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9 失われた記憶①
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藤咲康介が花宮桜と出会ったのは11年前の春の頃。
きっかけは、変質者に誘拐された幼い男の子・花宮楓を康介が保護したことだった。
当時、康介は交番勤務の制服警官だった。
その交番に、楓の母親として現れたのが桜子だった。
康介より2つ年下の、若く美しい女性だった。
こうして、康介は楓を通して桜に出会った。
初めて会った時から、何となくお互いに好意を持っていたような気がしていた。
その後、康介は桜がシングルマザーで夜職に就いていることを知った。
幼い楓が夜中に一人で居ることを心配した康介は、
頻繁に桜たちが住むマンションを訪れるようになった。
桜は快く康介を受け入れた。
康介は、可能な限り母親の代わりに楓と一緒に過ごすようにしていた。
父親がいないこともあってか、楓はすぐに康介に懐いた。
母親の影響なのか、いつも朗らかに笑う子だった。
屈託の無い、愛らしい笑顔だった。
そうやって過ごして半年も経つ頃には、康介と桜は半同棲の恋人のような関係になっていた。
いや……康介と桜と楓との間に、家族同然の感情が生まれていた。
そう遠くない内に、本当の家族になれると……そう思っていた。
「…………」
優しい光に導かれるようにして、康介は目を覚ます。
何か夢を見ていたはずだが思い出せない。
思い出せないが、胸の奥に懐かしい心地が残っていた。
「楓?」
頬に当たる温かい感触に気付き、康介は顔を上げる。
見れば、楓が少し戸惑ったような顔でこちらを見ていた。
康介の頬に触れていたのは楓の指先だった。
「あ、ごめん。起こしちゃった」
康介に向けて伸ばしていた手を引っ込めて、楓は申し訳なさそうに目を伏せる。
「楓、俺が分かるのか?」
「え? 康介さんだよね」
「……そうか。分かるんだな」
「康介さん?」
不思議そうに戸惑う楓をそのまま、康介は強く抱き締める。
嬉しくてたまらなかった。
楓が目を覚まして、彼とまともに会話をすることができて。
心の底から嬉しかった。
「良かった。良かったよ。本当に」
「…………」
楓は未だに戸惑いを隠せずにいたが、康介の声が震えていたので何かを察してそのまま受け入れた。だが……
「い……た……」
「ああ、悪い。傷に障っちまったか」
全身が傷だらけの今の楓には、康介の強い力に長くは耐えられなかった。
楓が痛そうに身を捩ったので、康介も慌てて腕から彼を解放する。
それから、丁寧にベッドに横たわらせた。
「どうしちゃったんだろう。僕、事故にでも遭ったのかな」
「……覚えてないのか?」
康介が問うと、楓は小さく頷く。
その顔は本当に何も知らないと言いたげで、
無理に覚えていないフリをしているようには見えなかった。
「授業が終わって学校を出て、それから──」
何かを思い出そうとして、楓は辛そうに顔を顰めた。
思わず手で頭を押さえる。
更にその上から、康介が手を置いた。
「良いんだ。無理に思い出さなくて良い」
「でも……」
「お前はある事件に巻き込まれたんだ。体の怪我はその為だ」
「事件?」
「ああ。でも、後のことは全部、警察が処理することだから。
お前は何も気にしないで、自分の体を治すことだけを考えていれば良い」
「…………」
精神的なショックからくる記憶障害か、心肺停止による後遺症か。
とにかく、楓が事件について覚えていないことを、康介は幸いに思った。
辛い記憶を思い出さないで済むのなら、それに越したことはない。
それで、楓の心が守られるのなら。
「ごめんね、迷惑かけて」
「何で謝るんだよ。お前は何も悪くない。ただの被害者だぞ」
「でも、康介さん……すごく疲れてる顔してるから」
「え?」
疲れていないと言えば嘘になる。
康介だって、楓が目を覚ますまでずっと神経を削られ続けてきたのだから。
「そりゃあ、まあ……な」
少し困ったように目を逸らす。
それから、康介は改めて楓の手を握り、しっかりとその目を見た。
「迷惑だなんて思ってない。でも、心配はした。
楓が、ちゃんと目を覚ましてくれるかどうか不安だった」
「うん、ごめん」
「だから謝るなって。それにな、迷惑をかけてしまったのは俺の方だ」
「え?」
「お前が事件に巻き込まれたのは、俺が刑事だったからなんだ。
いわば俺のせいだ。楓は無関係なのに、迷惑をかけてすまなかった」
「そんな……! 康介さんは何も悪くないし、僕は迷惑だなんて思ってないよ」
「そうか。じゃあ、おあいこだな」
康介の言葉を受けて、楓は小さく頷いた。
それを見て、康介はにっこりと笑い握っていた手をそっと離す。
離したその手で、よしよしと楓の頭を撫でてやった。
「さてと、もう昼の1時か。久しぶりにまともに腹が減ったな。
何か買ってこようかな。あ、そうだ」
「?」
「昨日だったかな。冷蔵庫に残ってた卵焼き、食っちまった」
「ああ、うん。全然いいけど」
「温めるのが面倒でさ。そのまま食ったんだけど……
冷えてても美味いんだから、やっぱり楓の卵焼きは世界一だよな」
「そ、そう?」
「でも、やっぱり出来たての熱々が最高だから、
早く元気になって俺に食べさせてくれ。な?」
「……うん」
「よし、良い子だ」
楓が微笑んで頷くと、康介は殊更嬉しそうに笑った。
もう一度、よしよしと楓の頭を撫でてやる。
それから、康介は勢いよく椅子から立ち上がった。
「さてと、下の売店で何か食い物でも買ってこようと思うんだが、
楓は何か欲しいものはあるか?」
「あ、ごめん。せっかくだけど、今はちょっと……」
「そうか。まあ、そうだよな。
ずっと点滴を受けてるし、医者の指示も必要だろうし。仕方ないよな」
残念そうに小さくため息をついた時、不意に電話の呼び出し音が鳴った。
康介の携帯端末だった。
「あ、ちょっとごめん」
電話に出ると、木野井係長からだった。
どうやら過去に提出した書類に不備があったらしく、
署まで来て訂正するように、とのことだった。
楓のそばに付いていたいので後日にしてほしいと言ったが、
どうしても今日中に必要らしい。
電話を終えると、康介はやれやれと大きくため息をついた。
「仕事の電話?」
「ああ。ちょっとな」
「僕は大丈夫だから、行ってきて良いよ」
「本当に大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、すぐに終わらせて戻ってくるから」
「うん、待ってるね」
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
お互いに手を振り合って別れる。
これも、いつも仕事に出かける時、自宅で行われていた“当たり前”の挨拶だった。
少しずつ日常が戻ってきているような気がして、康介は嬉しさを噛み締めるように口角を上げた。
きっかけは、変質者に誘拐された幼い男の子・花宮楓を康介が保護したことだった。
当時、康介は交番勤務の制服警官だった。
その交番に、楓の母親として現れたのが桜子だった。
康介より2つ年下の、若く美しい女性だった。
こうして、康介は楓を通して桜に出会った。
初めて会った時から、何となくお互いに好意を持っていたような気がしていた。
その後、康介は桜がシングルマザーで夜職に就いていることを知った。
幼い楓が夜中に一人で居ることを心配した康介は、
頻繁に桜たちが住むマンションを訪れるようになった。
桜は快く康介を受け入れた。
康介は、可能な限り母親の代わりに楓と一緒に過ごすようにしていた。
父親がいないこともあってか、楓はすぐに康介に懐いた。
母親の影響なのか、いつも朗らかに笑う子だった。
屈託の無い、愛らしい笑顔だった。
そうやって過ごして半年も経つ頃には、康介と桜は半同棲の恋人のような関係になっていた。
いや……康介と桜と楓との間に、家族同然の感情が生まれていた。
そう遠くない内に、本当の家族になれると……そう思っていた。
「…………」
優しい光に導かれるようにして、康介は目を覚ます。
何か夢を見ていたはずだが思い出せない。
思い出せないが、胸の奥に懐かしい心地が残っていた。
「楓?」
頬に当たる温かい感触に気付き、康介は顔を上げる。
見れば、楓が少し戸惑ったような顔でこちらを見ていた。
康介の頬に触れていたのは楓の指先だった。
「あ、ごめん。起こしちゃった」
康介に向けて伸ばしていた手を引っ込めて、楓は申し訳なさそうに目を伏せる。
「楓、俺が分かるのか?」
「え? 康介さんだよね」
「……そうか。分かるんだな」
「康介さん?」
不思議そうに戸惑う楓をそのまま、康介は強く抱き締める。
嬉しくてたまらなかった。
楓が目を覚まして、彼とまともに会話をすることができて。
心の底から嬉しかった。
「良かった。良かったよ。本当に」
「…………」
楓は未だに戸惑いを隠せずにいたが、康介の声が震えていたので何かを察してそのまま受け入れた。だが……
「い……た……」
「ああ、悪い。傷に障っちまったか」
全身が傷だらけの今の楓には、康介の強い力に長くは耐えられなかった。
楓が痛そうに身を捩ったので、康介も慌てて腕から彼を解放する。
それから、丁寧にベッドに横たわらせた。
「どうしちゃったんだろう。僕、事故にでも遭ったのかな」
「……覚えてないのか?」
康介が問うと、楓は小さく頷く。
その顔は本当に何も知らないと言いたげで、
無理に覚えていないフリをしているようには見えなかった。
「授業が終わって学校を出て、それから──」
何かを思い出そうとして、楓は辛そうに顔を顰めた。
思わず手で頭を押さえる。
更にその上から、康介が手を置いた。
「良いんだ。無理に思い出さなくて良い」
「でも……」
「お前はある事件に巻き込まれたんだ。体の怪我はその為だ」
「事件?」
「ああ。でも、後のことは全部、警察が処理することだから。
お前は何も気にしないで、自分の体を治すことだけを考えていれば良い」
「…………」
精神的なショックからくる記憶障害か、心肺停止による後遺症か。
とにかく、楓が事件について覚えていないことを、康介は幸いに思った。
辛い記憶を思い出さないで済むのなら、それに越したことはない。
それで、楓の心が守られるのなら。
「ごめんね、迷惑かけて」
「何で謝るんだよ。お前は何も悪くない。ただの被害者だぞ」
「でも、康介さん……すごく疲れてる顔してるから」
「え?」
疲れていないと言えば嘘になる。
康介だって、楓が目を覚ますまでずっと神経を削られ続けてきたのだから。
「そりゃあ、まあ……な」
少し困ったように目を逸らす。
それから、康介は改めて楓の手を握り、しっかりとその目を見た。
「迷惑だなんて思ってない。でも、心配はした。
楓が、ちゃんと目を覚ましてくれるかどうか不安だった」
「うん、ごめん」
「だから謝るなって。それにな、迷惑をかけてしまったのは俺の方だ」
「え?」
「お前が事件に巻き込まれたのは、俺が刑事だったからなんだ。
いわば俺のせいだ。楓は無関係なのに、迷惑をかけてすまなかった」
「そんな……! 康介さんは何も悪くないし、僕は迷惑だなんて思ってないよ」
「そうか。じゃあ、おあいこだな」
康介の言葉を受けて、楓は小さく頷いた。
それを見て、康介はにっこりと笑い握っていた手をそっと離す。
離したその手で、よしよしと楓の頭を撫でてやった。
「さてと、もう昼の1時か。久しぶりにまともに腹が減ったな。
何か買ってこようかな。あ、そうだ」
「?」
「昨日だったかな。冷蔵庫に残ってた卵焼き、食っちまった」
「ああ、うん。全然いいけど」
「温めるのが面倒でさ。そのまま食ったんだけど……
冷えてても美味いんだから、やっぱり楓の卵焼きは世界一だよな」
「そ、そう?」
「でも、やっぱり出来たての熱々が最高だから、
早く元気になって俺に食べさせてくれ。な?」
「……うん」
「よし、良い子だ」
楓が微笑んで頷くと、康介は殊更嬉しそうに笑った。
もう一度、よしよしと楓の頭を撫でてやる。
それから、康介は勢いよく椅子から立ち上がった。
「さてと、下の売店で何か食い物でも買ってこようと思うんだが、
楓は何か欲しいものはあるか?」
「あ、ごめん。せっかくだけど、今はちょっと……」
「そうか。まあ、そうだよな。
ずっと点滴を受けてるし、医者の指示も必要だろうし。仕方ないよな」
残念そうに小さくため息をついた時、不意に電話の呼び出し音が鳴った。
康介の携帯端末だった。
「あ、ちょっとごめん」
電話に出ると、木野井係長からだった。
どうやら過去に提出した書類に不備があったらしく、
署まで来て訂正するように、とのことだった。
楓のそばに付いていたいので後日にしてほしいと言ったが、
どうしても今日中に必要らしい。
電話を終えると、康介はやれやれと大きくため息をついた。
「仕事の電話?」
「ああ。ちょっとな」
「僕は大丈夫だから、行ってきて良いよ」
「本当に大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、すぐに終わらせて戻ってくるから」
「うん、待ってるね」
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
お互いに手を振り合って別れる。
これも、いつも仕事に出かける時、自宅で行われていた“当たり前”の挨拶だった。
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