〈円環〉を歩む者達

笠原久

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第6話

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「何だ?」と年若い男が訊くと、「抱っこ」と少女は言った。

「だってもう疲れちゃって歩けないんだもん。抱っこー」

「おいおい随分と我儘な嬢ちゃんだな。まぁ子供なんて我儘なもんか」

「さっさと背負いな」と婀娜やかな女は年若い男に言った。僕が背負うのか? と訊くと当り前だろうと婀娜やかな女は言った。

「未だ何が起るか分らないんだから、あんたが遣るしか無いでしょ。其れに情報の取得だったら別に背負った儘だって出来るんだから問題無いんじゃないかい?」

 分ったよ、と言って年若い男は少女に背を向けて屈んだ。然し「おんぶはやだぁ、抱っこが好い」と少女が言った為に仕方無しに年若い男は少女を抱き上げた。

 其の際、本人以外は水に濡れて了うと云う理由で年若い男が掛けて居た襷状の水を婀娜やかな女が回収した。

「大丈夫かい姐さん。重かったら其れも俺が――」と大男は申し出たが「あたしに取っては水に重さなんて無いから大丈夫。其れに何が起るか分らないから武器は出来る丈多く持って居たほうが好さそうだからね」と言って婀娜やかな女は申し出を断った。

 大男が前を歩き、真後ろに少女を抱き抱えた年若い男、最後尾に婀娜やかな女が続いて居る。婀娜やかな女が後ろから大男に向うべき道を指示して、街灯の下を進行して行く。

「街灯を七つ過ぎたら例の場所に這入るから」と婀娜やかな女は言った。

「分ってると思うけど、多分其の子の時と同じさ。予め収集しとかないと捉えられない」

「……分ってる。……大丈夫だ。……残り二基を過ぎたら収集を、開始する……」

「おいおい大丈夫かよ? 何か疲労が見えるぜ? まさかもう疲れたんじゃねぇだろうな」

「悪、かったな……体力、無くて……其れに、子供って思ったより、重たい……」

 然う言うと後ろから小突かれた。

「情けない奴だね。確りしな」

「然う、言われても、な……」

 年若い男が婀娜やかな女を見れば、相手は不機嫌な顔で異論を受け附けぬ体である。

「分った、分ったよ……」

 年若い男は溜息混じりに又歩き出した。街灯を四つ過ぎる。音がした。既に収集は開始して居る。捉えた。犬、未だ小さい、子犬だった。否、其れとも小型犬なのか。

 孰れにしろ大きくは無い。躊躇う事無く近附いて居る。之ならば茲で待って居ても大丈夫の様に思えた。

 然し犬は止った。もう少しで出喰わすと云うぎりぎりの所で何う云う訣か歩みを止めた。仕方無しに直接迎えに行った。

 木々を擦り抜けて犬の止った地点に行く。犬は少女を見ると嬉しそうに走り寄って来て、年若い男の足を咬んだ。

「無事で好かったぁ」と言い乍ら、少女は咬み附いた儘の犬を撫でた。再会を喜ぶ前にすべき事が有ると思うんだが、と年若い男は主張して見たが少女は聞いて居なかった。

 少女は一頻り犬を撫でると満足した様で、犬に足から離れる様に言い、同時に附いて来る様にと命じた。

 犬は素早く足から離れて其の場で待機した。少女は年若い男にもう一度自分を抱き抱える様に言い附けた。男は又少女を抱き上げて歩き出した。

 背後から犬の足音と婀娜やかな女の含みの有る小さな笑い声が聞えて来た。振り返って睨み附けると澄ました顔で視線を外した。

 葉を揺らす音が聞えた。枝と枝の間を移動して居た。此方も音に反して体の小さな物だった。勝手に寄って来ると思って居たが例に依って例の如く、何う云う理由からか直前で動きを止めた。

 木に止って凝として居る。再び年若い男達は後戻りをして止って居る木に遣って来た。上空を見上げても暗くて何も見えない。

 婀娜やかな女は大男に捕まえて来る様に言った。槍を元に戻して大男は木を登って行った。ぼんやりとした水の明りに照らされて、上の様子が見えた。枝は細く網の様に拡がって居る。葉は針葉と広葉とが渾然一体と為って居た。

 大男は豊かな葉を押し退けて枝の上に登った。枝は細いにも拘らず折れる事無く大男の体重を支えた。大男は年若い男に細かい指示を求めた。年若い男は目標の位置を口頭で伝え、大男は目的地に向って進み始めた。

 暫くの間、大男の移動音が聞え、不意に其れが無く為ると登った木とは離れた場所に大男は落下した。着地を巧くこなして大男は足から大地に降り立った。

 然うして自分の右手に咬み附いて居る生き物を示した。少女は大男の元に駆け寄って、咬み附いた儘のムササビだかモモンガだか好く分らないリス科の動物を撫でた。

 暫く然うして撫でて居ると其の動物は少女の腕を通って器用に少女の肩に止った。少女は年若い男の前に戻って行き、又抱上げられて「先に進もう」と言った。

「何だかなぁ……」と言う年若い男の呟きを聞き漏さず婀娜やかな女は「我慢我慢、先刻重いとか何とか言ってたんだから其の位の事は当然さ。其れに其の娘が居ないと出られそうも無いんだしねぇ……」と教え諭した。

 釈然としない物を感じつつ年若い男は足を前に進めた。森を抜けると草原に出た。特に之と云った変化は見受けられない。

「まぁ後一つ残ってるんだからさ、其れが終らない事には何とも言えないんじゃ無いかい?」

「之で何の解決にも為らなかったら骨折り損の草臥れ儲けだぞ。踏んだり蹴ったりは御免だ」

「まぁまぁ」と大男は槍を片手に年若い男を諫めた。

「然う言うなって。御嬢ちゃんと小動物が一行に加わった御蔭で明るさに包まれたじゃねぇか。仮に何も起らなかったとしても嬢ちゃん達と会えた丈でも儲けもんだろう?」

「咬まれて好く言えるな。僕は此の娘を抱いた儘での歩行で恐ろしく疲れたのに加え、後ろを附いて来る兇暴な犬に咬まれるわで散々な目に遭った。絶対に出られなきゃ許さない」

「だから未だ一つ残ってんでしょ? 其れを捉えてからさ。分ってるかい? もうそろそろ着くよ。準備は好い? 茲まで来て失敗なんてしやがったら其れこそ許さないよ」

「心配しなくても森出てから半径六〇米をずっと探知し続けて居る。音がすれば直ぐに捉えられる」

 街灯を三つ過ぎると婀娜やかな女は立ち止った。念の為、年若い男は収集範囲を六〇米から二〇〇米に拡げる。今迄の倍の範囲。茲迄拡げれば取り逃す事は絶対に無いだろう。

 暫し待って見るが何の音もしなかった。可笑しい、と年若い男は思った。範囲を二〇〇から三〇〇へ、更に四〇〇へと拡げて行く。

 何も無かった。音も無い。

 婀娜やかな女を見る。静かに首を振った。範囲を六〇〇にする。尤も音がしない状態では無意味な行為とも言えた。

 何らかの音がした瞬間に現れる。今迄の例を蹈襲するなら音――茲は慥か草を切裂く様な音だった――がしなければならない。然し無音だった。音は何も聞えて来ない。

「何の音もしねぇな……若しかして此の娘達と出会った時点で終りなんじゃねぇの?」

「いや其れは無い」と年若い男は大男の言葉を打ち消した。

「仮に其れで終りなら何か変化が起きて居る筈だ。今の所何も変って居ない。茲で此の儘先に進んだとしても恐らく工場に逆戻りだぞ。いや若しかすると少女達を連れて居る事で何か不味い事態に突入する可能性も有る。出来る限りこなして置いた方が好いと思う」

「あたしも賛成だね。茲で音がしたのは事実なんだ。要するに茲にも何か有るって事だろ? 見なよ、街灯は消えてない。条件は満たして居るんだから必ず何か起る筈さ」

「でもよぉ、現実問題として何も――」と大男が言い掛けた所で音がした。

 切り裂く音では無かった。動物の足音、小型では無い、何う聞いても大型の物だった。九〇米程離れた所に居た。姿を視認する事は勿論出来ない。

 探知を続けて居た御蔭で街灯は確りと残って居た。だが動物の現在地は街灯から外れた位置だった。見えない。然し輪廓は朧気乍らも感じ取れた。

 尾が長い。丁度体長と同程度の長さを保有して居た。本体の正確な大きさは分らないが尠くとも大男の倍程度は有りそうだった。

 鋭い爪と牙を有し、尻尾を地面に垂らして引き摺り乍ら悠々と近附いて来て居た。音だけが聞える。

 不味い、と年若い男は直感した。あれは何う考えてもペットと呼べる様な生易しい物では無い。念の為に少女に尋ねて見ると、尻尾が本体と同じ位に有る巨大な動物は飼って居ないとの答えが返って来た。

「なぁ俺には姿は見えねぇんだけど、何か妙にやばそうなのが近附いて来て居るのは分るぜ。俺の倍はでかくて、然も爪とか牙とか滅茶苦茶鋭いって事は……」

「ふふっ、敵だろうねぇ……。あたしの勘も下手すると死ぬかもとか言ってんのさ。何うする?」

「何が可笑しいんだ、全然笑えない」と年若い男は言った。

「何うするって訊く迄も無いだろう。勿論、逃げる!」

 年若い男は少女を抱いた儘で走り出した。少女が「あの子が……」と云うので婀娜やかな女が子犬を抱える。

 大男は後ろを警戒し乍ら後に続く。例の化物は年若い男達が走り出したのを知って移動速度を上げた。確実に追って来て居た。速い。遠からず追い附かれる。

「何うすんだ! 遣るか? 俺で勝てそうなのか? 逃げ切れんのか?」

「工場だ! 工場迄行くんだ!」と年若い男は疾走し乍ら叫んだ。

「茲じゃ暗過ぎて見えない! 工場なら明りが有る! 彼処まで何とか逃げ切るんだ! でなきゃ死ぬ! 工場までどの位だ? 僕の能力じゃ工場の位置は攫めない!」

「能力消しな! あんたが収集してると工場が出て来ない可能性が有る!」

「正気か? 敵の位置が把握出来なくなるぞ! 然うなったら……」

「心配すんな! 俺なら大体だが位置は攫める! 之でも武闘派だからな!」

「……分った!」と年若い男は能力を解除した。

 最後に確認した段階では四十米程しか離れて居なかった。最早追い附かれるのは時間の問題だった。後ろからどの程度の距離に居るのか分らないのは恐怖だったが大男を信じる事にした。

 延々と真っ直ぐに街灯は伸びて居る。工場に辿り着いても街灯は続いて居る。何時迄走れば工場に着くのかは分らない。

 婀娜やかな女は只もう直ぐ着く筈だと答えた。勘であるが故に正確な距離は分らない。息が切れて来た。速度が落ちる。

 十歳の少女とは云え、人間一人を抱えた状態で走り続けるのは辛かった。足に疲労が溜って行く。呼吸が乱れ、足が縺れ始める。

 背中に掌を当てられ叱咤された。大男だった。踏ん張れ、もう少しだ! 然う言って居た。だが、限界だった。

 背後で跫音がした。判切と聞えた。同時に咆哮もした。振り返る。見えなかった。

「駄目だ間に合わねぇ! 先行け! 足止めを……!」

 大男が立ち止って槍を構えた刹那に先行して居た婀娜やかな女の声が重なった。

「着いた! 工場!」

 光だった。先ず光が溢れて周囲を照らした。強烈な光は周囲にも明るさを齎す。怪物の影が見えた。鋭い爪が年若い男を襲う。動きを捉えて大男は槍で弾き飛ばした。

「下がって居ろ!」

 大男の声が飛んだ。年若い男は少女を抱えて歩き出した。走れない。ゆっくりと後退して行く事しか出来なかった。背後からは大男と獣の咆哮が聞えた。

 年若い男は工場迄下がると倒れ込んだ。後方では大男が獣と大立ち廻りを演じて居た。爪の一撃を槍で器用に受け流し乍ら、男は前脚を狙って槍を突き刺した。

 槍は殆ど刺さらず弾かれる。牙が来る。男は躱し乍ら獣の首に刃を押し当て、一気に引き抜いた。獣は全く怯まず、攻撃を続けた。

 一方、大男は守勢を保持しつつも相手の隙を衝いて攻撃を仕掛けて居た。然し痛手が無いのを見て取ると、廻り込んで様々な箇所を槍で突いた。頭・胴体・後ろ脚・尻尾……然し孰れを攻めようと獣は平然として居た。

「行ける?」と背後から婀娜やかな女の声がした。婀娜やかな女は疲れた顔をして居た。

「何驚いてんのさ。見てりゃ分ると思うけど、あれじゃ勝ち目が無いよ」

 年若い男は大男に目を移した。決定打を与えられずに居る。此の儘の状態が続けば間違い無く形勢は変る。不利に為るのは無論、大男のほうだ。あの獣よりも先に体力が尽きて了う。

「出口を探すのか……あの子が居るとは云え、間に合うと思うか? 此の状況で」

「間に合うか何うかじゃないよ、間に合せるのさ。あたし等も命懸けで遣るよ。でなきゃ今目の前で命張ってる奴に失礼だからね。なぁに、あの娘さえ居りゃ直ぐに見附かるさ」

 何時の間にか年若い男の腕から抜け出して居た少女が遣って来て、あっち、と丈言って工場の中に向った。

 婀娜やかな女は、防禦しつつ後退しな! と大男に言ってから附いて行った。大男からの返辞は無かったが動きが変った。

 時折攻勢に転じて居たのが完全に守勢に専念し、少しずつ工場内に下がり始めた。年若い男は少女と婀娜やかな女を追って工場内に這入る。少女は工場の真ん中に坐り込んで鞄を漁って居た。

「あれー慥かに茲に入れたと思ったんだけどなぁ……」と少女は暢気な口調で言った。

 苛立った年若い男が文句を言おうとした瞬間、少女は白い石筆を取り出し、地面に紋様を描き始めた。

 半径二米程の歪んだ円の中に、複数の大きさが全く異なる丸を描き、其れ等を規則性無く重ねて行った。

 然うして最後に直径三〇糎の円を真ん中に描いた。少女は陣の中に坐り込んで又鞄の中を漁り始めた。

「早くして呉れ! と云うか、君は先刻から一体何を遣って居るんだ! 何がしたいんだ!」

「慌てないでー。焦っちゃ駄目だよー。旨く行かないからー。落ち着いてねー」

 歌う様な調子で呑気に少女は言う。大男は既に工場内に這入って獣と抗戦して居た。此方の準備が調って居ないのを見て取って、足止めに全力を尽して居る。

 だが、限界が近かった。如何に傑れた使い手とは云え、あの化物と延々戦い続ける事は出来ない。息が大分荒くなって居た。

 一方の少女は鞄から細長い小さな瓶を三つ取り出して三〇糎の円の中に並べて居た。正三角形を形作ろうとして居るらしく、慎重に微調整を繰返して居た。

 程無く正三角形は完成し、少女は年若い男を呼んで言った。手伝って、と。それから少女は婀娜やかな女に顔を向けて、「始まったら直ぐだから、合図」と指示を出した。

 意図を察した婀娜やかな女は頷く。然うして少女は年若い男を円の中心に引き寄せ、「大きいほうの円が範囲内だから」と説明した。少女は年若い男に瓶の置かれた円の前で膝立ちをする様に指示を出す。

 但し円の中に脚を入れない様に、とも言った。言われた通りにすると、今度は少女が年若い男の対面に立ち、男の肩に手を置いた。少女は頷く。

 婀娜やかな女は大男に向って「来な!」と思い切り叫んだ。大男は獣の目を狙って刃を振るった。眼球だけは流石の獣にも効いた様で絶叫を挙げた。

 少女は年若い男に向って、余所見しないで、と言った。大男の様子が気に為ったが、年若い男は己れの役目に集中する様に自分を鼓舞した。少女の目を見詰める。

 少女の瞳は好く見ると左右違う色をして居た。左は緑色をして居るが、右は少し許り青み掛って居た。

「今!」と婀娜やかな女の声がした。少女は一瞬、悪戯っぽく微笑むと、年若い男に口附けをした。瓶が煌めく。

 ほんのすこしのあいだ、まわりがひかりにつつまれて、つぎに視界がひらけたときには、べつのところにきていた。しろい石でできた神殿をおもわせるふしぎな建物で、はしらが何本もうえにのびていた。てんじょうや壁はなく、ふきぬけになっている。

 神殿はちいさく、ほかよりも少しだけたかいところにあった。まわりは水でかこまれており、ゆるやかな階段が下にむかってのびていて、そのさきには草原がひろがっている。草原にはてんてんと木がはえていた。水のながれる音がひびき、どうじに鳥のなき声がきこえた。

 あだやかな女と、くまのような大男はほうけた顔でまわりのようすをみていた。少女はとしわかい男のまえに立ったままでいた。そうして「ありがとう」といって、彼女はじぶんのペットをひきつれて階段をおりていった。あわてて三人はあとをおった。少女はくびをかしげて「どうしたの?」ときいた。
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