上 下
5 / 41
一章、嘘 ――Drug Trip――

05.はじまりの記憶

しおりを挟む
 ハルカの押し開いた扉から、夜響やきょうは尻を蹴られるように転がり出た。最後の一言も聞いてもらえず、後ろでばたんと扉は閉まる。無常に響く施錠の音。夜響は冷たいコンクリートにしりもちついて、鍵穴を見上げていた。開けるすべはあっても、開ける気にはなれない。きっと遥はまたベッドに寝転んで、ひとりきり音楽を聴いているんだ。何もせずに、何も始めずに、ずっとずっと。

 夜響は立ち上がる。着物の汚れをはたいて、

「夜響はオニになったんだ。淋しくなんかないよ」

 外廊下の手すりに軽々と飛び移る。そのまますべるように、宙に浮いた。

「どこへゆこうかな。夜は長いんだ。夜響は自由なんだ」

 黄色い月を見上げると、初めて会った夜のことが思い出されて、胸はきりきり痛んだ。

 確かにね、ハルカ、オニにならなきゃあんなことは言えなかったし言わなかった。だけどそれでハルカと仲良くできたって、幸田さんたちと変わらないんでしょ? ハルカの心に触れることは出来なくって、本当に怒ってもらうことも、本当に喜んでもらうことも出来ないんでしょ。本当の夜響なんて知ってもらえないし、ハルカは表面しか見せてくれない。そんなの、嘘だよ。

 ゆったりのったり進むモノレールの上に、夜響は寝そべって、夜の風を思う存分食べた。左右は橙色の光の道、その中をすべってゆくと、心地よくて眠くなる。

 駅に着くと、モノレールの上の夜響を見上げて、人々がわっと湧く。駅員さんが走り寄る。注目を集めるのも、皆に気にかけてもらうのも、夜響は大好きだ。

 ハルカだって本当は、みんなに見てもらいたいくせに。でも分かんないよ、それならなんで、実在しない「普通」なんて基準に、必死で自分を合わせようとしてるのか。

「ああ、そうだ」

 夜響は急に頭を抱えた。

「あたしも、そうだったんだ」

 思い出せない、思い出したくない、嫌だやめて、夜響はうめいてなんとか顔を上げる。そうしなければ引きずり込まれる、あの少女が目を覚ます。動き出したモノレールの行く手に、立川の街の明かりが滲んで見えた。心を隠す、芸者の化粧のような白い頬に、理由も分からず涙はこぼれる。

「知らないもん、夜響は何も覚えてないもん」

 繰り返す夜響の目から、ネオンサインが消えてゆく。夜の街が薄らいで、照りつける日差しに色褪せた町が、陽炎かげろうのように浮かび上がる。ふさいだ耳の間で、踏切の鐘がこだまする。モノレールの静かな振動が消え、足下あしもとから轟音が揺さぶった。視界を埋め尽くすのは、矢のように飛び過ぎる車体だ。建て込んだ家々は、ふれあう肩を震わせる。

 遮断機が上がれば静けさの中、褪せた街が熱気の中に佇んでいる。

 ――踏切を越えるとそこは何もなかった。あたしは誰でもなかった。

 呟くのは、地味なセーラー服姿の少女、線路を越え、骨董品屋の硝子戸ガラスどを引いた。くもった硝子の向こうで、じいさんは新聞を広げたままうたた寝している。

 薄暗い店内は四方を本棚に囲まれ、中央には年代も様々な壺や鉢、店の隅には戦時中の玩具や古い看板も積まれている。少女はあてもなく、適当な一冊を手に取った。表紙の和紙は毛羽立ち、黄ばんだ題簽だいせんには「もう両記りょうき」と読める。見下ろす瞳はうつろなもの、幼い横顔にはあきらめの影、だがページをめくる細い指が、途中で止まった。黒い瞳は一輪挿しの絵に吸い込まれている。

 同じ一輪挿しが店内にあるのを、彼女は知っていた。表面を古びた護符に埋め尽くされ、陶器の肌はのぞくことも出来ない。少女の目が笑う。山積みの陶器に隠れ、そっと護符を剥がした。一枚、また一枚、剥がしては丸めてポケットに突っ込む。

「誰じゃ? そなたは何者じゃ」

 不意に女の声が降った。左右に視線を巡らせ、硝子戸ガラスどの表までのぞいたが、誰もいない。じいさんも相変わらず舟をこいでいる。少女の瞳は好奇心に輝き、更に護符を剥がす。

「なにゆえわしを起こすのじゃ」

「面白そうだから」

 と、少女は小声でささやいた。誰かが笑った気配がある。

「つまらぬかえ、この世は」

 あでやかでつやのある声だ。

「思い通り出来ないからね」

 少女は内緒話のように答えて、なおも護符を剥がす。

「好き放題出来るのなら楽しいのかえ」

「勿論」

「そなたはただの臆病者なんじゃろう? その臆病を治してやろうか」

 むっとしながらもうなずいた。

「よかろう。ではこの一輪挿しを割っておしまい」

 少女は慌てて首を振る。

「とても出来ぬかえ」女の声はからからと笑った。「そのような様子では、確かに日々みじめじゃろうなあ。お前のつまらぬ十何年間が、目に映るようじゃわい」

 少女はじっと、暗い瞳で一輪挿しを見下ろしている。

「変わりたい」低く呟く。「こんなの、もう嫌だ」

 祈るように、涙をこらえるように、強く瞼を閉じる。

「思い通り生きたい」

 両手を離した。一輪挿しが落下する、意外なほどゆっくりと。床に斜めに打ちつけられ、真っ二つに割れるその瞬間までが、コマ回しで見るフィルムのようだ。一切の音は消え、向こうで立ち上がったじいさんの姿も、その目には入らなかった。黒い瞳には、この世のものは映らない。

 彼女は夢の世界に飛ぼうとした。例えそれが、やがては悪夢となろうとも。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

深海の星空

柴野日向
青春
「あなたが、少しでも笑っていてくれるなら、ぼくはもう、何もいらないんです」  ひねくれた孤高の少女と、真面目すぎる新聞配達の少年は、深い海の底で出会った。誰にも言えない秘密を抱え、塞がらない傷を見せ合い、ただ求めるのは、歩む深海に差し込む光。  少しずつ縮まる距離の中、明らかになるのは、少女の最も嫌う人間と、望まれなかった少年との残酷な繋がり。 やがて立ち塞がる絶望に、一縷の希望を見出す二人は、再び手を繋ぐことができるのか。 世界の片隅で、小さな幸福へと手を伸ばす、少年少女の物語。

乙男女じぇねれーしょん

ムラハチ
青春
 見知らぬ街でセーラー服を着るはめになったほぼニートのおじさんが、『乙男女《おつとめ》じぇねれーしょん』というアイドルグループに加入し、神戸を舞台に事件に巻き込まれながらトップアイドルを目指す青春群像劇! 怪しいおじさん達の周りで巻き起こる少女誘拐事件、そして消えた3億円の行方は……。 小説家になろうは現在休止中。

全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―

入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。 遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。 本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。 優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。

ガイアセイバーズ spin-off -T大理学部生の波乱-

独楽 悠
青春
優秀な若い頭脳が集う都内の旧帝大へ、新入生として足を踏み入れた川崎 諒。 国内最高峰の大学に入学したものの、目的も展望もあまり描けておらずモチベーションが冷めていたが、入学式で式場中の注目を集める美青年・髙城 蒼矢と鮮烈な出会いをする。 席が隣のよしみで言葉を交わす機会を得たが、それだけに留まらず、同じく意気投合した沖本 啓介をはじめクラスメイトの理学部生たちも巻き込んで、目立ち過ぎる蒼矢にまつわるひと騒動に巻き込まれていく―― およそ1年半前の大学入学当初、蒼矢と川崎&沖本との出会いを、川崎視点で追った話。 ※大学生の日常ものです。ヒーロー要素、ファンタジー要素はありません。 ◆更新日時・間隔…2023/7/28から、20:40に毎日更新(第2話以降は1ページずつ更新) ◆注意事項 ・ナンバリング作品群『ガイアセイバーズ』のスピンオフ作品になります。 時系列はメインストーリーから1年半ほど過去の話になります。 ・作品群『ガイアセイバーズ』のいち作品となりますが、メインテーマであるヒーロー要素,ファンタジー要素はありません。また、他作品との関連性はほぼありません。 他作からの予備知識が無くても今作単体でお楽しみ頂けますが、他ナンバリング作品へお目通し頂けていますとより詳細な背景をご理頂いた上でお読み頂けます。 ・年齢制限指定はありません。他作品はあらかた年齢制限有ですので、お読みの際はご注意下さい。

将棋部の眼鏡美少女を抱いた

junk
青春
将棋部の青春恋愛ストーリーです

青春リフレクション

羽月咲羅
青春
16歳までしか生きられない――。 命の期限がある一条蒼月は未来も希望もなく、生きることを諦め、死ぬことを受け入れるしかできずにいた。 そんなある日、一人の少女に出会う。 彼女はいつも当たり前のように側にいて、次第に蒼月の心にも変化が現れる。 でも、その出会いは偶然じゃなく、必然だった…!? 胸きゅんありの切ない恋愛作品、の予定です!

想い出キャンディの作り方

花梨
青春
学校に居場所がない。 夏休みになっても、友達と遊びにいくこともない。 中一の梨緒子は、ひとりで街を散策することにした。ひとりでも、楽しい夏休みにできるもん。 そんな中、今は使われていない高原のホテルで出会った瑠々という少女。 小学六年生と思えぬ雰囲気と、下僕のようにお世話をする淳悟という青年の不思議な関係に、梨緒子は興味を持つ。 ふたりと接していくうちに、瑠々の秘密を知ることとなり……。 はじめから「別れ」が定められた少女たちのひと夏の物語。

処理中です...