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17、忘却のメロディ
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「待って!」
美紗の叫び声にびっくりした黒飛は羽を止め、気流の塊にぶつかった飛行機みたいに急降下した。
「大きな声を出すな。黒飛は気が小さいのだから」
とがめる魔王の言葉に耳も貸さず、
「オルゴールを貸して! みんなの記憶を消したいの」
美紗は懇願して、魔王が腰に結わえつけた革袋の口を解きだした。おい何をいきなり、とかなんとか言っている魔王を押し切って美紗は蛇のオルゴールを取り出し、いそいでその尻尾を回そうとした。
「待て」
魔王がその手を握る。
「これを回せば、すべてなかったことになる。私もそのほうが好都合だ。契約を交わさぬ者に、七つ道具を使わせたという前例ができては、示しがつかぬからな。だが、ただひとり私だけは、忘却のメロディを聴いても、忘れられないのだ。美紗が私を忘れても、私は覚えている」
美紗はじっと、いつも見覚えがあると思っていた、金の瞳をみつめていた。そしてようやく、鏡を介して毎日向き合ってきた女の子の目を思い出した。
(あたしとおんなじ、ひとりぼっちの人の目)
孤独を愛しているふりをしながら、ほんとは誰かと手をつなぎたかった。
「美紗、お前だけは、この魔王と過ごした時間を覚えていてくれ」
「うん」
と美紗は大きく首を縦に振った。
「絶対忘れたりしない。これからどんなにたくさん素敵なことに出会っても」
よし、と魔王はうなずいて、
「黒飛、お前の羽で風を起こしてくれ。この町を風で包み、街じゅうに忘却のメロディを届けるのだ」
黒飛は、ぎゃあ、と承諾し、今までに見たことのない波のような動きで羽ばたき始めた。
「よいか、私が美紗の耳をふさいだら、蛇の尻尾をゆっくりと私が合図を出すまで回しなさい」
美紗の耳に両手を押し当てて、魔王はオルゴールを回すよう目で示した。美紗は蛇の尻尾を回しながら、魔王がそっと目を閉じ、オルゴールの音に聞き入るのをみつめていた。幸せそうな彼を見ているだけで、世界一素晴らしい音楽が聞こえるような気がした。それはとても短い時間だった。やがて彼は目を開け、静かな瞳でうなずいた。美紗は手を止め、空き地の子供たちを見下ろす。子供たちは空をゆき過ぎる巨大な烏には気付かずに、追いかけっこに興じている。
昨日、銀の魔笛を吹いた丘で美紗は黒飛から飛び降り、じゃあね、と手を振った。黒飛の背にまたがったまま、魔王もちらりと指を動かした。黒飛は再び羽ばたき始める。
「魔王ちゃん―― じゃなくてデイヴィー!」
美紗は叫んで、烏の足下に駆け寄った。魔王は、手綱を握った騎士みたいに見下ろしている。
「色鉛筆を返してくれてありがとう。直してくれたの、とっても嬉しかった。でもね、十一歳最後の日に、魔王に出会えたことが、あたしの一番のお誕生日プレゼントだよ!」
友だちいない歴十二年? なんて嫌みを言った真希に彼を見せびらかしてやりたい。でも大切なデイヴィーはそんなことのために存在するんじゃない。
「美紗、もう二度と桜の木から飛び降りてはいけないよ」
え、と美紗は言葉を失った。
「木からだけじゃない。学校の屋上からだって、マンションの上からだって。空を飛ぶなんて嘘をついて、この世じゃない地下の世界なんて目指しちゃいけない。そんなもの存在しないんだから。きみの世界はここだけなんだ。この世界がどんなにつらく思えても、だ。いいね?」
美紗は言葉もなく、何度も首を縦に振った。いつから知ってたの、どうして分かったの、と訊きたい言葉があふれ出すけれど、何か口にしたら泣き出してしまいそうだ。今まで、誰も、誰も、気付かなかったのに。
「じゃあな」
と、魔王が手をあげた。
「絶対飛び降りないよ!」
美紗はようやく口をひらいた。
「もう空を飛ぶ夢なんか見ない。真希をぶっ殺す夢も見ない。あたしは魔王と一緒に空を飛んだし、真希のやつを泣かせてやったんだから」
「そのとおりだ」
魔王は大きくうなずいて、ぽんと黒飛の首筋をたたいた。黒飛は大きく羽ばたいて、枝の間から夏空へ舞い上がった。
「ばいばい」
美紗はひとり手を振り続けた。黒飛の背から手を振る魔王の姿が米粒みたいに小さくなって、黒い点になって消えてしまうまで。
美紗の叫び声にびっくりした黒飛は羽を止め、気流の塊にぶつかった飛行機みたいに急降下した。
「大きな声を出すな。黒飛は気が小さいのだから」
とがめる魔王の言葉に耳も貸さず、
「オルゴールを貸して! みんなの記憶を消したいの」
美紗は懇願して、魔王が腰に結わえつけた革袋の口を解きだした。おい何をいきなり、とかなんとか言っている魔王を押し切って美紗は蛇のオルゴールを取り出し、いそいでその尻尾を回そうとした。
「待て」
魔王がその手を握る。
「これを回せば、すべてなかったことになる。私もそのほうが好都合だ。契約を交わさぬ者に、七つ道具を使わせたという前例ができては、示しがつかぬからな。だが、ただひとり私だけは、忘却のメロディを聴いても、忘れられないのだ。美紗が私を忘れても、私は覚えている」
美紗はじっと、いつも見覚えがあると思っていた、金の瞳をみつめていた。そしてようやく、鏡を介して毎日向き合ってきた女の子の目を思い出した。
(あたしとおんなじ、ひとりぼっちの人の目)
孤独を愛しているふりをしながら、ほんとは誰かと手をつなぎたかった。
「美紗、お前だけは、この魔王と過ごした時間を覚えていてくれ」
「うん」
と美紗は大きく首を縦に振った。
「絶対忘れたりしない。これからどんなにたくさん素敵なことに出会っても」
よし、と魔王はうなずいて、
「黒飛、お前の羽で風を起こしてくれ。この町を風で包み、街じゅうに忘却のメロディを届けるのだ」
黒飛は、ぎゃあ、と承諾し、今までに見たことのない波のような動きで羽ばたき始めた。
「よいか、私が美紗の耳をふさいだら、蛇の尻尾をゆっくりと私が合図を出すまで回しなさい」
美紗の耳に両手を押し当てて、魔王はオルゴールを回すよう目で示した。美紗は蛇の尻尾を回しながら、魔王がそっと目を閉じ、オルゴールの音に聞き入るのをみつめていた。幸せそうな彼を見ているだけで、世界一素晴らしい音楽が聞こえるような気がした。それはとても短い時間だった。やがて彼は目を開け、静かな瞳でうなずいた。美紗は手を止め、空き地の子供たちを見下ろす。子供たちは空をゆき過ぎる巨大な烏には気付かずに、追いかけっこに興じている。
昨日、銀の魔笛を吹いた丘で美紗は黒飛から飛び降り、じゃあね、と手を振った。黒飛の背にまたがったまま、魔王もちらりと指を動かした。黒飛は再び羽ばたき始める。
「魔王ちゃん―― じゃなくてデイヴィー!」
美紗は叫んで、烏の足下に駆け寄った。魔王は、手綱を握った騎士みたいに見下ろしている。
「色鉛筆を返してくれてありがとう。直してくれたの、とっても嬉しかった。でもね、十一歳最後の日に、魔王に出会えたことが、あたしの一番のお誕生日プレゼントだよ!」
友だちいない歴十二年? なんて嫌みを言った真希に彼を見せびらかしてやりたい。でも大切なデイヴィーはそんなことのために存在するんじゃない。
「美紗、もう二度と桜の木から飛び降りてはいけないよ」
え、と美紗は言葉を失った。
「木からだけじゃない。学校の屋上からだって、マンションの上からだって。空を飛ぶなんて嘘をついて、この世じゃない地下の世界なんて目指しちゃいけない。そんなもの存在しないんだから。きみの世界はここだけなんだ。この世界がどんなにつらく思えても、だ。いいね?」
美紗は言葉もなく、何度も首を縦に振った。いつから知ってたの、どうして分かったの、と訊きたい言葉があふれ出すけれど、何か口にしたら泣き出してしまいそうだ。今まで、誰も、誰も、気付かなかったのに。
「じゃあな」
と、魔王が手をあげた。
「絶対飛び降りないよ!」
美紗はようやく口をひらいた。
「もう空を飛ぶ夢なんか見ない。真希をぶっ殺す夢も見ない。あたしは魔王と一緒に空を飛んだし、真希のやつを泣かせてやったんだから」
「そのとおりだ」
魔王は大きくうなずいて、ぽんと黒飛の首筋をたたいた。黒飛は大きく羽ばたいて、枝の間から夏空へ舞い上がった。
「ばいばい」
美紗はひとり手を振り続けた。黒飛の背から手を振る魔王の姿が米粒みたいに小さくなって、黒い点になって消えてしまうまで。
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