救い

ken

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入院

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それから1週間した頃、玲が突然言った。

「たかし、あのね。
武田先生と相談して、明後日から入院する事にした。」
「入院?どうかしたの?」
武田先生は玲の精神科の主治医だった。
「昨日、行ったの、病院。それで、話し合って、ちょっと違う治療をしてみる事にしたの。」
「そっか。入院が必要な大変な治療なの?」
「うーん、やってみないと分からないみたい。どれだけ入院するかも。」
「お見舞いは行ける?」
「わからない。聞いてみるね。」
「玲… 淋しいな。」
「うん、ぼくも。淋しい。
でも、絶対に帰ってくるからね。」
「うん。」

玲が入院したのは閉鎖病棟ではなかったので、面会は禁止ではなかったが、治療のスケジュールに沿って制限された。
玲が入院している間、一度だけ僕は先生と話す事ができた。

「記憶の蓋が開いてしまったんでしょうか?あの辛い日々が、蘇っているんですか?」
僕が聞くと、武田先生はいつもの穏やかな口調で説明してくれた。

「玲くんの中で、何が起こっているのかは、玲くん自身もまだ分かっていません。それが余計に、彼を混乱させ怯えさせています。
恐らく、記憶が一部蘇って入るのでしょう。継続的にか、断続的にか。たぶん、ずいぶん前から、断続的には記憶が蘇っていたのでしょう。でも、玲くんはそれに必死で蓋をしてきた。見ないように、考えないように。
私は、それが、彼が時々発作的に記憶喪失になる、原因だったと考えています。人間の記憶というのは複雑なもので、好き勝手にこの記憶だけ消す、という事はできません。だから、過去を思い起こさないようにする意識が、時にバグを起こして現在の記憶まで一時的に消してしまった。
そう考えます。

仕事を辞める少し前に、玲くんは電車の中で痴漢に遭ったそうです。そして、それがきっかけで、蓋をしていた記憶がよりリアルに、漏れ出してきた。よくある事です。
玲くんの場合、低酸素脳症の程度は低かったから、記憶障害は心因的なものが大きいのです。だから、いつこういう事が起こっても、不思議ではなかった。

でもね、今回入院して治療するのは、玲くんの強い希望なんです。玲くんは、過去の記憶からもう、逃げたくないと思ったんです。酷い虐待が行われた過去に向き合うわけですから、辛い治療になる。それでも、それを分かった上で、玲くんはやる事を選んだ。

玲くんは、私に言いました。
あなたに、守られるだけの存在でいたくない。あなたを悲しませる事はもうしたくないって。
入院を決めたのも、玲くんです。治療で自分が酷く取り乱してしまったら、それをあなたには見られたくない。そう言ってました。ある程度自分で自分をコントロールできるようになってから、あなたとまた過ごしたいんだ、って。」

僕は武田先生の前である事も忘れて、泣いてしまった。
玲…
そんなにも僕の事を想ってくれていたと思うと、嬉しくて、でも切なくて、そして、どうしようもなく悔しかった。
どうして玲だけが、こんなにも痛めつけられないといけないのだろう。
直向きに、ただただ一生懸命生きているだけなのに。
玲が、何をしたというのか。
どうして…

「私はね、正直に言って、最初にあなたとあなたのご両親が玲くんの治療費を支払うと言った時、どうせ裁判の為の点数稼ぎだと思いました。あなたのお父さんのご職業というか…経営されている会社をお聞きして、金持ちが息子の経歴を守るために支払うお金としては安いものだろうと、そんな事まで思いました。
でも、あなたとご両親は誠実にあなたのした事に向き合っていた。私は、すごいなと思いました。穿った見方をした自分を恥じました。
それでも、あなたが記憶を失くした玲くんと一緒に住みたいと言った時、やっぱり少し不安でした。でも、あなたが本当に玲くんを愛しているのを見て、反対はできなかった。玲くんも、あなたの事を愛していたから。
それでも、心配でした。玲くんがもう一度あなたに、12年前と同じ事を頼んだら、あなたは断れるのか。

私は、精神科医として、いつも患者さんに生きていて欲しいと願っています。
でも、死んではダメだとは、実は一度も言ったことがありません。それは、私が口出しできる事ではないから。そこは、患者さんの尊厳だから。
だから私は、いつでも、生きていて欲しいと願う、ただそれだけです。
私は、玲くんに生きていて欲しい。あなたにも、生きていて欲しい。あなた達2人が、できるだけ幸せを感じて生きていて欲しい。そう願っています。

玲くんを信じましょう。玲くんは、私達が思っているよりずっと、強いです。」

そうだった。
玲は僕よりずっと、強かった。
玲、待ってるよ。
ずっと待ってるから。



玲は3ヶ月入院した。
3ヶ月の間、面会できたのは2度だけだった。僕たちは面会室でお茶を飲みながら、小さな声でポツリポツリと話しをした。主に、喋っているのは僕だった。
仕事の話、マンションの管理人さんが変わった話、2階に住むゴミの分別に厳しい阪垣さんが腰を痛めた話。

保健室でも、玲はあまり話さなかった。自分が話すより、僕の話を聞きたがった。面会室で心許なさそうに座る玲は、あの頃の花森君のままのようだった。

2回目の面会の時、玲がふと思い出したかのように、もうすぐ退院できるかも知れない、と言った。
相変わらず心許なさそうに座っていたけれど、ふっと表情が緩んだ。

「退院したらね、猫が飼いたいな。
子供の頃、ずっと、猫が飼いたいって思ってたんだ。それをこの前思い出した。
あのマンションって、ペットOK?」
「うん、たぶん大丈夫。エレベーターで時々犬連れてる人、いるじゃない。」
「そっか、良かった。猫、飼っても良い?」
「もちろん!早く帰って来てね。」
「うん。きっともうすぐだよ。」


その日の帰り、僕は居ても立っても居られなくて、ホームセンターに行って仔猫用のトイレを買った。トイレ用の砂も買った。ご飯と水の器も買って、それから猫じゃらしのおもちゃを幾つも買った。

ホームセンターの帰り道、車の中で僕は泣いた。泣きながら笑った。もう、おかしくなりそうだった。
玲がいなくてはダメなのは、僕だった。
玲を守っているなんて、嘘だった。
僕が玲を、必要としているのだった。


桜が散り始めた暖かな春の日に、
玲はようやく帰って来てくれた。

玲…
迎えに行った車の中で、僕は玲に抱きついて泣いた。幼児のように声を上げて、泣いた。

「玲…  淋しかった。淋しすぎて、頭がおかしくなりそうだった。」
玲は滅多に取り乱さない僕の余りの取り乱しように、少し驚いたようだったけれど、優しく背中をさすってくれた。

「大丈夫。もう大丈夫。帰ろうね。」
玲は言った。

「ごめんね、たかし。いっぱい辛い思いをさせて、ごめんね。僕を守ってくれてありがとう。僕を救ってくれて、本当にありがとう。」


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