真面目くさった女はいらないと婚約破棄された伯爵令嬢ですが、王太子様に求婚されました。実はかわいい彼の溺愛っぷりに困っています

綾森れん

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第四幕:愛し合う二人の幸せを求めて

33、真夜中の逃避行

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「あともうちょっとだから、もってちょうだい。神様、聖母様、全聖人様方、お願いします」

 全方位に祈った甲斐あって、片足が地面に届いた。

 ホッとした瞬間、ちぎれたロープが手の中に落ちてきて、私はたたらを踏んだ。

 証拠品のロープを腕に巻き付けながら、バルコニーの陰に隠れる。

 お父様が帰ってきたせいか、チョッチョの歌声は聞こえない。お兄様出奔の知らせに、屋敷中が落ち着きを失っているようだ。窓から中庭を見下ろす暇人などいない。

 私は明かりが漏れる窓を気にしながら、植木の陰から陰へと走った。庭の端へと近づくにつれ、揺れる小舟バルカ同士がぶつかる規則正しい音が聞こえてくる。

 緊張のせいか息を切らした私の目に、煉瓦塀に囲まれた小さな船着き場が見えてきた。五艘ほどの小舟が満月の明かりを受けて並んでいる。とぷんとぷんと繰り返す水音に時折、係留ロープのきしむ音がまざる。

 小舟に近づいた私は、習慣的にドレスの裾をつまもうとして、男装であることに気付いた。身軽に小舟へ乗り移り、一番扉に近い一艘まで移動して、杭に結ばれた太い縄を手早くほどいた。

 無心のまま、煉瓦塀に取り付けられた木戸の掛け金を外す。櫂で水をかきながら、船首でゆっくりと木戸を押しひらいた。

 生まれてから十七年間、一度もひとりで外出したことのない私が今、ついに屋敷の敷地から抜け出したのだ!

 高い塀に左右を囲まれた小運河には月明かりもほとんど届かず、暗い水がぬらりとたゆたっていた。

 両腕に力をこめてオールを漕ぐと、

「ふんっ」

 と変な声が出て赤面する。

 誰も聞いてないわよ、と自分に言い聞かせた。

 普段、ゴンドラに乗って運河を移動するとき、商人や下働きの者たちが小舟に樽や木箱を山積みにして、すいすいと進んでいくのを見てきた。簡単そうなのに、自分で漕いでみるとなかなか進まない。荷物は私だけなのに!

 一本竿で優雅にゴンドラを操るゴンドリエーレたちが特別な技術を持っていることは知っていたが、普通の舟も意外と難しいのね。

 重いオールで水を跳ねのけ四苦八苦しながら、なんとか大運河に出る。夜空にぽっかりと浮かんだ満月から女神が舞い降りたかのように、水面みなもにはやわらかい光が波紋を描き、私を未来へといざなっていた。

 もう二度と戻ることはないであろう伯爵邸を振り仰いだとき、

「しまった」

 私は息を呑んだ。お母様の部屋のガラス窓からチョッチョが見下ろしていたのだ。

 見つかった――

 冷や汗が背中を伝ってゆく。

 だが、窓際に立つ彼はひとつしっかりとうなずいた。私を勇気づけるように。

 お母様が近づいてくると窓に背を向け、後ろ手にカーテンを閉めた。

「見逃してくれたんだわ」

 距離があるから表情までは見えなかった。でも私の逃避行を応援してくれたことに胸が熱くなる。

 彼もまた、個人を無視する社会の中で犠牲になりながら、それでも懸命に幸せを求めて生きてきた人なんだ。

 私はこみあげてくる熱を飲み込んで、懸命にオールを動かした。

 頭の片隅で冷静な声が、アルカンジェロはもう礼拝堂で待ってはいないだろうとささやく。

 それでも構わないと私は答える。ただ、限界まで挑戦したいだけなのだ。生きていることを確かめたいから。

 たとえこの行動の結果が何も生まなくても――いや、最悪な結果につながったとしても、やりきったなら私は行動した自分を誇れるわ。今後の人生を、誇りに思える自分で生きていきたいのよ。

 水面をかき分けるオールの音に、時々夜風が運んでくる誰かの歓声がまざる。大建国祭最終日の余韻に浸って酒を飲み交わし、いまだはしゃいでいるようだ。

 ようやく少し気持ちが落ち着いて顔を上げれば、大運河の左右に並び立つ建物パラッツォのファザードが月明かりに浮かび上がっている。暗い運河に壮麗な姿が淡く映り込み、現実と幻想の境界を曖昧にしてゆく。

 静かな貴族街を過ぎると、広場に設けられたテラス席で飲み交わす人々の笑い声が聞こえてきた。にぎやかな若者たちを乗せた小舟ともすれ違った。

「坊ちゃん、ひとりかーい?」
「一緒に呑もうぜー!」
「まだ祭りは終わらねえっ、俺が終わらせねえ!」

 木のジョッキを掲げて誘われたが、無視して反対方向へ漕ぎ続けた。

 しばらく進むうち、力の使い方が分かってきた。歌うときのように下腹部に力を入れて、腕の筋肉ではなく全身を使ってオールを動かすのだ。

 漕ぐことに全神経を使わなくて済むようになると、暗い水が恐ろしく見えてきた。私は気を紛らわそうと、お気に入りのアリアをささやくように口ずさむ。

「初恋はリラの花のように
 僕の胸に今も香る
 リラの花が咲くたび思い出す
 きらめく春の陽射しを浴びて
 君を追いかけた少年の日」

 大聖堂の鐘楼を見上げ、私は力いっぱい船を漕ぎ続けた。水の上をはしる夜風が、汗ばんだ首すじを撫でるのが心地よい。

 私は初めて、今までは嫌いだったB部分も歌う気になった。

「めぐる季節は容赦なく
 二人の道を引き裂いた
 降りやまぬ雪に閉ざされて
 僕は悔やんで自問する
 なぜ君を追わなかったのか」

 感傷的な短調の旋律が美しいB部分が苦手だったのは、情けない自分を突き付けられるからだった。今のままでは、お前もこの歌のように過去を悔いることになるぞ、と。

 だが安定を捨てて屋敷を飛び出した私はもう、悲しい歌詞を恐れることなどない。

「でもオペラ自体はどんなストーリーだったのか、知らないのよね」

 国王陛下がバッドエンドを好まれないので、オペラのラストはいつも恋人同士が結ばれて幕が下りる。ヒロインが命を落とす話でさえ、道具方が滑車を回して操る籠が下りてきて、天から降臨した愛の神が死んだ役を蘇らせるのだ。

 だからこのアリアを歌った主人公も、最後は恋人と結ばれたのだろう。私は幼すぎて劇場へは行けなかった。だが当時、母のお気に入りだった歌手が屋敷に呼ばれて何度も歌うのを聴いていた。母は一時期、毎日のように『初恋はリラの花のように』を歌ってくれるよう、コントラルトの女性歌手にせがんでいた。

「お母様はよほど、このアリアが好きだったのね」

 私は十年経ってようやく、母と同じ曲が好きだったことに気が付いた。

 頻繁ひんぱんに屋敷に通っていたあの女性歌手は当時、母の愛人だったのだろう。

 お母様は音楽を愛し、歌声に惹かれ、世界にひとつしかない楽器を宿した歌手を愛するんだわ。

 だがテノールやバスのような男声を好まない母の愛人は、つねにカストラートか女性だったのだ。

 お母様が惹かれるのは異性でも同性でもなく、歌声なのね――

 母はだらしない人間でもなければ、意志薄弱な女性でもなかった。望まない結婚を強いられながらも、窮屈な社会規範の中で精一杯、自分らしく生きようとしている人だったのだ。

 そして私と兄にも、情熱的な母の血が流れている。息苦しい抑圧の中でも、己が夢中になったものに対して正直に生きるあの人の血が――

 もう一度A部分を繰り返して『初恋はリラの花のように』を歌い終わったころ、行き先に大聖堂の丸い屋根クーポラが見えてきた。

 もしかしたらアルカンジェロが待っているかも知れない――私の心には、海の向こうに見えるかすかな光のように小さな希望が灯っていた。



─ * ─



果たしてアルは待っているのか?
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