13 / 41
一章、嘘 ――Drug Trip――
13.鬼になる要素は誰もが持っている
しおりを挟む
缶ビールと煙草の煙を友に、広松は電気を消した部屋でパソコンに向かっていた。小さくかけたラジオからは、ずっと音楽が流れている。
家で自由に吸える煙草も、今夜はちっともおいしくない。冬になると凍えるようなベランダで、妻と子供に追い出されて吸う方がずっとましだ。織江と守は同じ市内にある祖父の家に行ったきり帰ってこない。織江の置き手紙によれば、母が風邪をこじらせ、料理のひとつも出来ぬ父の看病だけでは不安だから、泊まりがけで様子を見るというのだが、夏休みをいいことに、病人のいる家に小さな守を連れてゆくなど、絶対おかしい。本意は知れている、昨夜の喧嘩をまだ根に持っているのだ。
「やけ酒?」
小さなくるっとした目にいじわるな光、紅い唇には嘲笑が浮かんでいる。
仕事から帰った織江は無口だったが、疲れているのだろうと、広松は気に留めなかった。警察から電話が来たときには、既に仕事に出ていたのだろうと、安心していた。だが大宮仲町教室に左遷された話をした途端、織江はくすっと笑い、やけ酒、と問うた。一瞬何を言われたのか分からない、愚鈍な脳味噌を、広松は恨まずにいられない。呆けた顔を見せた一瞬の間に、織江は二の句を継ぐ。
「もう警察からの電話はごめんなのよ」
一回目は、空き家で少女に猥褻な行為を働いたというもの。夜響に初めて会った晩のことだ。返す言葉を失う広松に、
「お母さんがどうやらまた風邪をひいたみたいなの。今度のはひどくてね、明日から守を連れて実家に泊まるかも知れないわ」
「なぜ守を連れてゆくんだ」
怒声をはらむ広松の声に、うるさそうに顔を背け、
「あなたじゃ心配だから」
警察に二度もお世話になる人じゃね、と言外に漂わせて。
「お前なら安心だというのか? ろくに料理も作らず世話もせず、洗濯は週に一回、掃除などほとんど俺任せ、母親役が務まっていると思ってるのか。守のためを考えたら、いつまでも数学教師などやって、いい気になってる場合じゃないだろ」
「嫉妬なの?」
溜め息混じりの疲れた声に、広松の怒りは爆発する。折角かわいい子供が産まれたのに、幸せな家庭を築こうとしない妻に、怒りが込み上げる。お惣菜育ちの守に家庭の味を教えたくて、日曜のたびに広松は腕を振るうのに、織江はまるで彼の作ろうとする幸せな家庭に興味を示さない。
「あなたの夢見る幸せな家庭は、わたしの夢とは違うのよ」
益々冷静に織江が応じて、広松は喉まで出かかった怒声を辛うじて押さえた。織江の後ろに、眠たそうに目をこすりながら、パジャマ姿の守が立っていた。
「どうしたの」
高い声は不安にゆれる。
「守くん、明日からおばあちゃんとおじいちゃんちに行こうと思うんだけど」
「うわあ、行きたい!」
織江に飛びつく守に、行くなとは言えない。
「でもおばあちゃん、お体をこわしてるから、おじいちゃんとしか遊べないけれど、それでもいい?」
「いい、いい。ぼく静かにしてるよ」
「それじゃあ行こうね。今日は早く寝なさい」
「お母さんは?」
「すぐに寝るわよ」
部屋へ入る前に守は、お父さんおやすみなさい、と広松を振り返り、きらきらとした笑顔を見せた。
広松はキーボードの横に肘をついて、両のまぶたに強く指先を当てた。パソコンの検索欄には「行方不明」の四字。夜響の正体など調べて何になるのだろう、守が喜んでくれるとでもいうのか。
広松はマウスを握りしめ、ちらちらする目でディスプレイを凝視した。何千件という検索結果。織江に説いた幸せな家庭。
(俺はどうしたいんだ)
精神の自由、なんて言葉だけにしか思えない。好きなことに賭けるのと、守を幸せにするのと、どちらを優先すべきか、答えは決まっている。
「俺は降りる。夜響、おしまいだ」
インターネットのウインドウを閉じようとしたとき、ラジオから流れた言葉に広松は手を止めた。
<Braking Jam、『ハラジュク遊戯』>
確か市野沢百合子が好きだという――
軽い感じのイントロが流れて、少女が歌い出す。
<薄汚れたバニードール 路地裏に転がってる
捨てられ忘れ去られて 猫さえも寄りつかない>
憂鬱な詩を笑うように、調子の良いメロディー、早すぎないドラムのリズム。
<排気ガスで真っ黒な空からは 月の光さえ届かない
街を彩るネオンサインも
四方八方高層ビルに囲まれて アタシのとこまで届かない>
少女の独特な歌い方は、闇の中から全てを笑い飛ばすよう、歌の切れ目に入るギターの装飾音は、高く華やかだが、明るい曲全体にどこかねじれたような、本当は終わりを予感しているような嘘臭さがある。
マウスを握る指が無意識のうちに、「娘を捜しています」の文字をクリックしていた。ページが表示されるまでの短くも長い時間に、広松は思う。
(誰もがオニになる要素を持っている)
いじめられる生徒がオニになると考えた単純さが馬鹿らしい。思い通りしたい、変わりたい、と思ったことのない人がいるだろうか。自制出来るか出来ないか、それから不幸なチャンスが訪れるかどうか、だ。
ラジオの中のアイだって、きらびやかなメイクと衣装で本心を覆い隠し、見た目の華やかさで人の目をくらまし、違う誰かになって、本当のことなんて何もないよ、と言わぬばかり。だが百合子は、その幻を偽りと知りながら、彼女を愛した。人に夢を見せることも、夢を見ることも、そんなものかもしれない。
<なんにもないアタシだけど
空虚を飾り立てて
表現するものなんか何もなくても>
ふと目をやる画面の中で、ひとりの少女がにこやかに手を振っている。小学校高学年くらいか。これといった特徴のない、どこにでもいそうな顔立ちだ。
「お前が夜響か?」
もう幾度目かになる問い、印刷機の排出口には、ページのコピーが積み重なっている。
「娘を捜しています」という母親の、悲痛なホームページだ。少女の名は山本一葉、幼く見えるが中学二年、この六月、十四になったという。足立区に住み、地元の公立中学に通い、成績も良く、しっかりとした子だと母は書いている。写真は去年の夏、家族旅行の折りに撮影したものだ。
広松はそのページもコピーしておいた。
<アタシのセカイに生きたいの
闇の中で踊りまくるの
マジメにおとなしい振りなんて出来ないわ>
パソコンの画面だけがまぶしい薄闇の中、アイの歌声だけが、耳に残っていた。
家で自由に吸える煙草も、今夜はちっともおいしくない。冬になると凍えるようなベランダで、妻と子供に追い出されて吸う方がずっとましだ。織江と守は同じ市内にある祖父の家に行ったきり帰ってこない。織江の置き手紙によれば、母が風邪をこじらせ、料理のひとつも出来ぬ父の看病だけでは不安だから、泊まりがけで様子を見るというのだが、夏休みをいいことに、病人のいる家に小さな守を連れてゆくなど、絶対おかしい。本意は知れている、昨夜の喧嘩をまだ根に持っているのだ。
「やけ酒?」
小さなくるっとした目にいじわるな光、紅い唇には嘲笑が浮かんでいる。
仕事から帰った織江は無口だったが、疲れているのだろうと、広松は気に留めなかった。警察から電話が来たときには、既に仕事に出ていたのだろうと、安心していた。だが大宮仲町教室に左遷された話をした途端、織江はくすっと笑い、やけ酒、と問うた。一瞬何を言われたのか分からない、愚鈍な脳味噌を、広松は恨まずにいられない。呆けた顔を見せた一瞬の間に、織江は二の句を継ぐ。
「もう警察からの電話はごめんなのよ」
一回目は、空き家で少女に猥褻な行為を働いたというもの。夜響に初めて会った晩のことだ。返す言葉を失う広松に、
「お母さんがどうやらまた風邪をひいたみたいなの。今度のはひどくてね、明日から守を連れて実家に泊まるかも知れないわ」
「なぜ守を連れてゆくんだ」
怒声をはらむ広松の声に、うるさそうに顔を背け、
「あなたじゃ心配だから」
警察に二度もお世話になる人じゃね、と言外に漂わせて。
「お前なら安心だというのか? ろくに料理も作らず世話もせず、洗濯は週に一回、掃除などほとんど俺任せ、母親役が務まっていると思ってるのか。守のためを考えたら、いつまでも数学教師などやって、いい気になってる場合じゃないだろ」
「嫉妬なの?」
溜め息混じりの疲れた声に、広松の怒りは爆発する。折角かわいい子供が産まれたのに、幸せな家庭を築こうとしない妻に、怒りが込み上げる。お惣菜育ちの守に家庭の味を教えたくて、日曜のたびに広松は腕を振るうのに、織江はまるで彼の作ろうとする幸せな家庭に興味を示さない。
「あなたの夢見る幸せな家庭は、わたしの夢とは違うのよ」
益々冷静に織江が応じて、広松は喉まで出かかった怒声を辛うじて押さえた。織江の後ろに、眠たそうに目をこすりながら、パジャマ姿の守が立っていた。
「どうしたの」
高い声は不安にゆれる。
「守くん、明日からおばあちゃんとおじいちゃんちに行こうと思うんだけど」
「うわあ、行きたい!」
織江に飛びつく守に、行くなとは言えない。
「でもおばあちゃん、お体をこわしてるから、おじいちゃんとしか遊べないけれど、それでもいい?」
「いい、いい。ぼく静かにしてるよ」
「それじゃあ行こうね。今日は早く寝なさい」
「お母さんは?」
「すぐに寝るわよ」
部屋へ入る前に守は、お父さんおやすみなさい、と広松を振り返り、きらきらとした笑顔を見せた。
広松はキーボードの横に肘をついて、両のまぶたに強く指先を当てた。パソコンの検索欄には「行方不明」の四字。夜響の正体など調べて何になるのだろう、守が喜んでくれるとでもいうのか。
広松はマウスを握りしめ、ちらちらする目でディスプレイを凝視した。何千件という検索結果。織江に説いた幸せな家庭。
(俺はどうしたいんだ)
精神の自由、なんて言葉だけにしか思えない。好きなことに賭けるのと、守を幸せにするのと、どちらを優先すべきか、答えは決まっている。
「俺は降りる。夜響、おしまいだ」
インターネットのウインドウを閉じようとしたとき、ラジオから流れた言葉に広松は手を止めた。
<Braking Jam、『ハラジュク遊戯』>
確か市野沢百合子が好きだという――
軽い感じのイントロが流れて、少女が歌い出す。
<薄汚れたバニードール 路地裏に転がってる
捨てられ忘れ去られて 猫さえも寄りつかない>
憂鬱な詩を笑うように、調子の良いメロディー、早すぎないドラムのリズム。
<排気ガスで真っ黒な空からは 月の光さえ届かない
街を彩るネオンサインも
四方八方高層ビルに囲まれて アタシのとこまで届かない>
少女の独特な歌い方は、闇の中から全てを笑い飛ばすよう、歌の切れ目に入るギターの装飾音は、高く華やかだが、明るい曲全体にどこかねじれたような、本当は終わりを予感しているような嘘臭さがある。
マウスを握る指が無意識のうちに、「娘を捜しています」の文字をクリックしていた。ページが表示されるまでの短くも長い時間に、広松は思う。
(誰もがオニになる要素を持っている)
いじめられる生徒がオニになると考えた単純さが馬鹿らしい。思い通りしたい、変わりたい、と思ったことのない人がいるだろうか。自制出来るか出来ないか、それから不幸なチャンスが訪れるかどうか、だ。
ラジオの中のアイだって、きらびやかなメイクと衣装で本心を覆い隠し、見た目の華やかさで人の目をくらまし、違う誰かになって、本当のことなんて何もないよ、と言わぬばかり。だが百合子は、その幻を偽りと知りながら、彼女を愛した。人に夢を見せることも、夢を見ることも、そんなものかもしれない。
<なんにもないアタシだけど
空虚を飾り立てて
表現するものなんか何もなくても>
ふと目をやる画面の中で、ひとりの少女がにこやかに手を振っている。小学校高学年くらいか。これといった特徴のない、どこにでもいそうな顔立ちだ。
「お前が夜響か?」
もう幾度目かになる問い、印刷機の排出口には、ページのコピーが積み重なっている。
「娘を捜しています」という母親の、悲痛なホームページだ。少女の名は山本一葉、幼く見えるが中学二年、この六月、十四になったという。足立区に住み、地元の公立中学に通い、成績も良く、しっかりとした子だと母は書いている。写真は去年の夏、家族旅行の折りに撮影したものだ。
広松はそのページもコピーしておいた。
<アタシのセカイに生きたいの
闇の中で踊りまくるの
マジメにおとなしい振りなんて出来ないわ>
パソコンの画面だけがまぶしい薄闇の中、アイの歌声だけが、耳に残っていた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
放課後はネットで待ち合わせ
星名柚花
青春
【カクヨム×魔法のiらんどコンテスト特別賞受賞作】
高校入学を控えた前日、山科萌はいつものメンバーとオンラインゲームで遊んでいた。
何気なく「明日入学式だ」と言ったことから、ゲーム友達「ルビー」も同じ高校に通うことが判明。
翌日、萌はルビーと出会う。
女性アバターを使っていたルビーの正体は、ゲーム好きな美少年だった。
彼から女子避けのために「彼女のふりをしてほしい」と頼まれた萌。
初めはただのフリだったけれど、だんだん彼のことが気になるようになり…?
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
#消えたい僕は君に150字の愛をあげる
川奈あさ
青春
旧題:透明な僕たちが色づいていく
誰かの一番になれない僕は、今日も感情を下書き保存する
空気を読むのが得意で、周りの人の為に動いているはずなのに。どうして誰の一番にもなれないんだろう。
家族にも友達にも特別に必要とされていないと感じる雫。
そんな雫の一番大切な居場所は、”150文字”の感情を投稿するSNS「Letter」
苦手に感じていたクラスメイトの駆に「俺と一緒に物語を作って欲しい」と頼まれる。
ある秘密を抱える駆は「letter」で開催されるコンテストに作品を応募したいのだと言う。
二人は”150文字”の種になる季節や色を探しに出かけ始める。
誰かになりたくて、なれなかった。
透明な二人が150文字の物語を紡いでいく。
青春リフレクション
羽月咲羅
青春
16歳までしか生きられない――。
命の期限がある一条蒼月は未来も希望もなく、生きることを諦め、死ぬことを受け入れるしかできずにいた。
そんなある日、一人の少女に出会う。
彼女はいつも当たり前のように側にいて、次第に蒼月の心にも変化が現れる。
でも、その出会いは偶然じゃなく、必然だった…!?
胸きゅんありの切ない恋愛作品、の予定です!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
クルーエル・ワールドの軌跡
木風 麦
青春
とある女子生徒と出会ったことによって、偶然か必然か、開かなかった記憶の扉が、身近な人物たちによって開けられていく。
人間の情が絡み合う、複雑で悲しい因縁を紐解いていく。記憶を閉じ込めた者と、記憶を糧に生きた者が織り成す物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる