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一章、嘘 ――Drug Trip――
21.目をつぶったまま闇の中、歩いてゆく
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結局――
七里まで帰ってきてしまった。あとはもう、この小さな決意が揺らがぬうちに、自宅の玄関前から飛び降りるしかない。八階に住み、いつでも死ねるんだという安心感でここまで生きてきたが。電車の中で書き上げた遺書は、通学鞄の中に入っている。級友たちへの恨み辛みより、Braking Jamの詩の引用のほうが長い。作文は昔から苦手だったから、自分の言葉ではうまく説明できないことが多すぎる。それをアイは、ぴったりと言い表してくれる。
マンションの外廊下、手摺りをまたいで見下ろせば、くらりとする。ウォークマンは鞄の中、ここはもう夢の原宿ではないし、そんな気分づくりをしても、さっきは結局吹っ切れなかった。今はもう死ぬことだけが、最後の目標だ。
ゆりは大きく息を吸い、倒れ込むように飛び降りる。足がコンクリートを離れ、宙に放り出された。体が風を切る――間もなく、くいっと背中に引力を感じ、恐ろしい高さのまま宙吊りになった。夕方の風にあおられて、紐の先の五円玉みたいに揺れている。下を見ると目眩がして、手足が震えだした。冷や汗をかいた首筋を風が撫でる。
「おー、釣れた釣れた。大漁じゃあ!」
調子っぱずれな聞き覚えある声に、恐る恐る振り返れば、制服の襟に金具がひょいと引っかかっているのみ、金具の先は今にも切れそうな紐で、屋上に座るオニの手元まで延びている。
「オニ、なんとかしてよこれ!」
叫んでも、震えてかすれて声にならない。
「あれ。またあんたか。なんだってそんなところから飛び降りるんだよ。やっぱり自殺志望者?」
と、含み笑い。
「違うってば! なんでもいいから助けてよ!」
恐怖に泣き出すと、オニは釣り竿の手元をくるくると回して引き上げた。屋上に両手をついて、ゆりは肩で息をする。「死ぬかと思った。ほんと何すんだよ、オニ、馬鹿」
涙をため、あえぐゆりの髪をつかみあげ、オニは無理矢理自分のほうへ顔を向かせた。
「オニと呼ぶな。夜響だ」
と目を据える。
「知ってるよ、夜響」
名を呼ばれて、ちょっと嬉しそうにする。「空でも飛ぼうと思ったのか?」
「うん。夕空へ身を躍らせれば、全ての価値観から解放されると思ったんだ」
鼻をつき合わせたまま、ゆりは答える。夜響はつかんだままのゆりの髪をくい、と引っ張って、
「夜響が解放してあげる」
もう一方の手で、ゆりの肩にそっと触れる。
「助けてくれるの?」
「あんたが夜響に恋する限り、ね」
「恋って―― あんた女の子でしょ」
「違う」
言葉と同時に、ゆりは押し倒された。マンションの屋根は下り坂のうえ手摺りもない。頭は空に放り出され、長い黒髪が夕焼け空に揺れる。今の恐怖を思い出して再び震え出すゆりを、夜響はじっとのぞきこむ。「男も女もない。夜響はただ、夜響というだけだ。ねえ、自由って言葉の意味を知ってる?」
「――ハンディも性も美醜も乗り越えたなら、神にも悪魔にもなれる――」
それはやはり、アイの歌った詩だ。
「合格」
夜響はちょいとウインクした。「あんたをオニにしてやろう」
なれるの、と勢い込んで起きあがるゆりの額に、夜響は指二本を当てる。「夜響を想っていてくれるか?」
血のように赤い瞳が、不安そうにゆらいでいる。
(この人は、あたしと同じようにひとりぼっちだったんだ)
人は誰でも一人きり自分と向き合うものだと分かっていても、居場所と呼べる何かが欲しかった。本当のあたしを認めてくれる価値観、というものが支配するどこかへ、行きたかった。学校の中でほとんどの生徒が、何らかの価値観に裏付けられているように。
「うん」
ゆりはしっかりとうなずいた。夜響はちょっと笑ってうなずき返すと、そっとまぶたを閉じて、わずかに眉根を寄せた。心をひとつにまとめる。目を閉じると、まぶたの上にきつく引かれた紅いラインがあらわになる。
ゆりも目を閉じた。額から頭が強い光を浴びたようにあつくなり、その熱情にも似た熱が、体全体にじわじわと浸透してゆく。手足の先から震えが走り、泣き出したいほどの衝撃が胸を突いた。体の底から、たくさんの叫び声がこみあげる。
しばらくして、ゆりは辺りが静かなことに気が付いた。そっと目を開けると、夜響は病気の母を見守る幼子《おさなご》のような瞳でのぞき込んでいる。まじまじと見下ろした両手は、夜響のように青白くもなく、何も変わっていない。
「姿は変わらないの?」
「別に。望まなきゃそのままさ」
「夜響は望んだ?」
「こんな姿の種はいない」
にやりとして、ゆりの頬から顎へ指をすべらせた。「あんたは今のままでかわいいぜ。その姿のまま、夜響に恋をしてるところが見たい」
ゆりはぷっと吹き出して、わくわくしながら夜響に寄りかかってみる。
「あんたも星を釣りな。今日の夕飯だ」
口ほどにもなくシャイなのか、無表情を作ってそっけなく釣り竿を手渡した。
「星を?」
頓狂な声を上げるゆりに、自分の竿を振り上げ、
「そう、こんなふうに」
竿の先の金具が夜空に高く跳ね上がり、その瞬間頭上で何かが煌めいた。
「ほうらかかった」
手元をくるくる回せば紐に引き寄せられて、金具の先には絵に描いたような五芒星、ぺかぺかと金色に輝いている。
「それ食べられるの?」
「勿論!」
景気よく返事して、また釣り竿を放りあげる。
「毎日こうやって暮らすの?」
「泊まる家はあったけど――」
言い淀み、思い詰めたように竿の先をみつめる。目に浮かぶのは鉄の扉、家を追われた夜響の前に、無情に立ちはだかった。
不思議そうに眺めるゆりに気付いて振り返り、「こんなふうに過ごすのは嫌か?」
ゆりは首を振る。「大好きな曲と夜響がいれば、怖いものなんてない」あ、と手を叩いて、「荷物取りに戻っていい? 音楽がないと、あたし生きてゆけないんだ。それに――」
置きっぱなしの鞄に入れたままの遺書を見たら、母はどう思うだろう。
「そんなこと全て、今に考えなくなるさ」
「え、親のこと?」
「だけじゃなく」
はっとしてゆりは、吊り竿をみつめる表情のない横顔をにらみつけた。「あたしはずうっと、Braking Jamのファンだよ!」
夜響は何も言わず、空を見上げる。漆黒の夜空の所々に、灰色の雲が浮かび出した。
「曇ってきやがった、折角の夜に。闇がくすんじまう」
舌打ちして引いた竿の先には灰色の雲、むっとして片目を細める。「ま、ちょうどいいか。こいつに乗っていきな」
ゆりは瞠目する。もくもくと表情変える雲へ、恐る恐る足を伸ばせば、それはやさしく足の裏を受け止めた。雲は沈み込むように降下し、ゆりは八階の手摺りに飛び移った。通学鞄は思い詰めていたさっきのまま、足下に転がっている。もう家に戻らぬならあれもこれも持ち出そうと、一旦部屋に戻った。
むっとした空気が立ちこめる見慣れたダイニングキッチンは、既に懐かしい。去年の夏から出しっぱなしの扇風機も、年末に商店街でもらった壁のカレンダーも、冷蔵庫の扉に所狭しとくっついたマグネットも。部屋の電気をつけて、テーブルの上に置かれた一枚の紙に気がついた。一歩あとずさり、それから慌てて手に取った。やはり、母の置き手紙だった。
<百合子、おかえりなさい。
今日は仕事で遅くなります。先にお風呂に入って、冷蔵庫にあじの開きがあるので焼いて食べててね。
あなたのこと、とても心配しましたよ。けれどどうしても仕事が休めなくて。ごめんなさいね。なるべく早く帰ります。母より>
どうしよう、とゆりは立ちすくむ。胸の奥に、ずんと痛みが走る。
(お母さんは毎日、あたしが帰ってきたらって考えて、手紙を書いていたのかな)
母が恋しい一方で、十六年間いましめてきた鎖から解き放たれたい。
それを断ち切るのは自分しかない。
その声は、本当にゆりの心から聞こえたものだったろうか。屋上で待つ夜響の陰が、ゆりの頭を占領してゆく。
(オニになるってこういうこと?)
思ったときには、不自然な高揚感が、浮かんだ涙を吹き消していた。
ゆりはふいと自分の部屋に戻って着替え出す。遺書は破り捨てる。苺柄の大きな袋に、CDとMDとウォークマン、小遣いをはたいて買った大好きなブランド「B.B.Girlz」の服、お金と通帳、家にあったお菓子全部をつめこんで、一旦は家を出たものの、急げ急げと叫ぶ声になんとかあらがい、もう一度ダイニングに戻る。
<私もなるべく早く帰ります。Yuri>
母の手紙の下に小さな字で書き足して、家の匂いを振り切って夏の夜空の下へと駆け出した。
屋上では夜響が起こした火の周りに、棒に刺した星を並べていい匂いをさせている。香ばしくてこってりとしていて、甘みを含んだ実に食欲を誘う匂い。星はひとつひとつ味が違い、しかも雲から絞り出したジュースは、今までに飲んだことないすがすがしい香りとさわやかな甘み。
夜響はゆりのウォークマンから無造作にイヤホンを抜き取ると、「再生」を押す。
「そんなことしても聴けないって」
ゆりが言い終わらぬうちに、スピーカーもないのに「蟲」が流れ出す。
「うそ……」
思わず竹串を取り落とすゆりに、
「夜響はオニだよ」
と、いたずらっぽく笑う。
<いつまでこんなこと続けるつもりって
心臓の壁 誰かが内側から叩いてる>
今日何度も聞いたメロディーが流れ出す。
「続けても意味ないかな」
夜響がぽつんと呟く。え、と聞き返しても答えない。
「ねえ夜響、夜響は何でも出来るの?」
「オニになれば、なんだって出来る。月にも飛べるし、星のバーベキューも食べられる。誰かの頭を攪乱することも、みんなの心を自由に宇宙まで飛ばすことも。世界を救うも壊すも夜響の思いのままさ」
「じゃあ――」ゆりは膝を乗り出して、「Braking Jamのライブに行きたい! もうチケット売り切れちゃったんだけど。――出来る?」
夜響は無言のまま、夜空に右手を突き上げた。何かをつかみ取るようにして、手の中のものをゆりに差し出す。「これでいいか?」
「うわぁ! すごい」
「せーっかくオニになったのに、この世界で遊ぶことないじゃんか」
「どうして? でも夜響も行くんでしょ」
と、二枚のチケットをひらひらさせる。
「だって興味あるもん」
ゆりは嬉しくなって、
「一緒に行こうねーっ」
と、腕を絡めた。すぐ「一緒に」などというクラスの子たちをずっと軽蔑していたが、本当は言ってみたかった。
「ねえ夜響、本当は――」
言いかけて口ごもるが、さっきと同じ種の高揚感が現れて、ゆりを大胆にした。
「本当は、あたしを助けるためにここまで来てくれたの?」
「まさか」
ぶっきらぼうな声出して、夜響はごろんと横になり、ついとあらぬ方を向いてしまった。ゆりはぺろりと舌を出し、隣に寝そべり空を見上げる。屋根は丁度いい勾配で、頭の下に腕を組んでアイの歌声を聞いていると、心に初夏の風が舞い込むようだ。
<何とかしなきゃ
あの子が死んじゃう前に
アタシがアタシでいられるうちに
苦しめてるのも阻んでるのも このアタシ
やめたいなら今 やめられるわ
目をつぶったままでも 闇の中 歩いてゆく暗い情熱
確かにこの胸にある>
「いい詞だな」
夜響がぽつんと呟いた。「目をつぶったまま闇の中、歩いてゆく、か」
ゆりの体がどくんと波立つ。そう、聞き慣れた言葉、でも今日は一度も耳に入らなかった。あんなに何回も、繰り返し聞きながら。
(あたし、アイちゃんの言葉も聞こえなくなってたんだ…… アイちゃんが伝えようとした意味も、分からぬままで)
泣き出したくなる。
(ごめん、ごめんね、アイちゃん)
曲の終わりまで静かに続く不安なギターの音が途絶えると、ゆりは起きあがって「一曲繰り返し」を解除した。調子を変えて、明るい曲が流れ出す。アイのキュートな歌声を聴いているだけで元気になれる。
夜響は足の先で釣り竿をうまく扱い、小さな雲をふたつ引っ張ってきた。ひとつを頭の下に、もうひとつをゆりのほうへ押しやると、ぷわぷわ漂い、ゆりの鼻先に浮かんだ。ひょいと掴んで夜響のまねして枕にする。水の羽は空気より軽く、首と頭を涼やかに包み込んだ。
音楽が終わる頃には、風も随分冷たくなっていた。並んだふたりは、夜響が空から出した馬鹿でかい掻巻きをお腹にかけて、空を見上げていた。月と星と共に過ごす夕べほど、贅沢なものはない。
「きみは、誰なの」
ささやくように、ゆりは問う。隣から答えはないけれど、構わない。鏡へ向かうように、言葉を紡ぐ。
「何を思っていたの――何を願ったの」
心と対話するよう。夜響はもう、眠ってしまったのだろうか。
「――どこへ…… ゆくの――」
そっと、まぶたをおろす。目を閉じれば、幾千幾万の星が舞い降りる。願いは、叶うのだ。夜のただ中で、そっと目を閉じれば――
七里まで帰ってきてしまった。あとはもう、この小さな決意が揺らがぬうちに、自宅の玄関前から飛び降りるしかない。八階に住み、いつでも死ねるんだという安心感でここまで生きてきたが。電車の中で書き上げた遺書は、通学鞄の中に入っている。級友たちへの恨み辛みより、Braking Jamの詩の引用のほうが長い。作文は昔から苦手だったから、自分の言葉ではうまく説明できないことが多すぎる。それをアイは、ぴったりと言い表してくれる。
マンションの外廊下、手摺りをまたいで見下ろせば、くらりとする。ウォークマンは鞄の中、ここはもう夢の原宿ではないし、そんな気分づくりをしても、さっきは結局吹っ切れなかった。今はもう死ぬことだけが、最後の目標だ。
ゆりは大きく息を吸い、倒れ込むように飛び降りる。足がコンクリートを離れ、宙に放り出された。体が風を切る――間もなく、くいっと背中に引力を感じ、恐ろしい高さのまま宙吊りになった。夕方の風にあおられて、紐の先の五円玉みたいに揺れている。下を見ると目眩がして、手足が震えだした。冷や汗をかいた首筋を風が撫でる。
「おー、釣れた釣れた。大漁じゃあ!」
調子っぱずれな聞き覚えある声に、恐る恐る振り返れば、制服の襟に金具がひょいと引っかかっているのみ、金具の先は今にも切れそうな紐で、屋上に座るオニの手元まで延びている。
「オニ、なんとかしてよこれ!」
叫んでも、震えてかすれて声にならない。
「あれ。またあんたか。なんだってそんなところから飛び降りるんだよ。やっぱり自殺志望者?」
と、含み笑い。
「違うってば! なんでもいいから助けてよ!」
恐怖に泣き出すと、オニは釣り竿の手元をくるくると回して引き上げた。屋上に両手をついて、ゆりは肩で息をする。「死ぬかと思った。ほんと何すんだよ、オニ、馬鹿」
涙をため、あえぐゆりの髪をつかみあげ、オニは無理矢理自分のほうへ顔を向かせた。
「オニと呼ぶな。夜響だ」
と目を据える。
「知ってるよ、夜響」
名を呼ばれて、ちょっと嬉しそうにする。「空でも飛ぼうと思ったのか?」
「うん。夕空へ身を躍らせれば、全ての価値観から解放されると思ったんだ」
鼻をつき合わせたまま、ゆりは答える。夜響はつかんだままのゆりの髪をくい、と引っ張って、
「夜響が解放してあげる」
もう一方の手で、ゆりの肩にそっと触れる。
「助けてくれるの?」
「あんたが夜響に恋する限り、ね」
「恋って―― あんた女の子でしょ」
「違う」
言葉と同時に、ゆりは押し倒された。マンションの屋根は下り坂のうえ手摺りもない。頭は空に放り出され、長い黒髪が夕焼け空に揺れる。今の恐怖を思い出して再び震え出すゆりを、夜響はじっとのぞきこむ。「男も女もない。夜響はただ、夜響というだけだ。ねえ、自由って言葉の意味を知ってる?」
「――ハンディも性も美醜も乗り越えたなら、神にも悪魔にもなれる――」
それはやはり、アイの歌った詩だ。
「合格」
夜響はちょいとウインクした。「あんたをオニにしてやろう」
なれるの、と勢い込んで起きあがるゆりの額に、夜響は指二本を当てる。「夜響を想っていてくれるか?」
血のように赤い瞳が、不安そうにゆらいでいる。
(この人は、あたしと同じようにひとりぼっちだったんだ)
人は誰でも一人きり自分と向き合うものだと分かっていても、居場所と呼べる何かが欲しかった。本当のあたしを認めてくれる価値観、というものが支配するどこかへ、行きたかった。学校の中でほとんどの生徒が、何らかの価値観に裏付けられているように。
「うん」
ゆりはしっかりとうなずいた。夜響はちょっと笑ってうなずき返すと、そっとまぶたを閉じて、わずかに眉根を寄せた。心をひとつにまとめる。目を閉じると、まぶたの上にきつく引かれた紅いラインがあらわになる。
ゆりも目を閉じた。額から頭が強い光を浴びたようにあつくなり、その熱情にも似た熱が、体全体にじわじわと浸透してゆく。手足の先から震えが走り、泣き出したいほどの衝撃が胸を突いた。体の底から、たくさんの叫び声がこみあげる。
しばらくして、ゆりは辺りが静かなことに気が付いた。そっと目を開けると、夜響は病気の母を見守る幼子《おさなご》のような瞳でのぞき込んでいる。まじまじと見下ろした両手は、夜響のように青白くもなく、何も変わっていない。
「姿は変わらないの?」
「別に。望まなきゃそのままさ」
「夜響は望んだ?」
「こんな姿の種はいない」
にやりとして、ゆりの頬から顎へ指をすべらせた。「あんたは今のままでかわいいぜ。その姿のまま、夜響に恋をしてるところが見たい」
ゆりはぷっと吹き出して、わくわくしながら夜響に寄りかかってみる。
「あんたも星を釣りな。今日の夕飯だ」
口ほどにもなくシャイなのか、無表情を作ってそっけなく釣り竿を手渡した。
「星を?」
頓狂な声を上げるゆりに、自分の竿を振り上げ、
「そう、こんなふうに」
竿の先の金具が夜空に高く跳ね上がり、その瞬間頭上で何かが煌めいた。
「ほうらかかった」
手元をくるくる回せば紐に引き寄せられて、金具の先には絵に描いたような五芒星、ぺかぺかと金色に輝いている。
「それ食べられるの?」
「勿論!」
景気よく返事して、また釣り竿を放りあげる。
「毎日こうやって暮らすの?」
「泊まる家はあったけど――」
言い淀み、思い詰めたように竿の先をみつめる。目に浮かぶのは鉄の扉、家を追われた夜響の前に、無情に立ちはだかった。
不思議そうに眺めるゆりに気付いて振り返り、「こんなふうに過ごすのは嫌か?」
ゆりは首を振る。「大好きな曲と夜響がいれば、怖いものなんてない」あ、と手を叩いて、「荷物取りに戻っていい? 音楽がないと、あたし生きてゆけないんだ。それに――」
置きっぱなしの鞄に入れたままの遺書を見たら、母はどう思うだろう。
「そんなこと全て、今に考えなくなるさ」
「え、親のこと?」
「だけじゃなく」
はっとしてゆりは、吊り竿をみつめる表情のない横顔をにらみつけた。「あたしはずうっと、Braking Jamのファンだよ!」
夜響は何も言わず、空を見上げる。漆黒の夜空の所々に、灰色の雲が浮かび出した。
「曇ってきやがった、折角の夜に。闇がくすんじまう」
舌打ちして引いた竿の先には灰色の雲、むっとして片目を細める。「ま、ちょうどいいか。こいつに乗っていきな」
ゆりは瞠目する。もくもくと表情変える雲へ、恐る恐る足を伸ばせば、それはやさしく足の裏を受け止めた。雲は沈み込むように降下し、ゆりは八階の手摺りに飛び移った。通学鞄は思い詰めていたさっきのまま、足下に転がっている。もう家に戻らぬならあれもこれも持ち出そうと、一旦部屋に戻った。
むっとした空気が立ちこめる見慣れたダイニングキッチンは、既に懐かしい。去年の夏から出しっぱなしの扇風機も、年末に商店街でもらった壁のカレンダーも、冷蔵庫の扉に所狭しとくっついたマグネットも。部屋の電気をつけて、テーブルの上に置かれた一枚の紙に気がついた。一歩あとずさり、それから慌てて手に取った。やはり、母の置き手紙だった。
<百合子、おかえりなさい。
今日は仕事で遅くなります。先にお風呂に入って、冷蔵庫にあじの開きがあるので焼いて食べててね。
あなたのこと、とても心配しましたよ。けれどどうしても仕事が休めなくて。ごめんなさいね。なるべく早く帰ります。母より>
どうしよう、とゆりは立ちすくむ。胸の奥に、ずんと痛みが走る。
(お母さんは毎日、あたしが帰ってきたらって考えて、手紙を書いていたのかな)
母が恋しい一方で、十六年間いましめてきた鎖から解き放たれたい。
それを断ち切るのは自分しかない。
その声は、本当にゆりの心から聞こえたものだったろうか。屋上で待つ夜響の陰が、ゆりの頭を占領してゆく。
(オニになるってこういうこと?)
思ったときには、不自然な高揚感が、浮かんだ涙を吹き消していた。
ゆりはふいと自分の部屋に戻って着替え出す。遺書は破り捨てる。苺柄の大きな袋に、CDとMDとウォークマン、小遣いをはたいて買った大好きなブランド「B.B.Girlz」の服、お金と通帳、家にあったお菓子全部をつめこんで、一旦は家を出たものの、急げ急げと叫ぶ声になんとかあらがい、もう一度ダイニングに戻る。
<私もなるべく早く帰ります。Yuri>
母の手紙の下に小さな字で書き足して、家の匂いを振り切って夏の夜空の下へと駆け出した。
屋上では夜響が起こした火の周りに、棒に刺した星を並べていい匂いをさせている。香ばしくてこってりとしていて、甘みを含んだ実に食欲を誘う匂い。星はひとつひとつ味が違い、しかも雲から絞り出したジュースは、今までに飲んだことないすがすがしい香りとさわやかな甘み。
夜響はゆりのウォークマンから無造作にイヤホンを抜き取ると、「再生」を押す。
「そんなことしても聴けないって」
ゆりが言い終わらぬうちに、スピーカーもないのに「蟲」が流れ出す。
「うそ……」
思わず竹串を取り落とすゆりに、
「夜響はオニだよ」
と、いたずらっぽく笑う。
<いつまでこんなこと続けるつもりって
心臓の壁 誰かが内側から叩いてる>
今日何度も聞いたメロディーが流れ出す。
「続けても意味ないかな」
夜響がぽつんと呟く。え、と聞き返しても答えない。
「ねえ夜響、夜響は何でも出来るの?」
「オニになれば、なんだって出来る。月にも飛べるし、星のバーベキューも食べられる。誰かの頭を攪乱することも、みんなの心を自由に宇宙まで飛ばすことも。世界を救うも壊すも夜響の思いのままさ」
「じゃあ――」ゆりは膝を乗り出して、「Braking Jamのライブに行きたい! もうチケット売り切れちゃったんだけど。――出来る?」
夜響は無言のまま、夜空に右手を突き上げた。何かをつかみ取るようにして、手の中のものをゆりに差し出す。「これでいいか?」
「うわぁ! すごい」
「せーっかくオニになったのに、この世界で遊ぶことないじゃんか」
「どうして? でも夜響も行くんでしょ」
と、二枚のチケットをひらひらさせる。
「だって興味あるもん」
ゆりは嬉しくなって、
「一緒に行こうねーっ」
と、腕を絡めた。すぐ「一緒に」などというクラスの子たちをずっと軽蔑していたが、本当は言ってみたかった。
「ねえ夜響、本当は――」
言いかけて口ごもるが、さっきと同じ種の高揚感が現れて、ゆりを大胆にした。
「本当は、あたしを助けるためにここまで来てくれたの?」
「まさか」
ぶっきらぼうな声出して、夜響はごろんと横になり、ついとあらぬ方を向いてしまった。ゆりはぺろりと舌を出し、隣に寝そべり空を見上げる。屋根は丁度いい勾配で、頭の下に腕を組んでアイの歌声を聞いていると、心に初夏の風が舞い込むようだ。
<何とかしなきゃ
あの子が死んじゃう前に
アタシがアタシでいられるうちに
苦しめてるのも阻んでるのも このアタシ
やめたいなら今 やめられるわ
目をつぶったままでも 闇の中 歩いてゆく暗い情熱
確かにこの胸にある>
「いい詞だな」
夜響がぽつんと呟いた。「目をつぶったまま闇の中、歩いてゆく、か」
ゆりの体がどくんと波立つ。そう、聞き慣れた言葉、でも今日は一度も耳に入らなかった。あんなに何回も、繰り返し聞きながら。
(あたし、アイちゃんの言葉も聞こえなくなってたんだ…… アイちゃんが伝えようとした意味も、分からぬままで)
泣き出したくなる。
(ごめん、ごめんね、アイちゃん)
曲の終わりまで静かに続く不安なギターの音が途絶えると、ゆりは起きあがって「一曲繰り返し」を解除した。調子を変えて、明るい曲が流れ出す。アイのキュートな歌声を聴いているだけで元気になれる。
夜響は足の先で釣り竿をうまく扱い、小さな雲をふたつ引っ張ってきた。ひとつを頭の下に、もうひとつをゆりのほうへ押しやると、ぷわぷわ漂い、ゆりの鼻先に浮かんだ。ひょいと掴んで夜響のまねして枕にする。水の羽は空気より軽く、首と頭を涼やかに包み込んだ。
音楽が終わる頃には、風も随分冷たくなっていた。並んだふたりは、夜響が空から出した馬鹿でかい掻巻きをお腹にかけて、空を見上げていた。月と星と共に過ごす夕べほど、贅沢なものはない。
「きみは、誰なの」
ささやくように、ゆりは問う。隣から答えはないけれど、構わない。鏡へ向かうように、言葉を紡ぐ。
「何を思っていたの――何を願ったの」
心と対話するよう。夜響はもう、眠ってしまったのだろうか。
「――どこへ…… ゆくの――」
そっと、まぶたをおろす。目を閉じれば、幾千幾万の星が舞い降りる。願いは、叶うのだ。夜のただ中で、そっと目を閉じれば――
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