『水槽』 武闘派ヤクザ×失声症の青年

葦原

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「……あれは、逃げますね。」
 それまで一切口を開かなかった田岡たおかが、静かな口調で呟く。
 殴り込む前に、己の命惜しさに逃げ出すだろうと見抜いたが、嘉島も同様の考えを抱いていた。
「ああ、だろうな。だが……どっちみち、あいつはもう要らねぇ。役立たずと腰抜けは、俺の組には必要無い。」
 小馬鹿にするように鼻で笑い、短くなった煙草を壁に押し付けてもみ消す。
 舞い落ちてゆく火の粉を目で追う嘉島の顔は、相変わらず不機嫌なままだ。

 嘉島が苛立っている理由は、菅田を中々捕らえる事が出来無いのと……一ヶ月以上も自宅に戻っていないからだろうと、田岡は思う。
 田岡の脳裏に、一昨日様子を見に行った際、淋しげな顔をしていた青年の姿が浮かんで、消えた。

「組長……一度ご自宅へ戻られたら如何ですか? もう一ヶ月以上、れんさんに会っていない事ですし」
 多少遠慮がちに声を掛けると嘉島は眉を顰め、不機嫌な色を強める。
「田岡、てめぇ……やけにあいつの事を気に掛けてるんじゃねぇのか?」
 鋭さを含んだ低い声が耳に入ると、田岡は苦笑したくなる。
 嘉島が嫉妬心を抱いているのは、誰が見ても明らかだと云うのに……あの青年を好きだと、口にはしない。
 長年嘉島に仕えて来た田岡は、嘉島が横暴で傲慢で、そして見栄を張る人物だと云う事を知っている。
 恋だの愛だの、そんなものを男相手に抱いている事など、嘉島の性格からして決して口には出来無いのだろう。

「ええ、気に掛けています。蓮さんは、組長の大切な方ですから」
「……馬鹿言え。あいつは、ただの玩具だ。愛人でもねぇ」
 吐き捨てるような言葉に田岡は一度、胸中で溜め息を零す。
 素直になれば良いものを……と考えるが、それはやはり、この男には無理な話なのだろう。

 ――本当に、扱い難い人だ。
 再度胸中で溜め息を零して腕時計へ目を通すが、田岡は不意に、ある事を思い出した。

「そう言えば、組長……蓮さん、最近ろくに食事をとっていないみたいです。体調でも崩されてるのでは無いでしょうか」
「……何だと?」
「気になるのでしたら、部屋住みの人間に様子を見に行かせますが……」
「……いい、放っておけ。」
 忌々しげに舌打ちを零し、嘉島は素っ気無い言葉を返す。
 だが言葉とは裏腹に切れ長の双眸は落ち着きが無く、何度か室内を見回した後、舌打ちが数回零れる。
 苛立ったように煙草を取り出すと、田岡がすぐさまジッポライターを目の前へ差し出して来る。
 が、半ば迷惑げにそれを手で遮り、嘉島は自分で火を点けた。

 蓮のことがひどく気になるが、誰かに様子を見に行かせる事を極力控えている理由の一つは、つまらない見栄だ。
 男を囲っていると云う倒錯的事実など体裁が悪く、その上、他から恐れられている武闘派嘉島組の組長ともあろう人間が、抱き人形を何よりも気に掛けている事など、知られたくは無い。

「組長、やはりご自宅に戻られて、ゆっくり休まれたらどうですか。蓮さんの事も有りますし……妙な病気に罹っていたら、面倒です」
 尤もな言葉を掛けられ、嘉島は居心地悪そうに視線を彷徨わせた。

 ――あの美しい抱き人形を、他の人間の目になるべく触れさせたくは無い。
 そんな子供じみた独占欲も有る所為で、医者に診せる際は必ず、嘉島が付き添う羽目になる。
 菅田を捕らえた際、付き添いが理由で身動きが出来無いとなれば、他の組員への示しもつかない。
 いささか迷うものの、やがて舌打ちを一つ零した後、嘉島は荒々しい足取りで進み出した。
「……菅田を見つけたら、直ぐに知らせろ。」
 苛立った口調で言葉を放ちながら、部屋の扉を乱暴に開ける。
 後方で田岡が微かに口元を緩めたが、それに気付く事も無く、嘉島は返答を待たないまま部屋を後にした。
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