黎明学園の吟遊詩人

ぱとす

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青い芝生での午睡──白石由子の依頼

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水色の空には雲ひとつ無い。頭上の楡の木の葉が強い陽射しを遮ってくれる。放課後の授業をフケた二人の少年が青い芝生の上に寝そべっている。
黎明学園は緑豊かな環境に恵まれている。これほど都心に近いのにこれだけの緑は珍しい。もっとも、その少年の一人、照井達也の祖父がこの学園を創立した頃はこのあたりはド田舎で、湿地帯が続き生徒達はカエルを捕まえたり、野鳥と戯れて遊んだそうだ。その場所は今は「井の頭公園」と呼ばれ、都民の多くから愛される桜の名所になってしまっているが。

「なあ、最近「影」を歩いていて気が付いた事はないかい?」

問われた詩音は鍔広の帽子を顔の上に乗せ、口に挟んだ草を僅かに上下させていた。照井は身体を反転させて、肘を立て身体を起こす。太り気味なので、そんな所行も億劫そうだ。

「どうも全体的にきな臭いって言うかさ、ざわめいている感じがするんだ。…………気のせいかも知れないけど、ヒステリックになってる気がする。多分「共振」じゃないかと思う。どこかの「影」で騒動が起きていて、それが他の影を波打たせているんじゃないかってな」
詩音は加えていた草の茎をふっと飛ばして、桜色の口唇を開いた。
「………「ソラリス」が安定している限り、その線が濃いね。実際に昨夜も「悪意」を見た。あんな物が出てくるとなると、厄介事は大きいみたいだね」どうにも緊張感の欠片もない声で詩音はつぶやく。
「解っているのは「碧のカード」の他にもカードのセットは存在するって事。三ヶ月で辞めちゃったけど、うちのクラスにも一人居たよね、あの、暴力的で協調性のない戦車みたいな男」
照井は腕枕をしながら蒼穹の空を見上げた。詩音は組んだ両手を離し、右手の人差し指を立てる。
「あれは「白銀のカード」と呼ばれるらしい。「碧のカード」が特に特別なヒエラルキーを持たないのに対して、比較するとやや「選ばれたカード」のようだけど。でも、「村長」なら気になるだろうね。「村長」は「影」の安定を望んでいるから。そうじゃないかい?」

「なあ、この世界だって「影」のひとつに過ぎないじゃない。「影」の安定を望むのはこの世界の安定を望む事にもなるんだよ。幸いというか偶然というか、この「影」は「ソラリス」に近いから他の「影」へのアクセスも容易い。なんとか大事になる前に解決しておきたいのだけど」億劫そうに「村長」照井はひとりごちる。
「君の力は「何事か起こってからの修復」じゃないか。事前に解ったからと言って、なんとかなる物なのかい?」
詩音の表情には「熱意」とか「失望」とかとは無縁だ。常に飄々と。常にあるがまま。

「だからお前に話しているんだよ。お前は「吟遊詩人」なんだから、危険や問題が起こる以前の状況に対して力を持っているじゃないか」照井の声は珍しく皮肉っぽい。

「場所も方法もわからない。それを見つけることも出来ない。特定できなくては僕の力は無力だ」

その時、軽い音楽のようなサンダルの駆ける音が近づいてきた。

「あれは由子だね」照井は音のする方向に視線を移動させた。
「ああ、そのようだね。面倒事じゃなければいいんだけど」
この上なく天真爛漫な笑顔と金銀の粒子を振りまきながら駆け寄ってきた掛け値無しの天使のような美少女が、白いマイクロミニのワンピースを翻して息を切らせて立ち止まった。

「照井と詩音にお願いがあるんだけど」
そう言った由子は芝生の上であぐらをかいた。丸見えのショーツが痛々しい。この女の子には羞恥心というものが無いのだろうか。
「…それは「照井達也」と「天羽詩音」へのお願い? それとも「村長」と「吟遊詩人」へのお願いなのかな?」

「勿論「村長」と「吟遊詩人」へのお願いよ。生徒としてのあんたらには成績も素行もなんの価値もないじゃない。特に詩音なんてホームレスだし」
「なんとも素晴らしい褒め言葉だね」
詩音は表情も変えずに虚空を見上げ、帽子をずらして身体を起こす。照井と違って、まるで重力を無視したような優雅な仕草は「吟遊詩人」の名にふさわしい。

「で、どうしたの?」
「発動したのよ、昨日「パープル・ヘイズ」が」

由子は昨日の経緯を熱を込めて説明した。その名も知らない都市のことを。秘密のギグのことも。そして出会った素晴らしい才能を。
「だから、その「レイン」って男をなんとしてもメンバーに欲しいわけ。でも、あの世界は私にはどう行けばたどり着けるかわからないし、わかったとしても行けない」
由子は口唇を噛みながら悔しそうな上目遣いで二人を見つめる。

「沓水なら顔も広いし出来るはず。だから、あなたたちに連絡を取って欲しいの」と由子。
「学校に来たときに頼めばいいだけじゃん」照井があぐらの上に頬杖を突いて言った。
「急いでるの!もう、一秒でもいいから早く取っ捕まえたいのよ!私の目的に最低不可欠な物が、手を伸ばして届くところにいるのにそれが解らない。私はあんた達みたいに「影」を自由自在に歩けないんだから」
「その代わりに「幸運」というものは掴めないけどね」と、詩音。
照井が皮肉っぽい笑みを浮かべて由子を見つめる。

「それって、拉致っちゃうって事じゃないの? それに「レイン」とやらがこっちの世界に来るとしても、言葉はどうするのよ。詩音以外には話せないぜ?異世界のマルチリンガルは詩音と沓水だけだ」
「そんなの、お金で解決出来るでしょ!」由子が憤慨を露わにする。
「そうか、お前金持ちだったものな………」照井がうんざりした顔で呟く。
「いつまでもあると思うなよ、親と金」詩音が微笑みを浮かべた。
「うるさい!うるさい!うるさい!バンドがメジャーデビューすればお金は湯水のように稼げるわよ それより連絡を取ってくれないの?早くしてっ!お願い!」

照井は眠そうに詩音の方を向いた。

「だとよ、詩音」「やだね」一瞬の躊躇もない拒絶。

由子は髪を逆立てるようにして叫んだ。

「どうしてよ!私に出来ない事を詩音なら簡単に出来る!「影」を一番上手に歩けるあなたにお願いしているの。どこが気に入らないのよ!」
「知っての通り、沓水は弁護士で多忙を極める。そんなことをお願いできる筋合いじゃない」
詩音は心持ち帽子を伏せて瞳を隠す。実は詩音は瞳の動きで完全に心を読まれることを自覚している。鍔の広い帽子を着用しているのには理由があるのだ。
「お願い。多分一生のお願いになると思う」
「人はその一生で何十回ぐらい「一生のお願い」をするのだろうね」

「………………………!」

由子は俯いて動かない。伸びっぱなしの雑草のような青い芝生に淡い影が落ちている。
詩音は立ち上がり、学園を仕切っている椿の生け垣の前に立って、一枚の葉を毟り取った。そして、由子の前に立つ。
「どんなに有名になっても、チケットは無料でくれる事、いいね」
潤んだ目で詩音を見上げた由子に満面の笑みが輝いた。
「うん!うん!約束する。マジソン・スクエア・ガーデンでやるときには飛行機のチケットも往復ファーストクラス付きよ!ロンドンの時はヴァージンでね!」

詩音は校庭の椿の木の一枚の葉に手をかざし、指が複雑に交差する。それがシラブル。そして聞き取れない小さな短い言葉を呟いた。
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