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一章、嘘 ――Drug Trip――
13.鬼になる要素は誰もが持っている
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缶ビールと煙草の煙を友に、広松は電気を消した部屋でパソコンに向かっていた。小さくかけたラジオからは、ずっと音楽が流れている。
家で自由に吸える煙草も、今夜はちっともおいしくない。冬になると凍えるようなベランダで、妻と子供に追い出されて吸う方がずっとましだ。織江と守は同じ市内にある祖父の家に行ったきり帰ってこない。織江の置き手紙によれば、母が風邪をこじらせ、料理のひとつも出来ぬ父の看病だけでは不安だから、泊まりがけで様子を見るというのだが、夏休みをいいことに、病人のいる家に小さな守を連れてゆくなど、絶対おかしい。本意は知れている、昨夜の喧嘩をまだ根に持っているのだ。
「やけ酒?」
小さなくるっとした目にいじわるな光、紅い唇には嘲笑が浮かんでいる。
仕事から帰った織江は無口だったが、疲れているのだろうと、広松は気に留めなかった。警察から電話が来たときには、既に仕事に出ていたのだろうと、安心していた。だが大宮仲町教室に左遷された話をした途端、織江はくすっと笑い、やけ酒、と問うた。一瞬何を言われたのか分からない、愚鈍な脳味噌を、広松は恨まずにいられない。呆けた顔を見せた一瞬の間に、織江は二の句を継ぐ。
「もう警察からの電話はごめんなのよ」
一回目は、空き家で少女に猥褻な行為を働いたというもの。夜響に初めて会った晩のことだ。返す言葉を失う広松に、
「お母さんがどうやらまた風邪をひいたみたいなの。今度のはひどくてね、明日から守を連れて実家に泊まるかも知れないわ」
「なぜ守を連れてゆくんだ」
怒声をはらむ広松の声に、うるさそうに顔を背け、
「あなたじゃ心配だから」
警察に二度もお世話になる人じゃね、と言外に漂わせて。
「お前なら安心だというのか? ろくに料理も作らず世話もせず、洗濯は週に一回、掃除などほとんど俺任せ、母親役が務まっていると思ってるのか。守のためを考えたら、いつまでも数学教師などやって、いい気になってる場合じゃないだろ」
「嫉妬なの?」
溜め息混じりの疲れた声に、広松の怒りは爆発する。折角かわいい子供が産まれたのに、幸せな家庭を築こうとしない妻に、怒りが込み上げる。お惣菜育ちの守に家庭の味を教えたくて、日曜のたびに広松は腕を振るうのに、織江はまるで彼の作ろうとする幸せな家庭に興味を示さない。
「あなたの夢見る幸せな家庭は、わたしの夢とは違うのよ」
益々冷静に織江が応じて、広松は喉まで出かかった怒声を辛うじて押さえた。織江の後ろに、眠たそうに目をこすりながら、パジャマ姿の守が立っていた。
「どうしたの」
高い声は不安にゆれる。
「守くん、明日からおばあちゃんとおじいちゃんちに行こうと思うんだけど」
「うわあ、行きたい!」
織江に飛びつく守に、行くなとは言えない。
「でもおばあちゃん、お体をこわしてるから、おじいちゃんとしか遊べないけれど、それでもいい?」
「いい、いい。ぼく静かにしてるよ」
「それじゃあ行こうね。今日は早く寝なさい」
「お母さんは?」
「すぐに寝るわよ」
部屋へ入る前に守は、お父さんおやすみなさい、と広松を振り返り、きらきらとした笑顔を見せた。
広松はキーボードの横に肘をついて、両のまぶたに強く指先を当てた。パソコンの検索欄には「行方不明」の四字。夜響の正体など調べて何になるのだろう、守が喜んでくれるとでもいうのか。
広松はマウスを握りしめ、ちらちらする目でディスプレイを凝視した。何千件という検索結果。織江に説いた幸せな家庭。
(俺はどうしたいんだ)
精神の自由、なんて言葉だけにしか思えない。好きなことに賭けるのと、守を幸せにするのと、どちらを優先すべきか、答えは決まっている。
「俺は降りる。夜響、おしまいだ」
インターネットのウインドウを閉じようとしたとき、ラジオから流れた言葉に広松は手を止めた。
<Braking Jam、『ハラジュク遊戯』>
確か市野沢百合子が好きだという――
軽い感じのイントロが流れて、少女が歌い出す。
<薄汚れたバニードール 路地裏に転がってる
捨てられ忘れ去られて 猫さえも寄りつかない>
憂鬱な詩を笑うように、調子の良いメロディー、早すぎないドラムのリズム。
<排気ガスで真っ黒な空からは 月の光さえ届かない
街を彩るネオンサインも
四方八方高層ビルに囲まれて アタシのとこまで届かない>
少女の独特な歌い方は、闇の中から全てを笑い飛ばすよう、歌の切れ目に入るギターの装飾音は、高く華やかだが、明るい曲全体にどこかねじれたような、本当は終わりを予感しているような嘘臭さがある。
マウスを握る指が無意識のうちに、「娘を捜しています」の文字をクリックしていた。ページが表示されるまでの短くも長い時間に、広松は思う。
(誰もがオニになる要素を持っている)
いじめられる生徒がオニになると考えた単純さが馬鹿らしい。思い通りしたい、変わりたい、と思ったことのない人がいるだろうか。自制出来るか出来ないか、それから不幸なチャンスが訪れるかどうか、だ。
ラジオの中のアイだって、きらびやかなメイクと衣装で本心を覆い隠し、見た目の華やかさで人の目をくらまし、違う誰かになって、本当のことなんて何もないよ、と言わぬばかり。だが百合子は、その幻を偽りと知りながら、彼女を愛した。人に夢を見せることも、夢を見ることも、そんなものかもしれない。
<なんにもないアタシだけど
空虚を飾り立てて
表現するものなんか何もなくても>
ふと目をやる画面の中で、ひとりの少女がにこやかに手を振っている。小学校高学年くらいか。これといった特徴のない、どこにでもいそうな顔立ちだ。
「お前が夜響か?」
もう幾度目かになる問い、印刷機の排出口には、ページのコピーが積み重なっている。
「娘を捜しています」という母親の、悲痛なホームページだ。少女の名は山本一葉、幼く見えるが中学二年、この六月、十四になったという。足立区に住み、地元の公立中学に通い、成績も良く、しっかりとした子だと母は書いている。写真は去年の夏、家族旅行の折りに撮影したものだ。
広松はそのページもコピーしておいた。
<アタシのセカイに生きたいの
闇の中で踊りまくるの
マジメにおとなしい振りなんて出来ないわ>
パソコンの画面だけがまぶしい薄闇の中、アイの歌声だけが、耳に残っていた。
家で自由に吸える煙草も、今夜はちっともおいしくない。冬になると凍えるようなベランダで、妻と子供に追い出されて吸う方がずっとましだ。織江と守は同じ市内にある祖父の家に行ったきり帰ってこない。織江の置き手紙によれば、母が風邪をこじらせ、料理のひとつも出来ぬ父の看病だけでは不安だから、泊まりがけで様子を見るというのだが、夏休みをいいことに、病人のいる家に小さな守を連れてゆくなど、絶対おかしい。本意は知れている、昨夜の喧嘩をまだ根に持っているのだ。
「やけ酒?」
小さなくるっとした目にいじわるな光、紅い唇には嘲笑が浮かんでいる。
仕事から帰った織江は無口だったが、疲れているのだろうと、広松は気に留めなかった。警察から電話が来たときには、既に仕事に出ていたのだろうと、安心していた。だが大宮仲町教室に左遷された話をした途端、織江はくすっと笑い、やけ酒、と問うた。一瞬何を言われたのか分からない、愚鈍な脳味噌を、広松は恨まずにいられない。呆けた顔を見せた一瞬の間に、織江は二の句を継ぐ。
「もう警察からの電話はごめんなのよ」
一回目は、空き家で少女に猥褻な行為を働いたというもの。夜響に初めて会った晩のことだ。返す言葉を失う広松に、
「お母さんがどうやらまた風邪をひいたみたいなの。今度のはひどくてね、明日から守を連れて実家に泊まるかも知れないわ」
「なぜ守を連れてゆくんだ」
怒声をはらむ広松の声に、うるさそうに顔を背け、
「あなたじゃ心配だから」
警察に二度もお世話になる人じゃね、と言外に漂わせて。
「お前なら安心だというのか? ろくに料理も作らず世話もせず、洗濯は週に一回、掃除などほとんど俺任せ、母親役が務まっていると思ってるのか。守のためを考えたら、いつまでも数学教師などやって、いい気になってる場合じゃないだろ」
「嫉妬なの?」
溜め息混じりの疲れた声に、広松の怒りは爆発する。折角かわいい子供が産まれたのに、幸せな家庭を築こうとしない妻に、怒りが込み上げる。お惣菜育ちの守に家庭の味を教えたくて、日曜のたびに広松は腕を振るうのに、織江はまるで彼の作ろうとする幸せな家庭に興味を示さない。
「あなたの夢見る幸せな家庭は、わたしの夢とは違うのよ」
益々冷静に織江が応じて、広松は喉まで出かかった怒声を辛うじて押さえた。織江の後ろに、眠たそうに目をこすりながら、パジャマ姿の守が立っていた。
「どうしたの」
高い声は不安にゆれる。
「守くん、明日からおばあちゃんとおじいちゃんちに行こうと思うんだけど」
「うわあ、行きたい!」
織江に飛びつく守に、行くなとは言えない。
「でもおばあちゃん、お体をこわしてるから、おじいちゃんとしか遊べないけれど、それでもいい?」
「いい、いい。ぼく静かにしてるよ」
「それじゃあ行こうね。今日は早く寝なさい」
「お母さんは?」
「すぐに寝るわよ」
部屋へ入る前に守は、お父さんおやすみなさい、と広松を振り返り、きらきらとした笑顔を見せた。
広松はキーボードの横に肘をついて、両のまぶたに強く指先を当てた。パソコンの検索欄には「行方不明」の四字。夜響の正体など調べて何になるのだろう、守が喜んでくれるとでもいうのか。
広松はマウスを握りしめ、ちらちらする目でディスプレイを凝視した。何千件という検索結果。織江に説いた幸せな家庭。
(俺はどうしたいんだ)
精神の自由、なんて言葉だけにしか思えない。好きなことに賭けるのと、守を幸せにするのと、どちらを優先すべきか、答えは決まっている。
「俺は降りる。夜響、おしまいだ」
インターネットのウインドウを閉じようとしたとき、ラジオから流れた言葉に広松は手を止めた。
<Braking Jam、『ハラジュク遊戯』>
確か市野沢百合子が好きだという――
軽い感じのイントロが流れて、少女が歌い出す。
<薄汚れたバニードール 路地裏に転がってる
捨てられ忘れ去られて 猫さえも寄りつかない>
憂鬱な詩を笑うように、調子の良いメロディー、早すぎないドラムのリズム。
<排気ガスで真っ黒な空からは 月の光さえ届かない
街を彩るネオンサインも
四方八方高層ビルに囲まれて アタシのとこまで届かない>
少女の独特な歌い方は、闇の中から全てを笑い飛ばすよう、歌の切れ目に入るギターの装飾音は、高く華やかだが、明るい曲全体にどこかねじれたような、本当は終わりを予感しているような嘘臭さがある。
マウスを握る指が無意識のうちに、「娘を捜しています」の文字をクリックしていた。ページが表示されるまでの短くも長い時間に、広松は思う。
(誰もがオニになる要素を持っている)
いじめられる生徒がオニになると考えた単純さが馬鹿らしい。思い通りしたい、変わりたい、と思ったことのない人がいるだろうか。自制出来るか出来ないか、それから不幸なチャンスが訪れるかどうか、だ。
ラジオの中のアイだって、きらびやかなメイクと衣装で本心を覆い隠し、見た目の華やかさで人の目をくらまし、違う誰かになって、本当のことなんて何もないよ、と言わぬばかり。だが百合子は、その幻を偽りと知りながら、彼女を愛した。人に夢を見せることも、夢を見ることも、そんなものかもしれない。
<なんにもないアタシだけど
空虚を飾り立てて
表現するものなんか何もなくても>
ふと目をやる画面の中で、ひとりの少女がにこやかに手を振っている。小学校高学年くらいか。これといった特徴のない、どこにでもいそうな顔立ちだ。
「お前が夜響か?」
もう幾度目かになる問い、印刷機の排出口には、ページのコピーが積み重なっている。
「娘を捜しています」という母親の、悲痛なホームページだ。少女の名は山本一葉、幼く見えるが中学二年、この六月、十四になったという。足立区に住み、地元の公立中学に通い、成績も良く、しっかりとした子だと母は書いている。写真は去年の夏、家族旅行の折りに撮影したものだ。
広松はそのページもコピーしておいた。
<アタシのセカイに生きたいの
闇の中で踊りまくるの
マジメにおとなしい振りなんて出来ないわ>
パソコンの画面だけがまぶしい薄闇の中、アイの歌声だけが、耳に残っていた。
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