僕の恋人

ken

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 久しぶりに会った兄は、何となく前と違って見えた。前はいつもどこか苛立っていて、僕が兄を苛立たせていると思うと僕はいつも居た堪れない気持ちになった。今目の前にいる兄は穏やかに笑っていて、僕の顔を優しく見ていた。
 先に座っていた兄は立ち上がって、
「呼び出してごめんね、優斗。元気?身体は大丈夫?」
 僕はそんな優しい言葉をかけてもらえるとは思わなかったので胸が詰まって、頷くだけで返事ができなかった。
「こんにちは。突然お邪魔してすみません。戸田翠と申します。優斗くんの、大学の同級生で、今日、優斗くん久しぶりで緊張していたので一緒に来ました。でも、お2人でお話ししたかったら、私、ちょっとデパートでもブラブラしてきますけど?」
「こんにちは。優斗の兄の紘貴です。優斗がお世話になってます。優斗が良いのなら僕はご同席頂いて全然構いません。」
「あ、翠ちゃん、い、一緒にいてもらっても、良い?」
 駅ビルのパーラーは休日で混雑していたが、席の間隔が広く取られているため喧しい印象はなかった。僕達はしばらくメニューを眺め、みなホットコーヒーを頼んだ。
「俺もね、すごく緊張してる、本当は。」
 困ったように笑って兄が言った。
「身体、大丈夫なの?学生課に聞いたら傷病休学しているってだけ教えてくれて。電話では何も教えてくれなかったから、学生課まで行ったんだ。そしたらね、教えてくれた。内容とか、どこに入院してるかとかは教えてくれなくてね、心配した。どうしたの?」
「……ち、ちょっと、いろいろあって。精神科に入院してました。だから、身体は何も。大丈夫です。」
「そっか…」
 兄は悲しげに目を伏せた。兄に悲しい顔をさせた自分に悲しくなる。
「大丈夫!大丈夫です、もう。薬飲みながらだけど、夏休み明けには復学もできそうですし。」
「うん、そっか。良かった。
…そりゃそうだよ、あんな…
ごめん。本当に。俺、ずっと優斗に酷い態度してた。家でずっと…。ずっと謝りたかった。ずっと、後悔してた。まだ優斗が家にいる時から、ずっとずっと後悔してた。許してもらえないとは思ってる。俺、謝る資格もないって分かってる。でも、優斗に一目会いたかった。話、したかった。来てくれてありがとう。」
「待って、僕、お兄さんの事、酷いと思った事、一度もないです。僕、何にもうまくできなくて、ずっとイライラさせてしまって。嫌われてると思ってたから。」
「優斗、お前は何にも悪くない。あの家で俺たちがお前にしてた事、みんなみんな全部、俺たちが悪い。俺ね、ずっと苦しかったんだ。お前を除け者にしなきゃいけないの、苦しかった。でもお前はもっともっとずっと苦しかったよな?
ごめん。」
 僕は涙が止まらなくなった。お兄ちゃん。僕、紘兄ちゃんの事、大好きだった。紘兄ちゃんって呼んじゃダメって言われても、心の中ではずっと紘兄ちゃんって呼んでいたよ。
「俺ね、小さな頃、お前の事すごく可愛いって思ってた。思ってたのに、いっつも、お前の事邪険にしちゃった。鬼ごっことか戦隊ごっことか、お前があんまり好きじゃないって分かってて。一緒に遊びたかったけど、でも俺はお前みたいに静かに遊ぶのは苦手で、お前と一緒にお絵描きしたり絵本読んだり、隣で一緒にしてやりたいって思う気持ちと、他の子と戦隊ごっことかドッジボールとかしたいって気持ちが混ざり合ってぐちゃぐちゃになって。でもさ、本当はそんなの、当たり前じゃん?俺たち別々の人間だから。だからさ、お前はお前の好きな事して、俺は俺の好きな事して遊べば良かったのに、お前はいっつも必死で俺についてこようとして。だから余計にイライラしちゃって、ごめん、ずいぶん酷いことしちゃった。」
「うん。」
「大きくなって分かったんだ。母親が口癖のようにお前に、お前は俺の遊び相手になる為に産んだって言ってたの。あ、そういうことかって思った。だからあんなに必死に、好きでもない遊びについてこようとしたんだ、って。なんか、悔しかった。俺と本当に遊びたかった訳じゃなかったんだって、変に捻くれちゃった。だんだんね、うちがおかしいって事にも気付いてきた。よその家に遊びに行くと、みんな兄弟喧嘩したり小突きあったりしてて、親もどっちにもおんなじように接してた。除け者が1人いる家なんて、どこにもなかった。なんでなんだろうって思った。最初はさ、あの母親に洗脳されてた。優斗はダメな子だからあんな扱いされるんだって。もっとうまく母さんのご機嫌取れば良いのにって、思ってた。俺、最低なんだ。俺ね、怖かったんだよ。俺も、何か間違えたらお前みたいになっちゃうのかなって。中学受験落ちたらお前みたいになるのかな、学校の成績下がったら、友達いなかったら、明るく社交的な紘くんやめたら、お前みたいに酷い扱い受けるのかな?って。怖くて怖くて、母親の喜ぶような事、お前にやった。理不尽に怒られて叩かれてるお前を、助けようともせず。」
 俯いて一気に話す兄は、涙を流してた。知らなかった。兄は愛されて、僕の欲しいもの全部もらえて、きっと幸せで幸せで、怖いものも悲しい事も何一つないんだろうって思ってた。
「でもね、段々イライラしてきたんだ。母さんの言いなりになってお前に酷い事する度に、そんなふうに自分の息子を虐めて笑ってる母親にも、それを黙って見て、止めもせず、むしろ同調する父親にも、イライラした。狂ってる家族だって思った。1番イライラしたのは、それを分かってて、母親の言いなりになってる自分にだった。俺は楽しくもないのに笑って、お前に見せつけるみたいにお前を除け者にして家族団欒してる、クズみたいな自分が、情けなかった。いっつもお前は独りでさ、一生懸命家事してた。掃除したり、洗濯したり。手伝ってやりたかった。昔みたいに一緒に遊びたかった。今なら、俺、お前とお前の好きな事、できると思った。でも俺の周りにはいつも母親が纏わりついてて、アレやこれやと話しかけられて、俺は必死で幸せ一杯、愛情を一身に受ける母親のお気に入りを演じてた。そのうち、もうお前にどんな顔して話しかけたら良いのかも分からなくなって、高校生の時、ようやく分かった。あ、俺たち兄弟、どっちも一緒だって。どっちも、あの女の奴隷だった。俺たち、扱われ方は全然真逆だけど、どっちもおんなじなんだって気付いた。あいつは、俺たちを人間なんて思ってなかった。自分の都合の良いような、人形にしてるんだな、俺たちどっちもあの女のオモチャなんだな、そう思ったよ。何もかも虚しくて、狂ってて、お前だけがまともだった。まともにちゃんと悲しんで、まともにちゃんと苦しんでた。俺は、どうやって苦しめば良いかも分からなかった。」
 兄の話を聞いてて、僕は申し訳なく思った。僕、何にも分かってなかった。
「お兄さん…ま、前みたいに、紘兄ちゃんって呼んでも良いですか?」
 小さい頃は紘兄ちゃんって呼んでいた。ある時突然母親に引っ叩かれて、馴れ馴れしく呼ぶな、お兄さんと呼べと命令された。それ以来、紘兄ちゃんって呼んでなかった。
「うん、もちろん!」
「僕ね、紘兄ちゃんの事ずっと好きでした。紘兄ちゃん、何も酷い事なんてしてない。いつも、僕に誕生日プレゼントくれたし、ノートとか、教科書とか、僕がなくて困ってたらなんでも貸してくれました。僕、紘兄ちゃんの事、ずっと憧れてました。強くて頭が良くて、みんなの人気者で。でも、僕、紘兄ちゃんがそんなに苦しかったなんて、全然気付かなかった。ごめんなさい。僕、紘兄ちゃんの気持ち、ちゃんと考えてなかった。」
「当たり前だよ、そんなの。俺はなんでも貰えてて、お前は何にも貰えなくて。でも、俺らは2人とも、本当に欲しいものは一度だって貰えなかった。本当は俺たち、何にも考えずにただ、ちょっとタイプは違うけど仲の良い兄弟でいたかったのに。いられたのに。」
 不意に紘兄ちゃんが僕の手をギュッと繋いだ。僕はもう、声を出して泣き出してしまった。
「あ、あの。すみません。私も、泣いてしまって。あの、お兄さん、もし良ければ、今からウチに来ませんか?今、優斗くんもウチに泊まってるんです。退院して落ち着くまで。なんていうか、あの、ちょっと…こんな事言いたくないんですけど、私たちちょっと…悪目立ちしてるっていうか…」
 翠ちゃんの一言で、急に周りの目線に気付いた僕と兄は、慌てて会計をして、翠ちゃんの提案に甘える事にした。


 タクシーの中で、兄は僕に小さなプレゼントをくれた。
「成人のお祝い。20歳になったでしょ、今年。ずっとね、プレゼントあげたかった。本当は使い古した物じゃなくて、ちゃんとしたプレゼント、あげたかったのに、ごめん。」
「ありがとう!ありがとうございます!!すごく嬉しい。開けていいですか?あ、でも。マンションについてからにします。」
 僕はもう少しプレゼントを眺めていたかった。黒い艶々の綺麗な紙で包まれて、深い緑のリボンがかかっている。僕は何度もリボンを撫でて、そのスベスベとした触感を楽しんだ。ちゃんとリボンがかかったプレゼント!

 翠ちゃんの家で僕と兄はいろんな事を話した。僕の腕には兄からのプレゼントの腕時計が付けられていた。素敵な時計だった。腕時計をするのは初めてだった。僕達は15年間を埋め合わせするように話した。話しても話しても足りなかった。僕は奏さんの事は詳しくは話せなかったけど、失恋して死にたくなってしまって、3か月入院した事を話した。なるべく冗談っぽく聞こえるように言ったのだけど、紘兄ちゃんは全く笑わなかった。辛そうな顔をして、呟いた。
「頼む、頼むから。死なないで。やり直させて。」
 僕も兄もびしょびしょと泣いて、それから照れくさくなって笑った。
「俺ね、お前の事頭良いって気付いてたよ。数3をほぼ独学でやってたでしょ。すげ~なと思ってた。お前がね、大学行くって言って家出てって、俺、嬉しかった。嬉しかったけど、捨てられたな~って思った。
 俺さ、お前が大学に行くってなった年には、東大理3なんてもう絶対受からないって分かってた。俺だって馬鹿じゃない。自分の実力くらい分かる。文3ならまだしも、理3は絶対無理。もう分かってたのに、母親は気でも違ったように東大医学部しか許さなかった。僕はまた一年を棒にふるんだって、絶望感でいっぱいだった。母さんは俺の事、いつまでも神童だって信じきってたけど、俺はそうじゃないのは分かってた。俺みたいな奴は、あの学校にはたくさんいた。別に成績が悪い方ではなかったけど、それだって必死で努力してたからで、東大理3に受かる奴って、もうあの学校でも別格なんだ。勉強なんてほんの少ししかしてないみたいなのに、テストは満点に近い、そんな奴が本当にいるんだ。だからさ、俺は、自分は所詮クラスに何人かいる秀才って位だって分かってた。でも、母親は俺が文転したいとか、せめて東大じゃない医大ではダメかって言うと、気が触れたみたいにヒステリーを起こして泣き喚いた。あの年は、予備校の先生が家まで来てくれて説得してくれたけど、ダメだった。東大医学部以外、大学には行かせないって言われた。完全に気狂いだった。
 そんな時にお前が、いとも軽やかに家を出ていって、あー、やっぱりお前が唯一ウチでまともな人間だったんだな~って思ったよ。工業高校から推薦で国立行って、しかも建築だから理系だろ。本当、バカバカしくなったよ。母親、やっぱり馬鹿だな~って。だって、お前こそじゃん?俺と同じ学校入ってもきっと上位だったよ?ちゃんと目をかけてたら、お前が東大行けたかもよ?って。俺さ、1番得意な科目、英語なんだよ?1番好きな科目は歴史!文系なんだよね、もともと。でも、母親にはそんな事関係ない。あの女は俺の事なんてどうでも良いし、そもそも医者とか、将来とか、そんな事何にも分かってない。ただただ、東大医学部、そういう分かりやすいステイタスがね、俺のじゃないよ、あいつにとってのステイタスがね、欲しいだけ。
 浪人して予備校に通いながら、俺は母親にうんざりして、憎しみすら抱いてた。でも、もし東大受かったら、俺、もしかしたらお前も一緒に東京で住めるかなって、なんか変な夢見てた。東大理3、奇跡が起きて受かったら、母親もお前と二人暮らしするの、認めてくれるかなって。医者になれたら、お前を大学にだって通わせてやれるかも。そんな、変なさ、ヒーロー気取りの夢みてた。
 でも、お前は全然誰の助けも借りず、ヒョイッとあの家から飛び立って行ったから。あ、俺、馬鹿だな~って思った。お前がどんな気持ちで家を出て行ったかなんて、俺は全然分かってなかった。優斗は、自由になったんだって思ってた。ごめん。もっと、優斗と話せば良かった。」
「僕も、もっと話せば良かった。僕、諦めちゃってました。紘兄ちゃんの事、大好きだったのに、僕嫌われてるって思い込んで…」
 今から思い返すと、紘兄ちゃんは庇ってくれてた。切られたから死んだふりしてろって言ったのも、そう言えばもうそれ以上苦手な戦いごっこに参加しないで済むから。お母さんの前で明るく振る舞うのも、そうしたらお母さんは不機嫌にならなかったから。僕が除け者になるとお母さんは機嫌が良くなった。辛かったけど、確かに機嫌が悪くなるともっともっと酷く当たられた。叩かれたりもした。紘兄ちゃんだって、どうする事もできず苦しんでた。僕がもっと心を開いていたら二人で乗り越えられたのに、そうできなかったからそれぞれ独りぼっちで苦しんでた。
「優斗が悪いんじゃないよ。あんな毎日だったら、諦めちゃうのも心を開けないのも、当然だよ。」
「紘兄ちゃん、今はどうしてるんですか?まだあの家で暮らしてるんですか?」
「出たよ。優斗が出てね、しばらくして。あの頃はもう予備校にも通ってなかった。予備校行くって家を出て、ずっと映画館で映画観てた。ある日、予備校行くってまた家出て、映画も見飽きたし、どうしようって当てもなく街を歩いてて、スカウトされたんだ。モデル事務所に。別に芸能界とか全然興味なかったけど、家を出るチャンスだと思った。それで飛びついた。東京で一人暮らしできるのなら、なんでも良かった。東京じゃなくても、とにかく家からなるべく離れたところで住みたかった。」
「紘兄ちゃん、すごいですね!モデルなんて!」
「一応ね。売れないモデル。売れないからさ、バーとか、ガソリンスタンドとかでバイトもしてる。でもなんとか、東京で一人暮らしできてる。でも今度、海外のショーにも出られるかも知れないんだ。受かれば、だけど。でも、オーディションに参加できるってだけで、すごいんだ。」
「受かります!紘兄ちゃん、かっこいいもん!絶対受かる!」
「ありがとう。」

 僕達は、壊されてしまった少年時代を思って泣いた。兄弟の、普通の自然な愛情関係すら、奪われてしまった事を泣いた。独りで苦しんだお互いの時間を想って、泣いた。
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