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もはや勇気も意地も全ては消散する

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 翌朝、詩音はニンニクとタマネギを炒め、ジャガイモやトマトやアスパラガスにコンビーフをしこたま入れた「スペイン風オムレツ」を作った。
 いつもながら半開きの綿星のドアを片足で行儀悪く開けるとテーブルの上に大皿を置いて、髪の毛にタオルを巻いた綿星を驚かせた。

「こりゃまた豪勢な朝食だねえ。って、ここに来て初めての朝食じゃない?」

詩音は無言で自分の皿に取り分けると、ケチャップとバジルを振りかけて顔を突っ込んで食べ始める。時々、可愛らしいしゃっくりをした。綿星も椅子に座って負けじと頬張る。

「いけるいける。詩音は料理も上手いから、いいお嫁さんになれるよ」



詩音は食べ終わった取り皿をテーブルに叩き付けてから、洗い場に持って行った。
詩音はそのままシャワールームに飛び込む。すぐに水滴の落ちるノイズが廊下に響き渡った。

「ま……お嫁さんってのは冗談にしても洒落にはならなかったな」綿星は自分のほっぺたを指で弾いた。立ち上がり、ドライヤーを当てながら詩音の緑の花柄ワンピを取り出す。

「さあて、いつご機嫌が治るのかしらね」

その日、僕は淡々と過ごした。

「ハリーポッターの郵便箱」は健在で、もはや詰め込まれるというよりは「お供えをされる」ように下駄箱の前に山になっている。この高校、生徒何人だっけ? 試しに一通つまんでみたら、裏側の差出人は初等部からだった。これはもう、末期だ。
授業に出て、黒板と教科書を全部暗記してしまうと、食堂に向かう。めずらしく「ハヤシライス」などという物があったのでもそもそ食べていると、いつの間にか向かいには綿星が座って、また月見そばをすすっていた。綿星と無言の食事をして別れると、図書館で適当に選んだ本を読む、というか暗記する。昼休みの間にW・ライヒの「マゾヒスト的性格分類」を読み終わってしまった。今度医者に診察を受けるときは、是非とも足を蹴ってみようと決意する。午後の授業が終わると、早々に寮への帰り道を辿ったが、またしても隣に綿星が歩いていた。

「座敷童というものは家に憑く妖怪なはずだけど」
「あら? 座敷童ならその家に幸運を呼ぶ物よ。あの寮に幸運が満ちあふれているように見える?」
「じゃあ疫病神か」

そう言えばこの学校に入学してから、少なくとも三人のその神様に愛されているような気がしてならなくなった。高いのと茶色のと黒いのに。

「あれ?」寮の方角からなにやら喧噪と極めて「建設的」な音が響いている。見上げると二回の三番目の部屋の窓が全開になって土煙と男達の怒号が聞こえる。
門をくぐると、やはりその黒いのと茶色のが並んで立っていた。茶色の方が先に振り返る。

「おっかえりー、詩音。今日は姫乃姉様と学校休んじゃった」

あまりにも淡々と授業を受けていて、何事も起こらなかったのはそのせいか。気付くべきだった。
姫乃は珍しく髪をひっつめの三つ編みにして束ねて、珍しく着物を着ていた。足下が足袋ではなく裸足なのだが、着物自体が軽そうな物なので不自然さはない。

「お~や、詩音、お早いお帰りで。また夕方おいで。それまでには終わっているから」
「……鍵、かけておいたんだけど」
「これのこと?」姫乃は袂から真鍮の古びた鍵を出す。
「ま、搬入のためにドアを金具ごと外したから関係ないんだけど、一応礼儀はわきまえなくちゃって思って」

慣れというものか、それとも呪いか。僕はあまり驚く気にも怒る気にもならなかった。

「わかりました。姫乃先輩の机と教科書その他にまき散らかしますから」
「そんな子供っぽい事されても私は困らないけど?汚い物は綺麗にすればいいんだし」
「いいえ、汚くなんかありませんよ。女性によっては大喜びする白くて濃くてべとべとして濃厚な香りのする聖なるものです」

姫乃は仰け反って顔色を変える。そうなんだよな、こいつ、ビアンなんだから。

「…穢らわしいまねはやめなさいね」

「すみません。在庫はいくらでも生産できますので。姫乃先輩が上履きに変えたときにきっと妙な粘着感を感じるでしょうけど、手遅れです。その日一日で先輩の風評は劇的に変わること請け合いです。栗の花ってここら辺じゃ見かけませんからね」

それだけ言い捨てると、僕は綿星に言った。

「独りにしてくれ。どうせ近くだから」綿星はちょっと考え込んでから言った。
「私の力の範囲から出ないでね、しばらくの間は」

 小さく頷くと、僕はコンビニのある商店街に向かって歩き出した。

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