アッチの話!

初田ハツ

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安全と衛生に気をつける の巻

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※トリガー警告
作中の展開として、同性愛者差別の描写、女性差別に関する描写、ヘイトスピーチ、ヘイトクライムに関する描写があります。


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「……揃ったね」
ベッドの上に並べた品々を見て、大地がごくりと唾を飲み込む。
「とうとうこの時が来たんだね……」
冬人も応えて、深く頷いた。

「今日はずいぶん大所帯なんですね」
伴に言われて、五人は「あ……」と顔を見合わせた。慌てすぎて、何も考えず反射的にみんなで来てしまった。映見が照れ笑いしながら答える。
「他学科の友達なんですけど、心配して一緒に来てくれたんです」
学科事務室から映見のもとに電話がかかってきたのは、五限の後、いつもの五人でカフェテリアに集まっていた時だった。今日は機工科の実習授業が長引いて昼休みには会えなかったけれど、昨日のことがみんな気になって、授業後に待ち合わせたのだ。
映見にかけてきた電話口の相手は伴だった。呼び出されたのは国際学部棟のグロ科フロアにある小教室。
「大丈夫なら、友達も一緒に話を聞いてもらっていいですよ」
学科長の斉木教授は科内でもベテランのはずだけれど、五十代くらいに見える。白のトップスに、春らしい色のマーブル柄のストールをゆるく巻いている。
「私は大丈夫ですが……」
映見が目をやると、斉木も先に来ていた二人の女子に視線を向ける。
「あっはい、いいです」
「大丈夫です」
二人が口々に答えるのを確認して、斉木は映見たちに座るよう促した。コの字型に組まれたキャスター付きの長机の片側に、五人並んで座る。一応名前だけでも自己紹介しますか、という斉木の提案で、それぞれ名前と、ついでに学科と学年も名乗る。普通なら国際学部とは縁遠そうな工学部機工科と名乗った三人に、相手方は少し驚いた顔をしていた。
「昨日学科からの声明文を出したところ、この二人が話しに来てくれたんです」
伴が説明する。斉木が二人に振る。
「伴くんがすでに聞いてくれたそうだけれど、もう一度二人から話してくれる?」
二人はお互いの顔をちらりと窺った。
「同じゼミの男子たちなんですけど……」
話し出したのは手前に座っている、パンク系っぽい服装の女性だった。グロ科の三年生で、名前は「天野」と言っていた。
「先週、グループ発表の準備中に雑談で、一年のレズがどうのって……ちょっと、陰口みたいな感じで言ってて」
「何と言っていたか、具体的に思い出せますか?」
斉木が切り込んだ。
「えっと……」
天野が口ごもると、もう一人の、オフショルのトップスを着た「坪井」という、同じくグロ科の三年生が口を開いた。
「『俺はあの一年のレズみたいに痛くない』って……」
「私、驚いて、それ差別発言じゃない? って言ったんです」
天野が慌てたようにそれに重ねる。
「でも、そしたら、彼らの中の一人もゲイなんだって。だけどあんなふうに言いふらすのはありえないって……」
「はあ? そんなの……」
大地が立ち上がりかけるのを、映見が小さく「大地」と制する。隣にいる冬人が、肩に手を置いてなだめた。目の前の二人に怒ってもしかたないことは、皆わかっている。しかし不意に、坪井の方が何か意気込んだように切り出した。
「あの、私は、彼らは無関係だと思うんです……でもどうしても天野さんが言いに行くって言うんで、一緒に来たんですけど」
伴が首をかしげながらその顔を見返す。
「無関係かどうかは、本人たちに聞くのが早いでしょう。当事者じゃなくても何か知っているかもしれませんし。それに、発言自体注意の必要があります」
「でも、彼もゲイなんですよ?」
「だから?」
伴が、目の笑っていない笑顔で言い返すのを、斉木が「まあまあ」と諫める。
「なんにせよ、その発言だけでコメントの実行犯と決めつけることはありませんから、その点は心配しないで。それとこれは、『国際社会とジェンダー』を取っている学生ならわかることだけれど」
斉木は自分の担当する講義名を挙げて、前置きする。
「同じ性的マイノリティの立場に見えるかもしれないけれど、ゲイとレズビアンでは、後者の方が弱い立場に置かれやすいんです。さらにこの場合は、三年生と一年生という力関係もあります。今回のようなことが起こって、六角さんは暴力の恐怖さえ抱いたでしょう」
天野は黙って小さく頷く。坪井はまだ少し納得のいかなそうな表情だったけれど、黙っていた。斉木は、発言者の名前を伴に伝えるように天野に言ってから、映見に向き直った。
「これから、加害者を擁護するような発言とか、あなたの言動を責めるような発言を聞くかもしれないけれど、この件に関してあなたが一切悪くないことだけは確かです。学科でもそれを前提に対応するから、安心してちょうだいね」
学科フロアを後にしようとする五人の背中を、伴が追ってきて「六角さん」と声をかけた。
「すみませんでした。最初に話を聞いた時は天野さんだけが話してくれて、まさかあなたの前でああいう発言が出るとは」
映見は「そんな」と手を振るけれど、伴は「以後こういうことはないようにします」と頭を下げた。
「それと、これは、さきほど学科に届いたメールなんですが」
伴は、タブレットを映見に差し出す。
「後で六角さんには転送しますね」
映見以外の四人も、思わずそれを覗き込んだ。
〈SNSのコメントを読んで、すごくショックだったので、学科から対応が発表されてよかったです。私は被害者の方を直接知らないし、提供できる情報もないですが、応援の気持ちだけでも伝えてもらえたら嬉しいです。〉
「メールで送ってきたのはこの一人ですが、研究室に出入りしている学生たちからも、被害に遭った子は大丈夫かとたくさん聞かれましたよ」
自分の知らないところで、自分を知らない人たちが、味方になってくれている。それは、映見自身思いがけないほどに、心強く感じられた。顔を上げると、きっと同じ気持ちでいるだろう四人の、少しだけほっとしたような顔があった。

アパートの部屋のドアの前に、通販サイトのロゴが入った段ボール箱が置かれていた。帰宅した大地と冬人は、その箱を見てごくりと息を呑み込む。中身の検討はついている。奇しくも今日は金曜日。週末の時間をたっぷり費やせる。少しずつ準備を進めてきたことを、実現できる条件が、今、目の前に揃っていた。

「やばい、バスタオル全部ベッドに敷いちゃった!?」
「大丈夫だよ、まだあるよ」
冬人がそう言って、シャワー上がりの大地の肩にバスタオルをかけてやる。二人で一緒に風呂場で準備を済ませた後だ。
「えっと……パンツ穿く?」
「いったん……穿いとく?」
奇妙な会話をしながら、二人は下着だけ身に着けてベッドへ行く。ベッドには先ほど開封した通販の箱の中身と、それ以前から買い集めた物品が足元の方に並べてあった。
カフェで相談した時、「ネットで調べてみたけれどいろいろな情報があって何が正しいかわからない」と泣きついたら、檸檬はすぐさまラインでいくつかの通販のリンクを送ってくれた。しかしそれを見て、大地は「ひっ」と悲鳴を上げた。
「何この黒くて怖いやつ……」
「アナルプラグ。初心者向けのやつ」
 こともなげに檸檬は答える。
「道具って、最初からはハードル高いんじゃ……?」
心配そうに眉をひそめる冬人に、檸檬は「指だけで慣らす方がよっぽど難しい」と告げる。
「冗談じゃなく、ほんとにお前らが本番やりたいと思ってんなら、安全と衛生は一番大事だ。初回でいきなりできるとは限らないから、無理だけはするなよ。コンドームは避妊具ってだけじゃなくて衛生用品だ。アナルには大腸菌がいることを忘れるな」
 檸檬の語気に圧されて、冬人と大地はコクコクと頷く。
「潤滑剤はちゃんとゴムが溶けないやつ選べよ」
 真剣な目で忠告する檸檬に、改めて二人は、なんと面倒見のいい友人なのかと感動した。その後も檸檬は、準備の仕方などについて、臆することなく懇切丁寧に教えてくれたのだった。
「でも俺、ふーくんがプラグ二つ買おうかって聞いてきたの驚いたよ」
「そう?」
「なんとなく、俺の方が受ける側かと思ってた。俺の方が甘えるし」
「それ関係ある?」
 冬人は笑って、ベッドに腰かける。促されて大地もその隣に座った。
「実は、あの後また気になって、ラインで檸檬に聞いたんだ。ポジションってどうやって決めるのって」
 檸檬は包み隠さず教えてくれた。
『俺の場合はタチネコ両方やってみて好きだった方に固定したけど、最初からなんとなくこっちがやりたいって決まってる人もいるよ。ただやっぱり負担が大きいのはネコの方だから、お互い遠慮とかなしに、ちゃんと納得できるように決めた方がいいと思う』
「僕も正直、どっちがしたいのかよくわからなかったし、大地がいいなら両方試してみようかなって思って」
「うん。俺もそれがいいと思う」
 大地はベッドに正座して、冬人に向き直る。
「じゃあ……よろしくお願いします」
 冬人はにやりと笑う。
「大地……ネットには、お互いリラックスすることも大事って書いてあったよ」
「あ、そっか」
 はっとした顔の大地の手を取って、冬人は微笑む。
「じゃ、とりあえずハグしよっか」
 広げた冬人の腕の中に、大地はいつものように甘えて抱きつく。温かいハグだった。

ダークブラウンの髪がふわりと風になびき、目の前を通りすぎた。檸檬は息を詰める。
(あの人だ)
そう思った瞬間から、目が離せなくなった。
月曜の一限前は、皆どこか気怠げに見える。湿気の多い曇りの天気も、それに拍車をかけるようだった。檸檬は講義の大教室へ向かっていた。愛実と冬人とは、いつも教室で落ち合う。吹き抜けの自習スペースを通り抜けようとしたその時、その姿が目に入ってしまった。檸檬の前を通りすぎ、誰かに声をかけている。
「栞ちゃん」
そう呼んだのは、四年生だろうか。二人の友人らしき人たちが、しばらく話し、じゃあまたと手を振って去って行くまでの数秒か、数分かという時間。檸檬は無意識のうちに、栞の仕草や話し方や笑い方の中に、直哉を惹きつけた魅力を探そうとしていた。そして、探すまでもなく栞は十分魅力的だった。笑うと三日月形になる目。可愛らしい笑い声。周りを明るくする雰囲気。自分にないものばかり持っているように見える。
そんなことを考えてぼんやりと見つめていた、その時だった。
対象の人物がくるりとこちらを振り返る。はっと息を呑んだ檸檬に向かって、テーブルの合間を縫うように歩いてくる。檸檬は身動きも取れず、呆然と固まる。栞も、檸檬から二メートルくらいの距離をとって立ち止まる。
「……あの、怖いんだけど」
すぐにはその言葉の意味がわからなかった。
「なんでずっと見てくるの」
「あっ」と檸檬は声を上げた。自分は一体どれだけの間、栞のことを凝視していたんだろうか。相手をおびえさせてしまうほどに。
「あのっ、すみません俺、気付かなかったっていうか、つい」
「あれ? 君、レモンちゃんじゃない?」
ところが栞は、急に声のトーンを変えて檸檬の名を呼んだ。名を呼ばれたことに驚いて、檸檬は自分の顔を指差しながら口をぱくぱくさせる。
「え、なんで……」
「高坂のお気に入りでしょ? 彼がひいきを作るなんて大ニュースだもん。運営委員の女子たちが早速写真送ってきたよ」
写真なんて一体どこから……と思いかけたけれど、委員の先輩たちの自撮りにしょっちゅう自ら加わっていたことに気付いて、どこに流出してもおかしくない状況だった、と省みる。
「なんだあ、私になんか用?」
親しげに話しかけてくれる栞に、檸檬は何と返そうか困惑する。言い淀んでいる檸檬を見て、栞は「うーん」と言いながら首を傾げた。
「もしかして、高坂のこと?」
栞の言葉に、檸檬はまた戸惑うしかなかった。

愛実と冬人には、一限はサボるとラインした。栞に促されるまま、檸檬は自習スペースのテーブル席に着く。
「私のこと、高坂からなんか聞いた?」
「いえ、先輩からは、何も……」
栞は半笑いのシニカルな表情を作る。
「まあ、そうだよね。そうだと思うわ」
それがどういう意味の相槌なのか、檸檬にはわからない。
「その……ほかの先輩が噂してて……」
「えっ、なんて?」
あまりにも軽い調子で聞いてくる栞に、檸檬はむしろびくびくしてしまう。裏があるのか、何もないのか、一体どういう意図なのか。もうここは、潔く聞いてしまった方がすっきりする。檸檬は腹を括った。
「直哉先輩と付き合ってたって、本当ですか?」
「やっぱその話かー!」
テーブルに倒れ込む勢いで体を折って栞が声を上げる。例のごとく吹き抜けの自習スペースに声が響いて、檸檬も思わず「あ、ちょっと声……」と押し止める。栞も慌てて自分の口に人差し指を×印にして当てている。この人のコミカルな行動のせいで、どうも緊張感が持ちきれない。
「いや~、酔ってついポロッと言っちゃったら、思ったより広まっちゃったのよそれ」
檸檬は眉を寄せて栞を見る。
「……本当じゃないんですか?」
「えーと、厳密に言うと、まあ本当なんだけど……」
心臓にぎゅっと針が差し込まれたような感覚がした。しかし栞は、漫画のようにポリポリと頭を掻く。
「……一か月だよ。付き合いましょうって言って、一か月登下校だけして、別れましょうって言って別れた」
自習スペースには、一限のこの時間でも、課題や試験勉強をする人、ただ友達と話し込んでいる人が意外と集まっている。適度にざわついた空間の中で、檸檬は何も言えず、栞の次の言葉を待っていた。
「高坂直哉は恋愛を理解できない」
唐突に栞が言う。
「……って、うちの高校では有名だったのよ。告白した子が、みんなそれで玉砕してるって」
栞は鼻に皺を寄せて、きれいな顔をくちゃくちゃにしながら語り出す。
「私は、それでもいいからとりあえず付き合ってって言うつもりだった。ほかの子達より自分が一番好きだって自信があったから。でも、高坂の返事は思ってたのと違って……」
『付き合うっていうのは、何に同意したことになりますか』
そう、直哉は言ったのだという。檸檬もぽかんと口を開ける。
「なんでも、前に告白されてオーケーした子に、いきなりキスしようとされたんだって」
直哉が「承諾してないのになぜそういうことをするのか」と問うと、相手は即座に泣いて走り去ってしまったという。そして翌日には、直哉が振ったことになっていた。
「私と同じようなこと、ほかの子も考えないわけないよね。恋愛がわからなくてもとりあえず付き合ってみてよって言った子は、それまでもいっぱいいたみたいよ。……で、あの禅問答よ」
しかし、栞はここでは引けぬと、踏ん張ってみたそうだ。逆に直哉に、「どこまでの同意だったらいいですか」と聞いたのだ。その時の直哉の答えというのが、
『俺は、ただ付き合う約束だけに同意した、というのがいいです。そのほかのことは含みません』
栞は檸檬を前に、ため息を吐く。
「愕然としたよね。付き合っても、手も繋げないの!? って」
それでも栞は挫けず、その条件でいいと粘って付き合うことになった。けれど、一か月で心が折れたという。
「あまりにも付き合ってる手ごたえがなくて、私は一体何をしてるんだろうって思っちゃってね」
檸檬は、妙に感心してしまった。直哉は、本当に昔から直哉なんだな、と。彼は、一つひとつちゃんと合意を取るべきだと言いたかったのだろう。
「先輩、それって……」
檸檬が言いかけるのを、栞が指を振って制した。
「私も今は、わかったよ。スーパーで買い物中にお尻触ってくる彼氏と付き合った時とかに、ああ、あの時高坂が言ってたのは、こういう意味だったのねって」
「うわっ何すかそのクソ男」
「消し炭にしたくなるよね」
栞の言葉に笑いながらも檸檬は、考えたくないけれど向き合わなければならないことについて、理解し始めていた。
「……まだ、直哉先輩のこと、好きですか」
静かな檸檬の問いに、栞は虚を突かれたように一瞬黙り込み、それからふーっとため息を吐いた。
「うーん、わりと好きかな」
(わりと好き……)
二つ隣のテーブルで課題をしている女子たちが、「もう勉強きらーい」と音を上げて笑い合っているのが聞こえる。
「何より顔がめっちゃタイプだし!」
わかる! と同意したくなるけれど、檸檬としては複雑な心境だった。栞にまだ気持ちがあるのだとしたら、直哉は。
「でもさ、私、生まれ変わったんだよね」
「……え?」
虚を突かれた表情の檸檬に、栞は「……の、つもり」と返した。
「私んち、めちゃくちゃ保守的な厳しい家で、私も地元にいた時は、超~おしとやかでめったに口も利かない従順な子だったのよ」
今の明るくておしゃべりな栞からは想像のつかない話で、檸檬は目を丸くする。
「東京の大学の理系に進むのも、めちゃめちゃ反対されて、一人だけ理解のある叔父が全部助けてくれたから、どうにかなったんだけど……いまだに実家の人間はみんな、私が東京で失敗するのを今か今かと待ち構えてるわけ」
自習スペースの人口密度が増してきて、周囲のざわめきが少しうるさかった。
「私ね、地元にいた頃のもの、何も引きずりたくないんだ。結局あの頃と同じじゃないかって、誰にも言われたくないし、自分でも思いたくない」
檸檬はその時、自分がどんな表情をしていたかわからない。同じ人を好きな者同士として、安堵していたのか、切なかったのか。
「恋よりプライド優先ってさあ、ドラマとかだと、最後に痛い目見る悪役キャラがやることだよね。わかってるんだけどさあ……」
栞がやけっぱちのように言って、LEDライトくらいしかない三階の天井を仰ぐ。
「……栞先輩の大事なものは、栞先輩にしか決められないです」
檸檬が今言えることは、これくらいだと思った。檸檬の中には、栞の選択をもっと強く肯定する言葉もあったけれど、それはあまりにも、自分に都合の良い言葉すぎる気がした。

「いいですね。来週から入ってもらえますか」
店長の言葉に、大地と冬人は同時に「お願いします」と頭を下げた。
大地と冬人がアルバイト先としてまず目星をつけたのが、この韓国料理店だった。大学からも、二人が暮らすアパートからも近くて、洗い場とホールスタッフ募集中の貼り紙が出ているのが以前から気になっていた。面接に対応した、日本に暮らして長いという韓国人夫婦が二人で切り盛りしているという。妻が店長、夫が料理長で、ほかに何人か調理場やホールのスタッフがいるそうだ。
「あなたたちのご両親は、韓国の店で働くことは大丈夫ですか」
店長の問いに、大地はよく意味がわからず冬人の顔を見た。
「アルバイトをするとは話してますが……?」
冬人もよくわからないまま答える。料理長は、考えるように腕組みした。
「ずっと前のことですけどね……」

面接に行ったのに、採用と同時になぜか大量の総菜を持たされて、恐縮しながら帰ることになった。夫婦に子どもはいないが、年齢的には大地たちの両親と同じくらいで、「あなたたちくらいの若い子見ると、食べさせなきゃって思っちゃう」のだとか。
部屋に帰って、夕飯の食卓にもらった料理を並べる。
「キムチに、トッポッキに、これ名前なんだっけ?」
尋ねる大地に、冬人が「チャプチェ」と答える。料理を渡してくれる時、店長がすべて説明してくれた。
「もしかしてメニュー覚える練習にもなってる?」
そんなことをわいわい言いながら、二人で箸を伸ばす。
「あのさ、俺、今こうしてふーくんとご飯食べてて、すごい幸せで……」
急にしみじみと大地が言いだすので、冬人はチャプチェを一気に飲み込んでしまって少しむせる。
「……どうしたの急に?」
「さっきの話」
大地は、面接で聞いた話を思い出していた。料理長は、店を始めた当初、嫌がらせを受けたことがあると言った。
「この街から出てけって落書きされたりね」
知人のつてで、近くに競合店がない場所で店の物件を借りられることになったのはラッキーだったけれど、土壌のない地ならではの困難もあったそうだ。目立たない落書きや嫌がらせの投書だけだったけれど、もしエスカレートして破壊行為やスタッフへの暴力につながったらと、当時はとても危惧したという。警察に相談したり、警備会社と契約したりもしたけれど、結局は近所の人が落書きの現行犯を発見して通報してくれたことで、解決したそうだ。
「それがまた、犯人は地元民でもなかったんですよ」
たまたまインターネットのマップでごくたわいもない客の投稿──「とうとうこの街にも韓国料理のお店ができた! 韓国人夫婦が経営する本格派!」なんてレビューを見た差別主義者が、わざわざ電車を乗り継いで嫌がらせをしに来ていたらしい。
「もう十年くらい前の話なんですけど。若い人だから、親御さん心配しないかだけ聞いてみてね」
きっと大丈夫だと思います、と答える二人に、店長はそれでも一応親に確認するよう約束させた。
「……暴力が怖いって、思ったことある?」
唐突な大地の問いに、冬人は戸惑いの色を浮かべる。
「俺はあんまり、考えたことなかったんだ。道を歩いてて急に殴られるって、絶対ありえないわけじゃないけど、ないと思って過ごしてる」
冬人はいつものように、少し間を取って考えてから、口を開く。
「そうだね。僕も、普段はあまり考えてない」
大地がそれに頷く。
「でも、この間グロ科の斉木先生が言ってたの、覚えてる?」
『今回のようなことが起こって、六角さんは暴力の恐怖さえ抱いたでしょう』
その言葉を聞いた時、大地は胸がざわつくのを感じた。
「聞いてみたんだ、今日エミーに。そんなふうに思ってたのって」
自分の取り皿に大地が取った料理はほとんど手つかずのまま、大地は話す。
「確かにそれはあるって、エミーは言ってた」
冬人も、箸を置いていた。考えるような、思いやるような目で大地を見つめている。
「俺、わかってなかった。エミーがあんなこと書かれてすごく嫌だったし、悔しかったけど、エミーはそれ以上に、いつか本当に手を出してくるんじゃないかって怖かったんだって」
困惑した瞳だけれど、大地の口調は静かだった。冬人は手を伸ばして、テーブルの上に置かれた大地の手の上に重ねる。
「……僕はもっと悪いかも。自分がわかってないことにも気付いてなかった。同じ先生の言葉を聞いてたのに」
大地は俯きがちに、首を振る。
「俺……なんていうんだろう。『自分だけ幸せになるなんて』みたいなのとは違うんだけどさ……」
小さい頃から冬人が好きだったから、思いが叶えば幸せになるものだと思っていた。実際、冬人と一緒にいる時間は、胸が温かいものでいっぱいになるような幸せを感じる。だけど、友達が今も脅えているのではないかと思うと、幸せじゃない。バイト先の優しい人たちに悪意を向けた人間がいると思うと、幸せじゃない。
「俺が思ってた、幸せになるってどういうことだったんだろう。完全に幸せになっちゃうのって、怖くない? いろんなこと忘れちゃうみたいだ」
冬人が、大地の手を撫でさすりながら、「大地」と呼んだ。
「……食べようか」
大地の眉が、八の字に下がる。
「ふーくん、話聞いてた?」
抗議する大地に、冬人は続ける。
「おいしいもの食べると少し幸せになるよね。でも、心配なこととか、悲しいことが消えるわけじゃない。僕はそれでいいよ。大地と一緒に、心配したり、悲しんだり、少し幸せって思えたら、それでいいんだ」
大地は少しの間、驚いたように瞬きをして、冬人を見た。それから、何か腑に落ちたような、少しはにかんだような笑顔を浮かべた。
「……食べようか」
二人は同時に、箸を取った。
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