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20、良い子

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「…………」

また少し息が上がってきた。
目を閉じて服の上からお守りの指輪を握り締める。
やがて落ち着きを取り戻し、楓はそっと目を開けた。
すると、眼前に中岡が迫っていたので思わず小さな悲鳴を上げてしまう。

「ひっ……」
「ああ、すまない。辛そうだったから」
「い、いえ。こちらこそ、すみません」

視聴覚室にて、今日も楓は補習を受けていた。
昨日のことを引き摺っているのか、今日は途中で息が上がったり動悸が収まらなかったりすることが何度もあった。
苦しくなる度に首に掛けている指輪を握り締めて耐えていたのだが……

「酷い顔色だな」

楓の頰に手を当てて、中岡が険しい顔をする。

「さっきから細かい計算ミスが多い。集中できてないようだ」
「すみません」
「謝らなくていい。昨日のこともあるし、仕方ない」
「う……」

しゅんとして項垂れる楓を慰めるように、中岡がその肩に手を置く。
ビクリと楓はその肩を震わせた。
中岡には申し訳ないのだが、他人に触れられることへの嫌悪感が今は異常に強くなっているのだ。

「補習については、今日はもう良いだろう」
「はい。すみません」
「それより、君と少し話がしたい」
「は、話ですか?」
「昨日のことで、ちょっと気になったことがあってな」
「え……」

ギクリと心臓が揺れる。
落ち着きかけていた呼吸と動悸が、再び忙しなくなる。

「その……昨日、あの男に襲われた時の君の反応なんだが」
「う……」
「あの怯え方は尋常じゃなかった。
 暴力を振るわれて恐ろしい思いをするのは分かる。
 しかし、あれは重いトラウマを抱えた人間の反応だ。違うか?」
「は、はい。その通り、です」
「少し前に君が事件に巻き込まれて酷い暴力を受けたと聞いていたからね。
 それだと思った。しかし、もう一つ気になる点があってな」

ずいと中岡が詰め寄る。
険しい顔つきからか睨まれているような気になり、楓は思わず目を逸らした。
そんな彼の顔を両手で掴み、中岡は強引に楓を前に向かせる。

「せ、せんせ……」

楓は、既に目に見えて上手く呼吸が出来なくなっていた。
脂汗を流しながら、必死に酸素を求める。
目に涙が溜まりゆく。
服の上から握り締める指輪の感触が、かろうじて彼の正気を維持させていた。

「君が受けた暴力とは、本当にただの暴力だったか?」
「それは……」
「違うな。違うよな」

中岡が楓の顔から手を離す。
それから、怯えて震える楓の肩に手を置いた。

「私も長年教師をやっている身だ。君のあの反応には覚えがある」
「や、やめ……やめて下さい」
「君が受けた暴力は──」
「お願いだから、それ以上言わないで」

ここから逃げ出したい気持ちでいっぱいになり、楓は椅子から立ちあがろうとした。
が、思うように体が動かずその場に崩れ落ちる。

「藤咲!」
「ひっ……」

蹲る楓を中岡が抱き締める。
体を硬直させて、楓は悲鳴を上げた。

「君は、性的暴行を受けたんだな」
「や、やめて! やめて! お願い、やめて……!」

目一杯に溜めていた涙がボロボロと零れ落ちる。
震える両手で顔を覆い、声にならない悲鳴を上げる。錯乱していた。
過去に受けた暴力の記憶がぐちゃぐちゃになって、内側に渦巻いているのだ。
そんな楓を宥めるように、中岡が背中をさする。

「大丈夫だ。誰にも言わない。絶対に言わない」
「やめて、やめて……」
「もう誰にも君を傷付けさせたりなんかしない。私は君を守りたいんだ。信じてくれ」

中岡がより強い力で楓を抱き締める。

(やめてやめてやめてやめてやめてやめて……!)

緊張と恐怖が限界を超えた瞬間、楓は気を失った。
顔を覆っていた手がダラリと落ちる。
そして電池が切れたように動かなくなった。

「大人しくなったか」

意識の無い楓を腕の中に抱えながら、中岡はその髪を撫でた。

「良い子だ。ああ、良い子だなあ」

じっくりと慈しむように、その感触を味わう。
中岡の口角が、ゆっくりと吊り上がっていった。

楓の鞄の中で電話の呼び出し音が鳴っている。
しかし、それは誰にも気付かれないまま虚しく響くだけだった。
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