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37 慟哭*
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暮れなずむ空に、夕陽を反射した真っ赤な雲が広がっている。
禍々しく輝くそれは、まるで夥しい量の血が空いっぱいに広がっているようで、
街全体を不気味な雰囲気で覆っていた。
何本目かの煙草に火をつけて、煙を空に漂わせる。
やがてそれも終わり、吸い殻を足で踏み潰した。
ここは10階建マンション「エリカハイツ」の屋上。
服装による印象付けは便利なもので、配送業者の格好をしていた男は
誰にも怪しまれることなくマンションの屋上まで辿り着くことができた。
大きなダンボール箱と共に。
「そろそろ時間だな」
眼下に広がる街並みを見下ろして、男は独りごちる。
そうして男──浦坂実は足元のダンボール箱に目を向けた。
「お前の親父は、ここまで辿り着けなかったみたいだな」
箱の中の楓に向かって、浦坂が皮肉っぽく嗤った。
頭から血を流して意識を失っている楓に、その声は聞こえていないようだった。
「仕方ない。死体でのご対面だな」
そう言って浦坂は箱の中の楓に手を伸ばす。
「…………」
思えば、復讐を決意したのはちょうど今から1年ぐらい前のことだっただろうか。
刑期を終えて出所したものの帰る場所の無かった浦坂は、ホームレスとなって街の影に身を潜めながらひっそりと生きていた。
なけなしの金で手に入れた薬物で自分を慰めて自堕落に過ごしていた。
ある日、浦坂はかつて自分を逮捕した刑事・藤咲康介を街で見かけた。
自分の人生を壊した男の顔は、何年経っても忘れられなかった。
そんな憎き男の傍らには、中学生ぐらいの少年が居た。息子だろうと思われた。
二人とも少し気取った格好をして高そうなレストランに入っていった。
何かの祝いなんだろうか。互いに嬉しそうに笑い合っていた。
「俺の息子も、生きていればあれぐらいの年齢だった」
「俺にはもう何も残されてないのに、
俺から人生を奪ったあいつはあんなに楽しそうに過ごしている。息子と一緒に」
そう思った時、物凄い憎悪が湧き上がった。
あの男から息子を奪い取ってめちゃくちゃにして殺してやりたいと思った。
自分が受けた苦しみのほんの一部だけでも解らせてやりたいと思った。
ついでに、自分が逮捕されるきっかけを作った証言者にも同じ思いを味あわせてやろうと思った。
それから浦坂は、違法薬物を使う側から売買する側に回った。
金を手に入れ裏社会とコネを作り、藤咲康介と河戸正憲について調べ上げた。
復讐の計画を立てて、共犯者として薬物中毒の若者を引き入れた。
計画は途中までは殆ど上手くいっていた。
まさか、一度は殺したはずのこの少年が、
あの藤咲康介によって蘇生されることで計画が狂うとは思ってなかった。
「さあ、今度こそちゃんと死なせてやろう」
浦坂が楓に手を伸ばす。
次の瞬間、その手が弾かれた。
楓が拒絶したのだ。
意識を取り戻した楓が慌てて上体を起こし、怯えた顔で浦坂を見た。
「何だ、起きたのか。そのまま寝てた方が楽だったろうに」
弱々しい拒絶などものともせずに、浦坂は更に手を伸ばす。
楓は懸命に抵抗した。
しかし、怪我をしている上に碌に力も無いのでいとも簡単に抑え込まれてしまう。
「大人しくしとけよ。どうせ後は死ぬだけなんだから」
「嫌だ、離して……離して下さい!」
腕を強く掴まれて、その痛みに顔を顰めながらも楓ははっきりと浦坂を拒絶した。
しっかりと開かれた目には、確かな意志があった。
「どうした? 生きてても辛いだけだろ? お望み通り楽にしてやるよ」
「嫌だ。死なない。死にたくない」
「今更怖気付いたか? そう怖がるな。一瞬で終わるよ。全部な」
「嫌だ。康介さんを悲しませたくない」
「あ?」
震えて泣きながら楓が口にした「康介さん」に反応して、浦坂の顔が醜く歪む。
楓は更に強い意志をその目に宿して浦坂を睨んだ。
「ずっと辛くて自分のことでいっぱいいっぱいだったけど……
でも、何度も僕を助けてくれた康介さんの想いを踏み躙りたくない。
だから、死なない。死にたくない」
「…………」
楓の言葉を聞いた浦坂は、冷徹な視線を落としたかと思うと楓の腕を更に強く掴んだ。
その痛みで楓は悲鳴を上げる。
構わずに、浦坂は楓の腕を引っ張って彼をコンクリートの地面の上に引き摺り出した。
そして、馬乗りになって頰を打つ。二度、三度。
次いで鳩尾に拳をめり込ませる。
くぐもった悲鳴と血が楓の口から吐き出された。
「黙れ、クソガキ」
苛立ちを露わにして浦坂は吐き捨てる。
その時にはもう、楓は気絶していた。
「最後だってのに手間取らせるんじゃねえ」
興奮で荒ぶった呼吸を整えて、浦坂は楓の体を横抱きにして持ち上げた。
細く小さな体は易々と持ち上げられた。
そうして浦坂は屋上の縁に立つ。
ここから飛び降りれば全て終わる。
二人の死体はぐちゃぐちゃに混ざり合って判別もつかなくなるだろう。
あの男は愛する息子の亡骸を弔ってやることも出来ないのだ。
息子のものか犯人のものかも分からない肉片を前にして嘆くことしか出来ないのだ。
「さて、いくか。ふふふ……くくく……」
狂気じみた笑みを浮かべて浦坂はその場所に立った。
そして、今まさに足を踏み出そうとした──その時だった。
「浦坂!」
背後から低く鋭い叫び声が響いた。
その声の正体を理解して、浦坂はゆっくりと振り返る。
彼の視線の先には、大量の汗をかき肩で息をする藤咲康介の姿が映った。
「よお、刑事さん。久しぶりだなあ。
まあ、あんたは俺のことなんざ覚えてもなかっただろうがな」
浦坂は嫌味っぽく笑ったが、康介の視線はひたすら楓に向けられていた。
「浦坂、楓は生きてるのか? 無事なんだろうな?」
「これが無事に見えるか?」
浦坂が腕に抱える楓の姿を見せつける。
ぐったりとしていて動かない、血にまみれたその姿を。
康介が顔を歪めてその目に強い敵愾心を宿すと、浦坂は更に口角を吊り上げた。
「ギリギリだったが間に合ったみたいだな。
じゃあ、その特等席からよく見ておけよ。自分の息子が命を落とす瞬間をな」
「頼む! やめてくれ!」
目に浦坂への怒りを宿したまま、康介はその場に手と膝を付いた。
「俺を恨んでいるのなら、俺を殺せば良いだろう? 抵抗せずに殺されてやる。
だから、その子は……楓の命は奪わないでやってくれ」
「…………」
「頼む、どうか……!」
土下座のような格好で必死に懇願する康介を、浦坂は冷たい目で見下ろした。
「分かってねえなあ」
「は?」
「お前を殺したって俺の気は晴れねえんだよ。
そんな楽に死んでもらったら困るんだよ。
生きたまま、死ぬよりも辛い思いをして苦しんでもらわねえとさ」
「それが、楓の命を奪うことだってのか」
「そうだ。俺と同じ苦しみを味わえ」
「どうか、頼む。楓の命だけは助けてくれ。
その子には、生きて、ちゃんと幸せになって欲しいんだ。どうか、どうか……」
「煩え! 俺だってそうだった!」
冷たい目で康介を見ていた浦坂の顔に、突如として激しい憤りが発露した。
「俺だって息子を愛してた。幸せになって欲しかった。俺の全てだった!
だから、不貞を働いた妻を許したんだ。
まだ幼かった翔太には母親が必要だと思ったから」
「…………」
「俺の妻を寝取り、家庭を壊した間田は死んで当然の男だった。だから殺した。
家族3人でもう一度やり直そうってところだったのに、
お前が全てをぶち壊したんだ!」
「それは……」
「俺が捕まった後、妻は息子を連れてここから飛び降りた。
全部お前のせいだ! お前のせいで俺は全てを失ったんだ!」
理不尽で歪んだ思いの丈をぶちまけて浦坂は喚いた。
そんな彼の目には涙がこぼれていた。
「だから、せめてもの復讐としてお前の息子は俺が連れて行く。
お前はせいぜい一人で苦しめ。
愛する者も怒りをぶつける相手も居なくなった世界で、一人で苦しめ!」
「楓……!」
楓を抱えたまま、浦坂が背中から宙へ舞おうとする。
もう、間に合わない。
それでも、康介は駆け出して楓に向かって懸命に手を伸ばす。
その刹那、鋭い銃声が響いた。
「なっ……⁉︎」
「うあああああああああああっ」
銃声の直後、浦坂が悲鳴を上げた。
脚を撃たれたのだ。
その衝撃で浦坂の腕から落とされた楓が地面に叩きつけられる。
駆け付けた康介がすぐに楓を引き寄せて浦坂から距離を取った。
「あ……!」
慌てて周囲を確認すると、同僚の刑事たちの姿があった。
皆が銃を構えて浦坂の様子を注視している。
康介を援護するために駆け付けていたのだ。
浦坂の脚を撃ったのはベテランの米寺刑事だった。
いつの間に潜んでいたのか、浦坂とのやり取りで必死だった康介は気付いていなかった。
「……助かった」
大きく息をついて腕の中の楓を改めて抱き締める。
頭から血を流している上に、更に殴られた痕があって痛々しい。
それでも、生きていた。
安堵すると同時に浦坂への怒りが急速に湧き上がる。
脚から血を流し痛みでのたうち回っている浦坂を、康介は強く睨みつけた。
その目には確かな殺意が浮かんでいた。
(今なら殺せる。こいつを殺せる)
意識的か無意識か、康介は右の腰にある拳銃に手を伸ばす。
(こいつを殺さないと、楓は安心して生きられない。こいつを……)
心を殺意に支配されようとしたその時、康介の手に温かい何かが添えられた。
「──!」
それは楓の手だった。
温かくて柔らかい感触で我に返った康介の目に、楓が映る。
彼は目を開けて、しっかりと康介を見つめていた。
そして、辛そうに顔を歪めて首を横に振って見せた。
「…………」
張り詰めていた殺意が溶ける。
優しい眼差しを取り戻して、康介はその右手で楓の頭を撫でた。
「大丈夫。お前を悲しませるようなことはしない」
康介の言葉を聞いて安心したように微笑み、楓は小さく息をついた。
「あああああ痛ええええええ! くそおおおおお!!」
足を撃たれた痛みでのたうち回っていた浦坂が叫んでいる。
「殺してやる、殺してやる! くそおおおおおお!」
悲鳴と悪態と、そして──
次の瞬間、更なる銃声が響き、落ち着きかけていた空気を切り裂いた。
「ぎゃっ……」
つぶれた悲鳴が、響きもせず消えた。
その方を見ると、浦坂が倒れて動かなくなっていた。
額に穴を開けて、そこから大量の血が流れ出ていた。
誰かが撃った銃弾が浦坂の頭に命中したのだ。
「っ……!」
「楓、見るな」
浦坂を見て固まっていた楓を康介が抱き寄せて、その顔を自分の胸に埋めさせた。
「お前は見なくていい」
悪人とは言え目の前で人が殺されたショックで震えている楓を、康介はしっかりと抱き締めた。
やがて意識を失った楓が、その身の全てを康介に預ける。
救急隊が到着するまでずっと、康介は楓を抱き締めてその背中をさすり続けた。
禍々しく輝くそれは、まるで夥しい量の血が空いっぱいに広がっているようで、
街全体を不気味な雰囲気で覆っていた。
何本目かの煙草に火をつけて、煙を空に漂わせる。
やがてそれも終わり、吸い殻を足で踏み潰した。
ここは10階建マンション「エリカハイツ」の屋上。
服装による印象付けは便利なもので、配送業者の格好をしていた男は
誰にも怪しまれることなくマンションの屋上まで辿り着くことができた。
大きなダンボール箱と共に。
「そろそろ時間だな」
眼下に広がる街並みを見下ろして、男は独りごちる。
そうして男──浦坂実は足元のダンボール箱に目を向けた。
「お前の親父は、ここまで辿り着けなかったみたいだな」
箱の中の楓に向かって、浦坂が皮肉っぽく嗤った。
頭から血を流して意識を失っている楓に、その声は聞こえていないようだった。
「仕方ない。死体でのご対面だな」
そう言って浦坂は箱の中の楓に手を伸ばす。
「…………」
思えば、復讐を決意したのはちょうど今から1年ぐらい前のことだっただろうか。
刑期を終えて出所したものの帰る場所の無かった浦坂は、ホームレスとなって街の影に身を潜めながらひっそりと生きていた。
なけなしの金で手に入れた薬物で自分を慰めて自堕落に過ごしていた。
ある日、浦坂はかつて自分を逮捕した刑事・藤咲康介を街で見かけた。
自分の人生を壊した男の顔は、何年経っても忘れられなかった。
そんな憎き男の傍らには、中学生ぐらいの少年が居た。息子だろうと思われた。
二人とも少し気取った格好をして高そうなレストランに入っていった。
何かの祝いなんだろうか。互いに嬉しそうに笑い合っていた。
「俺の息子も、生きていればあれぐらいの年齢だった」
「俺にはもう何も残されてないのに、
俺から人生を奪ったあいつはあんなに楽しそうに過ごしている。息子と一緒に」
そう思った時、物凄い憎悪が湧き上がった。
あの男から息子を奪い取ってめちゃくちゃにして殺してやりたいと思った。
自分が受けた苦しみのほんの一部だけでも解らせてやりたいと思った。
ついでに、自分が逮捕されるきっかけを作った証言者にも同じ思いを味あわせてやろうと思った。
それから浦坂は、違法薬物を使う側から売買する側に回った。
金を手に入れ裏社会とコネを作り、藤咲康介と河戸正憲について調べ上げた。
復讐の計画を立てて、共犯者として薬物中毒の若者を引き入れた。
計画は途中までは殆ど上手くいっていた。
まさか、一度は殺したはずのこの少年が、
あの藤咲康介によって蘇生されることで計画が狂うとは思ってなかった。
「さあ、今度こそちゃんと死なせてやろう」
浦坂が楓に手を伸ばす。
次の瞬間、その手が弾かれた。
楓が拒絶したのだ。
意識を取り戻した楓が慌てて上体を起こし、怯えた顔で浦坂を見た。
「何だ、起きたのか。そのまま寝てた方が楽だったろうに」
弱々しい拒絶などものともせずに、浦坂は更に手を伸ばす。
楓は懸命に抵抗した。
しかし、怪我をしている上に碌に力も無いのでいとも簡単に抑え込まれてしまう。
「大人しくしとけよ。どうせ後は死ぬだけなんだから」
「嫌だ、離して……離して下さい!」
腕を強く掴まれて、その痛みに顔を顰めながらも楓ははっきりと浦坂を拒絶した。
しっかりと開かれた目には、確かな意志があった。
「どうした? 生きてても辛いだけだろ? お望み通り楽にしてやるよ」
「嫌だ。死なない。死にたくない」
「今更怖気付いたか? そう怖がるな。一瞬で終わるよ。全部な」
「嫌だ。康介さんを悲しませたくない」
「あ?」
震えて泣きながら楓が口にした「康介さん」に反応して、浦坂の顔が醜く歪む。
楓は更に強い意志をその目に宿して浦坂を睨んだ。
「ずっと辛くて自分のことでいっぱいいっぱいだったけど……
でも、何度も僕を助けてくれた康介さんの想いを踏み躙りたくない。
だから、死なない。死にたくない」
「…………」
楓の言葉を聞いた浦坂は、冷徹な視線を落としたかと思うと楓の腕を更に強く掴んだ。
その痛みで楓は悲鳴を上げる。
構わずに、浦坂は楓の腕を引っ張って彼をコンクリートの地面の上に引き摺り出した。
そして、馬乗りになって頰を打つ。二度、三度。
次いで鳩尾に拳をめり込ませる。
くぐもった悲鳴と血が楓の口から吐き出された。
「黙れ、クソガキ」
苛立ちを露わにして浦坂は吐き捨てる。
その時にはもう、楓は気絶していた。
「最後だってのに手間取らせるんじゃねえ」
興奮で荒ぶった呼吸を整えて、浦坂は楓の体を横抱きにして持ち上げた。
細く小さな体は易々と持ち上げられた。
そうして浦坂は屋上の縁に立つ。
ここから飛び降りれば全て終わる。
二人の死体はぐちゃぐちゃに混ざり合って判別もつかなくなるだろう。
あの男は愛する息子の亡骸を弔ってやることも出来ないのだ。
息子のものか犯人のものかも分からない肉片を前にして嘆くことしか出来ないのだ。
「さて、いくか。ふふふ……くくく……」
狂気じみた笑みを浮かべて浦坂はその場所に立った。
そして、今まさに足を踏み出そうとした──その時だった。
「浦坂!」
背後から低く鋭い叫び声が響いた。
その声の正体を理解して、浦坂はゆっくりと振り返る。
彼の視線の先には、大量の汗をかき肩で息をする藤咲康介の姿が映った。
「よお、刑事さん。久しぶりだなあ。
まあ、あんたは俺のことなんざ覚えてもなかっただろうがな」
浦坂は嫌味っぽく笑ったが、康介の視線はひたすら楓に向けられていた。
「浦坂、楓は生きてるのか? 無事なんだろうな?」
「これが無事に見えるか?」
浦坂が腕に抱える楓の姿を見せつける。
ぐったりとしていて動かない、血にまみれたその姿を。
康介が顔を歪めてその目に強い敵愾心を宿すと、浦坂は更に口角を吊り上げた。
「ギリギリだったが間に合ったみたいだな。
じゃあ、その特等席からよく見ておけよ。自分の息子が命を落とす瞬間をな」
「頼む! やめてくれ!」
目に浦坂への怒りを宿したまま、康介はその場に手と膝を付いた。
「俺を恨んでいるのなら、俺を殺せば良いだろう? 抵抗せずに殺されてやる。
だから、その子は……楓の命は奪わないでやってくれ」
「…………」
「頼む、どうか……!」
土下座のような格好で必死に懇願する康介を、浦坂は冷たい目で見下ろした。
「分かってねえなあ」
「は?」
「お前を殺したって俺の気は晴れねえんだよ。
そんな楽に死んでもらったら困るんだよ。
生きたまま、死ぬよりも辛い思いをして苦しんでもらわねえとさ」
「それが、楓の命を奪うことだってのか」
「そうだ。俺と同じ苦しみを味わえ」
「どうか、頼む。楓の命だけは助けてくれ。
その子には、生きて、ちゃんと幸せになって欲しいんだ。どうか、どうか……」
「煩え! 俺だってそうだった!」
冷たい目で康介を見ていた浦坂の顔に、突如として激しい憤りが発露した。
「俺だって息子を愛してた。幸せになって欲しかった。俺の全てだった!
だから、不貞を働いた妻を許したんだ。
まだ幼かった翔太には母親が必要だと思ったから」
「…………」
「俺の妻を寝取り、家庭を壊した間田は死んで当然の男だった。だから殺した。
家族3人でもう一度やり直そうってところだったのに、
お前が全てをぶち壊したんだ!」
「それは……」
「俺が捕まった後、妻は息子を連れてここから飛び降りた。
全部お前のせいだ! お前のせいで俺は全てを失ったんだ!」
理不尽で歪んだ思いの丈をぶちまけて浦坂は喚いた。
そんな彼の目には涙がこぼれていた。
「だから、せめてもの復讐としてお前の息子は俺が連れて行く。
お前はせいぜい一人で苦しめ。
愛する者も怒りをぶつける相手も居なくなった世界で、一人で苦しめ!」
「楓……!」
楓を抱えたまま、浦坂が背中から宙へ舞おうとする。
もう、間に合わない。
それでも、康介は駆け出して楓に向かって懸命に手を伸ばす。
その刹那、鋭い銃声が響いた。
「なっ……⁉︎」
「うあああああああああああっ」
銃声の直後、浦坂が悲鳴を上げた。
脚を撃たれたのだ。
その衝撃で浦坂の腕から落とされた楓が地面に叩きつけられる。
駆け付けた康介がすぐに楓を引き寄せて浦坂から距離を取った。
「あ……!」
慌てて周囲を確認すると、同僚の刑事たちの姿があった。
皆が銃を構えて浦坂の様子を注視している。
康介を援護するために駆け付けていたのだ。
浦坂の脚を撃ったのはベテランの米寺刑事だった。
いつの間に潜んでいたのか、浦坂とのやり取りで必死だった康介は気付いていなかった。
「……助かった」
大きく息をついて腕の中の楓を改めて抱き締める。
頭から血を流している上に、更に殴られた痕があって痛々しい。
それでも、生きていた。
安堵すると同時に浦坂への怒りが急速に湧き上がる。
脚から血を流し痛みでのたうち回っている浦坂を、康介は強く睨みつけた。
その目には確かな殺意が浮かんでいた。
(今なら殺せる。こいつを殺せる)
意識的か無意識か、康介は右の腰にある拳銃に手を伸ばす。
(こいつを殺さないと、楓は安心して生きられない。こいつを……)
心を殺意に支配されようとしたその時、康介の手に温かい何かが添えられた。
「──!」
それは楓の手だった。
温かくて柔らかい感触で我に返った康介の目に、楓が映る。
彼は目を開けて、しっかりと康介を見つめていた。
そして、辛そうに顔を歪めて首を横に振って見せた。
「…………」
張り詰めていた殺意が溶ける。
優しい眼差しを取り戻して、康介はその右手で楓の頭を撫でた。
「大丈夫。お前を悲しませるようなことはしない」
康介の言葉を聞いて安心したように微笑み、楓は小さく息をついた。
「あああああ痛ええええええ! くそおおおおお!!」
足を撃たれた痛みでのたうち回っていた浦坂が叫んでいる。
「殺してやる、殺してやる! くそおおおおおお!」
悲鳴と悪態と、そして──
次の瞬間、更なる銃声が響き、落ち着きかけていた空気を切り裂いた。
「ぎゃっ……」
つぶれた悲鳴が、響きもせず消えた。
その方を見ると、浦坂が倒れて動かなくなっていた。
額に穴を開けて、そこから大量の血が流れ出ていた。
誰かが撃った銃弾が浦坂の頭に命中したのだ。
「っ……!」
「楓、見るな」
浦坂を見て固まっていた楓を康介が抱き寄せて、その顔を自分の胸に埋めさせた。
「お前は見なくていい」
悪人とは言え目の前で人が殺されたショックで震えている楓を、康介はしっかりと抱き締めた。
やがて意識を失った楓が、その身の全てを康介に預ける。
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