僕の恋人

ken

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渚ちゃんと翠ちゃんの住んでいるマンションは3LDKの豪華なマンションで、学生2人で住むにはとても広かった。
タクシーがエントランスに到着すると、翠ちゃんが飛び出して来て、車を降りた僕を抱きしめてくれた。奏さん以外の人に抱きしめられたのは初めてで、僕は少し驚いた。渚ちゃんもいて、2人は僕の手を引いてエレベーターに乗せて、部屋まで連れて行ってくれた。その間ずっと渚ちゃんは僕の冷え切った手をさすっていた。僕はまたびしょびしょと泣き出してしまった。

靴を脱いで片方だけしか靴下を履いていない僕の足を見て、翠ちゃんは僕に暖かそうなルームシューズを貸してくれた。2人は餃子を焼いてくれた。途中で寄ったコンビニで買ったビールを渡すと、ありがとうと言ってくれた。たったそれだけの事なのに、僕は心がじんわりと温かくなった。僕は餃子を食べた。黙ってビールを飲んで、泣きながら餃子を食べた。このところまともな食事をしていなかった。何を食べても味がしなかったので、サラダを牛乳で流し込み、時々栄養ゼリーを食べたり、カロリーメイトを齧ったりする程度だった。
2人とも何も聞かなかった。ただ黙って餃子を焼いて、グラスにビールを注いでくれた。餃子は美味しかった。3種類あって、僕が食べる度に翠ちゃんは
「それは韮餃子。」「それはパクチー。」「それは白菜とエビ。」と教えてくれた。
2人はお腹一杯と言いながらまた餃子を食べて、ビールを飲んだ。ビールと一緒に買ったハーゲンダッツを、翠ちゃんは1人で1つ食べて、僕と渚ちゃんは半分ずつにして食べた。翠ちゃんは3人分のハーゲンダッツをキレイな脚付きのグラスに持って、トロリとした甘いお酒と一緒に出してくれた。
「ハーゲンダッツをカップから出して食べるのは初めて。」
僕が言うと渚ちゃんが大袈裟に眉を上げて、だよね!と言わんばかりに目配せしてきた。それを見て翠ちゃんはおっとり笑うと、
「なんかパフェ食べるみたいな気分になるでしょ?」
と言った。
こういう毎日を、僕は過ごしたかった。それだけだった。

「恋人に捨てられたんだ。あ、んー、正確に言うと、もうずっと前に捨てられてたんだと思う。僕が縋り付いていただけで。」
「そう。」
「いたいだけ、ここに居なよ。かけたいだけ時間をかけて、泣けば良いよ。でもお願い。いなくならないで。」
「私たち、あなたのことを本当に大切な友達だと思ってるの。いなくなって欲しくない。」
僕は返事ができなかった。その約束が守れるかは分からなかったから。

僕は空が白み始めるまでずっと、奏さんが僕に優しかった頃の思い出話をして、翠ちゃんと渚ちゃんはうん、うんって頷きながら聞いてくれた。一緒にいろんな所に行った。彼と行くところはどこでも楽しかった。僕は海も、水族館も、映画館も、アウトレットモールもキャンプも、行ったことがなかった。回転寿司も、マクドナルドも、彼と初めて行った。家族のお出かけの時は大抵、僕は留守番だった。昔はそれが悲しくて辛かったけれど、全部彼との初めての体験のためだったと思うと、辛い記憶が吹き飛んだような気がした。

僕はソファにもたれてウトウトと眠った。部屋は暖かくて、床には猫の毛みたいな気持ちの良い肌触りのラグが敷いてあって、僕はそこに寝転んで毛布に包まって寝た。ふと目を覚ますと、翠ちゃんと渚ちゃんも床に寝転んで毛布に包まって寝ていた。また、涙が溢れてきた。ベッドじゃなくても良かった。ソファでも床でも、どこでも良かった。ただ、彼と一緒に寝たかった。僕は静かに涙を流した。そしてまた、寝た。

目を覚ますと、外には雪が降り積もっていた。雪の積もった朝特有の静けさが、心地良かった。暖かい部屋の中で僕は窓辺に座って、いつまでも雪が降るのを眺めていた。こんなに雪が降っていたら、あの橋に行くのは今日はもう無理だろうな。少しホッとしたような心持ちだった。背中越しに、翠ちゃんと渚ちゃんが起きだす気配がした。2人が軽くキスを交わす音がした。それから2人は窓辺に来て、僕を挟むように並んで座ると一緒に雪を見た。何時間そこでそうしていたのか、ふと翠ちゃんが立ち上がり、ココアを作ってくれた。それから、映画を観ようよ、と言ってNetflixをテレビ画面に映し出した。
「優斗、何が良い?お客さんだから優斗に選ばせてあげる。」
そう言われても、僕はそんなに映画を観たことがなかった。
「んー、じゃあ、ブルースリーの映画は?何でも良いんだけど。」
ブルースリーも奏さんに教えてもらった。奏さんはブルースリーが大好きで、よく夜中に一緒にNetflixで観た。ソファに並んで座って、手を繋いで観た。
どうしてそんな幸せがずっと続かなかったのだろう。
画面の中で暴れ回るブルースリーを観ながら、僕は奏さんとの良い思い出ばかりを反芻していた。ふいに、酷い吐き気かした。まただ。このところ毎日のように吐き気がする。
「お前、最近デブってきたな。俺、デブい男とは絶対に付き合わないって決めてるんだよね。」
彼にそう言われてから、食事が怖くなった。拒食症のような症状が出ていた。
トイレを借りて嘔吐した。何度も何度も、嘔吐した。気付いたら翠ちゃんが背中をさすってくれていた。
「ごめん、汚くて。掃除するから、ちゃんと。ごめん。」
「謝らないで。掃除もしなくて良い。優斗、病院に行こう。明日、タクシーで一緒に。」
「うん。」
「約束だよ。絶対だよ。」
「うん。僕、明日死のうと思ってたんだ。でも、病院に行く。僕ね、本当はもっとずっとずっと前から、壊れてるんだ。たぶん、子供の頃から。」
「うん。病院に行こう。」
「僕ね。誰にも愛してもらえなかったんだ。子供の頃、僕の家の家族は3人で、お父さんとお母さんとお兄さんの3人でね。僕は邪魔者の、厄介者の…嫌われ者の……そんな存在だった。」
翠ちゃんは黙って背中をさすりながら話を聞いてくれた。僕はどうしてか、話止めることが出来なくなっていた。トイレの床に座り込んで、便器に手をかけ、時折思い出したように嘔吐しながら、僕は話続けた。
「本当はね。この半年はずっと、僕は奏さんの恋人じゃなかったんだ。奏さんの、奴隷だった。
最初はね。恋人だったんだよ、ちゃんと。初めてSEXした時もとても優しかった。僕、誰かと付き合うの初めてで、SEXするのも初めてだった。男同士でSEXするってどういう事か全然分かってなくて。とっても丁寧に教えてくれた。だから、いつから変わっちゃったのか、今はもう分からない。
初めはね、SMごっこみたいだったんだ。そういう世界があるんだって思った。すごくやりたいとは思わなかったけど、でも、奏さんがやりたい事をしてあげられるのは嬉しかった。僕は奏さんに知らない事をたくさん教えてもらえて、奏さんは、行った事のない場所に連れて行ってくれた。経験した事のない事をたくさん経験させてもらえた。僕は、初めて誰かに愛されてるって感じられた。だから、もらうばっかりじゃなくて、僕だって何かをあげたかった。奏さんが経験したことない事を、僕が経験させてあげられると思うと、嬉しかったし、自分が誇らしく感じられたんだ。痛い事も時々あったけど、頑張って奏さんのお願いを聞いたら、すごくすごく優しくしてもらえた。
でも、僕、どこかで何かを間違えて、いつからか恋人から奴隷になっちゃった。この半年は、奏さんの性処理をする道具だった。僕の身体の事はお構いなく、奏さんに好きな時にどこでも好きなように犯されて、屈辱的な事をさせられて、暴力をふるわれた。でも僕は奏さんの言う事を何でも聞いた。痛い事も苦しい事も我慢した。」
話しているうちに、涙と嗚咽が止まらなくなった。
「鞭で本気で打たれたし、いろいろ…思い出したくない…いろんな事をさせられた。最後の方はもう全然話しかけてももらえなくなってね。ゥッ、グッ…
SEXが終わると僕はベッドを追い出されて、追い出されてっ……  
そ、それでっ、ゥッ… 
リ、リビングのソファで独りで眠った。グッ、グズ…
か、奏さんがリビングでテレビを観たりしたい時は、僕は…ろ、廊下に布団を敷いて寝た。僕の身体はただの道具だった。玩具だった。辛かった。でも、それでも、僕、奏さんのそばにいたかった。」
僕は声を出して泣いた。
「優斗。あなたは玩具じゃない。辛かったね。よく、逃げ出して来てくれたね。」
「うん、でもね。今もまだ、心のどこかで戻りたいって思ってる自分がいるんだ。昨日ね。3人の人に犯されそうになったんだ。奏さんが呼んだ、奏さんの友達……ウウ… ぼ、僕の身体を友達と玩具にして、使おうとしたんだ。酷いよね。
でもさ、僕は、最初、それでも良いのかもって思っちゃったんだ。ぼ、僕、裸になってね。頑張って、我慢しようって、身体を差し出したら、また僕の事…これを頑張れば、今度こそまた恋人に戻れるのかなって、それなら、、何とか、、た、耐えようって、思ったんだ。でも、見ず知らずの人に触られて、僕…僕、頭より体が反応してた。耐えられなかった。だから、す、捨てられたんだ。」
「優斗。優斗は私と渚の大切な友達なの。それだけは、忘れないでね。」
「ありがとう。僕ね、奏さんが初めての恋だったんだ。」
一度嘔吐すると、しばらくはえずくのが止まらなくなる。喉の奥に、日常的に何度も性器を強く押し付けられているせいか、一度えずき出すと、何も吐く物がなくなっても喉が痙攣して何分もえずきつづけてしまう。その間ずっと、翠ちゃんは黙って背中をさすってくれた。嘔吐をしていると、僕は犯されている時のような気持ちになった。惨めで、苦しくて、自分の身体が自分のものでは無いという、喪失感のような感覚。翠ちゃんの手の温かさだけが、その時僕の身体で唯一自分のものだと思える感覚だった。
翠ちゃんは泣いていた。時間をかけて落ち着きを取り戻して、洗面所で口を濯ぎ廊下に出ると、廊下に立ち尽くした渚ちゃんも泣いていた。

次の日、翠ちゃんがアプリで予約してくれたタクシーで、僕は病院に行った。大きな病院を経営している翠ちゃんのお父さんに紹介してもらった、小規模ながら入院施設がある心療内科だった。翠ちゃんのお父さんの後輩の医師が、僕の担当をしてくれた。
僕はそこに、3ヶ月入院した。
実家には連絡したくないと言うと、翠ちゃんのお父さんが入院の保証人になってくれた。翠ちゃんと渚ちゃんは奏さんの会社に行って、アルバイトの退社手続きをしてくれた。奏さんに直接会って話をしてくれた。そこでどんな話し合いがなされたのかは、分からない。奏さんは二度と僕に連絡しないと約束し、僕の私物を箱に詰めて翠ちゃんと渚ちゃんのマンションに送ってくれた。その月のバイト代にプラスしてまとまった金額が振り込まれ、それは入院費と今後の治療費に十分な金額だった。
2人は学校にも、傷病休学手続きをしてくれて、僕は給付奨学金の権利を持ったまま半年間休学する事ができた。貸与奨学金と株の配当金、そして貯金で、当面の生活はできそうだった。
翠ちゃんと渚ちゃんが僕のためにいろいろとしてくれている間、僕はご飯を食べる時とトイレに行く時以外は両手と両足をベッドに固定されて、格子のはまった窓からふんだんに太陽が降り注ぐ暖かい部屋で、時折フワリと揺れる窓のカーテンとその向こうの青空を眺めていた。
ときおり涙だけが流れ落ちて、定期的に来る看護師さんが拭ってくれるまで僕の耳や首を濡らし続けた。拘束するのは僕が死なないためだと先生は言った。自分を傷つけたり、吐いたりしないように。トイレで用を足す時は、見られはしなかったが、扉は閉められないようになっていて、音は聞こえるようになっていた。羞恥心はなかった。そんなものは、もう僕は持ち合わせていなかった。僕はベッドに拘束されて、唯一動かせる天井や窓の外を見つめながら、頭を空っぽにしようと努力した。そのうちに睡魔がやってきて、僕は浅い眠りの中で酷い夢をいくつも見た。

夢の中で僕は、実家の小さな部屋に1人でいた。それは僕に与えられた部屋で、元々はウォークインクローゼットだった。灯取りの小さな窓が高い場所に1つあって、背が低かった時は開閉する事ができなかった。リビングには兄の友達が何人か来ていて、楽しげな笑い声が聞こえた。
僕はその日、学校で靴を無くして裸足で帰ってきた。朝下駄箱に入れた靴が帰る時には無い事が時々あった。誰が隠したのか、薄々検討はついていた。僕はクラスメイトの1人の男の子になぜか目の敵にされていて、彼と彼の友達数人が、時々そういう嫌がらせをした。なぜそんなに彼が僕を嫌うのか、詳しくは分からなかったけれど、でも不思議には思わなかった。僕を嫌う理由なんて、僕自身幾つも思い付いた。暗くて陰気で本ばかり読んでるガリ勉だから。いつも物欲しそうな顔をする浅ましい人間だから。男のくせに貧相で女みたいな、みっともない顔だから。学校では必死に隠していたけれど、僕が家ではいないように扱われている事を、彼は気付いたのかも知れない。僕はバカだしグズだから、隠し通せるはずがなかった。
裸足で家まで帰りながら、僕は足の裏の痛みや不快感よりも、お母さんにバレないかがひたすら心配だった。靴下は汚れないように脱いで帰ったけれど、そもそも玄関に靴がない事に気付かれたらなんと言い訳しようか。そればかり考えていた。
「おまえ、きたねー!なんで裸足なの?」
ニヤニヤと笑いながら話しかけてきたのは、おそらく隠した張本人とその仲間だ。僕はなるべく平静を装った。
「うん、ごめん。無くしちゃって。」
「え?靴なんて無くすか?ふつー。」
「うん、そうだね。普通無くさないよね。」
僕はなるべく笑顔に見えるように口角を上げた。うまく笑えていると良いな、そう思った。それから、笑顔が気持ち悪いと母に言われたのを急に思い出して、怖くなって俯いた。
「明日探してやるよ。」
「ありがとう。」
いつものパターンだ。
僕の持ち物が何か無くなると、翌日か翌々日彼らが探してくれて、絶対に見つかる。僕が何度も探した場所で、彼らのうちの誰かが見つける。
「ちゃんと探さなきゃダメじゃない!」
教師に呆れたように言われ、僕は謝る。
「探してくれてありがとう。」
みんなの前でお礼を言う。
何が面白いのか全く分からなかったけれど、それが彼らのお気に入りの遊びだった。クラスメイトのほとんどは、もしかしたら教師も、薄々気付いてはいたけれど、誰も彼らを非難はしなかった。黙ってされるがままになっている僕が悪いんだろう。でも、僕はただお母さんにバレる事だけが怖かった。問題が大きくなって教師が母に連絡するのを恐れて、僕は何も言えなかった。僕は移動教室の度にまた何か隠されるのではと怯えて、いつも1番最後教室を出た。
「もう少し早く行動しなさい。何回も言っているでしょう?」
教師はまた呆れたように僕を見た。
ごめんなさい。
家でも学校でも、なるべく良い子でいたかったけれど、僕にはそれが難しかった。

どうして僕はいろんな事がうまくできないんだろう。どうしてお兄さんのようにできないんだろう。兄みたいにできたら、僕にも友達ができたのだろうか。物を隠されたり、無視されたりせず、楽しく学校生活を送れたのだろうか。
友達とはしゃぎながらゲームをやってる兄の声を聞きながら、僕は自分が惨めで仕方がなかった。部屋に座って宿題をやりながら、涙が止まらなかった。兄達の声を聞きたくなかった。僕は布団を敷いて、そこに潜り込んだ。頭まですっぽりと布団にくるまって、耳を塞いだ。
耳を塞ぐと、兄達の声は聞こえなくなったけれど、代わりに母の声が聞こえるような気がした。
「グズ!まぬけ!なんであんたはまともな事が1つもできないの?」
「こんな子産まなきゃ良かった!」
「みっともない子!顔も見たくない。さっさと死ねば良いのに。」
「あんたのせいで完璧な家族になれなかった。」

ごめんなさい。ごめんなさい。
産まれてきてごめんなさい。生きていてごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい…


激しく咳き込んで目が覚めると看護師さんが心配そうに覗き込んだ。僕は夢の中で泣きじゃくっていたらしい。
「今、先生も来ますよ。」
看護師さんはそう言って僕の涙や涎を拭いてくれた。
先生なんて来て欲しくない。誰も来て欲しくない。看護師さん達も先生も、とても優しいけれど、僕の唯一の願いは聞いてもらえない。
消えてしまいたい、それだけが唯一の望みなのに。
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