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一章、嘘 ――Drug Trip――

01.春の夜の出会い

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<薄汚れたバニードール 路地裏に転がってる
 捨てられ忘れ去られて 猫さえも寄りつかない>

 BGMをぼんやり聞き流しながら、ハルカは冷たい蛍光灯の下に手を伸ばした。三百十五円、五百二十五円、六百三十円、口の中で呟きながら、プラスチックケース詰めの食物を手に取ったり戻したりする。

 夏ののコンビニは、乾いた空気に包まれて、町の騒音の中にぽっかりと口を開けた空洞だ。狂気めいたギターの音色ねいろをバックに、少女の声が単純な旋律を歌い上げる。そのBGMだけが、何もない白い空気に模様を描いている。黒い模様を。

<今のまんまじゃただのゴミだから
 こんなとこに転がってんのはもうご免なの
 こんなアタシじゃ 猫も喰わない……>

 さんざん逡巡した挙げ句、遥はようやく夕飯の献立を決め、レジへ向かう。

「ありがとうございました」

 若い店員の無機質な声に追い立てられて、自動ドアの前に立ったとき、また歌が耳元をかすめた。

<ああ 楽しいわ 嬉しいわ
 本当はなんにもない街だけど なんにもないアタシだけど>

 なんとなく足を止める。

<空虚を飾り立てて
 表現するものなんか何もなくても>

 店をあとに、閉まりかけたドアの向こうで、少女の声が歌っている。

「あたしの世界にいきたいの、か」

 ぼんやりと繰り返した。行きたいなのか、生きたいなのか、分からない。

「行けたら、いいね」無意識のうちに呟く。「そんな世界がどこかにあったなら」

 苦し紛れに自嘲気味な笑み。

(現実のあたしが行かなくちゃいけないのは、またもや足の遠のいてるサークルなんだけど)

 責め立てる強迫観念に、どっと疲れが噴き出す。なぜ足も気も重いのか分からない。「楽しい大学生活」を送りたいのは、他でもないこの自分なのに。

(もうほんと、逃げ出したくなる)

 闇の中から見知らぬ誰かが現れて、異世界に連れて行ってくれたらとか、大好きな江戸時代にタイムスリップ出来たらとか、夢想ばかりが広がる。梅雨も明け、じっとりとした熱気が手足にまとわりつく。アパートの螺旋階段は際限なく続くよう、重い荷物を肩にぐるぐると四階までのぼる。

 鍵を開けるとき、真っ暗な部屋の天井にはりついた、楽しいお化けを想像した。

(あたしをどこか遠くに連れ出してくれたらいいのに)

 疲れた脳は、壊れたレコードのように繰り返す。

 あけた扉から正面に見える窓は、鍵をかけて出たはずがひらいている。窓の外、手摺りに座る白い人影、その後ろから差し込むネオンサインで、室内はぼんやりと明るい。

「見えないはずのものが見える」

 遥はぽつんと呟いた。

「みたいだね」

「聞こえないはずのものまで聞こえる」

「よっぽど疲れてるんだろう」

 そう、とうなずいた。疲弊した意識に、起きていながら無意識が夢を見せる、脳の自然な仕組みによる「覚醒夢」だ。そう思えば何も恐れることはない。夢と分かっている夢ならば、思う存分楽しめばいい。

「あたしをどこか遠くへ連れてって。ずっと遠く、見たこともない世界へ」

 白い霧に酔ったように両手を伸ばす。

「おやすいご用さ。けどその代わり、その弁当をちぃと夜響やきょうにも分けてくんねえ」

 と、目で示すは遥のげるビニール袋、遥はこっくりうなずき、一歩ずつ窓へと近付く。死に装束を思わせる白い単衣ひとえに菱形模様の赤紫の帯、体は子供だが髪は真っ白、青白い頬に隈の濃い目元は、遥の想像とは違っても、立派に「お化け」に見えた。窓から見上げる遥の頬に、外から伸びる白い手がそっと触れ、頭を抱きかかえて引き寄せる。夢心地のまま目を閉じる遥の瞼に、夜響と名乗る「お化け」の唇が触れる。

「あんた、脈があるね」

「なんの?」

「オニになれる。自分に呪いをかけられる」

「呪い――」

「呪いをかければオニになれる、するとなぁぁんも悩まなくなる。なんでそんなちっぽけなこと考えてたんだか、分かんなくなっちまう。他人の迷惑、後先、可能不可能、ぜ~んぶ無視して、やりたい! ってだけで駆け抜けられる」

 にやーっと歯を見せ笑った夜響に、思わず後ずさる。赤い瞳に映るものは、大火に呑まれ、逃げまどう人々か、洪水に襲われる家々か。毒々しい笑みには、そんな光景が似合う。

「ああ、そんなふうに怖がんないで」

 だが笑みを消すと、夜響は哀しんでいるようにも見えた。「夜響はなんもしないさ。食べるもんさえくれりゃあ」

 遥はちょっと可笑おかしくなる。「えささえあれば?」

「当たり!」

 夜響が叫んだ瞬間、遥の体がふっと軽くなった。見れば夜響の白い指が腕を掴んでいる。遥は慌てて頭を下げた。窓枠にすれすれ、ぶつかりそうになりながら、体は広い空の下へ抜け出した。途端、夏の風に包み込まれ、遥の髪は空気を含んで大きく広がった。

 浮かんでいる。

 足の下に屋根が連なる、車が走る、人が行く。向こうには高幡不動尊たかはたふどうそん、その後ろにはモノレールの高架線、その下には道路を照らすオレンジ色の明かりが連なっている。これは本当に夢なんだろうか。

「夢と現実が逆さまになっちゃえばいいのに」

「なるよ」

 夜響が笑った。夜響は笑うと不気味だ。それでも遥は言った、これを夢と信じながらも。「夜響、あんたずっとうちにいてよ。食事はあげるから」

「夜響は――」

 空中で急に、遥は抱き寄せられる。

「愛も欲しい」

「へ?」

 驚き半分、思わず拒絶の姿勢を取る遥に、

「落としちゃうよ」

 夜響が突然、腰と腕を支える手を離した。

「うわあ、やめて!」

 遥は悲鳴をあげ、夜響の着物の裾にしがみつく。だがそれ以上体は沈まず、裾に描かれた鞠が目に入った。鞠に桜の花びらが散りかかる、その図を哀しいと思ったのは、子供の頃に聞いた昔話を思い出したからだ。病で高熱を出し生死をさまよう女の子が、最期に食べたいと言う赤米を、祖父はひとつかみだけ盗んでくる。女の子は奇跡的に回復するが、祖父の罪は露見し、「ひとつかみの米」は「米一俵」とされ、罪人つみびととして橋のたもとに埋められる。だが祖父の罪が知れた理由、それは女の子が鞠をつきながら「赤米食べた」と唄っていたことにある。それから彼女は、決して口を利かなかったという。

 夜響はくすくす笑いながら手を差し出す。「空のうんと上の方はどうなってると思う」

「空気がどんどん薄くなるんじゃないの」

「月があんな近くに見えるのに?」

 と、丸い月を仰ぎ見る。

「月はすっごい大きいから近くに見えるだけでしょ」

「本当に、そう思うか?」遥の冷めた目を、夜響はじっとみつめる。「月には兎が住んでるんだよ」

「住んでない住んでない」

 だらんと下げた遥の手を、ぎゅっと握り、

「じゃあ確かめに行ってみよ!」

 いたずらっぽく笑って、空へと舞い上がる。ぐんぐん近付く月は次第に大きく、遠のく町はどんどん小さくなってゆく。上を向いたまま、何て呼んだらいい、と問う夜響に、遥でいいよ、と返す。

 随分のぼったところに月はあった。六畳間にすっぽり入るくらいの球体は、黄色い光のもやを発している。そのてっぺんに足を伸ばして、夜響は手招きする。真っ白い袖と髪が、黄色い光の中で揺れている。遥は息をするのも忘れて、月の上に立ち尽くす。静かな水面みなもに降り立ったように、体重さえ感じない。

「そんな驚くことじゃない。こんなにきれいに光ってる月が、乾いてクレーターだらけなんて考えるほうがおかしいんだ。遥だってガキの頃は知ってたでしょ、空を泳いで行けば、三日月に座ることも出来るって」

 心の暗い淵を回って、遥は記憶の奥へと落ちてゆく。大量の情報を詰め込む前、他人の迷惑、後先、可能不可能考えず、望むままに動く子供がいる。進みたい望みと逃げ出したい恐れの狭間で、息が止まることなどない。

 鎖で雁字搦がんじがらめに、石の牢屋に放り込んだこの子を解放したら、何が起こる。突然、黒い空から音が降り、危険な子供は「ああ、楽しいわ、嬉しいわ」と踊り出した。泣き出しそうに、笑い出しそうに高く叫ぶ。

(オニになるとはこういうこと?)

 だが、なぜ己を呪わなねばならない、なぜ夜響は悪魔のような姿をしている。素晴らしい夢を見せてくれるだけなら、鬼と呼ばれるはずはない。

「嘘だ、こんなの」

「何が?」

「全部ウソなんでしょう、オニになるって、そんな素敵なことなわけない。きっとなんか罠がある」

 ないよ、と言いかけた夜響を遮り、

「なんの代償もない自由なんて、手に入るわけないもの」

「代償? ハルカは代償が欲しいの?」

 さも可笑おかしそうに問う。「夜響はいろんなもんギセイにしたよ。家族も、教育を受ける権利も、人としてまともに過ごせる百年近い時間もね。平和な幸せって奴だ」

 それから、弁当くれ、と遥の手から袋を取り、パックされた食品と割り箸を膝に置く。「ハルカも座りねえ、そんなとこ突っ立ってないで」

「もう二度と、家族に会わないの?」

 ゆっくりと問う。夢見た一人暮らしも、今はわびしさの連続だ。鍵を開けると暗く誰もいない部屋に、家族の幻が浮かぶ。

「見知らぬオニとしてなら会えるけど」

 こちらを見もせず、つっけんどんな答え、だがじっと遠くをみつめる瞳は、思い詰めているのか、必死に耐えているのか。

 鬼という言葉に、近世文学の時間に読んだ、「吉備津の釜」を思い出す。

 明け方に起き夜遅くに寝、「常に舅姑おやおやの傍を去らず」、夫にも「心を尽くして仕え」た磯良いそらは、だが、夫にひどい裏切りを繰り返され、病に倒れ死んでしまう。そして彼女の怨恨は、夫とその浮気相手を取り殺すことになる。

 社会の望む理想像を演じていた磯良、演じることのうまい者ほど鬱積は大きく、死後鬼となってようやく、め続けたものを解き放てたのだろうが、それは、解放でも自由でもない。永遠に続く地獄だ。

「夜響もオニになる前は、社会の求める『型』を演じてたの?」

「忘れたよ、全部」

 つんとあらぬ方を向く。

「忘れたら、消えちゃうよ。オニになるまでの日々はなんだったの?」

「全部偽りだった。それでいいじゃんか! ハルカも早くオニになっちまえよ。そしたらそんなことうだうだ考えなくなるぜ。今が楽しい、それだけで百パーセント満足だよ!」

 夜響はくるんと後転する。裾が大きくまくれて、遥が思わず目をそらすのも構わず、端の方で歓声をあげた。「見てみなよ! 月ん中で兎が餅ついてる!」

 そんな馬鹿なと思いつつ、ひょいとのぞけば、淡く光る黄色い膜の内側で、ぺったんぺったん、二匹の兎が餅をついている。

「こりゃあ夢だ」

 頭がどうにかなりそうだ。遥は下を見ないように、弁当をかき込むことに専念した。

 「磯良いそら」という名は、神話に出てくる海神の名だという。醜い容貌を恥じて、戦の招集にも姿を現さなかった。器量もよい彼女の名が、なぜ磯良なのか。

「お餅分けてもらっちゃった」

 ぴょこんと、夜響が月の上に姿を現した。つきたてのやわらかい餅で両手をべたべたにして、満面の笑みを浮かべている。

「夜響は、その容貌を恥じたりしないもんね」

「突き落としちゃうぞ」

 目を据えて、夜響がずいと迫った。ちょっと怖いけど、やはり笑っているときの方が迫力ある。

「でもあたしは、内向的な自分を恥じてるのかな」

「何の話?」指をくわえてきょとんとする。「夜響にみんな聞かせなよ。どうせ夢と思ってるんなら怖いことなんかないだろう」

(そうだ、これはあたしの作った夢、夜響はあたしの想像の中の人物なんだ)

 誰かに相談なんかしない。小さい頃は、頭の中に住む架空の友だちに悩みを打ち明けたが、いつしかひとりきりで、紙とペンの助けを借りて頭を整理するようになった。でも不思議なことに、今また夜響という、いないはずの人が現れた。

「あたし、前に進むのが苦しくってたまらないの。見知らぬ世界に飛び込んだり、取り巻く環境ががらりと変わるのが、怖いのかも知れない」

 言葉にしてみて、そうじゃない、と思う。

「怖いんじゃないな、面倒なの。親しくない人と話すのも、時間を拘束されるのも、色々考えるのも」

(違う、やっぱり怖いんだ)

 胸の中にあるはずの心が、霞んで次々に形を変え、頭を混乱させる。時候の挨拶しかしない間に、言葉の並べ方まで忘れたのか。

(忘れたんじゃない、あたしは一度も本当の言葉など、喋ったことはないんだ)

 笑い話を笑えれば、友達の顔くらい出来た。

「今の場所が心地いいんなら、わざわざほかへゆくことないじゃん。なんで自分につらいこといるの」

「違うよ、あたし大学入ったら、こうしよう、こうなろう、って色々考えてたの。それなのに、新しいことからどんどん逃げて、毎日大学とアパートの往復じゃあ、理想から遠ざかってゆくばかり。先週だってほとんどサークル顔出さなかった。行けば楽しくても、体が重くて足が向かなくて、ついつい図書館に立ち寄って時間つぶして、帰りもまっすぐ駅に向かっちゃうの」

「ふ~ん」

 物珍しそうに眺めている。

(オニにはこんな気持ち分からないかな)

 過去の自分を失っているなら。

「なんも考えないで、やりたいことやりたいんでしょ」

 要約しないでほしい。

「オニにしてやろーか」

 手についた餅をあらかたなめ尽くし、にやりとして覗き込む。

「いい。そんな顔になったら、今以上にモテなくなるから」

「ええー、何言ってんだよ。ハルカ夜響に惚れてるじゃん!」

 まじめな遥は返す言葉を失って、まじまじ夜響をみつめ、それからふいに視線を落とした。「オニになるって納得いかないよ。今日までの自分を断ち切るなんて、したくない」

「ハルカ、オニになるってのは、自分に呪いをかけることなんだ。オニになれば夜響のような姿になるって? そんなことない。夜響は変えたかった、人だった頃の面影なんか、欠片かけらも残らないように。ぶっ壊したかったんだ、みんながそろって欲しがるものを」

 夜響は唇に指を添え、上目遣いに遥を誘った。「全ては望んでやったのさ」

「どうしてあたしをオニにしたいの?」

「だってぇ」

 口をとがらせる姿は駄々をこねる子供だ。「ひとりぼっちじゃ淋しいもん」

「な~んだ」と、いじわるな目。「オニになっても弱虫は治んないんじゃない」

「違うよ! ハルカが変な質問するからだよ! それに――」

 唇をすうっと笑みの形に歪めた。「変わりたいって望めば望むだけ、変われるんだよ。失った時や人を懐かしく思うことも、ひとりを淋しがることも、なくせるんだ」

 遥はぞっとした。そんなの、心が消えたも同然だ。欲望や恨みだけで、人の命までいとも簡単に奪う「鬼」になる。

「夜響」

 箸を置き、硬い声で呼びかけた。「あたしはあんたがどうなろうと知ったこっちゃないけど、忠告しとくよ。それ以上、自分に呪いをかけるのはやめたほうがいいと思う」

 夜響は何も言わず、首だけをこちらに向けた。遥にはまだ、怒ったときと笑ったときくらいしか、夜響の表情が分からない。ただ物言わぬ夜響は、どこか哀しげに見えた。
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