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「逃げられた……だと?」
 事務所の二階、明かりの点いていない組長室内で嘉島かしまは視線だけを動かし、扉の前に立っている組員の西野へ冷淡な声を放った。
 頭部を濡れタオルで押さえ、若干青褪めている西野は、頭を下げて謝罪の言葉を幾度も零す。

 一ヶ月前から武闘派の嘉島組は、橋を挟んだ向こう側にシマを持つ菅田かんだ一家と抗争状態にあった。
 菅田一家とは以前からいがみあっていたが、菅田の組員が嘉島組幹部の人間を一人暗殺した為、抗争は始まった。

 組長と若頭を中心とする強い結束力で結ばれた嘉島組は、あまり類のない激烈な報復行動を行なう武闘派ぶりが有名で。
 この一ヶ月間ほぼ連日、菅田一家の人間を容赦なく襲撃し続け、文字通り血の雨を降らせた。
 菅田一家幹部を襲撃するグループや、事務所に直接殴り込む部隊などを決め、一番若い組員達は菅田を捜し出す部隊に回された所為で、西野もあまり寝る事無く行方を追って連日走り回っていた。
 が、数刻前に歓楽街で漸く、菅田を見つけた。
 西野は仲間の到着を待たず、一人で菅田を捕らえに掛かったが激しく抵抗され、結果的に逃げられたのだ。

「あの野郎、看板でオレの頭殴りやがって……すんません、組長。オレ、気絶しちまって……ホントに、すんません」
 一人で菅田を捕らえれば、嘉島に気に入られて昇格させて貰えるかも知れないと考えたのが、悪かった。
 未だ頭部が痛むが、それよりも己の不始末が許せず、西野は頭を下げたまま歯噛みする。
 謝罪を耳にした嘉島は言葉をすぐに返す事は無く、懐から煙草を取り出し、口に咥えた。
 傍らに立っていた若頭の田岡がすかさず、ジッポライターで火を点ける。

「菅田の野郎相変わらず、しぶてぇな」
 深く吸い込み、苛立たしげに呟いてから紫煙を吐く。
 未だ頭を下げたままの西野へ再度視線を移し、冷淡な口調で、顔を上げるよう命じた。
 すると西野は素早く顔を上げ、嘉島へ恐る恐る目を向ける。
 室内の明かりは点いていないが、外から入り込んで来る派手な光の所為で嘉島の憮然とした表情が嫌でも見え、思わず西野は恐怖感から背筋を震わせた。

 傘下に数百もの組織を抱えている龍桜りゅうおう会内で、随一の勢力を張っている嘉島組の組長――嘉島憲吾かしまけんご
 組や龍桜会に刃向かう者には容赦せず、報復は徹底的に行なうと云う冷酷な一面を持っている上、ひどく扱い難い男だと、この世界では良く耳にする。
 武闘派にしては珍しく、組員を意味も無く殴りつける事はしないが、使えない組員には無慈悲だとも聞いた事が有る為、西野は恐怖を抱かずには居られない。

「組長、お、オレ……許して貰えるなら何でもします」
 震えた声を零すが、嘉島は窓の外へゆっくりと目を向け、ネオンが煌く夜の歓楽街をつまらなそうに眺め出す。
 重苦しい沈黙が幾分か続いた後、煙草を燻らせていた嘉島が不意に、双眸を細めた。
「だったら、菅田ん所の幹部宅にでも殴り込め。」
 冷淡な口調で言い放たれ、西野は、愕然とする。
 口を開いて何か返そうとするものの、威圧的な嘉島を前にして反論など出来る筈も無く、すぐに力無く俯いてしまう。
 濡れタオルを掴んでいた手は小刻みに震えていたが、それを目にしても、嘉島は慈悲の念すら抱かない。

「何してる、さっさと行け。てめぇの命、少しでも役に立たせてから終わらせろ」
 冷たく、無慈悲な科白を浴びせられ、西野は少し間を置いた上で勢い良く顔を上げる。
 蒼白の顔に汗を伝わせながらも視線を嘉島に注ぐが、すぐに踵を返して駆け出し、部屋を出て行った。
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