14 / 22
14
しおりを挟む
それから抄子さんが迅速に動いてくれて、動画はネット上からは全て削除された。日本に帰ってきた兄は空港からその足で僕の部屋に来てくれた。僕は兄とこれまで以上にたくさんの事を話し合った。今まで語り合うことを避けていた、子供の頃の僕の思いを、兄は辛かっただろうにそんなそぶりを見せずに聞いてくれた。僕は隠していた傷を全部兄に曝け出した。あの小さな部屋で、僕はずっとずっと孤独で、消えてしまいたいと思いながら18歳まで生きてきた事。学校でも家でも、疎外され存在を認めてもらえないと感じていた事。認めてもらいたい、優しくされたいと強く願いながら、心のどこかでそれを諦めないといけないと、ずっと自分に言い聞かせてきた事。初めて会う人と話す事が今でも怖くてたまらない事。いまだに自分にどうしても自信が持てない時がある事。心のどこかで自分を汚いと思ってしまう事。恋愛が何なのか分からず、愛情を求めて、何もかも差し出してしまった事。奏さんに肉体的にも性的にも暴力を振るわれていた事。それに耐えれば愛してもらえると思っていた事。子供の頃から辞めてはまたぶり返し、駄目だと思っていても今もまだ時々してしまう自傷癖。
そして、誰にも言えないでいた事。奏さんの性的暴力が激しくなった頃から、僕の性器はもう男性として機能しなくなっている事。
兄は黙って聞いてくれて、黙って抱きしめてくれた。兄は僕を抱きしめて、背中をさすりながら何度も何度も
「ごめんな、ごめんな。」
と呟いていた。
「大丈夫。もう大丈夫だよ。」
とも言ってくれた。
何時間も、僕達は静かに泣いた。
兄や高橋先生と相談し、抄子さんともよく話し合って、刑事告訴と同時に民事訴訟を起こす事にした。奏さんは何回か大きな建築の賞を獲って売れっ子建築家になっていて、メディアにも時々登場していたので、刑事告訴はマスコミの耳目を集める可能性もあった。奏さんは会社の弁護士を通して、すぐさま和解案の条件を教えて欲しい、出来る限り呑むから、刑事告訴を取り下げて欲しい、と打診してきた。抄子さんは、目的はお金ではなく、奏さん自身が自分のした事が罪であると自覚して、二度としないと誓うことだ、と伝えた。
僕は高橋先生の助けを借りて、奏さんに手紙を書いた。僕が奏さんを本当に好きだったこと、そして、奏さんに愛されたいと強く願っていた事。それを利用され、傷付けられて、どれほど心に深い傷を負ったか。僕は全ての気持ちを正直に書いた。返事は期待していなかった。それを書いて奏さんに送った事が、僕にとって大きな意味がある事だった。
奏さんはすぐに、弁護士を通じて手紙を送ってきた。そこには、謝罪の言葉があった。自分のした事が、それほど深く相手を傷付けると気付いていなかった事。そして全てのデータを消去し、弁護士がそれを確認した事が綴られていた。
それが、奏さんの心からの気持ちなのか、それとも保身から出たものなのか、僕にはもう分からなかったが、どうでも良かった。奏さんに最後に自分の気持ちを伝えた、それで十分だった。
僕は何度も迷ったが、結局刑事告訴を取り下げた。奏さんを犯罪者にしたいとは、思えなかった。
あとはお金の問題で、抄子さんは敏腕弁護士ぶりを発揮した。僕が抄子さんに支払う弁護料は賠償金で賄う事ができ、少なくない額が手元に残った。就職の決まってない僕はかなり迷ったけれど、それでもやっぱりそのお金を使う気にはなれず、高橋先生に紹介してもらった性暴力被害者支援の団体に寄付した。
僕は就職が決まらないまま卒業した。卒業式には兄が来てくれて、その夜はバーでお別れ会を兼ねた卒業祝いをしてくれた。翠ちゃんと渚ちゃんも来てくれて、抄子さんやその他の常連のお客さんと、それから高校の時の先生も顔を出してくれた。僕を母の元から助け出してくれた先生。先生のおかげで今の僕がある。みんなのおかげで今の僕がある。
僕は、その夜だけは、就職先が決まらないまま卒業する不安や、店長達と別れる寂しさを忘れて、幸せな気持ちで過ごした。
ありがとうございました。
僕は何度も何度も心の中で呟いた。
幾度も涙と共に見上げたこの街の空が、星の見えない都会の空が、とても美しく見えた。明後日で、この街ともお別れだと思うと、僕は少し感傷的になった。
この街で過ごした5年間、辛い事もたくさんあったけど、確実に僕の人生を変えてくれた。母の言う通りに地元で就職していたら出会えなかった人達。学べなかったたくさんの事。
この街が好きだな、僕は初めてそう思った。
明後日には兄の住む東京に行く。そこは、翠ちゃんと渚ちゃんが住む街でもある。新しい街と新しい出会いにワクワクする、そんな気持ちも初めてだった。
子供の頃はいつだって、新しい環境にいくのは恐怖でしかなかったから。クラス替えの度に、今度はどんな事に耐えないといけないのだろうかと、怖くて吐きそうになった。いじめられる事には次第に慣れた。いつ、何をされるのか、誰に気をつければ良いのか、どうしたら少しでも放っておいてもらえるのか、それが分かればまだ対処できた。でも、新しいクラスや学校に進む度に、また新しくそれを覚えなければいけない。何かをされる事よりも、何をされるのか分からない事の方が恐怖だった。新しい環境になる度に、たった独りで耐えなければいけない恐怖だった。でも今は、兄がいる。たくさんの人達が見守って、門出を祝い、応援してくれている。その事がこんなに心強いとは、今日まで知らなかった。
僕は東京に引っ越した。
24歳の誕生日の1カ月前だった。
そして、誰にも言えないでいた事。奏さんの性的暴力が激しくなった頃から、僕の性器はもう男性として機能しなくなっている事。
兄は黙って聞いてくれて、黙って抱きしめてくれた。兄は僕を抱きしめて、背中をさすりながら何度も何度も
「ごめんな、ごめんな。」
と呟いていた。
「大丈夫。もう大丈夫だよ。」
とも言ってくれた。
何時間も、僕達は静かに泣いた。
兄や高橋先生と相談し、抄子さんともよく話し合って、刑事告訴と同時に民事訴訟を起こす事にした。奏さんは何回か大きな建築の賞を獲って売れっ子建築家になっていて、メディアにも時々登場していたので、刑事告訴はマスコミの耳目を集める可能性もあった。奏さんは会社の弁護士を通して、すぐさま和解案の条件を教えて欲しい、出来る限り呑むから、刑事告訴を取り下げて欲しい、と打診してきた。抄子さんは、目的はお金ではなく、奏さん自身が自分のした事が罪であると自覚して、二度としないと誓うことだ、と伝えた。
僕は高橋先生の助けを借りて、奏さんに手紙を書いた。僕が奏さんを本当に好きだったこと、そして、奏さんに愛されたいと強く願っていた事。それを利用され、傷付けられて、どれほど心に深い傷を負ったか。僕は全ての気持ちを正直に書いた。返事は期待していなかった。それを書いて奏さんに送った事が、僕にとって大きな意味がある事だった。
奏さんはすぐに、弁護士を通じて手紙を送ってきた。そこには、謝罪の言葉があった。自分のした事が、それほど深く相手を傷付けると気付いていなかった事。そして全てのデータを消去し、弁護士がそれを確認した事が綴られていた。
それが、奏さんの心からの気持ちなのか、それとも保身から出たものなのか、僕にはもう分からなかったが、どうでも良かった。奏さんに最後に自分の気持ちを伝えた、それで十分だった。
僕は何度も迷ったが、結局刑事告訴を取り下げた。奏さんを犯罪者にしたいとは、思えなかった。
あとはお金の問題で、抄子さんは敏腕弁護士ぶりを発揮した。僕が抄子さんに支払う弁護料は賠償金で賄う事ができ、少なくない額が手元に残った。就職の決まってない僕はかなり迷ったけれど、それでもやっぱりそのお金を使う気にはなれず、高橋先生に紹介してもらった性暴力被害者支援の団体に寄付した。
僕は就職が決まらないまま卒業した。卒業式には兄が来てくれて、その夜はバーでお別れ会を兼ねた卒業祝いをしてくれた。翠ちゃんと渚ちゃんも来てくれて、抄子さんやその他の常連のお客さんと、それから高校の時の先生も顔を出してくれた。僕を母の元から助け出してくれた先生。先生のおかげで今の僕がある。みんなのおかげで今の僕がある。
僕は、その夜だけは、就職先が決まらないまま卒業する不安や、店長達と別れる寂しさを忘れて、幸せな気持ちで過ごした。
ありがとうございました。
僕は何度も何度も心の中で呟いた。
幾度も涙と共に見上げたこの街の空が、星の見えない都会の空が、とても美しく見えた。明後日で、この街ともお別れだと思うと、僕は少し感傷的になった。
この街で過ごした5年間、辛い事もたくさんあったけど、確実に僕の人生を変えてくれた。母の言う通りに地元で就職していたら出会えなかった人達。学べなかったたくさんの事。
この街が好きだな、僕は初めてそう思った。
明後日には兄の住む東京に行く。そこは、翠ちゃんと渚ちゃんが住む街でもある。新しい街と新しい出会いにワクワクする、そんな気持ちも初めてだった。
子供の頃はいつだって、新しい環境にいくのは恐怖でしかなかったから。クラス替えの度に、今度はどんな事に耐えないといけないのだろうかと、怖くて吐きそうになった。いじめられる事には次第に慣れた。いつ、何をされるのか、誰に気をつければ良いのか、どうしたら少しでも放っておいてもらえるのか、それが分かればまだ対処できた。でも、新しいクラスや学校に進む度に、また新しくそれを覚えなければいけない。何かをされる事よりも、何をされるのか分からない事の方が恐怖だった。新しい環境になる度に、たった独りで耐えなければいけない恐怖だった。でも今は、兄がいる。たくさんの人達が見守って、門出を祝い、応援してくれている。その事がこんなに心強いとは、今日まで知らなかった。
僕は東京に引っ越した。
24歳の誕生日の1カ月前だった。
27
お気に入りに追加
96
あなたにおすすめの小説
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿

立派な王太子妃~妃の幸せは誰が考えるのか~
矢野りと
恋愛
ある日王太子妃は夫である王太子の不貞の現場を目撃してしまう。愛している夫の裏切りに傷つきながらも、やり直したいと周りに助言を求めるが‥‥。
隠れて不貞を続ける夫を見続けていくうちに壊れていく妻。
周りが気づいた時は何もかも手遅れだった…。
※設定はゆるいです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
だから聖女はいなくなった
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
「聖女ラティアーナよ。君との婚約を破棄することをここに宣言する」
レオンクル王国の王太子であるキンバリーが婚約破棄を告げた相手は聖女ラティアーナである。
彼女はその婚約破棄を黙って受け入れた。さらに彼女は、新たにキンバリーと婚約したアイニスに聖女の証である首飾りを手渡すと姿を消した。
だが、ラティアーナがいなくなってから彼女のありがたみに気づいたキンバリーだが、すでにその姿はどこにもない。
キンバリーの弟であるサディアスが、兄のためにもラティアーナを探し始める。だが、彼女を探していくうちに、なぜ彼女がキンバリーとの婚約破棄を受け入れ、聖女という地位を退いたのかの理由を知る――。
※7万字程度の中編です。
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

そんなの真実じゃない
イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———?
彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。
==============
人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる