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二章、加速 ――Tumbling Down――
09.いとおしい少女と二人、自由に世界の果てまで飛べたなら
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額にまた、ぽつんと冷たいものを感じて広松は、雨かな、と空を仰いだ。だが夏空はからりと晴れて、その下を行き交う人々はタオルこそ手にすれ、傘など差す気配はない。すぐ近くで忍び笑いを聞いた気がして、眉をひそめて立ち止まったところで、通りの向こうから大きなビデオカメラやマイクが、ざわめきを背負って走って来るのが見えた。
(何の収録だ)
答えはすぐに出た。
「オニを見ませんでした?」
「夜響が今、こっちへ飛んできたでしょう」
問われた通行人は、さあ、とあっけにとられている。
(成る程)
見上げた街路樹の上に、ひらりと白い裾が見えた。
「私を追いかけてたな、この雨雲が」
広松にみつけられた夜響は、片手にたっぷりと水の入った湯飲み茶碗を乗せたまま、にっといたずらっ子の笑みを見せた。
「あ、あそこの木の上」
女子高生の一団が叫ぶのより早く、取材陣が駆けつける。巻き込まれぬよう慌てて身を引くと、夜響は木の上でくるりと反転した。
「来ないでよ」
空中で呼びかけ、湯飲み茶碗を放り投げる。弧を描くしぶきは虹に変わり、茶碗は地に触れ割れる前に、ひとひらの花弁になった。
広松は腰をかがめ、赤い花びらを指先に乗せる。どういうわけか見覚えがある。記憶を辿るが答えへ行きつく前に、
「広松さん!」
と声をかけられた。若いリポーターは逃げ腰の広松にマイクを向け、
「また会いましたね! いつも夜響を追っていますよね?」
「はあ、まあ」
「夜響について分かったことは」
「はっきりとしたことは――」
「オニとは何でしょうね」
「感情の一種ではないかと」
「感情?」
痩せぎすなリポーターは、眉のあたりに困惑と軽蔑を浮かべた。「感情は空飛んだり喋ったりしませんよ」
「空を飛ぶのも人を喋らせるのも、心、すなわち感情ですよ」
にこりともしない広松に、男は薄笑いを浮かべ更に尋ねようとしたが、別のリポーターが割って入った。
「夜響がどこへ行ったか分かりますか」
せわしない言葉に、
「夜へ帰ったのでは? 日の光やフラッシュ、雑誌の見出しが届かぬところへ」
「つい先日まで夜響は、よろこんで我々の取材に応じていましたが」
「固定化されたイメージは、最早イメージですらない、それに気付いたのでしょう」
向こうの通りの、夜響だ、という声に、取材陣は餌に群がる鶏と化す。通学帰りの中学生も連れだって駆け出した。
溜息ひとつ、彼は再び歩き出す。誰も本当のことは言わない。月に座れるとか、雲を食べられるとか、本当かも知れないのに、誰も口にはしない。誰かの冷笑が怖いから? だがだからこそ、夜響に憧れる。
(夢は叶ったか?)
遠くの夜響へ問う。ただ自由を謳歌したい――彼も同じ望みを抱いている。だが、愛しい我が子を捨てて、無邪気な誘いに乗ることは出来ず、だからといって、自分の中の「鬼」すら克服できぬのに、甘えん坊な夜響を苦しめることも出来ない。例え笑った姿が不気味でも、湯の中で抱いた少女の肌はやわらかく、夜響の魅せる夢に救いを求めている。憎めないし、つらい目になど遭わせたくない。ずっと隣ではしゃいでいて欲しい。くるくると表情を変える夜響を助手席に乗せて、海を越え空を越えて走ってゆきたい。
(俺は本当は、夜響を封じたくないんだな)
夜響のため、と自分を嗾けて、なんとかここまで動いてきた。だが織江との不和の理由さえ分からず、心の奥でつながっていた信頼さえ絶ち切れて、全てに疲れきった今、どこか遠くへ行けたらと強く願う。
(あいつの減らず口が聞きたいな)
記憶の中の夜響は、どんな表情でもいとおしい。
自由を求める夜響は、イメージを限定されるのを嫌い、この頃人々の前に姿を見せたがらない。子供たちが熱狂し、マスコミが書き立てる夜響は、彼らひとりひとりが描いた理想に過ぎない。だが人を愛するとは、己の心の中に作り上げた、その人の虚像を愛すること、真の自由を求めるならば、夜響は愛されることすら放棄せねばならない。
(この説得に乗ってくれるかな)
愛されたかった夜響を思い出す。だがあの頃と、今の彼女とは違うだろう。みんなに知ってもらいたくて、注目されたがっていた子供とは。夜響は今、新たな自由を模索している。
(その自由の雲に二人並んで、世界の果てまでゆけたなら)
(何の収録だ)
答えはすぐに出た。
「オニを見ませんでした?」
「夜響が今、こっちへ飛んできたでしょう」
問われた通行人は、さあ、とあっけにとられている。
(成る程)
見上げた街路樹の上に、ひらりと白い裾が見えた。
「私を追いかけてたな、この雨雲が」
広松にみつけられた夜響は、片手にたっぷりと水の入った湯飲み茶碗を乗せたまま、にっといたずらっ子の笑みを見せた。
「あ、あそこの木の上」
女子高生の一団が叫ぶのより早く、取材陣が駆けつける。巻き込まれぬよう慌てて身を引くと、夜響は木の上でくるりと反転した。
「来ないでよ」
空中で呼びかけ、湯飲み茶碗を放り投げる。弧を描くしぶきは虹に変わり、茶碗は地に触れ割れる前に、ひとひらの花弁になった。
広松は腰をかがめ、赤い花びらを指先に乗せる。どういうわけか見覚えがある。記憶を辿るが答えへ行きつく前に、
「広松さん!」
と声をかけられた。若いリポーターは逃げ腰の広松にマイクを向け、
「また会いましたね! いつも夜響を追っていますよね?」
「はあ、まあ」
「夜響について分かったことは」
「はっきりとしたことは――」
「オニとは何でしょうね」
「感情の一種ではないかと」
「感情?」
痩せぎすなリポーターは、眉のあたりに困惑と軽蔑を浮かべた。「感情は空飛んだり喋ったりしませんよ」
「空を飛ぶのも人を喋らせるのも、心、すなわち感情ですよ」
にこりともしない広松に、男は薄笑いを浮かべ更に尋ねようとしたが、別のリポーターが割って入った。
「夜響がどこへ行ったか分かりますか」
せわしない言葉に、
「夜へ帰ったのでは? 日の光やフラッシュ、雑誌の見出しが届かぬところへ」
「つい先日まで夜響は、よろこんで我々の取材に応じていましたが」
「固定化されたイメージは、最早イメージですらない、それに気付いたのでしょう」
向こうの通りの、夜響だ、という声に、取材陣は餌に群がる鶏と化す。通学帰りの中学生も連れだって駆け出した。
溜息ひとつ、彼は再び歩き出す。誰も本当のことは言わない。月に座れるとか、雲を食べられるとか、本当かも知れないのに、誰も口にはしない。誰かの冷笑が怖いから? だがだからこそ、夜響に憧れる。
(夢は叶ったか?)
遠くの夜響へ問う。ただ自由を謳歌したい――彼も同じ望みを抱いている。だが、愛しい我が子を捨てて、無邪気な誘いに乗ることは出来ず、だからといって、自分の中の「鬼」すら克服できぬのに、甘えん坊な夜響を苦しめることも出来ない。例え笑った姿が不気味でも、湯の中で抱いた少女の肌はやわらかく、夜響の魅せる夢に救いを求めている。憎めないし、つらい目になど遭わせたくない。ずっと隣ではしゃいでいて欲しい。くるくると表情を変える夜響を助手席に乗せて、海を越え空を越えて走ってゆきたい。
(俺は本当は、夜響を封じたくないんだな)
夜響のため、と自分を嗾けて、なんとかここまで動いてきた。だが織江との不和の理由さえ分からず、心の奥でつながっていた信頼さえ絶ち切れて、全てに疲れきった今、どこか遠くへ行けたらと強く願う。
(あいつの減らず口が聞きたいな)
記憶の中の夜響は、どんな表情でもいとおしい。
自由を求める夜響は、イメージを限定されるのを嫌い、この頃人々の前に姿を見せたがらない。子供たちが熱狂し、マスコミが書き立てる夜響は、彼らひとりひとりが描いた理想に過ぎない。だが人を愛するとは、己の心の中に作り上げた、その人の虚像を愛すること、真の自由を求めるならば、夜響は愛されることすら放棄せねばならない。
(この説得に乗ってくれるかな)
愛されたかった夜響を思い出す。だがあの頃と、今の彼女とは違うだろう。みんなに知ってもらいたくて、注目されたがっていた子供とは。夜響は今、新たな自由を模索している。
(その自由の雲に二人並んで、世界の果てまでゆけたなら)
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