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 自分には嘉島を喜ばせることなど、出来無い。
 それは百も承知で、己の立場を考えれば不可能だと云う事も分かりきっていたのに……いざ実感すると、悔しくて堪らない。
 もし嘉島を喜ばせているものが人間だったとしたら、この羨望は嫉みに変わるのだろう。

 ……嫌だな。どんどん、醜悪になってゆく。
 己の変化に嫌悪感すら抱き、蓮は無意識に小さな溜め息を零す。
 すると、車は速度を落として停まり、鋭い双眸が蓮へゆっくりと向けられた。

「……どうした、」
 菅田のことしか頭に無かったが、溜め息が聞こえた途端、嘉島の意識は素早く蓮へ向かった。
 笑みを消して怪訝そうに眉を顰め、冷ややかな声で尋ねる。
 蓮は慌てた様子でかぶりを振り、顔を背けた。

 ほんの少しだけでも、嘉島と視線が絡み合うと顔が熱くなって、鼓動が速まる。
 重症だと考えながら窓の外へ目を向けるものの、夜景が視界に入ると咄嗟に、車窓へ手を付けた。
 いつも窓の無い部屋で過ごしていて、外にもあまり出られない為、久し振りに見た夜景に視線が釘付けになる。

 眼下に広がる、橙色や緑色の細やかな光の粒。
 それらは派手な光でも無く、落ち着いた雰囲気を持つ夜景に、蓮はつい見とれてしまう。
 見せてくれるものとは、これの事だろうかと思うと、胸の奥が徐々に熱くなってゆく。
 無性に、嘉島に対して礼を言いたくなり、蓮は躊躇いがちに振り向いた。
 嘉島の鋭い双眸と目が合い、脈が速まりだすが、今度は顔を背ける事はせずに口を開く。

 ――嘉島さん。

 唇が動いたが、自分の声は耳に届かない。
 声を出せない事を改めて実感した蓮は、悲しげに眉根を寄せた。
 筆記するものも所持していないこの状況では、声が出せなければ、感謝の言葉を伝えることなど出来無い。

「何だ? ……今、俺を呼んだだろう。云いたい事が有るなら早く言え、」
 しかし嘉島は、蓮が自分の名を呼んだ事を、唇の動きから察した。
 沈んだ表情を見せた蓮に向け、傲慢な物言いで声を掛けて急かす。
 耳に届いた嘉島の言葉が、声を出さずとも理解って貰えた事があまりにも嬉しく、蓮の表情は自然と緩んだ。

 ――ありがとう、ございます。
 ほんの少しだけ口元を緩めながら、声の無い、感謝の言葉を告げる。
 嬉しそうに微笑むその表情から、嘉島は暫く目が離せなかった。

「……何の、事だ?」
 何故感謝されたのかが分からず、少し間を置いた後、怪訝な物言いで問う。
 蓮は目を見開き、続いて表情を困惑げなものに変えた。
 見せてくれるものが夜景では無かったのだと知り、勘違いしてしまった己を恥じ入りながら、車窓へ目を向ける。
 先程から蓮は、しきりに窓の外を気にしている。
 窓の外は特に変わった様子も無く、目立つものと云えば夜景しか視界に入らない。
 だとすると、外に連れ出してやった事を感謝しているのかと、嘉島は思案する。
 つまらない見栄と独占欲が有る所為で、蓮を連れて外出した事など数少ないのだから、久し振りの外出を喜んでいてもおかしくは無い。
 不意に、ほんの少しだけ笑った先程の表情が、脳裏に浮かぶ。

 もっとこいつを、喜ばせてやりたい。
 あの水槽を買ってやった時のような、嬉しそうな笑い顔を何度も見たい。

 ――こいつの本音を、聞いてみたい。
 強い願いを胸中に抱いた嘉島は、口を開き、低い声音で蓮の名を呼んだ。
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