海の底の恋

ken

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僕が入社3年目になる頃、悠は修士課程を終えて博士課程後期に入った。彼は違う大学の研究室に所属する事になり、引っ越した。

引っ越しを手伝って荷物を積み終えると、悠は家の鍵を渡してくれた。
「出張の時とか、自由に使ってよ。本社に来る事、またあるでしょう?」
「良いの?」
「うん、俺もちょくちょく帰るけどさ、なんかあったらここに泊まって。窓開けて風通してくれないと、家ってすぐに傷んじゃうから。」
「うん、分かった。ありがとう。」

信用されたのだと嬉しく思ったし、悠がいなくてもここに来たら悠と繋がれるような気がした。その鍵を、僕は宝物のように東京でも毎日眺めた。その鍵を眺めるだけで、悠とあの部屋で過ごす時間に戻れるような気がした。

ボーナスが入ると、僕は深夜バスを乗り継いで悠の暮らす町を訪れたり、悠とあの部屋で待ち合わせたりした。本社に出張の時には必ず1日余分に休みを取って、悠の部屋で独りで過ごした。悠の部屋の青い天井を眺める度に、僕は胸がドキドキした。その部屋は僕にとって、いまだに憧れであり、美しい思い出の全てだった。

悠は桃が産地の町に暮らしていた。
夏に悠が桃を送ってくれた。
僕は初めてネットショッピングじゃない宅配物を受け取って、心が湧き立った。箱を開けるときれいな桃が幾つも入っていて、桃が傷まないように緩衝材で包まれていた。僕は部屋のどこからでも見える場所に桃を並べた。日当たりの悪い薄暗い部屋が、急に明るくなった。
その夜僕は、桃が包まれていた緩衝材の匂いを嗅ぎながら眠った。

それから毎晩ひとつずつ、僕は桃を食べた。桃は全部で6つもあった。
果物を食べるのは久しぶりだった。悠はよく夜ご飯の後、何か果物を剥いてくれたなと、僕は悠の作る食卓を懐かしく思い出した。悠に写真を送りたくて、僕はしばらくしていなかった自炊をした。自炊するより半額の弁当で済ませた方が安く上がるから、もう一年以上自炊はしていなかった。
僕はネットで調べて、悠が作るように何品もおかずを作った。そして桃を剥いて、食卓の写真を悠に送った。
それを食べていると、悠と一緒にいるような気がした。

その頃、悠は忙しくしていて、メールの返信は滅多になかった。でも、僕は悠の桃の香りで充分だと思った。

夏の終わりに、悠の暮らす町に行った。
悠は、久しぶりに外に飲みに行こう、と言った。僕は悠の部屋で2人きりで過ごしたかったけれど、悠の暮らす町を一緒に歩きたい気持ちもあって、首を縦に振った。

悠に連れられて行ったそこは、賑やかなバーだった。この町に来て2年目の悠はそのバーの常連みたいで、店員だけじゃなく数人の客も悠を見て親しげに挨拶した。
「ごめん、今日さ、テーブル良い?空いてたら。」
悠がそう言うと、店員はにこやかに隅のテーブルに案内してくれた。そこはカウンターや団体席の喧騒から少し離れていて、程よく静かだった。
「ここよく来るんだね。」
「うん、まあ田舎の町のバーのだからさ、東京とは違うかもしれないけど、でもフードも美味しいしみんな良い人なんだ。」
「そっか、いいね。」
東京のバーがどんななのか、行ったことがなかったから分からなかったけれど、僕は頷いた。

近況を報告しながら数杯ビールを飲んで、次はハイボールかジンにしようかなと、悠が言った。
「同じもの、頼んで。」
そう言って僕はトイレに行った。
僕はトイレの中で、胸の動悸をどうにか抑え込もうとした。今日の悠は何かいつもと違う。嫌な予感しかしなかった。

別れを切り出されるのだろうと、僕にはもうすでに分かった。どうにか泣かずに店を出たい、それだけを考え鏡の中の自分を睨みつけた。

案の定、悠は三杯目のジンソーダを飲み終わらないうちに、言った。

「ヤマナカ、もう俺たち、会うのやめよう。俺、こっちでしばらく暮らすことにした。博士課程終わっても、ここの大学に残る。ここで働く。いつまでもズルズルしちゃって、悪かった。」
「ははは、何、改まって。僕たちヤリ友じゃん。そんな恋人みたいに別れ話なんてしないでよ。好きな人でも、できた?」
「いや。でも、ちゃんと好きになろうと思う、これから。そういう子は、いるよ。だから。」
「分かった。僕も東京からこっちまで来るの、ちょっと遠いなって思ってたんだ。ヤリ目的の旅にしてはさ、ちょっとね。東京にはそうゆうとこ、たくさんあるしね。」 
悠は目を少し細めて僕をじっと見た。時々悠がする目だった。
僕の中の汚い部分を見透かすような、そんな目だった。僕は俯いた。
「うん。元気でな。あ、今日は泊まって良いよ。ホテル、取ってないでしょ。」
「いや、取ってるよ。大丈夫。悠も元気でね。その、その子とうまくいくと良いね。」

ジンソーダを一気に飲み干すと、僕はお金を置いて先に店を出た。
店を出た途端、涙が溢れた。
何がいけなかったのだろう。時々、返信は要らないと言って近況をメールしてたのが鬱陶しかったのだろうか。どこかで悠に縋ってしまっていたのだろうか。

僕は泣きながら駅まで行き、駅前の漫画喫茶で夜を過ごした。フリードリンクのピーチ味のファンタを飲んだ。あの悠の桃の香りとは似ても似つかない、人工的な桃の香りが、狭い漫画喫茶のブースの中に充満した。

僕は鍵を眺めた。
返さなきゃいけなかったのに。
どうしよう。そう思いながら、悠の部屋の青い天井を思い浮かべた。
目を瞑り、海の底に沈むようなあの感覚を、思い浮かべた。

目を開けると漫画喫茶の天井は真っ黒で、僕は真っ暗な海の底に沈む自分を思い浮かべた。悠の部屋の海と同じ海じゃない。
もっと暗くて汚い、東京の海。

自分にはこっちが似合ってた。

僕はそう思った。

真っ黒な海に人工的なきつい桃の香り。
ここが僕のいるべき場所なんだろう。

そう思った。


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