僕の恋人

ken

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 兄は次の日の夕方パリに飛び立った。僕は空港まで兄を送った。
「頑張ってね、紘兄ちゃん!」
「優斗も、元気でね!手紙書く!」


 それから兄からはしょっちゅう葉書が届いた。消印は時々ニューヨークやミラノだったりした。兄は順調にモデルの仕事をしているようだった。
 それに励まされるように、僕も学業と投資に打ち込んだ。遅れを取り戻すために学校は休まず通い、三年次から始まったゼミの研究にも打ち込んだ。兄のように英語が話したいとの思いから英語教室に通い、TOEFL100点を目指して英語学習に力を入れた。とにかく頭を酷使して勉強し続ける生活が、僕の精神を救った。僕はアパートを借りて一人暮らしに戻った。翠ちゃんのお父さんがアパートの保証人になってくれた。
 奏さんから振るわれた暴力や性的な虐待を、愛情やプレイではなくて暴力や虐待だったと認識する事ができた。それは僕を奏さんの支配下から脱出させてくれたが、心の傷と向き合う作業は辛かった。自分は愛されていた訳じゃないのかも知れない、そう思うと虚しさに襲われた。自分が惨めで汚く感じたし、恋愛やSEXに嫌悪感を抱いてしまった。それでも、僕は病院に通い、自分の傷を見つめる作業を続けた。時々、自分がさせられた数々の性的行為を克明に思い出してしまい、吐き気がした。
 そんな時には何も考えず勉強に没頭し、勉強に疲れたら兄の手紙を読み返した。兄が見ている風景を思い浮かべた。僕と兄はスマホのアプリで気楽に連絡を取り合えたけれど、それでも手紙や葉書は特別で、それは僕の宝物になった。僕は兄に、パリやNYの風景を、兄が見ている日常の光景を書いて欲しいとねだった。それを読み返しては、そこに自分もいるような気持ちになれるからだ。空想は幼い頃からの癖だった。布団に潜り込んで、ここではない場所で暮らしている自分を、丹念に、詳細にわたってリアルに空想した。そこでは僕は幸福で、愛されていた。
でも、空想ではなくて、いつか本当に兄の住むパリに行く、それが僕の目標になった。退院して3ヶ月後に僕は飲食店でバイトをし始めた。身体を動かして働く事で、嫌な事を一時的にでも忘れる事ができた。出来るだけ規則正しい生活を心がけ、バイトと学校と家での生活をルーティン化してきちっと守った。株の投資は上手くいっていた。僕には投資の才能があった。分析して対策する過程は楽しかった。あまり欲をかかず堅実に、しかし必要な時には思い切って投資する。コツはその見極めだったが、僕はそれが得意だった。収入はそれほど多くはなかったが、貸与型の奨学金を僕は丸々資産として保有する事ができた。卒業したら一括返済できる。少しずつ僕は自信を付けていき、過去の自分を冷静に見る事もできた。
そうして残りの大学生活は平穏に、あっという間に過ぎていった。兄は相変わらず世界中からハガキを送ってくれた。時々東京に帰ってきて、その時は東京で会ったり兄が僕のアパートまで来てくれたりした。僕達は以前にも増して親しく話すようになり、兄は僕に付き合っている女性達を紹介してくれた。帰って来る度に女性達は変わっていて、でもどの女性も美しくて芯が強く、兄は幸せそうで、僕は嬉しかった。
翠ちゃんと渚ちゃんは卒業して東京に住んでいた。渚ちゃんは東京の大手ハウスメーカーでバリバリと仕事をし、翠ちゃんは私立の美大の大学院で学んでいた。2人は世田谷区の制度で事実婚をし、相変わらず仲良く暮らしていた。僕自身はまだ恋愛をする気にはなれなかった。はっきり言うと、性的な行為が怖かった。嫌悪感もあった。自分がまた奴隷になってしまわないか、怖かったのだ。
日々は平穏に過ぎていき、僕は就職活動に勤しんでいた。大学のあるその街の建築の業界は狭い世界でもあり、奏さんの会社と何らかの取引のある会社は少なくなかった。取引はなくても、繋がりがある会社はさらに多かった。それもあり、僕は東京で就職することを目標にしていた。しかし会社説明会などはその街で行われる事も多く、僕は何度か奏さんの会社の関係者を見かけた。見かけても向こうは僕の事を覚えてはいないようだったし、奏さん本人ではなかった事もあり僕もそれほど動揺はしなかった。

だから、
「野木優斗さんですよね?」
そう声をかけられた時、僕は少し驚いたがそれ程は警戒しなかった。その男性は奏さんの会社の社員で、奏さんの秘書のようなポジションだった。彼は事務職のトップだったので、僕も何回か仕事を教わったし、雑用をお願いされた事も何度もあった。彼は奏さんのスケジュールの管理もしていた。控えめで物静かで丁寧な人で、理路整然としていて感情的にならない彼と仕事をするのは楽だった。最後の方、僕が奏さんから叱責されているのを何度か助けてもらった記憶もある。さりげなく奏さんを呼び出して、別の仕事の話しをして僕を逃がしてくれたのだ。周りが僕と奏さんの関係を好奇の目で噂し始めても、彼は僕に普通に接してくれた。
「はい、お久しぶりです。」
「野木さんの事、気になってました。あんな形で辞める事になって、なんというか… 会社として、何か責任を取るべきではないかと、私個人は思っていたので。」
「あ、い、いえ。もう済んだことですので。」
「何もできず申し訳なかったです。」
「…いえ、あれは個人的な出来事ですので、会社として責任があるとは僕は思っておりません。ご要件がないようでしたら、失礼してもよろしいでしょうか?昔の事はあまり思い出したくありません。」
「あっ、あ、そ、そうですよね。すみません、大変失礼致しました。」
「それでは、失礼します。」
「はい…あ、あの!!あの、こちらで就職なさるんでしょうか?あの、つまり、この街で…  私がこんな事を言うべきではないとは承知しておりますが…」
「分かってます。東京で勤務できたらと思っています。ご心配をおかけしました。まだこちらで就職活動をする事もありますので、もしまた見かけましたらそっとしておいて頂けたら助かります。」
「はい。はい、もちろんです!ただ…」
彼は何か煮え切らない態度だった。何かを言いたげで、でも言い淀んでいるような。何なのだろう。そんなに親しい間柄でもなかったのに。
「まだ何かありますか?」
苛立ちを隠しながらそう言うと、彼は気まずそうに目を逸らし、それから小さな声で言った。
「少し、お話しできないでしょうか?ここじゃなく、喫茶店などで。あと1時間で私はここを出られます。もし良ければ…」
そう言って彼は近くのスターバックスを指定した。
「どうしても、お伝えしたい事があるのです。」
彼の必死な態度が気になって、僕はスターバックスで1時間彼を待つ事に同意した。
本を読みながら待っていると、1時間しないうちに彼は来た。どうやら走ってきたらしく、息を切らしていた。
「すみません、お待たせしました。」
彼はそう言い僕の向かいに腰掛けた。ひどく思い詰めたような顔をしていた。
「突然申し訳ありません。御連絡先が変わっていたので、こちらからご連絡する事もできず、どうしたら良いのか悩んでおりました。どう言えば良いのか分からないので、なるべく単刀直入に申し上げます。実は…」

彼の話は衝撃的だった。
「え?どういう事でしょう?インターネット上に僕の映像が出回っているというのは。」
「社長は… 朝永は、あなたと自分の、その、なんというか、性的な動画をですね、撮影していました。そしてそれを、仲間内で共有していました。その中の1人が、そのデータをインターネット上のコミュニティで共有して、それがまたコピーされて…拡散されて…
彼らはそれを知っていますし、放置しているだけじゃなくて、未だに…い、未だにあなたを辱めて楽しんでいます。」
目の前が暗くなった。
唐突にあの夜に見た映像が頭に流れ込んできた。僕は全裸で首に犬の首輪を付けられて、奏さんの性器を咥えさせられていた。四つ這いで鞭で打たれながら鎖を引かれて連れ回されて、口に含んだ奏さんの性器を離さないよう、必死で奏さんの動きを追いかけていた。
「お前は一生俺の穴奴隷なんだよ!」
奏さんの声が頭にガンガンと響いた。

「どうして?どうしてそんな…
僕があの人に何をしたのですか?なぜそこまで…」
「野木さん、野木さんが訴えたら、あいつらを刑事罰に問う事もできます。もちろんインターネット上の動画を削除する事もできますし、とにかく、被害者であるあなたにまずご相談しないとと思って。僕はずっと朝永を警察に訴えたかったのですが、そうなったらあなたにも否応なく関わってきます。それで、あなたのご意見を…と思いまして。
そ、それに…すみません!僕、朝永にお金を借りていて…  そんな事もあって…
すみません、それは僕の保身なので、申し訳ないばかりなのですが。
そ、それに…朝永は動画の撮影も、そうした行為も、全てあなたの同意を得ていると言い張りましたので、私としては…」
「その動画は、インターネット上で、誰もが見られるようになっているのですか?」
「はい、おそらく誰もが。また、朝永は仕事関係の者を中心に、同じような性癖と言いますか、そういう仲間がいるようで、その人達の中では未だにあなたを話題にしている者もいて。何というか、この街で働かれるのは危険なのではないかとも思い、それもお伝えしたくて…」
僕はだんだん吐き気がしてきた。呼吸が浅くなり、身体が震えてきた。良くない。過呼吸になる前に、どこか別の場所に行きたい。
「…大丈夫ですか?すみません…」
「帰ります。すみません、ちょっと、具合が悪くなってきました…」
「大丈夫ですか…」
彼の声が遠くに聞こえた。
空気が薄くなったように感じ呼吸ができなくなって、全身の血液が冷たくなった。
やばい、助けて、、
助けて、紘兄ちゃん!
そう思うのと同時に僕は意識を失った。

目を開けるとそこは病院のベットの上で、高橋先生が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「すみません。」
僕が思わず謝ると
「君は何も悪いことなんてしてませんよ。悪いけど、水谷さんって方に少しだけ聞きました。そんな話を聞いたら動揺して当然です。」
「どんな動画がネット上でアップされたかは分からないけど、僕がさせられてた事は、僕が奏さんに許してしまってた事です。無理矢理じゃない。僕が受け入れてた事だから。僕に責任があります。それに、動画を撮られてた事はその時は知らなかったけど、僕、動画がある事、知っていました。
あの夜、あの…奏さんのとこを追い出された夜…  あの人達はみんなでその動画をみていました。動画まで撮られてたんだ…って、その時僕思いました。でも、何もしなかった。今の今まで、その事は忘れようとしていました。写真も撮られてて、写真撮るのは許してしまってた。奏さんに笑えって言われて、僕、笑ってたかも知れない。全部、僕のせいです。」
「違うよ。どんな理由があっても、彼らのしている事は犯罪だ。君がその時撮影を許していたとしても、それをネット上に上げて不特定多数が閲覧できる状態にするのは、違法行為だからね。」
高橋先生はいつになく厳しい顔できっぱりと言った。
「水谷さんが待合室で待ってます。会いたくなければお帰り頂くし、もしここで一緒にお話ししたければそうしても良い。どうする?」
「水谷さんがここに?」
「救急車でここに来ました。水谷さんも一緒に。」
「会います。」
僕は水谷さんに一言お礼がしたかった。

水谷さんは病室に入ってくるなり深々と頭を下げて僕に謝り始めた。
「すみませんでした!!ごめんなさい、僕、あまりにも突然、あんな話をして。すみません!!」
「良いんです。水谷さんが悪意を持って言ったわけじゃないって分かってます。僕の方がすみません。最近は発作が落ち着いていたんです。なのに急に。すみません。ありがとうございました。」
「ごめんなさい。あの、こんな事、とても失礼とは思ったのですが、入院されていた病院の方が良いかなと思って、その、財布の中を少し見てしまいました。あ、あの、他のものは触ってません!見ないようにしました!診察券だけ探してしまって…」
「ありがとうございます。病院、ここに連れてきて下さってとても助かりました。あと、お話しして下さってありがとうございました。あの、今は少し混乱していて、受け止められようになるまでには時間がかかりそうですが、でももしかしたらまた、何かご迷惑をおかけするかも知れません。」
「はい、いつでも警察に行きますし、証言もします。すみません、僕、何もできず…あの時も、何もできず…申し訳ありませんでした。」
水谷さんは名刺を渡してくれた。僕はそれを受け取ったが、それで何をどうすれば良いのか、まるで考えられなかった。僕は混乱して頭がぐちゃぐちゃで、そして、ひたすら悲しかった。

奏さんは、どこまでも僕を人として扱ってくれないのか。僕は、ほんの少しの間でも、愛されていたと思いたかった。例えそれがすぐに失われてしまったのだとしても、そしてその後は道具として扱われたのだとしても、ほんの少しの間は愛されていたと信じていたかった。




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