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第11話
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潮風が吹いて居る。海猫が鳴いた。海猫は滄海の上を気持好さそうに滑空して居る。町から然う遠く無い浅瀬で魚を捕って居た。
猫の多い町だった。彼方此方に居た。首輪はして居ない。野良の様だ。野良猫は屋上同士を結ぶ縄の上を危な気無く渡って行く。然うして時折、住民から餌を貰って居た。
猫は日当りの好い屋上で寝転がって日向ぼっこを楽しみ、腹が空く頃合には適当な人間を見繕って餌を強請った。
甘えた、文字通りの猫撫で声を出して、体を擦り附けて何とか餌を分けて貰おうと懇願して居る。要求された人間は余り物の魚を贈って居た。
猫は魚を咥えると一目散に駆け出し、誰も居ない屋上でゆっくりと食事を楽しんだ。海猫が自力で食料を調達して居るのとは対照的な光景だった。
町の建物は外周に行く程に低く、中央部に行く程に高かった。外側の大海に面した部分は一階建てしか無く、其れよりも内側は二階建て、更に内側は三階建て、其の又内側は四階建て……と云った具合に増えて行き、丁度中央に有る建築物は十七階建てに為って居る。
屋上とを結ぶ縄は同じ高さ丈でなく異なる高さの場所にも設置してある。運動能力の高い猫――に限らず人間――は勾配の有る縄でも気にする事無く移動して居る。
然し自信の無い者、或いは運動能力が低い者は舟を使う様だ。人間ならば自力で舟を動かす者が多いが、猫に其の様な真似は出来ぬので、彼等は遠慮無く人の舟に乗って彼方此方を行ったり来たりして居る。
何うしても思う所に行けない場合は諦めるか、例の猫撫で声で懐柔するかの何方かの様だ。
建物の内部は普通の住居に為って居る。但し最も外側に有る建物は別で、漁をする為の道具が了われて居る。
其れから傘を作る為の材料の類いも有った。二階建てよりも高い建物は家屋で有る様で人が住んで居た。勿論空部屋も大量に有る。
誰も住んで居ない建物さえ存在して居り、一人が一つの家屋を専有しても未だ余りが出て了う程に此の町の人口は少ない。人と、猫と、海猫以外の生き物は居なかった。
屋上と屋上の間は縄で結び附けられて居る。中央の一番高い建物から見ると、蜘蛛の巣を思わせる。中央には誰も住んで居ない。大抵の人間は外側の海に近い二階建てや三階建てに居を構える。
内側に住む変り者は先ず居ない。猫も寄附かず、海猫も茲には来なかった。十七階建ての高層建築物は、海の果ての水平線迄も判切と見せて呉れた。
三六〇度、視界の端から端迄見渡して見ても、他の町や陸地は見えなかった。遠くに漁船が有る。然し其れ丈だった。漁船は此の町の物で、別の町から遣って来た物では無かった。漁を終えれば茲に帰って来る様だ。
周囲に十七階建てよりも高い建築物は存在しない。故に太陽の明かりを遮る物も存在して居なかった。日差しが容赦無く照り附けて来る。暑い。年若い男は十七階建ての屋上で溜息を吐いた。
施錠されて居ない扉から屋内に移る。直射日光を浴びなければ涼しい様だ。外を歩く時は日傘が欲しい所だが、移動術に使って消費して了った影響か紛失して居た。
何処かで調達する必要が有った。町の中心である十七階建ての建物から外に向わなくては為らない。
面倒だな……と年若い男は思った。一つ一つの屋上の面積は其れなりに広く、お負けに建物と建物の間は可成り離れて居た。
縄を伝って移動しようと思えば、何うしても落下の危険を考慮せざるを得ない。流石に十七階建ての屋上から落ちる事態は避けたかった。何しろ町の中心部には人が居ない。
当然、舟も近寄って来ないのだ。落下して水面に叩き附けられれば怪我をする可能性が高く、人が居ないのでは助けて貰える確率も著しく下がる。故に縄を使う選択肢は無い。
年若い男は下へ下へと階段を降りて行く。最初は一気に降りる為に昇降機を探したのだが見附からなかった。作られて居ないと云うより町に存在して居なかった。
電気が無い為に作った所で役に立たないらしい。仕方無く年若い男は螺旋階段を降りて行く。目が廻るので余り好かなかったが、之しか階段が無いのだから仕方が無い。
渋々乍らも年若い男は一階迄然う遣って行った。此の建物の中には誰も居ない。何と無く彼の少年が居るのでは無いかと思ったのだが当てが外れて了った。
否、彼の少年ならば此方の能力から隠れる事くらい造作も無いだろう。能力に頼らずに探して見よ、と云う事だろうか。其れとも仲間を捜してから来いと云う事か。
何方にしても先ずは人の居る所に趣かなくては話に為らない。年若い男は一階に着くと扉を探して外に出た。都合好く水路に舟が一艘、停まって居た。
櫂を使って漕ごうとする。然し不慣れである故、中々巧く捌く事が出来ない。
結局可成り手子摺って了い、海沿いに出る頃には夜に為って居た。電灯の無い家々の窓には松明の明りが揺らめいて居た。
満月の夜で、盆槍とだが何う云う経路を通って行けば好いのかは判断出来た。年若い男は慎重に櫂を操って水路を往く。
髭面の男が年若い男の乗る小舟に気附いて、手を振って自分の方に来る様に誘導した。年若い男は髭面の男の指示に従って舟を動かす。
髭面の男の表情は丁度影に為って了って窺い知る事が出来なかった。が、声の調子から敵意は持って居ない事は分った。年若い男が船着き場に舟を停めて降りると、髭面の男は近寄って来て言った。
「旅人かい? 珍しいもんだな。茲の所あんたみたいな人が来る事は先ず無かったんだがね」
「人を捜して居るんです」と年若い男は言った。何処から説明すべきか判断が附かなかったので取敢えずは然う発言して置いた。相手は特に不審に思う様子も無く答えた。
「人捜しとは厄介なもんだな。けど生憎と先刻も言った通り異邦人が此の町に来たって話は聞かないぜ。尤も、此の町も何だかんだで広いからな……知らない間に誰かがどっかの家に這入り込んでるって可能性も十分に有る。他の連中に訊いて見ると好い。あんた、今夜の宿は?」
「決って居ません」と年若い男が首を振ると、「其れなら俺の家に来ると好い。なあに、金の事なら気にするな。何うせ何時も大漁だからな。尤も其の所為で魚介類ばっかりだけどな」と髭面の男は豪放に笑った。世話好きであるらしい。
髭面の男は自宅に案内すると言って歩き出した。年若い男は其れに附いて行く。船着き場には何艘もの船が碇泊して居た。
此の町には電気が全く存在して居ない為に船の動力は専ら風に依って賄われて居た。海と町とが隣接した此の場所には一定の間隔で松明が灯されて並べられて居る。
燈火は其れ程強い物では無く弱々しい物だった。空に真ん丸い月が浮んで居なければ、此の辺りはもっと薄暗かっただろう。月の光は水に反射して明るさを増して居た。
水揚げにも使われる此の場所は、陸路が全く存在しない町の中枢部分とは一線を画して居た。夜の暗さを紛らす為に態々松明を灯すのだと髭面の男は言った。
余り使うと松明に使って居る木々が燃尽きて了うんじゃないですか、彼れは貴重品なのでは無いですか、と年若い男が問うと髭面の男は不思議そうに、あんたの町じゃ木は消耗品だったのか? と言った。
此の町の木は燃えて無くなったりはしない様だった。年若い男は歩き乍ら近場の松明を分析して見た。髭面の男は夜の暗さを紛らす為と言って居たが、実際には朝から晩迄つけっ放しだった。
此の炎は消える事が無く、又燃料が切れる事も木が燃尽きる事も無いのだった。故に松明を取替える事も無く、尠くとも三〇〇年以上は変えられて居なかった。ずっと燃焼し続けて居るらしい。
髭面の男は焚火の周囲に集まって居る十数人の人間に、自分の所で暫く預るからと言って年若い男を紹介した。
集まっている人間は男女合せて十三人だった。男が七人、女が六人。海産物の他に何う見ても此の辺りでは取る事が出来そうに無い肉や野菜と云った物も食して居た。時々斯うして集まって食べたりもするのだと髭面の男は言った。
「尤も今日は参加しないけどな」と髭面の男は豪快に笑う。
「あんたも茲で暫く過ごせば嫌でも誘われるぜ? 朝迄どんちゃん騒ぎだからなぁ……お負けに逃げようとする奴は、意地でも追掛けて行って強制参加させるから、覚悟しといた方が好いぞ。まぁ尤も、兄ちゃんみたいな旅人は大抵逃げるのも巧いみたいだから、捕まえられるか何うかの鬼ごっこに為っちまう事が多い。別の意味での覚悟が必要かもな」
まぁ暫くは大丈夫だろうから俺の家でゆっくり英気を養うと好い、と髭面の男は言った。
其れから焚火の集まりを辞した。離れるに際して、折角だから食事を摂って行ったら何うかとの申し出が多数有った。
然し髭面の男が、悪いが今日は家内が飯を作っちまってるんだ、と言って断って呉れた。其れでも誘う者が幾人か有ったが之に対しては年若い男が、僕は暫くは滞在する積りですから其の時に又御願いします、其れに申し訣無いんですが今日は着いた許りで疲れて了って居るんです、と言って斥けた。
斯う言われては流石にしつこく誘って居た者も何うする事も出来ないらしく、諦めて見送った。髭面の男は自分に附いて来る様に言ってから再び歩き始めた。
暫くは松明の灯を追い乍ら進んだ。松明を七つ程通り過ぎると船着き場に辿り着く。其処には小舟が一艘停まって居た。
髭面の男は結んであった縄を解いて舟を出せる様にした。然うして髭面の男は櫂を手に「乗りな」と年若い男に言った。年若い男が舟に乗込むと、男は徐に漕ぎ出した。
出発して直ぐに水路に盆槍と浮ぶ燈火が目に附いた。比較的短い――大凡三米――の間隔で松明が立てられて居た。光は仄かに周囲を照し出して居る。
「気附いたかい? 兄ちゃんは運が好かったぜ。兄ちゃんが通って来た水路には松明が灯されて居ないからなぁ……彼処は夜に為ると殆ど真っ暗で周りが見えないんだ。今日は満月だから未だ好いけどな、之が新月に為ろうもんなら、もう慣れた奴でも満足に進めない。然う言う意味じゃ、夕暮れの光が残って居る内に港近く迄遣って来られた上に、其処から先は満月の光を頼りに舟を漕ぐ事が出来た兄ちゃんは物凄い幸運だ。まぁ尤も地元の人間じゃない兄ちゃんには今一つ実感が湧かないだろうけどな」
「いや、分りますよ」と年若い男は答えた。
「僕は舟を漕いだ経験が殆ど有りませんから、慣れる迄に相当の苦労が有りましたし、あれで周囲が暗闇に包まれて居たらと思うとぞっとしますね。丁度満月の夜で助かりましたよ。其れに当然の事乍ら此の辺の地理にも余り明るくは有りませんから。迷ったら何うしようかと……」
「いやいや謙遜しなくても好いんだぜ、兄ちゃん。此の町に来る旅人は何う云う訣か地理に明るいと言うか、初めての道でも平然と何処に何が有るのか分っちまうんだ。勿論、稀に方向音痴の奴が来たりもしたみたいだけどな。でも基本的には道に迷ったりする事の無い奴許りだ。兄ちゃんだって其の口だろう? あの道を使うのは旅人丈なんだよ。旅人は大抵が中央部から遣って来るからなぁ……毎度毎度不思議で仕方が無いんだけどよ。周りは海ばっかりだろう? 俺達もよ、一往は行って見たりとかすんだよ。けどな、何れ丈進んでも島一つ見えやしねぇ。何処迄行っても陸地なんざ有りゃしない。其れでも何処からか旅人が遣って来る。遣って来ると云うか……実は此の町の何処かに隠れてる丈なんじゃ無いかって話も有るんだけどな」
然う言って大声を出して笑う。音が山彦の様に反響した。音の反射が止むと、舟を漕ぐ音が耳に這入って来た。
髭面の男は櫂を巧みに操って舟を漕いで行く。舟は最初、真っ直ぐに前方を進んで行ったが、四つ目の十字路を右に曲った。更に道幅が狭くなる。
「まぁ然し実際問題、隠れて居る筈は無いんだよなぁ」と髭面の男は思い出した様に言った。道を曲って、暫く無言で漕いだ後の事だった。其れから又少しの間黙って、再び喋り出した。
「慥かに此の町は何だかんだ言って結構広い。だから何処かに隠れて居る丈だって説には、そこそこの信憑性が有る。だが何う考えても其れじゃ説明出来ない事が有る。食料を何う遣って調達して居るかとか、其れから行商人の存在に就いても隠れて居る丈じゃ説明し切れない。此の辺りじゃ絶対に取れない果物だとか野菜だとか肉だとかを持って来るんだ。週に一度くらいの割合で。其奴等が居るんだから、矢っ張り何処かに経路が有るんだろう。其れさえも秘密の場所で生産された物だって言う奴も居る。けど、俺は知ってる。行商人や旅人の事は俺も餓鬼の頃から不思議に思って居て、其れで此の町を探検して調べ捲った事が有ったんだ。でも何処にも秘密の生産場なんて無かった。海に出て仲間と一緒に島を探し出そうとした事も有った。だが見附かりゃしねぇ。矢っ張りよ、どっかに秘密の――生産場じゃなくてよ――道っつーか入口が有るんだろうな……然うだろ?」
髭面の男は少年の様な笑みを浮べて訊いた。年若い男は頷いた。
「然うか……旅人は皆然う言うんだ」と言って今度は寂しそうな笑みを浮べる。
其れから髭面の男は無言で舟を漕いだ。揺れが心地好かった。静かな町だと年若い男は思った。
水の飛沫と舟を漕ぐ音以外には何も聞えなかった。建物の玄関とも言うべき船着き場には必ず松明が一本灯って居る。薄ぼんやりとした輝きを放って居た。其処を緩やかに通って行く。
年若い男は何とも言えない気分に為った。何と無く、此の儘ずっと斯うして舟の上に居たい様な感情に駆られる。然し然う思った直後、髭面の男が目的地に到着した事を告げた。
髭面の男は小舟を着けると縄で縛って動かない様に固定した。其れから附いて来な、と言って年若い男を促した。
髭面の男は扉を開けて建物の中へ這入った。年若い男も後に続く。中には先ず広間が有る。そして二階への階段が目の前に伸びて居る。照明は洋燈が灯って居る丈で内部は薄暗かった。
窓から室内に月光が降り注いで居る。無月の夜ならば屋内は殆ど見えないのでは無いだろうか。年若い男は然う思った。
建物は四階建てで、髭面の男の部屋は三階に有るとの事だった。
事実上、此の建物に住んで居るのは自分達家族のみなのだから、別に殊更に三階丈を自分達の物であるかの様に言わなくても好いのだが、矢っ張り何うしても建物全部を使う気には為れず――と云うより、そもそも広い面積は要らない――結局三階のみを自分達の物として占有するに留めて居るのだと云う。
髭面の男は階段を登り乍ら然う教えて呉れた。足許は暗いが、見えなくて困ると云う程では無かった。
「何時もなら」と髭面の男は先導しつつ言った。
「夜は見ての通り暗くて何も見えないからな、手許に照明を持って行くんだが、今日は満月で曇っても居ない。だから洋燈要らずって訣だ。矢っ張り月夜は好いもんだな」
「此の町に松明や洋燈以外の明りは無いんですか? 見た所、電気は存在しない様ですが」
「『電気』ってのが今一つ何の事だが分らないんだが……取敢えず心当り有りそうな物は思い浮ばんな。多分、兄ちゃんの言う様な物は無いぜ。前に来た旅人も言ってたんだ。此の町に来ると何世紀か前の時代に遣って来て了ったかの様に思えるってよ。何う云う意味なのかは実は好く分らなかったんだが、詰りは古い町だって事だろう? 茲には兄ちゃんが言う様な便利な物――と、思うんだが正直言って見た事も使った事もねぇから本当の所は何うだか全く以て分らないんだが――は無いと思うぜ。只、俺達は別段其れが不満だと思った事は無い。あんた等、旅人からすれば不便な様に見えちまうらしいが、俺達は気に入ってるんだ」
猫の多い町だった。彼方此方に居た。首輪はして居ない。野良の様だ。野良猫は屋上同士を結ぶ縄の上を危な気無く渡って行く。然うして時折、住民から餌を貰って居た。
猫は日当りの好い屋上で寝転がって日向ぼっこを楽しみ、腹が空く頃合には適当な人間を見繕って餌を強請った。
甘えた、文字通りの猫撫で声を出して、体を擦り附けて何とか餌を分けて貰おうと懇願して居る。要求された人間は余り物の魚を贈って居た。
猫は魚を咥えると一目散に駆け出し、誰も居ない屋上でゆっくりと食事を楽しんだ。海猫が自力で食料を調達して居るのとは対照的な光景だった。
町の建物は外周に行く程に低く、中央部に行く程に高かった。外側の大海に面した部分は一階建てしか無く、其れよりも内側は二階建て、更に内側は三階建て、其の又内側は四階建て……と云った具合に増えて行き、丁度中央に有る建築物は十七階建てに為って居る。
屋上とを結ぶ縄は同じ高さ丈でなく異なる高さの場所にも設置してある。運動能力の高い猫――に限らず人間――は勾配の有る縄でも気にする事無く移動して居る。
然し自信の無い者、或いは運動能力が低い者は舟を使う様だ。人間ならば自力で舟を動かす者が多いが、猫に其の様な真似は出来ぬので、彼等は遠慮無く人の舟に乗って彼方此方を行ったり来たりして居る。
何うしても思う所に行けない場合は諦めるか、例の猫撫で声で懐柔するかの何方かの様だ。
建物の内部は普通の住居に為って居る。但し最も外側に有る建物は別で、漁をする為の道具が了われて居る。
其れから傘を作る為の材料の類いも有った。二階建てよりも高い建物は家屋で有る様で人が住んで居た。勿論空部屋も大量に有る。
誰も住んで居ない建物さえ存在して居り、一人が一つの家屋を専有しても未だ余りが出て了う程に此の町の人口は少ない。人と、猫と、海猫以外の生き物は居なかった。
屋上と屋上の間は縄で結び附けられて居る。中央の一番高い建物から見ると、蜘蛛の巣を思わせる。中央には誰も住んで居ない。大抵の人間は外側の海に近い二階建てや三階建てに居を構える。
内側に住む変り者は先ず居ない。猫も寄附かず、海猫も茲には来なかった。十七階建ての高層建築物は、海の果ての水平線迄も判切と見せて呉れた。
三六〇度、視界の端から端迄見渡して見ても、他の町や陸地は見えなかった。遠くに漁船が有る。然し其れ丈だった。漁船は此の町の物で、別の町から遣って来た物では無かった。漁を終えれば茲に帰って来る様だ。
周囲に十七階建てよりも高い建築物は存在しない。故に太陽の明かりを遮る物も存在して居なかった。日差しが容赦無く照り附けて来る。暑い。年若い男は十七階建ての屋上で溜息を吐いた。
施錠されて居ない扉から屋内に移る。直射日光を浴びなければ涼しい様だ。外を歩く時は日傘が欲しい所だが、移動術に使って消費して了った影響か紛失して居た。
何処かで調達する必要が有った。町の中心である十七階建ての建物から外に向わなくては為らない。
面倒だな……と年若い男は思った。一つ一つの屋上の面積は其れなりに広く、お負けに建物と建物の間は可成り離れて居た。
縄を伝って移動しようと思えば、何うしても落下の危険を考慮せざるを得ない。流石に十七階建ての屋上から落ちる事態は避けたかった。何しろ町の中心部には人が居ない。
当然、舟も近寄って来ないのだ。落下して水面に叩き附けられれば怪我をする可能性が高く、人が居ないのでは助けて貰える確率も著しく下がる。故に縄を使う選択肢は無い。
年若い男は下へ下へと階段を降りて行く。最初は一気に降りる為に昇降機を探したのだが見附からなかった。作られて居ないと云うより町に存在して居なかった。
電気が無い為に作った所で役に立たないらしい。仕方無く年若い男は螺旋階段を降りて行く。目が廻るので余り好かなかったが、之しか階段が無いのだから仕方が無い。
渋々乍らも年若い男は一階迄然う遣って行った。此の建物の中には誰も居ない。何と無く彼の少年が居るのでは無いかと思ったのだが当てが外れて了った。
否、彼の少年ならば此方の能力から隠れる事くらい造作も無いだろう。能力に頼らずに探して見よ、と云う事だろうか。其れとも仲間を捜してから来いと云う事か。
何方にしても先ずは人の居る所に趣かなくては話に為らない。年若い男は一階に着くと扉を探して外に出た。都合好く水路に舟が一艘、停まって居た。
櫂を使って漕ごうとする。然し不慣れである故、中々巧く捌く事が出来ない。
結局可成り手子摺って了い、海沿いに出る頃には夜に為って居た。電灯の無い家々の窓には松明の明りが揺らめいて居た。
満月の夜で、盆槍とだが何う云う経路を通って行けば好いのかは判断出来た。年若い男は慎重に櫂を操って水路を往く。
髭面の男が年若い男の乗る小舟に気附いて、手を振って自分の方に来る様に誘導した。年若い男は髭面の男の指示に従って舟を動かす。
髭面の男の表情は丁度影に為って了って窺い知る事が出来なかった。が、声の調子から敵意は持って居ない事は分った。年若い男が船着き場に舟を停めて降りると、髭面の男は近寄って来て言った。
「旅人かい? 珍しいもんだな。茲の所あんたみたいな人が来る事は先ず無かったんだがね」
「人を捜して居るんです」と年若い男は言った。何処から説明すべきか判断が附かなかったので取敢えずは然う発言して置いた。相手は特に不審に思う様子も無く答えた。
「人捜しとは厄介なもんだな。けど生憎と先刻も言った通り異邦人が此の町に来たって話は聞かないぜ。尤も、此の町も何だかんだで広いからな……知らない間に誰かがどっかの家に這入り込んでるって可能性も十分に有る。他の連中に訊いて見ると好い。あんた、今夜の宿は?」
「決って居ません」と年若い男が首を振ると、「其れなら俺の家に来ると好い。なあに、金の事なら気にするな。何うせ何時も大漁だからな。尤も其の所為で魚介類ばっかりだけどな」と髭面の男は豪放に笑った。世話好きであるらしい。
髭面の男は自宅に案内すると言って歩き出した。年若い男は其れに附いて行く。船着き場には何艘もの船が碇泊して居た。
此の町には電気が全く存在して居ない為に船の動力は専ら風に依って賄われて居た。海と町とが隣接した此の場所には一定の間隔で松明が灯されて並べられて居る。
燈火は其れ程強い物では無く弱々しい物だった。空に真ん丸い月が浮んで居なければ、此の辺りはもっと薄暗かっただろう。月の光は水に反射して明るさを増して居た。
水揚げにも使われる此の場所は、陸路が全く存在しない町の中枢部分とは一線を画して居た。夜の暗さを紛らす為に態々松明を灯すのだと髭面の男は言った。
余り使うと松明に使って居る木々が燃尽きて了うんじゃないですか、彼れは貴重品なのでは無いですか、と年若い男が問うと髭面の男は不思議そうに、あんたの町じゃ木は消耗品だったのか? と言った。
此の町の木は燃えて無くなったりはしない様だった。年若い男は歩き乍ら近場の松明を分析して見た。髭面の男は夜の暗さを紛らす為と言って居たが、実際には朝から晩迄つけっ放しだった。
此の炎は消える事が無く、又燃料が切れる事も木が燃尽きる事も無いのだった。故に松明を取替える事も無く、尠くとも三〇〇年以上は変えられて居なかった。ずっと燃焼し続けて居るらしい。
髭面の男は焚火の周囲に集まって居る十数人の人間に、自分の所で暫く預るからと言って年若い男を紹介した。
集まっている人間は男女合せて十三人だった。男が七人、女が六人。海産物の他に何う見ても此の辺りでは取る事が出来そうに無い肉や野菜と云った物も食して居た。時々斯うして集まって食べたりもするのだと髭面の男は言った。
「尤も今日は参加しないけどな」と髭面の男は豪快に笑う。
「あんたも茲で暫く過ごせば嫌でも誘われるぜ? 朝迄どんちゃん騒ぎだからなぁ……お負けに逃げようとする奴は、意地でも追掛けて行って強制参加させるから、覚悟しといた方が好いぞ。まぁ尤も、兄ちゃんみたいな旅人は大抵逃げるのも巧いみたいだから、捕まえられるか何うかの鬼ごっこに為っちまう事が多い。別の意味での覚悟が必要かもな」
まぁ暫くは大丈夫だろうから俺の家でゆっくり英気を養うと好い、と髭面の男は言った。
其れから焚火の集まりを辞した。離れるに際して、折角だから食事を摂って行ったら何うかとの申し出が多数有った。
然し髭面の男が、悪いが今日は家内が飯を作っちまってるんだ、と言って断って呉れた。其れでも誘う者が幾人か有ったが之に対しては年若い男が、僕は暫くは滞在する積りですから其の時に又御願いします、其れに申し訣無いんですが今日は着いた許りで疲れて了って居るんです、と言って斥けた。
斯う言われては流石にしつこく誘って居た者も何うする事も出来ないらしく、諦めて見送った。髭面の男は自分に附いて来る様に言ってから再び歩き始めた。
暫くは松明の灯を追い乍ら進んだ。松明を七つ程通り過ぎると船着き場に辿り着く。其処には小舟が一艘停まって居た。
髭面の男は結んであった縄を解いて舟を出せる様にした。然うして髭面の男は櫂を手に「乗りな」と年若い男に言った。年若い男が舟に乗込むと、男は徐に漕ぎ出した。
出発して直ぐに水路に盆槍と浮ぶ燈火が目に附いた。比較的短い――大凡三米――の間隔で松明が立てられて居た。光は仄かに周囲を照し出して居る。
「気附いたかい? 兄ちゃんは運が好かったぜ。兄ちゃんが通って来た水路には松明が灯されて居ないからなぁ……彼処は夜に為ると殆ど真っ暗で周りが見えないんだ。今日は満月だから未だ好いけどな、之が新月に為ろうもんなら、もう慣れた奴でも満足に進めない。然う言う意味じゃ、夕暮れの光が残って居る内に港近く迄遣って来られた上に、其処から先は満月の光を頼りに舟を漕ぐ事が出来た兄ちゃんは物凄い幸運だ。まぁ尤も地元の人間じゃない兄ちゃんには今一つ実感が湧かないだろうけどな」
「いや、分りますよ」と年若い男は答えた。
「僕は舟を漕いだ経験が殆ど有りませんから、慣れる迄に相当の苦労が有りましたし、あれで周囲が暗闇に包まれて居たらと思うとぞっとしますね。丁度満月の夜で助かりましたよ。其れに当然の事乍ら此の辺の地理にも余り明るくは有りませんから。迷ったら何うしようかと……」
「いやいや謙遜しなくても好いんだぜ、兄ちゃん。此の町に来る旅人は何う云う訣か地理に明るいと言うか、初めての道でも平然と何処に何が有るのか分っちまうんだ。勿論、稀に方向音痴の奴が来たりもしたみたいだけどな。でも基本的には道に迷ったりする事の無い奴許りだ。兄ちゃんだって其の口だろう? あの道を使うのは旅人丈なんだよ。旅人は大抵が中央部から遣って来るからなぁ……毎度毎度不思議で仕方が無いんだけどよ。周りは海ばっかりだろう? 俺達もよ、一往は行って見たりとかすんだよ。けどな、何れ丈進んでも島一つ見えやしねぇ。何処迄行っても陸地なんざ有りゃしない。其れでも何処からか旅人が遣って来る。遣って来ると云うか……実は此の町の何処かに隠れてる丈なんじゃ無いかって話も有るんだけどな」
然う言って大声を出して笑う。音が山彦の様に反響した。音の反射が止むと、舟を漕ぐ音が耳に這入って来た。
髭面の男は櫂を巧みに操って舟を漕いで行く。舟は最初、真っ直ぐに前方を進んで行ったが、四つ目の十字路を右に曲った。更に道幅が狭くなる。
「まぁ然し実際問題、隠れて居る筈は無いんだよなぁ」と髭面の男は思い出した様に言った。道を曲って、暫く無言で漕いだ後の事だった。其れから又少しの間黙って、再び喋り出した。
「慥かに此の町は何だかんだ言って結構広い。だから何処かに隠れて居る丈だって説には、そこそこの信憑性が有る。だが何う考えても其れじゃ説明出来ない事が有る。食料を何う遣って調達して居るかとか、其れから行商人の存在に就いても隠れて居る丈じゃ説明し切れない。此の辺りじゃ絶対に取れない果物だとか野菜だとか肉だとかを持って来るんだ。週に一度くらいの割合で。其奴等が居るんだから、矢っ張り何処かに経路が有るんだろう。其れさえも秘密の場所で生産された物だって言う奴も居る。けど、俺は知ってる。行商人や旅人の事は俺も餓鬼の頃から不思議に思って居て、其れで此の町を探検して調べ捲った事が有ったんだ。でも何処にも秘密の生産場なんて無かった。海に出て仲間と一緒に島を探し出そうとした事も有った。だが見附かりゃしねぇ。矢っ張りよ、どっかに秘密の――生産場じゃなくてよ――道っつーか入口が有るんだろうな……然うだろ?」
髭面の男は少年の様な笑みを浮べて訊いた。年若い男は頷いた。
「然うか……旅人は皆然う言うんだ」と言って今度は寂しそうな笑みを浮べる。
其れから髭面の男は無言で舟を漕いだ。揺れが心地好かった。静かな町だと年若い男は思った。
水の飛沫と舟を漕ぐ音以外には何も聞えなかった。建物の玄関とも言うべき船着き場には必ず松明が一本灯って居る。薄ぼんやりとした輝きを放って居た。其処を緩やかに通って行く。
年若い男は何とも言えない気分に為った。何と無く、此の儘ずっと斯うして舟の上に居たい様な感情に駆られる。然し然う思った直後、髭面の男が目的地に到着した事を告げた。
髭面の男は小舟を着けると縄で縛って動かない様に固定した。其れから附いて来な、と言って年若い男を促した。
髭面の男は扉を開けて建物の中へ這入った。年若い男も後に続く。中には先ず広間が有る。そして二階への階段が目の前に伸びて居る。照明は洋燈が灯って居る丈で内部は薄暗かった。
窓から室内に月光が降り注いで居る。無月の夜ならば屋内は殆ど見えないのでは無いだろうか。年若い男は然う思った。
建物は四階建てで、髭面の男の部屋は三階に有るとの事だった。
事実上、此の建物に住んで居るのは自分達家族のみなのだから、別に殊更に三階丈を自分達の物であるかの様に言わなくても好いのだが、矢っ張り何うしても建物全部を使う気には為れず――と云うより、そもそも広い面積は要らない――結局三階のみを自分達の物として占有するに留めて居るのだと云う。
髭面の男は階段を登り乍ら然う教えて呉れた。足許は暗いが、見えなくて困ると云う程では無かった。
「何時もなら」と髭面の男は先導しつつ言った。
「夜は見ての通り暗くて何も見えないからな、手許に照明を持って行くんだが、今日は満月で曇っても居ない。だから洋燈要らずって訣だ。矢っ張り月夜は好いもんだな」
「此の町に松明や洋燈以外の明りは無いんですか? 見た所、電気は存在しない様ですが」
「『電気』ってのが今一つ何の事だが分らないんだが……取敢えず心当り有りそうな物は思い浮ばんな。多分、兄ちゃんの言う様な物は無いぜ。前に来た旅人も言ってたんだ。此の町に来ると何世紀か前の時代に遣って来て了ったかの様に思えるってよ。何う云う意味なのかは実は好く分らなかったんだが、詰りは古い町だって事だろう? 茲には兄ちゃんが言う様な便利な物――と、思うんだが正直言って見た事も使った事もねぇから本当の所は何うだか全く以て分らないんだが――は無いと思うぜ。只、俺達は別段其れが不満だと思った事は無い。あんた等、旅人からすれば不便な様に見えちまうらしいが、俺達は気に入ってるんだ」
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