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三章、夢 ――Stardust――

02.銀幕の夢

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 落書きだらけのコンクリートに倒れかかり、ゆりはよどんだ空気を吐き出した。頭上を電車が、脳に砂利を投げつけゆき過ぎる。眠らぬ街の夜は始まったばかり、並ぶ看板は、坂の小道で極彩色の電飾を競い合う。

 ふと見下ろす足下あしもとで、道に貴金属を並べる外国人に混じって、バンダナにジーンズ姿の女の子がリメイク服の店を広げている。二種類のTシャツを張り合わせてレースを付けたカットソーや、彼女が今はいているような、所々破れたジーンズが並んでいる。疲れも忘れて見下ろすゆりに気が付いて、

「良かったら見ていって」

 短い髪に似合うハスキーボイスで誘われた。金もあんまりないし、と逃げ腰になり、オニでなくなったことを実感する。家へ帰ってあったかい布団で眠りたい、さっきからそんなことばかり考えている。

「買わなくていいよ、見て欲しいだけだから」

 二度誘われれば離れるのも気まずい、そんな優柔不断も気遣いも人に戻ったからこそ、地面に敷いた布の前に、しゃがみ込んだ。ゆりも服を考えるのは好きだけれど、それを求めて店を巡るだけ、家庭科はたくさんある苦手科目のひとつだから、手作りなんて試す前からあきらめていた。

「専門学校の生徒さんですか」

 ううん、と彼女は首を振る。「家事手伝い―― フリーターかなぁ。会社やめちゃったから」

 その理由を訊きたかったが、失礼かと思えば言葉が出てこない。かわりに、Tシャツをためつすがめつしながら、すごいなあ、と誉めてしまった。「あたし学校で習ったくせに、全然ミシン使えない」

「あたしだって直線縫いと返し縫いしか出来なかったよ」ゆりをなぐさめてくれたのか、「ママに教えてもらって、なんとかやってるの」

 これなんかね、と彼女は手近なスカートを手に取る。膝下十五センチ程のロングスカートで、透けるレース生地を挟んで、上は数種類の布を合わせてあり、下は小さな苺柄のプリント生地、全体がふんわりとした形で、そのおとぎの国のような甘さが、ゆりは一目見て気に入ってしまった。今夜はドクロのネックレスなんかする気分じゃない。

「これほとんどママに作ってもらっちゃった」

 彼女はぺろりと舌を見せて、やさしい瞳で手にしたスカートをみつめた。

 胸がきしむ。ゆりの目に、最後に見た母の置き手紙がよみがえる。

(あれから何日、あたしは家に帰ってないんだろう)

 許されるならば、その時間を返して欲しい。時をさかのぼってあの日のリビングに戻り、母の手紙の通り、あったかい湯にかって、夕飯ゆうはんを食べながら帰りを待ちたい。

(ごめんなさい)

 ゆりは誰にともなくこうべを垂れて、ぎゅっと目をつむった。

「服作るの、楽しいよ」

 彼女がふいに言った。見上げると、その目は輝いている。

「あたしもやってみる」

 考える間もなく、ゆりは答えていた。

「やってみ、やってみ」

 嬉しそうな彼女に、

「そのスカート、下さい。いくらですか」

「え、買ってくれるの?」

 彼女は驚いた。

 その顔を思い出して駅へ向かう道すがら、買ったばかりのスカートを入れたビニール袋を抱きしめて、ゆりは笑ってしまう。袋はやわらかく、夏の湿気を含んであたたかい。そっと頬を寄せると、忘れていた熱がじわっとこみあげる。電車の中でもずっと膝に抱えていた。痛みが麻痺して気付かなかったけれど、いつの間にか心は傷だらけになり、母と二人きりの食卓を思い出すと涙がこぼれた。

(もう絶対、人を傷付けて泣いたりしたくない。今日の気持ちは絶対忘れない)

 このスカートを見ればきっと思い出す。今日、ひとつの物語は終わったけれど、同時に新たな道の幕が上がった。

(一枚のスカートが、魔法をかけてくれることを、あたしは知っている)

 お気に入りの服を着ているときの小さな自信、制服姿のときは道路ばかりみつめていた少女が、前を見て歩けるようになる。装うとは不思議なこと、あるのは「本当の自分」ではなく理想のイメージ、それを手に入れたとき、人は期限付きの幸せを手に出来る。

 袋を膝に、中央線に揺られていると、突然服のデザインが閃いた。慌てて鞄の底からボールペンを探し出し、街でもらった広告の裏に書き留める。最初のデザインが引き金になって、後から後からイメージが湧き出した。すぐ背後にある無限の世界を、肌で感じる。無から有が生まれる瞬間に、立ち会っている。

 心に浮かぶ像をもっとよく見ようと瞼を閉じれば、ライブの遠い情熱がよみがえる。浮かんだ服をアイに着せれば、アクセサリーまで同時に思いつく。

 ――あたしはずうっと、Braking Jamのファンだよ!―― そう叫んだ幼さが、今は眩しい。虚構と知りながら、確信的に理想を演じるアイのあでやかさに、自覚しながら堕ちていった。彼女は魅惑的な嘘で、夢を見せてくれた。だけどそれだけじゃない、彼らは罪悪感や自己否定を消し去ってくれた。「もし、世界中に名を知られるくらいすごい人になれたなら、あたしは復讐しなくて済む。ようやく自分を許せるだろう」そんな子供っぽい望みも、「性」も否定せずに済むのは、彼らのおかげだ。

(あたしは罪だらけけがれだらけ、だけどそれもいいってBraking Jamは歌ってくれる)

 生まれながらに善と悪を併せ持つ人間ひとをごく自然に受け止め、光と闇の狭間で揺れる姿こそ魅力だという、そんな歌に救われた。だけど今、その救いは遠い昔の伝説のよう、Braking Jamはゆりにとって申し分ないバンドだけど、情熱だけはぽっかりとあいた心の穴から、どこかへ落としてしまった。

<極限まで 極限まで 極限まで熱望して
 それは一瞬 すっと消えてしまう>

 Braking Jamの詩を思い出すと、余計に淋しい。銀幕の夢――そんな題が付いていた。

<哀しいね 最高の瞬間
 なんて短い たったひとうめき>

 彼女はゆりの心を予言していたかのように、自らの限りを知っているかのように、哀しみとあざけりを込めてささやく。

<夢が消えればなんて醜い
 鏡に映るのは腐った廃人
 欲望と魂の抜け殻だわ>

  嘘で塗り固めた非日常、それを演出する彼女の虚無感が、抑えたギターにのってあらわになる。

<残っているのは痛みだけ
 他には何もない
 疲れた自分がいるだけ>

 音が一気に厚みを増し、胸を締めつけるあの旋律にのって、彼女は歌い上げる。

<夢とは
 実在しないものを追い求めること>

(それでもいい)ゆりは瞑目めいもくする。(あたしは追いたいんだ!)

 暗い線路の下、汚れたコンクリートに店を広げていた彼女を思い出す。

<四角い部屋
 ひとり白い壁に映す古い映像
 絵の中のきみは今も美しい
 screen dream
 それは一瞬 まるでオーガズム
 美しい一面の桜吹雪
 散れば腐る 土の上で>

 人の乗り降りに、はっとして無の領域から引き返せば、いつの間にか立川駅にいる。

(しまった。逆方向来ちゃった)

 新宿方面に乗るつもりが、疲れてホームを間違えたようだ。

(ここまで来たんなら、ハルカさんち寄って帰ろう)

 心配していると夜響が言っていた。これ以上、心の自由を振り回して人を傷付けたくない。
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