後の経はお経のことだ。つまり泥の中にあるレンコンから伸びて来て、地上でとても綺麗な花を咲かせるハスみたいな不思議なお経ってステキって意味だ」
とは言ったものの、それが何を意味しているのか日蓮はさっぱり分からなかった。そこで苦し紛れにこう言った。
「泥とは泥のように汚いこの世の中だ。ほら今、極楽ニュータウンがブームだろう?あんなの嘘だ。極楽は死ななきゃ行けないんだろう?死んだらどうなるかみんな知ってる?見たことある?あの世。ないだろう?そりゃ死んでないもんな。こんな汚い世の中にはもう何も期待出来ません。だから今のうちに仏様にお願いして極楽の土地を買いましょうってセールス来てないか?あれ詐欺だぞ。お金払っちゃいけないぞ。それより泥の中からハスの花咲かすんだよ、この世で。ハスの花って極楽に咲いてる花なんだ、知ってるか?ってことはこの世で極楽が出来るんだぜ?そんな不思議な力が自分にはあるって言ってんだよこのお経は」
ここまで言った日蓮の頭の中にはドーパミンが溢れ出ていた。(ドーパミン=人間の脳内に発生する快楽物質)
そして例の「自と身の絵」の話をして
「その力は人の中にあるんだよ。その力を出すにはこの絵を飾って拝んだらいいんだよ。そしたら目の前に極楽が現れるんだぜ」
なんてことまで言ってしまった。民衆の中には感激して、つまりここにもドーパミン現象が現れて
「その絵、売ってくれ」
とまで言い出す者が現れた。
たちまち日蓮はスターになり、日蓮宗が生まれた。
まぁそんなとこでしょう。
3.
さて「自分の中の力を信じてこの世に極楽を作ろう」とは言ったものの、具体的にどうすればいいのか日蓮は分らなかった。
どうしようか考えるうちに、ドーパミンが溢れ出た日蓮のファンは髭曼陀羅を日蓮のサインの如く先を争って買う。売上金はどんどん貯まって行く。その大金を前に日蓮はまだ考えている。偉そうに言った手前、自分が買いたいものは買えないなと思う。やっぱり売上金は民衆に還元しなきゃみんな納得しないだろうなと思う。しかしどう還元するんだ?引きこもって考えていても仕方ない、外へ出てみよう。日蓮は気晴らしがてら街を歩く。街の風景を見る。粗末な造りの民衆の家に混ざって、やけに派手で目立つ建物がある。それは極楽ニュータウンの代理店だった。そうかあいつらも結構儲けてこんなの作ったんだな、俺もお金貯まったから代理店建てよう。そうだよな、あんな粗末な家に住んでる民衆がない袖振って髭曼陀羅買ってくれたんだもんな。それにその中で演説したら雨にも濡れなくて済むし。
日蓮は「この世ニュータウン事務所」という代理店第1号を建て、髭曼陀羅を中央に飾って、その前で演説を始めることにした。なんか教祖様らしい風景になった。
「この世ニュータウン事務所はこの世を照らすこの建物です」
そんな看板を代理店の入り口に掲げた。
後日ここからテラスという言葉が生まれ、それがなまって「テラ」になり「寺」になった。極楽ニュータウンの代理店もいつしか寺と呼ばれるようになった。鎌倉時代はニュータウンと寺の建設ラッシュになった。
みんな気軽に「テラ行こうぜ」なんて言うものだからここから先の時代しばらく「寺」はトレンドになった、鎌倉時代の先の室町時代には様々な寺院文化が生まれた。
しかし日蓮はたちまち壁にぶつかる。寺で何演説したらいいんだ?
あー失敗したと思う。極楽ニュータウンはあの世にあるから話だけすりゃいいけど、こっちはこの世にあるなんて言ったもんだから証拠見せなきゃならない。極楽見せなきゃならないんだ。でもそんなの作れないよ。作っても安物のテーマパークみたいになるだけだ。
日蓮は寺の中で頭を抱え込んでしまった。
そんな中、寺での演説の初日を迎えてしまった。
寺の中で日蓮が悩んでいると、表で喧嘩する声が聞こえ始めた。
「なんだ?」
表を見ると何人かずつの民衆が睨み合っている。
「何騒いでるんだ?」
日蓮が聞くと民衆のひとりが言った。彼は髭曼陀羅を買った客だった。
4.
「あいつら間違ってますよ」
彼は殴られたのか顔に青タンを作っている。
「あの世なんてないですよね?」
彼は聞く。
「ないけど喧嘩はよくないよ」
日蓮はそう言うと表に出た。
「どういうことなんだ?」
日蓮が叫ぶと石が飛んで来て日蓮の頭に当たった。
「痛っ!」
生きていたら痛いもんだな、石が当たるって。
腹が立つより先にそう思った。しかしやっぱり腹が立った。
「何すんだコノヤロー!」
日蓮は近くの石どころか岩を拾っていた。
「う、いけないいけない」
こんな自分、今、修羅界にいる。
日蓮は延暦寺で人間には十の心の世界があると教えてもらったのを思い出した。
その中の修羅界は争う心だ。だからみんなが喧嘩している表は「修羅場」だ。
日蓮は振り上げた岩を離した。
岩は下に落ちて地面を叩いた。
日蓮は顔を上げた。修羅場の光景がよく見えた。
「みんなボロボロの服を着ているじゃないか」
日蓮は呟いた。そしてじっと考えた。
そういえばこの日本にはいろんな仏教がある。極楽ニュータウンもそうだが、瞑想したら仏に会えますとか、節約生活してお金を貯めて、それでお坊さんに施しをしたらいいことありますとかまぁいろんな教えが蔓延している。
しかしそれを聞くのは民衆だ。そして相変わらずボロボロの服だ。これでいいんだろうか?
民衆がささやかに稼いだお金のいくらかはこの国の権力者の所へ回っているらしい。そう街の噂で聞いた。権力者は、それらの仏教を利用して民衆を黙らせているとか、そうも聞いたな。逆らったら殺される世の中だから、この世の他に楽しみ見つけましょうって宣伝すればみんな飛びつくだろうしな。そうなりゃこの世ではみんなおとなしくなるよな、諦めで。
だから極楽ニュータウンも瞑想生活も節約生活も、権力者が助けてくれるから礼金を渡しているとか、権力者は権力者で、政治がやりやすくなるから坊主の要求を聞いているとか、そんなふうにも聞いたな。
その話、本当かどうかは知らないけど、そうだ、こっちの教えにも「売り」を作ろう。ここまでやっちゃったから売りは反権力者ってことにしようか。あんたら利用されてる、騙されちゃいけないって。これは新鮮だ。ニューウェーブだ。絶対流行るぞ。この世を諦めるな教だ、コンセプトは。
それに反権力だから売り上げは丸もらいだな…あ、いけないいけない、売り上げは民衆に還元するんだ。ちょっとでもましな服着せてやらなきゃ。
「おい!みんな聞け!喧嘩やめて聞いてくれ!聞いてから喧嘩してくれ!」
日蓮は叫んだ。
喧嘩していたみんなが止まった。
日蓮は縁側に出た。
「とにかく聞いてくれ!」
とにかく叫んだ。
「私の考えを聞いてほしいんだ」
とは言ったものの、どこから話していいか分からない。とにかく叫んだものだから。
沈黙が流れる。
みんな注目している。
みんなみすぼらしい。
そうだ。
「なぁ、極楽、見えるのか?死んで腐ってさ。なぁ、瞑想して見えた仏が服買ってくれたか?なぁ、お金あげた坊主が家直してくれたか?」
さっきの思いを言った。
「これってさぁ、自分で見て買って直すもんじゃない?」
日蓮は聞いた。
5.
ここまではよかったんだけど場所が悪かった。
隣が武士の家だった。
「朝から騒がしいな!」
隣の武士が騒ぎに我慢出来なくなって怒鳴り込んで来たのだ。
「おまえか?最近この寺建てたの」
武士は日蓮を睨みつけて言った。
「そうですけど?」
日蓮は虚勢を張った。声が裏返ってる。
「喧嘩が収まったと思ったら今度は演説か?うるさくて寝られやしない。俺夕べ夜勤だったんだぞ!」
「そりゃすみません」
「すみませんじゃない!その演説済ませろ!」
「済ませます!済ませますからもう少し言わせ下さい」
「何演説してんだ?」
「この世教ですが」
「この世教?なんだ?それ」
日蓮はこの世を良くしなければみんな幸せにならないと言い切って
「あ、しまった」
と思った。
たちまち冷や汗が出て来た。
そうだ武士は極楽ニュータウン支持者だったんだ。
「誰がそんなこと決めた⁈」
武士はにじり寄った。手が刀にかかっている。
日蓮は
「やっちゃった」
と後悔したがもう遅い。
武士は刀を鞘から抜いていた。
「あーもうおしまい。極楽行けますように」
日蓮が頭を抱えて仏様に祈ったその時
「うるさいなー!」
とまた怒鳴り声がした。
日蓮が顔を上げるとまた武士だった。
「あ」
日蓮はあっけにとられた。
それは反対隣の家の人で、武士なのに髭曼荼羅買った人だった。新築の挨拶に絵の掛軸持って行ったら、間違えて髭曼荼羅持って来てしまったのだ。ちなみに今、刀を抜いてる武士の家は留守だったのでまだ新築挨拶していない。この人夜勤だったんだ。
髭曼荼羅見た方の武士はそれがありがたい絵だと思っていた。日蓮が口から出まかせにご利益のあるありがたい絵だと言ったからだ。
「なんであんたこいつに斬られるの?」
反対隣の武士は日蓮に聞いた。
6.
日蓮を斬りそこねた武士は
「これで済むとは思うなよ」
と捨てゼリフを残して行ってしまった。日蓮は身体から力が抜けてフニャフニャになった。
こうなっちゃ仕方ない。どのみち武士なんだからこの人も真相を知ったら自分を斬るだろうと思った日蓮は、開き直って武士に今までの経緯を話した。
ついでに生まれてからこのかたの話も付録でつけた。
自分は漁師の子供だったこと。
理由は分からないがお寺に預けられたこと。
そのまま坊さんになっていたこと。
比叡山でお経を勉強したこと。
お経の中では法華経が最高だと教えられたこと。
法華経には自分の中に極楽も仏もあると書かれているとも教えられたこと。
最高のお経なら広めてみようと思ったこと。
世の中に広まっていたお経には極楽があの世にしかないと書かれているのを知ったこと。
それはおかしいと思って、まだよく分からないけど最高のお経だという法華経を世に広めるんだと決心したこと。
でも武士はそれをよく思わなかったこと。
よく思わないからこうして斬られそうになっていること。
「だからあなたも斬るでしょ?」
日蓮は武士に聞いてみた。
しかし彼は
「でもあの絵はありがたいんでしょ?」
と日蓮に聞いた。
日蓮は
「そりゃもう、何せ最高のお経のエッセンスが描かれてるんですから」
と、途端にセールスマン口調になった。
「ふーん」
彼は腕を組んで考えた。
そしてボソボソと語り始めた。
「まぁ武士からすれば極楽ニュータウン的な考えの方が人を管理しやすいのは確かだ。この世に希望がないとなると人は無気力になる。逆らう気力さえなくなるからな。ただそれを我慢さえすれば、死んだら夢のニュータウンに行けるんだ。人はそっちに気力や財力を使うわな。だから極楽ニュータウン的な所と武士は繋がるわけだ。お互いの利益のためにな。
しかし武士も上から下まであるんだ。上はそれでいいだろうが下は使われっぱなしだ。だから反対隣のあいつも夜勤ばかりでしんどい目に遭わされるんだ。オレも下っ端だからおんなじだよ。オレたち下っ端もあの民衆とおんなじでさ、極楽ニュータウン行きたくなってんだよ。だからあんたが売ってくれたあの絵な、最初は極楽ニュータウンの新種かと思ったんだがどうも違うようだな。な、この世に極楽はあるのか?」
彼は頭を上げて日蓮を見つめた。
言った手前日蓮は言っちゃった。
「あります!それがあの絵に描かれているんです」
日蓮はまた得意の演説を始めた。
「このお経はですね」
例の「自我偈」を見せて、これは自分の中にいる仏の話し声を絵にしたもんですなんて乏しい知識なりに語った。
「なるほどな、確かにこの絵、自身に何かが挟まってるな」
日蓮も武士も、それが文字なんだろうなとは分かるのだが、それがなんて書いてあるのかは分からなかった。ただ、「自」と「身」の間に、いっぱい何かが挟まっているのは分かった。
今風に言えば、ビッグマックの写真だ。
「だがあいつに睨まれたのはまずいな」
武士は言った。そして
「ひとまずばここを出るべきだ。この近くに使われなくなった寺がある。そこへ身を隠すのがいい。オレが時々、食べ物やらを届けるから。あいつにはオレが追っ払ったと言っておく」
そう忠告した。
日蓮はさっそく、その荒れ寺に移った。
しかしここから彼の受難が始まった。
7.
どんな世の中にも支配者はいる。公平がいいのは分かるが、公平ほど治まらないものはない。みんなが公平に物事を言ったりしたりしたら収拾がつかなくなる。だからどうしても支配する者が出て来てそれを束ねなければならないし、必然的にそうなってしまう。
この頃の支配者は武士で、その頂点が鎌倉幕府だった。
民衆から生きる気力を失わせて束ねるために幕府は仏教を利用したと私は日蓮宗で教えられたが、私にそう教えたのが日蓮宗ということは、それは日蓮の考えだけなのかも知れない。何せひどい目に遭ったのだからヒガミも出るだろう。
ただ日蓮は、支配者に正しい統治を教えることはしなければならないと思っていたことは事実だ。
だから人をあの世に追いやるようなやり方を批判したんだと思う。
そんな意味のことを、はずみで言う羽目になった「例の日蓮」は、紹介された寺でもつい髭曼荼羅を売ってしまったものだから、また武士に睨まれた。
こんどはそこに火を点けられた。反面、先に日蓮を助けた武士のように、日蓮を擁護する武士も存在した。そんな人らに追われるは匿われるはで日蓮はなかなかひと所に落ち着けなかった。落ち着けないなりにも日蓮は髭曼荼羅を作り売りまくった。そうした日蓮の言動に勇気づけられた人はかなりいたと思う。何せ「ウリ」がこの世の極楽なのだから。
日蓮は「作っちゃった」ウリの中身をどんなものにしようかあれこれ考えた結果、先に言った正しい統治、正しい世の中の出現にしようと思った。仏様を自分の中に持った人間だから、仏様にチャンネルが合えば必ず平和な世の中になると「十界論」を唱え始めた。
これは日蓮が比叡山で聞いた話だったが、人は10のチャンネルを持っていて、それがどこに合うかで善人にも悪人にもなるというものだった。
このあたりになると日蓮の新鮮な考え方(なんというか成り行きでそうなっちゃったのだが)に賛同する者が増えて来た。
そういう人たちを日蓮もまた束ねなければならない。もういい加減なことばかり言ってられない。
「そろそろ本気で勉強しないとなぁ」
日蓮は自作の髭曼陀羅に向かって
「どうか難しいお経が読めますように」
と、今さらながらお願いをした。
そしてすがるような思いで髭曼陀羅を見つめた。
「これは自分だ」
そう言い聞かせて真ん中の「南無妙法蓮華経」の7文字をじっと見た。
そして周りに書いた神仏の名前を見た。
「しかしなぁ、こんな紙切れの上の文字に本当にご利益があるのかなぁ?」
肝心の日蓮がこんなふうだった。
「だけどここまで来たら信じるしかないじゃない」
日蓮はもう一度、法華経はもちろん、他のお経も読み返してみた。
比叡山ではあんまり真剣じゃなかったからなぁ。しかし真剣じゃないのになんでこんなに人がついて来てしまったんだろうなぁ。こういうのを使命っていうのかなぁ。でもいっぱいいじめられたしなぁ、鎌倉幕府に。なんなんだよこれ。
…などなどぶつぶつ言いながらお経を読みあさった。
8.
しかしお経と一言に言っても沢山ある。
それらは釈迦の生きている間や亡くなる少し前、亡くなった後とまちまちの時期に書かれているから内容もまちまちで、どれが本当か分からない。何より自分が広めるはめになった法華経は、褒め言葉ばかりで何が言いたいのかさっぱり分からない。
ただ、複数のお経と、法華経本体に「法華経を保つ者と法華経を侮る者には災難が降りかかる」と記されていることは分かった。日蓮はこれがどうも気になった。
侮る者への災難は分かる。でも守る者にまで災難が降りかかるってどういうことだ?
さっそく比叡山の延暦寺に聞いてみた。
「それは法華経が最高で唯一正しいお経だから、魔はそれを嫌い、法華経を保つ者に害を加えて彼らに法華経を放棄させようとするんだ。だが法華経を保つ者は必ず神仏に助けられると、その法華経にちゃんと書いてあるんだ。魔が邪魔をするということは、言い換えれそれだけ信仰が本物だと、魔が恐れているとも言えるな。神仏は魔に負けず法華経を保った者に、多大な功徳をもたらすようだ」
と、答えが返って来た。どうも日蓮、そこを飛ばしていたようだ。
「そういや、褒め言葉ばかりだからウンザリしてたしなぁ。その辺、いい加減に読んでたかもなぁ」
ということは今、自分が嫌な目に遭ってるのもそれかな?と思うと、ということは自分は法華経に認められてるのかな?とまた思い、日蓮はなんとなく嬉しくなった。
では侮る者への災いとはなんだろう?
日蓮はまた延暦寺に聞いた。
「まず飢饉、それから戦乱、そして疫病があるな。これを三災という。またこれとは別に七難と言って、やはり疫病、それから他国の侵略、国内の反乱、星々の異常、日蝕や月蝕、大風に大雨、逆に干ばつがある」
ということは戦乱に明け暮れる今の世の中そのものだと日蓮は思った。
たしかにここのところ気候が荒れ、飢饉や疫病も起こっている。なるほどこんなバチが当たるんだと感心していた日蓮は、ふと「他国の侵略?」と、まだ起こっていない災難のことに気を止めた。
今度は外国が攻めて来るのか?
日本は大丈夫なの?
「あの、やはり法華経じゃないとダメなんですかね?日本の仏教って」
日蓮は守ろうが侮ろうがが災難がやって来る法華経を自分が選んでしまったことが、だんだん怖くなってきた。今度は世界大戦だ。
「まぁよく分からんが、あんたは法華経を広めてしまったし、あんたについて来る人も増えたしなぁ。責任上、法華経しかないんじゃない?」
「はぁ」
あー、どうしよう。日蓮の頭の中にはもう、外国の船団が現れていた。
9.
「日本は島国だから絶対船で来るぞ。しかし一体どの国なんだ?」
日蓮が幻の船団を頭に描いている頃の世界では、モンゴル帝国が猛威を振るっていた。
かの源義経が実は死んでなくて、海を渡ってアジア大陸に行き、チンギス・ハーンになったという伝説があるが、そのチンギス・ハーンが起こした国がモンゴル帝国だ。その勢力はヨーロッパまで伸びていた。
そのうち、中国を制覇した勢力は「元」と名乗り、中国の歴代王朝に名を連ねていた。
元を起こしたのがフビライ・ハーンで、彼は東にチョコンとある日本を征服しようと考えていた。
そこまでは知らない日蓮だが、とにかく法華経を侮る者がいる限りは日本はいつか外国に攻められると危機感を募らせた。
しかし日本という国、小さい島なのに内輪揉めが絶えない国だ。
それはむしろこの後に激しくなり戦国時代になるが、ひとつの国で内輪揉めしてる場合じゃないだろうという事態は、このはるか先、幕末にもあった。
黒船来航だ。
なんだかしっかりした歴史の話になってきたが、こう度々外国の脅威に晒されても不思議と日本は日本のままだ。
この現象は、これから日蓮が辿る道と少なからず関係していると思うがそれは追々話すとして、ともかくこの時の日蓮は「こりゃ法華経、一気に広めないとまずいな」と、とにかく「怖かった」のだ。
そこで革新的、斬新的、これって論文?という、現代でもまだ斬新って思えるスタイルの論文を書き、鎌倉幕府に提出した。
論文のくせに戯曲。2人の人間の対話形式で書かれたのが「立正安国論」だ。その中身はまるで舞台演劇の世界だ。
これを書いてる私自身、こんな論文を書く日蓮が大好きだ。論文の内容ではなく、シナリオを論文というその前衛的というか先取性というかアートというか、日蓮のそんな芸術性が大好きなのだ。
10.
しかしこの時代に、よくこの戯曲に論って名前付けたなぁ。
日蓮ってアートセンスあるよなぁっていつまでも個人的に悦に入っている場合じゃない。
その斬新な論文の構成を大まかに言うと…
ある人の所へ客が来た。
客はこの国の悲惨なありさまを嘆いた。
それを聞いてある人は、それはこの国の宗教が間違っているからだと言う。
では何が正しい宗教なのだと客が聞くと、その人はそれは法華経だと答えた。
その後、二人は論議を戦わせるが、結局客はある人の理路整然とした語りに納得する。
ざっくり言うとこんな感じだが、この会話の中である人は法華経を軽んじた場合、内乱が起き外国の侵略を受けると語る。
日蓮が恐れたことがここに書かれているわけだ。
日蓮はこの新しい形の論文を持って幕府に乗り込んだ。
しかし相手にはされなかった。それどころか日蓮がそんな大胆なことをしたものだから、極楽ニュータウンはじめ幕府、つまり武士と利益関係にあった勢力が怒って、とうとう日蓮の殺害まで考え始めた。一旦島流しにしたりしたが、ここまで来たら日蓮も引くに引けなかった。
島から帰って来ては危機を訴える街頭演説を続けた。
ついに幕府は日蓮を追い詰める。
日蓮は命を狙われ、それに巻き込まれて日蓮宗について来た者が命を落とした。しかし彼らは死ぬことを喜んだという。俗に「殉教」と言われるやつだ。
これがあるから宗教は怖い。神仏のためになら命も惜しくないっておかしくないか?
そこでここでの日蓮はこう言ったとして話を進める。
「違う違う。たしかに法華経には不自惜身命…仏のためには命も惜しまないとは書いてるけど、命を捨てろじゃないんだよ」
後年、第二次世界大戦に招集された法華経信者が、戦争に行けば人殺しになって教えに背く。でも拒めば国を守らないことになる。どうしたらいいんだ?と悩んだ時、その人の恩師が「戦争に行って、銃を下向けに撃てばいいんだ」と教えたというけど、多分日蓮も見せかけは日蓮宗を捨てますと言って、心の中でだけ拝めばいいんだと思ったことだろう…と信じたい。
そんな周りの人の助けで命だけは繋げた日蓮だが、災難は次から次へと起こる。
まず内乱が起きた。幕府の中で揉めごとが続発したのだ。そしてとうとう、あのモンゴル帝国が攻めて来た。
「立正安国論」で書いたことが本当になってしまったのだ。
11.
今ではこれを「日蓮の予言」というが、これは延暦寺のお経に書かれていたことで、そのお経もインドから中国を渡る中で多分姿を微妙に変えていただろう。
それに結局モンゴル帝国、直接はその中の元王朝が2回攻めて来たが、どちらも暴風雨や疫病の蔓延で失敗している。
ここでふと、法華経を軽んじて当たる罰が複合してるじゃないかと、これを書きながら私は思った。
暴風雨も疫病も罰ならば、元が攻めて来たことも罰じゃないか。
ってことは罰が罰を無くしたのか?
って矛盾が生まれてくる。
内乱が起こったり外国が攻めて来たり、日蓮の予言の片方の罰が当たったことは
伝えられているが、暴風雨や疫病については、これは攻めて来た方に当たった罰だ、神風という暴風雨が吹いて日本は守られたのだと伝えている。神風だから守ったのは神様なんだろうか?
まぁそうかも知れないけど、ここで浮かぶのは「法華経の罰はそれも功徳だ」と、どこかで私が聞いた話だ。結局、最後は助かるということだ。
日蓮は
「今のところ日本の20パーセントくらいが法華経信じてるから、80パーセントくらいの罰と、20パーセントくらいのご利益があったんだろうな」
と、思ったかも知れない。
とにかく予言しちゃって当てちゃったわけだ。
とんでもないことを当ててしまった日蓮はたちまち株を上げてしまったが、これはますます幕府と極楽ニュータウンに危機感を抱かすことになってしまった。
そしてついに、なんだかんだ難クセをつけられた挙句、日蓮は捕らえられ処刑されることになった。
この時の話が有名な「龍ノ口の法難」というやつだが、この話、本当なら私が追っている宗教が宗教宗教したところ、つまり超常現象に超能力の証明になるんだけど、残念ながら当時写真機もビデオカメラもなかったから証明出来ない。せいぜい、運がよかったとか偶然が重なったとしか、科学万能の今に対しては言えない。
これはいよいよ首を切り落とされる段になって突然空から閃光が差して、刀を持った武士の目がくらんだとか刀に雷が落ちたとか言われるものだ。
幕府はこのことに恐れおののいて、処刑を中止し、代わりに日蓮をまた島流しにしたということだけど、事実はどうだったんだろう?
ま、なんだかんだで幕府にとって危険分子の日蓮がこうも運よく生きながらえたのは、日蓮の影響力を恐れた幕府が、下手に殺してはまずい、反乱が起こりかねないと思って、なんとか懐柔しようとしたのだと言う学説の方が現実的だろう。
私的には雷が落ちていてほしいんだけど。
12.
龍ノ口の法難にしろ、海が割れて道が出来たとかいう外国の話にしろ、本当に目の前で起こってくれたら宗教も信じやすいんだけどなぁ。「宗教宗教」してて。
あ、私の口癖が出た。説明しましょう。
「宗教宗教」とは、その宗教を信じていれば目の前で不思議なことが起こるということだ。
またそれに相対するものを私は「宗教経営」と呼んでいるが、「宗教経営」とは不思議なことをでっち上げてそれを金儲けにすることだけど、何せ今は宗祖も教祖も姿が見えない法華経やキリスト教は、その2つの間を行ったり来たりしているような気がする。
そんな問題があるから、何を私は信仰しているのか、その対象が宗教なのか経営なのか曖昧なので困っている。
また日蓮に聞いてみよう。
「しかしまぁ、いろんなことあったわ。首斬られそうになったり、あちこちの島に流されたり」
街を歩きながら日蓮は呟いていた。
「ま、でも、やっぱり人間なんだよな。人間が人間をなんとかしなきゃなんないんだよな」
と、もの思いに耽りすぎて日蓮は足許の石に気づかず躓いて転んでしまった。
「大丈夫ですか?」
誰かが声をかけて起き上がらせてくれた。
立ち上がって顔を見ると、普通のおばさんだった。
「お坊さんですか?」
「ええ一応、日蓮っていいます」
「あーぁ、あの、この世がすべてとかいう日蓮さん?」
「知ってます?」
「ええ、有名ですもん」
おばさんは日蓮の服に着いた泥を払ってくれた。
「あぁ、いやどうも、恐縮です」
日蓮がお礼を言うとおばさんは
「お互い様ですよ」
とニコニコ笑った。
そのままおばさんは立ち去ろうとしたが日蓮はちょっと気になって
「坊主だから聞くんですが何か信仰をお持ちですか?」
と聞くとおばさんは
「日蓮さんには悪いけど私は宗教が嫌いなんです」
と、笑顔のまま言った。
「いや、つまらんこと聞きましたね」
日蓮はそのままおばさんと別れたが、信仰がなくても仏様みたいな人はいる。法華経は法華経を保つ者を守るというけど、こういう人たちはどう扱うんだろう?と新たな疑問に襲われた。
「人間の中に仏がいるってこのことじゃないの?」
「だとしたら法華経の言うこと当たってるじゃない」
「ってことは当たり前のこと言ってるだけじゃない」
日蓮は今まで酷い目に遭ってでも叫んでいたことが、こんな簡単にその辺に転がっていたことに力が抜けた。
「俺、何やってたの?」
落胆はどんどん深くなって行く。
しかしそれじゃ自分が浮かばれない。日蓮はかわいそうな自分のために考えた。そして
「だから…だからその先なんだよ」
と、なんだか閃いたように呟いた。
「何やってたのじゃなくて、この先何するかだ。そこに法華経が言いたいことがあるんじゃない?」
とポカンと言った。
日蓮は宿に泊まった。そこであれこれメモを書いた。
「人間は本来優しいものだ」
「優しさとは他人を思いやる気持ちだ」
「優しさが発揮された時、人は喜びの世界にいる」
「それが成仏だ」
「みんなが優しくなればみんな成仏するし、争いなんて起こるはずがない」
「この簡単な仕組みからなぜ人は目を逸らすのか?」
ここで鎌倉時代からまた現代に飛ぶ。
私は日蓮宗の信仰の中で、人は他人のために働く時がいちばん元気になると教えられた。日蓮が道で転んだかどうかは分からないが、この時日蓮が考えたことは本当で、今に確かに伝わっているということに間違いはない。
他の宗教でも「奉仕」とか「救済」とかいう言葉や活動があるし、無宗教でもボランティアで他人に尽くす人がいる。仏教でも菩薩界とは人に尽くす境涯だと言っている。そう、菩薩こそ仏のことではないか。
こう書くと、日蓮の思いとは宗教というより哲学や道徳だと思えるが、これで済まないのが宗教の宗教たるところだ。
これはあくまで伝説だが、日蓮は祈祷合戦で勝ったというのだ。
13.
あの街であったおばさん。
実は街に水を買いに来ていた。
このところ日照り続きで、湧き水に人が殺到するものだから、水が枯れることを防ぐために販売制になったそうだ。
そこで雨乞いをすることになったのだが、その一人に日蓮が選ばれた。
何人もの祈祷僧が脱落する中、日蓮の祈祷が雨を呼んだ。
「日蓮にはとんでもない力がある」
世間では大評判だったが当の日蓮は…
「雨男なんですよね」
と思っているだけだった。
あの元の襲来に吹いた暴風雨も、龍ノ口で落ちた雷も、たまたま日蓮が雨男だったから起こったことだった。
…と、日蓮の奇跡を全部否定したとする。
ここで日蓮に残るのは…
人の心の中は優しい心、つまり菩薩心がある。
ということはもともと人は仏なのだ。
しかし人には欲望があって、なかなか優しくなれない。
そして欲望のために争いを起こす。
欲望は宗教を利用することもある。
そのために自分は何をすべきか。
といった宿で書いたメモだけだ。
「自分は何をすべきか」
結局日蓮は、明確な答えを残さずにこの世を去ってしまったが、この話、これから仮想現在に飛ぶ。
14.
…日蓮に子孫はいないと思われるが、日蓮の生まれ変わりはどこかにいるだろう。そしてその人物は、ある日ある所で変なメモ書きを発見した。
発見したのは女性で「未知 蓮」(みち れん)という。
彼女は何百年も続く老舗旅館の子だが、たまたま旅館の大掃除をしていたら屋根裏で細い和紙に書かれたメモ書きらしきものを見つけた。
彼女は大学生で、国際宗教学部にいた。
卒論のテーマに悩んでいた時、このメモ書きを見つけたのだ。
何やら筆で、ミミズが這ったみたいな文字が書いてあるが、さっぱり読めない。
そこで同じ大学で古文書を研究している文学部の教授に読んでもらうことにした。ゼミの教授だから気安く頼める。
案の定教授は気楽に受けてくれたがメモ書きを読むうち
「これ、本物なら大発見だ」
と叫びを上げた。
「あの日蓮が雨男だったなんて」
「大発見って、何が大発見なんですか?」
蓮は驚いたまま固まっている教授に聞いた。教授はハッと我に帰り、一息ついてから話し出した。
「いや、ここに書いてあるのは日蓮の覚え書き、つまりメモなんだけどこの日蓮、ほとんど法華経を知らずに当てずっぽうで広めてしまったと書いてる。私らが聞く日蓮は比叡山で、ありとあらゆるお経を研究し、その中で法華経こそが最高の経典だと確信して広めたんだ。それがほとんど知りませんでしたなんて」
「それが雨男とどう関係するんですか?」
「当時の世の中は浄土宗が主流だったんだ。死んだら仏の待つ極楽浄土に行けるって考えだね。それと対極にあったのが日蓮の考えだったんだ。極楽浄土はこの世にあり、仏は人の中にあるという」
「確かに真反対ですけど、それと雨男の関係は?」
「まぁ落ち着いて聞きたまえ。そのうち出て来るから。
当時の権力者は鎌倉幕府の執権である北条氏だったんだが、民衆を束ねる上では他力本願で厭世的な浄土宗と結ぶのが効果的だったんだ。しかし日蓮の考えは自力本願で世の中に執着してる。これを信じられたら民衆の自立が進んでともすれば反抗的になってしまう。これを嫌がった幕府は日蓮を弾圧した。時に住居を焼き、時に追放し、時に島流しにした。しかし日蓮は懲りなかった。それどころか法華経を信じないと様々な災厄に遭うとまで言ったんだ」
「雨男は?」
「もう少しだ。もう少しで雨男の段になるから。
そして災厄の具体的な話をまとめて論文にし、幕府に提出した。
さすがに幕府は怒り日蓮を処刑しようとした。しかし天から閃光が飛んで来て処刑は中止になった。ま、メモでは急に曇って雷雨になっただけなんだけどって書いてある。
日蓮の論文は的中し、蒙古襲来という、他国、この時は中国の侵略を2度も受けたが、2度とも暴風雨が吹いて失敗した。
メモではこれも雨男だからかなぁと書いてある。
さらには干ばつが続いた時に幕府は日蓮と浄土宗の僧を雨乞い祈祷で対決させたが、日蓮が見事に勝ってしまった。
メモでは雨男だから当たり前でしょ?
と書いてある。
これらのことは日蓮の奇跡として伝えられているが、当の本人がそれを否定してるんだ。だから大発見なんだよ」
「日蓮の奇跡については、私みんな知ってますよ」
「なんだ、もっと早くに言ってくれよ。興奮して話したから疲れたよ。でも、有名な話だからな、特に宗教専攻の君なら当たり前に知ってるわな?」
「それだけにメモには驚きました」
「いや、まだ全部読んでないけど、この調子だとこの日蓮は、自分の実績を全部否定するぞ」
「でもなんで否定するんでしょう?」
15.
「それは伝説を消すことで、世に法華経と言われるものの真の姿を伝えようとしたんじゃないかな?」
教授は言った。
「しかしだ、やはり先に筆跡鑑定だ」
教授はこの日蓮が、日蓮を騙った偽者だったら無意味な覚え書きになると、少し冷めた口調で言った。
たしかに日蓮とは言ってもメモの主が真の日蓮かどうかは分からない。今のところメモの末尾にあるサインが「日蓮記す」となっている事実だけでの判断だから。
メモは今に伝わる日蓮の書の文字と比較鑑定されることになった。
筆跡鑑定の結果は微妙だった。一致する箇所もあればしない箇所もあるという。
それもひとつのメモの中で混在するというのだ。まるでふたりの人間が交互に筆を走らせたようだというのだ。
結果を聞いて、教授は困惑した。しかし蓮は
「むしろ面白いと思います。だって、参考にされた筆跡が嘘かも知れないってことになるんじゃないですか?新しい筆跡が出て来たってことは」
と、かえって興味を深めた。
「しかも混在してるとはな。まるで半日蓮だ」
教授のそのセリフに蓮は目を輝かせた。
「教授、それもらいました!」
「え?」
「半日蓮、いいです」
「ん?」
「だって今の世の中、同じ日蓮宗でも枝分かれして反目さえしてるんです。半分どころか何分の一日蓮なんです。教授、このメモの状況って、もしかしたらこんな現在を予見してたんじゃないですか?」
「誰が?」
「日蓮を名乗る誰かです」
「え?それじゃ、このメモの日蓮は偽者なのかい?君の解釈は」
「偽者というより、大物です」
「どういうことだ?」
「もう一度メモを読みましょう」
ふたりはメモを見直した。やはりハチャメチャなメモだ。
自分はなんで僧侶になったのか分からない。とか、なんで法華経を広める羽目になったんだろう?とか、って法華経って何?とか、自分はただの雨男だ。とか、挙句は無宗教者にこそ仏あり。とか。
「このどこが大物なんだ?」
教授が首をひねる。
「私はこれは誰かが日蓮に書かせた気がするんです、なんとなく。あ、半日蓮ですかね?その半日蓮に」
蓮は指で額を押さえた。
「その誰かが大物ってことか?」
教授は聞いた。
「ええ、そうなんですが」
蓮の指は額から離れない。
「んー、まずは私、法華経をなぞってみます。すべてはそこからです」
蓮はようやく指を離した。
16.序品第一(じょほん)
「法華経28品かぁ」
蓮は呟いた。
この28章からなる話の何が最高なのだろうか?
とにかくおさらいしないと始まらない。
蓮は何冊もの法華経について著した本を抱えて研究室に入った。
ざっと目を通してみたがみんな表現が違う。もうここで法華経が見えなくなってしまいそうだった。
ともかく一番主観が入ってなさそうなものをひとつ選び出して読み始めた。
「序品第一」
品と書いて「ホン」と読む。
品とは章のこと。だから「ジョホンダイイチ」はつまり「第一章序章」の意味だ。
序品は霊鷲山(りょうじゅせん)という山が舞台になっていて、既にそこには釈迦の弟子や如来や菩薩、神や僧侶など12,000名あまりが集まって、これから始まることを待っている。
それは釈迦が何かの説法をすることらしいということだった。
釈迦は瞑想していた。
そのうち群衆の頭上からは曼殊沙華などの天の花が降り注いだ。そして地面が上下四方に鳴動した。
「おお、これは良いことが起こる前触れだ」
群衆は歓喜した。
すると釈迦の眉間から放たれた光が天地を照らした。
蓮は俗っぽく連想した。これって特撮ものに出て来た「なんとかマン」の世界じゃない?
これはお経なのだが、まるで演劇の幕開けだ。
まずその劇場性に、宗教について回る大仰さを感じる。悪く言えばうさん臭さ、良く言えば荘厳さだろうか。
これを見た群衆の中のひとりが、この風景は自分が前世に見た、釈迦が法華経を説いた場面に似てると言った。
蓮はまた俗っぽく連想した。それってあの有名なRPGの○○3部作みたいじゃない?要するにエンドレスな話。これって法華経の中でしょ?なのに法華経の中にもう法華経がある。どういうこと?
ふとここで蓮は例の「半日蓮」のメモのひとつを見た。
「あのおばさんの中にいた仏、あれが全て。無宗教な人こそ法華経。日蓮記す」
このメモだってそうだ。宗教が無宗教の中にあるって。まるでエンドレス。
宇宙の果てを探す話みたい。
これらが意味することはここから先、長く続く法華経のどこかにあるのだろうか?
蓮はまるで自分もプログラムを持ち、これから始まる何かを待つ群衆のひとりになったような気がした。
不思議と期待感と安心感が湧いた。なんだろう?これ。
序品はこう続く。
群衆の中から声がする。
「これこそ白い蓮の如き真実の法、妙法蓮華経が説かれる前兆です。みな合掌して待つのです」
群衆は合掌する。
思わず蓮も、心の中で手を合わせた。
17.方便品第二(ほうべんぼん)
「法華経って、話も複雑だし解釈も複雑だけど、それ以上に出て来る名前が多過ぎるわ」
蓮は法華経の筋に立ちはだかるように出て来る如来や菩薩、神に僧侶なんかの名前の多さにうんざりしていた。さらにその名の主は、急に知ったかぶりの話をするのだ。「これはかつてどうのこうのだった」とか「私が前世でどうのこうの」とか「これは誰々がどうしたものだ」とか、何の前触れもなしに話し出すものだからその関連性がさっぱり分からなかった。
名前があればその数だけ人生がある。人生が重なれば因縁が生まれる。それが何千何万もあればもう蜘蛛の巣を超えて綿ボコリだ。
それらをひとつひとつほどいて行ったら自分が何人いてもきりがない。
だから細かい因縁話はこの際無視しよう。
それに何より、法華経自体人から人へ渡って、そのうちにいろんな見解が入っているのだ。渡って来た国の民族性の違いだってある。この際はその中で装飾抜きで、そして矛盾抜きで流れている部分だけを繋げてみよう。
蓮はそう割り切って第二章に進んだ。
この第二章でもよく分からないことが前触れもなく出て来る。それは「二乗成仏」
とかいうもので、しかもこの、なんで出て来るのかわからない二乗成仏が、法華経を最高の経文とする根拠になっていると、蓮は宗教学の講義で聞いたことがあった。
なんでなの?なんでいきなり出て来ていきなり重要なのよ。中身の説明がどこにもないじゃない、第一章といい第二章といい。
蓮はこの気持ち、どっかで味わったなと思い、なんだったかなと頭を捻った。
「あ!そうだ」
これってパソコンやスマホのヘルプ機能と同じだ。
パソコンいじってて壁にぶつかってヘルプを読んでも、わけの分からない専門用語で説明するものだから「だからその言葉の意味が分かんないのよ!」とイライラするあの感覚だ。
「それはね?このモデムがああでブラウザがそのデバイスだからつまりルーターでどうのこうのだからなんでドメインがあれだからつまりそのモデムがなんなのかまず聞きたいのよ!」
まさにそれだ。
いきなり二乗成仏って言われてもそれが何で、なんで二乗成仏が大きな意味を持つのかの前触れがないのだ。
先の序品でのやたら複雑な名前といい、この二乗成仏といい、いったいなんのためになんの前触れもなく出て来るんだろう?
「ちょっと待って私」
もう二章に入る段階でこの壁。
私の知る日蓮も、メモ書いた半日連も、
この壁は味わったはず。
「うーん」
蓮はそれって、その中身じゃなくてもしかしてその「顔とかリズム」に意味があるんじゃない?と思った。
そういえば例の半日連が「法華経って何?」「法華経ってさっぱり分からない」
とメモに書いていた。
「そうだ、まずは序品に出て来た名前を書き出してみよう」
蓮は第一章を「絵画化」してみることにした。
そして第二章は…
「音楽化だわ」
蓮は宗教学を学んでいるがそれは宗教学全般であって、特定の宗教を掘り下げるものではない。
しかし今蓮は、それが宗教というものの本質じゃないかと思い始めている。
例の半日蓮の「法華経がなんだか分からない」がそのヒントだった。
今の世の中、宗教の違いで戦争をしているのが現実だ。
それは、それぞれがそれぞれを掘り下げ過ぎて、それぞれのどうにもならない沼に落ちてるからじゃないかと蓮はかねがね思っていた。
そんな所にこの奇妙なメモの発見があった。
蓮は法華経の「絵」の部分、第一章の序品に出て来る群衆の名前を列記してみた。これは様々な文献に出て来たもののいくつかを無差別に上げたものだ。
まずそれらを縦に書いてみた。
観音菩薩
舎利弗
帝釈天
弥勒菩薩
難陀
文殊菩薩
目連
阿那律
摩訶迦葉
耶輸陀羅
阿若憍陳如
摩訶波闍波提
梵天王
龍王
阿闍世王
名月天子
大迦葉
阿難
迦旃延
須菩提
いきなりこれらが出て来て好き放題喋るのが「序品」だ。なんのことかさっぱり分からない。真面目に読めば読むほどに分からない。
今度はこれを横に並べてみた。蓮はすっかり遊んでいた。しかし遊びながら、これは遊びではないと思っていた。
観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提
これだけを見て普通、人はどう思うだろう?
はっきり言って「見てられない」だろう。見てられないし読めないのだ。
蓮は序品にはもっとたくさんの名前が出て来ると思ったが、実際はこの程度で、あとは「その他多数」で片付けられていた。その辺、なんだかいい加減だなと思ったが、それでいいのだ。数が多いことさえ伝えれば、その関連性などどうでもいいのだ。それを視覚化、つまり絵画化してみよう。蓮は思い付く名前をパソコンでコピペした。これだけは書いてられないから。
観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀
観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀文殊菩薩目連阿那律摩訶迦葉耶輸陀羅阿若憍陳如摩訶波闍波提梵天王龍王阿闍世王名月天子大迦葉阿難迦旃延須菩提観音菩薩舎利弗帝釈天弥勒菩薩難陀
「うわー」
…こんな感じで見るのも嫌になるほど大勢の人がいたのだろう。
簡単に言えば「序品」はこれですべてなのだ。見るのが嫌になる絵でいいのだ。
これだけの者が注目するもの、それが法華経なのだということなのだ。
そんなふうに、日本人である日蓮も半日連も思ったんじゃないだろうか?
蓮はそう仮定した。
そして今度は音楽だ。
「二乗成仏」
意味はちゃんとある。
声聞といわれる人たちと、縁覚といわれる人たち。
この2つを二乗と言い、これらも成仏出来ますということだ。
「にじょうじょうぶつ」
しかしいきなり言われても、それがなんなんだになるし、それがとても大きいと言われても、それがなんなんだがなんで大きいんだって「何」ばかりが増えて行く。
この「何何何何?」のコーラスが方便品だ。
この章で釈迦は結局「人間に仏は分からん」と突き放している。
「なんでなんでなんでなんで?」と群衆は食い下がる。
釈迦がメインボーカルなら群衆はバックコーラスだ。
二乗とは声聞と縁覚、つまり僧侶のことで、彼らは自分だけの悟りのために修行している。そして悟りを開き、仏になって超能力を得たのだが、そんなの偽物だと釈迦は言う。
「仏のことは仏にしか分からんのだ」
要するにあんたらは仏じゃないと言ってるようなものだ。
でも自分らは釈迦の言う通りの修行をしたんだぞと二乗は言う。
「それは方便だったんだ。あんたらに合わせたんだよ」
と釈迦が言ったから方便の章、つまり方便品なんだけどそれって何?なんで合わせるの?何も分からんあんたらに?
しまいに二乗の大半は怒って釈迦のもとを離れたらしいが釈迦は追わずに、その場に残った者に「では本当のことを教えよう」と言ったらしいがこの流れ何?
やっぱり「何何何何!」のコーラスになってしまうこの章って何?
蓮もブツブツ「何何何何?」と呟いていた。
しかしここで釈迦はスパッとタクトを振る。今度は指揮者だ。
一瞬の静寂。
これがこの章のツボだ。
まさに音楽。
方便品は音に身を委ねて感じる章だ。
静かになって釈迦は言う。
「実は悟らなくても仏は人の中にもうあるんだ」
とは書いてはいないがたぶんそうだったんじゃないか。
蓮はそう思う。
なぜなら仏教は「小乗仏教」と「大乗仏教」の2種類あって、法華経は大乗仏教だからだ。
小乗仏教は特別な修行をした者だけが仏の境地、つまり悟りを得るという考えだが、大乗仏教は誰もが仏になれる、いや、もう仏を持っているという考えだ。だからここで釈迦は小乗仏教を否定しているのだ。
言い換えれば怒って帰ったあの二乗だって、気は付いていないだろうがもう仏を持っているのだ。
「あら?これって」
なぜか蓮は半日蓮のメモを思い出した。無宗教者にこそ仏がどうのって言ってメモだ。
なんか関係ありそうな。
そしてなんで法華経が最高かというと、他の大乗仏教の経典では、あのいじけた二乗をどうも猛攻撃しているらしいのだが、法華経ではそんなことをせず、あの人らも仲間って受け入れているかららしいのだ。現代風に言えば宗教の融合だ。
よく昭和以前の頑固おやじが息子か娘を怒って怒鳴った後、自分が黙って泣いてしまうというドラマの場面があるが、方便品もそんな流れ、つまり
喧嘩 → 恫喝 → 静寂
といった喧騒と静寂のリズムでそんな背景があることを語っているんじゃないか。
「おまえらには何も分からん…」
と、頑固おやじが呟くように。
そう蓮は方便品を仮定した。
って、そういう釈迦も実は人間なのにいつの間にか仏様にされてしまった。
そして小乗仏教も大乗仏教もみんな自分を目指す。なんだこりゃ。
この辺、何が本当で何が嘘か分からなくなるのが仏教であり宗教で、それをしているのは伝導した人間なのだ。
もうこうなると何がなんだかさっぱり分からない。半日蓮の心境だ。「法華経って何?」だ。
結局こんな宗教騒動のもとは人間にあって、またそんな人間の中にある神や仏をどうやって表に出すかが「法華経と言われるもの」が言いたいことなんじゃないだろうか?
「そう、法華経じゃないのよ。【法華経って言われるもの】なのよ、法華経は」
蓮は顔を上げた。そして悟ったように呟いた。
「自分のためにするか他人のためにするか…これだわ」
18.譬喩品第三(ひゆほん)
第一章を絵で読んで、第二章を音で読んだ蓮は、さて第三章は何で読むべきかなと思ってこの章に関する文献を見てみた。そして
「これは普通に読んだらいいわ。例え話だから」
と、文字通り文字で読むことにした。
その例え話は、火事になった自宅から3人の子供を助け出す長者の話で、長者はまず、燃える自宅に向かって大声で「ここに3種類の車があるから好きなのに乗りな!乗ったらもっといい車をやるぞ!」と叫ぶ。すると中から3人の子供がその言葉につられて出て来たので、子供たちは助かったというなんてことない話なのだが、この話、まず長者が釈迦の例えで、3人の子供たちは「声聞」「縁覚」「菩薩」の例え、そしてもっといい車というのが法華経の例えだということだ。
これはつまり、法華経の宣伝文句だ。
と、ここで蓮は思考を変える。
これは二重構造の例え話じゃないだろうか?
先の章で、法華経とは「法華経と言われているもの」と考えた蓮の頭には、この例えの章は「どんな者も救う例え話で語られる法華経という例え話で語られる何か」に見えて来るのだ。それは釈迦に法華経を語らせ、それをいくつかの民族を介して日本という国に伝えさせ、日本人である日蓮に精製させた者が描いた大きな話の姿だ。
蓮は教授に、例の半日連のメモは大物が書かせたと言ったが、その大物は法華経という、大陸を股にかけた壮大な例え話を以て、人間の真実を今も伝えているのではないだろうか。
蓮の目はすっかり宙を見ていた。
「法華経と言われているものは、中身じゃなくて経過、文字じゃなくて轍を読むのよ」
蓮はその轍を付ける車輪が、今も回っている気がした。
息を抜こうと自販機コーナーへ行くと、備え付けのテレビが戦争のニュースを流している。蓮はそこに映る戦車の轍が、決して偶然に目に入ったとは思えなかった。
コーヒーを買い研究室に戻り、一息つく代わりに
「法華経は読み方よ。中身じゃなくて表面を読むのよ」
と呟いた。
ふと、開いていた参考文献のページのひとつに、日蓮の描いた「髭曼荼羅」の写真があった。
髭曼荼羅はすべてが文字で書かれた曼荼羅だ。その跳ねたような字体が、伸びた髭のように見えるからそう呼ばれるらしいが、文字の曼荼羅だから神仏の肖像はそこにない。みんな名前だけだ。
そして奇妙なのは、その中心には釈迦の名前ではなく「妙法蓮華経」と法華経の正式名が書かれ、その上に帰依します、つまり身を捧げますの意味の「南無」が乗った
「南無妙法蓮華経」
の7文字が書かれていることだ。
だからこれは特定の神仏ではなく、法華経を信じる不特定の者だということになる。
これを蓮はさっきの言葉に置き換えてみた。
「私は様々な例え話で構成された法華経と言われる何かの例えを信じます」
これが中心にあるということはこれが本尊なのだ。
つまり本尊は不特定の者、言い換えれば「法華経と言われるもの」を信じる誰もがなれるものなのだ。
「仮定が少し進んだかな?」
蓮はやっとコーヒーを口にした。
19.信解品第四(しんげほん)
コーヒーを飲みながら蓮は頭を整理した。
「まず二乗ね。これは自分だけを救う考え。大乗仏教はこれを否定している。あぁたしか、小乗は小さな船、大乗は大きな船だって聞いたことがある。あ!そうか、この乗るって文字、1人乗りか大勢乗りかのことかも!」
「たしかその船は、あのノアの方舟みたいな状況で出て来たんじゃなかったっけ?」
「そして大乗仏教は自分のことしか考えないことを許さないのね。だから二乗を爪弾きにするのかも」
「それに対して法華経は、この二乗も助けますって言ってるんだわ。この意味が大きいってどういうこと?」
「そして譬喩品ではこれに菩薩まで加わってる。だからみんな助けますなんだわ」
「でもみんなってことは、無宗教の人もでしょ?」
「そこに南無妙法蓮華経の本尊の存在」
「自分本位になるな。法華経を信じろ。
みんな助ける。仏はもう体内にある」
「これらの繋がりって何?」
あれこれ考えるうちに一瞬ウトウトした。
お坊さんが転んだ。
おばさんが手を差し伸べる。
お坊さんがお礼を言っている…
そんな場面が見えた。
「何?今の」
蓮は目をこすった。
「いけない、いけない。次よ次」
蓮は次の章のタイトルを見た。
「信解品」
「しんげほん」と読むらしい。
…信じたら解けるかぁ。
解けたらいいけどなぁ、この材料たちの繋がり。
とにかく読んでみよう。
と、これもまた例え話だ。
例え話に入る前に例の二乗の反省から始まっている。
彼らは自分らは奢っていましたと言っている。
今までは自分さえ救われればいいと思っていましたが、それは大間違いで、救われるのはみんなであるべきでしたとすっかり素直に反省している。
なんでこうなってる?
「ちょっと待って」
蓮は一度読んで閉じた文献をまた開き漁った。
話は方便品に戻る。
ここで釈迦は「おまえらに何が分かるんや!」と、恫喝風に言えばそう言ったわけだ。
「このクソ親父が!」
大半の二乗は怒って去って行った。
クソ親父こと釈迦は「ほっとけ」と、シャレじゃないが仏頂面で言った。
しかし残った二乗はしつこく教えをねだった。
すると釈迦は関西風に言えば
「実はな、これからが本番やったんやけどな」
と苦笑いした。
「実はな、あんたらみんな助かってんねんで。ただ気が付かへんだけや」
二乗は「えっ⁈」となる。
「あのな、自分だけ助かろうなんてそんな虫のええ話仏教ちゃう。仏の私が言うてるんやからウソやない。まぁなぁ、あんたらの船も私が作ったんやけどそうでもせなあんたら勉強せえへんやん。そやからそれが方便や言うねん。そのうちホンマのこと教えだろ思うてたんや。あんたらは船を乗り換えなアカン。つまりはや、心を入れ替えなアカンいうことや」
と、方便品の後にそんな頑固おやじこと釈迦の呟きがあり
「ほな今からええ例え話したろ」
と釈迦は言い、譬喩品へと雪崩れ込んだわけだ。
おさらいに譬喩品で出て来た3人の子供は人間たちで、火事になってることにも気付かずに遊び呆けている。ここで言う火事とは煩悩だろう。だからそれは堕落の始まりで、そのうち自滅、つまり焼死体になってしまうということだ。
とりあえず火事の家から出さなきゃ。
とりあえずだからとりあえずの車を3台用意してひとまずこいつらをおびき出そう。その3台は「菩薩」「声聞」「縁覚」という名前だ。それらを選ぶ3人もいうなれば「菩薩」「声聞」「縁覚」だろう。ひとまずはそれに乗せて、安全が確かめられたらその上のグレードの車を与える。それが法華経だ。だから法華経は最高だ。
グレイトだ。
そういう筋書きが譬喩品だ。
簡単に言えば、人それぞれの資質「自分本位」「他人本位」に合わせた教えをまずやってから、本当の教えに導きたかったわけと、頑固おやじこと釈迦はしんみり呟いたわけだ。
「オヤジ…」( ; ; )
その姿に二乗は反省させられたわけだ。
「そうなんだわ。やっぱりリズムよ。方便品で仮定した静寂の部分がこの例え話たちにあるんだわ」
「頑固おやじの呟きなのよね、この辺」
蓮は本題の例え話を読む。
と、また蓮は宙を見た。
「あぁ、そうか、小乗も大乗も釈迦に繋がるって、釈迦のマジックだったんだ。釈迦はまずいろんな人の性格に合わせて教えたもんだから小乗ってのが出来たのね。ひとつは解けたわ。んー、でも回りくどいなぁ法華経」
と、また信解品に目を落とし
「あーダメダメ。法華経に埋没しちゃダメ。法華経迷路に惑わされちゃダメ。頑固おやじにほだされちゃダメ。法華経は法華経と言われるものなのよ」
蓮は鉢巻のごとく呟いて信解品に向かった。
「ここは沈黙のリズムのはずよ。沈黙、沈黙」
信解品の例え話は「金持ちの親子の話」だ。
ある町に金持ちがいた。
そこの子供が家出した。
「金持ちなのに家出するなんてもったいない」
子供は各地を放浪して、数十年後にみすぼらしい姿で町に帰って来たが、そこが自分のいた町だとは分からなかった。
「なんで?あんた記憶喪失になったの?」
まだ生きていた親はたまたま子供を見つけたが、敢えて子供を召使いとして雇った。
「なんで?あんた親でしょ?よく帰ったなってなんで言わないのよ」
子供は雇ってもらったことに感謝して一生懸命に働いた。
「あんたもあんたよ。ホント、記憶喪失じゃない?親の顔も分からないの?」
そして親は自分が死ぬ間際にふたりが親子だと明かし、巨万の富を子供に与えた。
「だったらもっと早くそうしたらいいじゃないの」
これは親が仏、富が教え、家出してみすぼらしい姿になった子供は迷える人々という例えです。
「だからなんなのよ」
蓮はいちいち信解品にチャチャを入れて台無しにした。
しかしそれは、そういう例えが、法華経について回る「このお経は自画自賛だけ」という決まり文句を、講義の中で聞いて知っていたから「あぁまた始まった」と初めから受け流すつもりだったからだ。辿り始めてまだほんの少しだが、蓮はこんな法華経の滑稽さが、まるで友達のように親しく思えていた。
所詮この例え話も、法華経の滑稽な宣伝文句なのだが、蓮の想いは別にある。
それは「法華経と言われるもの」的に見れば、法華経が伝播する過程でいろんな人がこの宣伝文句をスピーカー片手にが鳴ったという光景こそが大事なんだという想いだ。だから蓮は茶化したのだ。
「中身じゃない、輪郭よ。文言じゃない、轍なのよ」
蓮はここまでの法華経各品を読むたび宙を見る自分の姿に、何かしらの意味があるような気がした。
20.薬草喩品第五(やくそうゆほん)
「これも例え話だわ」
この章にざっと目を通した蓮は呟いた。
ここまでで法華経は何を語ったろう?
まず大仰なオープニング。
次に頑固おやじの突きっ放し。
次に頑固おやじの呟き。
簡単にこう書けば派手でいじけたある男の描写じゃない。
でもなんでだろう?茶化すたびに可愛くなってくるわ、法華経。
(実はこの「可愛くなるわ」も大事なことなのだが、この時の蓮はそれを知らなかった)
ここでは降り注ぐ雨を語っている。
そして雨は薬草を育むと言っている。
雨は仏の教え、薬草は人に例えているそうだ。
つまり雨は大地に公平に降り注ぎ、どんな姿の(大きな木や小さな木、草とかいった形の違いの意味らしい)薬草も公平に育つという、法華経の教えの姿を例えているらしいのだ。
ということは誰もが薬草、つまり自分で自分を治せるということか。
「なんだか穏やかできれいな章ね」
蓮はここは分かりやすい絵だと思った。
前の信解品の「信解」とは「信じ理解すること」で、そこではこの場に残った者の中の4人の声聞が「信じ理解出来た」と釈迦は判断したから「信解品」なのだと文献のひとつに書いてあったが、その文献はさらに、この薬草喩品がでは何を信じ理解出来たかを語っていると言っていた。
それは菩薩・声聞・縁覚の三乗が、いわば合体して一乗になることが究極の教えであることを理解出来たのだ…こう言われてもよく分からないが、簡単に言うと「人の資質の違いに応じてそれなりに皆救われるのが本当の教えだということを理解出来た」ということのようだ。そしてその究極の教えが法華経なんですと、ここも見事に宣伝文句で括っている。
蓮はここで「あら?3つだけ?」と思った。
というのも蓮は以前受けた仏教講義で「人間は10種類いる」みたいなことを聞いていて、その中にあった3種類が「菩薩」「声聞」「縁覚」だったからだ。
ちなみにその10種類とは
「仏」
「菩薩」
「声聞」
「縁覚」
「天」
「人」
「修羅」
「畜生」
「餓鬼」
「地獄」
で、それぞれに特性があって、人間は誰もがその中のどれかに属しているそうだ。
そしてまたその個人の中にも同じ10種類の世界があるそうだ。
だから当然、人間の中には元から仏がいるわけだ。
蓮はここは、10種類を例えで3種類と言ったんだろうと、ぼんやり捉えてパスするのがいいなと思った。なぜなら大事なのは「轍」なのだから。
そういう意味でここは「やっぱり法華経って究極なのね。確認したわ薬草喩品」と「人間の中にある10この世界を思い出したわ。ありがとう薬草喩品」でいいのだと思った。
21.授記品第六(じゅきほん)
蓮は自分がしようとしていることを思い返してみた。
そもそもは私が見つけた「日蓮らしき人物のメモ」から全ては始まっているのだ。
教授はこれがもし日蓮の自筆なら大発見だと言った。しかしその信憑性は半々だ。
メモの内容はこれまで伝わって来た日蓮像を覆すものだった。そして宗教さえも覆すものだった。
このとんでもない内容の解明には私はむしろ、その半々の要因、つまりこのメモにおける2人の人物の筆跡の混在こそが鍵だと考えた。
これは日蓮という人物を使って、何者かが書かせたのではないかという、漠然とした鍵だ。あるいは超常現象的な何かかも知れない。日蓮は分身したか、日蓮は何者かに乗り移られていたか、また何者かに導かれていたか、ともあれ日蓮を構成するのは日蓮だけではないと鍵の向こうの世界は語るのだ。
そしてその日蓮は「法華経」を世に広めようとしていた。当然これも何者かの意思ということになる。
では「法華経」は何だ?ということになる。それを今、辿っているわけだ。
そしてこの先、何者かが誰で、なぜ日蓮でなぜ法華経なのかが判ったら、私はこれを卒業論文にまとめようと思うのだ。
その法華経の方は第五章まで眺めてみたが、その概要はというと
①大仰なオープニング
②もったいぶり
③褒めちぎり
④褒めちぎり
⑤褒めちぎり
と、ここまではほとんど賛辞で終始している。
ただ、賛辞の裏には賛辞される理由があり、それは賛辞しながらもちゃんと書いてある。
要は全てを救えるのはこのお経だけと言っているわけだが、救われるとはなんだろう?
その内容の前に、この第六章から先はしばらく、人々が次々と救われる様が描かれている。
この状況が語るのは何だろう?
蓮は今、第九章までを眺めたところで、こういう疑問の中にいる。
蓮は第六章から第九章までを簡単にメモしてみた。
第六章
釈迦はこの場に残った4人の弟子に、成仏を約束した。
さらにこの章では、他の者にも段階的に成仏の約束をして行く。
そのタイミングは今世、来世いろいろあるようだが、結果的にここでは数百人の者に成仏の約束をしている。
これを授記と言うようだ。
つまり授けることだ。
成仏とは救いのことだろう。つまり仏になることが救いだが、では仏とは何か?
私はどうもこの数や、案外やすやすと授記がされる様子に仏の意味があるような気がする。
加えてここでは、こうして授記を受けるのも、その前に釈迦や法華経と出会うのも、さらには今世で親子兄弟関係にあるのもみんな前世の因縁だと釈迦は語っている。
そしてこの次の章で因縁について説明すると最後に語っている。
22.化城喩品第七(けじょうゆほん)
第七章
「仮の城の例え」という意味のこの章、これも例えか。法華経は例え話が多い。
そういう私の仮定も、法華経自身が壮大な例えというものだが。
ここもまたまた専門用語の攻撃だ。
なんでも「大通智勝仏」とかいう仏が出家する前は国王で?
彼には16人の王子がいて?
父王の成仏を聞いた16人の王子は?
大通智勝仏になった父に願い出て?
自分たちも仏にして下さいと諸天と共に願い出て?
…まず大通智勝仏の読み方がややこしいし、王子の願い出になんで諸天が出て来るのかがよく分からない。
あー無視無視!
この言葉の迷路が嫌なのよね、お経って。
因果について教えると言っているけど、ますます因果関係が分からなくなる書き方だわ。
説明が丁寧になるほど煩雑になる現象がここにあるわ。細かいところは無視よ。大筋を追え私。
あら?メモがタメ口になってる。
大筋よ大筋。
因果の話だったはずだわ、ここは。
メモに戻す。
読み進めるとなんとここに「蓮の花に例えられし、仏が守る妙法を説く」って記述がある。これは大事かも知れない。これを短縮したら「法華経」になるからだ。法華経の根源はここにあるのか?
そしてそれを説いたのは「大通智勝仏」つまり父王で、聞いたのは16人の王子。
その後父王は瞑想に入り16人の王子は修行ののち成仏したと記され、その中の16番目の仏が釈迦だと記されていて、それが法華経とあなた方が出会う宿命の説明だと言っているがなんのことかさっぱり分からない。まるで砂漠の蜃気楼みたいだ。皮肉にもさっぱり分からない幻の城という意味でこのタイトルは当たっているような。
そもそもなんでここで「因果」が出て来るのだ?
因果って原因と結果。原因と結果。原因と結果。ん?
原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果原因と結果…
これだ。また絵だ。これって「轍」だ。
やっぱり中身じゃない。輪郭だ。
さてこの章の本来のタイトルは先に語った二乗が学んだのは仮の教えのことが元になっていて、これを仮の城(化城)に例えたのだと言っているが、なんでここで二乗がまた出て来て、何が因果の説明なのかさっぱり分からない。
そんな今の私に一番よく分かるのは、あの半日蓮のメモ「法華経って何?」の一言だ。
こっちの方が簡明だし、核心を突いているような気がする。
法華経は人間の姿で例えれば、肉と皮が逆転したようなものかも知れない。つまり外見、輪郭、その名前の方に大事があるのだ。
法華経が分からなくなるたびに私は法華経が見えて来る。
23.五百弟子受記品第八
(ごひゃくでしじゅき)
実際、法華経をこの先読まなくても、私の仮定は語ることが出来ると思うが、完全無視は怖いところがある。
何も語らないようで所々、法華経の存在意図を匂わせるような記述があるからだ。
この章にしても、タイトルから大体の内容は分かるが、どこにそれらしき記述が出て来るか分からないので、まずは概要を記してみよう。
すでに500名以上に授記した釈迦はここでさらに500名、果ては1,200名あまりにも授記している。
その1,200名の詳細は私の中で必要はない。
ただその段階の途中でまた例え話が出て来るが、これは意外と大事なようだ。
しかし法華経は本当に例え話が好きだ。
例え話の内容は次の通り。()は私の注釈。
友人の家で酒を飲んだある人がすっかり酔いつぶれて眠ってしまった。
用があって外出する友人は、酔いつぶれて眠るその人の衣服の裏に、そっと宝石を縫い込んだ。(なんで?)
目が覚めたその人は(どういうわけか)各地を放浪して無一文になった。
無一文でさまようその人は、ある所で友人と再会した。
友人はその人に
「なんで私が衣服の裏に縫い付けた宝石を使わないんだい?」
と言った。
酔って眠っていたその人は、まさか自分の衣服の裏に宝石が縫い付けてあるなど知るよしもなかった。
(よく衣服がもったわね)
何かしら強引な話だが、この例えは人間誰もが自分の中にここで言う宝石を持っている、つまり美しい心をもともと持っているのだと私は解釈したい。
その例え話が法華経のこの辺りで出て来たということは、法華経のこの辺りが「授記の大盤振る舞い」を語っていることから、授記で与えられるもの、つまり成仏=仏=(私の解釈上)美しい心は与えられなくてもみんな持っているのだということの、とても回りくどい言い方なのではないかと推測する。
蓮はここまで書いて、ウトウトした時に一瞬見た「あの光景」を思い出した。
24.授学無学人記品第九
(じゅがくむがくにんきほん)
…おばさんが転んだお坊さんを助けた光景…
誰もがこんな経験をする。
転んだ人を見たら手を差し伸べるか声を掛ける。
高齢者や障がい者、妊婦を見たら座席を譲る。
眼の不自由な人を見たら腕を差し出す。
などなど。
これは誰もが「やってしまう」行為だ。
ここには信仰心があるからとかいうご立派な理由はない。
やってしまうのだ、なぜか。
これこそ仏がすでにあるという証ではないか?
そこへ半日蓮のメモだ。
蓮はこんなニュアンスのことを書いたメモがあったなと思った。
取っておいたメモのコピーを引っ張り出した。
「あった」
「無宗教こそ法華経。俺は何をやっていたんだ。おばさんに教えられた」
これだ。
「おばさん?あ、あの一瞬の光景はこれかも」
蓮はメモの端に
「①無宗教こそ法華経か?」
と記した。
それと蓮はひとつ気になっていることがあった。
それはここでの法華経の大盤振る舞いにおいて釈迦は「来世の成仏」を約束していることだ。これは何か意味があるのだろうか?
釈迦の時代からかなりの時が流れているから、ここで成仏を約束された者たちはもう仏になっているのだろうか?
いや、それは法華経の中にある蓮が目指す「法華経と言われるもの」的に言えば、その言い方はそれこそ方便、謎かけで、実は来世とは今のことで、今を生きる人すべてが仏=美しい心を持っているということではないか?
まだぼんやりした思考だが、蓮はそこにも何か鍵があるなと思った。
さて大盤振る舞いはまだ続く。
「授学無学人記品」
このタイトルが気になる。
「宗教って1つなら真理なのに2つになると戦争になる」
ふっと蓮はそんな言葉を呟いた。
さっきから無宗教のことばかり考えていたら、つい、口をついたのだ。
この九章のタイトルにある「無学」が無宗教に通じそうでならないが、さてこの章は具体的にはどうなんだろう?
蓮はメモを続ける。
ここでは「学・無学の弟子」という言葉が出て来るが、これは「学んでいる弟子・学んでいない弟子」ではなく「学ぶ必要がある、つまり学習中の弟子と、もう学ぶ必要がない弟子」の意味で、すべての人間ではなさそうだ。
ここではそれらの弟子すべてに「菩薩行=人に尽くすことに励むこと」を交換条件に成仏の約束をしている。その数はおおよそ2,000人とのこと。
「うーん」
蓮は「無学」という言葉から、てっきりここで釈迦は修行していない一般人にも授記をしたと思ったが、どうやらそうではなさそうだ。
これがすべてならば蓮の仮定は見当違いになりかねない。
ただ蓮は、菩薩行、つまり人に尽くすならばという部分がどうも引っ掛かった。
「法華経の内容じゃない、法華経の輪郭よ」
蓮は自分を鼓舞するように呟いて、とにかく法華経の中を根気よく眺め続けようと思った。
25.
ここで蓮はもう一度、自分がここまで考えたことをまとめることにした。城造りに例えるならここでしっかりと石垣を築いておこうといったところだ。
そもそもは蓮が見つけたメモが発端だった。それは古いメモで、当時は覚え書きとでも呼んだのだろう。
作者は日蓮となっているが、筆跡は二重で、日蓮とあと一人が書いたものかと推測される。そうでなければ複数の筆跡を操れるものが書いたかだ。それは日蓮とは全くの別人かも知れない。
そのメモの内容は大まかに言うと
「法華経って何?」
「自分が起こしたとされる奇跡は単なる偶然だった」
「無宗教こそ至上」
その3点に絞られる。
日蓮といえば法華経こそ最高の経文であり、それを信仰するのが人の勤めだと言い切り、他宗を否定する言動を行なったことで有名だ。
しかしこのメモの作者の日蓮は、肝心の法華経が何か分からないと言い切っている。さらに他宗を否定するどころか法華経さえ否定するようなことまで言っている。
この矛盾は何を表しているのか?
ここが蓮の思考の出発点だった。
蓮はこの「あやふやな日蓮の存在」を、半ば親しみを込めて「半日蓮」と呼ぶ時もあった。
蓮はここで思い切って、このメモは真実で、日蓮は法華経が何か分からないまま誰かに広めさせられたのでは?と考えた。そして法華経とは、誰かの意思の流れの呼称ではないかと仮定した。ただ、その誰かの意思の中身は法華経に隠されているのではないかと今は考え始めている。
法華経本文を読む傍らで蓮は、法華経の伝導の経路を調べるうち、法華経自体が3つあることを知った。
要は法華経を訳した者が3人いたということだ。これは例えで、実際はもっと多くの法華経があり、もっと多くの訳者がいたことだろう。
そしてここですでに、純粋な法華経は無くなっていると言ってもいいだろう。
仮にその中の1つが本物でも、それから何百年、いやそれ以上経った今となってはそれを証明する手立てはない。
今、法華経と言われるものはその中の鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の「妙法蓮華経」だと言うが、果たしてそれが法華経の作者である釈迦が語ったものかどうかは分からない。
またその釈迦さえ、法華経の中では仮の姿だと語っていて、その実体は分からない。
(実体は仏だというが、その仏が何なのかも分からない)
とにかく出発点からして謎だらけの法華経が、「一応鳩摩羅什が伝え」「一応日蓮が広め」て今、日蓮宗として日本にあることだけが確かなのだ。ただそれは日本の中の法華経だけで、伝導途中のチベットや中国、或いは朝鮮にとどまった法華経もあるということだ。
もうそれだけで、純粋な法華経がどれかなど分かろうはずもない。
だからなおさら蓮は、本物の法華経は、それが伝わった軌跡の呼称なのだと思え、そしてその中身は、宗教と大仰に言われるものの中にはないと思えるのだ。
蓮は今、それはもっともっと単純で身近にあるもの、しかしそれは意外と重いものという予感めいたものを感じている。
26.法師品第十(ほっしほん)
ここには「法華経の言葉を少しでも聞いた者には全て授記を与える」という釈迦の言葉が出て来る。
この際もう、釈迦が誰で、法華経が何かなどどうでもいい。
この言葉の通り、法華経の言葉を見聞きする私に何が起こるのか見てやろうと、蓮は思った。
今のところ蓮は、法華経は仏の取り扱い説明書みたいなものだと思っている。宗教ではなく、人が望む望まないに関わらず人の中にある仏の構造と、その位置と、その扱い方法について記しているものだと仮定して、法華経を読んでいる。
その仮定は、どのように法華経と化学反応するだろうか?
その期待感が蓮の中で高まる。
「法華経は褒めて広めよ」
誰が言っていたかは忘れたが、蓮の頭の中にはこの言葉が常にある。いつ私はこの言葉を聞いたのだろうと思うが、日蓮といわれる者のメモが、蓮の実家から出てきたことを思えば、蓮は法華経と割と近い所で育ったのかも知れない。
「ちょっと待って」
蓮は法華経を追い始めて少し経った頃から抱いている素朴な疑問を思い出した。
「私は法華経だけを追っているけど、他の宗教はどうなんだろう?」
法華経がもし「法華経という行ない」を誰かにさせられているなら、世界に散らばる他の宗教もそうなのだろうか?
蓮は自分が呟いた言葉を思い返した。
「宗教って1つなら真理なのに2つになると戦争になる」
宗教、つまり信仰行為は1つでいい。
言い換えれば「信じるものは1つでいい」
たしかに日蓮は信じるものは法華経だけでいいと言ったが日蓮さん、ちょっとニュアンスが違うような気がするのよ。
違うのよね、何かが。
一瞬、他の宗教を考えたけど、それがために宗教間に争いが起こっているではないか?
この小さな日本の中でさえそうなんだ。
信じるべきものは1つでいい。しかしそれは宗教の中にあるものだろうか?
そのモヤモヤをはっきりさせたい。
蓮は踏ん切るように法華経に目を落とす。
「釈迦、鳩摩羅什、日蓮」
救いを求めるように関連する者の名前を呟く。
法師品の頭にあった「すべての者に授記を与える」のくだりがその名に反応する。
誰もがすでに持っているもの、仏といわれる宝物…
あのメモにあった「無宗教」の文字が空を飛ぶ、そしてあの、なんてことない光景、転んだから助けた…
「勇気」とか「堪忍」とか「信念」とかいう、強い言葉の響きが頭の中に浮かぶのだが、なかなか1つにまとまらない。
しかしそれは人間の芯になるものだというのは分かる。
法師品では法華経を受持し、読み、説き、広めることを強調する。
そして法華経を受持する者への侮辱を許さず、受持する者を保護すると述べている。
さらに法華経は心と体で読めと語る。
しかし法華経が何かはここでも語られない。
法華経…どういう言葉で置き換えたらいいのだろう?
人間誰もがすでに持っている仏というものを、仏ではない言葉に置き換えられた時、その言葉こそ法華経の意味となるような気がする…
法師品の文言が滲んだりまとまったりしながら頭を往来する中、蓮は新たな仮定に近づく予感を感じた。
27.見宝塔品第十一(けんほうとうほん)
蓮はしばらく考えたのち、新たな仮定をこう定めた。
それはなんでもいい、強い言葉を「仏」に代入することだ。
それと前の法師品にあった「法華経を受持する者への侮辱」「法華経を受持する者の保護」から、法華経とは受持すると苦しいもの、それは何かを探ることだ。
意外なことだが、後者はすぐに分かった。
それは「自分」だ。
自分ほど保つのは難しい。
すぐに左右され見失う。
いつも苦の中にある。
だから「法華経」とは「自分」という「法華経と言われる【者】」ではないか?
ならばそんな自分の中にある宝物とは?
「仏」に代わる強い言葉…
蓮はそれを「信念」と定めた。
「法華経を受持する者の保護」
自分を保ち、守るのは「己の信念」だからだ。
この両者を合わせれば「自信」という言葉になる。
「自分を信じろ」
この声を法華経の姿だと仮定しよう。
そうすれば、その声の主がまた法華経だということになる。
「ちょっと待って。だったら法華経って、自分が自分を導いている軌跡ってこと?」
「大物って自分?」
「だったら自分が法華経と名乗って釈迦に説かせて鳩摩羅什が訳して日蓮が拾い上げて自分に戻したわけ?」
「因果って自分?」
「そう言えば自分って唯一無二よね」
「釈迦も唯我独尊って、似たような言葉を言ってるわね」
蓮はぽかんとした顔で第十一章を読む。
見宝塔品はこんな文言で始まる。
「いいかみんなよく聞け。釈迦は平等の教えを示し、人のために尽くす法であり仏に守られた法華経を説いた。釈迦の言うことはすべて真実なのだぞ」
法華経のここまでを要約したようなセリフだ。これは釈迦の声でありそうでもなさそうだ。前章を釈迦が語った後、不思議な塔が現れ、そこからしているようだ。
声の主を語る前に、蓮の仮定をこの文言に当てはめてみる。
「いいかみんなよく聞け。釈迦は人間は平等だと言い、信念のもとに他人に尽くすべき自分、つまりあなたのことを話したんだ。釈迦の言うことは本当なんだ」
何となく見えて来たような気がする。
ここで仮定がかなり前進したような気がした。
しかし改めて考えると、自分はいったい何をしているんだと思う。
たくさんのお金をかけて大学まで入って、またたくさんのお金を払いながら学んでいる宗教学を否定するようなことをしている。
だったら宗教ってなんなの?と思う。
自分が始めて自分に還る、もともと人の中にある、そんな結論なら宗教が宗派がああだこうだと言ってること自体空虚なことだ。
でも真理はそんなものかも知れない。
争う所に自らはいないと言っているのが真理かも知れない。
さっき「自分」とは唯一無二の存在だと私は思った。確かに自分とは不思議なものだ。この世に1つしかなく、自分の顔が見えない。そんな「自分たち」がお互いを助け合うことが大切…そうだ、意識的に助け合えるのは人間だけだ。
ところが人間はなかなか素直に助け合いをしない。逆に易々と虐め合いはする。この性質はいったいなんなんだ?もともと仏が自分の中にあるのに。
この辺りだろうか?自分、つまり法華経の言わんとしていることは。この辺りの解決だろうか?
あぁ自分、早く答を見つけて。
蓮はぐるぐる回る思考の中で、コンパクトを取り出し自分の顔を見た。
仏に似た顔が映っている。
蓮はこう考えてみた。
そもそもは日蓮(らしき人)のメモが発端だ。ならば日蓮のことも学び直そう。そして法華経を並行して読み進める。この2つの接点はどこか?
「うん、その方法を採るわ」
蓮は漠然とその作業を始めたが、これがこののち意外な進展を見せることになる。それはまた何章か後でおのずと解明される。
「さ、見宝塔品」
蓮は話を読み進める。
塔の中には「多宝如来」という仏がいて、声の主はその仏であったようだ。
多宝如来は昔、こののち誰かが法華経を説く時があったら大地から湧き出て、法華経が真実の経文であることを証明すると誓願したらしく、釈迦が法華経を語るこの場面が「その時」だったようだ。
多宝如来は諸仏が集った時に姿を現すそうなので、釈迦はここに集った仏たちを宙に上げ、虚空という空間に皆が上がった時に塔の扉が開いて多宝如来はその姿を現した。
多宝如来は釈迦に隣に座るよう促し、隣に座った釈迦はまもなく自分が入滅することを語り、自分の代わりに法華経を伝える者はいないか呼びかける。
蓮はこういう表現が経文の分からないところだと思った。ここに集まっているのは仏ばかりではないだろう?それか授記したらみんなもう仏なんだろうか?
まぁいい、内容はいいんだ、仮定から行けばここは「自分という厄介なものの扱いについて大切なことを伝える者はいないか?」という呼びかけの場面なんだと、浅く考えることにした。その方が煩わされずに法華経の筋を追えると思ったからだ。
そして話はここから法華経の核心に入るようだ。
28.
法華経が佳境に入る前に、蓮は並行して行う作業、つまり日蓮についての再考察を始めた。
「私の名前、いやに日蓮に似てるわね」
蓮は苦笑して作業を始めた。
そもそもあのメモの筆跡が2つということがずっと引っかかっている。
しかも同一のメモの中で筆跡が変わっているという。それならば複数の人間が書いたとは思えない。
極端に言えば、いちいち一文字一文字を交互にふたりで書くだろうか?そしてそれになんの意味がある?そう単純に思ったからだ。
すると同じ人間の中に複数の人間がいたのだろうか?だとしたら考えられることはひとつしかない。
「二重人格」
この病的な呼び名の現象だけだ。
ここで蓮は、宗教の特異性を思った。
そもそも宗教は古代の人間が、自然現象に対して抱いた畏怖の念から始まったと言われる。
「大雨」「台風」「落雷」「日照り」
天変地異とも言えるその現象は、何かとてつもない者の意思が関わっていると考えた人間の中に「神仏」という観念が生まれたのがそもそもの始まりだ。
だから宗教には「不思議」とか「不可思議」とかいう、科学を受け入れない部分がある。
ならばこの「二重メモ」も、科学の介入を拒むものだろうか?
話を日蓮に戻すと、蓮の浮かべたこの言葉通りだとすると日蓮は二重人格者だったということになる。
それは一般的に知られている日蓮と、知られていない日蓮という二重人格なのか、どちらも知られている日蓮の分裂性格なのかは分からないが、蓮は一番目の考えで思考を進めることにした。その方が作業の内容が分かりやすいからだ。
まずはよく知られた日蓮の軌跡についてをざっと記してみる。
日蓮は安房の国、今の千葉県の漁師の子として西暦1222年に生まれたと言われる。時代はちょうど鎌倉時代であった。
12歳の時に近くの寺、清澄寺(せいちょうじ)に預けられ、16歳で出家し僧侶になった。初めは「蓮長(れんちょう)」と名乗ったそうだ。
その後、鎌倉に出て様々な仏教を学んだという。その中には後に彼が否定する禅や念仏もあったそうだ。
21歳の時、今度は比叡山に入った。
比叡山といえば、天台宗の本山だ。彼は比叡山を拠点に、京や大和、高野山などの寺を回り、様々な経文を読み、さらに多く、深く仏教を学んでいる。
ここまでの動きから、後に批判の鬼となる日蓮だが、その対象の中身を熟知していたと思われる。
これらの研鑽から、彼は法華経こそが最良の経文だと結論付けたらしい。
32歳になり、彼は清澄寺に戻る。
ここで彼は「南無妙法蓮華経」の題目を初めて唱えたといわれる。そして名も「日蓮」と改めて、独自の宗派を立ち上げた。
「日蓮宗」だ。
ここで法華経は、手付かずの法華経と、日蓮宗といわれる法華経に別れたのは確実だ。
しかしさっそく、念仏信仰者の反感を買い、清澄寺を追い出される。
その後、鎌倉で辻説法を始めたとされる。日蓮はカリスマ性が高い。カリスマ性の高い者は演説が上手いとされるが、この辻説法で有力な信者(武士層)が集まって、日蓮宗は次第に影響力を持ち始めた。
この頃の世の中の不安定さに対して日蓮はさらに救済の術を研究すべく、駿河の国に渡る。
そして法華経こそが救済の法であると主張する「立正安国論」を著し、鎌倉幕府に上奏するがほとんど無視される。それどころかこのことに反発した念仏信者により住居を焼かれ、日蓮は下総の国に逃れる。その後再び鎌倉で布教するが幕府に捕らえられ、伊豆に流される。
罪を許された後も布教を続けるが、今度は念仏信者の襲撃を受け、弟子を殺され自らも負傷する。
この頃、日本は元の侵攻を受け始める。
これは法華経を蔑ろにすることに対する災いだと日蓮は捉えた。
日蓮は再度、幕府に対して法華経の正当性と必要性を訴え、他宗の代表と討論を行なうことを促すが、これは却って幕府と他宗の怒りを買い、ついに日蓮は処刑されることになる。
処刑は龍ノ口という所で行なわれたが、この時「奇跡」が起き、処刑は中止され日蓮は佐渡に流される。(注1)
佐渡では日蓮の重要な著作が多く著された。
佐渡から戻った後も幕府に諫言したが受け入れられることはなかった。
この間、元が2度日本に侵攻するがいずれも失敗した。(注2)
日蓮はその後身延山に入り、著作と弟子の育成に努め、1282年に亡くなった。
これが誰もが知る日蓮の概要だ。
蓮はここに2つの注釈を付けた。
いずれも例のメモに深く関係した箇所だからだ。
この2つの事柄に対するメモはこうだ。
「雨男なんですよね」
「奇跡」かたなしの表現ではあるが、現代人からするとこちらの方がしっくり来る。
メモは同一人物が書いたと蓮は仮定する。
仮定が出した結論は「日蓮は二重人格」という大胆な話だ。
概要で見る日蓮がその片方だとすれば、もう片方は何を言おうとしているのか。
概要の日蓮が古代の日蓮だとすれば、奇跡かなたしメモの日蓮は現代の日蓮だ。
メモは「奇跡と伝えられていることは偶然に過ぎない」と言っているようだが、蓮はその裏に「しかし単に偶然と片付けていいものか」と言っているようにも捉えた。
「雨男」「雨女」は今でもよく言われるが、実際雨男や雨女のそばにいれば、これが偶然か?と思うくらい雨に遭う。
このように不可思議なことは確かにあるのだが、日蓮の奇跡はもう少しずれた所にあるんだ。
そう思い蓮は追跡を続ける。
「雨男なんですよね」
雨男の表現の意図が、奇跡の表現を今風にせよということならば、日蓮はとにかく生かされた、生かされて身延山に入り、弟子も育成出来たという点に着目すべきだろう。
日蓮が生かされたのは、日蓮の評判や影響力を無下に葬っては、統治に悪影響が出るとの幕府の判断があったのだというのが今の学説だ。
これを踏まえた上で「奇跡」を語るならば、本来ならとうに葬られるべき日蓮が、理由はともあれ生きて畳の上で亡くなったことこそ奇跡であるということだ。
日蓮が生きるうちにどれだけの弟子が生まれたか。
その軌跡が文字通り奇跡なのだ。
29.提婆達多品第十ニ
(だいばだったほん)
この「奇跡」の解釈が蓮は今のところ一番の仮定になると思った。
まさに「法華経と言われるもの」の考えと一致すると思ったのだ。
さてまた法華経本体を追って行こう。どこかに日蓮の軌跡と合致する箇所があるかも知れない。
法華経第12章は「提婆達多品」だ。
ダイバダッタとカタカナで書いたら、どこかで聞いたような言葉になるが、これは人名で、釈迦の従兄弟だということだ。
ここにもう一人の人物(?)が登場するが、それは龍王の8歳の娘だ。
この両者、あるものの象徴として描かれている。
提婆達多は悪人、龍王の娘は幼齢の女性だ。
つまりここには3つのキーワードがあって
①悪人
②女性
③子供
これらがなぜここに出て来るかがこの章の肝だ。
このうち①と②は成仏から遠い距離にあるもの、③は速やかに成仏することのキーワードらしいのだ。
悪人が成仏し難いということは分かる。しかし女性が成仏し難いとは、納得し難いが、仏道神道ともに女性は忌み嫌われる傾向がある。これは明らかにおかしい。どうもこれは「血」や「女体」のイメージから来る偏見のようだが、日本でも「女人禁制」という言葉が今でも罷り通る。どう考えてもおかしい。ならば男性はそんなに神聖なのか?と言いたくなる。男性の行ないを思えばなおさら。
ただ法華経は、その2つの成仏を約束する。
この章の内容も前世がどうのこうの、誰々がどうのこうのと例によって難解な物語が流れているが、要するにこの章は、法華経を信じれば、成仏し難いと言われる者も速やかに成仏出来るという、法華経の解放性を謳っているのだ。
そういう意味では法華経はしっかり「現代」いや「未来」だ。
30.勧持品第十三(かんじほん)
ここでは2人の女性に対する授記が描かれている。
女性が仏になれば本当の平和が訪れる感じがする。
授記されるのは釈迦の養母と妻だ。
この章ではそれに絡めて、結構重要なことが書いてある。
それは釈迦が入滅し、この世界から姿を消した後、誰が法華経を広めるかということと、ただし法華経を広める者には様々な迫害があるということだ。
誰か法華経を広めるか?
「見宝塔品」での釈迦の問いかけに、菩薩たち、授記された者たちが競って応じた。そしてここで、釈迦は義母や妻をはじめとした女性(尼僧)たちにも授記を与えた。
ただこれからが大変だ。
この世界(娑婆世界と表現されている…シャバ、つまりこの人の世のことだ)で法華経を広める者には3つの場所に敵が現れる。
それは①在家(一般人や親族)・②出家(僧侶)・③高僧(他教を極めた僧侶や広い意味での権力者)の中に姿を潜めている。
それらは心身に苦痛を与える時もある。
例えば鞭で叩かれ石を投げられることもあるだろうが、ここはただ耐えて、釈迦を信じること、それが出来なければならない。
このことに、これが出来るのは菩薩だけだという結論が出る。他の者は別の世界で法華経を広めることになった。
しかしこの概要も、複数の文献から推測した蓮の解釈だ。
この一文はここにはあるけどあちらにはない、これはその逆みたいな感じで、1つのものさえ見ていればそれでいいというものではない。
こんな具合に文書としての法華経はどれが本当か分からない。
ただここにある迫害の話は、法華経が伝わるどの過程で書かれたことであっても、日蓮以前の話だから日蓮は予言通りの迫害を受けたのだろう。
ただ、やり方が強引だから迫害されたという、当たり前の解釈も出来る。それか日蓮は敢えて、予言通りになるように動いたのだろうか?
最後のこれが一番、腑に落ちるなと蓮は思った。
31.
最も現実的な流れ。
「法華経と言われるもの」の軌跡。
それをあくまで現実的に言えば…
釈迦が入滅前に語った言葉を記録したものが、法華経といわれる経文である。
その経文はインドからアジア大陸を東に向かって様々な人により受け継がれ、この日本に伝わった。しかしその時点でその経文には人の手が入り、複数の解釈が存在していた。
その中の「妙法蓮華経」と呼ばれる経文が、日本で一般的に言われる法華経らしい。
それを最高の経文と位置付け広めたのが日蓮だ。
だが日蓮の行為は他者排除の傾向が強かったため、当時の日本を治めていた鎌倉幕府にとっては厄介なものだった。
当時の日本は天災人災が多発し、統治にもかなりの困難があったようだ。
日蓮は、そのような国の状況は、幕府が法華経ではない念仏や禅などを厚遇するのが原因であると主張し、今こそ法華経を国教とすべきだと幕府に対し諫言した。
当時は神や仏が世界を支配するという考えが当たり前だったので、神仏が関わる宗教の存在は重大なものだった。
しかし既に日本に根付いていた念仏や禅の関係者(もちろん幕府も関係者だ)はこれに憤り、日蓮の排除に動いた。
日蓮は様々な迫害に遭ったが、その度に奇跡的にそれらをかわして、60年の天寿を全うするまでに多くの弟子を育成(中には武家や商人もいた)し、世に言う「日蓮宗」を確立した。その後日蓮宗は現在まで継続している。
また日蓮が法華経に基づき予言したことは見事に当たり(元寇…蒙古襲来)祈祷合戦(天災の際の祈祷を他宗と競った)にも勝ち、元寇の際は2度も「神風」が吹き、日本は守られた。
しかしこれらの伝説は現代の考え方からすればにわかには信じがたい。
祈祷については単なる偶然で片付けられるし、元寇が起こったことについては日蓮の予言(また改めて述べる)通りの世界の流れになったと言えないこともないが、それを追い払った「神風」については元寇の時期が台風シーズンだったとも言われているのでまるまる奇跡とも言えない。時期の偶然が必然だという考え方もあるが、蓮は偶然の疑いのあるものや、映像的証拠のないものはこの際消去しようと思った。
それは例のメモが引っ掛かって仕方ないからだ。
そして先の「勧持品」の中で考えたこと、勧持品の予言、つまり法華経を広める者は必ず迫害に遭うことを、そうなるように日蓮は行動し、自身の立場を明確化したのではないかという発想。
蓮は日蓮の全てを破壊するような自分の行為が恐ろしくなった。
自分の考えにたまらない不安を感じた蓮は、日蓮宗に関係するサイトを見漁った。日蓮に対し、世間はどういう思いを持っているのかを、何でもいいので確かめたいという、衝動的な気持からだった。様々な宗派のみならず、日蓮や日蓮宗の研究サイトも覗いた。他宗教にリンクするものもあった。リンクすればそこも覗いた。
それらは大抵は日蓮や日蓮宗を肯定しているが、中には否定するものもある。
日蓮宗同士でお互いを批判するものもあった。逆に日蓮宗のみならず仏教に歩み寄る他宗教もあった。
この状況を見る限り、真理はどこにあるのかさっぱり分からない。別の意味で法華経の世界のようだ。
「あーあ」
蓮が今日はもうやめようと思ってネットを閉じかけた時
「あら?」
マウスが滑って変なページを開いた。
それは日蓮宗の信仰者が、何やら日蓮を茶化しているページだった。
「主の冒涜じゃない」
蓮はその大胆かつ無謀な行為に興味を持って読み始めた。
読むうちに、ここには自分と一番近い考えがあると感じた。
蓮と同じく、このページの主は日蓮が何者かの意思に導かれて、知りもしない法華経を広める羽目になった顛末を面白おかしく書いている。「ドーパミン」という医学用語めいたものまで飛び出している。
そこにいる日蓮は、どこまでも弱く、どこまでも頼りなく、どこまでも憎めなかった。この主も、信仰する日蓮を冒涜するようなことを書くことに抵抗はあるが、法華経の真理を知るには、法華経の場合、法華経を一旦否定・解体する必要があると思った、日蓮についても然りだと解説欄に書いていた。
蓮はページの主と話してみたくなった。
これこそ本当の奇跡だと思った。
ページの隅にメール可の文字を見つけたので、さっそくメールした。
蓮は自身の法華経研究のこれまでをメールに記し送った。
返答は翌日にあった。
ページの主は自分は平凡な中年男性だと言った。そして自分は日蓮宗の信仰者であり研究者であると身分を明かした上で、自分は信仰の中で日蓮宗の宗派の複雑さに疑問を抱き、信仰するが故に、日蓮宗が拠り所とする法華経について客観的に調べたくなったと語った。それに加えて宗教の特異性である超常現象についても調べていると言った。
これは蓮も全く同じだった。
32.
「日蓮は目の前にある法華経が、さまざまな人の口を通って伝わったことくらい知っていただろう、言い換えれば、どこからどこまてが元々の法華経か分からないということをとうに認識していたということだ。
その上で日蓮は、目の前にある法華経、つまり人が作った法華経を最良と断定した。これはどういうことか。
つまりは「世にある経文の中でいちばん中身がない経文である現状」になっていたからではないだろうか。
中身がないからなんとでも解釈できる。
演劇の形をした論文の「立正安国論」を書いた日蓮のことだ。中身のない法華経を、さまざまな方法で最高の経文にするのはお手のものだったろう。
日蓮は、ポンと目の前に置かれた法華経ではなく、それに自己の手法で味付けしたものを初めて「最良の経文」と断定したのだ。
日蓮は日本人だ。だから最良の経文である法華経は日本製なのだ。
だから「自我偈の解釈」も「南無妙法蓮華経」も生まれたのだ。そしてまたそれが姿なき法華経の的を捉えてしまったのではないか」
彼のページでは、一通りの日蓮の茶化し話が終わった後に、この文書はこれから述べる持論の仮定であると断った上で記されていた。
これは蓮の考察通りのものだった。
「これから述べる持論」はまだ述べられてはいないが、却ってこのタイミングでこの人物と出会えたことは、蓮にとって希望的だった。蓮はメールの返信に、この先の持論について何か聞かせてほしいとしたためた。すると次のような返事が来た。
「あなたの考えと私の考えが行き着く先は同じかも知れませんね。
持論はまだ具体化していませんが、持論の元になるキーワードというかメモ書きをまずお送りします。これらをあなたがどう判断されるかをお聞かせ下さい」
この返事の後に、いくつかのメモ書きが続いていた。
「人はまず感情が入口
→出世の本懐→人に尽くす
→菩薩行→法華経を広める
→法華経とは?→広める軌跡
→途中で人助け→法華経
人の中には仏がいた。悪魔もいた。
ということは人は既に仏も悪魔も持った構造物だということだ。
世の中には自然が作ったものと人が作ったものが並立している。
潜在意識=無意識=無
霊鷲山とは人体内の風景ではないか
空、山、街を対比して眺めると真理が見えそうだ。
そして太陽と月。
宗教は現証を以て宗教となる
自身の中にある仏を出すことが肝要だ
仏とは善行
善行とは一般的な良い行ないにとどまらない
自分にとっての良い行ないも含んでいる
それは自分をどれだけ活かすかだ
人と人の間にいる自分がどれだけ活きるかだ
人の間=人間か…
苦行…そもそも自分を自分でなくしたらとんでもない力を得られると思い自分を虐める光景が、一杯のミルクで救われた。
虐める、つまり残虐はいけない。一杯のミルクを恵み恵まれたことが大事なんだ。ミルクは普通の人がくれた。
法華経の大事三つ
・法華経は唯一
・仏は死なない
・法華経を広める
(人のために尽くす)
人が日月と話す様子
法華経は宗教を出たがっている」
メモのほとんどが理解出来る自分が、蓮は不思議だった。
心強い味方を得た思いがあった。
蓮はこの人物とのやりとりと、ここから先の法華経解読に何かしらの出口の予感を覚えた。
33.安楽行品第十四
(あんらくぎょうほん)
「法華経はほとんどが褒め言葉。故に褒めることこそ法華経。故に南無妙法蓮華経なのだと、日蓮は言っています」
一番新しい、例の主のメールにあった言葉だ。
なるほど、褒めて広めよ…か。
「法華経を褒めればあなたが言われる現証というものは起こるのですか?
私はあなたのメモの中の、現証と潜在意識と、無という言葉がまず気になるのですが、これらは関連しているのですか?
それから自我偈のことや南無妙法蓮華経のことを書いておられますが、あれは具体的にどういうことなんですか?」
こう蓮はメールして、その返事を待つ間に「安楽行品」を読むことにした。
現証については大学で学んだ。要するに信仰する者の身に起こる変化だ。
仏教の優劣を決める「三証」のうちの1つで、三証の中の一番重要なものだ。
要は、その仏教を信仰する者に現実に起こることだが、これは仏教だけにとどまらないだろうと蓮は考えている。
無というのは認識で、悟りの境地といわれるものだが、蓮にはさっぱり分からないことだ。鎌倉時代に盛んに行われた「禅」は、無の境地に達する方法らしかったが、無の境地になって、何がいいのかが蓮の分からないところだ。
自我偈についてはこの先に出て来るが、この人は例の日蓮の茶化しで自我偈は絵だと言っていたが、それを詳しく聞きたいと思っていた。
南無妙法蓮華経についても、絵画的なものだと言っていた。褒め言葉であり絵画である南無妙法蓮華経ってなんだろう?
そう解釈してその先、この人は何を考えているのか、蓮は興味を深めていた。
「安楽行」とは、法華経を広めることに対する心得だそうだ。
その心得とは「勧持品」で出て来た3つの敵から身を守る心得でもある。
在家・出家・高僧の姿の3つの敵を「三類の強敵(さんるいのごうてき)」というが、これらには4つの方法で対処せよというのだ。
3つの敵の出方は簡単に言えば、在家の場合は「変な宗教に入るな」と家族や身内・友人に反対されることであり、出家の場合は「その教えは間違いだ」と非難されることであり、高僧の場合は「あれは間違っています」と上から喧伝されるか権力者に告げ口されるかということだ。
それらへの対処はこうしなさいとこの章は次の通り言っている。
1つ目は「身安楽行」(しんあんらくぎょう)
これは自分が身を置く場所を考えろということで、誘惑に惑わされる場所に近づかないこと、ひいては動揺する心を抑えよということだそう。
2つ目は「口安楽行」(くあんらくぎょう)
これは口を慎めということだそう。口は災いの元というが、罵りや嘲りをせず、常に言葉を選ぶことを心がけよということ。
3つ目は「意安楽行」(いあんらくぎょう)
これは心の持ち方をいうそう。常に穏やかにすることを心がけ、媚びやへつらい、怒りや軽蔑をしてはならないということだそう。
4つ目は「誓願安楽行」(せいがんあんらくぎょう)
これは常に慈悲の心を持ち、成仏出来た際には人々を救う誓いを立てよということだそう。
そしてそれぞれに、これらのことを心がけて法華経を広めよと付記されている。
蓮は「これって諸刃の剣だわ」と思った。
これらは法華経を他の宗教に言い換えれば、他宗は相手にならずという意味になってしまう。
どの宗派の盾にもなる言葉だ。宗教上で使うと、この言葉は却って争いの種になってしまう。
「だから法華経は宗教であってはならないんだわ」
これを自分の良心と置き換えたら、これほどしっくり来る内容はないだろう。
そしてこれらに付記すべき言葉は「これらを以って自分の中の仏を現しましょう」ではないかと思うのだ。
34.
メールの返事が返って来た。長い返事だった。
「現証については、私の個人的な話をしなければなりません。
私の祖母は日蓮宗の檀家でしたが、傍らで熱心な念仏行者でした。祖母の家にあった仏壇は日蓮宗の檀家であるにもかかわらず「阿弥陀如来」を祀った仏壇で、その前で鈴(りん)を鳴らして「南無阿弥陀仏」と唱え、挙句は真言宗の高野山詣でまでする無茶苦茶な人でした。
それでも祖母は平穏に長生きし、大往生しました。
そんな祖母の近くで育ったせいか、私は仏教というか、仏教文化にかなり馴染んでいました。寺院や仏像、曼荼羅などを見るのが好きでした。また、偶然が重なって命が助かったことが二、三度あったので、これは仏が守ってくれたのだと自然に思える人間になっていました。
その仏が、私を今の妻に出会わせたのですが、これがまた妙で、キリスト教が関係しているのです。
病気をして失業中だった私に職を与えてくれたのが、たまたまうちに布教に来たキリスト教の信者で、私はその人の会社で働くことになり、そこで働いていたのが妻でした。基本的に私はずっと無宗教でしたが、子供を失ったことがきっかけで、今は日蓮宗を信仰をしています。なんとも妙です。まさに妙法ですね(笑)
法華経の中で最も私が注目するのは「因果・因縁」を語る部分です。話の内容は複雑で理解に苦しみますが、人は前世の因により現世という果があるということを言っている部分は、自分のこうした縁を思うとスッと納得出来るところです。
ここまでの私の話の中には、いくつもの宗教名が出て来ます。そしてそれらは祖母や私を介して関係し合ってはいますが、私はもとより私の無茶苦茶な祖母にもなんら災いはもたらしていません。
つまり基本的に宗教は争わないということか、それかいっそ、それらはもともと無いということです。
私にとっての「現証」とは、こういう私自身の軌跡です。ですがこうした経緯から言えば、それは法華経の現証ではなく「法華経と言われるもの」の現証だと思うのです。
私は「南無妙法蓮華経」を唱えて現証を待つのではなく、現証を見たから「南無妙法蓮華経」と感心しているのです。
この辺りから私の法華経研究は始まりました。ややこしい話ですが。
さて、私が創り出してしまった「日蓮」について少しお話ししましょう。
彼はいわば私の分身です。と言えば宗祖に対して私は大変失礼な物言いをしているのですが、こうしなければ私が求める「法華経」の姿を追えないのです。
私は法華経はもとより日蓮の教え、他宗の内容、ましてキリスト教やユダヤ教の何も知りません。
何も知りませんが私は何かに助けられているという思いを何度もしました。
そんな私にとっての法華経の姿を、この日蓮の目を通して語ってみたのがあの話です。
私が創った「何も知らない日蓮」は、何も知らない私が何も知らないまま書いた日蓮に過ぎませんが、日蓮の軌跡を思えば、それはそれでいいんじゃないかと思っています。
潜在意識や無については、これはその人が信じているものがその人自身にすっかり染みついた時の状態だと思います。その状態が引き起こすものが現証であり、引き起こす力が仏とか神と言われるものだと私は思います。それはもともと自分の中にある力だと思います。
日蓮は一種の語呂合わせで法華経を広めました。自我偈の話は有名ですから宗教を学んでいるあなたはよくお分かりだと思います。この語呂合わせ、日本だから出来たと思いませんか?
もしお分かりでなければお教えいただければお答えしましょう。
南無妙法蓮華経については、「法華経は誉め言葉ばかりだが、その誉め言葉ばかりの中に沈められているのが、法華経はただ褒めよの意である」と日蓮が結論付けた真実だと言われていますが、私にとっては「南無”伝”妙法蓮華経」となるでしょうか。
「自我偈にある自と身の解釈は、法華経の実際と合致しない」
「南無妙法蓮華経の秘沈、それは日蓮が法華経を解明出来ないから言ったのだ」
これは私がいろいろ読んだ文献の中にあった言葉ですが、私はこれを否定しません。なぜなら日本で広まっている法華経は、日蓮が作り直したと思っているからです。日蓮は、法華経の骨格だけを使って、肉を付けたんだと思うんです。
長々と複雑な話をしましたが、お分かりいただけたでしょうか?
まぁ、分からないことの方が多いかも知れませんね。
不明な点は、遠慮なく聞いてください。では今日はこの辺で」
35.従地涌出品第十五
(じゅうじゆしゅつほん)
「法華経と言われるもの?」
自分と同じ言葉をメールの中に認めて蓮は驚いた。
そしてさまざまな宗教が絡み合いながらも、この人には良い影響は与えても悪い影響を与えていない事実に、たしかに宗教の存在とは何なのかを考えさせられた。
そしてあの日蓮の話だ。
何も知らない日蓮の話。
蓮はやはり、法華経は法華経を壊すか無視してこそ分かるものだと思った。
その上でなお法華経を読み進める。
法華経は次第に核心へと進んで行く。
この第15章では、地の底から無数の菩薩が現れる。
この章では釈迦の後継は誰がするのかが決定される。
章の始めではさまざまな菩薩が後継への名乗りを上げるが、釈迦はそれを丁重に断り、既に後継者はいると語る。
すると世界の地面が揺れ、地の底から無数の菩薩が姿を現す。
釈迦はこの菩薩たちを無限(久遠=くおん)の過去から教育して来たこと、その間、この菩薩たちはずっと地面の奥深くにいたこと、そして今、菩薩たちは自分の後継者にふさわしい力を得てここに現れたことを語る。
さらに父子の例えを語る。
例えば25歳の父がいて、100歳の息子がいたとしたら、これをどう説明出来るか?
釈迦はその答を次の章で語る。
「そしてその章に、自我偈が出て来るんだわ」
蓮は顔を上げて呟いた。
釈迦は地面の奥と言ったが、これは人間の体の中じゃないか?
無数の菩薩とは、無数の人間じゃないか?
無限の過去とは、前世・現世・来世の繰り返しを言うのではないか?
宙を見ながら蓮は考えた。
ただその関連性がまだ見えない。
36.如来寿量品第十六
(にょらいじゅりょうほん)
「私が悟りを開いたのはほんの40年ほど前です。しかしこの菩薩たちは私から無限の年数、教えを受けたのです。これがどういうことかを教えましょう」
たしかに前章の父子の話のように矛盾したこの現象を、釈迦はこの章で説明するのだが、この章が法華経の核心と言われていることは蓮も知っている。しかしその詳細までは、こんなことがない限りは追求しなかった。
今、蓮はここにいる無数の菩薩は人間ではと仮定しているが、それをここに当てはめたらどんな解釈になるのか、注意して読み進める。
ただここで心掛けを忘れてはならない。それは
①経文に飲み込まれるな(どこに人意の地雷があるか分からないから)
②日蓮の教えの内容よりも日蓮の軌跡に重点を置いて法華経を読み進めよ
③人間という生物を中心に思考せよ
この3点だ。
さて、この章でまず釈迦が話すのは、自分は釈迦という幻で、実は無限の昔からの仏であるということだった。
これはどう解釈したらいいだろう?
蓮はしばらく考えた。
蓮は「創造神」という言葉を思い浮かべた。
宇宙を創り、生命を創った存在だ。
人間は創造神が創った生命体が、長い年月をかけて進化したものだ。
釈迦のこの話と、地中から湧き出た菩薩の関係は、まさに創造神と人間の関係だ。
いや、それは単にその形だけではない。
今釈迦が語る場自体がまた人間の中で、湧き出た菩薩は人間の良心なのではないか?
創造神は人間の体内で、その体の主である1人の人間に、その成り立ちと構造を教えているのではないか?
なかなか三次元では語れない話ではあるが、法華経の「在って無い特性」を考えると、そういう考え方もありか、と蓮は思った。
話を読み進める。
釈迦はなぜ入滅するかを例え話で語る。
医者が毒薬で苦しむ我が子たちに良薬を調合した。すぐに飲む子もいればがなかなか飲まない子もいる。なかなか飲まない子は苦しみ続ける。そこで医者は良薬を置いて家を出て、なかなか薬を飲まない子に自分は死んだと伝えさせた。子供はその恋慕の心からようやく良薬を飲み救われたいう例え話をする。姿を消せば、人は私を求めるのだと。
この良薬こそが法華経ということらしいが。
釈迦はいなくなる。その代わり地面から湧き出た菩薩を置くとはどういうことだろう?
彼らは釈迦の代わりに法華経を説き、広めるということなのだろうが。
蓮は持論を引っ張り出す。
これを人間と仮定し、さらに良心と仮定する。
人間がいる。
さまざまな誘惑がある。つまり毒薬だ。
誘惑に負けて苦しむ。助けてくれ。どうしたらいい?
救いを求める。
そして何かが起こる。どうしたら起こる?
とにかく何がが起こる。何かが起こり…そうだ、考えを改めるだろう。
今風で言うなら、生活習慣を改める…だ。
すぐ改まるか、少し時間がかかるか、かなり時間がかかるか、まったく改まらないか…
改心?改心して良心が出る?
あぁ、分からない!
分からないけどなんとなくは分かる。
とにかく改心だ。
改心して現れるのは新しい自分だ。これが良心か?いや言葉が違う。的を得ていない。良心よりやはり改心だ。
改心して新しい自分が現れるのは地の底からだ。
それがあの菩薩たちか?
新しい自分が湧き出るイメージは分かる。
しかし具体像がまとまらない。
何をして、何が反応して、こうなるのか。
蓮は頭を絞った。
絞って出たのはこんな言葉だった。
湧き出る者はみな人間。
湧き出る場所はその個々の中。
湧き出る者は新しい自分。
そんな個々が集まり集団となる。
つまり菩薩団?
「私は私なりに今、如来寿量品と闘っています。いろいろ考えを巡らせた挙句に出て来た言葉は以下の通りです。
湧き出る者はみな人間。
湧き出る場所はその個々の中。
湧き出る者は新しい自分。
そんな個々が集まり集団となる。
つまり菩薩団?
私はまず、釈迦は創造神じゃないかと考えました。
創造神は宇宙を創り、生命体を創りました。
生命体の中で最も急激で高度な進化を遂げたのが人間です。ここは生物学の話ですね。現実的でいいなと思います。
しかし人間は、良い部分と悪い部分を生んでしまい、両方が一緒に進化してしまったんです。いやむしろ、悪い方が優先的に進化してしまったかも知れません。
そんな人間をなんとか良い方向へ向かわせようと創造神は考え、法華経を作ったのではないかと思ったのです。
こう表現すると西洋と東洋がごちゃ混ぜですね。でもそれでいいと思うんです。創造神はひとつであるべきですから。
そしてこの前章で地面から湧き出た菩薩、世に言われる「地涌の菩薩」も人間じゃないか?それも法華経の何かによって生まれ変わった新しい自分です。法華経の何かによって良い方向へ向いた人間ですね。でもその「何か」が分からない。何をしたら人は良くなるのか分からない。
そんな行き詰った現状です。この先、例の「自我偈」が出て来ますが、あなたは如来寿量品をどうお考えでしょうか?私の思考はこの通りここですっかり行き詰っています。何かお言葉をお掛け下さい」
蓮はページの主に思わずメールしていた。頭に浮かんだあの言葉をそのまま書いた。
するとさっそく返事が来た。
「なかなかいい解釈だと思いますよ。これは私もたどり着きませんでしたね、新しい自分の集団=地涌の菩薩団とは。それに創造神とは。それこそ原点探求にふさわしい言葉です。私も使わせてもらいましょう。
そうだここで、頭をほぐしてみましょう。日蓮じゃないですが言葉遊びをしましょう。
私の書いた日蓮は、中国語が分かりませんでした。(笑)
だから彼にとっての法華経は、文字で書いた絵だったんですよ。
私は地涌の菩薩についてこんな解釈をしています。
「私はあなたが勇気を出すことをいつも願っている。あなたの中で」
これは私の言葉で語った「自我偈」の最後の一節です。
ちなみに原文では
「毎時作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
(まいじさぜんねん いがりょうしゅうじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん)
「私は如何にして人々を仏にするかをいつも考えている」
となっています。
私が解釈した自我偈の最後の「勇気」とは良心のことです。そしてそれは涌くという文字を力一杯絞れば水が飛び「勇」の文字になるが如きです。日蓮みたいな文字遊びですね。しかしこの遊びが大事なんです。それはこの文字が日本の文字であり日本の音だからです。
こうして文字で見ると地涌の菩薩とは、勇気の源ではないでしょうか。それは自分を良く変える勇気の源です。
日蓮は日本人です。日本語はこういう思考が出来る言葉です。
だからあなたが言う創造神は、釈迦に語らせた(あなたは創造神を釈迦だと言っておられますが、私は別ものとして考えます)自我偈の言葉を、日本語で解凍したかったのではないでしょうか。
自と身の間にある文言はたしかにもっともなことを語っていますが、それよりも大事なのは、やはり自と身の2文字と、中に沢山の文字が詰まっているという構図なんですよ。
「自身は捨てたものじゃないぞ」っていう人体の構図です。
つまり法華経は「絵」なんです。文字で作った壮大な絵画なんです。
重ねて言いますが私の書いた日蓮は中国語が分かりません。(笑)だからこそ自我偈が絵として見えたんです。
実際の日蓮は、自我偈の例えを説法の方便として使ったのでしょうが、実はこれこそが「(あなたが言う)創造神が誰々にさせた法華経と言われる行為」に他ならなかったのだと私は今、思うんです。あなたのメールでかなり思考が進みました。ありがとうございます。
そして解凍された絵は「良いことをしたあとのすがすがしさ」だと私は思っていましたが、あなたのメールの中の「新しい自分」と言う言葉を見て、この方が的を得ていると思いました。ですからこれは「新しい自分が見る風景のすがすがしさ」なんです。それが人間というものだと創造神は言いたかったんですよ。と、私の思考はこの通りまとまりました。あなたのおかげです。重ねてありがとうございます。
ただ、ひとつだけ提案していいでしょうか?
私は法華経を宗教というものの枠で考えたくはありません。
ですからここでは、創造神というものは、もっと素朴な元素のようなものとして考えませんか?
いい表現がなかなか浮かびませんが、そうですね「細胞的な何か」とか。
創造神に代わるいい呼び名があったら教えてください。
では今日はこれで」
人間の身体のどこを切っても仏はいない。
しかし人間の中には仏はいる。
もしかして釈迦が姿を消したのはこういうことだろうか?
姿なき仏はどういう状態で人の中にいるのだ?
もしかしてこれがメールの主が言う「人の潜在意識がもたらす偉大な力」かも知れない。その力こそ仏の姿だ。だから肉眼で見えるはずがない。つまり釈迦は、潜在意識なのだ。
人が無意識、無自覚で持っている力、それを引き出す方法。それがまだ分からない「何か」のような気がする。
浅い眠りの中で蓮はそんなことを考えていた。
メールの返事を読んでから蓮は次第に自分の思考がまとまって来ているのを感じた。
やはりあのメモ書きは、日蓮を名乗る創造神(あぁそうだ、新しい呼び名を考えなければならない)が書いたものなんだと蓮は確信に近いものを持った。
潜在意識が釈迦で、釈迦が創造神なら、新しい呼び名は「潜在くん」でいいかなと思った。なんか小僧さんみたいで可愛らしい。メールで送ってみよう。
さて如来寿量品だが、一般に「如来寿量品」と呼ばれているのはその中の「自我偈」であって、本来の如来寿量品は長い経文だ。自我偈はその中の「詩文」の部分だ。
「私が仏になって無限の時が経つ。この間私は常に教を説き、人々を仏にして来た。私は死んだことにして姿を消しているが、常にここにいて教を説いている。私はここにいるが、人々には見えないようにしている。人々は私が死んだと思っているから、寺院を建て私を偲び慕う。人々がもし命を惜しまず素直な心で私の姿を求めるならば、私はいつでも姿を見せよう。私は姿を見せたり隠したりして、時々の状況に応じている。そんな私を信じ求める人がどこの国にいても、私はそこへ行き姿を見せよう。しかし大抵の人々はそんな私の言葉を聞かないで私は死んだのだと信じ、苦しみ続けている。実はそれは私が姿を消した大きな理由なのだ。苦しみの中で私の姿を渇望させるために私はそうしたのだ。人々の世界が大火事になってすべてが灰になっても、私のいる場所は常に平和で穏やかで、花が咲き音楽が流れている。神々や人々が溢れ、皆、美しい光景を愛でている。私のいる場所はこの景色が変わらず続くのに、私が見えない人々は私のいる場所も荒廃していると思い込んでいる。しかし私は何も変わらずにここにいるのだ。私の姿を見るためには徳を積み、素直な心になるのだ。そして命を惜しまず私を求めるのだ。私はその度合いに応じ度合いに応じた姿を見せよう。私はいつも考えているのだ。如何にして人々を仏にするかを」
これが自我偈の大意であり、その始めは「自我得仏来」で終わりは「速成就仏身」なので冒頭と末尾の一字を合わせると「自身」つまり自分になるわけだ。
「つまり私の中ではいつも仏が叫んでるのに、わたしには聞こえない、というか私は聞こうとしてないのね。それが自分自身の姿ってことか」
「そうか、お坊さんが転んでおばさんが手を差し伸べるって、当たり前なのに勇気がある行動なんだわ。一瞬の勇気だけど。人の目やほかの何かを少しでも気にしたら逸してしまう行動だわ。ましてもっと大きな人助けになるとそれこそ勇気が要るわ。場合によっては命がけだわ」
蓮はいつか夢うつつで見た光景を思い出した。
「ここにある徳を積むって、もしかしてこれが「何か」なのかしら?」
1人の人間が母胎に宿った時からそれは始まる。
1人の人間とは自意識で、何度も生死を繰り返す。自意識は前世の因子が形作る。その人の性格や地位、環境なども因子が決めたものだ。だから運命の出発点は既に決まっているわけだ。
そしてその先も、おそらく因子が決めているのだろう。そしていろいろな試練を与える。何もしなければ運命のまま現世を終えて、既に決まった来世を迎えるだけ。
どの自意識の中でも、その人間が胎内にある時に法華経に描かれる場面が展開し、釈迦は無意識という存在になり自意識の中に入る。
試練に遭った時、自意識が無意識を発動させることが出来れば、運命は変えられるのではないか?
つまり法華経とは、人間の無意識の中には、運命をも変える何か偉大な力がある事実を語っているのではないか?
現世の運命が変われば、因子が変わり、来世も変わる。
私の考えでは「勇気」とか「良心」とか「改心」とかいう言葉が、居所が定まらずに漂っている。
ともかく無意識の発動方向が「何か」なのではないか?
それと「南無妙法蓮華経」はどう関係するのだろう?
「絵」と「音」とはなんだろう?
あれからしばらく考えたことを、蓮はつらつらと書いてみた。
まだなんだかしっくり来ない。しかし今のところはこれが精一杯だ。
同じ文面を例の主にメールした。
創造神の呼び名は「潜在くん」では軽すぎるので、かつて大学の講義で聞いた「全てのものを創り出した偉大な何か」の名前「サムシング・グレイト」にすることにした。
となると、サムシング・グレイトは人間を創り、且つその中にいるということになる。
人間の中にいるサムシング・グレイトはいったい何を創り出すのだろう?
その証が「現証」だろうか?
「サムシング・グレイトとは考えましたね?知ってますよ、その言葉」
返事はすぐに来た。
「今の宗教界では違う宗派が手を取り合う動きがありますから、そこで出て来た言葉だと思います。
しかし宗派は無くなってませんがね。
とにかく宗派はいくつあってもいいと思いますよ。いろいろな考え方があるんだから。
ただ、お互いが迫害し合ったり、それこそ戦争するのはよくありません。あくまで考えの違いは、良い事の上であるべきです。
良い事の上である限り、入口はいくつあってもいいのですが、出口は一つでなければならないというのが私の思いです。
というか出口は一つしかないのです。
それは「自身」ですよ。
あなたの仮定、ほとんど固まりましたね?私もそこまではたどり着きませんでした。
そこでこれからは、あなたの仮定を元に考えて行きましょう。
私はずっと、宗教に於いて教祖といわれる者が現存していないことに痛手を感じていました。
もっとも各宗派の起源は遥か昔ですから現存していなくて当たり前なのですが、そのことで各宗派は人の中を伝わり、人の解釈によって姿を変え、枝分かれもしたわけです。だからどれが教祖の教えか分からなくなり、挙句はこちらが正しいの言い合いになっているのが現状です。
法華経に至っては、途中で釈迦自らが姿を消そうとしています。
そして法華経もまた、人の手を渡るうちにどれが本物かわからないくらい枝分かれしてしまいました。
でも私にはたしかに「現証」と言われるものはあった。
いやあったと信じる私がいるのは確かだ。
そんな思いから私は、これは法華経という経文よりも、法華経と言われる現象を探ろうという気になったのです。
そんな時にあなたの意見の中の「釈迦は自身の中に姿を消した」という表現を見て「これかも知れない」と思ったのです。
宗教を外れた所に潜む釈迦(釈迦と言えば仏教になるのでそれこそサムシング・グレイトと言いましょう)がいて、サムシング・グレイトが潜んだ人たちが信じるいろいろな宗教がある。
これが全体の構図かも知れない。
これが私の痛手の解決かも知れない。
そう強く思いました。
あ、また頭が痛くなる話、しましたね。
ではちょっと、頭をほぐしましょう。
「自身」の読み替えって、あなたはいくつ浮かびますか?
「地震」「自信」「自心」「慈心」「磁針」「慈真」「時辰」「侍臣」…
まだあるんでしょうが私に思い浮かぶのはこんなところでしょうか。
眺めてみると、なんだか仏教的ですよね。(笑)漢字ばかりで。(笑)
でもこの中の言葉を使って、法華経の核心めいたものは語れるんですよ。
例えば「地震」の場合は、自分を揺り動かす力とか、何がとてつもないエネルギーを連想させますし「自信」なら文字通り自分を信じること、そしてこのふたつが呼応すれば、自分の力を信じるという意味になって来ますね。この辺、あなたの法華経解釈に通じるものがあるでしょう?
「慈真」も「慈心」も繋がりそうですよね。
日本語って、こんなふうに語呂の中にも言霊があるんですよ。言霊はそれぞれ引き合い、新しい力を得るものだと私は思います。日蓮も、そんな言霊を使って、人の心を掴んだのではないでしょうか。
他の「じしん」もこういう観点から解釈すれば、それぞれが「自身」に繋がる解釈が出来るでしょうから、頭が疲れたらこの遊びをやってみて下さい。案外何か新しい発見があるかも知れませんよ。
また長くなりました。
私もまた、頭を整理してみます。
少しでも明確にご返事出来るよう努力します。
では今回はこの辺で」
「日本語の言霊かぁ。絵のことといい、音のことといい、法華経は単なる経文じゃないわ」
ただ、それらの要素の元になるのもまた経文である法華経だ。
さて如来寿量品だが、この章の肝心な部分は「仏の不滅」ということだ。
蓮は取っ散らかった頭を整理した。
例の医者の例えの通り釈迦は自分が死んだことにして、人々に自分への恋慕心を起こさせた。その恋慕心は自分、つまり偉大な力を呼び起こす原動力なのだ。原動力を人間に植え付けるために、釈迦は無意識化したのだ。
また「釈迦は人間の意識の中に消えた。しかし不滅であるということは、その母体である人間も不滅だということにならないか?」という考えも生まれた。前世の因子がもたらす現世の結果。そしてまたその現世の中での自分の変革、変革のために無意識化した釈迦を呼び出す。その連綿とした流れが法華経世界ではないか。
「う~ん、この辺の関係性、もっとすっきりまとまらないかなぁ」
すっきりしたようなしないような気持ちのまま、蓮は次章に進むことにした。
37.分別功徳品第十七
(ふんべつくどくほん)
この第17章については、蓮が読んだ様々な文献の大半が軽く流していた。
それは軽く流すというよりも、法華経自体が長々と話していないからじゃないかと、蓮は思った。
「分別」とは「分かる」ということだ。では何が分かるのだ?
これは分かるというより、分かったのではないかとこの章を読むうちに蓮は思った。
では何が分かったか?
それは「仏は死なない」ということだ。そして人間も長い目で見れば死なないということだ。
だから仏が死なないことを分かった者、そして分かった上で法華経を広める者には功徳を与えようというのがこの章の主旨ですべてだ。
主旨ですべてというくらいこの章は短くて明確だ。
蓮の考えに照らし合わせれば、不滅の力を不滅ゆえに永遠に内包しているということを知った人間は、不滅の力がもたらす効力を得ることが出来る、とでもいうことになるだろうか?
そして「知る」は、単に分かるという意味ではなく、意識するということではないだろうか?
さらに「広める」は人々に人間の構造を教え、自分を諦めないよう勇気付けることではないか?
蓮は今の思いの中の「意識」の音が気になった。
「意識?…自意識?…無意識?」
「意識」という響きの連呼、つまり音のリズムが何か大事なものを暗示している。
「法華経の音?」
蓮は少し胸が高鳴った。
「功徳を与える」
具体的にはどういうことなのだろう?
38.随喜功徳品第十八
(ずいきくどくほん)
前章からぼちぼち法華経を広めるという言葉が現れ始めている。
法華経とは、知って持って広める、すると功徳があると法華経自身が語るが、蓮の考えを当てはめるとそれは至極簡単なことになる。
「随喜功徳」…喜ぶ功徳…なんのことだろう?
知るとは超能力めいた無意識の力が自分の中にあることを知ることで、持つとはその存在を潜在意識化するまで信じることで、広めるとはその事実を人に教えるということになる。
もっと簡単に言えば「あなたは捨てたものじゃない」と声掛けすることだ。
この「広める」ことの連鎖がまた、功徳を与えることになると書いてあるがこれはどういうことだろう?
この「功徳」はやはり「超能力」だろう。言い換えれば「自分の可能性と、やっぱり超能力」だ。
「自分の可能性」は文字通り自分の未来は自分自身の思いようで変えられるという、現実的、言い換えれば哲学的な理屈だ。
「やっぱり」の部分は、それが未知だからだ。未だ科学で解明出来ないものだから。
「なんか環境が変わった」とか「なんか空気が変わった」とか「なんか良くなった」って、何かにつけ「なんか」がつくなんかだ。これがあるから宗教は哲学じゃないんだ。
医者が匙を投げた病気がなんだか知らないけど勝手に治ったって話を時々聞くがそれもこの「なんか」だろう。
そして「その連鎖の最後の方になると、もう広める力は無くなって、聞くだけのことが残っているだろうが、聞くだけでも功徳はある」と書いてある。これはなんだ?
蓮が考えたのは、これはたぶん、連鎖っていう、図に出来るような横の流れのことじゃなくて、伝える側の意識や感動がだんだん薄れて行くっていう、抽象的な縦の流れのことじゃないだろうか?ということだ。
「随喜」とは、その意識や感動の度合いのことでは?
「伝える側が法華経をあまり信じず理解出来ていなくても、聞きかじりの一言でも相手に言えば、その相手は聞きかじりなりの功徳を得るっていうことじゃないかしら?」
それは「ちょっとでも聞いたらそれなりにいいことがありますよ」ってことだろうか?
たしか「法華経を伝えるとは仏種を植えることだ」って以前講義で聞いたけど、それがこれだろうか。
法華経を信じようが信じまいが、聞いたら釈迦(=超能力)はあなたに宿りますよってことだろうか?
この章もこんなことを言ってさらっと終わっている。
次はどんな展開になるんだろう?
39.法師功徳品第十九
(ほっしくどくほん)
章のタイトルに「功徳」の文字が連続する。
「分かる功徳」に「喜ぶ功徳」そしてここではなんの功徳が書かれているのだ?
章に目を通しながら様々な文献を見るうち、ある文献にあった言葉が蓮は気になった。
それは「清々しい」という、なんでもない言葉だったが、その言葉、似たようなものをどこかで見た。
「あ、メール」
蓮はあのメールの主の言葉の中の「新しい自分が見る風景のすがすがしさ」という部分を思い出した。
ではその言葉があった法師品の部分は何が清々しいと書いてあるのだろう?
蓮は文献を読む。
法師とは、法華経を保ち、読み、書き、唱える者らしく、必ずしも僧侶ではなさそうだ。
この法師に与えられる功徳が「六根清浄」というもので、これはなかなか奥が深いようだ。
文献を掘り下げるとまた例の難解で
煩雑な仏教地獄にはまり込みそうなので、あくまで浅く考えようとここでも蓮は思った。
この言葉の中にある「六根」とは、目・鼻・耳・舌・身・意の6つのことで、このうち先の5つは人間の五感(視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚)で、最後の「意」は認識し思考すること(=知覚)だそうだ。
これらの感覚から人間は情報を得て生きているのだが、これらが汚れると生活に支障が出て来るらしい。
嫌なものを見たり、身体に良くないものを食べ続けたり、淫らなことをしたり、悪事を考えたりとかいうのがそれだろう。人間らしいと言えば人間らしいことだが、人間は本来、良心に基づいてものを見ているから、これらの汚れはいずれ苦痛となって来る。よく言う「煩悩」というやつだ。
蓮やメールの主も人の根源は良心だと思っている。良心の象徴が釈迦で、釈迦は人の心の中にいつもいるのだが、人はなかなかそこに到達出来ない。「こうしなければ」と思いながらなかなかそれが出来ない。煩悩が邪魔するからだ。法華経が言うには、その煩悩を除くには、法華経を保ち、読み、書き、唱えることだとここでは言っているようだ。
これはやはり、電化製品の「取扱説明書」の例えるのがいちばんだ。
常に持って、要点を書き写して、修理する者に教える、こんな取扱説明書のまつわる行為をしなさい、つまりは自分をよく知って行動しなさいというのが、蓮やメールの主が考える法華経だろう。
こうして良心に到達した時、それを最も身近な例で言えば、お年寄りに座席を譲ってあげた時に感じるすがすがしさが、人間が本来求めているものなのだ。その数が増えれば、この世の中、きっと平和になるだろうにというのがこの章の簡単な答えだろう。だから伝えろなんだろう。取扱説明書を。
40.
「分別功徳」「随喜功徳」「法師功徳」と法華経の中ほどでは3つの功徳が並んでいる。
これをもう一度整理してみようと蓮は思った。
と同時に、蓮はあのメールの主が創り出した「何も知らない日蓮」のことを思っていた。
私は深くはまらないようにと心がけてはいるが、ある程度は法華経に顔を突っ込んでいる。でもあの日蓮は、法華経の中身は何も知らず、絵と音だけでそれを勝手解釈してしかし広めた。
これはどういうことなの?
蓮は深呼吸して考えた。そして次のようにまとめた。
これら3つの功徳は、段階的に大きくなるという。
知った功徳が喜んで大きくなり、伝えればさらに大きくなる功徳の連鎖を呼ぶそうだ。
実際の日蓮は「法華経は褒め言葉ばかりだから、ただ褒めたらいいのだ」と「南無妙法蓮華経」が法華経の全てだと言ったが、メールの主がわざわざ日蓮を法華経無知に描いたのはやはり法華経は文面でなく絵や音で認識・表現するものだということではないか。つまりは学ばなくても身に備わっていて、そのことを知るのがまず肝要だというのがこの功徳の連鎖が語ることではないか。
確かに法華経は絵であり音ではあるけど「これがあなたの人体構造よ」という呼び掛けだけは文章で表さなければ伝わらない「あなたは自分の中にあるすがすがしさに気付かなければならない」ただそれだけが法華経の文章で、あとの複雑な文言は五臓六腑の姿形、そう、腸や細胞のぐちゃぐちゃした様子を文言にしているようなものなのではないか?
そしてそれらを知って、人間の本当の姿に出会った時、それを功徳というのではないか?
この連鎖、自分が段々人間になる様子を表しているようだ。
「あぁでもなかなか上手く言い表せない」
サムシング・グレイトと法華経と日蓮は、どういう構図で表されるのだろうか。
41.常不軽菩薩品第二十
(じょうふきょうぼさつぼん)
ここに書かれた「不軽菩薩」とは、釈迦の前世の姿であるという。
しかしその前世がどうも未来のことらしいのだ。なぜなら不軽菩薩がいたのは「仏滅後の末法の世」と書かれているからだ。
仏滅とは釈迦の死で、末法とはその遥か先の世、つまりは今だからだ。
「え?どうなってるの?」
蓮はまるでキツネにつままれたような気持ちになった。
不軽菩薩の不軽とは「人を軽く考えないこと」だそうだ。
不軽菩薩はその末法の世で、誰もが仏になれると説いていたが、人の中にはそんなはずないと、不軽菩薩に石を投げたり杖で突くような暴行を加える者もいたそうだ。しかし不軽菩薩はそんな目に遭っても、その人らに手を合わせて敬ったという。だから「不軽菩薩」なのだ。
不軽菩薩は死に際して永遠の命を授かり釈迦になり、不軽菩薩を罵った人は一旦地獄に堕ちたのち釈迦の説法を聞いて仏になったというが、これは何を言っているのだろうか。
「つまりは例えだわ」
蓮はここに書かれた釈迦とは、法華経を広める人で不軽菩薩はその姿勢、つまりどんな人にも偉大な力があることを、強く信じて伝える人の姿だと捉えた。
「石や杖は不信や罵声のことね」
今の世の中、宗教を信じて伝える人は変人扱いされる。なぜなら「信じることと熱に浮かされることは紙一重」の印象だからだ。
それは何も法華経に限らない。仏教、キリスト教、ユダヤ教みんなそうだ。
肝心なのは、伝える人の中に、ちゃんと当たり前の良心や常識があるかどうかだ。それがないと、誤解され攻撃される。つまりは「当たり前の常識」が「当たり前の常識の有無」を見ているのだ。
蓮はここで言う「釈迦」を「当たり前の常識」と「人間の持つ可能性」そして「不軽菩薩」を「信じる宗教を伝える人」と定義付けた。
まだしっくり来ない解釈だが蓮はただこれだけは強く思った。
「やはり法華経は、宗教の枠を出るべきだ」
42.如来神力品第二十一
(にょらいじんりきほん)
この章ではあの地面から涌き出た菩薩団が、釈迦の後を自分たちが引き継ぐことを誓う様子が描かれている。
菩薩たちの誓いの言葉に対し釈迦は、如来、つまり仏の神通力を見せるが、この描写は蓮が人間の内臓や細胞に例えた摩訶不思議な絵画なので、蓮は内容を追わずに眺め読みした。
この描写の大意は、とにかく法華経の功徳はこのように計り知れないのだということが、すぐ後ろに釈迦の言葉として記してあった。
法華経は偉大な力の宣伝と、自己の賛歌を何度も繰り返すが、これはやはり人間の可能性の認識を絶えず訴えているということだろうと蓮は思う。自己を投げず、諦めずに追い続けろという励ましの姿なのだと、自分の仮定に基づいた言葉で蓮は考える。その場面はみんな美しい。それはまた、法華経が人の良心に基づいているものの象徴なのだと蓮はこの考えを結んだ。
では励ます姿は誰の姿なんだ?と蓮はまた考える。
それはやはりサムシング・グレイト、この世のすべてを創造した力だろう。
その力が「人間用」に作った取説が法華経なのなのだろう。
「人間はこういうふうに作ったんだ、私は」
と、その力は言っているんだろう。
この章の最後は、法華経のある場所はどこでも道場だという言葉で締めくくられている。それはやはり、法華経は寺院にとどまらないものだということを表していると蓮は考える。そう、道端でおばさんがあの日蓮を助けたように、どこにでも仏の湧現の場はあるんだと。
43.嘱累品第二十二(ぞくるいほん)
この章で釈迦は、全ての求道者に法華経を広めることを命じている。
結局法華経は、ここに登場する誰もが得て、誰もが広めるものになっている。
「これって、法華経とは言うけどそれはなんの変哲もない普通の、当たり前のものだってことじゃないのかしら」
そして命を受けた菩薩たちはそれぞれ、
それぞれが受け持つ世界へ帰って行ったと書かれているが、そこはどこなのだろう?
少なくとも、娑婆(しゃば)といわれる人間の世間は、例の地面から涌き出た菩薩が布教を任されている。
だからその各世界は人間界ではないだろう。だったらどこなんだ?
「宇宙?ほかの星?どこなの?」
暫定的には宇宙としか、今の蓮には考えつかない。
「そうだ、メールしてみよう」
あのメールの主ならどう解釈するだろう。
蓮はさっそく、迷いの旨をメールした。
迷いの中でも蓮は、この菩薩団は人間の伝導行為の象徴では?と、今は考えている。
案外早く返事が来た。ということは、メールの主は既になんらかの解答を出しているのだろうか。
「嘱累品についてですか。うーん、菩薩の行き先ねぇ。
私も今のところはあなたと同じ解釈しか出来ませんね。菩薩たちは人間界と違う空間、それは宇宙空間かも知れないし、十界のそれぞれかも知れない。
しかし法華経は人の手が加わっています。だから今から、私たちが手を加えてもいいんじゃないでしょうか。
私ならこう手を加えますね。聞いて下さい。
私は日蓮の描いた髭曼荼羅から推理しました。
髭曼荼羅の中心にある「南無妙法蓮華経」の文字は「法華経の当体」と言われ、法華経を信じる者を指しています。つまり法華経の信者自身ですね。
そしてその周りを「諸天善神」といわれる様々な神仏が囲んでいます。これらの神仏は、法華経と法華経信者を守っています。また、法華経信者が法華経に祈る時の橋渡し的なこともしているのではと私は考えます。
簡単に言えば「祈りが通じる」時の信号の伝達役でしょうか。
私たち信仰者は祈りが通じたと思える現象に遭遇した時
「諸天善神が動いた」
と表現するのですが、私は嘱累品で方々に帰ったとされる菩薩たちの行き先は、この曼荼羅の中ではないかと思うのです。それは宇宙空間でもいいでしょう。結局、願いの通じ先である法華経=釈迦=サムシング・グレイトまでの伝達役、神仏に対して失礼な例えですが祈りが電気なら菩薩は電線と電柱みたいな、そういう任務に戻ったのではないかと思うし思いたいのです。
法華経より後に描かれた曼荼羅に、法華経より前にいたなんておかしな話ですが、宇宙が時空の世界であることを考えたら、これもあり得る話だなと私は思いますね。
人間とは不思議なもので、存在するのも宇宙なら、その体内も宇宙なんですよ。
あ、また難しいこと言い始めましたが、何かの参考になりましたか?」
44.薬王菩薩本事品
(やくおうぼさつほんじほん)
法華経はふたつの舞台構成から成る。
霊鷲山(りょうじゅせん)という地上と、虚空(こくう)と言われる空中がこのふたつだが、虚空で語られるのは法華経の核で、地上では法華経の輪郭を成すことが語られているようだ。
法華経の章(品=ほん)で言えば第1章から第10章までと、この第23章から第28章までが地上、第11章から第22章までが空中で語られている。
イメージ的に蓮は、地上は人間の体表、空中は人間の体内の話みたいなものだなと感じている。
そういうイメージから言えばこの章から先は法華経の体表の箇所になる。
この章、結構物騒なことが書いてある。
人間の性として、物騒や残酷には惹かれてしまう。
蓮もこの章の物騒な表現に惹かれて、他の章以上に念入りに読んだ。
ここには、薬王菩薩の前世が描かれているが、その表現が、蓮が思った「人の内臓や細胞のようなややこしさ」を端的に表していた。
薬王菩薩は、今、法華経が説かれている場にいる菩薩群のひとりだ。
薬王菩薩の前世は「一切衆生喜見菩薩」という名で、「日月浄明徳如来」という仏の弟子だったという。その仏から法華経を聞き感激した菩薩は、修行ののちに香を飲んで自分の体を焼いたというのだから物騒だ。しかしこれは焼身自殺ではないようで、菩薩は1,200歳になるまで燃え続け、世の中を明るく照らしたということらしいから、結果良いことなのだろうが、しかしこの表現は荘厳なのだろうが残酷だなと蓮は感じた。それは蓮自身が人間だから感じることかなとも思った。
しかしこの話、やはりややこしい。まさに「内臓表現」だ。
法華経を聞いて感激したと法華経に書いてありますということなのだからわけが分からない。
とにかく1,200という数字や、身体を焼いて世を照らすという表現は、法華経の装飾性と不可思議性の表れだとは思う。
これは輪郭の話において法華経は「私は素晴らしく不思議なものです」と言っているようだ。
そしてそれはそのまま「人間は素晴らしく不思議なものです」と言っているのだなと蓮は簡単に解釈した。
それが蓮が探る法華経だからだ。
45.妙音菩薩品第二十四
(みょうおんぼさつぼん)
「これを入れてあと5章かぁ」
残り5章は蓮の感覚からいけば体表の部分になるので、蓮はその表面を撫でる程度で読むことにしたが、この先1つだけ、撫でるだけでは済まない章がある。そしてその章が法華経の伝導と大きく関わることになるのだが、まずは残り5章の1番目から軽く眺めてみる。
先の「薬王菩薩本事品」からこの先は、法華経信者を守る働きや信者の心得などが記されているようだ。
この妙音菩薩とは六道輪廻(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を往来して苦しむ人の感情の様子)する人間を救うために34の姿で現れるという。
その姿は帝釈天であったり毘沙門天であったりという神仏の姿でもあるし、人格者や尼といった人の姿でもあるという。
現実的には「この人がいたから助かった」ということがそうだろうし、逆に「反面教師」と言われるものもそうなのかも知れない。
とにかく法華経信者には、こういった機会が多々現れるということだろうと蓮は解釈した。
46.観世音菩薩普門品第二十五
(かんぜおんぼさつふもんぼん)
そしてここが問題の章となる。
この「観世音菩薩普門品」は、後から人為的に加えられたのではという説がある。そしてこの章は、法華経を出て、単独で「観音経」という経文にもなっている。いわば法華経の異端児だ。
蓮は一般的な講義の中でこれらのことは聞いていたが、今、法華経について考え直すに当たって、この章が人為的に加えられたという点が非常に気になった。
「本当の法華経」がどれなのか分からない中で、どの法華経にもこの章があるならば、もしも本当にこの章が後から加わったとなれば、本当の法華経は皆無だということになる。
しかし蓮は、それはどうでもいいことだと改めて思う。なぜなら蓮が追うのは「法華経と言われるものを伝える行為」という法華経だからだ。
ちなみにこの章、単独で経文になるくらい分かりやすい。
観世音菩薩が33の姿になって、苦しむ者を救うというストーリーの中で、困ったら「南無観世音菩薩」と唱えればよいのだと、実に簡単な信仰方法を語っている。まさに他力本願の経文だ。
昔の特撮ヒーローもので、何かを唱えたり鳴らしたりすれば、スーパーヒーローが現れる的な構図だ。
対して本体の法華経は、簡単に言えば「私は手伝うけど救いません。あなたを救うのはあなた自身です」という、どちらかと言えば自力本願なものだ。だから他の菩薩はそういう意味合いで描かれていると思える。その流れの中でこの章が突然現れるのは不自然だ。よって後から加えられたのだというのだ。
蓮はむしろ、こうやって「法華経と言われるもの」が伝播の中で固まり、最終的に日本に来て日蓮が精製したという流れが、むしろこの章があることで強調出来ると思った。
47.
あの人から急にメールが入った。
例のメールの主だ。
メールの主とのやり取りの9割方は蓮からだったから、向こうから来るのは珍しかった。それだけに「なんだろう?」という気持ちが高まった。
「突然メールしてすみません。いや、とんでもない語呂合わせを見つけたのでつい興奮して。
いや、ホントなんてことないものなんですけどね、でも私たちの考えることの核心はこれだって思ったものなんで。
まぁ、前置きはこれくらいにして、その語呂合わせなんですがこれ、英語なんですよ。それもよく知る英語。英単語かな?
それは「GOOD」です。そう「グッド」イコール「良いこと」
勘のいいあなたなら、これがどんな英単語に繋がるか分かるんじゃないですか?
それは「GOD」つまり「神」です。
ね?「良いこと」と「神」
私らの言う「良心や改心」と「仏」ですよ。
でもこれだけじゃないんです。これだけじゃただの似た文字です。
問題は「GOOD」と「GOD」の違いなんです。
どう違いますか?このふたつの文字。
「O」がありませんよね?「GOD」には。
では「O」を見て何を連想します?
…私は車輪を連想しました。そこから転がるとか運ばれるということをさらに連想しました。
つまりこれは「良心」が「仏」に変わる過程じゃないかって思えたんです。
ホント、単なる語呂合わせのこじつけです。でもこのふたつの単語の意味があまりに今追っているものと合致したのが不思議なんです。しかも英語で。
サムシング・グレイト…これも英語ですもんね」
48.陀羅尼品第二十六(だらにほん)
「GOODとGODかぁ。たしかに単なる語呂合わせにしては出来過ぎよね、私たちの理論の上ではだけど」
蓮は法華経を最後まで読んだ後、さてこの仮定をどうしようかと思った。
まずはおさらいをしなければならない。そしてすっきりとまとめる。さらにそこから、新しい法華経を構築しなければならない。そして何か名前を付けなければならない。それこそすっきりした名前を。などと考えながらこの「陀羅尼品」を読んでいるうち、蓮は宗教の閉鎖的な世界を、またここに見た。
この章では「陀羅尼呪」という、また物騒な言葉が出て来る。「だらにじゅ」というそれは一種の呪いで、法華経を伝える者に害を及ぼす者は、頭が割れて七分になるという。七分とはどういうことかは分からないが、イメージ的にはおぞましいさまを連想する。
法華経のことだから、この者たちも一旦地獄には落ちるが、また救われるのだろう。しかしいずれにしても痛い目に遭わされることには変わりない。体を焼いて称えるとか、頭を割ってしまうとか、このあたりの法華経はなんともサディスティックだ。
ただここで蓮は、これを自分の仮定に当てはめたらどうなるのだろうと考えた。
今のところの蓮の仮定では、法華経とは人間そのものあり、仏は人間が改心する機会をもたらすもの、そして人間は改心することでその個々の存在意義を知り、知り得た意義が個々を羽ばたかせる。
そういうイメージになる。
そこでこの呪文だ。
法華経を守り伝える者とは、人間を大切にし、人間の在り方、つまり扱い方を伝える者だろう。簡単に言えば、常識的に生きなさいという、なんでもない人たちだ。
それを迫害する者とは、人間を軽んじる者、端的に言えば殺人者、ひいては戦争を引き起こす者や、あるいは自分で自分を軽んじる者、ひいては自殺者というものだろうか。
この章はいろいろな解釈が出来る。
単に善人を守るという意味にも捉えられるが他に、ここでは法華経だが、他の教義に置き換えてもこれは呪文のもとに、信徒を教義に括り付ける副作用がある。
信徒は守られるが、その他は害されるという意味で。
それは「呪文」という言葉があるからだ。だからここに蓮は宗教の閉鎖性を感じるのだ。
「やはり法華経は宗教であってはならないわ」
49.妙荘厳王本事品
(みょうしょうごんのうほんじほん)
「簡単に言えば、一般人がお経なんて読みますか?特に日本人が」
陀羅尼品で考え込んでいた蓮の頭に、こんな言葉が浮かんだ。
このなんでもない言葉に、蓮は一連の思考の核を感じた。
「法華経は宗教であってはならない」
この言葉を何度繰り返しただろう。法華経はその名称も外さなければ、真の意味が発揮出来ないのではないか?
その読書もあと2章を残すのみになった。
この章では異教徒が仏教(広い意味での法華経か)に改宗する様子が描かれている。
内容を簡単に言うと、ある国の王が「外道」(げどう)と言われる仏教ではない宗教を信仰していた。
王には二人の王子がいたが、王子たちは仏教(外道に対して内道)を知り、父に伝え、改宗させたというものだが、ここに出て来る「外道」は、今の世では「人の道に外れた者」という、いわば過激な言葉として認知されている。
この章では他の宗教に対して攻撃的な姿勢と、仏教に対しては防御的(閉鎖的か)な姿勢を見せている。
要するに仏教を出るな、そして他宗には関わるなと言っているようなものだ。
法華経はその末尾がかなり過激なものになっている。これはどういうことなのだろう?ここまで法華経にそれなりに親しんで来た蓮にとっては、舞台が空中から降りたこの数章が手のひらを返したもののように映る。
しかしこの表現も、蓮はあくまで自分を大事にしろという言葉の裏返しだと捉えたかった。
ただこの章の表現の仕方では、宗教色が強まるばかりだ。この章こそがらりと書き換えなければならないと蓮は強く思った。
「法華経は宗教であってはならない」
その思いがますます強まった。
50.普賢菩薩勧発品
(ふけんぼさつかんぱつぼん)
蓮の法華経流し読みも最後の章となった。
法華経では第1章で文珠菩薩(ここにいた弥勒菩薩が文殊菩薩に法華経が始まる前兆について質問するくだりがある。その答えから法華経が始まる)、そしてこの最終章で普賢菩薩を描き、このふたつの菩薩に挟まれる形で釈迦如来を置いた姿が、釈迦三尊として今の世に伝わるらしいが、これは日蓮の自我偈解釈や、蓮たちが考える法華経の絵画解釈に通じるものがあると、蓮自身思った。
また法華経全体が集会の場を舞台にしていることは、今で言えば宗教の会合をイメージさせる。
これは「感化」という、信仰と妄信の諸刃の剣の場でもある。
ここで拾ったこういう材料を元に、これから法華経の再構築に入るわけだが、いくら内容が難解で、時に厳しく恐ろしいものでも、それなりに親しんだ法華経を見終わることに、蓮は一抹の寂しさを覚えていた。これはやはり、法華経が集会の場で、今その散会を迎えようとしているからだろうか。
そしてこれから、散会の場の章を読む。
普賢菩薩(この場にもいたのだろうか?)という菩薩は将来の法華経受持者の保護と救済を誓い、その決意を釈迦が称えたという話を釈迦は話す。
釈迦が話し終えると、ここに集った者は散会し帰路についたという、始まりがあれだけ神秘的で荘厳だった法華経が、なんともあっさりした終わり方をしている。あっさり、それに現実的な終わり方だ。まるでコンサートの終わりのようだ。さっさと片づけて、さっさと帰ってしまう。これはただの人の動きだ。
「これってなんとなく不自然だわ」
実はこの章にはいろいろな説があることを、様々な文献を読むうちに蓮は知った。
この説に限らず、第21章の「如来神力品」から第26章の「陀羅尼品」は後から付け加えられたという説があることも知った。
この章は法華経の最後ではないという説があるし、前述した観音経の話もある。
それは法華経の表現が過激になる部分と重複していないか?
蓮はそれは人為のなす業ではないかと思った。
蓮の法華経は、まさにここから始まる。
51.
法華経を一通り読んだ後、蓮は宗教について自分が抱いている疑問を列記してみた。
法華経を調べるまでの蓮は、大学の国際宗教学部で世界の宗教を学ぶ一大学生で、それも特に明確な目的もなく宗教の概要を学ぶに過ぎなかった。
そもそも蓮がこの学部に籍を置くのも、この学部が入試の競争率で一番下だったからだ。受ければ入れる。そんな倍率だったからだ。
蓮はいずれ、実家の旅館を継がなければならない。だったら少しでも長く遊んでいたいし、ま、大卒なら旅館の女将としての箔付けにもなるだろう。まして「国際」が付くなら、後の言葉がなんであれインテリっぽい。そんな軽薄な動機で蓮はここにいるのだ。
しかしふとしたことから見つけた日蓮らしき人のメモに興味を持ったことから、遊びが学びに変わってしまった。
「人間は本来優しいものだ」
「優しさとは他人を思いやる気持ちだ」
「優しさが発揮された時、人は喜びの世界にいる」
「それが成仏だ」
「みんなが優しくなればみんな成仏するし、争いなんて起こるはずがない」
「この簡単な仕組みからなぜ人は目を逸らすのか?」
これが蓮が見つけたメモの一部だ。他にも「奇跡の原因は自分が雨男だからだ」とか「法華経を知らないまま広めてしまった」とか、自己を否定するような走り書きまで見つかった。
さらに不可思議なことがあった。
このメモは、現代人の創作した日蓮が書いたものだったのだ。そしてその現代人とは、今、蓮がメールのやり取りをしている人物なのだ。
蓮は法華経追跡に行き詰まり苦しむ中、些細なきっかけでその人物が書くページを知り、そこで展開される「とんでもない日蓮」の行状を見るうちに、このメモのくだりを見つけたのだ。
まさに時空が歪んだ瞬間だった。まさに法華経の世界だった。
そのページでは日蓮はある宿でこのメモを書いたとある。まさかそれが実家?
メモが見事に一致するから恐らくそうだろう。
蓮はこういった材料をどうまとめるべきか考え始めた。
そしてようやく自分が籍を置く学部が本来の居場所であることを痛感した。それも思えば不思議なことだ。
52.
蓮は学部で受けた講義のうち、そもそも宗教ってなんなのだという、最も初期の講座のノートを引っ張り出した。
そこにはこう記されていた。
記したのは蓮本人ではなく、代返と代筆をバイトにしていた学生だったから、蓮は今初めてそこに記されたものを読む感覚だった。(実際はテストの前に読んだはずだが、丸暗記して用が済んだらすっかり忘れていた)
「俗に宗教と言われるものは、原始の頃には存在していた。原始の人間は自然界との関わりが深かった。狩猟や農耕などは、自然のサイクルの影響を受ける分、その自然に対する感謝の念と、自然の厳しさに対する畏怖の念が「神」という存在を生んだ。「神」は自然を創り、自然を動かす絶対的な能力を持つ存在であった。その背景には人間という生物の脳、つまり知能の発達があった。
知能の発達は人間独自の「喜怒哀楽」という感情を生み、それら感情の往来に人間は惑わされるようになる。そして惑いの解決のひとつに「神にすがる」行為が生まれた。すがるものがあることで人間は心の安定を得る。それが「信仰」である。信仰を選択した者にとって自然現象への感謝や畏怖は神の力の象徴となり、信仰はその恩恵を得る手段ともなった。またその力を信じる者は、場合によっては「祈祷」や「呪詛」「占い」「予言」なども行なうようになった。
信仰の動機も知能の発達とともに複雑化して行った。恩恵を受けるための信仰や、救済を求める信仰などその目的も多岐にわたるようになり、それに伴い様々な信仰形態が生まれた。そしてそれらはまた様々な信仰団体を生んだ。
知能の発達は科学の発達でもある。科学は原始の人間の自然に対する畏怖を和らげた、つまり神の力の正体を暴いたが反面「科学では解決出来ない現象」を浮き彫りにもした。「シンクロニシティ(偶然の一致)」「スピリチュアル(霊的現象)」とか言われるものがそれである。また、人間には不可思議の余地が必要だという説もある。行き過ぎた科学は時として「神への冒涜だ」と言われる行為を行ってしまう。そして皮肉にも科学の発達は味気ない現代社会を生み、そこからの脱出手段として人間は科学で解明出来ない未知の世界に憧れ、旧来の宗教の枠を超えた新たな信仰対象や団体を生む結果となった」
「なんだか人間って、自分の脳の発達と闘っているみたいね」
蓮はノートに語った。
53.
ふと蓮は、いつかの講義で講師が言っていた言葉を思い出した。
「日本の宗教観は特殊でね、神も仏もごっちゃなんだよ。ほかの国では神は神、仏は仏と、信仰の対象は厳格に絞られているのに、日本は曖昧なんだよね。ほら、よく結婚式は教会で上げて葬式は坊主を呼ぶなんて言うでしょ?それに神社の中に仏像があったり、その逆で寺の中に神棚があるってのもあるでしょ?」
「この感じ、どこかで見たわ。あ、髭曼陀羅」
日蓮が書いた髭曼荼羅には、日本古来の神である天照大神の文字が目立っている。これはあらゆる神仏は法華経と法華経の受持者を守る現れだと蓮は聞いたが、逆に言えば宗派に曖昧、よく言えばおおらかなことは、宗教の否定にもなるのではないかと蓮は思った。
日蓮の意図はあくまで法華経という宗教の強調だがその日蓮でさえ、ここに仏ばかりではなく神まで持って来ているのはそんな日本独自の宗教観、引いては宗教の曖昧や否定まで含んだものが、日蓮の中にもあったからではないか?
蓮はむしろ宗教の否定感こそ重要なのではと思った。
なぜなら法華経とは人間そのものと仮定するからだ。信仰の有無を問わない、人間が本来持つ姿と力の解説文だと思うからだ。
日蓮に手を差し伸べたおばさんの姿がまた脳裏に浮かんだ。
「なぜ日本なの?」
ここへ「法華経」が「法華経と言われるもの」を運ばせた何か、つまりサムシング・グレートは、この独自の宗教観を持つ日本という場所こそ、法華経の完成の場として相応しいと判断したのではないか?
蓮の謎解きはまた一歩進んだような気がした。
蓮はここで、例のメールの主とのやり取りをおさらいした。
そのやり取りを抜粋し、眺めてみた。そして簡単に列記してみた。
・日蓮は法華経の中身がない上に、それを人間が伝えたことに注目し、自論で再構築した。
・日蓮はそれを最良の経文とした。そして日本語ゆえの解釈をした。その際、法華経は文章としてではなく絵画として認識された。結果、法華経は日本製となった。それは経文ではなく行為としてだ。
・人間は神仏も悪魔も持つ構造物だ。その解説書が法華経ではないか。
・潜在意識と無意識と無は等しいのではないか。霊鷲山は体内風景ではないか。
・菩薩行と大げさに言うが、それは単なる人助けのことではないか。その方が現実的だ。
・善行は一般的な善行と、自分に対する善行がある。一般的な善行とはそれこそ親切というものだろう。自分に対する善行とは、自分を活かすことだ。
・人間=人の間=娑婆世界=菩薩の望む居場所
・釈迦がもらった一杯のミルクの意味するもの
・法華経の三大事である「法華経は唯一無二」「仏は不滅」「法華経を広める」ということが指すものは何か。
・因果因縁の不思議。
・複数の信仰をしてもバチが当たらなかったメールの主の祖母の話が意味するものは、宗教は争わないものか、或いは元々ないということではないか。
・釈迦は人の体内に姿を隠し、仏(良心や不思議な力)となった。その様子が法華経に書かれているのではないか。
・「南無‘伝‘妙法蓮華経」…法華経とは「法華経と言われるものが法華経として成立する場所へ運ばれること」ではないか。
「ふぅ、疲れた。ミルクを飲んで休憩、休憩」
「あぁ、おいしい。これが釈迦が飲んだミルクかしら」
「さて、再開」
蓮は作業を続けた。
・良心とは勇気。
・地涌の菩薩は新しい自分。
・日本語による「絵画の解答」をサムシング・グレイトは望んだ。
・日蓮は「法華経は褒め言葉ばかりだからただただ褒めよ」と言い「南無妙法蓮華経」となった。そしてそれは法華経の当体である自分自身だとも言った。ということは「自分は素晴らしい」と解釈出来る。
さてここで日蓮がしたことを簡単に列記してみようと蓮は思った。
これは実際の日蓮の軌跡だ。
・清澄寺という所で天台宗を学ぶ。
・天台宗の総本山である比叡山延暦寺に入り、そこから高野山などの諸寺を回って様々な経文を学ぶ。
・結果、天台宗の元となった法華経こそが釈迦の本当の教えだと確信する。
・その後、法華経の布教を始めるにあたり日蓮宗を立宗する。
・布教に当たり当時の鎌倉幕府からにらまれ、何度も命を落としそうになる。
・しかしその最期は平穏なものであった。
ここで法華経は日蓮宗と呼び名が変わるわけだが、変わったのは呼び名だけではなく、その内容や姿も変わったと思われる。なぜならそこに日蓮の解釈や言葉が入ったからだ。
しかし法華経自体、それまでに姿は変わっている。実際、真の法華経は釈迦の口から出た瞬間にしかなく、あとは操作と伝達と推測だけの経文になっていたと思われる。それは法華経の後半何章かが不自然に繋がっているからだ。
だがそれも法華経で、法華経はこの「法華経と言われるもの」を法華経に精製する場所へ向かう意思そのものだったのだ。
その結果が日蓮宗で、例のメールの主はその信仰者だ。しかしメールの主はその日蓮宗の在り方について疑問を抱き、架空の日蓮を創作し、架空の歴史を作った。その日蓮の姿はこうだ。
・中国語を知らない。
・まして法華経も知らない
・単なる雨男
これは要するに「ただの人」だ。どこにでもいる男だ。言い換えればこの世の誰もがこの日蓮なのだ。
そして彼は何かにそそのかされたように日蓮宗を立宗したが、それは発展し、実在の日蓮と同じ実績となった。
「…そのメモ書きが私の家にあった」
蓮はメールの主に尋ねた。
「あなたが抱いた日蓮宗への疑問って、何なのですか?」
さっそく返答が来た。
「疑問って言うのは、日蓮宗そのものへではないんです。むしろ、宗教そのものへなんですよ。
私の話の中の日蓮が、女性に助けられる場面がありますね?
あれって日常当たり前に見る場面ですよね?
そしてその女性は無宗教者です。でも当たり前に親切をした。しかしそれは当たり前なんですがなかなか当たり前に出来ない。いちばんいい例が電車やバスでの座席の譲り合いですよね。ただ立つだけなのになかなかそれが出来ない。実は私もそうなんです。なかなか座席を譲ることが出来ない。なんだかんだ理由をつけて結局立たない。ということはそれを当たり前に出来る人はとても偉いと思うんです。しかもそれが無宗教者なら、信仰者であるこの自分って、いったいなんなんだ?自分が信仰している宗教っていったいなんなんだって思ってしまったんです。
信仰者は「信仰しない者は救われない」と言いますが、じゃぁ信仰のないこの親切な人は救われずに、信仰はしているが座席が譲れない私は救われるのか?こんなのおかしいと思ったんですよね。
神や仏っていったい何を見ているんだって思ったんですよね。
だから神仏もその功徳も、実は絶対違う場所にあるんだって思ったんです。それがこのページを始めたきっかけでした。そして私は大病にかかり、その時の情けない感情からさら自分のちっぽけさを知った。信仰者がこれですよ?
あ、なんだか愚痴っぽくなって来ましたね。
話を座席に戻しましょう。
よく「優先座席」ってステッカーを見ますよね?
それを貼っている座席にはなかなか人は座らない。この光景ってなんでしょう?
それは人が自然に持っている「良心」の為せる業だと思うんです。
私はこのステッカーが「法華経への入り口」だと思っています。
それへの人の反応は次の3つでしょう。
①貼ってあるから座らない人。
②貼ってあっても座るけど、必要とする人か来たら譲る人。
③貼ってあっても座ったまま、必要とする人が来ても譲らない人。
そして
④貼ってあろうがあるまいが、当たり前に座席を譲る人。
がいます。
今度は①から④を目撃した自分の気持ちです。
どれがいちばん気持ちいいでしょう?
私はこんな何気ない人の生活の中にこそ、神仏はいると考えたんです。そしてそのシンボルとして、あの日蓮が出来たんです」
「その創作の人物のメモを見つけたのがここに実在する私だなんて、これこそ法華経の世界じゃない」
「でも、架空の人物のメモ書きが私の家にあったのなら、もしかしたら私自身も架空の人物かも知れないわ」
そんな思考を巡らせていると蓮は、いつだったかに聞いた宇宙の話を思い出した。
それは地球を起点に宇宙の距離を測る話だったが、その壮大さに目が眩みそうになった記憶がある。
地球が1ミリの点だとしても、わりと近いはずの隣の銀河系あたりまででもキロ単位の距離、それも何万、何億だと言われると、この間に地球と同じような星があり、神や仏もいて当たり前という気持ちになる。また光の到達時間が何千、何万年だと言われれば、時空の歪みや矛盾もあって当たり前だと思える。法華経で言う「私は今にも過去にも未来にも存在している」的なセリフもすんなりと体に入るような気がする。
何より人間の大きさが、1ミリの何万、何億分の1というちっぽけなものなのだ。しかも宇宙や地球や人間といった大小全てを、創った者がいるのだ。それは人や物体の姿ではなく「秩序」とかいうものだろうか。
ここまで考えただけでも蓮は、宇宙には想像を超えた力が動いていることを感じる。その動きはまた、このちっぽけな人間ひとりをも、丁寧に創造している。それが細胞であり免疫といったものだ。これらは宇宙の星々に似ている。
この壮大かつ緻密なものを手抜きせずに創り上げ、今もまた創り続けている者は、その足跡を法華経に記したのではないか?
そういえば法華経の「嘱累品」には「菩薩たちがそれぞれの受け持つ国に帰った」と書かれていたが、やはりそれは宇宙で、宇宙には人間と同じく法華経を必要とする生命が存在するのだと、今、蓮は確信した。だから法華経はやはり、生命のあるべき姿を書いた解説書なんだと蓮は思った。
「これを元に論文にまとめよう」
蓮はこの興奮を、まずメールの主に伝えたかった。さっそくこの思いをメールに打ち送ったが…
メールは宛先不明で返って来た。
54.
彼はどうなったのだろう?
幸い彼のページはダウンロードして取ってある。まだ全部は見ていないから、どこかに彼がいなくなった理由が分かる箇所があるかも知れない。
しかし気になる。
まさか彼自身がこの世から消えてしまったのだろうか?それとも違うアドレスであのページを続けているのだろうか?だったらなぜだろうか?
とにかく考えても仕方ない。彼は宇宙に消えてしまったのだ。そう思うことにしよう。これもまた法華経のような気がするから。
私はここまでの思いを、一つの論文にしなければならない。
それは私の使命になっている。
メールの主のアドレスが消えていたことで反射的に蓮が想像したのは、彼の死だった。
死は人間に確実に訪れるし、それはいつかは分からない。そういえば彼のページのどこかに死を匂わす表現があったような気がするが気のせいだろうか。
とにかく死は必ず来る。今日、事故で死ぬかも知れないし、今日、不治の病気を発症するかも知れない。
人は、いや生物は必ず死ぬ。この事実と苦悩が仏教、ひいては宗教の根源にあることは確かだ。
ではいったい「生」とはなんなのだろう?なぜ生物は生まれ死ぬのだろう?
この営みを蓮は動画のように考えていた。
例えば種が芽を出す。
芽は伸びて葉を出す。
そして花が咲き種を作る。
種は地に落ちてまた同じ種類の芽を出す。同じ花が咲き、同じ種が出来る。
その繰り返しの中で弱った草木や病んだ草木は枯れて死ぬ。
ただこれだけのことだ。
意味があるとすれば「種の保存」それだけだ。
植物はそれを当然のように淡々と行なっている。
それが同じ生物でも人間の場合はなまじ知能が発達しているから、生死を淡々と行えない。
生に対する喜びと、死に対する恐れに遭遇する。これはまるで、モノクロで淡々とした生死に、感情という色彩が施されたようなものだ。生も死も、鮮やかに輝いている。
「絵画?」
そうだ蓮の法華経研究の中にも「絵画」という言葉が出て来た。
それは経文や髭曼荼羅の所でだ。
そして法華経という絵画の中で語られるものは、自身の生死だ。
絵画として考えてみれば「種の保存」は「風景の保存」になる。
人間の感情世界を絵画的に見せて語る…法華経とはそういうものではないか。
またひとつのヒントが蓮の前に現れた。
蓮はいつか「一般人がお経なんて読みますか?特に日本人が」という言葉が頭をよぎったことを思い出した。
「そうだ私はこの言葉に、法華経を追う鍵があると思ったんだ」
生死の絵画というヒントが出たところでこれを法華経の伝わったルートに当てはめてみれば、法華経は読まれずに眺められる所に落ち着いている。それが日本だ。そして日本人は宗教に対して無頓着だ。特に仏教へのそれは顕著だ。日本人の中で真面目に経文を読むのは僧侶か学者、それに信仰団体くらいだろう。一般人はほとんど知らん顔だ。
さらにその僧侶でさえ、なんの都合か経文を仏前でバラバラめくって「読んだこと」にしているくらいだ。
葬式の場面がそれを端的に表している。
遺族のほとんどは出された経文のフリガナを読むが意味なんて理解していない。ただその音に「らしさ」を感じているだけだ。それよりも正座の苦痛の方に神経が行っている。
同じ宗教でもキリスト教や神道に対しては日本人はまだ正面から対峙している。
教会で聖書を読む光景や、神道で成り立つ街があることなどがそれだろう。そう、神を信仰することは生活に染み込んでいるのだ。それに比べて仏教は、考え方の違いは大きいだろうが信仰即生活という点については希薄だと思う。
最もいい加減なのは、日本では結婚式はキリストを含め神前が多く、葬式は仏前が多いことだ。確かに日本には神仏同居の思想が古来からあるが、これはそういうものではない。一種のファッションだ。これは明らかに信仰ではない。まさに無宗教状態だ。
しかしだ。
だからこそ仏教である法華経はここを発展の場所に選んだのではないか?なぜなら法華経は絵画であり音楽だから。
読むのではなく、感じるものだから。
読まなくても理解しなくても法華経を感じられるということは、もともと人の中に法華経が存在しているということではないか?
言い換えればそれは宗教ではなく、もともと体の一部だから無宗教なのがいいのだ。
それは真面目に経文を読む場所では得られないことだ。だからこの、仏教にはいい加減な日本に来たのではないだろうか?
では誰がそうしたのか?
もちろん、生死というものを創造した何かだ。
蓮はこれを核にした卒論を書くことにした。
そしてこの現象としての法華経を「法華経と言われるもの」の中に反映させてみれば、本当の法華経が姿を現すのではないかと思った。
蓮は卒論のタイトルを何にしようか考え始めた。
「法華経についての考察」ではあまりに平凡過ぎる。
「私は何を書こうとしているのだろうか?」
蓮はまず大まかな構成を考えてみた。
①法華経を敢えて「法華経と言われるもの」と呼び、それが辿った道のりを記す。
「いや違うわ、まずは動機よ」
①私がなぜ、法華経を調べるようになったか
「それよね。でも」
まさかネット上の人物が創作した日蓮という人物の記したものが自分の家から出て来たからとは、さすがに書けないなと思った。こんな変な話、ないからだ。動機からして信じてもらえない。
ならばメールの主が言っていた言葉をもらおうか。法華経は宗教であってはならないという言葉。
「でもその前に、じゃ、なぜ宗教であってはならないか?って話になるわ。さらにその前に宗教って何?になるわね。
うーん、どこから手をつけよう?」
と、ふっと蓮の頭に「芸術的法華経」という言葉が浮かんだ。
メールの主とのやり取りの中で何回も出た「絵画」と「音」がヒントになったのだ。
蓮の頭の中に、絵画を運ぶ日蓮の映像が浮かんだ。彼はただ「なむみょうほうれんげきょう」という音だけを発している。その音の中には「法華経と言われるもの」が語る真理が込められている。
絵画が運ばれる先は日本だが、その国の人は無宗教者が多い。
「そこが切り口だわ」
「タイトルは」
何も書いていないパソコンの画面を前に、蓮は少し考えて、保存しているあのメールの主のデータを開いた。
「浅い法華経」
メールの主のページタイトルだ。
あれこれタイトルを考えたが、これを超えるものはない。これを使わせてもらおう。法華経は法華経にあって法華経にあらず。だから法華経は浅いくらいがちょうどいいと、タイトルの断り書きにあった。
そしてその構成だが、核は「信者ではないと救われないはずがない」という思いだった。
蓮にしろメールの主にしろ、今までは信者側からそれを見ていたが、むしろ反対側にいる「無宗教の人たち」がなぜ無宗教なのかを考えるべきではないかと思った。特に蓮らが考える「法華経の精製地である日本」になぜ無宗教者が多いのかも併せて考えるべきだと思った。
そこで構成の①は「無宗教である理由と無宗教者が多い日本人の特徴」にすることにした。
そして②は「無宗教の人たちが無宗教のまま理解しているはずの法華経」にしようかと思った。これは「芸術的法華経」の部分だ。
「そこから先は…」
蓮は手許のノートパソコンにようやく卒論を書き始めた。
さわりを打って、まずは教授に見せなきゃと思った。
そこから先はその後だ。
55.
「さてと、教授へのさわりはどうしようか?つまりは卒論の冒頭ね」
論文のテーマはあくまで法華経だから、その冒頭はやはり法華経自体から入るのが自然だろう。
蓮は法華経のどこに切り口を持っていくかを考えた。
「法華経の中で重要視されているものはたしか…」
蓮は今回の研究はもちろん、大学で学んだことも含めて熟考した。そして
「方便品と如来寿量品だわ」
やはりそうかという結論になった。
「この二つを法華経という生き物は【法華経といわれる経文】を介して伝えたかったのかも知れないわ。誰もがこの二つは大切だと言って来たのだから」
如来寿量品ではやはり「自我偈」の一節が重要だろう。視覚効果として見る法華経を、これほど端的に表しているものはない。
そしてこの二つが言いたいことを簡潔に言えば
「方便品」は「信じるとは何か」
「自我偈」は「信じるものは自分」
ということになる。
そして何よりも「自我偈」の中に「自身」を見つけたのはかの日蓮、つまり日本人だということが大きい。この解釈を含んだ日蓮宗の法華経は、唯一無二の日本製法華経だ。唯一無二とは日蓮宗だけが正しいというのではなく、そんな解釈をするのは日蓮宗だけだという意味なのだが、もしも法華経の意思がこの唯一無二のものに辿り着くのなら、その背景に何があるのかを卒論の骨子にしたいのだ。
「だから日本人の特性が要るのよ。日本人の特性…そう、神仏混在のおおらかさ、悪く言えばいい加減さ…いい加減?いい加減って、もともとは良い加減っていい意味だったはずだわ。そして日本人のほとんどはそんなに深く信仰の中にいないわ。むしろ最近は信仰を怪しいものだと捉える向きがあるかも。あと、長い物に巻かれろとか、そう、なんだかんだいって諦めやすい。物事をあんまり深く追求しない、閉鎖的、保守的、だからかな、政治に対しても不満は持っても表立っての反論はしない。だから争いは起こりにくい。そういえば外国人と比べたら静かね。外国語も苦手よね。うーん、とにかく良いにつけ悪いにつけ適当で保守的なのよね」
蓮はこれら日本人の特性を簡単な言葉で紙片に書いて並べてみた。
「いい加減、適当、諦め、口よりも目で話す、保守的」
そして
「方便品、自我偈、日蓮宗」
これらをどう組み合わせて卒論の冒頭にしようか。
蓮はまるでカルタのように目の前に並んだ言葉たちを眺めていた。
56.
「そうだ、法華経はまるで友達みたいだと思ったことがあった」
蓮は以前感じたその思いにこそヒントがあるという前提で、目の前の言葉をもう一度眺めてみる。
「法華経は生きものだから友達で、それは誰?」
蓮は自問自答する。
「それは自身、つまり自分。友達だからもう一人の自分。そして」
「可能性。自分の可能性。友達は可能性を秘めた自分」
「それを本尊として信じろ?つまりは自信を持て?」
「法華経は生きものだから宗教じゃない。だから正面から自分を宗教と見ない土地で根を下ろそうとした?日蓮宗を介して?」
「それでもまだ今は宗教だと認識されているわ。ここから先、法華経は何をするの?」
そもそもはあのメモから始まった。そして教授とのやり取りがあった。この論文を教授に出すからには、あの時のやり取りをもう一度思い出そうと蓮は思った。
「また整理だわ」
何度も何度も整理をするのだが、本当に法華経の迷路は複雑だ。
「よし、何回目になるか分からないけど、もう一度おさらいよ」
蓮はまず、教授とのやり取りを思い出す。
「あ、雨男。そうだあれは蒙古襲来とか龍ノ口とかの…」
「雨男」…教授が興味を示した言葉だ。
「偶然とはいえ、日本や日蓮はこれで難を逃れたんだわ」
蓮は「雨男」とメモした。
「雨男はあくまで偶然。でも、偶然で片付けられないものが背後にあるようなきがする」
日蓮の伝説にも確証はないが、なぜか彼の法難と日本の国難は風雨が救っている。
「そして日本は侵略を受けず…あ、日本って不思議と侵略されずに今まで来てるわ。それに日蓮は結局、畳の上で往生して、日蓮宗も今に伝わっている。何か不思議ね」
蓮の頭の中では、日本の形が海の中から浮き上がり、その姿を自分に突きつける映像が流れていた。
蓮はその先を思い出す。そして
「あとは、あ、メールの主だわ」
今度はメールの主とのやり取りを復習しなければと思った。
「彼のページをもう一度開こう」
蓮はPCの電源を入れた。
立ち上がりを待つ間、いろいろと彼のことが頭に浮かんだ。
「彼はよく語呂合わせをしていた。あ、それは日本語だわ」
「そして語呂合わせがもたらす妙な共通点…うーん、言葉の共鳴?自身と自信とか。何かしら音だけで説法するような。これは言霊?日本人は言霊の民族なの?」
蓮は急いで「日本語・言霊」とメモした。
57.
「え!どういうこと⁈」
立ち上がったPCの中に、保存していたはずのメールの主の記録はどこにもなかった。代わりにデスクトップ画面に「蓮様」という名前の付いた、見知らぬファイルがあることに蓮は気が付いた。何かのウィルスかも知れないと念のためスキャンしてみたが異常はない。蓮は思い切って開けてみた。
そこには
「突然姿を消してすみません。想像されたかも知れませんが私はもう、この世には存在しません。あれから程なくして亡くなりました。しかし今はここにいます。あなたとはいろいろと言葉を交わしましたが、私は死ぬ段に至って簡単な悟りを得ました。それはあんなに迷っていた法華経の迷路が、なんだこれはというほどに単純な道だったことを、昇天しながら俯瞰で認めたからです。だから生前の迷いは却ってあなたを迷わすだけなので、それを消去し、代わりに私の悟りのヒントをここに置いておきます。あなたは私の産物ですが、私がいない今は私自身です。私は別の人間になりもうこの話を進めることは出来ません。ですから私であるあなたに私の以後を託します。
・本尊は宿命を克服した自分
・祈りはその自分に智慧をもらうこと
・信じるとは本尊を成せると思うこと
・布教とは本尊の存在を知らせること
・自意識が一つしかない事実
・一つだから本尊
ではよろしく」
という文言があった。
「やっぱりここは、あの人の中だったんだわ」
このような状況をどこかで見たような。
「そう、法華経よ」
蓮は自分がいるこの仮想空間こそが、法華経の空間であると思った。
「私は何者なの?」
自分は何者か?
この単純な疑問は単純だが無限に深い。
蓮も時々「自分」という存在の不可思議さについて考えることがある。しかしその度に分からなくなって投げ出してしまう。
まず自分は自分であるのに自分が見えない。鏡やガラスに映る自分は見えるがそれは実像ではない。他人はその数だけ実像が見えるのに、たった一つの自分だけが虚像なのだ。これはいったいどういうことなんだ。
そしてファイルにある「自意識」という言葉。自意識、つまり自分を意識しているということ。これは自分を除いた誰も感じることが出来ないものだ。そしてそこにある数字は「一」。
蓮はふと、釈迦が生まれた時に喋ったという言葉を思い出した。
「天上天下唯我独尊」
「独」とは「一」のことだ。
「そうだ」
ふと蓮は、どこでもいい、寺院という所に行ってみようと思った。
何をしに行くのか。
「一」の姿を確かめたくなったのだ。
58.
本尊とは宿命を克服した自分…
蓮は今、ある寺の本尊の前にいる。
この寺の宗派が何かとは問わない。蓮はただ、メールの主が残したファイルにあった、本尊とは何かの言葉を思いながら、本尊、法華経の場合の本尊である自分の姿を、本尊と言われる仏像を通して見てみたかったのだ。
本尊…本尊だからこの広い寺の中にはたった一つしかない。この本尊も一人孤独に佇んでいる。しかしそれは「孤独」というよりその色彩、光線の具合で「孤高」に見える。
その本尊とは宿命を克服した自分とあるが宿命とはなんだろう。
蓮が調べた辞書には、宿命とはその人が生まれる前から持っている運命だと記してあった。
つまり本尊とは、生まれる前から持っていた運命を克服した自分ということになるが、では克服とはなんだろう。
目の前の本尊は薄目を開けて立っている。その目はこれから開くのだろうか、それとも閉じるのだろうか。
とにかくこの薄目を開いて一人で佇む姿が宿命を克服した自分なのだ。
本尊をじっと見るうち蓮は、宿命とは各々の性格や容姿ではないかと思った。
外からははっきり見えるのに、内からはなかなか見えない。そう「自分」と「自意識」に通じるものだ。自分なのに自分が邪魔してなかなか見えないもの。その自分とは自分の性格であり容姿である。
たしか法華経の正式名は「妙法蓮華経」で、その「妙」とは蘇生のことだと日蓮は言ったという。
「蘇生」つまり生まれ変わること。
ならば本尊とは、自分の性格や容姿を克服して生まれ変わった自分ではないか。
蓮は本尊の薄目は、開くものでも閉じるものでもなく、本尊の前にいる現在の自分を見つめるものではないかと思えて来た。そこからは常に自分の性格や容姿がもたらす喜怒哀楽への答えが漂い出ているのではないか。
「1」が「1」を見つめる構図に今、蓮はいる。
蓮はこれは決して息抜きではなく、法華経という生き物がここへ自分を連れて来たのだと思った。
なんのために?
それはやはり法華経が、文言で読むものではなく、こうして立体的に体感するものであることを知らせるためだ。
「やはり法華経は絵画であり、音であり、こういう風景なんだわ」
本尊の前の薄暗い空間で、次第に論文の骨子が見えて来た。そして
「天上天下唯我独尊」
何気に呟いたこの言葉に
「あ…」
蓮は何かを見つけた。
「なんて簡単なことなの?」
目の前の本尊の薄目と目が合った。
「天上天下唯我独尊」
釈迦が生まれた時に喋ったとは言われているが、恐らくは後世の誰かの言葉だろう。
しかし言ったのは誰でもいいのだ。この言葉が今もこの世に残っていることが大事なのだ。なぜならそれが法華経の意思だからだ。
そしてこの8文字に法華経の全てがあるからだ。
「世の中にただ一人しかいない自分を大事にしろ。自分の性格や容姿がもたらす正のものを喜び、負のものに落胆せずにそれがもたらす正を探せ。無駄は決してないはずだ。落胆も失敗も財産になるはずだ。それが自意識の為すべき使命だ。そして自分の本尊たる姿に近づいて行け」
なぜかこんな言葉が勝手に自分の中を流れた。なぜだろう?急にだ。蓮はこのことをメモした。「なぜか、急に」と。
端的に言えば自分の正も負もみな財産のはずだ。それに気づけということだが、法華経の経文の中にも、自分の真の姿や自分の特性の利用方法に気づけという意味合いの文言が出ていた。
「つまり天上天下唯我独尊が法華経と言われるものが言いたいことで、南無妙法蓮華経が法華経と言われるものの言いたいことを実践しますで、布教と言われる行為は宗教を広めることじゃなくて、一人しかいない自分を大事にすることを教えて行くことなのよね」
あのファイルに記されていたことをまとめたらこういうことだろう。
「そして、法華経という生き物はその想いの発信の場所にこの日本を選んだ…のだろうか?」
だとしたら法華経はなぜこの日本を選んだのだろう?
論文の骨格はだいたい見えたが、そこに付く血肉の部分がまだ不明瞭だ。
「お茶でも飲んで考えよう」
蓮は寺を後にし、自宅の最寄り駅の前にある、お気に入りの喫茶店に行くことにした。
そこは「カフェ」ではない。古い喫茶店だ。駅前の古いビルの上階に昔からあり、そこからは駅を行き交う人々が俯瞰出来る。
今の蓮の思索にはうってつけの場所だった。
「何もかもが日蓮の自我偈解釈から始まっていたわ。【自身】から。そして彼と私はそれをまた【自信】に置き換えたりした。日本語の音として」
頼んだコーヒーが来るまでの間、蓮は眼下を行く人の流れを見ていた。
「みんな自分が見えない自意識なんだわ」
蓮がこの喫茶店を選んだのは、こうして人が客観的に見えること、そしてその適度な暗さだった。その暗さは、さっきまでいた寺の本堂の暗さに通じていた。
寺が自分を見つめる場所なら、ここは他人を見つめる場所だった。そしてその適度な暗さは、その行為に相応しかった。視界が暗さで狭まって、その分、自分を浮き立たせていた。
「みんな何かを求めて駅を行き来している。そういえば何一つ、同じ顔がないわ」
蟻の群れのごとくにこれだけ多くの人がいても、同じ顔はない。不思議なことだ。
「でも双子や三つ子がいるわ」
もしも完全に瓜二つの顔があったら、それはどうなるのだろう?蓮の想像は膨らむ。
「そう、それは双子や三つ子ゆえの顔だわ。つまりは双子だから、三つ子だからっていう環境だわ」
それが性格や容姿がもたらす正や負なのだろうなと蓮は思う。
そういえば蓮にも双子の友達がいた。女の子だった。親しかったのはその片方だったが、彼女はよく愚痴っていた。
「同じ顔なのに、向こうは賢くて私はバカ。向こうは明るいのに私は暗い」
その時はなんとも思わず聞き流していたが、今、考えてみると同じ顔だけにいろいろ比較されたのだろう。同じ顔ゆえの愚痴が出て、それが唯一の性格を作り、今頃あの子はその性格がもたらした環境の中にいるはずだ。
もしかしたら目の前の群衆の中にいるかも知れない。
コーヒーが来た。一口飲んだ。また思い出した。
前にもコーヒーを口にした時、苦行に弱った釈迦が飲んだ一杯のミルクを連想した。
あの話、なんの難しさもない。意味の無い苦行よりも、自分の身体に必要なものの方が大事だということだ。至って現実的な話だ。釈迦はそこで悟ったという。
寺からここまで、蓮は経文の一文字も眺めていない。なのに経文の核心のようなものにはしっかり触れている。それは目にする風景、つまりは現実が教えてくれたのだ。これは現実世界も見方次第で、お経の文字になるということではないか。見方を変えるとは、見る自分を変えるということではないか。これも難しい話ではない。少し立ち止まって、呼吸を整えたらいいだけなのだ。このコーヒーのように。
蓮はさっき、寺で書いたメモを見た。
「なぜか、急に」
この時に聞こえた言葉が本尊である自分の呟きだろうか。自分の見えない可能性がもたらしたものだろうか。祈りは智慧を授けると大学の講義で聞いたことがあるがこれがそうだろうか。だとしたら
「祈るって、本尊のあの薄目を見ることね」
なんとも不思議な一瞬だった。
「妙法」の「妙」は、蘇生の他に「不思議」
の意味があるというが、これがそうなんだろうか。「功徳」とは、これなんだろうか。
日本は宗教に関しては寛大というかいい加減な国だということは、蓮も彼も十分認識している。いや、そうでなくてもこの国の半数以上の人間はそう認識しているだろう。宗教は冠婚葬祭のためにあるのだと。
しかしその「いい加減」が実は「良い加減」の意味もあることは、案外知られていないと思う。
このあまり知られていない「良い加減」はもしかしたら法華経が言ったのではないだろうか、だったら面白いと蓮は思った。そして法華経は「良い加減」を「いい加減」という、あまり印象のよくない言葉で覆い隠した。
それはなぜか。
それは自分の姿を隠したいから。
なぜ隠すか。
自分が法華経という宗教名だから。
そんな突拍子もない推理が蓮を興奮させる。
では何が良い加減なのか。
それはこの国が宗教で縛られ切れていない様が良い加減なのでは?
では何に良い加減なのか。
それは法華経が宗教という殻から脱皮するのに良い環境なのでは?
なぜ脱皮するのか?
それは法華経が宗派や人種を問わない、人間自体のものだから。
そしてこの国の言葉の音。
半分不真面目に言葉遊びが出来る音。
それを持つ国。
何より宗教に不真面目な国。
ではこの国で変化しようとした法華経という生き物の正体は何か。
彼との話ではサムシング・グレイトと呼ばれる何かしら偉大な意思だとか、人間そのものだとかというところで止まっているが、突き詰めたらどうなるのだろう。
蓮はしばらく考えたが、ふと宙に呟いた。
「それは【何か】でいいと思う」
「それは【何か】でなければいけないと思う」
「【何か】でないと不思議でないから」
なぜそうなのか?
それはその生き物の名前が法華経だからだ。妙法蓮華経だからだ。妙イコール不思議だと名乗っているからだ。
人が不思議と感じる時、人の体内にはその力を倍増させる物質を生む。彼が言ったドーパミンがそれだろう。
人には不思議を思う時が必要なのだ。
その不思議は、日本語の語呂合わせの語呂が合った時の「なるほど」という感心から生じる。
相変わらず眼下には人が流れている。が、この中に自分の自意識はない。不思議なことだと思う。だから法華経の本尊は自分、つまり不思議な法華経なのだと思う。髭曼荼羅の姿が浮かぶ。
すっかり冷えたコーヒーがまた美味しい。なんとなく自分が書くべきことがまとまって来たと蓮は思った。
59.
家に戻り、さっそく蓮は論文のあらすじを考え始めた。
「まずは法華経と言われるものの軌跡からね」
PCを開き打ち始める。
これは蓮が大学で学んだ知識と、自身の思考体験を合わせたものだった。
【浅い法華経概要】とまず打った。そして以下の文章を続けた。
私は法華経は二つあると考える。
その一つは一般に法華経と言われる経文で、もう一つは法華経という生き物である。
まず法華経と言われる経文だが、それは釈迦の言葉としてインドで生まれ、中国大陸を経て日本へ来た。
途中、様々な人の解釈が入り、それは哲学・道徳といった現実的な側面、奇跡・呪術といった非現実的な側面を包含するものとなった。その時点で、法華経の真理は曖昧なものとなり、曖昧なまま日本に至った。
日本で法華経は、天台宗を介して広まるが、現実的な部分は日本の各宗派に取り入れられ、非現実的な部分は密教としてその後それぞれが発展、存続して今に至る。
ただ、曖昧になった法華経の中には、その真理を匂わせる部分がある。それは法華経の中の肝要なものとして伝えられて来た。それが法華経の第二章である「方便品」と、第十六章である「如来寿量品」だ。如来寿量品の中でも「自我偈」と言われる詩文の部分は、法華経の核心を語るものと言われている。
この二つの中にもう一つの法華経、つまり生き物としての法華経の秘密があると私は推理する。では残りの26品は何なのだろう。
私はそれを武具や防具に例える。
先の二品を法華経という生き物の生身の身体だとして、褒め言葉・保護・罰・宣伝で占められたその他の品は、その上に装備された衣服であり鎧であり矛や槍だと私は考える。法華経という生き物は、それらを人間の手で纏わせた。何のために。
恐らくは自分を宗教化するためだろう。
では何のために。
人間のいわば「畏れ」の感情を利用するためだ。そしてインドから中国という宗教圏を無事に通過するためだ。
ではその最終目的は?
それは無宗教圏である日本に至るためだ。
なぜ日本なのか。無宗教圏がいいのか。
それは日本が言霊の国であり、裸の自分を見せられる風土だからだ。その様子は日蓮が記した髭曼荼羅に顕著だ。ここには仏のみならず神や鬼(ある意味悪魔)まで描かれている。この無秩序はある意味宗教に緩いことを表している。法華経はここで自分が宗教ではないことを表したのではないか。日蓮という日本の人間を使って。
そして神仏や鬼、それが守るのは人間なのだ。
日蓮は自宗の本尊を「法華経の当体」だと言った。それはつまり「南無妙法蓮華経」、法華経を敬う者とは髭曼荼羅を持つ人間、つまり日蓮宗の信徒のことであり、それこそが法華経の本尊だと言ったが私は少し違う仮定をする。その解釈を広げ「法華経を敬わなくてもそれを知る者」が本尊、つまり法華経だと。その姿を言葉で表せば「見聞妙法蓮華経」となるだろう。
それがなぜかと言うと、経文としての法華経の中に「この中の一言一句でも見聞きした者はいずれ成仏する」と記されているからだ。この部分は先の装備に当てはめれば、生身の法華経に一番近い肌着の部分だと思う。
法華経を知った瞬間、ここに一人の人間は「当人」と「当体、つまり本尊」の二人になる。いずれ成仏、つまり仏になる自分が目の前に出現する。この段階では本尊はまだ仏ではない。ならば仏とは何なのだろうか。
ここまで記して蓮は呟く。
「自意識…数字の1…」
とりあえず蓮は、このあらすじを論文のさわりとして教授に見てもらうことにした。その際、ひとつ大事なことを話さなければならないと思った。それは蓮のみならず、教授自身にも関係することだった。
「かなり大胆なところまで来たんだね、君の推理は」
あらすじを一読しながら教授は言った。
「実はもっと大胆なことがあるんです」
蓮の言葉に教授が顔を上げた。
「なんだい?それは」
蓮は一息ついて言った。
「例の日蓮、いや、半日蓮ですが」
半日蓮という名前に
「あぁ。あの雨男のね?」
教授は思い出し笑いをして応えた。
「そうです、雨男。その日蓮って」
「ん?」
「その日蓮、ある人物の想像物なんです」
一瞬、教授は表情をこわばらせたが、穏やかに尋ねた。
「想像物…とは?」
蓮は例のメールの主の話をした。
教授は狐につままれたような表情をしている。そして
「つまりあの日蓮も君も、と言うかこの空間もみんな彼の想像の中の現実、つまり仮想現実なのか?だとしたらもちろんこの私もそうなのか?」
と、やや狼狽気味に言った。
「そうなりますね」
蓮は静かに答えた。
「とうなってるんだ…」
教授は眉をしかめた。
「私は彼のページの中にあの日蓮がメモを記し、それを残した家の末裔としてメモを発見したという件を見て愕然としました。そして私はどうも、あの日蓮の生まれ変わりみたいな。ただ、この感じ、何かに似ていませんか?この時空が歪んだような感じ、本末転倒を何度も繰り返す感じ」
「君が言いたいのは、それは法華経世界?」
「そうです」
「うーむ」
「ただ彼は先日亡くなって、これから先は君が私だと言いました。彼の死後もここの時間がこうして流れているということは、仮想現実は本物の現実になったのかも知れません」
「うーん、なんとも不可思議だ」
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