『祈り』

葦原

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『祈り』

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 暁芳あきよし兄さん、近い内、こっちに帰って来るそうですね。母さんから聞きました。
 母さんは大喜びしていて、今じゃ、知人に会う度にふれ回っています。
 父さんも毎晩のように、兄さんはいつ帰って来るのかと、訊いてきます。
 二人とも兄さんの帰りを本当に待ち侘びているようです。勿論、ぼくもです。

 兄さん、この時期になると昔はよく、真栂まつが神社へ星を観につれて行ってくれましたね。
 また、兄さんと星を観に行きたいです。
 会える日を、とても愉しみにしています。 すばる



  『祈り』



 丁寧に手紙を書き終え、文面を数回読み返す。
 それが終わると、便箋を綺麗に折り畳んだ。
 返事が来ないと分かっているのに、しかも今月は既に1枚出したばかりだと云うのに、ぼくはまた手紙を書いた。
 彼が戻って来るのだと聞かされて弾む心が抑えられず、書かずにはいられなかったのだ。

 5年以上も暁芳兄さんは帰省しなかったのだから、会うのは本当に久し振りだ。
 一回りも歳の離れた兄は、都心で一人暮らしをしている。
 ぼくが住んでいる場所は海辺にある田舎町で、都心へは快速電車でも2時間以上掛かる。
 会おうと思えば会える距離だけれど、兄は多忙なのだから、なかなか戻って来れないのも無理は無い。

 彼が家を離れて以来、ぼくはずっと手紙を書いて送っている。
 だけど2年前から、急に返事が来なくなった。稀に兄から届く葉書は両親宛てのものだ。
 去年の春に兄が電話をくれた際、不安になって、ぼくの手紙は届いているかと尋ねた事がある。
 きちんと読んでいると返されたので、忙しい兄は返事を書く暇も無いのだと悟った。

 返事の来ない手紙を送り続けるのは、虚しくなる一方だったし
 相手が兄ではなかったら、ぼくはとうに、手紙を出すのをやめていた筈だ。
 ひと月に数枚ほど出していた以前と比べると数は控えめになったが、それでもやめる事は無かった。
 ぼくは、大好きな彼と少しでも何かで繋がっていたい。だから懲りずに、今も手紙を書いている。


 折り畳んだ便箋を封筒のなかへそっと入れ、引き出しをあけて碧色の蝋と刻印を取り出す。
 ラジオから流れる天気予報に耳を傾ければ、今週の終わりには梅雨が明けると告げていた。
 七月も、もう終わりに差し掛かっている。
 暁芳兄さんが戻って来るのは来月だろうかと思案しながら、燐寸マッチを擦った。
 発火音が小気味良く響いて、橙色の火が勢い良く灯る。
 リンの燃える匂いが鼻先を擽って、心が惹き付けられる。
 勢いを無くした火が小さくなって、ゆらゆらと揺れる様は、いつ見てもきれいだ。
 しかし、ずっと見つめている訳にもいかず、蝋の芯に近づけて火を灯した。
 溶けた蝋を封筒に垂らし、印を押して蝋が固まるまで待つ間、ぼくはいつも暁芳兄さんのことを考える。

 歳がかなり離れているのにも関わらず、いつも面倒を見てくれたし一緒に遊んでくれた。
 兄さんは、ぼくの一番の理解者だ。
 そんな暁芳兄さんにも云えない秘密を、ぼくは抱えている。
 暁芳兄さんだけじゃなく、親にも友だちにも、誰にも云えない秘密だ。
 口にしてしまえば誰だって、頭がおかしいと思うに決まっているし、自分でも、まっとうじゃない事は分かっている。


 溜め続けた兄への想いを、以前、便箋に書き連ねたことが有る。
 文字にすると、ひどく落ち着いたのを覚えている。
 文面を読み返して、異性では無く同性に反応する自分は異常なんだと、冷静に受け止める事が出来た。
 それ以来、あの手紙は鍵が掛かった引き出しの奥に、しまってある。
 もう読み返す気も無いし、ぼくがもっと大人になったら、燃やして捨ててしまおうと決めていた。


「やっぱり、いびつだ……」
 蝋が固まったのを見はからって印を外すと、溜め息が零れた。
 手紙を封蝋するのは、暁芳兄さんの影響だ。
 まだ返事が来ていた頃、彼からの手紙はすべて封蝋だった。
 それがとても印象的で、ぼくも真似てみたのだけれど、未だに上手く出来ずにいる。
 暁芳兄さんの封蝋は、蝋の形がとても綺麗で整っている。
 比べてぼくは、いつまで経っても、いびつな形にしかならない。
 暁芳兄さんが戻ってきた時には、綺麗に出来る方法を教えて貰おうと期待感を膨らませ、ぼくは窓の外へ目を向けた。

 今日は昼頃からずっと、小雨が降り続いている。
 ふと、雨に触れてみたくなって椅子から立ち上がり、窓を開けて手の平を差し出してみた。
 七月の終わりに降りしきる雨は、何だかとても温かった。



 八月の2週目に、暁芳兄さんは戻って来た。
 久し振りに見たその姿は印象的で、ネクタイをきっちりと締めた濃紺のスーツ姿だ。
 驚くほど、スーツが似合っている。
 彼のそんななりを初めて目にし、視線が釘付けになった。

 その姿で颯爽と仕事をしている様子を、つい想像したぼくの身体は、馬鹿みたいに熱くなってしまう。
 ふつうとは呼べない自分の状態にはっとし、慌ててかぶりを振る。
 幸いなことに、母と言葉を交わしている兄は一度も此方を見なかった。
 それから家に入り、居間に通されても、ぼくに対して一言も口をきいてくれない。
 少し妙だなとは思ったけれど、母との会話に夢中なんだろうと考え直して、あまり気には留めなかった。

 居間で母と言葉を交わしている間も、暁芳兄さんはネクタイを緩めない。
 都心の警官は、ネクタイを緩めてはいけないと云う規則でも有るのだろうか。
 訝るぼくの前で、母が笑いながら「くつろいでいいのよ」と声を掛けたが、兄はネクタイを緩めるのではなく正座を崩した。
 胡坐をかいても背筋はきちんと伸ばしている姿勢の良さが、ひどく格好いい。
 思わず見惚れてしまったが、ぼくの視線に気付く様子も無く、母と兄は会話を続けていた。

「向こうでは上手くやっているの? 暁芳は、すばると違って愛想があまり良くないでしょう。だから心配、」
「俺ももう大人だからな、愛想ぐらいは身に付いているさ。」
「あら、そうなの。じゃあ友だちも増えたのかしら……ほら、すばる。あなたも暁芳と話しなさいな、」
 母が嬉しそうに声を掛けてくれたけれども、何を言えば良いのか分からない。
 いつの間にか大人の魅力を纏っている兄を前にして、ぼくはひどく緊張していた。
 云いたいことは沢山有る筈なのに頭の中で上手く纏らず、少しだけ俯く。
 すると、母の笑い声が耳に響いた。

「すばるったら……大好きな暁芳に久し振りに会えたから照れているのかしら。」
 視線を上げて兄の様子を窺ってみると、彼はどうしてか複雑な表情をしていた。
 微妙に眉を顰めて、少し強張っているようにも見える表情。
 どんな心情なのか汲み取れず、ぼくはのろのろと顔を上げた。そこへ、今度は兄の声が掛かる。
「すばるは名前通りだからな。ひとに好かれるんだ。……高校は、どうだ。愉しいか、」
 微笑みながら、彼は穏やかな声音で尋ねてくる。
 ぼくは頷くだけで声を出せなかった。

 以前の兄と違って、どことなく違和感がある。
 兄の何がそう感じさせるのかは、漠然としていて分からない。
 5年以上も会わなかったから違和感を覚えるのは当然かも知れないけれど、どうにも腑に落ちなかった。

「暁芳、どう云うことなの。名前通りって、」
「悪いけど、俺とすばるだけの秘密。」
「あら……意地の悪い。お母さんにも教えてくれたっていいじゃない、」
 母は不満を零したが、兄は笑うだけで一向に教えない。

 昔、兄から教えてもらったことは、すべて忘れずにいる。
 名前通りと云うのも、そのうちの一つだ。
 百以上もの星が集まっている、プレアデス星団の和名が、すばると云う。
 青白い星の集団は、蛍の群れのように小さく纏って輝いて、とても美しい。

 ――集まって、一つになると云う意味の“統ばる”から来ているんだ。
 おまえの周りには、ひとが寄ってくるだろう。
 だから名前通りなんだよ、すばる。みんな、おまえが好きなんだ。

 そう云って、ぼくの頭を撫でてくれた兄は、とても優しい顔をしていたのを覚えている。

 結局、兄に教えて貰えなかった母は諦めて席を立ち、夕飯の支度をする為に台所へ向かう。
 足取りは軽快で、唄まで口ずさんでいるのだから、兄の態度に腹を立てた様子は無い。
 兄も彼女の背を見送っていたけれど、可笑しそうに笑う気配は見せず、言葉すら発しない。
 流れる沈黙に耐えかねて、ぼくは口を開き、遠慮がちに声を掛けた。

「あの、暁芳兄さん。ぼく、兄さんと星を観に……、」
「すばる。今年、受験だろう。部屋に戻って勉強をしろ。」
 母の姿が見えなくなった途端、兄の態度は一変した。
 先刻まで見せていた微笑も消えて、その声は刺々しい。
 予期しなかった事態に呆然としていると、兄は眉を顰めて睥睨した。
「聞こえなかったのか。俺と話をしている暇があったら、勉強をしろと云っているんだ。」
「ごめんなさい……、」
 大好きな兄にそんな態度を取られて、悲しくて堪らない。
 震えた声で謝罪し、ぼくは席を立って居間を後にした。

 違和感は、これだった。
 兄の雰囲気が、昔と違って柔らかくない。
 理由は分からないが、はっきりと拒絶を感じた。
 自室に駆け込むと同時に力が抜けて、部屋の隅で蹲ってしまう。
 あんなにも冷たい兄の姿なんて、ぼくはこれまで見たことが無かった。


 夕飯だと告げる、母の明るい声に呼ばれて気落ちしたまま階下へ降りた。
 仕事を終えて帰宅した父は、まだスーツ姿のままで食卓に着き、兄と言葉を交わしている。
 室内の照明がやけに眩しく感じて余計に気が重くなり、顔は自然と俯きがちになる。
 母に促されて腰掛けた席が、兄の隣だったことに気付いた時は、一瞬息が詰まった。
 窺うように兄を見たが、視線を合わせてもくれない様子に、ぼくは再び俯く。

 父が声を掛けた後、家族揃って、いただきますと口にする。……何年ぶりだろう。
 だけど気が沈んでいる所為で、その喜びに浸れなかった。
 食卓には、海老や煮魚に鯛の刺し身、お浸しや煮物、サラダや天ぷらなどが所狭しと並んでいる。
 ぼくの好みの食べ物ばかりだと云うのに、箸を持つ手も上手く動かせない。

「ちょっと気合いを入れ過ぎなんじゃないか。多すぎるだろう、」
 お吸い物を口にしながら、父が笑う。
 何のことは無い、ただの揶揄で、作りすぎたことに不満を抱いている訳じゃない。
 その証拠に、父は何度も美味いと零して箸を運んでいる。
 普段と何ら変わりない、仲の良い二人から目を移して兄をちらりと見遣った。
 二人の様子を微笑しながら眺めていた兄は、視線に気付いたように此方を見てきた。
 視線が絡み合って、強い焦燥感が込み上げる。
 まるで、悪いことをして見つかった時のように鼓動が速まってゆく。
 何か云わなければ変に思われてしまうと考え、まだ言葉が思いつかない内に口を開いた。
 しかし言葉を紡ぐ前に、兄の声が掛かる。
「すばる、もっと喰えよ。そんなんじゃ、いつまでもチビのままだぜ。」
 微笑し、くだけた口調になった兄を前にして、唇を閉じた。

 ――ぼくは、平均身長だ。長身の暁芳兄さんと比べないで欲しい。
 そう言い返したかったが、また冷たい態度をされたらと思うと怖くて何も云えず、目線を下げる。

「暁芳、お前の背丈と比べるもんじゃないだろう。すばるはこれでも、クラス内じゃあ背が高いほうなんだぞ。」
 黙り込んだぼくにかわって、父が取り成すように答えてくれた。

「そうか。悪かったな、すばる。」
 不意に、兄の手が動いて、ぼくの頭を撫でた。
 彼の手に触れられて、体温が急激に上がる。
 でも、愉しそうに両親と言葉を交わす兄の横顔を目にして、ぼくは気付いてしまった。
 身体の熱が静かに、そして急速に冷めてゆく。

 単なる勘違いじゃなかった。
 ぼくに向けられる笑みだけが、作り物のようで……兄の目は、まったく笑っていない。



 食事を終え、母の隣に並んで食器洗いを手伝いながら、少し気になっていたことを尋ねてみた。

 兄が昔使っていた部屋は、今では家具や衣服などが置かれてあって、横になる空間も無い。
 明日の昼間までに家具を移動させて、部屋を使えるようにすると父は言っていたが、重要なのは、暁芳兄さんは今晩、どこで眠るのかと云うことだ。
 寝るとすれば客間しか無いと見当は付くが、ぼくのなかには、もう一つの予想があった。

「すばるの部屋に決まっているでしょう、片付けが終わったら布団を敷いておかないとね。」
 明るい声で嬉しそうに返されたけれど、ぼくは少しも喜べない。
 母は気遣いに溢れている女性(ひと)だから、そう云うだろうと予想はしていたものの、実際に云われると、拭いていた皿を落としそうになるほど驚いてしまう。

「勝手に決めるのは……拙いと思いますけど。」
「久し振りに戻ってきたんだから、なるべく一緒にいた方がいいじゃない、」

 ――兄さんは、ぼくを嫌がっているみたいだ。

 思わず零しそうになった言葉を、ぐっと呑み込む。
 そんなことを云ってしまえば、母は直接、兄に問い質すだろうと予想がつく。
 困惑して黙り込むと、濡れた食器を拭いていた母が少し悪戯っぽく笑った。
「ひょっとして、お兄ちゃんと一緒のベッドで寝たいのかしら、」

 耳に届いた言葉に、ぎょっとする。
 子供の頃は兄と同じベッドで眠っていたけれど、今は流石に拙い。
 理性が保てる筈も無いと考え、ぼくは母から目を逸らした。
 まっとうでは無い自分の心を見透かされてはいないかと、内心不安になりながらも口を開く。

「ぼくを幾つだと思っているんです。もう子供じゃないんだ。」
「そうよね、ごめんね。なんだか暁芳が家にいると、昔に戻ったみたい。」
 上機嫌な口ぶりで呟き、食器の片付けを終えた母は手を拭いて台所を出ていった。
 布団を敷く為に二階へ行くのだろうと考え、ぼくは慌てて後を追う。

 兄の態度が以前とは違うのだから、同じ部屋で過ごすこと自体、気まずい。
 勝手に布団を敷いてしまったら兄の態度は余計に、冷たくなるのでは無いかと云う不安もある。
 廊下を進み、急ぎ足で角を曲がった途端、本人と遭遇してしまった。

「に、兄さん……これからお風呂ですか、」
 彼が持っている浴衣やタオルが目に映って、遠慮がちに尋ねた。
 此方に視線を向けてもくれず、頷くだけで言葉を発してもくれない兄の様子に、ひどく悲しくなる。

「……あ、あの……今夜は、ぼくの部屋で寝るみたいです。」
 どうして、ぼくにだけ態度が違うのかと尋ねたかったが、自分の口から出たのは別の話題だった。
 暁芳兄さんの事となると、臆病になってしまう自分が情けない。

「おまえの、部屋?」
 兄は眉を顰めて、表情に嫌厭の色を浮かばせた。
 場の雰囲気が、やけに重く感じる。

「……俺は客間で寝る。自分で運ぶから、布団には一切触れるな。」
 刺々しく冷たい言葉が胸の奥深くに直接、突き刺さる。
 俯きだしたぼくには構わず、兄は浴室の方へ進みだした。

 どうして、彼があんなにも冷たい態度を、ぼくだけに取るのか。
 その理由が、分からない。
 なにか気に障る事をしてしまったのかと考えても、まったく思いつかない。
 廊下に取り残されたぼくは、無性に泣きたい気分になって走り出し、階段を駆け上がって、二階のバルコニーへ逃げ込んだ。



 生ぬるい夏の風に当てられて、暫く星空を眺めていたら幾分か心が落ち着いた。
 自室に戻ってみたが、布団は何処にも敷かれていない。
 時刻を確認すれば、1時間以上が過ぎている。
 階下へ降りて居間へ向かう途中で、ぼくはふと、足を止めた。

 客間に続く襖が、開け放してある。
 普段明かりの点いていない部屋からは蛍光灯の白い光が洩れて、廊下をうっすらと照らしていた。
 耳を澄ませば、室内から母と兄の話し声が聞こえてきた。

「すばるは、夜中まで受験勉強をするらしい。俺がいると邪魔になるだろう、だから今夜は此処で寝るよ。」
 本人で無ければ空言だと気付けないほど、兄の声は平然としていた。

 ……そんな事、ぼくは一言も口にしていない。
 やりきれない想いを抱えて、客間の入口へ近付く。
 敷居を意図的に踏むことで憤りをあらわにしたつもりだったが、母も兄も此方に気付かない。
 窓際の近くに敷かれた布団を見遣ってから、ぼくは眉を顰めた。
 ふつふつと湧き上がってくる感情を抑えられず、口を開き掛けた瞬間、廊下側から父の呼び声が響く。
 名を呼ばれた母は振り向き、ぼくを見て少し不満そうな顔をした。
「暁芳が戻って来たんだから、一日ぐらい勉強しなくても良いじゃない。すばる、頭もいいんだし……」
 言ってもいないことで咎められ、悔しさに歯を咬む。

「……兄さん、気を遣わせてしまって、すみません。」
 目を伏せて謝罪すると母は察したようにぼくの肩を叩き、横を通って部屋を出ていった。
 母に事実を告げなかったのは、余計な心配を掛けたくないのと、兄との問題は極力自分で解決したい意地が有るからだ。
 遠ざかってゆく足音に聞き入った後、視線を上げる。


 先刻の、兄の刺々しい物言いはまだ、胸中に強く残っている。
 思い出すと、今すぐこの場から逃げ出したい心境になったが、ぼくは何とか踏み止まった。
 拳をかたく握り、兄を呼んでみるも、彼の双眸が此方に向けられる気配は無い。
 理由を聞き出そうと決意した心が早くも、挫けそうになる。
 だけど、ここで退く訳には行かない。

 大好きな兄に、これ以上冷たくされるのは耐えられないし
 ぼくに非が有るのならば、きちんと教えてくれないと直しようも無い。

「……兄さん、教えてください。どうしてぼくにだけ……そんなに、冷たいんですか、」
 意を決し、なんとか尋ねることが出来た。
 兄の視線がゆっくりと、此方に向けられる。
 しかし返事は無く、沈黙だけが続く。
 理由を教えてもくれないのかと、悔しい気持ちになって、こんな事ぐらいで泣きそうになる自分を、情けなくも思う。


「……手紙だ。」
 自然と俯いた瞬間、一言だけ返される。
 顔を上げると、兄はもう、此方を見てはいなかった。
 彼は背を向けて布団の上に座りだし、枕元に置かれてあった書物を手にした。

「手紙って……なんの、」
 若干怯みながら質問を口にしたけれど、返答は無い。
 どれだけ待っても、それ以上は教えてくれず、永遠に続くかのような重苦しい沈黙だけが、流れていた。



 兄が帰省してから三日が過ぎたが、彼の冷たい態度は変わらない。
 それどころか時間が経てば経つほど壁は厚くなって、近寄りがたくなる。

 二人きりになると必ず、話し掛けても無視をされるか圭角のある声を返されて、顔を合わせる度に険しい表情を向けられ、鬱屈した日々が続いていた。

 連日、ろくに眠りもせずに理由を考え続けた為、瞼が重く身体も怠い。
 だが何よりも重いのは、心だ。
 唯一教えて貰った理由は頭から離れず、ぼくを悩ませている。

 手紙を書き続けたのが悪かったのかと、昨夜思い至ったが、腑に落ちない。
 返事が来るのも待たずに次から次へ手紙を送り続けては、嫌がるのも無理は無いかも知れないが、あれほど優しかった兄の態度が、それだけで変わってしまう理由としては薄い気もした。

 確かな理由が分からない限り、ぼくは兄の近くには寄れない。
 分からないまま冷たい態度を取られるのは厭だから、逃げることしか出来ずにいる。

 自室で参考書を読み耽っていたぼくは、階下から笑い声が聞こえる度に、居た堪れない気持ちになった。
 昨日は外出していた兄も、日中の気温が30度を超える今日一日は家で過ごすらしい。
 その為、母と兄は居間で語り合っている。
 時間が過ぎ去ってゆく度に疎外感が強まって、参考書を半ば乱暴に閉じた。

 何よりも、母と言葉を交わす兄の、愉しそうな笑い声を聞くのが辛い。
 ぼくの前ではあんな風に笑ってもくれないのにと思うと、耐えられず、従姉から借りた書物の返却を口実に家を出た。



 海岸沿いの遊歩道を歩き続けて、あまりの暑さに息が切れた。
 汗で濡れた衣服が、肌に纏わりついて鬱陶しい。陽に焼かれた肌はひりひりする。
 茹だる暑さに目眩がして少し休もうかと足を止めた途端、視界が大きく揺れた。
 バランスを崩したぼくは咄嗟に、手摺りに寄り掛かる。

 ――このまま倒れでもしたら暁芳兄さんは、優しくなってくれるだろうか。
 脳裏に浮かんだ卑しい考えに、嫌悪感が込み上げた。
 馬鹿みたいだ、と。溜め息を交えながら呟く。

 心配されたいが為に自棄になったり、自分を痛めつけるのは間違っている。
 相手の優しさに、泥を塗るようなものだ。
 そんな身勝手な行為は絶対にしたくないし、ぼくは好きなひとに対しては、なるべくなら誠実でありたい。

 手摺りに深く凭れ掛かって俯き、瞼を閉じて兄の姿を思い浮かべた。
 大好きなのに、今は姿を見るのも、傍にいるのも辛い。
 それが悲しくて、どれだけ考えても理由が分からない自分が不甲斐無くて、悔しくて堪らない。

 兄のことを想うと、心は、どんどん沈んでゆく。
 暑さで、身体が弱っている所為だ。
 炎天下では、気持ちまで駄目になってしまう。


「呆れた……人一倍、陽に弱い癖に何やってるの。」
 不意に声が掛かって、影が射した。
 顔を上げて見れば、日傘を差し掛けている従姉が呆れ顔で佇んでいた。

「なにって、休んでるんだよ。……見て分からないのか、」
 手の甲で汗を拭いながら、反抗的な口ぶりで返す。
 思っていたよりも、自分の声には苛立ちがはっきりと含まれている。
 弱っている姿を、この従姉には見られたくなかった為、ぼくの態度は余計に反抗的なものとなっていた。

 ぼくは、この従姉に対しては遠慮がない。
 子供の頃から散々、彼女に振り回されてきたのだから、遠慮よりも反抗の気持ちの方が強い。

「こんな時間から外に出るなんて自殺行為よ。死にたいの、」
「……別に。ぼくが死のうが、ヒナには関係ないだろ。」
 普段なら、ぼくの反抗的な態度を咎める筈の彼女は、口を閉ざした。
 眉を寄せて難しい顔をしているが、攻撃的な雰囲気は感じられない。
 その態度から、心配してくれているのだと察した。
 心が、不思議なほど冷静になって、自分が八つ当たりをしていたことに気付かされる。

「ごめん、あまりにも暑いものだから苛ついていた。心配、してくれたんだろう、」
「どうしたの、今日はやけに素直ね。いつもそうなら、かわいいのに。」
 普段の調子に戻った従姉は、声をたてて笑った。
 耳に届く笑い声は響きが良くて、まったく気に障らない。
 気が緩んだぼくは、軽い口調で冗談を放った。
「ヒナ、笑いすぎるのは下品だ。もう少し淑やかになれよ、」
「すばるが筋肉隆々になったら、考えてもいいわ。」
「何だよそれ、意味が分からない、」
「あたしが淑やかになるのは、それぐらい難しいし、有り得ないってことよ。」
 当然のことのように云ってのける神経が、ぼくには理解出来ない。
 そんなのは屁理屈でしか無いだろうと言い掛けたが、無駄な論争になりそうで止めた。

「……ヒナは、どうしてこんな処に居るんだ、」
 話題を変えると、従姉は途端に厳しい表情になった。
 急な剣幕に怯んだぼくに、直ぐには言葉を返さず、彼女は肩に掛けていた鞄の中を漁り始める。
 タオルに包まれたミネラルウォーターの壜を取り出し、それを押し付けるように手渡してきた。
 ひんやりとした冷たい感触に、ごくりと喉が鳴る。
 従姉に礼を告げて蓋を開け、一口呑んだ。
 からからに渇いていた喉が癒され、続けて呑んだ矢先に、彼女の溜め息が聞こえた。

「叔母さんがね、電話を掛けてきたの。日傘も持たずに外に出たって、心配していたわ。財布も持たずに出て行ったから何も買えないし、水分補給も出来無いんじゃないかって、」
「だから、此処に来たのか。偶然じゃなかったんだ、」
「すばるの行動パターンは、あたしが一番良く知っているから。この道を通って来るだろうなって、予想もついたの。……倒れていたらどうしようって、ずっと考えてた。」
 従姉は目を伏せ、表情に困惑げな色を浮かべた。
 目を伏せると、長い睫が際立つ。
 以前よりも綺麗になったなと会う度に思いはするが、下心を抱くことは無い。
 黙ったままで従姉に視線を向けていると、彼女は再度溜め息を零し、ぼくを睨んだ。

「親に心配掛けさせるなんて、どうかしてる。自分が陽に弱いってこと、分かっているんでしょう。もう子供じゃないんだから自己管理ぐらいしたらどうなの。甘えるのは、やめなさいよ。」
 厳しい声音が掛かったけれど、ぼくはそれを素直に受け入れられた。
 ぼくがしないように、彼女もまた、ぼくに遠慮はしない。
 いつだって本音をぶつけてくれるし、間違いがあれば叱ってくれる。
 例え厳しくても、それは、ぼくにとっては有り難いことだ。
 ぼくに非が有れば隠すことなく教えてくれて、自分を見つめ直す機会を与えてくれる。
 それが優しさと云うものなんだと、ぼくは思っている。


 ……ぼくは、心の何処かに甘えがあった。
 日傘を持たなかったぼくを、兄が気に掛けてはくれまいかと云う、浅ましすぎる甘えだ。
 彼には誠実でありたいと願っていても、理想は遠く、近づけない。
 ぼくの心は、まだ弱くて、ちっとも大人になりきれていない。
 それを痛切して、笑うべきことでもないのに、少し笑いが零れた。

「すばる、どうしたの、」
「なんでも無いんだ。……心配掛けて、ごめん。ヒナの云う通りだ。甘えていた、」
「謝るのは、あたしにじゃなくて叔母さんにでしょう。暁ちゃんも、すごく心配していると思う。」
「……それは、……どうだろう、」
 兄の態度を思い出して、心が曇る。
 そんなぼくを従姉がじっと見据えてくるから、顔に出てしまったんだと分かって気まずくなった。

「何かあったの、」
「いや……それより、此れ。面白かったよ、」
 片手に持っていた書物を差し出したが、直ぐには受け取って貰えない。
 兄の話題を避けたぼくを、彼女は訝しげに見つめていた。
 余計に気まずくなって、彼女の細い手を強引に掴んで書物を持たせ、傘の下から出た。
「早く帰って、母さんに謝らないといけない。本の感想は今夜、電話で話すよ。」
 云いながら、ぼくは背を向けた。
 足早に立ち去ろうとしたが、腕を掴まれて引き止められてしまう。
「すばる、待って……家まで送ってく。途中で倒れられでもしたら、夢見が悪いから。」
 唐突な申し出に戸惑ったけれど、従姉が下唇を咬んでいるのを目にして、その胸中を察した。
 恐らく、昔のことを思い出したのだろう。

 まだ幼かった頃、今日みたいな暑さのなかで、従姉と隠れ鬼をしたことがある。
 強制的に鬼にされて彼女を捜し回ったが、なかなか見つからず途方に暮れた。
 従姉はとっくに自宅へ戻って涼んでいたのに、ぼくは炎天下のなか駆け回って、とうとう倒れたのだ。
 病院で意識を取り戻した際、一番目に付いたのは、滅多に泣かない従姉が声を上げて大泣きしていた姿だった。
 本当に危なかったのだと兄から聞かされたが、幼かったぼくは死に対しての実感が湧かなかった。
 今は、死ななくて良かったと思っているだけで、従姉を怨む気持ちなんて無い。
 だけどあの一件以来彼女は、夏になると頻繁に訪ねてきたり電話を掛けて来る。
 それが彼女なりの償いなんだと気付いたのは、中学にあがってからだ。
 気付いてからは、彼女を本気で疎ましく思うことが無くなったし、反抗心は抱いても心底嫌いにはなれずにいる。

「ヒナ、……もう、昔のことだよ。気にしなくていい、」
「自分を簡単に許せないの。殺人未遂だから。」
「……大袈裟、だな。第一、ヒナが倒れたらどうするんだよ、」
「大丈夫、暑さには強いから。脆いすばるとは、出来が違うのよ。」
 軽口で云って、従姉はぼくの腕を引き、もう少し傍に寄るよう告げた。

 お互いの肩が触れたけれど、何の感情も抱かなかった。
 こう云う時、自分は異常なんだと思い知らされる。
 まっとうな男なら、どんな反応をするべきなのか、ぼくは未だに理解出来ずにいる。

 従姉の歩調に合わせて進みながら、傘を受け取った。
 以前、従姉から教えられたが、傘を差すのは男の役目だそうだ。
 当時は横暴だとしか思わなかったけれど、最近では、彼女の要求は逆らうより、すんなり受け入れる方が、無駄なエネルギーを使わずに済むと悟った。
 それに、ぼくに対しては利己的なのも、もう慣れた。

 帰路を辿り、地面に落ちた二つの影に目を凝らしていると、不意に従姉が口を開いた。

「そう云えば、明後日の夜半から明け方に流星群がみれるらしいわね。」
「ああ……もうそんな時期だっけ、」
「すばる、勉強のし過ぎよ。情報に疎くなってる。」
「仕方無いだろ。ぼくが受ける大学は合格点が高いし、受験科目も多いんだ。」
「でも、予備校の模試の結果、良かったんでしょう、」
「……ぼくの場合、油断すると痛い目を見る。気を抜くと大抵、失敗に終わるんだよ。……ヒナは誰かと観るのか。流星群、」
「そうね……相手がいれば、ね。」
 彼女は前を真っ直ぐ見つめて、澄ました顔で答える。
 この美人な従姉には、交際相手がいたのにと考え、ぼくは疑問を口にした。

「医大生はどうしたんだよ。院長の息子だとか、云っていただろ、」
「アレね、やめたの。空っぽなんだもの。肩書きがあっても中身が無いと退屈なだけ。」
「随分、あっさりしているんだな。好きだったんじゃなかったのか、」
「すばるには関係ないでしょう、」
 ぴしゃりと云われて、慌てて口を噤む。
 他人の色恋沙汰に口出しできるほど、ぼくは出来た人間でもない。
 なので、それ以上は訊かず、黙ったまま暫く歩き続けていると、退屈を嫌う従姉がぼくの脇腹を肘で軽く突いてきた。
 話題を触れと云う合図だ。
 いささか迷った後、揶揄されるのを覚悟して質問をぶつけた。

「ヒナは、もし好きな相手に冷たくされたらどうする、」
「好きなひと……居るんだ、」
 てっきり揶揄されるかと思いきや、従姉の声は真面目なものに変わった。
 質問を返されて言葉に詰まり、ぼくは頷くことも出来ない。
 それをどう取ったのか、従姉はにこやかな顔付きになって口元を緩めた。

「あたしなら、相手の良心につけこむわ。泣くの、」
「涙は女の武器ってヤツか。いいよな、女は。泣けば同情を買える、」
「違うわ。女の武器じゃなくて、美しいひとの武器。すばるだって顔のつくりは良いんだから、使えるでしょう。」
「……ぼくは男だ。男は、涙なんて気軽に見せちゃいけないって父さんが云っていた。」
「古くさいわね。相手の気を引く為なら、何でもしないと。」
「そんなのは、利己的な行為だろう。ぼくは、好きな相手を困らせるような事はしたくない。」
 きっぱりと返して、前方に目を向ける。
 暑さの所為で景色が霞んでいるが、坂下に建つ自分の家は見落とさない。
 数メートル手前まで近付くと、兄の冷たい態度ばかり思い出し、自然と足は重くなった。

 例えぼくが泣いたって、彼の態度が変わることは無いだろうと思う。
 あの拒絶は、そんな安易な行動で消えてなくなるようなものじゃない。
 暁芳兄さんのことで気が滅入り、家から顔を背けた矢先に横から呆れ声が響いた。

「すばるって、本当に馬鹿ね。」
「なんだよ、いきなり。ぼくは一応、成績は良いほうだ。」
「頭脳の問題じゃなくて、人間性の問題。」
 相変わらず、遠慮なしに物を云う。
 門口の前まで来ると、流石に云い返す気力も失せて黙り込んだ。
 そのまま庭を通り、玄関の手前まで進むと不意に、従姉が足をとめた。
「寄って行かないのか、」
「今日はやめておく。用事が有るの。……ねえ、すばるの好きなひとって、どんなひと?」
 やけに真面目な顔をして、重みの有る物言いで問われる。

 兄の姿が鮮明に浮かんだけれど、正直に云える筈も無い。
 言葉にしてしまえば、ぼくの人格を否定されるに決まっている。
 最悪、兄までも奇異や非難の目にさらされる可能性だって有るのだから、ぼくの想いは、安易に言葉にしてはいけないのだ。

「……年上。」
「それだけ? 外見とかは、」
「教えない。」
「じゃあ、これ以上は訊かない。その代わり、キスして。」
「……冗談?」
「半分は本気よ。」
 従姉の身体が動いて、唇が重なった。
 柔らかい感触に少し驚いたけれど、喜びや興奮は抱かない。
 異性とキスをしても冷静な胸の内が、ほんの少し、哀しく思えた。

「……あたしはね、好きな相手なら尚更、困らせたくなるな。……でも、すばるになら振り回されてもいい。」
 身体を離して距離を置いた従姉は、目を伏せながら不可解なことを云う。
 先刻の行動に触れない様子からして、あの行動に深い意味は無く、ただの冗談だったのだろうとぼくは決め込んだ。

「矛盾しているだろう、それ。それに、どうしてぼくが出てくるんだよ、」
「呆れた。すばるって本当に鈍いのね。当分、電話を掛けて来ないで。」
 従姉はどうしてか怒りだし、ぼくの手から日傘を奪い取ると、サンダルの踵で足を踏みつけてきた。
 加減してくれたらしく激痛とまではいかなかったものの、眉根が寄る。
 別れの言葉を放った彼女は軽く手を振って、足早に門をくぐり、去ってゆく。
 呆然とその背を見送っていると、横から声が掛かった。

「驚いたな。雛乃と、そう云う仲だったのか。」
 振り向けば、暁芳兄さんが庭の奥から姿を見せた。
 その表情は安堵しているようにも、喜んでいるようにも見える。

「……さっきのは、そう云う意味じゃ有りません。」
「隠さなくてもいいだろう。秘密にしておけと云うなら口外はしないが。……しかし雛乃と……そうだったのか、」
 従姉との関係を誤解され、しかもそれが定着し始めている現状に焦りだす。
 慌てて否定しても、兄は「照れるなよ」と云うだけで、認識を改めてはくれない。
 上手く誤解を正す術など思いつかず、心の底から深い溜め息が零れそうになる。
 それを堪えようと歯を咬んだが、今までと違う兄の様子にぼくは気付いた。

「女と交際するようになったんだな。……安心した。」
 嬉しそうに微笑んだ兄を前にして、その言葉よりも、兄が笑ってくれた事に意識が向いた。

 どうしてか、彼の雰囲気は柔らかい。
 二人きりになると必ず感じた拒絶や刺々しさも、今は無い。
 彼の笑い顔から目を離さず、まだ少し警戒しながら慎重に言葉を紡ぐ。

「兄さん、どれぐらいこっちに居られるんです、」
「旧友には挨拶も済ませたし、明日には帰ろうと決めている。」
「明日って、そんな……急に……、」
「今回こっちに戻って来たのは、大事な話が有ったからだ。長居するつもりは、もとから無かったんだよ。」
「なんです、その……大事な話って、」
「……結婚する。」
「だ、誰が……?」
「俺がだよ。そろそろ身を固めないと、拙い歳になったんだ。」
 衝撃的な告白に、愕然とした。
 本来なら掛けるべき筈の、祝いの言葉が出て来ない。
 おめでとうと、言葉にできない自分の不甲斐無さに、消えてしまいたくなる。
 兄がまだ何かを云っていたが、声が遠くなったり近くなったりして、言葉が上手く頭に入らない。

 ぐらぐらと、世界が大きく揺れている。
 両足に力が入らず、立っている感覚が無い。

 ――息苦しい。
 まるで首を絞められたようだと考えた瞬間、膝の力が抜けて身体が傾いた。
 地面にぶつかる、と。それだけは冷静に考えることが出来たが、ぼくの身体は伸びて来た腕に支えられる。

「大丈夫か、すばる。」
「……少し目眩が、しただけです……」
「陽に当たりすぎたんだろう、無理をするな。おまえ、夏場はよく目眩を起こしていただろう、」
 兄の優しい声が直接心にしみ込んで、泣きそうになる。
 堪えようと顔を背け、兄の腕から離れようとした瞬間、抱き上げられて肩に担がれた。
「に、兄さん……なにを、」
「いいから、じっとしていろ。家に戻るぞ。」
「降ろして……降ろしてください、自分で歩けるっ」
 慌てて訴えたが聞き入れては貰えず、家のなかへ運ばれた。

 廊下を進んで居間に着くと、静かに畳の上へ寝かされる。
 兄は「直ぐに戻る」と告げてその場を離れ、数分経過したのち、氷枕と濡れタオルを手に戻ってきた。
 額に濡れタオルが乗せられ、心地好さに浸っていると、後頭部をそっと抱え上げられて下に氷枕を敷かれる。

「吐き気はないか。頭痛は?」
「大丈夫です。……兄さんには、迷惑を掛けてばかりだ。」
「堅苦しいことを云うなよ。おまえは俺の弟なんだぜ。こんなの、迷惑の内に入らない。」
 優しげな双眸で見下ろされて、切ない気持ちが込み上げてくる。

 好きだと、口にしてしまえたら……どんなに楽だろう。
 想いを言葉にしたい衝動に駆られたが、ぼくは何とかそれを押し殺した。
 こんな異常過ぎる気持ちを押し付けることは、間違っている。

「あの……母さんは、」
「おまえを迎えに行くんだって、車で雛乃の家へ向かったよ。行き違いになったみたいだな。」
「そうですか。……ぼくの身勝手な行動で心配を掛けさせてしまった事を、謝らないと。……兄さんにも、」
「よせよ。俺には謝らなくていい。」
「……どうして、」
「俺はおまえに冷たく接していたんだ。そんな俺に、おまえが頭を下げる事なんて無いだろう。」
「……その事ですけど、ずっと考えていたんです。でも、分からない。ぼくが手紙を出し続けていたのが悪かったんですか?」

 内心、縋る想いで尋ねた。
 明日には帰ってしまうのなら、尚更、知っておかなければならない。
 兄を見据えると、彼の顔に一瞬だけ、困惑した表情が浮かんだ。
 少し間をあけたのち、彼は深々と溜め息を吐く。

「思い当たらないなら、あの手紙は間違って入れたものだったのか。」
「なんの……話です、」
「……俺のことが好きだと書かれた便箋が、一枚だけ入っていた。」
 淡々とした物言いで告げられ、血の気が引いた。
 鼓動が、煩く感じるほど速まる。


 ――あの、手紙だ。
 溜め続けていた兄への想いを一枚の便箋に書き連ねて、引き出しの奥に隠した。
 それからは一度も読み直していない。そう、読み直していないのだ。
 確認しなければ、本当に引き出しの奥にしまったままなのかすら分からないじゃないか。
 現に、ぼくしか知らない手紙の存在を、兄は知っている。

 当時の記憶を必死に思い出して、ぼくは息を呑んだ。
 便箋に想いを書き連ねたのは、確か、兄への返事を書いている途中だった。
 同じ便箋に書いていたのだから、誤って封筒に入れてしまったとも考えられる。


「……最初は、何かの間違いかと思った。だが、文面を何度も読み返してゆく内、本気なんだと分かったよ。戸惑って、返事も書けなかった。」
 低く静かな声音が響いて恐る恐る兄を窺えば、目を伏せた表情が視界に入る。
 視線を合わせまいとしている姿は、ぼくに対して嫌悪感を抱いているからとしか思えない。

 強い焦燥感が込み上げて、何とか誤魔化そうと口を開いたが、言葉は出ない。
 沈黙が、ぼくを呵責する。

 まっとうになれない自分が、実の兄に対して恋心を抱いてしまった自分が、
 どんな人間よりも価値が低い存在に、思えてくる。
 胃がきりきりと痛み出して吐き気すら込み上げた瞬間、兄が再び溜め息を零したものだから、驚きで身体がびくりと跳ねた。

「馬鹿、そんなに怯えるなよ。俺は、おまえを責める気は無いんだ。」
「……でも、気持ちが悪い……筈だ……ぼくは、異常なんです……、ぼく……ぼくは、価値の無い人間なんだ……、」
「そんな悲しいことを云うもんじゃない。恋愛の対象が同性に向いたからって、劣等感を抱くなよ。それだけで、おまえの人格が決まる訳でもないんだ。大体、人間の価値なんてものは誰が決めるものでも無い。ひととして大切なのは、もっと他のものだろう。違うか、」
 兄の表情は厳しかったけれど、声音はあまりにも優しくて、それだけで救われた気がした。

 ――ぼくはやっぱり、このひとが好きだ。

 身体の奥から熱い何かが込み上げて、視界がほんの少しぼやけた。
 慌てて顔を背けると、ぼくを気遣う兄の声が耳に入る。

「すばる、どうした。気分が悪くなったのか?」
「いいえ……暁芳兄さんが、優しいから……、」
「……そうか。冷たくして悪かった。俺のことを早く諦めさせてやろうと思って、今度会った時は冷たく接しようと決めていたんだ。」
「そう、だったんですか……、」
「ああ。だが、もうそれもしなくて済むな。おまえが雛乃と交際しているんだと知って、安心したよ。」
 嬉しそうな笑い声が聞こえた。

 ぼくが、異性と交際することが――まっとうになることが、兄の望みなのだ。
 痛いほどそれが理解できて、背けた顔を戻せず、瞼をきつく閉ざした。
 胸の奥に、何か重いものが圧し掛かっているような感覚に苛まれて、苦しくて堪らない。

 ぼくが好きなひとは昔も今も、ただ一人だけなのに。

「違う。……ヒナとぼくは、そう云う関係じゃないんです。兄さんは、誤解している……ぼくは、今でも――」
 辛苦に耐え切れず、咄嗟に言葉を紡ぐ。だけど、最後まで云えなかった。

 こんな、異常な想いを言葉にして、押し付けて……いったい、何になると云うんだろう。
 困らせるだけだと考えたら最後まで云える筈も無くて。
 ぼくは必死に言葉を呑み込んだ。

 兄のほうへ顔を向けなおせば、困惑げな表情が目に映る。
 最後まで口にしなくても、ぼくが何を云おうとしたのか理解している顔つきだ。
 彼は戸惑いがちに視線を彷徨わせ、やがて深い溜め息を零した。

「やはり、最初から遠まわしな方法を選ばず、正直に云うべきだったな。……自分の弱さに嫌気がさす。」
「兄さんが弱いなんて、そんな事……、」
「おまえが思っているより、俺は出来た人間じゃない。……ああ云う態度を取れば、俺のことを嫌いになるだろうと思っていた。虫が良すぎるよな。本当におまえのことを想って諦めさせるつもりなら、正直に云えばいいだけの話だ。俺は、おまえと真っ向からぶつかるのが厭だった。弱かったんだ、」
「兄さんは優しいひとだから……ぼくと衝突すれば、父や母にも迷惑が掛かると思ったんじゃないんですか、」
「そんな綺麗なものじゃない。俺自身が、気まずい想いをしたくなかった。ただ、それだけだよ。……卑怯なんだ。」
 苦笑する兄の姿を見て、ぼくはいてもたっても居られず、上体を起こして何度もかぶりを振った。

「本当に卑怯な人間は自分の非を認めたりなんて、しません。兄さんは強いひとだ。自分をしっかりと見つめているじゃないか。」
「……そう云って貰えると、気が楽になる。すばるには昔から救われてばかりだな。……だからこそ、俺は……、」
 一度言葉を区切った兄は表情を曇らせた。
 目を逸らして眉根を寄せる姿に、云いようの無い不安が募る。

「兄さん、何です……、」
 流れる沈黙に耐えかねて恐る恐る問えば、兄はぼくを真っ直ぐに見据えた。
 真摯な眼差しを向けられて、微かに身体が震える。
 彼の、こんな眼差しは今まで見たことがない。
 鼓動が速まって、息が詰まる。
 時間の流れが、とても緩やかに感じた。
 暁芳兄さんの口元が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、動いた。

「俺は、おまえの想いには応えられない――」



 電話の電鈴が聞こえて、目が覚めた。
 呼び出し音は八回を過ぎた頃に鳴り止んだが、耳を澄ませば、応対する母の声が聞こえる。
 切れた訳じゃないのだと思案して瞼を開け、上体を起こし、周囲をざっと見回す。
 室内は薄暗く、暁芳兄さんが傍にいる気配もない。

 あの後、茫然としていたぼくに向けて、彼は少し休めと声を掛けてくれた。
 自分で思っていたよりも、身体は暑さで大分弱っていたし、現状から逃げたかったのも合わさって素直に従った。

 眠ってから、大分時間は過ぎたみたいだ。
 窓の外を見れば陽はすっかり沈んで、夜空に織女星のベガが一際明るく輝いている。
 太陽より50倍もの明るさで輝く青白い星のベガには、夏の夜の女王、との別名もある。
 相応しい呼び名だろう、と。昔、兄は本当に愉しそうに、星のことを沢山語ってくれた。

 心が乱れたときは、星をみて感情を落ち着かせるのだと、過去に兄から教わった。
 今はどれだけ眺めても心が騒いで、焦燥感が込み上げてくる。
 夜空を仰ぐとぼくはいつも、暁芳兄さんの言動を思い出してしまう。
 先刻の、拒絶の言葉が脳裏に浮かんで、胸の奥が苦しくなる。
 あの手紙のことが無性に気になり、ぼくは緩慢な動きで立ち上がった。


 もしも引き出しの中に、あの手紙が入ったままなら……。
 今の、どうしようも無く惨めな心境も、暁芳兄さんが放った拒絶の言葉も、すべて無かったことになる。

 決定的な科白を兄から告げられたと云うのに、ぼくはその現実を見つめられない。
 自分の浅ましさを心の何処かでは分かっているのに、抑えられず、少しふら付く足取りで居間を出た。
 玄関先からは、母の話し声が聞こえてくる。まだ通話中なのだろう。
 母に声を掛けることもせず、反対側へ進み出したぼくは、二階の自室を目指した。


 焦りすぎている所為か、膝に上手く力が入らない。
 何度か段差を踏み外しそうになりながらも、階上へあがって自室へ戻る。
 扉を閉めることも忘れて、机上のペンスタンドから物差しとカッターナイフを持ち出し、書棚の前に立った。
 引き出しの鍵は、天板裏と背板との接合部辺りに粘着テープで固定してある。

 どんな角度からでも書物に隠れるよう工夫しているが、念を入れて今まで誰も自室へ通さなかった。
 両親ですら、ぼくが部屋にいない時は私物には決して触れないし、二人はそれが親として当然の行動だと思っている。
 だから万が一、鍵を見つけたとしても、それを使って引き出しを開けることは考えられない。

 書物を棚から取り除き、奥のほうを確認してみた。
 薄く小さな鍵が見えたが、粘着テープが剥がされた形跡は無い。
 物差を当てて測ってみても、接合部から8mm距離をあけた位置で固定したのは以前と変わらない。
 一度深呼吸することで逸る気を抑え、カッターナイフの刃を使ってテープを慎重に剥がした。

 鍵は、掌にすんなりと納まるほど小さい。
 それなのに、やけに重く感じて引き出しを開けることに躊躇いを覚える。


 手紙が入っていなければ……兄の拒絶は一生、ぼくの中に残ってしまう。
 ぼくはどうしても、今の現状を無かったことにしたい。

 送る筈も無かった手紙を誤りで送って、伝える気も無かった想いを知られてしまって。
 そして拒絶されるなんて、あまりにも間抜け過ぎるじゃないか。
 恥ずかしくて、情けなくて、堪らない。
 こんなにも惨めな気持ちを抱えて日々を過ごせるほど、ぼくはまだ、強くない。

 ――ぜんぶ、無かったことにしたい。

 そう願う自分の浅ましさから目を背けて、ぼくは急いで机の前へ向かい、引き出しの孔に鍵を差し入れた。
 手が、ほんの少しだけ、震える。

 強烈な緊張感に苛まれながらも、鍵を回す。
 ごくりと喉を鳴らした後、勢い良く引き出しを引いた。
 なかには、薄碧色の便箋が一枚だけ、半分に折り畳んで入っていた。

 手紙だ。
 やっぱり、有ったじゃないか。
 暁芳兄さんは、きっと、なにか勘違いをしていたんだ。
 だってあの手紙は今、ここに有るのだから。

 便箋を指でなぞって、ぼくは笑い声を零した。
 自分の声が震えていると理解した途端、身体の力が抜けて、倒れるように椅子へ腰掛ける。
 安堵感から深く息を吐いて、便箋を眺める。
 半分に折り畳まれたそれを徐に開いて、文面を読み返し――凍りついた。
 目に映ったのは、学校生活のことや友人がまた一人増えたことしか、書かれていない。
 どれだけ読み返しても、兄に対する想いは何処にも書かれていなかった。
 嘘だろう、と。両手で顔を覆い、俯く。

 もう、誤魔化しようが無い。
 やはりぼくは誤って、兄に送るほうの封筒に、あの便箋を入れてしまったのだ。

 あの時、どうして何度も確認しなかったんだろう。
 細心の注意を払っていれば、こんな結末にはならなかった。

 ……ぼくは、救いようの無い馬鹿だ。

 どれだけ悔やんでも自分を責めても、過去の軽率な行動は消えず、先刻聞いた拒絶の言葉が、頭の奥に何度も響く。


 想いには応えられない、なんて。そんな当たり前のことを、彼に云わせるつもりじゃ無かった。
 自分の想いは異常なんだと分かっていたからこそ、誰にも告げず、死ぬまで蓋をしようと決めていた。
 それなのに、目の前にあるのは最悪な結末だ。
 あまりにも惨めで、遣る瀬無い。

 間抜けな自分が悪いのだと、痛いぐらい分かっている。
 だけど、こんな風に終わってしまうなんて、あんまりじゃないか。

「すばる、もう具合はいいの、」
 急に背後から声が掛かって、ぼくは慌てて振り向いた。
 廊下側から、母が心配そうに此方を窺っている。
 扉を開け放したままだったことを、ぼくはすっかり忘れていた。

「はい。暁芳兄さんが……介抱して、くれましたし……、」
 名を口にしただけで、彼の拒絶を思い出して声が小さくなる。
 ほんの少し俯くと、母は安堵したように息を吐いた。
 また心配を掛けさせてしまったのだと気付き、ぼくは詫びるつもりで、深々と頭を下げた。

「母さん、……ご心配をお掛けして、申し訳ありません。」
「どうしたの急に。私はすばるの母親よ、親が子供の心配をするのは当然でしょう、」
 温かい言葉が耳に響いて、胸中で罪の意識が渦巻く。
 こんなにも優しい母にすら本音を打ち明けられず、まっとうに生きられない自分を恥ずかしく思う。

 ぼくは……同性を、しかも実の兄を好きになった、どうしようもない人間だ。
 母の人間性を前にして、余計に、手をついて詫びたい気分になった。

「ねえ、すばる。結婚するって話、お兄ちゃんから聞かされたんでしょう。だから、そんなに元気が無いのね。……暁芳ったら、久し振りに戻って来たかと思えば急に結婚するだなんて、困るわよね。あの子は、昔からそう。何でもかんでも、自分で決めちゃう子だったもの。」
 困ると云いながらも、母の口調は嬉しげだ。
 兄の結婚を心から祝福しているのだと、痛いほどよく分かる。

 だけど、ぼくは……今でも、喜べないし祝えない。
 そんな己の醜さが嫌で、もっと立派な人間になりたいのになれない事が、歯痒くて堪らない。

 婚約者の写真を見せて貰ったのだと語る母に向けて、ぼくは震えた声を放った。
「母さん、ぼくは……兄さんに、祝いの言葉を掛けてあげられなかったんです。」
「うん。多分、そうなるだろうなって、お母さん思ってた。」
「……え……、」
「すばるは、暁芳が大好きでしょう。昔、すばるのお友達が暁芳に懐いただけで、やきもちを焼いたりして……家出したの、覚えてる?」
 過去の失態を持ち出されて、無性に恥ずかしくなる。
 大好きの意味合いが違うことを、見透かされていないかとの不安も合わさり、居た堪れない。
 親に対してすら臆病になっている自分を情けなく思いながら頷くと、母は柔らかい微笑を見せた。
「暁芳もね、すばるのことが大好きなのよ。きっと私たちよりも、すばるに一番、祝って欲しいんじゃないかしら。……人間って大半が、自分を優先にしちゃうでしょう。ひとの幸せを心から祈ることって、簡単なようで意外と難しいのよ。でも、すばるは強いから、ひとの幸せを祈れる人間になれると思うの。」
 結婚を祝福出来無いぼくを、母は責めなかった。
 まるで諭すように、優しくて温かい物言いで……正直、そっちの方がぼくには、こたえる。
 自分の非を認めている時は優しい言葉を貰うよりも、責められたほうがずっと楽だ。
 返すべき言葉も見つからず、黙り込んでいると、不意に母が笑い声を立てた。
「すばるは知らないと思うけれど……暁芳ね、すばるは誇りだって、いつも自慢していたのよ。」
「自慢……?」
「すばるは出来た人間だから、本当の独りにはならない、って。口癖のように云っていたの。」
「……あの、兄さんは……何処へ、」
「私が帰ってから、すぐに出かけちゃったのよ。最後の日ぐらい、家でゆっくりしていけばいいのにね。」
 母が眉を寄せ、残念そうに小さな溜め息を吐く。
 それが合図だったかのように、階下から電話の呼び出し音が響いた。
「お父さんよ、きっと。さっきね、結婚祝いは何を買えばいいんだって電話を掛けてきたの。暁芳からは、挙式は来年だって聞かされたけれど、正確な日にちはまだ決まっていないのよ。ほんとうに、せっかちなんだから。ティーセットにすればって云っておいたから今度は多分、どんな模様がいいか訊いて来ると思うわ、」
 母は口元を押さえて笑い、その場から立ち去って階下へ向かった。
 呼び出し音は丁度、十二回目で途絶えたが、1分も経たぬ内に再び鳴り響く。
 父はいつも、その回数で一度電話を切って再び掛け直すひとだから、分かり易い。
 閉めようと部屋の扉へ近付いた途端、電鈴が止んだ。
 耳を澄ませば、電話に出た母の声が微かに聞こえる。
 扉をそっと閉めて視線を移し、ぼくは机上に置かれた便箋を見据えた。

 あまりにも、間抜け過ぎる結末。
 今でも恥ずかしくて、情けなくて、消えてしまいたいぐらい惨めだ。
 こんな想いを背負ったまま生きてゆくほど、ぼくはまだ、強くもない。

 ……けれど兄は、こんなぼくを誇りだと思ってくれている。
 その言葉に、ぼくは応えたい。

 ぼくは、まだ強くない――だからこそ、強くならなければいけない。
 どれだけ格好悪くても、惨めな想いをしても。
 目の前にある現実を、受け入れなければいけない。
 決意を胸中に抱きながら窓へ近付き、天を仰ぐ。
 点在する光が、夜空で瞬いてとてもきれいだ。
 窓硝子を開けて桟に腰掛け、ベガを探そうと視線を動かす。
 一際明るく輝く、青白い星はすぐに見つかった。

 織女星のベガ、牽牛星のアルタイル、白鳥座のデネブが描く三角形は、夏の大三角と呼ばれている。
 昔、星が大嫌いだった頃は、夏の大三角すら見つけられなかった。

 まだ小学生だった頃、夏休みの宿題で星の観察をしなければならなかったのだけれど、星座を見つけるのが下手だったぼくは、毎晩、夜空を睨みながらべそをかいていた。
 望み通りに見つからないから、余計に、嫌いになってゆくばかりだ。
 そんなおり、兄が、先ずは織女星のベガから探すのだと教えてくれた。
 教科書では白鳥座のデネブから見つけると書かれてあったのに、兄の探し方はまったく違っていた。

 光度が0等のベガは、北半球ではもっとも明るい星だから見つけ易いらしい。
 ベガを見つけたら、次は牽牛星のアルタイルを探す。
 最後にデネブを見つけて夏の大三角を目印に、星座を探してゆく方法が一番分かり易い。
 暁芳兄さんは本当に愉しそうに、星のことを教えてくれるものだから、ぼくも夢中になった。
 授業で聞くよりも、彼が語ってくれたほうがずっと印象に残ったし、愉しくてたまらなかった。

 次第に、夜空で瞬く光がぼやけ始める。
 兄のことを想うと胸が痛くて、息苦しい。
 慌ててかぶりを振り、夜空に目を凝らす。
 暁芳兄さんとよく星を観にいった真栂まつが神社へ、無性に行きたくなった。

 徐々に強まる衝動は抑えられず、ぼくは部屋を飛び出して階段を駆け下りた。
 玄関先で電話をしている母に出掛けることを告げ、家を出て真栂神社へ向かう。
 月明かりで照らされた道を、軽やかに疾走した。
 乾いた夜風が肌に触れて、心地いい。潮騒が、耳に響く。
 鼻先を擽る潮の香りが、いつもより濃く感じた。



 十五分ほど走り続けて、鳥居の前へ辿り着いた。
 鳥居をくぐった先に待ち構えているのは、傾斜が急な石段だ。
 そのうえ、段数は九十近くもあるのだから訪れるひとは極稀で、今も人の気配は感じない。
 手摺りに触れながら石段をのぼると、密集した樹木が目に映る。
 神社の周りは、スギやヒノキなどの木々に囲まれていて、視界の端に見える巨木には紙垂しでのついた縄が巻きついている。

 生い茂った木々の合間を、参道にそって奥へ奥へと進んだ。
 月明かりが次第に届かなくなって、境内は薄暗くなる。
 閑静な社の前で参道が途切れても構わず、社の裏へ向かうと、木の柵が行く手を塞いだ。
 昔とは違って背丈が随分伸びているぼくは、柵を難無くよじのぼり、乗り越えられる。
 子供の頃は、まだ小さかった身体では上から通れず、柵の下の隙間をくぐっていた。
 そんなぼくとは対照的に軽々と柵を乗り越える兄の姿は、とても魅力的だったのを今でも、よく覚えている。

 柵を越えて少し進んだところに、視界が一気にひらける場所がある。
 星座観察には、最適の場所だ。


 この場所を教えるのは、すばるにだけだ、と。
 優しい声を掛けてくれた、昔の兄の姿が脳裏に浮かぶ。
 あれ以来、星を観る時はいつも、暁芳兄さんがぼくの手を引いて此処に連れてきてくれた。
 過去の記憶に想いを馳せながら更に奥へ進むと、ようやく、月明かりの下に出た。

 視界いっぱいに星屑の群れが広がって、無意識に口が開く。
 が、少し離れた先で空を仰いでいる人物に気付き、ぼくは慌てて唇を閉ざした。
 一呼吸置いて「兄さん」と呼び掛けてみると相手は振り向き、驚いたようにほんの少し眉を上げた。

「おまえも、此処に来たのか。」
「はい。今夜は、いつもより星が良くみえますから、」
「そうか、……こっちは、こんなに星がみえるんだな。忘れていたよ。向こうだと、街の灯りが多すぎるし空気も澄んでいないから、天の川なんて全くみえない。」

 兄は苦笑し、再び夜空を仰ぐ。
 その横顔を暫し眺めて、ぼくは躊躇いながらも兄の隣へ並んだ。
 彼が一瞬でも嫌がる素振りを見せたらすぐに離れようと決めて、ぼくは注意深く顔色を窺った。
 意外なことに、暁芳兄さんは穏やかな表情を崩さない。
 兄が今、何を考えているのか気になって視線を注いでいると、相手は急に口を開いた。

「知っているか、すばる。星の光が地球に届くには、光速でも時間が掛かる。織女星を見てみろよ、あれは地球から25光年離れている。だから、いま目にしている織女星の光は25年前に星から発せられたものなんだ。ひょっとしたら、ここから見える星のどれかは、もう死んでいる星かも知れない……俺たちは、過去の星の輝きをみているんだぜ。」
 嬉しそうな表情をして衒い無く云う兄の姿に、口元が自然と緩む。
 兄は、知識をひけらかす訳でもなく心底愉しそうに語るものだから、余計に夢中になって聞き入ってしまう。
 好奇心を掻き立てられて織女星のベガに目を凝らすと、兄から教わった言葉が脳裏に浮かんだ。


 ――織姫と彦星は、15光年も離れているんだよ。
 だから簡単には逢えないんだ。一年に一度逢えるなんて、本当に、夢の話さ。


 七夕の星として有名な織女星と牽牛星が出逢うには、15年以上も掛かるほど、距離が離れている。
 だけど、どんなに離れていても、お互いに想いあっているのなら、距離なんて大きな障害にならないだろうと、ぼくは思う。
 大好きなひとの傍にいても距離を感じるのと、想い合っていても簡単に逢えないのとでは、どちらが苦しいんだろう。

「……兄さん、結婚する相手って、どんな女性なんですか、」
 ベガを眺めていたら、無意識に言葉が出た。
 答えを聞いても辛いだけだと分かっているのに、ぼくは母が云ってくれたことを思い出し、質問を取り消さなかった。

「どうしたんだ急に、……そうだな。とても優しくて、できのいい女性だよ。愛嬌もある。親父たちも、きっと気に入ってくれると思うよ。」
 その女性を思い浮かべるように、暁芳兄さんは遠くを見て笑った。


 ――すばるは強いから、ひとの幸せを祈れる人間になれると思うの。

 母の言葉が、先刻から、ぐるぐると頭の中を駆け巡っている。
 それなのにぼくは、またしても祝いの言葉を口に出来なかった。
 胸が、むかむかする。
 込み上げてくる汚い感情を抑えようと、視線を夜空に逃し、不自然なほど話題を変えた。

「兄さん、ぼくは絶対等級の話を最後まで聞いていないんです。」
「確か……退屈で眠ってしまったんだっけ。幼いおまえには難しい話だったからな。」
「でも、今なら聞けます。教えてくれませんか、」
「いいよ、先ずは……そうだな。1等星や2等星と云った、天体の明るさを示す等級だが……あれは肉眼で見た明るさであって、本来の明るさじゃないんだ。」
「肉眼で見た明るさは、視等級ですよね?」
「何だ。勉強しているんじゃないか、」
「少ししか調べていません。2等星より1等星のほうが明るく見えるのは、地球からその星までの距離が近いから……ぐらいしか、」
「中途半端だな。そこまで調べたら絶対等級も調べておけよ。」
 愉快そうに笑って、兄はぼくの頭を撫でてくれた。
 すぐにその手は離れていったけれど、急上昇した体温は下がらない。
 ほんの少しだけ俯けば、兄の声が耳に響く。
「簡単に云えば、天体を同距離に移動させた想定の明るさが絶対等級だ。地上からの距離に依存していない、本来の明るさ、だな。絶対等級だと太陽の明るさは平凡で、太陽より明るい星はいくつもある。織女星が、太陽より五十倍の明るさで輝いているんだと以前、教えただろう?」
「はい。ちゃんと覚えています。……ぼくは、兄さんに教えて貰ったことは絶対に忘れない。」
 顔を上げ、兄をまっすぐに見据えて告げると、彼は「そうか」と呟いた。
 それきり黙ったままで、何も云わない。
 沈黙がひどく重く感じて、息苦しい。
 昔は、暁芳兄さんとぼくの間に、こんなにも重い空気なんて無かった。

 あの頃の関係に、戻りたくて。
 まだ、自分だけの兄でいてほしくて、名前を知っていると云うのにぼくは、淡く輝く黄色の星を指さした。

「兄さん、あれは……あの黄色く光っている星は、なんです?」
「北極星、だな。小熊座の尾の部分だ。動かない星と云われているが、実際は地軸の延長上からほんの少し離れているから北極星も僅かに移動するんだぜ。……その上に、竜座のトゥバンがみえるだろう。あれは、5千年前の北極星だよ。1万2千年後には地軸の向きが変わって、今度は織女星が北極星の位置にくるんだ。」
「やっぱり兄さんは、すごいです。色々なことを知っている。……兄さんは、星に関する職に就くんだと思っていた。」
「……なかなか思い通りにいかなくてな。だが、今の職は性にあっているんだ。多忙過ぎて、余計なことを考えずに済む。……それに、上司のお陰で、いい女性とめぐり合えたしな。」

 そう云って笑う兄が、やけに遠く感じる。


 一方的な愛は、さびしくて、苦しくて。
 大好きなひとは、あまりにも遠すぎる。


「……そろそろ、帰ろうか。」
 短い言葉を放って、兄は昔みたいに手を差し出してくれた。
 兄と手を繋いで帰路を辿った記憶が、鮮明に蘇る。
 暁芳兄さんの優しさが、嬉しくてたまらないのに……胸は、張り裂けそうなぐらい痛かった。


 手を繋いでいても、隣を歩いていても、距離は縮まらない。
 傍にいても彼が遠く感じるのは、ぼくが、叶わない想いを抱いているからだろうか。

 恋心に気付かないままだったら、こんなにも切ない想いは抱かなかったし、大好きな兄を困らせることも無かった。
 ぼくが、恋心さえ抱かなければ……ずっと変わらず、仲のいい兄弟でいられたのに。


 胸が咳き上げて堪らず、咄嗟に、繋いだ手から顔をそらした。
 見れば、兄は真っ直ぐに前を向いていて、声すら掛けてくれない。
 暁芳兄さんとの間に沈黙が生じるのには耐えられず、必死で話題を探す。
 ふと、昼間に従姉から聞いた話を思い出した。

「兄さん、明後日は流星群がみれるんですよ、」
「知っているよ、ペルセウス座流星群だろう。だけど俺は、東京に戻るよ。……おまえと星をみるのも、これっきりだ。」
 衝撃的な言葉が響くと、ぼくの足はぴたりと止まった。
 絡まっていた指がほどけて、繋いでいた手が、ゆっくりと離れてゆく。

「どう、して……ぼくが、兄さんを……、……好き、だから……?」
 抑えられず、とうとう言葉に出してしまった。
 暁芳兄さんの表情が曇って、眉まで顰められる。
 それを目にしたら胸が痛んで、途方も無い切なさが込み上げた。

「ごめん、なさい。応えて貰いたいなんて、厚かましい願いは抱きません。でも兄さんを諦めることなんて、ぼくには……できない。」
 震えた自分の声が耳に届いたけれど、暁芳兄さんの返答は聞こえない。
 永遠に続くかのような長い沈黙が、ぼくを責める。
 何もかもを忘れて泣き喚いてしまいたかったけれど、そんなことが出来る筈も無い。


 ぼくは、云ってはいけない想いを、言葉にしてしまった。
 自分の想いを押し付けたに過ぎないのだから、泣いていい立場では無いのだ。
 同性に恋心を抱かれて、望んでもいない状況に置かれた兄のほうが、ずっと辛いに決まっている。
 俯いて唇を噛み締めると、静かな物言いで名を呼ばれた。

「……すばる、俺たちは男同士で、そして兄弟だ。仮に交際したとしても、後ろ指をさされるのは目に見えているだろう。おまえは、まだ十七で、若い。俺が……俺が縛ってはいけないんだよ。分かるだろう……分かってくれ……、」
 最後のほうは、まるで懇願するような声音だった。
 顔を上げて見れば、兄はぼくに向けて、頭を下げている。
 兄のその姿を目にして、身体が衝動的に動いた。
 素早く頭を上げた兄の胸へ、飛び込む。
 彼は、ぼくを無理に引き剥がすことも、突き放すこともしなかった。
 熱い感情が身体の奥底から溢れ出て、もう、とめられない。

「……兄さん、好きです……ずっと……ずっと好きだった……、」
 彼にとっては、重荷にしかならない感情を吐き出す。
 暁芳兄さんの背に腕を回して抱きついても、ぼくの耳には沈黙しか返って来なかった。


 分かりきっていた、ことだ。
 それなのに胸は締め付けられたように苦しくて、心が、痛い。

 腕に力を込めて、離れまいとするように、もっときつく抱きつく。
 何度も何度も、好きだと、繰り返す。
 自分の身勝手な想いを、ぼくは何度も押し付ける。

 彼の腕が、ぼくの身体を抱き返してくれることは……どれだけ待っても訪れなかった。



 翌日、目を覚ますと、時刻は昼をとうに過ぎていた。眠りすぎた所為で、少し頭痛がする。
 気だるい身体を動かして階下へおりたが、兄の姿はどこにも無かった。

 昨夜は兄と一言も喋らずに帰宅し、部屋へ戻るとすぐに眠りに就いたのだから、何時に帰るのか聞きそびれた。
 ひょっとして、ぼくが眠っている間に東京へ帰ってしまったんだろうか。

 慌てて二階に戻り、兄の部屋へ向かった。
 部屋の扉が閉まっていたから、ぼくは廊下側から声を掛け、控えめに何度か扉を叩く。
 扉は直ぐに開かれたけれど、顔を出したのは兄では無く、母だ。

「か、母さん……兄さんは、暁芳兄さんは……、」
 内心、縋るような想いで尋ねると、暁芳兄さんは朝一番の電車に乗って、もう東京へかえってしまったのだと聞かされた。

 昨夜の自分の醜態を考えれば、兄のその行動は当然のことなのかも知れない。
 拒絶されても仕方の無いことを、ぼくはしてしまった。
 でも、黙ったまま帰ってしまうなんて、あんまりだ。
 どうして誰も起こしてくれなかったのかと、憤りすら覚える。

「なんで起こして……くれなかったんですか、」
「暁芳が起こさなくていいって云うんだもの。すばるの顔を見たら、東京に帰れなくなるって。お父さんたら、いっそすばるも連れて帰ったらどうだ、なんて云うのよ。すばるまで家を出たりしたら、お母さん淋しくてたまらないわ。あ、これ……暁芳がね、すばるに渡してくれって。」
 暁色の封筒を差し出されたが、ぼくはそれを受け取ることに躊躇いを覚えた。
 昨夜から、どうにも気が滅入って臆病になっている。

 見ただけでは封筒の中身は分からないが、封筒のサイズからして手紙だろう。
 本来なら、兄からの久し振りの手紙に大喜びしていた筈だ。
 今のぼくでは気落ちしてゆくだけで、心から喜べない。
 黙って東京へかえってしまった彼が、わざわざそれを置いてゆくなんて、ぼくに面と向かって口に出来無い言葉が、書かれているのでは無いだろうか。

 例えば……昨夜の、ぼくの醜態を責めるような、言葉。
 昨夜のことに後ろめたさを抱いている所為で、ぼくは悪いほうへと考えてしまう。

 なかなか受け取ろうとせずにいると、母が案ずるように名を呼んだ。
 母に心配だけは掛けさせないよう封筒を手に取り、眺めてみた。
 封蝋は暁芳兄さんらしく、綺麗に整っている。
 兄の姿が鮮明に浮かびあがって、ほんの少し息苦しさを感じていたぼくの耳に、母の笑い声が響く。

「すばるに宛てた暁芳の封筒は、いつもその色よね。」
「そう云われて見れば、そうですね。……何でだろう、」
「あら……すばる、覚えていないの?」
「……何を、ですか、」
 封筒から顔を上げて尋ねると、一瞬だけ間があき、母が苦笑した。
「今、お兄ちゃんにちょっと同情しちゃった。……あのね、すばるがまだ小さい頃の話なんだけれど……その色が大好きだって何度も云ってたのよ。お兄ちゃんの名前の色だから好き、って。昔の二人のやりとりって、本当に可愛かったんだから。」
 愉しそうに語られて、恥ずかしさで居た堪れなくなる。
 極僅かだが、そんな言葉を口にしていた記憶が残っているものだから、余計に恥ずかしい。
 顔が熱くなって少し俯くと、母の淋しそうな声が続いた。
「二人とも、あっという間に大きくなっちゃって……男の子は本当に成長が早いわよね。すばるも、いつかこの家を出て結婚したりするのかしら。」
 窺い見れば、彼女は兄の部屋を名残惜しそうに見回していた。
 微かに笑みを浮かべているその表情は、喜んでいるようにも、淋しがっているようにも見える。
 暁芳兄さんの結婚を祝福していても、やはり心の何処かでは母も、さびしいのかも知れない。
 自分の子供が大人になってゆくと云うことは、喜ばしいことで有ると同時に、さびしいことなのかも知れない。
 ぼんやりと考えて、母に向けてかぶりを振った。

「先のことは分かりません。その……結婚、とかも……今は実感が湧かないし、」
「そうね。未来の自分がどうなるかなんて、分からないものね。……やだわ、ちょっと湿っぽくなっちゃった。歳かしら?」
 母はそう云って、そそくさと部屋から出て行く。
 暁芳兄さんのいない部屋に残されて、ぼくも室内を見回してみた。


 ……そうだ。
 明日とか明後日とか、その先も、自分がどうなるかなんて分からない。
 分からないからこそ、変えてゆけるものだってあるんだ。
 兄をもう困らせないで、結婚を祝福できる人間になれる可能性だって……有るのかも知れない。

 封筒を暫く眺めて、少し迷ったのち、ぼくは思い切って開封しようと決めた。
 蝋の形があまり崩れないようにと、慎重に封を開く。
 なかには便箋が数枚入っていた。
 それを丁寧に広げると、懐かしい筆跡が目に映る。
 暁芳兄さんの筆跡は、字の跳ね方が独特だけれど、全体的にきっちりと纏っていて見易い。
 一度深呼吸して、ぼくはあらためて文字を目でなぞった。

『すばる、おまえに手紙を書くのは久し振りだな。黙ったまま東京に戻ったりして悪かった。
 辛そうなおまえの姿を見てしまったら、正直、帰り難くなる。とんだ兄馬鹿だよな。
 そう云えば、以前、封蝋が上手く出来無いと手紙に書いてあっただろう。
 芯の無い蝋を使ったほうが、上手く出来るから試してみるといい。
 匙で少し切り取って、下から火で熱すれば綺麗に溶ける。溶かしすぎないよう注意しろよ。蝋が薄くなってしまうからな。

 手紙と云うのは、不思議なものだな。
 こうして文字を書くと、心がとても穏やかになるよ。昨夜は、すまなかった。
 おまえと星をみるのもこれっきりだなんて、言うつもりじゃ無かったんだ。
 上手い言葉を探せば探すほど本心から遠のいてゆくのは、どうしてだろうな。
 昔みたいな関係に、と云うのは無理な話かも知れないが、おまえとは、これから先も仲のいい兄弟でいたいと思っているよ。
 俺の、携帯電話の番号を書いておく。何かあったら、いつでも掛けてくれていい。
 おまえは俺の、これから先もずっと、俺の、大切な弟なんだ。』


 ――大切な“弟”。

 文面を何度も読み返して、指でなぞる。
 まだ心のどこかで、必死でしがみついている自分に、言い聞かせるように……何度も、何度も読み返した。


 弟以上には、決してなれないのは、とても、さびしいことだ。
 だけど、これからも暁芳兄さんの弟でいられる。
 大好きなひととの繋がりが、残っている。

 あんな醜態をさらしてしまったと云うのに、兄は、ぼくを弟だと思ってくれている。
 暁芳兄さんの、その優しさを傷つけることなんてできない。

 ……ぼくは、もう、この恋を終わらせないといけないんだ。



 深夜2時近くまで勉強に励んでいたぼくは、ふと手を休めて窓へ近付き、窓紗を開けた。
 硝子に触れて、星空をじっと見つめる。
 数分も経たない内に、夜空に一瞬だけ光が走って消えた。
 ぼくは素早く財布を掴み、部屋から出た。
 階段を、物音を立てまいと集中しながら降りて玄関へ向かう。
 もし両親が起きても心配することが無いよう、電話台の引き出しから取り出した紙に、「流星群を観に行ってきます」と走り書きを残して、静かに外へ出た。
 暫く夜道を歩いていたが、家から大分離れたところで走りだす。
 下り坂を抜けた先の、堤防沿いの道には公衆電話が一つある。
 財布の中から小銭を取り、覚えている番号に電話を掛けた。
 呼び出し音が続き、6回目を過ぎたところで、回線が繋がる。

「兄さん、夜分に申し訳有りません、」
「すばるか……どうしたんだ?」
「いま、流星がみえるんです。兄さん、みていますか、」
「ああ。みているよ。」
「……兄さん、流星って確か、塵が燃える現象ですよね?」
「そうだよ。以前、おまえに教えたよな。覚えているんだろう、」
「はい……でも、もう一度聞きたいんです。間違って覚えていたらと思うと、不安で……、」
 受話器を強く握り締めて、嘘をついた。
 兄から教えてもらったことは、すべて忘れずにいるし、間違って覚えるなんて有り得ない。

 ぼくはただ……兄の声を少しでも長く、聞いていたかった。
 兄に嘘を吐いたことに罪悪感を抱きはしたが、訂正する気にはなれない。
 ぼくの嘘を見破った様子も無く、彼は受話器の向こうで嬉しそうに笑った。

「すばるは本当に星が好きなんだな、嬉しいよ。……彗星があるだろう。あれは、塵を撒き散らして飛んでいるんだぜ。軌道上に、塵の群れを残すんだ。その近くを地球が通ると、たくさんの流星が見える。塵が地球の引力にひかれて大気の層に突入し、空気との摩擦で燃え上がって発光するんだ。それが、流星群だよ。」
 一言も聞き逃すまいと耳を澄ましていたぼくは、兄が言葉を紡ぎ終えるとすぐさま口を開いた。
「ありがとうございます。……やっぱり、覚えていたのと少し違っていました。」
「それなら、これから先もまた、俺が教えなければいけないな。」
 笑い声をまじえて、揶揄してくる。
 まるで昔に戻ったみたいで胸の奥底が温かくなって、表情が緩み、ぼくも笑い声を零した。
 その瞬間、夜空で、またひとつ星が流れた。
 流星が降ってゆく様を見て、ふと、昔聞いた言葉を思い出す。

「そうだ、兄さん。昔教えてくれたこと、覚えていますか。流星は神さまが……、」
 言葉の途中で、受話器の向こう側から「暁芳」と呼ぶ女性の声が響いた。
 電話相手は誰なのかを尋ねる女性に、弟だと説明する兄の声は親しげで優しい。
 ほんの短い会話でも親密さが溢れていて、彼女が兄の婚約者だと云うことは、直ぐに分かった。

 暁芳兄さんはもう、ぼく一人が独占できる存在じゃ無いんだと思い知らされて、
 無性に、さびしい気持ちになる。


 同じ夜空をみて、電話で繋がっていて、声だって耳元で聞こえる。
 距離だって、逢えないほど遠い訳でもない。
 だけど、泣きたくなるほど、遠く感じる。
 暁芳兄さんが、あまりにも遠くて、遠すぎて――手が、届かない。
 捕まえることも、できない。

「すばる、すまない。これから、彼女と出掛ける予定があるんだ。」
「流星群が良くみえる場所に……ですか、」
「ああ、そうだよ。悪いが、日を改めて電話をする。」
「構いません、気にしないでください。……あの、ぼく、兄さんに言い忘れていたことがありました。」
「……なんだ?」
 尋ねてくる兄の声は、ぼくに対しても、親しげで優しいものだった。
 それでもう、充分だ。
 目を伏せたぼくの胸中に、母の言葉が浮かぶ。

 きっと、今が、その時なんだろう。
 もう、終わらせないといけないのだと思うけれど、祝福の言葉は零れない。
 一度息を深く吸って、ぼくは真っ直ぐに前を見据えた。


「……お幸せに……どうか、幸せになってください。今のぼくの、心からの願い……です、」
 おめでとう、とは、やっぱり云えなかった。
 でも、大好きな兄には幸せになって欲しいと、強く思う。


 今はまだ、ぼくは弱いままで、汚い感情も少し抱いてしまうから、心から祝福はできない。
 彼の幸せを願うことしか、できない。

 だけど、いつかきっと、おめでとうと心から云えるようになってみせる。
 この先の自分が、どう変わるかは分からないけれど、ぼくはそうなりたい。

 ぼくはもっと強く、ならなければいけない。
 大好きな暁芳兄さんの……“弟”なのだから。

「……ああ。……すばる、……ありがとう、」
 優しい声が耳の奥に響いて、目をきつく瞑った。
 泣いて縋ってしまいそうな衝動を必死で抑えながら、ぼくは素早く、「おやすみなさい」と告げて通話を終えた。

 受話器を戻して歩き出し、堤防上へあがって腰をおろす。
 夜空を見上げれば、無数の星が輝く合間を、また一つ、光が斜めに通り過ぎてゆく。
 まるで、光の粒が落ちてゆくようだ。

 昔、暁芳兄さんと流星群をみていた頃、彼があたえてくれた言葉が鮮明に蘇った。


 ――どこかの国に、伝わる話なんだけれどね。
 神さまが地上の様子をみるために、天の扉をあけるんだ。
 その時に隙間から洩れた光が、流れ星になるんだよ。
 神さまが扉を開けているあいだは願いごとが届きやすいから、流れ星に祈れば、叶うと云われているんだろうな。
 この時期の流れ星はたくさん見えるだろう。
 祈れば、本当に叶うかも知れないな。
 すばるの願いごとは、なんだ? ほら、祈ってごらん……。


 優しい声が、傍ではっきりと聴こえた。
 誰かをこんなにも愛しく、切なく想い続けたのは初めてで、それはとても嬉しくて、そして悲しい。
 胸の内で感情が強く渦巻いて、涙が、頬を伝って零れ落ちた。

 ぼくの願いは、ただ一つ。
 例え、さびしくても、途方もない切なさを抱いても、それでもぼくは祈っている。

 ――世界中の誰よりも、幸せになって欲しい。

 光が降りしきる空の下で、強く強く、祈っている。
 何よりも大好きだったひとの幸せを、ぼくは、ただひたすらに祈り続ける。

 これから先も、ずっと、ずっと――。


終。
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