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30、悪夢
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真っ暗な空間の中、激しい雨が降っている。
ここがどこなのか分からない。
困惑していたが、目の前に現れたその人を見て不安は影を潜める。
「康介さん」
楓は彼に声を掛けた。
後ろ姿だったが、見間違うはずがなかった。
彼なら、自分の声に気付いてすぐに振り返ってくれる。
そう思っていた。
「康介さん?」
だが、彼は楓に背を向けたまま振り返ってくれなかった。
もう一度、少し強めに呼びかけてみるが、それでも反応は返ってこなかった。
「ねえ、康介さん」
──お願い、こっちを向いて。
──いつものように笑って。
「…………」
どんなに呼びかけても康介は振り返ってくれない。
それどころか、楓を置いて前へ進んで行く。
追いかけようとしたが、足がすくんで動けなかった。
そうしている間にも、康介の背中はどんどん遠ざかっていく。
無理やり体を動かそうとしたが、その場に倒れて蹲るだけだった。
やがて闇色の雨の中に消えていく、康介の後ろ姿。
悲しくて恐ろしくて涙が止まらなかった。
「待って、置いていかないで」
「良い子にしてるから」
「何でもいうこと聞くから」
「迷惑をかけないようにするから」
「役に立つ人間になるから……」
──お願い、どうか捨てないで──
声にならない叫びは相手に届くことなく、暗闇の中で降り注ぐ雨音だけが響き続けた。
「楓?」
強い力で揺さぶられて、楓は大きく目を見開いた。
耳に響く雨音、白い壁、見知らぬ部屋、それに……
「康介さん?」
見れば、康介の顔がすぐ側にある。
病室のベッドの上で彼に抱き起こされている格好だった。
なぜか康介は今にも泣き出しそうな顔をしていたが、実際に涙に濡れていたのは自分の目元だった。
「ああ、良かった。やっと応えてくれた」
険しく歪んでいた康介の顔から力が抜けた。
表情を緩ませて、大きく息をつく。
それから康介は、楓の目元の涙をハンカチで拭った。
されるがままになりながら、楓は不思議そうに首を傾げる。
「どういうこと?」
「目が覚めたらさ、楓か泣いてたんだよ」
「僕が?」
「ああ。ぼんやりと目を開けて、ただ涙を流してた」
「え……」
思いもよらない事実を聞かされて楓は目を見開く。
「いくら呼びかけても揺さぶっても反応してくれなくてさ。
とうとう精神が擦り切れて、楓がどこかに行ってしまったのかと思った」
俯き加減になり、康介は声を震わせる。
が、次に顔を上げた時には優しい微笑みを浮かべていた。
「でも良かった。ちゃんと戻ってきてくれた」
よしよし、と楓の頭を撫でる。
すると楓はぶわっと涙を溢れさせて、康介に縋り付いた。
彼の服の裾を掴み、そこに顔を埋めて泣き出す。
少し戸惑いつつも、康介は快く受け入れて楓を抱き締めた。
温かい腕の中で、楓は幼い子供のように泣きじゃくった。
「どうした? 怖い夢でも見てたのか?」
「……うん」
「そっか。怖い思いをしたもんな」
康介に捨てられる……それは、これまで見たどんな悪夢よりも恐ろしいものだった。
「でも、大丈夫。全ては悪い夢だ。お前は助かった。これが事実だ」
「うん」
「よしよし、気が済むまで泣いて良いからな」
「うん、ありがとう」
安心して泣けるようにと、康介はひたすら楓を抱き締めて優しく背中をさすった。
その時、ふと気付く。楓の首筋にある、異様な熱。
それは昨日、中岡によって噛みつかれた場所だった。
今は白いガーゼに覆われているが、確かな熱がそこにあった。
「──!」
途端に、康介の脳裏に悍ましい光景が甦る。
中岡が楓を貪っていた、あの光景が。
怒りが湧き上がり、気がおかしくなる──が、漏れ聞こえる楓の嗚咽が康介を正気に戻した。
「よしよし、大丈夫。大丈夫だから」
自分に言い聞かせるようにして、康介は「大丈夫」を繰り返した。
より強い力で楓を抱き締めながら。
白い病室には、強い雨音がただただ響いていた。
ここがどこなのか分からない。
困惑していたが、目の前に現れたその人を見て不安は影を潜める。
「康介さん」
楓は彼に声を掛けた。
後ろ姿だったが、見間違うはずがなかった。
彼なら、自分の声に気付いてすぐに振り返ってくれる。
そう思っていた。
「康介さん?」
だが、彼は楓に背を向けたまま振り返ってくれなかった。
もう一度、少し強めに呼びかけてみるが、それでも反応は返ってこなかった。
「ねえ、康介さん」
──お願い、こっちを向いて。
──いつものように笑って。
「…………」
どんなに呼びかけても康介は振り返ってくれない。
それどころか、楓を置いて前へ進んで行く。
追いかけようとしたが、足がすくんで動けなかった。
そうしている間にも、康介の背中はどんどん遠ざかっていく。
無理やり体を動かそうとしたが、その場に倒れて蹲るだけだった。
やがて闇色の雨の中に消えていく、康介の後ろ姿。
悲しくて恐ろしくて涙が止まらなかった。
「待って、置いていかないで」
「良い子にしてるから」
「何でもいうこと聞くから」
「迷惑をかけないようにするから」
「役に立つ人間になるから……」
──お願い、どうか捨てないで──
声にならない叫びは相手に届くことなく、暗闇の中で降り注ぐ雨音だけが響き続けた。
「楓?」
強い力で揺さぶられて、楓は大きく目を見開いた。
耳に響く雨音、白い壁、見知らぬ部屋、それに……
「康介さん?」
見れば、康介の顔がすぐ側にある。
病室のベッドの上で彼に抱き起こされている格好だった。
なぜか康介は今にも泣き出しそうな顔をしていたが、実際に涙に濡れていたのは自分の目元だった。
「ああ、良かった。やっと応えてくれた」
険しく歪んでいた康介の顔から力が抜けた。
表情を緩ませて、大きく息をつく。
それから康介は、楓の目元の涙をハンカチで拭った。
されるがままになりながら、楓は不思議そうに首を傾げる。
「どういうこと?」
「目が覚めたらさ、楓か泣いてたんだよ」
「僕が?」
「ああ。ぼんやりと目を開けて、ただ涙を流してた」
「え……」
思いもよらない事実を聞かされて楓は目を見開く。
「いくら呼びかけても揺さぶっても反応してくれなくてさ。
とうとう精神が擦り切れて、楓がどこかに行ってしまったのかと思った」
俯き加減になり、康介は声を震わせる。
が、次に顔を上げた時には優しい微笑みを浮かべていた。
「でも良かった。ちゃんと戻ってきてくれた」
よしよし、と楓の頭を撫でる。
すると楓はぶわっと涙を溢れさせて、康介に縋り付いた。
彼の服の裾を掴み、そこに顔を埋めて泣き出す。
少し戸惑いつつも、康介は快く受け入れて楓を抱き締めた。
温かい腕の中で、楓は幼い子供のように泣きじゃくった。
「どうした? 怖い夢でも見てたのか?」
「……うん」
「そっか。怖い思いをしたもんな」
康介に捨てられる……それは、これまで見たどんな悪夢よりも恐ろしいものだった。
「でも、大丈夫。全ては悪い夢だ。お前は助かった。これが事実だ」
「うん」
「よしよし、気が済むまで泣いて良いからな」
「うん、ありがとう」
安心して泣けるようにと、康介はひたすら楓を抱き締めて優しく背中をさすった。
その時、ふと気付く。楓の首筋にある、異様な熱。
それは昨日、中岡によって噛みつかれた場所だった。
今は白いガーゼに覆われているが、確かな熱がそこにあった。
「──!」
途端に、康介の脳裏に悍ましい光景が甦る。
中岡が楓を貪っていた、あの光景が。
怒りが湧き上がり、気がおかしくなる──が、漏れ聞こえる楓の嗚咽が康介を正気に戻した。
「よしよし、大丈夫。大丈夫だから」
自分に言い聞かせるようにして、康介は「大丈夫」を繰り返した。
より強い力で楓を抱き締めながら。
白い病室には、強い雨音がただただ響いていた。
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