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フィヨルドの夜の祭り──逃走と戦闘とその清掃
しおりを挟むツバキ・ファミリアは倉庫用に不要なテーブルや椅子は全て撤去されていた。それでもステージの部分はしっかりした木材が組まれて一段高くなっており、由子から見るとかなり時代遅れの機材が並んでいる。PAもお粗末で「ボーカル・アンプ」と呼んだ方が適切だ。
サクラ・ファミリアと違って、ツバキ・ファミリアは一階にあった。サクラ・ファミリアがまだ店舗としての体裁が保たれていたのは、エレベーターもない地下では使い道が限られているため、買い手が付かなかったのだろう。
客はほぼ満員で、サクラ・ファミリアの時と集まっている客層は変わらない。殆どの客はリノリウムの床に腰を下ろしている。例によって、各種の酒が揃えられていた。ワン・ドリンクサービスは同じシステムのようで、沓水はいの一番にウォッカともジンとも解らない透明な強い酒を飲み始めている。
「飲み過ぎちゃ駄目だよ、沓水。あんた素面でも絡み酒喰らっているようなもんなんだから、どう考えても酒癖悪そうだし」
由子が注意を促すが、沓水はコップ一杯の酒を殆ど一気に飲み干した。
「お、あれ? もう一杯だ。詩音! 金寄こせ」
「やだね。まだ始まっても居ないのに酔っ払われても迷惑だし」
「俺、「鉄の肝臓」って呼ばれてるんだよ? 普通の人のビール一本が俺にとってはラム酒ボトル一本なの。俺の場合。一杯で足りる訳がねえじゃねえか」
「沓水、酒は自分の金で買う物だよ」
「買えるんなら買うよ! ここの通貨を持ってないからお前ぇに頼んでんじゃねえか、察しろよ。さっさとその「右手」を出せ!」
「沓水法律事務所の一ヶ月分の家賃と一杯分が等価っていうのなら」
「暴利だろ! どう考えても!」
「やめてよ、始まりそうだわ」由子の目つきが鋭くなる。
出来るのなら、レインの出番の前に捕まえたかったのだが、何処を探しても「楽屋」が見つからなかった。他の階か、別の建物なのかも知れない。
会場が次第に静まりかえり、観客の瞳が期待に光を帯びて来る。
そして、右手からタキシードとシルクハットを被った男が出てきた途端、爆発的な拍手がわき起こる。「ビリー!」「ビリー・シアーズ!」「ハイホー! ビリー!」観客の嬌声が響き渡る。当の本人が両手を挙げ、静かに下ろすのに合わせて、ツバキ・ファミリアは徐々に静まり返る。ビリー・シアーズは、シルクハットを深く被り、眼は影になって見えない。
「ようこそビリー・シアーズ・ショーへ。諸君、サクラ・ファミリアは大変な事になったが、それでも君達は懲りないようだ。それはつまり、このフィヨルド最悪の冗談という事なのだが、まあ、それも含めてのビリー・シアーズ・ショーだ。保証はしないからそのつもりで」
観客が大きくどよめく。飛び上がって拳を振り回す者、絶叫する大男。全てがスタンディング・オベーションで割れんばかりの拍手をする。再びビリー・シアーズが手を上げ、観客を鎮める。まるで指揮者のようだな、と詩音は思う。
「それでは始めよう。毎度のことで恐縮だが、この街にはもうあまりロックバンドが生き残っていないのでね。改めて紹介させて貰おう。グレート・フール・レイルウェイ!」
いきなりの大爆音。セミ・ソリッドのギターをかき鳴らし、圧倒的な声量で観客を吹き飛ばし、ベースは心臓の鼓動のように正確だ。
「まあ、前にも聴いたけど、典型的なアメリカン・ハードロックね」
「勢いがあっていいと思うけど」
「ぎゃはははは! 騒げ騒げぶっ壊せ!」
ぶっ壊れているのは沓水本人だと詩音は心の底から思う。
早くもダイブを始める奴が居る。この街ではよほどロックに飢えているのだろう。熱狂と興奮、そしてスリルと暴力。「グレート・フール・レイルウェイ」の演奏はまさにその象徴だと言えるかも知れない。半裸のシェイプアップした身体をうねらせ、真鍮色の長髪と髭を振り回している姿は人間の本能を揺り動かす。由子だけはあくびを堪えているが。
「グレート・フール・レイルウェイ」はその後、数曲演奏し、もの凄く引っ張ったエンディングと同時にステージの照明が落ちた。会場が揺れるような拍手と歓声がツバキ・ファミリアを満たす。この間に沓水が支払ったのは法律事務所の家賃半年分だった。詩音が右手で銅貨を作るたびに、マントのポケットから出したノートにサインをさせる。
「………………後で「忘れた」なんて言い出すからな。念のため拇印ももお願いしておくよ」詩音は朱肉を出して沓水に差し出す。ご機嫌になった沓水は迷いもせず盲印をノートに押しつけた。
「がはははは、今日は最高の夜だぜいっ! もっともっとぶっ飛ばせ!」
「……沓水がロックが好きだったなんて意外」
「違うな。酒が好きなだけだよ。それにお祭りと気の触れたお仲間が居るからね」
由子が回りを見回すと、かなりの人数が沓水と同じように杯を重ねている。
「……そんな客はお断りね、私的には」
「ま、由子のやっているプログレッシブ・ロックは酒よりはアシッドとかグラスだね」
「ば、馬鹿にしないでよ! 私たちのロックは音だけで酔えるんだから!」
「そりゃ安上がりで結構」
「ちょっと待って、それどころじゃないみたい。詩音、沓水、前に詰めるわよ」
「詰めるってたって、すでに人間のバームクーヘンになっているんだけど」
「もう! 裏技よ。PAの線を辿って潜り込むのよ。シールドは箱で守られているわ。トンネルをくぐる要領で行くわよ!」
「やれやれ、この酔っ払いを引きずるのは僕の役目と言うわけかい」
詩音は先導する由子の後に付いて観客の僅かな隙間であるPAラインをくぐる。幸運なことに沓水は特に抵抗もせず千鳥足で付いてきた。
まるで海中から浮上するようにぽっかりとステージ前に三人の頭が浮かぶ。ステージの暗がりでは明らかに三人の気配を感じた。音一つ立てないスマートなセッティングだ。ステージの右袖にスポットが当たり、ビリー・シアーズが浮かび上がる。
「さて、お待ちかね。我がフィヨルドでぶっちぎりのテクニックを誇る三人を紹介しよう。って、解っているよね。「モスキート」だ。カモン!」
叩きつけるようなガッツのあるノンエフェクター・ギターのファットサウンドに、重低音と突き抜けるスネアドラムが天空まで届くように響き渡る。そして、大潮のうねりもかくやと思われるブーストしまくったベースが波のボトムから砕ける波頭まで、心をかき乱すように美しい輝きを持ってツバキ・ファミリアを振動させる。まるで世界をまるごと露出させたようなサウンド。由子の瞳が蕩けるようにぼやけ、祈るように両手を組み合わせる。
確かに、ロックは門外漢の詩音でも、音の「凄み」が理解出来た。
「あのベースの男──黒いベストを着て灰色の長髪の奴──あいつを拉致っちゃうわけ?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ! スカウトするのよスカウト!」
「本人の確認無しにだろ? それってただの誘拐じゃないか」
ピアノの打鍵音。少なくともそう聞こえる異形の音。
ツバキ・ファミリアの入り口付近の男達が吹き飛ぶ。電源がカットされ、ステージにドラムも止まり、残っているのはシンバルの残響音だけだ。
「逃げ足早いからね! 行くわよ! 詩音、沓水!」
言葉だけ飛ばすと、素早くステージを降りるベーシスト「レイン」を由子がステージに駆け上り、文字通りアンプの上を羽ばたくように跳躍してレインを追う。詩音はステージの上まで辿り着いたものの、いかんせん沓水が足枷になってしまった。
「沓水、やるときはやるのが約束だよ」
「何? 走りながら酒飲むのは中学校で卒業したからな、俺」
詩音は一瞬考え込み、頭に閃いた言葉をそのまま口にした。
「沓水、早くしないとカミュのナポレオン飲み放題に間に合わなくなるよ」
沓水は吊り目をくわっと開き、突然人が変わったかのように瞬速でアンプを飛び越え、由子の走った先に向かう。半端じゃない速度だ。詩音も必死にそれを追う。
「酒に意地汚いのは知っていたが…なんともはや…」
掴んだ腕をびくとも話さない由子をどうしたものかと躊躇している灰色の髪の男、レイン。その手前でせわしなく周囲を見回している沓水。しかも左の出入り口外側に待機していた群青色に銀線が並んだ制服を身につけた兵士が二人駆け寄ってくる。
詩音はその向かって左側の男に全速で向かっていった。相手は詩音に気付き、48鍵盤の奇妙なキーボードを構える。その瞬間、詩音が消える。兵士は立ち止まり、戸惑った瞬間、その背中に詩音の全身の体重を乗せた肘が突き刺さった。「影」を歩くことに精通した詩音にのみ可能な影」への浸透と復帰。頭に思い描いた単純なイメージだけで、瞬間的に「影」を歩くやり方だ。
兵士を倒した後、振り返れば沓水がまばらな口髭を逆立たせて唾を飛ばしている。
「ああん? 俺は旅行者だぞなあに他世界からの無許可侵入とはどういう法的拘束力があるか知らないがこれでも弁護士だ法廷に出るのなら俺の庭だ兄弟に会いに来たのに何が悪いお前らの所の統括議会議員の弟だぞニキ・スチュアート知らないなら教えてやろうかあ?顔は違うさ腹違いだからなスチュアートの家の恥だから表立って動けないんだよなんなら兄貴に頼むかニキの兄ちゃんが貶められるのがそんなに嬉しいか棺桶に足突っ込んだ老人に未来を託したいならそうしやがれそうじゃなきゃお前んとこのアタマの皇姫とナシつけてもいいぞ手前ぇの将来をずたずたにしてやるから顔を洗って出直してこい!由子、詩音、レイン行こうニキ・スチュアート様の晩餐を共に愉しもうじゃないかあ」
完全に混乱した兵士は48鍵盤の武器をだらりと下げて途方に暮れている。聞いていた詩音はいつものポーカーフェイスでさりげなく沓水を連れて混乱したツバキ・ファミリアの外に飛び出した。
Rain's Booksのある路地を曲がる。
「よっしゃあ!逃げるぞ「ロイス・ベル」へ走れ!」
沓水が叫び、由子と二人で挟み込むようにレインを抱えて「ロイス・ベル」へ走り、詩音はそれを追う。念のため後を振り返ると、女性の兵士が一人路地の角に立ち止まり、48鍵盤を構えている。だが、詩音の桜色の口唇は既に言葉を発した後だった。
天空の雲は大地に処女の口づけをする
儚く脆い夢よ我が望みをひととき許せ
諸手に抱くその幻の愛のために
不埒な執着を雲間に隠せ
まるで月明かりが落下したように兵士と「ロイス・ベル」との間に真っ白な雲が現れる。雲に音が飲み込まれ、僅かなくぐもった音が響く。詩音は三人に続いて「ロイス・ベル」に飛び込み、ドアが閉まる前にヘクトルが神がかった操作を一瞬で終え「ロイス・ベル」のエンジンが咆哮してたちまち異なる「影」への転移を始めた。
「…………四行詩で防げたか。結構危なかったね」
「お二人ともご苦労さん。見事な連係プレーだったわ」
「好きでやった訳じゃねえ、畜生、酔いがすっかり醒めたぜ」
沓水は「ロイス・ベル」の冷蔵庫から凍ったグラスとズブロッカを出すと、なみなみと注ぎ、喉の奥に放り込んだ。そしてレインに気付き、グラスをもう一つ出して、レインの前のテーブルに置き、グラスいっぱいにまで満たした。
「遠慮はいらねえぜ?」
アイソトープ・レインは口を半開きにして茫然としていたが、語るべき言葉は喉を通ることはなく、諦めてグラスに口を着けた。
「………………こりゃ一体何事なんだ?」
「その前にとにかく逃げなさなきゃ………………私の大事なベーシストさん」
由子は可愛らしくレインにウインクした。
白い絹の艶やかなブラウスはその漆黒の髪によく似合った。肩のストラップから下げられた48鍵盤の兵器「スタッカート」は白銀のカスタム。紺のプリーツスカートは一見地味だが、その際だったスタイルを強調する結果になっていっそ艶めかしい。リーガルの靴が両側の壁に反響し、前方の大捕物とはまるで無関係かのようだ。普段は決して身につけることのない白銀のティアラが喧噪の伴う光を反射した。
そして、その前に仁王立ちする堂々たる影を見つめて足を止める。
周囲に反射する照り返しの中に浮かび上がるその日焼けした肌、チェ・ゲバラがプリントされたTシャツとリーバイスのジーンズと履きこなれた登山靴の他は一切の丸腰だ。
共通する直感に二人は対峙する。先に口を開いたのは男の方だった。
「その玩具を頂こうか。ついでに打鍵する部分に付いた材料の出所を教えて貰おうか、黎明学園自治会長の三浦涼子殿」
女の眼が漆黒の輝く眼から邪悪な鉛色になるまでほとんど時間はいらなかった。
「ほう、私を知っているとは見上げたものだな」
「あそこで遊んでいる坊や達から頂くのは簡単なんだがね。それじゃ弱い者虐めみたいでね。まあ、突っかかってきたのは5、6人居たからそっちは始末したがね。残念なことにその玩具のピアノも殴り壊しちまった。大将から獲るのが筋ってもんだろう」
涼子は僅かに首を傾げた。
「この世から消えてなくなる前に貴方の名前を聞いて置いた方がよさそうね」
「ふむ。貴様の首がもげる前にそうしておこうか。俺は「七月のムスターファ」議長の杉野二郎。「革命家」を自称している。黎明学園にも居たんだが、水が合わなくてなあ」
「その「七月のムスターファ」とやらの目的を聞いておこうかしら」
「簡単な事さ。「遺伝子保護法」をぶっ潰す。それだけだ」
涼子はちらりと右前方を見る。夜目にも鮮やかな赤毛と紅い瞳の少女。
「…………謎が解けた、という事ね。「遺伝子保護法案審議会」の牛歩も、混乱も。あなたたちの仕事だったって訳。「特例遺伝子解析チーム」の方は順調に進んでいるのに、たった三日もあれば仕上がる審議を成立させなかったという事ね」
今度は杉野が首を傾げる番だった。
「……その「特例遺伝子解析チーム」とやらは、なんだ?」
涼子は普段からは考えられないような邪悪な笑みを浮かべた。
「世界最高の頭脳の集積。表向きは多田製薬の第二種開発部門になっているけどね。モルガンもロックフェラーも、ロスチャイルドだって協力してくれている。連中の大好きな差別という悪意の部分を増幅してね。地球にはドブネズミが増えすぎた。駆除して灰にして原子にまで分解して清浄な大地を取り戻す。その崇高な使命を邪魔するのは、ドブネズミに寄生する疫病以外の何物でもないわ」
「意見が合うな。俺はそういう神様気取りのダニを駆除する専門家でね」
緊張が極限まで張り詰める。二人は共に五感を限界まで引き上げた。
「貴方が倒した連中は「ピチカート」。それでもバイエルしか弾けない無能な馬鹿共よ。捨て駒に過ぎない。そもそもこの「フィヨルド」自体がクズ。たまたまこの「スタッカート」に必要な物が手に入る唯一の「影」だったから、それを利用させて貰っただけ」
「それで女達がほとんど居なかったって訳か。大方材料を採取するのと製造に回したという訳だな。そして男は馬車馬のように働かせると。いくつか、「フィヨルド」を維持するのに必要な「議会」を機能させておくための施設と男達の最低限の娯楽を満たしてやる。それも極めて偏向した選択肢でね。よくわかった。貴様は正真正銘のダニだ」
「ペスト菌に言われたくないわよ」
「……さて、じゃあコンサートを始めようか。俺にとってはホルストとピンク・フロイドの違いが全く解らないのだがね」
涼子のリーガルの左足がほんの少し上がる。杉野の登山靴がぎりっと石畳を噛む。
どんな戦いでも、闘争である限り「間合い」は勝負の明暗を分ける。
先に動いたのは涼子の白魚のような指だった。曲はヨハン・ゼバスティアン・バッハのクラヴィーアのフーガ。地を蹴った涼子の両手が空中の「スタッカート」の上で舞う。紫と緋色に彩られた音弾が杉野の足下と腕に直撃する。兵士の攻撃とは根本的に異なる、まさに音楽的な表情に満ちた攻撃だ。囁くようなピアニシモは弾幕となり、力強いフォルテは直撃する魚雷となって襲う。
初弾を腕に受けた杉野はにやりと笑う。そこの部分はピアニシモだったが、皮が大きく捲れ上がり、肉から血が迸った。杉野は地を這うように跳躍し、涼子の着地地点に拳を叩きつける。パワーだけでは説明できない衝撃波が炸裂した。それは直径3メートルもの窪地になり、そこから舞い上がった原爆雲のような強力な気流が涼子の足を捕らえ、回転させる。
その回転して逆転した涼子の眼はまったく瞬きをしない鉛色。その中心に向かって杉野は左の拳を回転させながら放ち穿つ。
その砂塵の褐色を呈した衝撃波は涼子の連続するフーガと空中で激突した。その衝撃は眼に見えないニュートリノやタキオンになって両側のビルに突き刺さる。硝子と煉瓦が砕け壊れ崩れ両者の肌を切り裂いた。
「こんのぉぉぉ細菌めえ! 私の肌を傷つけたな! その罪を思い知れ」
メンデルスゾーンの「ピアノ三重奏第三楽章スケルツォ」が野獣のような音弾を放つ。その野獣のような曲想が軽快に杉野の肩と首を切り裂いた。
「俺の肌は敏感肌なんだ。肌が荒れるような錆びた剃刀を使うんじゃねえ!」
杉野は強力な握力と脚力に物を言わせてビルを歩くかのような速度で登り切り、左右の拳を交互に突き出しながら涼子に襲いかかる。物量の移動で大量に発生した真空刃が涼子に降り注いだ。
涼子は歯を食いしばり右手のトリルで微細な音弾を半球状に展開すると杉野の真空刃は飛散した。低音部の巨大な黒い音弾が杉野の腹に直撃し、跳ね飛ばされた杉野はビルに身体を打ち付けて落下する。
にやりとどす黒い笑いを浮かべた涼子に凄惨な笑みで応えた杉野は壁を蹴って水平に向きを変え、風を切るチョップにして光の刃を長く描いた。
とっさに「スタッカート」を盾にした涼子が後に転倒する。光の刃を受けた「スタッカート」の裏側から薄く青い煙が立ち上った。
「…………この私の背に土を着けたな。このような屈辱は初めてのことだ、褒めてやろう」
「いや、そこ石畳だから。土は着いていないって」
「プライドの問題よ」
「そりゃどうも。さすがは「皇姫」のカードを持つものは違うな」
「…………どこでその名を聞いた」
三浦涼子は糸切り歯をむき出して吠える。
「いや、俺も「白銀のカード」の一人なんだぜ? 知らなかったかい」
「知りたくもないわよっ!」
飄々と杉野は歩み寄るが、その上半身に布は殆ど残っていない。黒ずみ、紫色に腫れ上がり、出血は全身を覆い隠している。
対する涼子は夜叉のような爛々と輝く鉛色の眼を杉野に向ける。まるで岩を穿つような気迫が充ち満ちている。頬は傷を受けて一筋の血を垂らし、シルクのブラウスは所々裂けていた。傷は軽微だが、プライドの傷はかつて無いほど深く心を抉り出す。
杉野はこきんと首を折り、指の骨をバキバキと鳴り響かせた。
「礼儀を尽くしてやろう「ムスターファの銃弾」
「メンデルスゾーン……幻想曲 ニ短調」
次の一期で決まる。両者の暗黙の了解。
仕掛けたのは涼子だった。「幻想曲 ニ短調」は連弾曲だ。攻撃の総量は倍化する。黒い音弾と白い音弾が矢のような高速で杉野に襲いかかる。
杉野は両手の指を掴むように構えてため込んだ気を放出した。
知らない人間が見たならば、暗闇の中の螢の乱舞のように見えたことだろう。
杉野は高速の音弾をほとんど全身に受け、血しぶきの中に倒れた。それはまるで巨大なシルクロードの神像が崩れ落ちる様に似ていた。
涼子は光の槍のほとんどを盾にした「スタッカート」で受けた。白銀の「スタッカート」は歪み、割れ、砕けて涼子はほぼ一回転して転倒した。
が、立ち上がったのは、涼子だった。ただ、傍らに転がった「スタッカート」はもはや残骸となり、東京湾に浮かぶ最終処理場の物質と変わらなかった。
血にまみれた男は動かない。動けるはずもない。
その瞳は血にまみれ濁って焦点を失っていた。
初めは静かに、そして高らかに、やがて気が触れたように涼子は哄笑した。
しかしそれも一瞬の事だった。涼子の頭部に壊れた「スタッカート」が叩きつけられた。
「???」後頭部に走る激痛を堪えて涼子は振り返る。そこには群青に銀色の線を飾る一人の女性兵士が居た。
「な、な、なにするのよ! 私は「皇姫」よ! 無礼者!」
しかし、その怒りに歪んだ「スタッカート」を振り上げる女性兵士はニヤリと笑い、その真紅の瞳を見開く。
「同士杉野」女性兵士に扮した眼赤視が杉野の倒れた傍らに座り込んでいた。
「今、時間を稼いでいる。逃げよう」
杉野は穏やかな笑いを浮かべる。見たこともない満足した笑みだった。
「その、逃げる力がない。「影」を掴むだけの力が足りない」
「いや、ある。あるんだ、同士杉野」
眼赤視は杉野の右手を掴んで自分の頭に貼り付けるように密着させた。
「傀儡の部屋がある。私の頭の中に。それを掴め! 後は私と傀儡がやる」
杉野は不思議そうに眼赤視の紅い瞳を見つめた。
「怖くないのか? 100万人どころか一億人に強姦されるような物だぜ? それに、失敗したら三人とも死ぬ」
眼赤視の表情は変わらず、いや、かつて無いほど真剣だった。
「あなたは「七月のムスターファ」を統べる者だ。そして「七月のムスターファ」は絶対に死なないのだ!私の頭の中にある傀儡の手を掴め!失敗しても後悔などしないと言ったのは他ならぬ同士杉野だ。共に生きると言うことは共に死ぬと言うことだ! 恐れるな同士杉野!」
杉野は瞑った目から傀儡の部屋を幻視した。そしてそれを残った力を全て動員して拳を眼赤視の頭部に潜り込ませ、傀儡の幼く白い掌を掴んだ。そしてもう片手で眼赤視の手を強く握りしめる。
「っ………………!」
「お前だけここに残ろうと思いやがったな馬鹿め。俺を騙すのには百年早いんだよ」
それは不思議な光景だった。燃えさかる戦闘の跡地をバックに、倒れた男の手のシルエットが女のシルエットの頭部に引きずり込まれて行く。そしてその少女の手も男の手に握られて頭部に引きずり込まれ、やがて男女の胴が、足が飲み込まれ、最後に頭部その物が飲み込まれていった。
すなわち、全ては飲み込まれ、消えてしまったのだ。
混乱はより理解しがたい混乱を生み出す。
たちまち皇姫の部下の女性兵士達が駆け寄る。
「皇姫様、大丈夫でございますか!」
「皇姫様、一体何がおきたのでございますか?」
「担架だ、担架持って来なさい。いや、馬車か車を回して!」
喧噪の中で「皇姫」たる少女、三浦涼子は毒づいた。
(やってくれたわね、あの赤毛女………)
ビルの影に隠れて、担架で運ばれる三浦涼子を確認した「村長」照井達也は、顔面を炎の緋色と暗闇の漆黒に寸断させて佇んでいた。
「あ~あ、酷いことになっちまったなあ。まっさか杉野と先輩が絡んでいたなんて気が付かなかったよ、なあ、伊集院」
片手に持った伊集院のタブレットを持って、回りに振りかざし、再び液晶画面を見た。
そこにはとぼけた顔をした男が眉を顰めている。
「しょうがねえだろうが。今回開発が遅れちゃったしよ。そもそも「ユニオン」に支部がねえんだもん。リアルタイムで今はリンクしているけどな」
「こんな騒ぎだ。他の「影」にも影響出るだろう」
「ま、地球の日本としては、せいぜい政治家の汚職か芸能人のスキャンダルぐらいにしかならねえんじゃねえの? 気にしすぎなんだよ照井の場合。じゃあ、さっさとお掃除してねっ」
「するけどさあ、ショッパチ、お前のこと気付いてないぞ」
「そっちの方が好都合なんだけどな。クラッカーは一回ばれたらお終いなんだから」
「今度から「デバガメ」って呼ぶぞ。いいか」
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五分も経たないうちに、「ツバキ・ファミリア」を含む全ての構造物は完全に復元され、夜独特の静謐さに満たされた。
完全な「影」の修復には五分もかからなかった。が、照井の顔は汗にびっしょり濡れている。
「ふう、後片付けは大変じゃあ……」
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