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一章、嘘 ――Drug Trip――

18.夜の名を持つ君と、その連れと、再び始まる奇妙な共同生活

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 四角い扉が並ぶ外廊下に、月が青い影を落としている。息を切らして登ってきたハルカは息を呑んだ。部屋の前の手摺りに座る白い人影へと走り出した。影が手摺りを離れ、手を伸ばす遥へと舞い降りる。見慣れた白い着物に、赤紫の帯、どこで手に入れたのか、今日は頭の横に般若の面を付けている。

「ハルカ、久し振り!」

夜響やきょう――」

 言葉に詰まる。もう来てくれないと思ってた、とかわいいことを言うのもしゃくだ。

「馬鹿、心配したんだぞ」

 結局、拳で頭を叩いてしまう。いて、と夜響は片目をつぶって、

「ハルカ、髪切ったんだな」浮かんだまま顔を寄せ、鼻の先をくっつけだ。「益々ますます魅惑的だ。惚れちまいそうだぜ」

 遥は目を閉じて、ちょっと背伸びする。そっと、唇が触れあった。ちょっとにらむようにしてくすっと笑うと、くすぐったそうな夜響は、一瞬目を見開いて、それから、サンキュ、と遥の肩に腕をまわした。

「今日からハルカのうちに泊まるよ」

 過去のことなど忘れたような物言いに、ほっとする。謝る勇気などないのだから。

「どうぞ」

 と突き放すと、

「もうひとりも泊めてやってくんない」

 テレビで共に映っていた子だろうか。

「うち経済状態きついんだよ。二人なんて有り得ない」

 一蹴いっしゅうして鍵を差し込むと、夜響は片手を夜空に向ける。一瞬のうちに、その手の上に出前の寿司が現れた。「これでどうだ。喰いもんの心配は無用だよ」

 振り返った遥は、目を見張る。

「夜響、あんた一週間前は、食べ物くれって言ったじゃない」

「オニの力が強まった」

「どうやって」

「思い出せば怒りはいくらでも湧くさ。夜響の力の源は呪いだからね」

 それはつまり、過去の自分を――人だった頃の自分を憎み続けるってこと? 恐ろしくて訊けないのに、夜響はけろりとしている。

「彼女だ、アカネだっけ。洗面所の床でもいいから貸してやってよ」

 遥は息を呑んだ。振り返った途端、一瞬前まで誰もいなかった手摺りに、長い黒髪の少女がちょんと座っている。壊れたフランス人形みたいにうつろなは、テレビに映っていたあの少女に間違いない。胸には骸骨のネックレス、小さなベルトがたくさんついた黒革のジャケットに不釣り合いなほどクラシカルな黒いスカートは、片裾だけが地に着きそうに長い。裾から真っ赤な靴がきらりとのぞく。

(この子、既にオニだよね。あたしもこうなっていたかも知れない)

 よくもあたしにオニの気を、と怒る前に、少女がふわりと手摺りから下りて、右手を差し出した。「ボクさえるです。ヨロシク」

 怪訝な目で夜響を振り返ると、

「なに、なんだって? 今度は冴になったの? 最初に会った日はユイとか言ったじゃん、あんた」

 夜響も混乱している。

(そういうこと)

 なんとなく納得して、遥は少女の手を握り返す。「ボク」などと言っているが、声からして女の子であることに疑いはない。

(夜響がこの子に声をかけたってことは―― あたしこんな子と同類ってみなされてるわけ?)

 思わずうんざりする。苦笑混じりに、

「なんて呼んだらいいのかな」

 答える前に携帯が鳴り、少女は急いで電話に出る。「ごめんね、アキね、今電車の中なの、あとで電話する」

 つれない返事をして早々に切ってしまった。その呼び出し音――着メロが気になって、遥は名のことなど忘れてしまう。

(そうだ、あの曲。『こんなあたしじゃ猫も喰わない』って歌う曲だ)

 二人を従え部屋に入る。電気をけ、習慣のように音楽をかける。気ままなひとりが好きでも、音のない世界には不安がつのる。

 部屋を見回していた少女は、デッキから流れ出した歌舞伎の「だんまり」の曲に、さほど驚くでもない。壁に並ぶ北斎の絵のほうに、先に目を見開いていたからだ。新聞社から購読者全員に無料タダで配布された物だが、遥にとっては宝物だ。

「アカネ、この曲けなしちゃあ駄目だよ、居候いそうろうの権利が一瞬にして剥奪されるんだ」

 夜響はそんなことを言って遥をからかう。「この人は好きなもん悪く言われると、天地がひっくり返ったように怒るんだから。な」

 にやにやしながら振り返る夜響を、遥は思いっきりにらみつける。少女は真面目な顔で、

「この曲、好きなの?」

「悪い?」

 すでに喧嘩腰の遥に、少女はふるふると首を振り、

「好きなものけなされて、キレない奴はいないよ。夜響だって、どうしても守んなくちゃいけない大切なものってあるでしょ」

 と真摯な口調。じっと見上げられ、夜響は無表情のままみつめ返す。

「夜響、人だった頃は何が好きだったの、どんなことに夢中になってたの」

 ゆりの言葉に、困惑したように何も言わず、ふいと視線をそらす姿に遥は哀しくなる。

(この子は夢中になる物が一個もなくなっちゃうくらい、からっぽになってたんだ)

 生きている今を感じられず、自分が誰なのか確かめるすべもなく、日々はただ無為に過ぎていった。

「ハルカさん、本当の名前は教えらんないけどね、あたしのことは、ユリって呼んでくれればいいです」少女は、急に親しげに微笑んだ。「今度の土曜日、夜響とライブ行くんだけど、ハルカさんも行かない? チケットは夜響が無料で空から取り出してくれるよ」

「土曜? 無理だ。あたし歌舞伎見に行くの」

 思わず頬の肉がゆるんで、遥はにやーっとする。いそいそとちらしを出して、

「これなの、三人吉三さんにんきちさっていうの、けっこう有名な演目だけど、聞いたことある?」

「全く」

  ゆりはあっさりと首を振り、夜響はベッドに仰向けになったまま、甘えた声を出した。

「夜響も行こうかな~。ハルカと一緒に出かけたいもん」

 ゆりはちらしをためつすがめつしながら、

「十二時開演じゃん。ライブ夜ですよ、来られるんじゃん?」

「時間的には行けるけど、歌舞伎見た日はずっとかってたいから、駄目なの。折角見た舞台のイメージが消えるようなことは、したくないから」

「あ。分かる。大切な時間の空気には、出来るだけ長く包まれてたいよね」

 ベッドに寝そべった夜響は、うなずきあう二人に何だかつまらなそう。

「じゃあ夜響もライブ行くのやめようかな」

 と気まぐれ言って、やだ、ちゃんと来てよ、とゆりに念を押された。
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