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ナンタケット島のソルティ・ドッグ
しおりを挟む21時半を少し過ぎた街並みは、人は多かったが落ち着いていた。
僕は顔を俯けて、背中に両手を組みながら、その手に持った白いエナメルのバッグをぶらぶらさせて歩いていた。そのすぐ後ろに郁夫が続く。
「せっかく誘って貰ったのにね」
「僕としては映画を見るよりよっぽど堪能したけど。それより、寝不足だったのかな?」
まさかその当人との淫らな妄想で眠れなかったとはとても言えたものじゃない。
「ん~、ちょっちね。楽しみが先にあると不安になる」それは事実だけど。
「とりあえず、落ち着こうよ。君の希望でもある事だし。叔父に教えて貰ったいいバーを知っているんだ」
「なんか、「ちょっと良い店」のコレクションがいろいろありますなあ」
僕は機嫌を直した風を装って、顔を上げて郁夫に微笑み、ちょっと首を傾げる。あはは、この仕草が癖になってしまったか。「なりきり」も重傷だ。
郁夫に導かれて路地をいくつか曲がり、無機質なコンクリートのビルの下に着く。狭い階段を上って行くと、見事に風変わりなドアが待っていた。打ちっ放しのコンクリートに鋲で留められた物々しい金具、黒檀のような木製の分厚いドアには金色の鯨とおぼしき真鍮が埋め込まれている。
郁夫はまた煙草をくわえて「サンジ」に変身すると、ドアを開けて僕を誘った。
店内は薄暗かったが、帆船を模した内装は見応えがあった。錆び付いた巨大な銛や太いロープの渦、オールや滑車などなど。どうも捕鯨をテーマにしているようだ。流木で作られたと思われるカウンターが長く伸びていて、どうもそれだけのお店らしい。
出口に近いところにいた三人組の男達は詩音を見ると、例外のないあの表情を浮かべた。「慣れ」とは怖ろしいものだと僕は思う。僕は彼らを空気のように感じながら、それでも軽い「挨拶」のような流し目を送る。ため息のコーラス。
カウンターの最も奥まった所の椅子を郁夫は引いて、片手で僕をエスコートした。ま、合格かな。続いて僕を隠すようにして隣に郁夫が腰を下ろした。
黒髭の中から目と鼻だけが付きだしたような、不機嫌な大男が近寄ってきた。無言だ。とても良い兆候ではある。
「僕はロン・ヴァラデロをストレートとチェイサーで。君は…この店にはカクテルが」
「あるよ。ソルティ・ドッグ。無いはずがない。だよね」
髭のマスターは不機嫌そうな顔のまま頷いた。
「知らなかった…ここはラム酒とバーボンかシングルモルトしかないと思った」
「ソルティ・ドッグの意味を知ってる?」
「いいや。直訳すると「塩の犬」になるけど」
「Salty Dogの最後の「DOG」はスラングでね、逆に読むんだよつまり「GOD」。こういうお店が「海の神様」に敬意を払わない訳はない」
郁夫はただただ目を丸くして僕の桜色の口唇を見つめる。可哀想だから、思いっきり笑顔を浮かべてやった。それから黒板を横目で見る。その日のお奨めなのだろう、いくつかのメニューがチョークで乱暴に書かれていた。
「食べ物はアイスバインのポトフをお願いね。一緒に食べる?」
「い、いや。じゃあ僕も同じ物を」
髭のマスターは黙ってカウンターの奥へ去って行った。
郁夫は咥えた煙草に火を着けて、頭をがりがり掻いた。
「君はいったい何物なんだ? 僕は怖くなってきたよ」
「頭でっかちなだけだよ。ところで、カッコだけかと思ってたら、煙草を吸うんだ」
「この店に来るとそういった悪徳にまみれたくなるのが男ってもんさ」
「……キスの味が苦くなっちゃうじゃない」
郁夫は眉をつり上げて、慌てて煙草をもみ消した。
僕は眼を細めて郁夫に流し目をくれ、肩肘をつく。
「そのつもりだったの?」
「い……いやいやいや、まったく、もう! 君がこんな小悪魔だとは思わなかった」
僕はまた優しく笑ってあげた。
運ばれてきたソルティ・ドッグは見たこともないほど見事にグラスの上に塩も結晶が煌めいていて、僕はびっくりした。郁夫のラム酒とチェイサーもカウンターに乗る。
「今、かかっている曲を知っている?」僕は郁夫に問うと、郁夫は首を振り、髭のマスターが立ち止まる。
「これはね、「ナンタケット・スレイライド」。そうですよね」
髭のマスターはゆっくりと、しかししっかりと頷いた。気のせいか、埋もれたような瞳が光っている。
「何? それ。そういえばいつでもかかっているな、とは思っていたけど。そもそもこの店の名前は「ナンタケット」さ。知っている人なんてほとんど居ないはずなのに」
「フェリックス・パパラルディって人が作った曲。」
僕はソルティ・ドッグを口にした。甘酸っぱく、ちょっとビターな絶品だ。僕は両手で顎を支えて、またしても酒に負けないぐらいの絶品の微笑みを浮かべた。
「ナンタケット。アメリカの東海岸にある小さな島。でもね、かつては屈指の港だった。それはね、アメリカの捕鯨の歴史の原点だよ」
「え? アメリカって、捕鯨大反対の国じゃないの?グリーンピースとか」
「今はね。でも、かつてアメリカは世界最大の捕鯨大国だった。今流れているこの曲も、命をかけて鯨と戦った男達の歌だよ」
詩音は伸びやかな美しい腕と指で、店の天井近くにあるいびつな白い骨に描かれた帆船の細密画を指さした。
「ホエール・アートだよ。鯨の骨に刻んで色をつけたもの。アメリカという国は自分の誇りさえも捨ててしまった」
横を向いている寡黙なマスターに向かって、詩音は声を落として言った。
「でも。残念。これは牛骨。捕鯨が迫害された後の作品」
それから僕と郁夫は、アイスバインのポトフの旨さにびっくりしながら、あっという間に食べてしまった。食べ終わった僕の前に、コトリと小さなグラスが置かれた。僕は迷うことなくそれを舐めてみる。ちょっと考えて僕は言った。
「サンティアゴ・デ・クーバ」
僕はそう言って、力を込めてキリッと髭のマスターの眼を見つめた。
髭のマスターはゆっくりと微笑むと、カウンターの下から何か取り出し、僕の目の前に置いた。それは、金色の鯨のシルエットを持つ小さなプレートだった。
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