4 / 21
桃
しおりを挟む
僕が入社3年目になる頃、悠は修士課程を終えて博士課程後期に入った。彼は違う大学の研究室に所属する事になり、引っ越した。
引っ越しを手伝って荷物を積み終えると、悠は家の鍵を渡してくれた。
「出張の時とか、自由に使ってよ。本社に来る事、またあるでしょう?」
「良いの?」
「うん、俺もちょくちょく帰るけどさ、なんかあったらここに泊まって。窓開けて風通してくれないと、家ってすぐに傷んじゃうから。」
「うん、分かった。ありがとう。」
信用されたのだと嬉しく思ったし、悠がいなくてもここに来たら悠と繋がれるような気がした。その鍵を、僕は宝物のように東京でも毎日眺めた。その鍵を眺めるだけで、悠とあの部屋で過ごす時間に戻れるような気がした。
ボーナスが入ると、僕は深夜バスを乗り継いで悠の暮らす町を訪れたり、悠とあの部屋で待ち合わせたりした。本社に出張の時には必ず1日余分に休みを取って、悠の部屋で独りで過ごした。悠の部屋の青い天井を眺める度に、僕は胸がドキドキした。その部屋は僕にとって、いまだに憧れであり、美しい思い出の全てだった。
悠は桃が産地の町に暮らしていた。
夏に悠が桃を送ってくれた。
僕は初めてネットショッピングじゃない宅配物を受け取って、心が湧き立った。箱を開けるときれいな桃が幾つも入っていて、桃が傷まないように緩衝材で包まれていた。僕は部屋のどこからでも見える場所に桃を並べた。日当たりの悪い薄暗い部屋が、急に明るくなった。
その夜僕は、桃が包まれていた緩衝材の匂いを嗅ぎながら眠った。
それから毎晩ひとつずつ、僕は桃を食べた。桃は全部で6つもあった。
果物を食べるのは久しぶりだった。悠はよく夜ご飯の後、何か果物を剥いてくれたなと、僕は悠の作る食卓を懐かしく思い出した。悠に写真を送りたくて、僕はしばらくしていなかった自炊をした。自炊するより半額の弁当で済ませた方が安く上がるから、もう一年以上自炊はしていなかった。
僕はネットで調べて、悠が作るように何品もおかずを作った。そして桃を剥いて、食卓の写真を悠に送った。
それを食べていると、悠と一緒にいるような気がした。
その頃、悠は忙しくしていて、メールの返信は滅多になかった。でも、僕は悠の桃の香りで充分だと思った。
夏の終わりに、悠の暮らす町に行った。
悠は、久しぶりに外に飲みに行こう、と言った。僕は悠の部屋で2人きりで過ごしたかったけれど、悠の暮らす町を一緒に歩きたい気持ちもあって、首を縦に振った。
悠に連れられて行ったそこは、賑やかなバーだった。この町に来て2年目の悠はそのバーの常連みたいで、店員だけじゃなく数人の客も悠を見て親しげに挨拶した。
「ごめん、今日さ、テーブル良い?空いてたら。」
悠がそう言うと、店員はにこやかに隅のテーブルに案内してくれた。そこはカウンターや団体席の喧騒から少し離れていて、程よく静かだった。
「ここよく来るんだね。」
「うん、まあ田舎の町のバーのだからさ、東京とは違うかもしれないけど、でもフードも美味しいしみんな良い人なんだ。」
「そっか、いいね。」
東京のバーがどんななのか、行ったことがなかったから分からなかったけれど、僕は頷いた。
近況を報告しながら数杯ビールを飲んで、次はハイボールかジンにしようかなと、悠が言った。
「同じもの、頼んで。」
そう言って僕はトイレに行った。
僕はトイレの中で、胸の動悸をどうにか抑え込もうとした。今日の悠は何かいつもと違う。嫌な予感しかしなかった。
別れを切り出されるのだろうと、僕にはもうすでに分かった。どうにか泣かずに店を出たい、それだけを考え鏡の中の自分を睨みつけた。
案の定、悠は三杯目のジンソーダを飲み終わらないうちに、言った。
「ヤマナカ、もう俺たち、会うのやめよう。俺、こっちでしばらく暮らすことにした。博士課程終わっても、ここの大学に残る。ここで働く。いつまでもズルズルしちゃって、悪かった。」
「ははは、何、改まって。僕たちヤリ友じゃん。そんな恋人みたいに別れ話なんてしないでよ。好きな人でも、できた?」
「いや。でも、ちゃんと好きになろうと思う、これから。そういう子は、いるよ。だから。」
「分かった。僕も東京からこっちまで来るの、ちょっと遠いなって思ってたんだ。ヤリ目的の旅にしてはさ、ちょっとね。東京にはそうゆうとこ、たくさんあるしね。」
悠は目を少し細めて僕をじっと見た。時々悠がする目だった。
僕の中の汚い部分を見透かすような、そんな目だった。僕は俯いた。
「うん。元気でな。あ、今日は泊まって良いよ。ホテル、取ってないでしょ。」
「いや、取ってるよ。大丈夫。悠も元気でね。その、その子とうまくいくと良いね。」
ジンソーダを一気に飲み干すと、僕はお金を置いて先に店を出た。
店を出た途端、涙が溢れた。
何がいけなかったのだろう。時々、返信は要らないと言って近況をメールしてたのが鬱陶しかったのだろうか。どこかで悠に縋ってしまっていたのだろうか。
僕は泣きながら駅まで行き、駅前の漫画喫茶で夜を過ごした。フリードリンクのピーチ味のファンタを飲んだ。あの悠の桃の香りとは似ても似つかない、人工的な桃の香りが、狭い漫画喫茶のブースの中に充満した。
僕は鍵を眺めた。
返さなきゃいけなかったのに。
どうしよう。そう思いながら、悠の部屋の青い天井を思い浮かべた。
目を瞑り、海の底に沈むようなあの感覚を、思い浮かべた。
目を開けると漫画喫茶の天井は真っ黒で、僕は真っ暗な海の底に沈む自分を思い浮かべた。悠の部屋の海と同じ海じゃない。
もっと暗くて汚い、東京の海。
自分にはこっちが似合ってた。
僕はそう思った。
真っ黒な海に人工的なきつい桃の香り。
ここが僕のいるべき場所なんだろう。
そう思った。
引っ越しを手伝って荷物を積み終えると、悠は家の鍵を渡してくれた。
「出張の時とか、自由に使ってよ。本社に来る事、またあるでしょう?」
「良いの?」
「うん、俺もちょくちょく帰るけどさ、なんかあったらここに泊まって。窓開けて風通してくれないと、家ってすぐに傷んじゃうから。」
「うん、分かった。ありがとう。」
信用されたのだと嬉しく思ったし、悠がいなくてもここに来たら悠と繋がれるような気がした。その鍵を、僕は宝物のように東京でも毎日眺めた。その鍵を眺めるだけで、悠とあの部屋で過ごす時間に戻れるような気がした。
ボーナスが入ると、僕は深夜バスを乗り継いで悠の暮らす町を訪れたり、悠とあの部屋で待ち合わせたりした。本社に出張の時には必ず1日余分に休みを取って、悠の部屋で独りで過ごした。悠の部屋の青い天井を眺める度に、僕は胸がドキドキした。その部屋は僕にとって、いまだに憧れであり、美しい思い出の全てだった。
悠は桃が産地の町に暮らしていた。
夏に悠が桃を送ってくれた。
僕は初めてネットショッピングじゃない宅配物を受け取って、心が湧き立った。箱を開けるときれいな桃が幾つも入っていて、桃が傷まないように緩衝材で包まれていた。僕は部屋のどこからでも見える場所に桃を並べた。日当たりの悪い薄暗い部屋が、急に明るくなった。
その夜僕は、桃が包まれていた緩衝材の匂いを嗅ぎながら眠った。
それから毎晩ひとつずつ、僕は桃を食べた。桃は全部で6つもあった。
果物を食べるのは久しぶりだった。悠はよく夜ご飯の後、何か果物を剥いてくれたなと、僕は悠の作る食卓を懐かしく思い出した。悠に写真を送りたくて、僕はしばらくしていなかった自炊をした。自炊するより半額の弁当で済ませた方が安く上がるから、もう一年以上自炊はしていなかった。
僕はネットで調べて、悠が作るように何品もおかずを作った。そして桃を剥いて、食卓の写真を悠に送った。
それを食べていると、悠と一緒にいるような気がした。
その頃、悠は忙しくしていて、メールの返信は滅多になかった。でも、僕は悠の桃の香りで充分だと思った。
夏の終わりに、悠の暮らす町に行った。
悠は、久しぶりに外に飲みに行こう、と言った。僕は悠の部屋で2人きりで過ごしたかったけれど、悠の暮らす町を一緒に歩きたい気持ちもあって、首を縦に振った。
悠に連れられて行ったそこは、賑やかなバーだった。この町に来て2年目の悠はそのバーの常連みたいで、店員だけじゃなく数人の客も悠を見て親しげに挨拶した。
「ごめん、今日さ、テーブル良い?空いてたら。」
悠がそう言うと、店員はにこやかに隅のテーブルに案内してくれた。そこはカウンターや団体席の喧騒から少し離れていて、程よく静かだった。
「ここよく来るんだね。」
「うん、まあ田舎の町のバーのだからさ、東京とは違うかもしれないけど、でもフードも美味しいしみんな良い人なんだ。」
「そっか、いいね。」
東京のバーがどんななのか、行ったことがなかったから分からなかったけれど、僕は頷いた。
近況を報告しながら数杯ビールを飲んで、次はハイボールかジンにしようかなと、悠が言った。
「同じもの、頼んで。」
そう言って僕はトイレに行った。
僕はトイレの中で、胸の動悸をどうにか抑え込もうとした。今日の悠は何かいつもと違う。嫌な予感しかしなかった。
別れを切り出されるのだろうと、僕にはもうすでに分かった。どうにか泣かずに店を出たい、それだけを考え鏡の中の自分を睨みつけた。
案の定、悠は三杯目のジンソーダを飲み終わらないうちに、言った。
「ヤマナカ、もう俺たち、会うのやめよう。俺、こっちでしばらく暮らすことにした。博士課程終わっても、ここの大学に残る。ここで働く。いつまでもズルズルしちゃって、悪かった。」
「ははは、何、改まって。僕たちヤリ友じゃん。そんな恋人みたいに別れ話なんてしないでよ。好きな人でも、できた?」
「いや。でも、ちゃんと好きになろうと思う、これから。そういう子は、いるよ。だから。」
「分かった。僕も東京からこっちまで来るの、ちょっと遠いなって思ってたんだ。ヤリ目的の旅にしてはさ、ちょっとね。東京にはそうゆうとこ、たくさんあるしね。」
悠は目を少し細めて僕をじっと見た。時々悠がする目だった。
僕の中の汚い部分を見透かすような、そんな目だった。僕は俯いた。
「うん。元気でな。あ、今日は泊まって良いよ。ホテル、取ってないでしょ。」
「いや、取ってるよ。大丈夫。悠も元気でね。その、その子とうまくいくと良いね。」
ジンソーダを一気に飲み干すと、僕はお金を置いて先に店を出た。
店を出た途端、涙が溢れた。
何がいけなかったのだろう。時々、返信は要らないと言って近況をメールしてたのが鬱陶しかったのだろうか。どこかで悠に縋ってしまっていたのだろうか。
僕は泣きながら駅まで行き、駅前の漫画喫茶で夜を過ごした。フリードリンクのピーチ味のファンタを飲んだ。あの悠の桃の香りとは似ても似つかない、人工的な桃の香りが、狭い漫画喫茶のブースの中に充満した。
僕は鍵を眺めた。
返さなきゃいけなかったのに。
どうしよう。そう思いながら、悠の部屋の青い天井を思い浮かべた。
目を瞑り、海の底に沈むようなあの感覚を、思い浮かべた。
目を開けると漫画喫茶の天井は真っ黒で、僕は真っ暗な海の底に沈む自分を思い浮かべた。悠の部屋の海と同じ海じゃない。
もっと暗くて汚い、東京の海。
自分にはこっちが似合ってた。
僕はそう思った。
真っ黒な海に人工的なきつい桃の香り。
ここが僕のいるべき場所なんだろう。
そう思った。
11
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説

素直じゃない人
うりぼう
BL
平社員×会長の孫
社会人同士
年下攻め
ある日突然異動を命じられた昭仁。
異動先は社内でも特に厳しいと言われている会長の孫である千草の補佐。
厳しいだけならまだしも、千草には『男が好き』という噂があり、次の犠牲者の昭仁も好奇の目で見られるようになる。
しかし一緒に働いてみると噂とは違う千草に昭仁は戸惑うばかり。
そんなある日、うっかりあられもない姿を千草に見られてしまった事から二人の関係が始まり……
というMLものです。
えろは少なめ。

離したくない、離して欲しくない
mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。
久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。
そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。
テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。
翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。
そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。

記憶の代償
槇村焔
BL
「あんたの乱れた姿がみたい」
ーダウト。
彼はとても、俺に似ている。だから、真実の言葉なんて口にできない。
そうわかっていたのに、俺は彼に抱かれてしまった。
だから、記憶がなくなったのは、その代償かもしれない。
昔書いていた記憶の代償の完結・リメイクバージョンです。
いつか完結させねばと思い、今回執筆しました。
こちらの作品は2020年BLOVEコンテストに応募した作品です

今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。

愛人は嫌だったので別れることにしました。
伊吹咲夜
BL
会社の先輩である健二と達哉は、先輩・後輩の間柄であり、身体の関係も持っていた。そんな健二のことを達哉は自分を愛してくれている恋人だとずっと思っていた。
しかし健二との関係は身体だけで、それ以上のことはない。疑問に思っていた日、健二が結婚したと朝礼で報告が。健二は達哉のことを愛してはいなかったのか?

キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる