クルイアイ

くらうでぃーれん

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3・幸せな殺意

1-1

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 ――準備は整った。

 思いつく限りの道具は揃えたし、思いつく限りの方法も模索した。様々な場合の対処法も考えたし、その中で最良の手段を選んでいるつもりだ。

 そして今日は遂に、行動を起こそうと決めた日だった。

 しかし実は、そう思った日はすでに何度目かだったりする。

 普段なら他人の目などという下らないものは無視するマナだが、今回ばかりは人目を無視するわけにもいかない。見つかってしまえば、ユイとの幸せな生活に水を差されることになってしまう。そんな鬱陶しいことは、絶対にされたくない。だから慎重になっての、数回目。

 今回も都合よく最良の条件がそろうかどうか分からない。1つでも悪い要素が加わればすぐに諦める必要がある。
 緊張はなくとも、失敗は許されない。ユイの為にも。

 ただ今日は何となく、良い夜だと思った。
 月明かりは薄く、辺りはしんと静まり返っている。空気はわずかに湿り気を帯びていて、雨が降りそうな気配がある。

 良い夜だと思った。そして同時に、嫌な夜だと思った。
 ユイの笑顔を思うと嬉しいし、ユイのことを想うと幸せな気分になれる。だけどだからこそ、今ここにユイが居ないことをひどく寂しいと思った。

 暗い夜道で、たった独り。
 淡く輝く月を見上げて、マナは小さく溜め息をついた。

 まるでユイと出会う前の頃のようだ。周りには誰もいなくて、マナはいつも独りだった。
 あの頃は他人が苦手で、本当は色んな人と話がしたかったのに上手く喋ることができなくて、結果誰も側に居てくれなくてすごく寂しかった。ずっと、友達が欲しいと思っていた。
 不意に昔のことを思い出してしまって、あの頃の気持ちに戻って、

 ――バカみたいだと思った。

 誰かと話して、友達を作って、それでどうする気だったのだろう。たくさんトモダチを作ってしまえば、それだけ自分の気持ちを分散させることになる。そのトモダチ全員とずっと一緒にいられるわけじゃないのに、今日はあの人明日はあの人って、そんなんじゃ誰のことが一番大切なのか全然分からない。

 それにそんな大勢のこと、全部信用できるはずが無い。あの頃のたった1人のトモダチのような何かでさえ、気づくといなくなっていた。

 だから、求めるのは1人だけでいい。本当に信じられて、本当に愛していて、全てを捧げることができて、ずっと一緒に居たいと思える、誰よりも大切なたった1人。

 それに気づくことができているのはきっと、この世でユイとマナしかいない。それ以外の全ては、下らない中途半端な関係を良しとしている。

 だから、死ねばいいと思う。

 大切なものも分かっていなくて、そんな下らない考えしか持てない下らない人間なのだから、死ねばいい。

 ――足音がした。
 思考を中断させてちらりと目を向けると、男がこちらに向かって歩いてきていた。いつもこのくらいの時間に帰ってくることも、自宅から少し離れた場所から歩いて帰ってくることも把握済みだ。

 ‥‥なんて不愉快な情報なんだろう。今日で、ちゃんと終わってくれるかなあ。

 周りを見回す。男以外の姿は無い。耳を澄ませてみても、人の気配は感じられない。焦ってはいない。苛立ってもいない。
 それを自覚した上で、今が絶好の好機だと思った。

 不自然に身を隠そうとはせず背を預けていた塀から体を離し、男の背を追った。足音を殺しもしないし、急ぎ足にもならない。平静を装うまでもなく、マナの気持ちは落ち着いていた。

 歩きながら、手袋をはめる。上着の内側を確認して、きちんと包丁が収まっていることを確かめる。
 男がわずかに後ろを振り向く。マナの姿を認めて、すぐに前に向き直った。

 これから自分が死ぬことになるなんて、考えてもいないのだろう。まして背後にいるのは面識の一切ない女。もしこの男がコンビニに来ている客であれば、もしかするとマナに見覚えがあって何かしらの反応を示すかもしれない。

 だけど知らない相手だから、男の意識に留まらない。一見普通の女だから、警戒心を抱かない。
 無警戒な背中が滑稽だった。ネコのほうがよほど聡明だ。

 とん、とん、とわずかに歩調を速めて男の背中を目前に捉えると、おもむろにその左頬に手を触れさせた。

 ――気持ち悪い。ユイ以外に触れるなんて。

 手袋越しとはいえ、ユイのではない体温を感じなければならないなんて、気持ち悪い虫に触れている時と同じくらい不快な気分だった。全身からぶつぶつと鳥肌が浮き出るが、どうにかそれも我慢する。

 突然のことに男は驚いて、触れられた左側を振り向こうとした。

 ――右側が死角になったことに気づくことなく。

「――――――‥‥っ!」

 ひゅう、と男の口から空気が漏れた。声を上げられるのが一番厄介だと思ったから、声帯を掻っ切ってやった。丁寧に手入れをしていた包丁は、深々と男の喉に突き刺さっていた。

 何が起こったのかも理解できないのだろう。男は血を噴き出しながら、喉をまさぐるようにもがいている。しかしマナや包丁に触れるその手は、力なく痙攣しているだけ。

 あとは、引き抜くだけでも命を奪うことは可能だろう。だけど少しでも生存の可能性を排除するために、逆手に持った包丁をそのまま肉の中で掻き回す。ぐしゃぐしゃと湿った音を立てながら、大量の血が噴き出し始めた。

 手を伝って、血が滑り落ちる。着ている服の吸水性は悪くないおかげで、血を含んでも滴り落ちる量は少ない。背中から襲っているおかげで、返り血もほとんど浴びてはいない。

 致命的なのは確かだが、男はまだ生きている。運良くとか、奇跡的にとか、そんな要素を介在させるつもりは毛頭ない。十分に掻き回して一度引き抜くと、もう一度別の場所を掻き切った。けれど切れ味が極端に悪くなり、上手く引き切ることができない。小さく舌打ちをして、喉元に強引に突き刺した。

 引き抜いて、男の背中を蹴る。男は抵抗なく前のめりに倒れ、闇に沈んだ街に重い音が響いて消えた。その体は小さく痙攣を繰り返している。

 素早く右袖を引き千切ってその布で包丁の血を拭う。それらをまとめてビニール袋に詰め、買い物袋に放り込んだ。手袋を外して手に血が付着していないことを確かめると、上からもう1枚服を着る。地面を確認すると、前方には大きく血溜まりが広がっているが、こちらの足元にまでは及んでいない。

 男を確認すると、その身体はすでに痙攣することすら止めていた。死んでいるのか、死にかけているのかは分からないが、どちらにせよ助かる見込みは皆無だ。

 動かない男の背を見下ろして、マナは苦笑に似た笑いを漏らした。

 ユイの言うことはいつだって真実だけれど、人を殺すというのが簡単というのは本当だった。マナの細腕ですら、こんなにもあっさりと殺すことができたのだ。ユイにストレスを与えておいて、死ぬ時はこんなにもあっさりと死んでしまうなんて、何様のつもりだ。こんな男、死んで当然。むしろもっと苦しんでも良いくらいだ。

 思い切り背を蹴りつけてやりたかったが、中途半端なことをして下手に証拠を残すことになってしまっては目も当てられない。警察がどこを調べてどんな証拠を検出するのかまでは、マナもよく知らない。だから無駄なことをするのは控えて為すべきことだけを行うべく、気持ちを落ち着ける。ユイの為を思えばその程度の感情整理など造作もない。いつもはユイの為に激情を爆発させているという事実は、都合よく忘れておく。

 マナは手早く別の手袋をはめると、事前に近くに置いておいたブルーシートで男を覆った。それ以上の処理はしない。事件はすぐに発覚するだろうけれど、処理をしている間に誰かに見つかれば最悪だし、処理する過程で思わぬ証拠を残してしまう可能性もある。だから作業は可能な限りシンプルに。

 殺すのに数十秒、後始末に十数秒。全ての工程に1分もかかるかどうかという早さで、マナはその場を後にした。
 それほど早くに終わらせられたのは周到さゆえでも慣れでもなく、ただ躊躇いも罪悪感もなく、やるべきことだけを淡々とこなしたから。

 その場を離れるのに急ぎ足になることはなく、恐れに体を震わせることはなく、狂気に歪んだ笑みを浮かべているわけでもなく、そこにあるのはあまりにもいつも通りのマナの姿だった。
 感慨も達成感もなく、唯一抱いているのは、ユイ以外の人間に触れてしまったという不快感と嫌悪感だけ。

 そしてそうしようと思っていた通りに、その場を離れるマナの記憶からは早くも、男の存在はほとんど抹消されていた。例え今目の前に同じ顔をした男が現れたとしても、マナにはそれが誰なのか認識することも難しいだろう。

 早くユイに会いたい。ユイに触れたい。ユイを求めたい。

 ただそれだけを想いながら、マナはアパートへと帰ってゆく。

 ――ぽつりと、鼻先に水滴が触れた。それはすぐに顔へ腕へと降りかかる。

 ほどなくして、雨が降り始めた。通り雨のような大雨ではない。すぐに止むことはなさそうだと、マナは満足げに笑みを浮かべる。

 雨は人の注意力を散漫させる。学校や仕事の帰り道、雨が降っていれば少しでも早く帰ろうと足を速める者が大半だろう。道中に少々見慣れないものがあろうと、なんとなく道路が赤く汚れていようと、わざわざ注意深くそれらを確認しようとする者は確実に減る。

 やはり、今日は良い夜だ。マナは濡れる身体を気に留めることもせず、雨粒が舞い落ちる空を見上げた。

 月の見えない夜は視界を黒に染め、道路を叩く雨粒の音は人の声を遮る。

 何も見えず何も聞こえないなら、ユイを想うことに集中出来る。だから今夜は、素敵な夜だ。
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