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(32)教授、殴る

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「うがっ……!」

久須野が醜い悲鳴を上げた。
次いで、スパナが床に落ちる音が響く。
振り上げられた久須野の右手は、背後から現れた人物によって掴み取られていた。

「何してくれてんだ、テメェ」

久須野を背後から拘束したのは、神里だった。
神里は、掴んだ久須野の右手首をそのまま握り潰さんばかりに力を込める。

「あがああああああ……」

あまりの痛みに悲鳴を上げた久須野が藤本から手を離した瞬間、神里は久須野を思い切り蹴飛ばした。

「クソが。しばらく伸びとけ」

壁際にまで弾き飛ばされて倒れた久須野に、神里は冷たく言い放つ。
それから藤本の方に向き直った。

「大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます」

半身を起こして応える藤本だったが、頭を打たれているからかその目はどこかぼんやりとしていた。
彼の頭から流れている血を見て神里は更に顔を顰める。

「大丈夫じゃなさそうだな」
「うーん、そうですかね」

へらりと笑う藤本を見て、神里は小さなため息を落とした。

「ところで、どうして先生がここに?」
「ああ、色々あってな。つーか、俺が電話してもお前さんが全然出ねえから
 心配になって来てみたんだよ」
「あ、すみません。マナーモードにしてて気付きませんでした」
「やれやれ。まあ、来てみたらこのザマだったわけだ。来て良かったよ」
「すみません」
「お前さんが謝ることじゃねえよ」

少しだけ笑って神里が応えると、藤本が不安そうな顔で問いかけた。

「糸田さんは?」
「ああ、あいつなら廊下で拾った。大丈夫だ。今は医療スタッフに保護されてる」
「そうですか。なら良かった」
「人の心配よりテメェの頭の心配でもしてろ」

神里が軽く小突くと藤本はまたへらりと笑った。
それから一呼吸置いて、神里が真剣な顔つきで切り出す。

「説得は……成功したんだな」
「はい」
「そうか。よくやった」
「ただ、ちょうどその時に久須野さんがここに来まして」
「糸田を殺しに来たのか」
「はい」
「それで運悪くお前さんも巻き込まれちまったわけか」
「そのようです」
「糸田にとっては幸運だったな。
 お前さんが居なかったら確実に殺られてただろうからな」
「そうかもしれませんね。僕は僕で先生が居なかったら殺されてたでしょうけど」
「確かにそうだな。久須野の奴をもう2、3発殴っておくか」
「それは駄目ですよ。引退して久しいとはいえ先生は元ボクサーですから、
 例え相手が犯罪者でも迂闊に手を出したら──」

不意に藤本が息を呑む。
見開かれた彼の目には、久須野が映し出されていた。
神里の背後に立ち、握り締めたスパナを高々と振り上げた久須野の姿が──

次の瞬間、素早く立ち上がった神里が振り返りざまに右ストレートをぶちかました。
目にも留まらぬ速さで繰り出された拳は、見事に久須野の顔面を直撃する。

「がっ……」

悲鳴を上げる間もなく久須野はその場に倒れた。

「これは正当防衛だ」

拳を構えた姿勢のまま、神里がしたり顔で言った。

「そうだろう?」
「は、はい」

藤本もまた、顔を引き攣らせながら頷いた。
そうしている内に、バタバタと複数人の足音が近付いてくる。
やがてその足音が止まったかと思うと、病室の扉が勢いよく開かれた。

「警察だ、全員その場から動くな!」

威勢のいい声を上げて現れた宇崎だったが、その顔はすぐに唖然としたものになる。

「な、何だこれは?」

思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
ベッドの近くで頭から血を流してへたり込んでいる藤本。
その近くで仁王立ちしている神里。
その足元で白目を剥いて仰向けに倒れている久須野。
その手元に落ちている血の付いたスパナ。
異様な光景を前にして、宇崎はポカンと口を開けるばかりだった。
彼の後ろでは部下たちもザワザワとしている。

「ようやくお出ましか。遅かったじゃねえか、ぼんくら狸」
「いや、神里……何なんだ、この状況は」
「見ての通りだ」
「見てもわからんから聞いてるんだ」

苛立ちを露わにする宇崎に、神里がやれやれと肩を竦める。

「殺人未遂の現行犯を私人逮捕してやったんだよ」
「いやその……こいつ、白目剥いて気絶してるんだが」
「ああ、俺の右ストレートをまともに食らったからな」
「殴ったのか?」
「正当防衛だ」
「はあ?」
「まあ、詳しい説明は後だ。まずは医者を手配してくれ。
 久須野はさておき、うちの藤本が頭を殴られてる」
「あ、ああ……」

未だに状況を飲み込めずにいる宇崎だったが、取り敢えず部下に命じて医者を呼ぶよう指示を出した。

「立てるか?」

床にへたり込んでいた藤本に、神里がそっと手を差し伸べる。
その手を受け取る手前で、藤本がかねてからの疑問を口にした。

「あの、先生」
「どうした?」
「腰、大丈夫なんですか?」
「……」

数秒間の沈黙の後、神里の顔がみるみる険しくなる。

「うがあああああああっ!」

野太い悲鳴を上げて今度は神里がその場にへたり込む。
その額には脂汗が浮かんでいた。

「お、ま、え……! 今の今まで忘れてたのに……!」
「あ、すみません。どうしよう、もう一回忘れて下さい」
「そんなこと出来るか! ああああ、痛えええええ!!」

大人げなく喚く神里の腰を藤本が懸命にさする。
そんな中、千波が助太刀に現れた。

「先生、大丈夫ですか?」
「ちょっと大丈夫じゃないっぽいですね。
 整形外科のお医者さんのところに連れて行きます」
「でも、藤本君……」
「バカ言ってんじゃねえ。お前さんは医者の指示があるまでここを動くな」
「でも……」
「じゃあ私がお連れします」

困り顔の藤本を見兼ねて千波が手を挙げた。

「良いんですか?」
「はい。任せて下さい」
「じゃあ、お願いします」

ペコリと頭を下げる藤本に、千波はにっこりと笑って頷いた。
そうして千波に支えられながら神里はゆっくりと病室を後にした。
2人の後ろ姿を見送ったところで、ようやく気が抜けたのか藤本は深々と息をつく。
そっと目を閉じると、意識が遠のくのを感じた。
眠りに落ちる時とよく似た感覚だった。
その時、誰かに名前を呼ばれたような気がしたが、応えることは出来なかった。
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