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前編
02
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母は何処へ向かうとかは云わなかったけれど、僕には察しがついていた。
今日は僕が、十九歳になる日だ。
毎年、と云う事は無いが、誕生日に当たる日は行く処が有る。
そこに行くのは、ものすごく億劫なのに、僕がどれだけ嫌な感情を抱えても、母は構わずに連れて行く。
僕が億劫がっている事すら、この女性は知らないのかも知れないけれど。
「早くしなさい。服は……面倒だから、制服で良いわ。」
苛付いた口調で彼女はそう云い、荒々しく足音を響かせながら部屋を出て、襖を乱暴に閉めた。
あの場所に行くのは、三年ぶりだろうか。
もう行かなくて良いのかも知れないと、僕は薄々期待していた。
僕の歳もろくに覚えては居ない、ほんの気紛れで僕を呼ぶような――そんな、好きでも嫌いでも無い、たった一人の父の元へこれから向かわなければならない。
でも億劫なのは、父に会う事では無かった。
あの家に行くのが嫌で嫌で仕方ない理由は、父では無い。
頭の中で一人の男の姿を思い浮かべると、溜め息が自然と唇から零れた。
出来る事なら、苦手なあの人が居る場所へは行きたくない。
けれど自分の思い通りになる事など、昔から無いのだ。
いつからか身についた諦め癖は、直ぐに我儘な思考を掻き消した。
……大丈夫、直ぐ終わる。
今までして来たように、父の気紛れの話相手を務めて、時間が過ぎるのを待って……。
自分自身を説得するような言葉が浮かぶと、自嘲的な笑みが零れそうで、それを堪えながら、高校の頃の制服を取り出して着始めた。
高校を卒業してからもう大分経っているのに、それは変わらずにピッタリと身体に馴染んだ。
自分の体格が全く変わっていない事に気付かされて多少落胆し、鏡の前に立ってタイを結び、締める。
鏡に映る自分の顔を見て、溜め息が漏れた。
美人の母に良く似てしまっているこの顔も、男の癖に色白で背も低く、小柄で細い身体も嫌いだ。
暫く鏡を睨むように眺めていると、今自分が結んで締め終えたタイに視線が降りる。
久し振りに結んだと云うのに、きちんと結べている事にいささか気が良くなった。
部屋から出て渡り廊下を歩き、少しフラつく足取りで母屋の玄関へと向かう。
僕の部屋は病弱だった祖父の部屋でも有り、離れにある。
病気がうつらない様にと配慮されての事か分からないけれど……僕はたまに、まるで見捨てられて一人っきりの世界に居るように感じられる。
「三年も行っていないから、もう行かなくて済むのかと思っていたよ。」
静かな家の中では、張り上げるように喋らなくても、声が響いた。
靴箱の奥から取り出した靴を丁寧に磨いて、少しヒールの高い母の靴も同様に磨く。
こう云った事を母は出来無い人だから、結局僕がやる事になるのだけれど、母は男の僕がこう云った事をするのを良く思っては居ない。
「あんたの父親は気紛れ過ぎるのよ。ほら、もう良いから行くわよ。」
急ぎ足で玄関へやって来た母は声を掛けながら、いきなり手を叩いて来たものだから、僕は磨いていた靴を落としてしまう。
母は謝罪する事もせず、僕が落としてしまったそれを当然のように取って履いた。
「あんたね、もう少し男らしくなさいよ。こんな、靴磨きなんて男がやるものじゃないでしょう。」
理想が高い母は苛立たしげに言葉を吐き、僕の方なんて全く見ずに玄関の扉を開けて外へ出てゆく。
別に褒められたくてやっている訳では無いけれど、何をしても褒められない事に対して、いささか物悲しくなった。
僕は揺れる心を誤魔化すように、わざと急いで革靴を履き、母の後を追うように家を出た。
今日は僕が、十九歳になる日だ。
毎年、と云う事は無いが、誕生日に当たる日は行く処が有る。
そこに行くのは、ものすごく億劫なのに、僕がどれだけ嫌な感情を抱えても、母は構わずに連れて行く。
僕が億劫がっている事すら、この女性は知らないのかも知れないけれど。
「早くしなさい。服は……面倒だから、制服で良いわ。」
苛付いた口調で彼女はそう云い、荒々しく足音を響かせながら部屋を出て、襖を乱暴に閉めた。
あの場所に行くのは、三年ぶりだろうか。
もう行かなくて良いのかも知れないと、僕は薄々期待していた。
僕の歳もろくに覚えては居ない、ほんの気紛れで僕を呼ぶような――そんな、好きでも嫌いでも無い、たった一人の父の元へこれから向かわなければならない。
でも億劫なのは、父に会う事では無かった。
あの家に行くのが嫌で嫌で仕方ない理由は、父では無い。
頭の中で一人の男の姿を思い浮かべると、溜め息が自然と唇から零れた。
出来る事なら、苦手なあの人が居る場所へは行きたくない。
けれど自分の思い通りになる事など、昔から無いのだ。
いつからか身についた諦め癖は、直ぐに我儘な思考を掻き消した。
……大丈夫、直ぐ終わる。
今までして来たように、父の気紛れの話相手を務めて、時間が過ぎるのを待って……。
自分自身を説得するような言葉が浮かぶと、自嘲的な笑みが零れそうで、それを堪えながら、高校の頃の制服を取り出して着始めた。
高校を卒業してからもう大分経っているのに、それは変わらずにピッタリと身体に馴染んだ。
自分の体格が全く変わっていない事に気付かされて多少落胆し、鏡の前に立ってタイを結び、締める。
鏡に映る自分の顔を見て、溜め息が漏れた。
美人の母に良く似てしまっているこの顔も、男の癖に色白で背も低く、小柄で細い身体も嫌いだ。
暫く鏡を睨むように眺めていると、今自分が結んで締め終えたタイに視線が降りる。
久し振りに結んだと云うのに、きちんと結べている事にいささか気が良くなった。
部屋から出て渡り廊下を歩き、少しフラつく足取りで母屋の玄関へと向かう。
僕の部屋は病弱だった祖父の部屋でも有り、離れにある。
病気がうつらない様にと配慮されての事か分からないけれど……僕はたまに、まるで見捨てられて一人っきりの世界に居るように感じられる。
「三年も行っていないから、もう行かなくて済むのかと思っていたよ。」
静かな家の中では、張り上げるように喋らなくても、声が響いた。
靴箱の奥から取り出した靴を丁寧に磨いて、少しヒールの高い母の靴も同様に磨く。
こう云った事を母は出来無い人だから、結局僕がやる事になるのだけれど、母は男の僕がこう云った事をするのを良く思っては居ない。
「あんたの父親は気紛れ過ぎるのよ。ほら、もう良いから行くわよ。」
急ぎ足で玄関へやって来た母は声を掛けながら、いきなり手を叩いて来たものだから、僕は磨いていた靴を落としてしまう。
母は謝罪する事もせず、僕が落としてしまったそれを当然のように取って履いた。
「あんたね、もう少し男らしくなさいよ。こんな、靴磨きなんて男がやるものじゃないでしょう。」
理想が高い母は苛立たしげに言葉を吐き、僕の方なんて全く見ずに玄関の扉を開けて外へ出てゆく。
別に褒められたくてやっている訳では無いけれど、何をしても褒められない事に対して、いささか物悲しくなった。
僕は揺れる心を誤魔化すように、わざと急いで革靴を履き、母の後を追うように家を出た。
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