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第二部 生と死の境

第40話 闘争界の異変

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 きびしい光が明人の目をくらませた。
 風のかわきが砂とともに鼻をついた。

「む……」

 右手を日よけに影を作り、いったんつぶった目を開けると、周囲が高い土の壁に覆われていると気づいた。左右は完全に行き止まりだ。前と奥だけ、ぐねぐねと曲がった道が続いている。
 どうやら塹壕にいるらしい。
 闘争界に入ったのだ。
 運が良い。前回はだだっ広い荒野のど真ん中に出たおかげで、いきなり狙撃される羽目になったのだから。

 隣にベルも出現した。
 こちらも厳しい日差しにいきなりさらされ、ウッと目をすぼめていた。
 どことなくコミカルな仕草におかしみを感じつつも、

(変だな?)

 明人は首をかしげた。
 昨日と様子がちがう。

 左右の土壁が白っぽいことに気がついた。
 乾ききっているのだ。昨夜は水を含んで泥っぽく、もっと色が濃かった。

 しかも静かだ。
 ゆうべはすこし耳を澄ませれば、すぐに銃声や砲声が聞こえてきた。
 ところが今は静まりかえっている。
 風に吹かれて散る砂の、パラパラと壁を伝って落ちる音さえもが、よく聞こえた。
 まるで人の絶えた遺跡のようだ。

「明人、見ろ。おかしいぞ。空が青い」

 ベルが鉾で空を指した。
 言われたとおりに仰ぎ見て、気がついた。

「本当だ。青いね」

 雲一つない。黒煙もない。
 空になにもない。
 不気味なくらい透きとおったコバルトブルーが、塹壕の底から見える範囲すべてを覆っている。
 無の空間がどこまでも続いているその様子は、美しいが虚ろだ。
 さえぎるもののなくなった強い日の光が、あたりをあぶりつづけていた。

「よっ、と」

 そんな愛らしいかけ声とともに、着地音がした。
 千星だ。見るまでもなく声でわかった。あの軍服風の姿をしていた。軍刀もちゃんと提げている。
 うまく入界のタイミングを合わせられたようだ。今日は千星としめしあわせて、ベッドに入る時間を同じ11時にしたのだ。

 簡単に挨拶を済ませたあと、千星が聞いた。

「うまく合流できたね。私、遅れなかった?」

「だいじょうぶ。俺も今来たとこ」

「よかった」

 と千星は嬉しそうに微笑んだ。
 態度があきらかに柔らかくなっている。以前のどことなく近寄りがたい雰囲気もない。
 たたずむだけで塹壕の底さえも華やかになる、世田高男子一同の夢がそこにいた。

(ちーちゃんは素敵だなあ)

 つくづくそう思った。
 もちろん前から素敵だと思っていたのだが、それは今感じている思いとは別物だ。
 以前の明人にとって、千星はテレビで見ているアイドルのようなものだった。素敵だとは思っていても、あくまで手の届かない場所で動くコンテンツにすぎなかったのだ。
 だが今は違う。笑ったり怒ったりする、すぐそばで息づかいを感じられる女の子がそこにいるのだ。

(チョロいのかな俺。いや、ちーちゃんが魅力的だからだな。他の女子にはこんなことないし)

 なんだか照れてきて、腕を組んだ。
 昨日千星からもらった葦製の腕輪が手に引っかかった。装備が引き継がれているらしい。
 腕輪と言えば、アナの姿がない。ただ千星の胸に葦の輪のワンポイントがちゃんとついていた。最初から憑依しているようだ。

「さて。透良のところに向かう前に、まずグリーンハートだよね」

 と明人は言った。
 ベレッタたちの戦死をクランメンバーに伝えなければならない。

「うむ。さっそく向かうとしよう」

 とベルが言った。

「ちーちゃん、ここがどのあたりかわかる?」

「ううん。でも上の風景を見たらわかると思う。ちょっと待っててね」

 そう言うなり、千星は塹壕のなだらかな壁に張りついて、身軽に登っていった。
 ひょこっと首から上を出して、周囲を見回した。どこかプレーリードッグを思わせた。

「首を出して大丈夫?」

「うん。もしスナイパーに撃たれてもちょっと痛いだけだから。昨日のことを反省して、別の備えもあるしね」

「そっか」

 あらためてアナの加護の便利さを知った思いであった。
 明人が同じ事をすると、最悪、頭を撃ち抜かれる。

(俺もちーちゃんみたくベルに憑依してもらえればなあ)

 と思った。
 一応やれなくはないらしいが、やるとオーバーヒートして死ぬか廃人になるらしい。それではやれないのと同じだ。

「この塹壕、たぶんホームに続いてると思う。けど……ねえ、明人くん。ちょっと上がってこれる? 一瞬だけ見て欲しい」

「いいよ。ちょっと待って」

 明人が足場に苦労しながら千星の隣まで登っていき、首を出すと、千星は遠くの一点を指差した。

「ほら、あれ。なんだろう」

 指し示した先には、黒い風がうずまいていた。
 竜巻だ。いくつもの筋状の巨大な黒い雲が、らせん状にゆっくりと動いている。
 スケールの大きさに圧倒されそうだ。伝説の怪物、八岐大蛇ヤマタノオロチを思わせた。

 撃たれないようすぐに首を引っこめて、明人は口元に手を当てた。

「竜巻。けど、黒煙に似てる。あまり良いモノじゃなさそうだ」

「やっぱり明人くんもそう思うんだ。……なんだか嫌な感じがする。ね、グリーンハートに急ごう」

 千星も首を戻して、せっついた。その顔はいつになく不安そうであった。


◇ ◇ ◇


 墓地のように静まりかえった塹壕の中を、しばらく三名で歩いた。
 本当になにもなかった。
 襲ってくるモンスターも人もない。うなり声や銃声もない。
 あるのは乾いた大地と、透きとおる蒼穹だけだ。

「嫌な感じだ。うまく言えないけど、なにもかもが消え入りそうな感じがする」

 ぽつりと明人は言った。

「同感だ。昨日来た際も荒涼としていたが、それでも凶暴な生が満ちていた。今はそれさえもない」

 歩きながらベルが空を見上げた。
 明人もそうした。
 塹壕の下から見える青い空は、どこまでも透き通っている。

 千星はずっと無言だ。表情が硬かった。

 グリーンハートの拠点に続く階段前に着いた。
 緑のハートマークが目印の、あの場所だ。
 壁に銃剣で縫いつけられた白布を、千星が三枚ほど取り外した。

「はい、どうぞ」

 と自分の分をとった後で、一枚ずつ明人とベルに渡した。
 階段を登り、軍刀に結びつけた白布を高く上げて振った。

「ちーちゃんでもそれ必要なんだ?」

「念のためね。今日クランに入った人は、私の顔を知らないはずだし。いくら弾が効かなくても、同じクランの人に撃たれるのは嫌でしょ」

「それもそっか」

 待つこと、しばし。

「……誰も来ないね。気づいてないのかな」

「そんなはずないよ。最低でも一人はここを見張る決まりだもの。気づかないなんてことはありえない」

 千星が不安そうに手を握りしめた。

「なにかあったのかもしれない。見てくる?」

「……うん。そうする。撃たれたら危ないから、私が先頭に行くね」

 千星が階段を上っていった。が、

「うそっ!?」

 小さな悲鳴をあげ、体を強ばらせた。
 明人が呼び止める暇もない。すぐに駆け登っていった。
 いったいなにを見たのだろうか。

 階段の上から人影が伸びた。
 千星だ。だがその美しい顔が真っ青になっている。

「たいへん。二人とも来て」

「わかった」

 答えて、すぐに階段を上った。

「なっ……!」

 地上を見るなり、絶句した。
 クランの拠点であった廃ビルは、崩れ、焼け焦げていた。

 壮絶な破壊跡であった。
 コンクリの破片がうずたかく積もっている。残骸の山に、鉄筋がまるで墓標のようにいくつも突き刺さっている。
 かろうじて原型を保っている壁も弾痕まみれだ。
 尋常ではない砲火に襲われたにちがいなかった。

「周囲に人の気配がないな」

 ベルが隣に来て、ぽつりと言った。
 おそらく全滅したのだろう。襲撃時に中に何人いたかはわからないが、この様子では逃げることさえできなかったに違いない。

「透良に襲われたのかな」

 そう言った。
 これほどの破壊を行える存在はクイーンくらいだろう。おそらく透良は本気も本気で襲ったにちがいない。
 動機は、試し斬りだろうか。力を得た者は、力を使う誘惑に駆られるものだ。

「おそらくな」

「そう……ですよね」

 千星が震える声で言った。
 クランの惨状がショックだったのだろう。気丈であろうとしているようだが、感情までなくせるわけではない。

「ちーちゃん……」

 少しでも元気づけたくて、明人は千星の背に手を当てた。

「無理しないで。すこし休もう」

「ごめん。そうさせて」

 千星は素直にうなづいた。

「では明人よ、千星を頼む。私は警戒をかねて周囲を検分してくる」

「わかった、お願い。こっちは任せて」

 うむ、と相づちを打つと、ベルは身軽に残骸の向こうへと身を投じていった。
 力なく歩む千星を、明人は残っていた壁の後ろに誘導した。なにか座るもの、と探したら、

「使いなさい」

 とそれまで黙していたアナの声がして、ござに似た敷物しきものが地面にはらりと落ちた。

「ありがとうございます。ちーちゃん、座ろう」

「うん」

 敷物の右側に、千星がうずくまるようにして座った。明人もその隣にあぐらをかいた。
 それっきり千星はうつむいて黙りこんだ。きっと様々な思いが整理できないまま胸中を渦巻いているのだろう。

(聞きだすより、話しだすのを待つほうが良いか)

 そう思ったので、明人は黙っておいた。ただ彼女のそばにいた。

 前方に二階へと上がる階段があった。
 ただしその先に二階はもうない。柱だけは残っているが、後は崩れている。

 メンバーがいなくなり、拠点も潰えた。
 グリーンハートは終わったのだ。

「『殺すのも、殺されるのも、ここじゃ当たり前』」

 千星がまるでうわごとのように言った。
 言い方がベレッタに似ていた。
 まるで千星の心ががらんどうになって、ベレッタが言わせたかのようだ。

「一昨日、そう言われたんだ。この拠点に初めて来たときね。そのときは、私も『その通りだ。当然だ』って思ってた。多分、みんなも同じだったと思う」

「……そうだろうね」

 そう答えた。
 千星と違い、明人はグリーンハートのメンバーをすべて知るわけではない。
 だが少なくとも、明人が出会った人たちは、いま千星が語ったような人間ばかりだった。実際、クイーン討伐隊のメンバーは全員が志願者であった。誰もがある種の熱狂とともに向かっていったのだ。

「それが間違いだったとか、悪いことだったとか、そんなことを言う気はないんだ。みんな本気でそう考えて、戦って、死んでいったのに、それを今さらおとしめたり責めたりするのは、侮辱だと思うから」

「うん」

「だけど――」

 そう言いかけて、千星が顔を上げた。
 弱々しい瞳の先には、うずたかく積もったガレキの山がある。

「――知ってる人が殺されるのは、辛いね」

 千星は悲しげに目を細めた。目の端がすこし潤んでいた。

「そうだね。本当に、そうだ」

 殺したり殺されたりするのが当然。
 そんな価値観が正しいのか正しくないのか、明人にはどちらとも断じきれない。

 殺生の是非自体ケースバイケースだ。
 戦時には勧められるし、平時には禁じられる。
 讃える人もいれば、責める人もいる。そして、どちらも自分が正しいと主張する。結局どちらなのかわからない。
 だが、知っている人や、まして好きな人が殺されたら、辛い。
 少なくとも、それは間違いのないことだろう。

「明人くん、ごめん。近くに行っていい?」

「いいよ」

「ありがと」

 そっと千星が体を寄せてきたので、明人はその背に優しく手を当てた。
 千星は泣かなかった。変わり果てた拠点をうつむきがちに眺め、じっとしていた。

 彼女の悲しみが伝わってくる気がした。
 いや、たしかに伝わっているのだろう。そうでなければ今の明人の気持ちを説明できない。
 心は伝わるものなのだ。

(二人いると悲しみを半分づつにできるって言うけど、本当なんだろうか)

 そう思った。
 人に伝えれば悲しみが少しは和らぐのだろうか。
 自分がここにいることで、千星の悲しみが和らいでいるのだろうか。
 たしかめる術はない。それは彼女だけが知ることだ。
 だが、せめて少しでもそうであってほしいと、明人は願った。

「おい、大変だ!」

 ベルがおおあわてで駆けてきた。
 血相が変わっている。よほどのことが起きたらしい。

「どうしたの」

「透良の奴、闘争界にいる参加者全員に無差別攻撃をしかけている!」
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