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「よく頑張りましたね。小さな頃からずっと、よく頑張ってきました。」
僕が話し終えると高橋先生はそう言ってくれたけど、僕は自分は頑張れなかったのだと思っていた。頑張ったなんて、思えなかった。結局僕が家族を捨てたのではなく、捨てられたのは僕の方だった。大学の入学式が終わって会場から出ると、父がいた。僕は少しだけ胸が躍った。来てくれたのだろうか。お父さんは、僕を気にしてくれていたのかも知れない。お母さんが嫌がるから家では僕を無視していたけど、心の中では大切に思ってくれていたのかな。おめでとうって、言いに来てくれたのかも知れない。それはほとんど祈りに近い願望だった。
「お父さん、来てくれたの?」
僕は小走りで父の所まで行った。でも、父はおめでとうと言ってはくれなかった。元気にしてるか?とすら言ってくれなかった。父は僕に封筒を一枚渡した。
「これ、10万円入ってる。これで、弁護士とか警察とか、そういう面倒はかけないでくれ。紘貴の大学の事があって、母さんは気が立っているし、もうこれ以上迷惑をかけられたくはないから。これで終わりにしろよ。もう関わらないでくれ。」
それは手切れ金だった。
10万円で、僕は家族から完全に捨てられた。たった10万円。
僕の何がそんなに迷惑だったんだろう。僕はいつも、家族に気に入られようと一生懸命だったのに。それが、迷惑だったのだろうか。ただ、家族として普通に、受け入れられて、愛されたかった。兄の次で良いから、ほんの少しで良いから、優しくされたかった。それすら諦めて、最後はただ、自分の人生を生きたいと願っただけだった。警察とか弁護士は、先生が言った事で、それだって母が僕を家から出さないと言ったから。誰にも頼らず、独りで、借金して大学に行く事がそんなに迷惑な事だったんだろうか。そんな事すら、僕には許されないのだろうか。何もかも諦めて、愛される事もないままあの人達のために働くべきだったのだろうか。頑張って働いて、兄が医大を卒業するまで家にお金を入れ続けたら、いや、一生、両親が死ぬまで、家族のためにお金を稼ぎ続けたら、僕は愛してもらえるのだろうか。僕は、立ち尽くしたまま動けなかった。周りには、親子連れがたくさんいた。息子や娘の大学合格を祝い、みんな笑顔で写真を撮っていた。惨めだった。僕のあの苦しく悲しい事ばかりだった18年間は、たった10万円で無かったことにされた。酷く惨めだった。
でも僕はその10万円を捨てることはできなかった。入学金を支払い、前期分の学費を支払い、アパートの敷金礼金を支払い、僕の手元にはほとんどお金がなかった。そのお金は僕の2ヶ月の生活費になり、それは僕をさらに惨めにした。
「僕は頑張れなかったから、家族から捨てられたんです。家族を捨てた気になっていたけれど、本当は捨てられたのは僕の方だった。大学の入学式の日に、僕は家族と二度と関わるなと言われました。父に10万円渡されて。
元気でねとも、、、さようならとすら言われませんでした。僕は、ぼ、僕は……」
不意に涙を流している事に気づいた。涙は後から後から流れて、僕は何だか汗みたいだと思った。泣いているのではなく、ただ生理現象として水分が目から溢れているだけ。そんな気がした。もう、悲しいと感じる心も死んでいるのかも知れない。
先生は、黙ってハーブティーを出してくれた。甘いような良い香りのする、薄い色のお茶。お茶が出てきたら、セッションは終了だった。
「ありがとうございます。」
僕は黙ってお茶を飲んだ。
病室に帰ると、涙はもう止まっていた。僕は高校生の時に兄からもらった数3の問題集を開き、数式を解いた。
僕の通っていた高校では数3は授業でやらなかったから、僕は兄に借りた教科書と使わないからともらったこの問題集を繰り返し解いて、数3の勉強をした。どうしても分からない時は高校の数学の教師に聞いた。工業高校では普通科目を熱心に勉強する生徒はほとんどいなかったので、教師は質問すると快く教えてくれた。受験前は、放課後特別に勉強を教えてくれた。僕は勉強にのめり込んだ。本を読んでいる時と勉強をしている時だけ、僕は消えてしまいたいと思わなくて済んだから。特に数学の問題を解いていると、心が落ち着いた。何も考えず、ただ数の論理的で静かな世界に浸る事ができた。その中では僕は、要らない子でも厄介者の嫌われ者でもなく、誰にどう思われるか心配する必要もなかった。
次のセッションの時、奏さんについて聞かれた。僕が黙っていると
「きみの身体にあった傷がその人から加えられた暴力だったら、きみは傷害事件の被害者になる。実際きみを診察した外科医は、警察に通報する事も検討していたんだよ。カルテを客観的に見るとね、きみは、一定程度の長期間にわたって、繰り返し暴力を受けている。一度や二度ではないはずだ。直腸内壁の傷は、性的暴行が行われた可能性を示唆している。もし、君が望まない性的行為があったのなら、その時相手がたとえ恋人であったとしても、それはレイプなんだよ。」
僕は、分からなかった。あれを僕は望んでいたのだろうか?望んではいなかったような気はする、でも。拒みもしなかった。痛くて苦しくて辛かった。やめて欲しかった。でも、無視されるよりは良かった。触れられも、見られすらしなくなるよりは、痛みであっても与えられたかった。僕は道具のように扱われたけど、少なくとも道具としては存在を許された。僕は、それを望んでいたのかも知れない。奴隷で良いから、道具でも良いから、ただの穴だって良いから、必要とされたかった。
「僕が何を望んでいて、何を望んでいなかったのか、僕には分からないんです。」
僕は正直にそう言った。
「僕は奏さんが好きでした。今でも好きです。奏さんに見つめられるとドキドキして、話しかけられるだけで幸せでした。だから、奏さんが僕に興味を持ってくれて、僕を触ってくれる事はとても嬉しい事だった。僕も、奏さんに触りたいと思った。僕たちの関係は確かに対等な関係とは言えなかったけど、僕は今まで生きてきて、誰かと対等な関係を持ったことなんてなかったから、だから、当然なのかも知れないと思ったんです。奏さんみたいな素敵な人と恋人になれるなんて、僕には勿体無いと思ったから。だから僕は頑張って、奏さんに好かれるような人間になりたかった。奏さんがやりたい事を、僕がやるのは当然だと思った。それに、最初のうちは、奏さんが暴力を振るうのは、僕が奏さんの言う事を聞けなかったり、間違えちゃったりした時だけでしたから。」
「恋人と、何をしている時が一番幸せだと感じたの?我慢してるんじゃなくて、本当に心から楽しいと思えた時は?」
そう聞かれて、僕が真っ先に思い出した光景は、2人で家でご飯を食べているところだった。僕が作ったご飯を美味しいね、と言って食べてくれて、僕も奏さんも笑っていた。食べながら、色々な話をした。好きなもの、最近あった面白い事。僕は自分が話すより奏さんの話を聞くのが好きだった。奏さんが行ったいろいろな街や国の話は、旅行に行く機会がほとんどなかった僕には新鮮で面白かった。ワクワクした。奏さんの話を聞いて、まるで自分も一緒に行ったような気持ちになって、楽しかった。僕はパソコンで奏さんが話してくれた街や国を調べて、いろんな風景を画像で見てそこに奏さんと自分がいるのを想像した。
ベッドで一緒に眠るのも好きだった。一緒に寝るのが好きと言ったら、僕のために見た事もない大きなサイズの毛布を奏さんが買ってくれた。その一枚の毛布に一緒に包まるのが好きだった。奏さんは体温が高くて、僕の足はひんやりとして気持ちが良いと言ってくれた。奏さんの胸に顔を埋めて、奏さんは僕の髪を撫でてくれて、抱きしめてくれて。僕は誰かと眠るのってこんなに温かいんだと感動した。感動して泣いてしまうと、僕の涙を拭ってくれた。
そんな日々が、確かにあった。ずいぶん前の事だけど。
僕はそんな失われた優しい日々を、先生に話した。何も特別にない、ただ家でゆっくり過ごす、そういう日常の日々が、好きだった。バイトが終わって、僕が先にマンションに帰ってご飯を作って、奏さんを待って、仕事が終わって帰ってきた奏さんとご飯を食べる。仕事の話を少ししたり、時には職場での申し送りのようになってしまって、お互いにちょっと照れて笑い出したり。
奏さんが会食や接待で遅くなる夜に、1人で勉強をしながら奏さんを待つ時間も好きだった。そういう時は大抵、帰ってきてお茶漬けとかおにぎりとかを食べたがるから、僕は炊き立てのご飯を出せるようにセットして奏さんを待った。それなのにパスタが食べたいと言い出したりして、2人でコンビニにウインナーや乾麺を買いに行ったりするのも楽しかった。
「最初の頃は…、たぶん…付き合いだして半年くらいは、SEXも好きでした。奏さんはとても優しくしてくれました。僕は、初めてだったから。不安もありましたけど、いろいろ丁寧に教えてくれました。大切に大切に触ってくれて、そうやって触れられると嬉しくて。」
僕は奏さんに会うまで、性に関する知識がほとんどなかった。高校ではクラスメイトがよくそんな冗談をみんなで言い合っていたが、彼らの話す女の子の身体に対する興味が、僕にはよく分からなかった。中学でも高校でも、僕は特定の仲の良い友達を作る事ができなかった。人と喋る事は苦手だったし、誰からも相手にされていないと感じていた。一部の女の子は、穏やかで優しくて静かな話し方で、男子生徒よりは話しやすかったけれど、そこまで親しくはならなかったし、好きになったりドキドキしたりはしなかった。精通はあったし時折自慰行為をしたけれど、女の子の身体を考えてしたりはしなかった。誰についても何についても考えなかった。それは単に排泄に近い行為だった。
だから、奏さんに触られた時の胸がはち切れそうな高揚感は、最初の頃は恐怖だった。自分がどうかなってしまいそうだった。奏さんは
「怖がらなくて良いよ。」
と言ってくれて、僕の身体中にキスをしてくれた。キスをされる度に、触れられる度に、そして僕もキスをし彼に触れる度に、僕は震えるような快感を覚えた。奏さんのものが僕の中に入ると、痛みと熱さを感じた。優しく丁寧に挿入されると、痛みは多少あったが奏さんをより近くに感じて嬉しかった。身体がふわふわと浮き上がるような感覚になった。奏さんに手を添えられて射精に導かれる時、僕は初めて射精を快感だと感じた。
「可愛いね、ユウト。」
「気持ち良いよ、ユウト。」
「愛してる、ユウト。」
囁かれる言葉に僕は涙が出るほど喜びを感じた。
いつから変わってしまったのか、ハッキリとは分からない。徐々に、奏さんが僕に愛撫してくれる時間が減って、僕が奏さんを愛撫する事の方が多くなった。SEXの時に命令口調になり、はいと返事をしないと怒るようになった。
「SMって知ってる?」
SMのポルノ動画を見させられて、こんな事してみたいんだ、と言われた。
僕は怖かった。奏さんが知らない人のように感じて戸惑った。したくない事もあったし、前のような優しいSEXがしたかったけれど、それでも奏さんに合わせた。
「喉の奥で咥えろよ。」
「もっと奥に咥えろ!」
「離すな。」
「穴こっちに向けろ。」
「精液、一滴も溢さずに飲み込めよ。」
「抜いたらすぐにお前の口で掃除しろ。」
「返事しろ!」
だんだん口調は冷たく、高圧的になっていった。僕は悲しかったけれど、言われた通りの事をして、奏さんが言って欲しい事を言った。
「奏さん、優しくして。」
「奏さん、僕の事、まだ好き?」
僕はいつも不安で仕方がなくなった。
言われた事ができなかったら、奏さんは何日も僕に冷たくした。存在を否定する言葉を投げつけられ、辛かった。僕は奏さんに見捨てられるのが怖かった。
だから奏さんに気に入られようと必死だった。また前みたいに優しくしてもらいたかった。涙を流しながら喉の奥で性器を受け入れ、嘔吐寸前まで突かれた。辛く苦しい事を我慢すると、最初の頃のようにキスをしてもらえた。優しい言葉で褒めてくれて、大切にしてもらえた。
いつのまにか、一緒にいる時は四六時中奏さんの機嫌を伺うようになった。SEXを拒むと何日も口を聞いてもらえなくなったので、いつでも言われたら身体を差し出すようになった。快感は感じなくなり、どうしたら彼を怒らせずに終われるかばかり考えるようになった。僕は言われたらすぐに全裸になって命令をなんでも聞いた。そうすると、優しく撫でてもらえた。そのうち奏さんは服を脱がなくなり、僕だけがいつも裸で奉仕した。辛い事を耐えた時だけ、優しくしてもらえた。痛みや屈辱感は、僕の中でSEXのほとんど全てになった。我慢すると、優しく触れてもらえた。身体に傷が付くと、その傷を舐めたりキスしたりしてもらえた。だから酷く鞭で打たれても我慢した。
そしていつからか、何を耐えても優しくしてもらえなくなった。
「僕は次第に、SEXをしている時は自分を物のように感じるようになってきました。それでも、優しい言葉をかけてもらえていたうちは良かった。SMごっこの延長だと思えました。でも、そのうちに、奏さんは普段の時も僕を蔑んだような事ばかり言うようになりました。バイトの時も殊更に叱責されるようになり、時には家で正座して何時間も説教されました。僕はどんどん自信を無くし、そして自信を無くせば無くすほど、どんな事も受け入れないといけないと思うようになりました。上手くできない事があると、SM用の鞭で叩かれたり思い切りビンタされたりしました。暴力はどんどんひどくなりました。ベッドで一緒には寝させてもらえなくなって、ソファで寝るよう言われました。奏さんが夜中にリビングを使う時は廊下に出されました。反抗すると、裸でベランダに出されました。廊下で寝ていると、実家を思い出して、涙が止まりませんでした。何でもするからリビングに一緒にいさせて欲しいと、土下座して頼み込みました。許されたら、ソファでテレビを観たりゲームをしたりする奏さんの前の床に蹲って、何時間でも奏さんのものを咥え続けました。悲しかったけど、廊下で独りにされるよりはマシでした。もう、自分が人間だと思えなくなりました。」
最後の方はもう記憶が曖昧だ。慢性的な扁桃腺炎でいつも身体が熱っぽかった。肛門は、慣らすことを許されず、ローションも使わせてもらえないまま挿れられるために、ほとんど毎回のように血が出た。いつもジクジクと熱を持って痛かった。鞭で打たれたり殴られたりして、身体中傷が絶えなかった。食欲はなくなり、何を食べても味がしなかった。
それでも、他の人に犯されそうにならなかったら、あの夜がなかったら、僕はまだ奏さんのところにいたと思う。
奏さんが好きだったから。
愛して欲しかった。
小さな頃は兄弟がいたらどちらかが嫌われるのが当たり前なのかと思っていたけれど、そのうちそうじゃないと気付いた。参観日の学校や、公園などで見かける家族は違った。僕だけが愛されていないんだと気付いた。悲しかった。
どうして、どうして僕だけ、愛してもらえないんだろう。考えても考えても、分からなかった。なぜこんなに嫌われるのかも、分からなかった。
ただ、だんだんと、自分は誰からも相手にされないのが当然なんだと思うようになった。周りの人達はみんないつもキラキラして見えて、その中でも一番輝いて見えたのは、兄だった。兄が羨ましくて、妬ましかったけど、憎む事はできなかった。兄は僕の憧れだった。時折胸が刺されたように文字通りキリキリと痛んだ。僕は独りで部屋で蹲って、身体を丸めて全身に力を入れて、痛みをやり過ごした。
奏さんに冷たくされるようになって、また胸が痛んだ。その度に、今度こそ、今度こそ頑張らないとって思った。
「僕が誰かに愛してもらうには、こんなに苦しみや痛みが伴うんだ、そう思いました。今も、迷ってます。あの時、逃げずに奏さんの友達に犯されていたら、愛してもらえたのだろうか?逃げなければ良かったって思う時もあります。どうせ、どうせ僕なんて道具だったんだから、誰にヤラれたって良かったんじゃないか?そう思う時もあります。」
高橋先生はいつも黙って聞いてくれた。
そして最後にいつも
「生きていてくれてありがとう。あなたはとても価値のある存在です。あなたは愛される価値のある人間です。あなたを愛さなかった人達は、愛がなんなのか、知らなかっただけです。」
と言ってくれた。
その言葉を、僕は信じる事ができた訳ではなかったけれど、毎回毎回、何度も何度も言われるうちに、その言葉は少しずつ僕のカラカラにひび割れた心に染み渡っていった。
僕が話し終えると高橋先生はそう言ってくれたけど、僕は自分は頑張れなかったのだと思っていた。頑張ったなんて、思えなかった。結局僕が家族を捨てたのではなく、捨てられたのは僕の方だった。大学の入学式が終わって会場から出ると、父がいた。僕は少しだけ胸が躍った。来てくれたのだろうか。お父さんは、僕を気にしてくれていたのかも知れない。お母さんが嫌がるから家では僕を無視していたけど、心の中では大切に思ってくれていたのかな。おめでとうって、言いに来てくれたのかも知れない。それはほとんど祈りに近い願望だった。
「お父さん、来てくれたの?」
僕は小走りで父の所まで行った。でも、父はおめでとうと言ってはくれなかった。元気にしてるか?とすら言ってくれなかった。父は僕に封筒を一枚渡した。
「これ、10万円入ってる。これで、弁護士とか警察とか、そういう面倒はかけないでくれ。紘貴の大学の事があって、母さんは気が立っているし、もうこれ以上迷惑をかけられたくはないから。これで終わりにしろよ。もう関わらないでくれ。」
それは手切れ金だった。
10万円で、僕は家族から完全に捨てられた。たった10万円。
僕の何がそんなに迷惑だったんだろう。僕はいつも、家族に気に入られようと一生懸命だったのに。それが、迷惑だったのだろうか。ただ、家族として普通に、受け入れられて、愛されたかった。兄の次で良いから、ほんの少しで良いから、優しくされたかった。それすら諦めて、最後はただ、自分の人生を生きたいと願っただけだった。警察とか弁護士は、先生が言った事で、それだって母が僕を家から出さないと言ったから。誰にも頼らず、独りで、借金して大学に行く事がそんなに迷惑な事だったんだろうか。そんな事すら、僕には許されないのだろうか。何もかも諦めて、愛される事もないままあの人達のために働くべきだったのだろうか。頑張って働いて、兄が医大を卒業するまで家にお金を入れ続けたら、いや、一生、両親が死ぬまで、家族のためにお金を稼ぎ続けたら、僕は愛してもらえるのだろうか。僕は、立ち尽くしたまま動けなかった。周りには、親子連れがたくさんいた。息子や娘の大学合格を祝い、みんな笑顔で写真を撮っていた。惨めだった。僕のあの苦しく悲しい事ばかりだった18年間は、たった10万円で無かったことにされた。酷く惨めだった。
でも僕はその10万円を捨てることはできなかった。入学金を支払い、前期分の学費を支払い、アパートの敷金礼金を支払い、僕の手元にはほとんどお金がなかった。そのお金は僕の2ヶ月の生活費になり、それは僕をさらに惨めにした。
「僕は頑張れなかったから、家族から捨てられたんです。家族を捨てた気になっていたけれど、本当は捨てられたのは僕の方だった。大学の入学式の日に、僕は家族と二度と関わるなと言われました。父に10万円渡されて。
元気でねとも、、、さようならとすら言われませんでした。僕は、ぼ、僕は……」
不意に涙を流している事に気づいた。涙は後から後から流れて、僕は何だか汗みたいだと思った。泣いているのではなく、ただ生理現象として水分が目から溢れているだけ。そんな気がした。もう、悲しいと感じる心も死んでいるのかも知れない。
先生は、黙ってハーブティーを出してくれた。甘いような良い香りのする、薄い色のお茶。お茶が出てきたら、セッションは終了だった。
「ありがとうございます。」
僕は黙ってお茶を飲んだ。
病室に帰ると、涙はもう止まっていた。僕は高校生の時に兄からもらった数3の問題集を開き、数式を解いた。
僕の通っていた高校では数3は授業でやらなかったから、僕は兄に借りた教科書と使わないからともらったこの問題集を繰り返し解いて、数3の勉強をした。どうしても分からない時は高校の数学の教師に聞いた。工業高校では普通科目を熱心に勉強する生徒はほとんどいなかったので、教師は質問すると快く教えてくれた。受験前は、放課後特別に勉強を教えてくれた。僕は勉強にのめり込んだ。本を読んでいる時と勉強をしている時だけ、僕は消えてしまいたいと思わなくて済んだから。特に数学の問題を解いていると、心が落ち着いた。何も考えず、ただ数の論理的で静かな世界に浸る事ができた。その中では僕は、要らない子でも厄介者の嫌われ者でもなく、誰にどう思われるか心配する必要もなかった。
次のセッションの時、奏さんについて聞かれた。僕が黙っていると
「きみの身体にあった傷がその人から加えられた暴力だったら、きみは傷害事件の被害者になる。実際きみを診察した外科医は、警察に通報する事も検討していたんだよ。カルテを客観的に見るとね、きみは、一定程度の長期間にわたって、繰り返し暴力を受けている。一度や二度ではないはずだ。直腸内壁の傷は、性的暴行が行われた可能性を示唆している。もし、君が望まない性的行為があったのなら、その時相手がたとえ恋人であったとしても、それはレイプなんだよ。」
僕は、分からなかった。あれを僕は望んでいたのだろうか?望んではいなかったような気はする、でも。拒みもしなかった。痛くて苦しくて辛かった。やめて欲しかった。でも、無視されるよりは良かった。触れられも、見られすらしなくなるよりは、痛みであっても与えられたかった。僕は道具のように扱われたけど、少なくとも道具としては存在を許された。僕は、それを望んでいたのかも知れない。奴隷で良いから、道具でも良いから、ただの穴だって良いから、必要とされたかった。
「僕が何を望んでいて、何を望んでいなかったのか、僕には分からないんです。」
僕は正直にそう言った。
「僕は奏さんが好きでした。今でも好きです。奏さんに見つめられるとドキドキして、話しかけられるだけで幸せでした。だから、奏さんが僕に興味を持ってくれて、僕を触ってくれる事はとても嬉しい事だった。僕も、奏さんに触りたいと思った。僕たちの関係は確かに対等な関係とは言えなかったけど、僕は今まで生きてきて、誰かと対等な関係を持ったことなんてなかったから、だから、当然なのかも知れないと思ったんです。奏さんみたいな素敵な人と恋人になれるなんて、僕には勿体無いと思ったから。だから僕は頑張って、奏さんに好かれるような人間になりたかった。奏さんがやりたい事を、僕がやるのは当然だと思った。それに、最初のうちは、奏さんが暴力を振るうのは、僕が奏さんの言う事を聞けなかったり、間違えちゃったりした時だけでしたから。」
「恋人と、何をしている時が一番幸せだと感じたの?我慢してるんじゃなくて、本当に心から楽しいと思えた時は?」
そう聞かれて、僕が真っ先に思い出した光景は、2人で家でご飯を食べているところだった。僕が作ったご飯を美味しいね、と言って食べてくれて、僕も奏さんも笑っていた。食べながら、色々な話をした。好きなもの、最近あった面白い事。僕は自分が話すより奏さんの話を聞くのが好きだった。奏さんが行ったいろいろな街や国の話は、旅行に行く機会がほとんどなかった僕には新鮮で面白かった。ワクワクした。奏さんの話を聞いて、まるで自分も一緒に行ったような気持ちになって、楽しかった。僕はパソコンで奏さんが話してくれた街や国を調べて、いろんな風景を画像で見てそこに奏さんと自分がいるのを想像した。
ベッドで一緒に眠るのも好きだった。一緒に寝るのが好きと言ったら、僕のために見た事もない大きなサイズの毛布を奏さんが買ってくれた。その一枚の毛布に一緒に包まるのが好きだった。奏さんは体温が高くて、僕の足はひんやりとして気持ちが良いと言ってくれた。奏さんの胸に顔を埋めて、奏さんは僕の髪を撫でてくれて、抱きしめてくれて。僕は誰かと眠るのってこんなに温かいんだと感動した。感動して泣いてしまうと、僕の涙を拭ってくれた。
そんな日々が、確かにあった。ずいぶん前の事だけど。
僕はそんな失われた優しい日々を、先生に話した。何も特別にない、ただ家でゆっくり過ごす、そういう日常の日々が、好きだった。バイトが終わって、僕が先にマンションに帰ってご飯を作って、奏さんを待って、仕事が終わって帰ってきた奏さんとご飯を食べる。仕事の話を少ししたり、時には職場での申し送りのようになってしまって、お互いにちょっと照れて笑い出したり。
奏さんが会食や接待で遅くなる夜に、1人で勉強をしながら奏さんを待つ時間も好きだった。そういう時は大抵、帰ってきてお茶漬けとかおにぎりとかを食べたがるから、僕は炊き立てのご飯を出せるようにセットして奏さんを待った。それなのにパスタが食べたいと言い出したりして、2人でコンビニにウインナーや乾麺を買いに行ったりするのも楽しかった。
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僕は奏さんに会うまで、性に関する知識がほとんどなかった。高校ではクラスメイトがよくそんな冗談をみんなで言い合っていたが、彼らの話す女の子の身体に対する興味が、僕にはよく分からなかった。中学でも高校でも、僕は特定の仲の良い友達を作る事ができなかった。人と喋る事は苦手だったし、誰からも相手にされていないと感じていた。一部の女の子は、穏やかで優しくて静かな話し方で、男子生徒よりは話しやすかったけれど、そこまで親しくはならなかったし、好きになったりドキドキしたりはしなかった。精通はあったし時折自慰行為をしたけれど、女の子の身体を考えてしたりはしなかった。誰についても何についても考えなかった。それは単に排泄に近い行為だった。
だから、奏さんに触られた時の胸がはち切れそうな高揚感は、最初の頃は恐怖だった。自分がどうかなってしまいそうだった。奏さんは
「怖がらなくて良いよ。」
と言ってくれて、僕の身体中にキスをしてくれた。キスをされる度に、触れられる度に、そして僕もキスをし彼に触れる度に、僕は震えるような快感を覚えた。奏さんのものが僕の中に入ると、痛みと熱さを感じた。優しく丁寧に挿入されると、痛みは多少あったが奏さんをより近くに感じて嬉しかった。身体がふわふわと浮き上がるような感覚になった。奏さんに手を添えられて射精に導かれる時、僕は初めて射精を快感だと感じた。
「可愛いね、ユウト。」
「気持ち良いよ、ユウト。」
「愛してる、ユウト。」
囁かれる言葉に僕は涙が出るほど喜びを感じた。
いつから変わってしまったのか、ハッキリとは分からない。徐々に、奏さんが僕に愛撫してくれる時間が減って、僕が奏さんを愛撫する事の方が多くなった。SEXの時に命令口調になり、はいと返事をしないと怒るようになった。
「SMって知ってる?」
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僕は怖かった。奏さんが知らない人のように感じて戸惑った。したくない事もあったし、前のような優しいSEXがしたかったけれど、それでも奏さんに合わせた。
「喉の奥で咥えろよ。」
「もっと奥に咥えろ!」
「離すな。」
「穴こっちに向けろ。」
「精液、一滴も溢さずに飲み込めよ。」
「抜いたらすぐにお前の口で掃除しろ。」
「返事しろ!」
だんだん口調は冷たく、高圧的になっていった。僕は悲しかったけれど、言われた通りの事をして、奏さんが言って欲しい事を言った。
「奏さん、優しくして。」
「奏さん、僕の事、まだ好き?」
僕はいつも不安で仕方がなくなった。
言われた事ができなかったら、奏さんは何日も僕に冷たくした。存在を否定する言葉を投げつけられ、辛かった。僕は奏さんに見捨てられるのが怖かった。
だから奏さんに気に入られようと必死だった。また前みたいに優しくしてもらいたかった。涙を流しながら喉の奥で性器を受け入れ、嘔吐寸前まで突かれた。辛く苦しい事を我慢すると、最初の頃のようにキスをしてもらえた。優しい言葉で褒めてくれて、大切にしてもらえた。
いつのまにか、一緒にいる時は四六時中奏さんの機嫌を伺うようになった。SEXを拒むと何日も口を聞いてもらえなくなったので、いつでも言われたら身体を差し出すようになった。快感は感じなくなり、どうしたら彼を怒らせずに終われるかばかり考えるようになった。僕は言われたらすぐに全裸になって命令をなんでも聞いた。そうすると、優しく撫でてもらえた。そのうち奏さんは服を脱がなくなり、僕だけがいつも裸で奉仕した。辛い事を耐えた時だけ、優しくしてもらえた。痛みや屈辱感は、僕の中でSEXのほとんど全てになった。我慢すると、優しく触れてもらえた。身体に傷が付くと、その傷を舐めたりキスしたりしてもらえた。だから酷く鞭で打たれても我慢した。
そしていつからか、何を耐えても優しくしてもらえなくなった。
「僕は次第に、SEXをしている時は自分を物のように感じるようになってきました。それでも、優しい言葉をかけてもらえていたうちは良かった。SMごっこの延長だと思えました。でも、そのうちに、奏さんは普段の時も僕を蔑んだような事ばかり言うようになりました。バイトの時も殊更に叱責されるようになり、時には家で正座して何時間も説教されました。僕はどんどん自信を無くし、そして自信を無くせば無くすほど、どんな事も受け入れないといけないと思うようになりました。上手くできない事があると、SM用の鞭で叩かれたり思い切りビンタされたりしました。暴力はどんどんひどくなりました。ベッドで一緒には寝させてもらえなくなって、ソファで寝るよう言われました。奏さんが夜中にリビングを使う時は廊下に出されました。反抗すると、裸でベランダに出されました。廊下で寝ていると、実家を思い出して、涙が止まりませんでした。何でもするからリビングに一緒にいさせて欲しいと、土下座して頼み込みました。許されたら、ソファでテレビを観たりゲームをしたりする奏さんの前の床に蹲って、何時間でも奏さんのものを咥え続けました。悲しかったけど、廊下で独りにされるよりはマシでした。もう、自分が人間だと思えなくなりました。」
最後の方はもう記憶が曖昧だ。慢性的な扁桃腺炎でいつも身体が熱っぽかった。肛門は、慣らすことを許されず、ローションも使わせてもらえないまま挿れられるために、ほとんど毎回のように血が出た。いつもジクジクと熱を持って痛かった。鞭で打たれたり殴られたりして、身体中傷が絶えなかった。食欲はなくなり、何を食べても味がしなかった。
それでも、他の人に犯されそうにならなかったら、あの夜がなかったら、僕はまだ奏さんのところにいたと思う。
奏さんが好きだったから。
愛して欲しかった。
小さな頃は兄弟がいたらどちらかが嫌われるのが当たり前なのかと思っていたけれど、そのうちそうじゃないと気付いた。参観日の学校や、公園などで見かける家族は違った。僕だけが愛されていないんだと気付いた。悲しかった。
どうして、どうして僕だけ、愛してもらえないんだろう。考えても考えても、分からなかった。なぜこんなに嫌われるのかも、分からなかった。
ただ、だんだんと、自分は誰からも相手にされないのが当然なんだと思うようになった。周りの人達はみんないつもキラキラして見えて、その中でも一番輝いて見えたのは、兄だった。兄が羨ましくて、妬ましかったけど、憎む事はできなかった。兄は僕の憧れだった。時折胸が刺されたように文字通りキリキリと痛んだ。僕は独りで部屋で蹲って、身体を丸めて全身に力を入れて、痛みをやり過ごした。
奏さんに冷たくされるようになって、また胸が痛んだ。その度に、今度こそ、今度こそ頑張らないとって思った。
「僕が誰かに愛してもらうには、こんなに苦しみや痛みが伴うんだ、そう思いました。今も、迷ってます。あの時、逃げずに奏さんの友達に犯されていたら、愛してもらえたのだろうか?逃げなければ良かったって思う時もあります。どうせ、どうせ僕なんて道具だったんだから、誰にヤラれたって良かったんじゃないか?そう思う時もあります。」
高橋先生はいつも黙って聞いてくれた。
そして最後にいつも
「生きていてくれてありがとう。あなたはとても価値のある存在です。あなたは愛される価値のある人間です。あなたを愛さなかった人達は、愛がなんなのか、知らなかっただけです。」
と言ってくれた。
その言葉を、僕は信じる事ができた訳ではなかったけれど、毎回毎回、何度も何度も言われるうちに、その言葉は少しずつ僕のカラカラにひび割れた心に染み渡っていった。
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※六~七年前に二次創作で書いた小説をリメイク、改稿したお話です。
他の短編はノベプラに移行しました。
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
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