海の底の恋

ken

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ワイングラス

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焼きそばを食べ終わる頃には、部屋にはすっかり朝の光が差し込んでいた。

「あーあ、葉ちゃん!今日はSEXしないと思ったのに、唇脂でテカテカの葉ちゃん、めちゃくちゃそそられる。」
「なにそれ。」
「あ、待って!拭かないでよ。」
「いやだ、拭くよ。」
「待って待って!キスだけさせて。」
僕は笑いながらティッシュで唇を拭った。
「葉ちゃんのケチ~。キスくらいさせてくれてもさぁ~。ねえ、朝ヤルのってなんか良くない?ヤラない?」
「ヤラないよ~。」
「えーー、なんで?一回だけ。じゃあさ、今日は葉ちゃんが挿れてくれて良いから。」
「ヤラない。そーゆー問題じゃないし。ってか、僕挿れる側はしたいと思わないし。」
「え?そうなの?オレ、どっちも好きだけどなぁー。まあ、どっちかって言うと挿れる方が良いけど、でも葉ちゃんになら挿れられても良い。」
「今日はしないの。」
「そっか~。葉ちゃんのケチ。」
「何だよ、中学生かよ?」
「お前なぁ、オレ、ガチのSEX依存症なのよ?もうかれこれ10年以上、SEX依存症やってんのよ、依存症舐めんなよ!?」
「ねえ、SEX依存症って、どんなの感じなの?真面目な話さ。」

うーん、と陸杜は真面目な顔に戻って、「ま、つまるところ、犯罪者予備軍。」
と言った。
「だってね。SEXしたいってなると、もうその事しか考えられなくなる時がある。でも、別に暴力を振るいたいわけでも無理矢理するってシチューションに快感を覚える訳でもないから、そういう事をしたいとは思ってない。思ってないけど、例えば、そんな時に酔って寝てる子が部屋にいたりとか、タクシーの中にいたりとかしたらさ、理性が効くかはちょっと怖い。怖いから、なるべくそういう事態にならないように、日頃からSEXをしたい時は、したい、しよう、って言うの。酔ってる子を送ってくのは絶対に断るし、そもそもSEXしたくないかもって子とは飲まないようにしてる。で、しようって言って断られたらしない。絶対しない。それだけを何が何でも守ってる。だから、買春もするし、昔は売春もしてた。管理売春は売るのも買うのも違法だから、自分でね。ネットの掲示板で相手見つけて。」

陸杜にとっては、違法か違法じゃないかはとても重要な事なのだな、そう思った。

「昔はね、ちゃんとした病院で働いてたんだ。そこで働いて何年かしたら、親の病院に戻る予定もあった。兄は外科医でね。彼が継ぐとは思うんだけど、親はオレにも帰ってきて欲しそうだったから。
その病院で、付き合ってる男がいた。上司でね。まあ、いわゆる、不倫。奥さんいたんだ、その人。
だから、会えない時とかは、ネットの掲示板で相手を見つけて、売りやってた。お金じゃなくて、SEXがしたくてしたくてたまらなくなる時があって。でもね、お金貰うって事は、当時のオレにとっては大切な事だったんだ。なんていうか、それがオレの中の合意形成の一番分かり易いプロセスだったんだよね。だからさ、売りをやる事に罪悪感はなかった。
でも、ある時掲示板でマッチングした相手が指定するホテルに行ったら、そこにいたのはその彼だったんだ、付き合ってた男。やっぱりオマエだったんだなって言われて。」
「え?彼もその掲示板で男買ってたって事?」
「だろ?まず、そう思うよね。
そう言ったらさ、話逸らすなって言われて。話って何?って言ったらふざけるなって言われて。禅問答かと思ったよ。結局、浮気だって言われたんだ。想像できる?不倫男が不倫相手に浮気を責めるっていう、シュールな光景。」
「笑っちゃ悪いんだけど……」
「や、もう良いよ。10年以上前の話だから。」
「で、怒ったの?その男。」
「めちゃくちゃに怒られて、売りやってるなんて汚らわしいとまで言われて。謝って、2度とやらないって誓えって言われたけど、オレは謝りもしなかった。悪いと思えなかったから。もう2度としないとも言えなかったし。
そしたら翌日、勤務先の病院で懲罰委員会にかけられてね。そいつ、病院に言ったんだ。しかも、自分が見つけたんじゃなく、患者さんが言っていた、なんて嘘までついてね。懲戒処分を受ける事になって、だから腹が立ってオレ、全部ぶちまけたんだ。その男と不倫してた事も、その男に買われてホテルに行った事も。結局オレはその病院を実質クビになったよ。医者なんて狭い世界で足の引っ張り合いばかりしてるんだ。だからオレはもう、大きな病院で正規に雇われる事は、まあほぼ無いんだよ。あっちでちょこちょこ、こっちでちょこちょこ、隙間縫って働いてる。派遣労働者なんです。
SEX依存症ってのは、そうやって自分の人生も捻じ曲げちゃう。」
「そうなんだ。」
「そう、だからね。今だってオレは相当頑張って抑えてるんですよ、性衝動を。葉ちゃんの唇のテラテラから必死で目を逸らしてね。
オレはね、犯罪だけは犯さないって決めてるの。道徳とか、倫理とか、そんなものはクソ喰らえだ。そんなものでオレは救われなかったよ。法律だけが、オレの中で、あの時のオレに、あの6歳のオレに、お前は悪く無いって言ってくれた。あいつが全面的に悪かったって、そう断言してくれた。
だからさ、どんなにその後のオレの人生に悪影響を与えても、どんなに煩わしい事態になっても、あいつは絶対に法で裁かれるべきだったんだ。」

だからさ、そう陸杜は言った。
だから、それで葉ちゃんが救われるなら、お金なんていくらでも振り込んじゃえば良いんだよ。

そう陸杜は言ってくれた。

朝の光の中で、陸杜の笑顔が眩しかった。陸杜の唇も、脂に塗れて艶めかしく輝いていた。


陸杜の部屋から帰る道すがら、駅ビルの中の百貨店で僕はワイングラスを買った。悠の部屋にあったみたいな、大きなワイングラスを買った。地下の食料品売り場で、ワインも買った。パンとハムとチーズ、それから果物と野菜も買った。グラムを量って紙に包んでくれる肉も買った。ずっしりと重い買い物袋を抱えて、僕は部屋に帰った。

その日の夜、僕は自分の為に何品も料理を作った。折りたたみの小さなテーブルに乗り切らない皿は、畳に直接置いた。チーズも切って皿に並べ、ワインを開けた。買ったばかりのワイングラスに注いで、独りで飲んだ。
乾杯の代わりに、僕は指でグラスを弾いた。キーンと高い音がした。
ワインを飲み、料理を食べながら、僕はずっと悠のことばかり考えた。僕は悠が好きだった。大好きだった。彼の声や匂い、話す時の癖や笑うとできるえくぼを思い描くと、涙が次から次へと溢れた。僕は泣きながら食べた。

悠。悠も僕のこと、まともって言ってくれる?ねえ、悠も僕のこと、悪くないって言ってくれる?
悠、僕、悠に会いたい。
どうしようもなく、悠に会いたいよ。

悠が恋しくて、苦しいよ。


僕は泣きながら食べ続けた。


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