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プロローグ──波の屋から
しおりを挟むなだらかな荒地は灰色に煙っていた。
人の住んでいる気配はなく、道路の痕跡さえ残ってはいない。ただただ、見渡す限りのひび割れた荒地は蜥蜴ですら住むことを許すことはない。
ところどころ枯れた巨木、バオバブの木がその巨体を砂混じりの風に揺られ、無骨なダンスを踊っていた。
群青の制服の埃を払いながら歩く男は30歳の手前に見える。細面の顔には皺はなく、また髭もない。履き潰しかけた革靴は荒地の砕けた石ころを踏み、ギシギシと軋ませるが、その音もまた風に流されて行く。
斜めに被った制帽は陽に焼け、中央に鈍い銀の「JP」を象った徽章が輝き、かつて湖であっただろう白亜の塩で肌を光らせる遥かな大地をその鉛色の瞳の焦点が無表情に流れた。
その湖の岸辺に、一軒の壁ばかりが堅牢なあばら家が立ち尽くしている。
安普請の作りのせいか、トタンの屋根が風にカタカタと羽ばたいている。
形ばかりの扉はペラペラで立て付けが悪く、しかも台形に歪んでいた。
男は手のひらから奇妙な螺子を露出させると扉の中央の穴にかざす。まるで金属を引きちぎったみたいな奇妙な音を立て扉は斜めに傾ぎ、開いた。
男は暗く短い廊下を靴のまま歩くと10坪ほどもあるガレージのような一間があり、そこに異形の人とも機械とも知れない巨人が、カストロールのオイル缶に口を当てて啜っていた。
全身が黒と銀。刃や鋼鉄の棘がまとわりつく身体が、ひとつだけの窓からの陽射しにキラキラと輝いていた。
例えるのなら恐竜時代のステゴザウルスにキャタピラーをつけたようなもの。男の記憶野では太古の昔の音楽のテーマとなった「タルカス」に似ている。
男の音楽中枢に野太いベースが駆け巡る。
「おう。郵便屋あっ。今日は早いな」
巨人は鋼の棘のついた腕を掲げると、カストロールの缶を飲み干し万力のような手でそれを握りつぶす。
そしてそのまま片手で二つに折り、四つに折り、八つに折り、ついにはひとつまみの硬貨のような鉄の塊にして部屋の隅に投げ捨てた。
そこにはうず高く「カストロールの硬貨」が積み上げられ、小さな「塚」と化していた。
「郵便屋」はその擬似脳の知識をひもとく。
かつてシュメールと呼ばれた文明をはじめとして、世界の多くの古代文明は「塵芥」という概念を持たず、道に捨てて行くばかりなので、やがて人家の屋根よりも道が隆起したという事実。とある島国ではそれが「貝塚」と呼ばれていた事。この「屠殺屋」はその古き文明を蘇らせているのではないか。
人と呼ぶにはあまりにもかけ離れたその影に向かって「郵便屋」は考えを巡らせた。
とは言っても「郵便屋」の記憶野は遠く離れた「メタルタウン」の「ATOM」にリンクしている。演算しているのは彼自身のCPUだが。しかし視床下部や言語野はまだ生身のものだ。それらが「郵便屋」に微妙な「感情」を生じさせる。
「まさか、仕事があるわけでもあるまいによおっ」
その背中にステゴザウルスのような凶悪な背びれを光らせながら、屠殺屋はダンボールの中から真新しいカストロールを引っ張り出し、蓋ごと捻り切って口にした。2サイクル用のレーシング・オイルは「屠殺屋」の血流たるオイルダンパーを潤滑し、酩酊にも似た効果を産んでいる。
「……………いや、そうでもないよ、屠殺屋。向こうではお前さんのことがよっぽど気になるらしくてね。<専守防衛>が始まるようだ」
「そりゃあ、景気のいいこって」
「向こうさんもこの<塩>が欲しいらしくてね。海水も塩湖もないご時世だから。<門番>としてのお前さんに一働きして欲しいそうだよ」
「なんでだろうな……」
「なにが?」
「俺っちもお前さんももうとっくに人間やめちまっているって言うのによ。なんで<健全なる市民>のために働かなきゃならんのだ。胸糞悪りいや」
郵便屋は肩をすくめる。
<関式>としては郵便屋の質は上等だから機械音なんてしない。
「そりゃまあ、お互いに<生きて行くため>じゃないかな。別にオフるのは難しいことじゃない。でもなんて言うのかな……………違うんじゃないかな」
「けっ………役人様はお気楽なこって」
「例によって最終防衛線だ……キララザカ。今回はけっこう派手みたいだよ。明日お天道様が上がってから天辺に来るまで。用意しててね。とりあえず<単体撃破>らしいから軍隊は来ない。お前さんに何かあったら来るだろうけど、人間ってのは移動に恐ろしく時間がかかる。でも万一は覚悟しておいた方がいいかもね」
屠殺屋はチタニウムのキャタピラーをうごめかしながらため息をつく。
まあ、オイルの匂い満載のため息ではあるが。
「……おりゃあとっくに<化け物>なんだぜ。メタルタウンに入院してからよ。なんでこんな<化け物>に<人格>なんて必要なんだよ。セル・オートマトンにやらせりゃいいじゃねえか。「クラス4」によおっ」
郵便屋は帽子を捻る。気難しくさらに無言。それが「郵便屋」の必須条件だ。
表情筋の高度な組成は持ち合わせていない。それが生じることがあれば一大事なのだが。
「ふん………………ああ、ああ。わかったよ。中央さんで決めたもんなんだろ?ホーリツとかケンポウ持ち出されてもしょうがねえや。もともと俺は生まれついての人殺しなんだから」
「それはエレガントに<戦士>と言い換えてくれ」
「あんだあ? 綺麗事言うのも官僚のお役目かよ」
「言語の適正なすり替えは我々のデフォだよ? お役目に貴賎などない」
「ふん………勝手にしろっ」
「波の屋」を出た郵便屋は丘の上で振り返った。
鈍色の「塩の海」が銀盤のようだ。
狂おしいほどに報われないミッション。絶望的なほどに顧みられない未来。
「屠殺屋」も「郵便屋」も「罪を贖う」には十分すぎる時間が経っている。加算された刑罰の120年を超えているとはいえもう十分だ。
「こっちはもっと悪い。生まれつきの<官僚>なんだよ…………どっちが不幸なのか競ってどうするんだ」そして郵便屋はほんの少し微笑みに似た「引き攣り」で表情筋を歪ませる。
風は強く、埃が高く舞い上がり、郵便屋のくたびれた革靴の立てる響きはまたしても空の彼方へ消えていった。
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