刺朗

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捜査

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翌日、さっそく所轄署に捜査本部が設けられた。
「××電鉄列車内刺殺体捜査本部」
何ともあいまいな本部名が書かれた紙が貼られた壁の脇のドアの中では、所轄署の刑事が集まって、この奇妙な刺殺体について今後どう捜査するかの検討がされていた。
まずは被害者の男性の身元周辺を洗うことから捜査を始めることとなった。
被害者の身元はなんなく分かった。
被害者の背広の左内ポケットに社員証があったからだ。
社員証は「△△株式会社営業部 部長 川原 ろくろ」と明記されていた。
捜査本部でまず話題になったのは「ろくろ」という変わった名前だった。
「陶芸家」
「ろくろ首」
「六郎の出来損ない」
刑事たちの勝手な想像が飛び交った。
「おい!ここは姓名判断する場じゃないんだ」
刑事部長の花田が怒鳴った。そして
「刺殺体の状況はまだ司法解剖中で分からないが、ともかく私たちは被害者の周辺を洗うことが先決だ。被害者の家族親族、交友関係、社内社外の人間関係なんかをくまなく調べるんだ」
と言い、刑事たちそれぞれの担当を割り振った。
後藤と平井は家族関係担当になった。
会議ではまた、被害者の遺留品が開示された。
鞄は持っていなかった。衣服からは先の社員証のほか、背広の左内ポケットからUSBメモリがひとつ出て来た。これはロックされているのか壊れているのか開かなかったので、WEB犯罪の担当に分析を依頼した。あとロッカーか机の鍵らしきものが1本入っていた。キーホルダーなどは付いていない、裸の鍵だった。
ほか背広の胸ポケットにハンカチ、両ポケットにはタバコとライターが入っていたくらいで、ズボンに至ってはポケットは空だった。
カッターシャツのポケットにも何も無し、あとはネクタイに下着、靴下に靴と、物を入れる余地のないものばかりだった。
もちろん、凶器は被害者の体のどこにも無かった。
会議は自殺・他殺で意見が割れたが、現場に凶器が無いことから一応他殺の線で捜査することで閉会した。
後藤と平井はさっそく被害者、川原ろくろの家に向かうことにした。
「僕はどうもろくろ首的な犯罪だと思うんですよね」
部屋に戻って捜査の支度をしながら平井が言った。
「なんだいそれ?」
後藤が関心のない顔で応えた。
後藤と平井は署を出て最寄り駅へ向かって歩き始めた。
歩きながら平井が話の続きを始めた。
「あの現場の様子から直観的にこの事件、オカルトのにおいがするんですよね」
たしかに何か常識では解決できないところがあるなとは後藤も思っていた。
後藤の見るところでは、川原の体の周辺に犯人の痕跡がないのだ。どこかひとつ、指紋のかけらでも毛髪一本でも、皮膚の一部でもいい、鑑識が見つけ出してくれればと思っている。
今のところ、川原は食物を自分で口に押し込みながら腿を刃物で刺したとしか思えない。
すると自殺だ。
だが肝心の刃物が列車内のどこにも無かった。
窓から投げ捨てたと初めは考えた。
しかしあの列車の窓が下降式で上何分の一しか開かないし、開けるには立たねばならない。
腿から血の吹き出した状態で立って窓を開けることなどできないだろう。それに窓は閉まっていた。
あの窓の開閉にはかなりの力が要る。みるみる貧血状態になる中でそんな力が出るだろうか?
その後わざわざ座って、スプーンと弁当箱を持てるか?そんな流暢なことができるのか?
「それ以前にだ」
窓には川原の手の跡が一切無かったのだ。これは現場の鑑識調査で明白だった。
川原の血痕も指紋も無かったのだ。第三者の無数の指紋がべたべた付いているだけだった。
刃物は誰がどうやってどこへ消し去ったのだろう?
「依頼殺人?刃物は犯人が持ち去ったのか?犯人は体に触れずに刺したのか?川原がそうしてくれと頼んだのか?ならばなぜ?」
後藤はいつの間にか独り言をぶつぶつ呟いていた。
「液化する?もしくは気化する凶器か?それも考慮しなければな」
後藤は呟き続けた。
「えらく悩んでますね?」
平井が他人事のように言う。
「君も少しは考えろよ」
思考を邪魔されて後藤はムッとなった。
「だからオカルトですって。これは超現実の世界が絡んだ犯罪ですよ」
平井は案外真顔だった。
「あのなぁ、刑事ごっこしてるんじゃないぞ!私らは」
平井の真顔にバカにされたように思った後藤の言葉はきつかった。
「すみません」
平井はうつむいて謝った。目が暗かった。

それから署の最寄駅まで、二人は無言で歩いた。
「なぁ、一服しないか?」
気まずい空気に耐えかねて後藤が言った。
ここでコンビの波長が狂ったら、捜査に差し障ると思った。
「いいですよ?」
平井の語尾が上がっていた。
拗ねてるな。
後藤は思った。
「さっきは言い過ぎた。君の意見を交えて、整理したいんだ、頭の中をな」
駅前のカフェに入ってコーヒーを注文した。
コーヒーが来るまでに平井が口を開いた。
真顔の続きでこう言った。
「さっきオカルトだって言ったのは、単なるおふざけじゃないんです」
平井がこれだけ長く、とは言ってもほんの30分ほどだが、真顔のままいるのは後藤の記憶では初めてだった。
普段はほとんど軽口の中で生きているような奴だ。どちらかというと生真面目な後藤は、正直こいつと仕事はしたくないと思っていた。
平井は真顔を続けた。そして
「僕には姉がいます。もう亡くなってますが。色白で可愛くて、ふくよかで優しくて、活発な姉でした。学校でも結構モテてたし、僕の友人に姉を好きな奴もいました。僕は誇らしい反面、嫉妬もしました」
と長い独り言のように言った。
後藤は細かいことが気になるたちだから、亡くなっているなら「姉がいます」
ではなく「いました」と言うべきだろうと思った。他はみんな「ました」で括ってるんだからと。
そんな後藤を見て平井は
「後藤さんのことだ、姉がいましたと言うべきだと、心の中でダメ出ししたでしょうね」
と言って微笑んだ。
後藤は意表を突かれてハッとしたが、取り直して
「よく分かるな」
と苦笑いした。
コーヒーが来た。コーヒーが置かれる間の沈黙を挟んで、平井が話を続けた。
「そんな姉は高校の頃に、筋肉がどんどん減って行く難病にかかりました。今の医学では手の施しようのない難病です。最後は瞼も開けられなくなり、呼吸も出来なくなって死に至ります。当時僕はまだ小学5年生でした。異性を意識し始める時期に、いちばん意識したのが17歳の姉でした」
「初めて聞いたよ、お姉さんがいたこと。でもお姉さんはいるんだよね?さっき私を指摘したところを見たら。それは君の心の中にだろう?」
「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」
平井はそう言ってうつむいた。そして難しい顔をしてブラックコーヒーをひと口飲んだ。
後藤もコーヒーカップを手をした。そして
「そうでないかもとは?」
と聞いた。
「姉が亡くなる少し前でした。僕は母親と姉のいる病院にいました。その頃の姉は痩せ細って歩くことも手指を動かすことも出来なくなっていました。目も開けられませんでした。母親はずっと病院に詰めて姉の世話をしていました。僕もそうしたかったのですが、学校があったし。それでも毎日、見舞いには行っていました。なんか衝動的に姉に会いたいんですよね。痩せ細っても、姉を好きでした」
「初恋のようなものか?」
「それこそ不謹慎ですがね」
二人はコーヒーをすすった。
「その日は天気がよくて。あぁ、春でしたね、暖かい日だった」
平井は宙を見て言った。
「珍しく姉が外へ出たがったんです。もう、口を動かすのも困難で「ガー」とか「ヴェ」とか「カ」とかの音しか出せなかったんですが、母親と僕にはその組み合わせと姉の頭の揺れで何を求めているか大体分かりました。あぁ、天気がいいから外に連れて行ってほしいんだと」
そこで看護師さんを呼んで姉を車椅子に乗せ、看護師さんに付き添ってもらいながら病院の中庭に出たんです。
看護師さんが車椅子を押し、母親が脇に付きました。僕は前を歩いていて、外に出た途端あんまり気持いいから速歩きになり、しまいには駆け出したんです」
「フー」と息を吐き、平井は話を続けた。
「その時、背後で悲鳴が上がったんです。驚いて振り返ると、姉が走って僕を追ってるんです」
「歩くことが出来なかったんじゃないのか?」
「そうです。立つことさえ出来ないのに」
「走った?」
「はい、確かに走って来たんです。そして転倒して気を失いました」
「確かなのか?」
「確かなはずでした」
「はず?」
「僕は駆け戻って、気を失って倒れている姉を抱き起こしました。そして顔を上げたら、車椅子の真ん前だったんです」
「真ん前?君とお姉さんはどれくらい離れていたんだ?」
「10数メートルはあったと思います」
「駆け戻ったのは?」
「3メートルもありませんでした。ほんの数歩でしたから」
「なのに車椅子が真ん前にあった?あ、看護師さんが追いついたんじゃないのか?」
「初めはそう思いました。でも看護師さんは姉が車椅子に座ったまま急に前に倒れ落ちたから悲鳴を上げたと言いました」
「だったらお姉さんは、走るどころか立つことさえしていなかったのか?」
「そうなります。でも確かに走って来たんです」
「君が戻った距離を思い違いしていないか?」
「あの時、看護師さんにもそう言われました。でも違う。姉は走ったんです。僕はそれに驚いたんです。結局、看護師さんとは水掛け論に終わりました」
「看護師は君が駆け戻るのを見ていなかったのか?」
「看護師さんも母親も、倒れた姉に目が行って、僕のことは見ていませんでした。見たのは僕が姉を抱くところからでした」
「しかし誰かが思い違いしているとしか考えられない話だなぁ」
そう言って後藤は宙を見た。
「現実的ですもんね、その方が。僕もどちらかの思い違いなら救われるんです。ただ」
「ただ?」
後藤は平井を見据えた。
「母親も、姉がその場で倒れたと言うんです。だから思い違いは僕の方が可能性は高い。でも姉は走ったんです。開かないはずの目を目一杯開けて僕を見たんです。あの目は確かだ!そしてあの目は今も生きているんです!」
平井は興奮していた。
そしてコーヒーを一口飲み、自分を落ち着けるように改まって、後藤に問いかけた。
「これがどちらも間違ってないとしたら後藤さん、これはどういうことでしょうか?」
後藤はしばらく目を閉じて考えた。そして
「四次元…時空の世界だな。まるで夜空の星だ」
と言った。
「夜空の星?」
「あぁ、空に見える遠い星は、何千光年も先にあるという。これは光が地球に届くのに、何千年もかかることを意味してるんだ。ということは、今見てるその星は何千年も前の星ということになる」
「何千年も前か…」
平井はまた宙を見た。そしてこう聞いた。
「その間に、その星が無くなっていたら?」
後藤は答える。
「無くなった時が地球に届くまで光り続けるんだ。星は無いけどね、光は時間の中に残る」
「存在しないのに光っている星…」
「矛盾してるだろ?」
「確かに矛盾してます」
「私らがいるのは三次元の世界だ。縦横斜めの立体の世界だが、この星の話の矛盾が成立するのが三次元に時間と空間、つまり時空が乗った四次元の世界なんだ。星は立体だろ、存在しない立体が時間を超えて夜空に見えているんだ」
「なるほど」
「君の話はこれに似ていると思う。だがなんで過去の話を今したんだ?」
後藤は改まって聞いた。
「この事件の現場を見た時、僕も後藤さんと同じ疑問を持ちました」
後藤は少し驚いた。
「どんな疑問だ?」
「犯人が被害者に触れた痕跡が無いということです。これはもしかしたら、いないはずの奴がやった犯罪じゃないかと。そう思う根拠があの日の姉の記憶にありました。だからです」
そういうことかと、後藤は納得しつつも
「あの時君は、被害者の弁当を茶化してたね?茶化しながらそう感じてたのか?」
後藤は自分が平井をたしなめた場面を思い出して尋ねた。
「そう感じたから茶化したんです」
「ん?どういうことだ?」
「一瞬、姉のあの目が見えたから、そんなはずないと茶化したんです。いないはずの奴なんていないんだと思いたかったんです。後藤さんに注意してもらって、現実に戻りたかったんです」
普段、平井が軽薄な言動をしていたのは、姉の記憶の否定だったのかと思いながらも後藤は、ぬるくなったコーヒーをすすり切って
「ならばまた君を叱ろう。まず私たちは現実の痕跡を捜査すべきだ。君の思いは奥の手に取っておこう…犯罪も法も、三次元のものなんだ。四次元の話は悲しいかな三次元は納得してくれないよ…ずいぶん時間を食った。被害者宅に向かおう」
と平井の思いを振り切るように言った。
「はい…」
平井は素直に、しかし力なく席を立った。
同じく席を立つ後藤は、それ以上に力なかった。

社員証にあった川原の勤め先に問い合わせて、住所は分かっていた。
会議の後すぐに後藤が勤め先に電話を入れた。
勤め先は中堅の建設会社だった。
川原は46歳、この会社の営業部長であることは間違いなかった。
社内には今回の事件でかなりの衝撃が走ったようだ。
電話は窓口から総務、人事、川原の所属する営業部へと回された。
その度に後藤は、応対者に事件の内容と捜査方針を話した。応対者は一様に「信じられない」「あり得ない」を口にした。
川原の人となりからは、自殺も他殺もあり得ないという答えだった。
川原は不正を嫌い、場合によれば上司に意見するが、部下や委託業者、下請業者に対してはむしろ敬意をもって接する人格者らしかった。だから人に恨まれるなどあり得ないということだった。
部下には人生に目的と希望を持てと日頃から言い、自らも楽しんで仕事をしていた。だから自殺するはずなど微塵もないと、電話に出た営業課長は話していた。
これらの話の詳細は、改めて勤務先担当の刑事が持ち帰るだろう。
続いて後藤は勤め先で聞いた川原の自宅の電話番号へ電話を入れた。
か細い女性の声が出た。
事件のあらましを伝え、これから伺う旨を伝えた。
女性は川原の妻らしかった。
電話の向こうで動揺していた。
電車を3回乗り継いだ先の郊外の町に、川原の自宅はあった。
その自宅は、中堅企業の部長宅にしてはずいぶん質素だった。
二階建ての一戸建ちではあるが正面から見た家の幅は5~6メートルほどで、庭も門扉も無かった。
なんとなく川原の人柄を感じた。
後藤は玄関脇のインターホンのボタンを押した。後ろに平井が並んだ。
「はい」と言う、か細い女性の声がスピーカーからした。先ほどの電話の声だった。
「連絡を差し上げた警察の者ですが、よろしいでしょうか?」
と後藤が言うと
「はい、ただいま」
と女性は答えた。
少し待って、玄関のガラスの引き戸に人影が映ると、鍵を開ける音がした。
引き戸が開いた。地味な感じの女性が立っていた。
細身の小柄で、肩くらいまでの黒髪をひっつめにしていた。
白いシャツに水色の毛糸のカーディガンを羽織り、ベージュのスカート、茶のソックス履きだった。
とても部長夫人には見えなかった。
刑事は警察手帳を示して、先に言った事件のあらましを繰り返した。そして、まずは署に行って遺体の確認をしていただきたいと告げた。また遺品の確認もあわせてしていただきたいとお願いした。
女性は「本当に主人なんですか?」と聞いたほかは、否定らしき言葉は言わなかった。
焦燥していた。
平井がパトカー要請の電話をした。パトカーを待つ間、家に入れてもらうことにした。
玄関を入り、すぐ右側の部屋に通された。八畳ほどの和室だった。表に面したガラスサッシ側にささやかな床の間があり、その続きにに仏壇があった。花が飾られ、小さな写真が写真立てに入っていた。
「お茶をお持ちします」
女性は部屋の真ん中に置かれた食台の前に座布団を出し、2人に勧めて部屋を出た。
襖が閉まった。
「赤ん坊みたいですね」
座布団に座りながら仏壇の写真を見た平井が言った。
「そうみたいだが、今は聞けないな」
後藤が言った。
「あの、また不謹慎ですが…」
平井が呟く。
「君の不謹慎には意味がありそうだな。またお姉さんのことを思い出したか?…いいよ、言ってみたまえ」
後藤は平井の不謹慎をとがめられなかった。
「えぇまぁ…いや、この赤ん坊の写真から感じるところがあったんで…あぁいや…じゃ不謹慎なこと言いますよ。思うんですよね、現場で見た被害者の顔、悲惨な状態でしたが結構イケメンだったと。それに引き換え、奥さん、お世辞にも美人とは言えませんね?どっちが好きになって、どうやって結婚したんでしょうね…って、ホント不謹慎ですが」
平井は言ってうつむいた。
「しっかり不謹慎だ。絶対奥さんの前では言うなよ」
後藤はたしなめた。
襖が開いて女性が部屋に入って来た。お茶を出し、遠慮がちに刑事から離れて座った。
「恐れ入ります」
後藤は言い、お茶を一口飲んだ。そして
「まだお気持ちの整理がついていないでしょうが、ご主人の社員証がありました。ただまだ事件の被害者がご主人とは確定はしていませんので、ご足労いただこうと思い参りました」
女性はうつむき、だまって聞いていたが
「昨日の朝、主人は出社したまま戻っておりません。連絡もありません。今朝、会社に問い合わせてみました。今日はまだ出社していないという返事でした。何かあったのかと思い、捜索願を出そうかと思っていたところです。ですからおそらく、それは主人だと思います」
と言った。少し気持ちが落ち着いているようだった。そんな女性の様子を見て後藤は切り出した。
「おこがましいお願いがありますかよろしいでしょうか?」
「なんでしょうか?」
「迎えが来るまでの間、ご主人のお部屋があれば見せていただきたいのですが。捜査の助けになるものがあるかも知れません」
と言い、すぐに
「とは言え、先ほど申し上げた通りまだご主人とは確定していませんので無理にとは申しません。本当におこがましいことを言い、申し訳ありません」
と付け加えた。
女性は
「部屋はございます。わたくしも覚悟はしております。ご参考になるならご協力します」
と言った。

女性の案内で被害者の自室に入った。
2階の表に面した六畳の和室だった。
そこは洋間のように無機質だった。
家具といえば表向きの窓の下に木の机と椅子がある以外、何も無かった。
唯一の電化製品はクーラーだけで、それだけにその立体が目立っていた。
「手がかりを見つけるのは簡単そうだ」
平井がまた不謹慎に言った。
たしかに簡単そうだ。机しか調べられそうなものはない。
一応押入れがあるが
「ここには?」と後藤が女性に聞くと
「布団が入っているだけです」という答えだった。
「失礼します」
後藤が押し入れの襖を開くと、まったくその通りだった。
念のために畳の上に布団を広げてみたが、人が寝る空間が出来ただけだった。
「やっぱり机ですね」
平井が言った。
「らしいな」
後藤は机を調べ始めた。
机は古めかしい木製で、まず広い引き出しがひとつ、その右脇に狭い引き出しが三段あるオーソドックスな形状だった。
三段の引き出しの一番下はかさが高く、その下部にどうも自前で後付けしたらしい鍵穴があった。
「なんか不自然な鍵ですね」
そう言って平井が引き出しを開けようとしたが、鍵がしっかり掛かっていた。
鍵穴は横向きだった。どうやら引き出しの下の梁に穴を開けて、そこにラッチが掛かっているようだ。市販の錠を横向けに付けたようだ。何とも不自然な錠だ。そこまでしてこの引き出しに被害者は、何を入れているのだろう?
「そういえば被害者の遺留品に鍵がありましたよね。ここの鍵じゃ?…」
平井が言うまでもなく後藤もそれを考えていた。
「あの鍵だ」
記憶にある鍵の形状が、この鍵穴に一致しそうだ。
とりあえず鍵のない他の引き出しを平井と共に開けてみたが、出て来たのは筆記用具と何も書いていないレポート用紙で、後はみんな空気だった。
それだけに一番下の引き出しにあるだろう物の重みが増した。
「署に行ったら鍵を持ってまたここに来よう、奥さんを送りがてらにな」
後藤は平井に言った。
ほどなく迎えのパトカーが来たので、刑事は女性を伴って署に戻った。
遺体はまだ司法解剖から帰っていなかったので、現場写真と遺留品で本人確認をしてもらった。
女性は写真を見て卒倒しそうになった。
無理もない、凄惨で恐ろしいほど滑稽な死に様の写真なのだから。
「主人に間違いありません」
それでも女性は目と口に目一杯の力を込めて写真を睨み言った。
女性の名前は川原幸恵といった。
被害者は彼女の夫、川原ろくろで確定した。
その後、遺留品を確認してもらい、確定の裏付けが出来たところで、その中から例の鍵を携え、今度は平井が運転する車で、後藤は幸恵を伴い川原宅へ向かった。

家に戻り次第、幸恵の同意を得て、手袋をはめた平井が遺留品の鍵を、例の引き出しの鍵穴に差してみた。鍵はなんなく回り、ラッチが外れた。
「やはりここの鍵だったのか」
後藤が呟いた。
引出しは重かった。引き出すのに結構力が要った。
中には本がぎっしりと立てられていた。
「心理学にスピリチュアルぅ?こいつは仏教書ですか?引き寄せの法則?あ、これは脳医学っぽいなぁ」
次々と本を引き出しながら平井が独り言を言う。
「おい、声を立てるな」
後藤は、部屋の入口の襖のそばに遠慮がちに座っている幸恵に配慮して、ヒソヒソ声で平井に注意した。
「あれ?これはなんだろう」
平井のヒソヒソ声と共に最後に引き出されたのは、1冊のノートだった。
平井から受け取ったノートを、後藤はパラパラとめくっていたが「ん?」と、途中で手を止めた。
「スクラップですか?」
そばから平井が覗いた。
「古い新聞記事だな」
「一家惨殺?」
「みんな同じ事件の、複数の新聞記事の切り抜きだな」
「読んでもいいですか?」
平井はこの記事だけでなく、先に出て来た様々な本まで、ここで開いて読みたそうだった。どうやら姉の件が絡んでいるようだ。
後藤は、先ほどから幸恵が、今にも居眠りそうな様子であることが気にかかっていた。かなり疲れているのだろう。
平井の勝手は許されない。
「奥さん、お疲れでしょう。私らはこれで引き上げますので、今日はもうお休みください。引出しの物だけ、持ち帰りますがよろしいでしょうか?」
と声を掛けると、幸恵は一瞬ハッとして「え?あ、はい」
と力なく言った。
「また進展があり次第ご連絡します」
後藤は手短かに言い
「平井君、本とノートをまとめてくれ」と、記事に目をやる平井に命じた。

帰りの車は後藤が運転した。
平井は抱えた本の束の上に例のノートを載せて、助手席で読みふけっていた。その目は真剣で、普段見るあの半分笑ったような目ではなかった。
開いているのは、新聞記事のスクラップページだった。
「川原さんの親兄弟は惨殺されていたんだ…」
ポツンと言って、平井は記事の内容を読み上げ始めた。
「19○○年12月○○日午後7時頃、△△市××町の会社員川原秀則さん(36)宅の居間で、秀則さんと秀則さんの妻早苗さん(33)、長男ろくろ君(10)次男なずな君(6)長女まいちゃん(2)が血を流して倒れているのを、所用で来た隣人が見つけて110番通報した。秀則さん、早苗さん、なずな君、まいちゃんは既に死亡していたが、ろくろ君は腕や背中など数ヶ所に刃物で切られたと思われる傷があったが命に別状はない模様。
警察は、ろくろ君の回復を待って事情を聞くことにしている。現場は△△鉄道××線△駅から…」
「スクラップはこの事件の記事を時系列に並べていますね…今のは一番初めの記事です。次はぁ…」
「○○日に××町で起きた川原秀則さん一家殺傷事件において、凶器は現場から見つかった出刃包丁とみられると警察は発表した。なお包丁は被害者である早苗さんが握っていた点も、あわせて発表された。この点から警察は、早苗さんが無理心中を図った可能性もあるとみて引き続き捜査している」
「こっちはもう少し細かく書いてあるな」
「…犯行は一家の夕食中に起きたと見られる。秀則さん、なずな君、まいちゃんは、居間の食卓を囲むような形で倒れており、早苗さんは居間の出入口付近でろくろ君に覆い被さるように倒れていた。また、早苗さんは凶器と思われる出刃包丁を握っていたことから、警察は早苗さんが秀則さんら3人を殺害した後、ろくろ君を殺害しようとした可能性もあるとみて捜査している」
「こちらには川原さん…ろくろ少年の談話が書いてある…」
「…ろくろ君(10)の回復後に警察が聞き取った話では、○○日の夕食中に急に母が立ち上がって台所に行った。調味料か何か取って来るんだろうと思っていたら、包丁をぶら下げて立っていた。何が何だか分からないうちに母はいきなり食事中の弟の背中を何度も刺した。弟は茶碗を持ったまま横に倒れた。次に母は父の所へ行った。父は何か叫んで立ち上がった。膝にのせていた妹を慌てて抱き上げていた。急なことにびっくりしたんだろう。妹は背中を向けて泣き叫んでいた。その妹の背中には母は包丁を刺した。途端に鳴き声がなくなった。父は妹を抱いたまま仰向けに倒れた。僕は逃げようとした。母は倒れた父に馬乗りになって何度も胸や腹を刺した。怖くて僕は動けなくなった。でも廊下に這い出ようと四つん這いになった。何回か背中が痛かった。切られたんだと思った。僕の背中に母が覆い被さって来た。もう死ぬんだと思った。すると急に背中が重くなって気を失った。気が付いたら病院にいた」
「残酷な話だ…」
ハンドルを握りながら後藤が呟く。
「こんな過去があって、また今回本人も刺殺されたって、どうにもかわいそう過ぎて…」
平井も絶句した。
「この本の数々は、そんな過去の記憶から何とか立ち直ろうとした試みなんでしょうかね?」
平井が呟く。
「さぁ、どうだろうか?普通に考えたらそう思えるが」
後藤はじっと前を見ながら言う。
「なんか引っかかる」
後藤が呟く。
「何がですか?」
「いや、あまりにも少年の記憶が明白な点がね」
「はぁ」
「目の前で信じられない光景が起こった時、人はそこまでその場面を記憶出来るのかなと思ったんだ」
「なるほど、そう言われればそんな気もしますが」
「とにかく署に戻って、まずはそのノートを分析しよう」
無意識に後藤はアクセルを踏み込んでいた。
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