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第一幕、リオが天使になった日
18、オリヴィア、生まれて初めて人前で歌う
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「それでは聴かせてもらいましょうか。自慢の歌声を」
男の言葉を耳にした途端、緊張の稲妻が全身を駆け抜けた。
「オリヴィア、練習の通り歌えば大丈夫だよ」
うしろからリオが小声で勇気づけてくれる。
「誰かのために歌うのが、これから僕たちの日常になるんだから」
そうだ、たった二人の前で歌うのに緊張なんかしている場合じゃない。大きな街にあるオペラの舞台に立つのを、私は夢見たんじゃないか。
「一曲目は私がソロで、クレドから『クルチフィクスス』を歌います。二曲目はリオとキリエをデュエットします」
私は男を見上げて、改まった口調で曲紹介をした。
リオはミサ通常文の「我、信ず」の中でも最も大切で重い内容である「十字架につけられ」を私に与えた。表現しきれる自信がないと首を振る私にリオは、「オリヴィアの強い思いがこもった声なら歌える」と太鼓判を押した。
晩秋の風が庭を駆け抜け、色づいた葉をさらっていく。私はリオに習った通り背筋を伸ばすと、少し冷たい風をゆったりと吸い込んだ。
中音域の旋律を歌うため、私はリオのソプラノではなく、なつかしい母さんの声を思い描いた。母さんが私たち兄弟と一緒に歌ってくれた、おおらかでホッとさせてくれる声――
「Crucifixus――」
歌い始めた途端、家族と声を合わせた楽しい情景は消え、目の前には故郷の教会に描かれていた磔刑図が浮かび上がった。十字架には瘦せ衰え青ざめたイエス様が、腰布を巻いただけの姿で磔にされている。両脇には憔悴しきった聖母マリア様と、若い弟子である聖ヨハネが描かれ、十字架の足元ではマグダラのマリアが泣き崩れていた。
「etiam pro nobis」
人間の罪をつぐない、私たちを救済するため自ら犠牲となったイエス様の絵が、まばたきした瞬間、いとけないリオの姿に変わっていた。私を救うため自らの未来を差し出したリオが、白い肌をさらして十字架にかけられていた。苦しげにうつむいた頬にかかる淡い金髪が、乾いた風に揺れている。
胸が張り裂けそうになるのをこらえながら、私は歌い続けた。
「sub Pontio Pilato」
耐え難い悲しみと同時に愛があふれ出し、体じゅうを駆け巡り、歌となって解き放たれる。
「passus et sepultus est」
静かに歌を締めくくったとき、痛ましいリオの幻は消えていた。私は荘厳な礼拝堂の中に一人、立ち尽くしていた。天井画に描かれた空の上へ、私の声は昇っていく。
ルイジおじさんとリオが手を叩く音で我に返った。秋の空は高く、午後の日差しが荒れた庭に降り注いでいる。
現実に戻ってきた途端、ジャンが拍手をしていないことに不安が募った。彼は真剣な表情のまま近づいてくると、
「お嬢さん、どこで歌を勉強しましたか?」
私を見下ろして尋ねた。
「えっと、リオにこの二十日間くらい特訓してもらって――」
「まさか」
彼の頬に、いつもの人を嘲るような笑みが戻った。
「初心者が素人にちょっと教わったくらいで歌えるようになるほど、声楽とは甘いものじゃない」
私は返す言葉もなく、奥歯を嚙みしめた。
「お嬢さんはかなり正しい音程で歌っている。何か楽器を演奏するんですか?」
「いいえ――」
思いがけない言葉に、私はあわててかぶりを振った。
「あ、でも楽器職人だった父がよくリュートやギターを弾いていたので、私もさわっていました」
「ほう。それで音感を身に着けたと」
まぶたの裏に、父の工房がありありとよみがえった。木くずが舞う工房はいつも森の匂いがした。作業用のエプロンに油やニスの染みをつけた父がネックの反りを調節しながら、弦をはじいて聞かせる。
――最初の音のほうがちょっと高い。こっちは低い。分かるか?
私が首を振ると、今度は二本の弦を同時にはじいて和音を聞かせてくれた。
最初の音は澄んでいて、二番目の音は濁って聞こえた。父にそれを伝えると、
――よく分かったな。濁った音、つまり不協和な二音は、かすかにうなって聞こえるんだ。
父は弦の張りをこまかく調節して、完全な協和音を聞かせてくれた。
――どうだ? 完全に調和させるとうなりが消えただろう?
――それが正しい和音ってこと?
私の問いに父は笑った。
――音楽は正しいとか、間違ってるとかじゃないんだよ。完全に調和した音程だけで音階を作ることはできないんだぞ? どこかにひずみが出てしまうんだ。
一オクターブに含まれる十二の半音全てが、互いに調和することはできないそうだ。父はいたずらっぽい笑みを浮かべ、
――これは神様のちょっとしたいたずらさ。完璧に綺麗なものだけを求めてもつまらないって教えてくれてるんだ。不協和音こそスパイスなのさ。
私は気づけば、父との会話をジャンに伝えていた。
「驚いた」
ジャンは目を丸くした。
「お嬢さんは音律に関しても基礎を学んでいるのか」
音律ってなんだろう? でも父と過ごした楽しい時間が、私の耳を育ててくれたんだと思うと、嬉しくて笑いだしそうになる。
「音感については納得しました。それで発声の方は誰に習ったのですか?」
ジャンはしつこく尋ねてきた。
「身近にプロの歌手でもいたんですか?」
「えっと、私のお母さんは若いころ酒場の歌手だったそうです。いつも私たち兄弟のために歌ってくれたの」
「ふむ。それを聴いて自然に学んだと」
「聴いてっていうか、いつも母さんの声をまねして歌っていたから」
私が小声で答えると、ジャンはあごを撫でながらうなずいた。ルイジおじさんと違って、今朝きちんとカミソリを当てたことが分かる、無精ひげなど一本も生えていないあごが、余計に彼を気障に見せる。
「一応、基礎訓練を終えていたとはな」
独り言のようにつぶやいてから、
「歌手として成功するには運や見目の良さも重要です。だがその前にまず必要な条件がある」
指折りながら解説を始めた。
「一に才能、二に環境、最後に本人の意志です」
才能という言葉におびえる私のことなど構わず、
「私は音楽愛好家だ。失敗すると分かっている子供に音楽の道を勧めることはない」
と宣言した。私は審判を待つ罪びとのように、震える声で尋ねた。
「私はその条件を満たしているの?」
「よく響く声と、声に情熱を乗せる感性を持っているようだ」
それが才能ってこと?
ジャンは二本目の指を折りながら続けた。
「生まれたときから恵まれた環境で正しい音感を身に着けている。燃えるような意志もある」
「じゃあ合格ですか!?」
─ * ─
ジャンの出した答えは?
次回はオリヴィアとリオネッロがデュエットします。
男の言葉を耳にした途端、緊張の稲妻が全身を駆け抜けた。
「オリヴィア、練習の通り歌えば大丈夫だよ」
うしろからリオが小声で勇気づけてくれる。
「誰かのために歌うのが、これから僕たちの日常になるんだから」
そうだ、たった二人の前で歌うのに緊張なんかしている場合じゃない。大きな街にあるオペラの舞台に立つのを、私は夢見たんじゃないか。
「一曲目は私がソロで、クレドから『クルチフィクスス』を歌います。二曲目はリオとキリエをデュエットします」
私は男を見上げて、改まった口調で曲紹介をした。
リオはミサ通常文の「我、信ず」の中でも最も大切で重い内容である「十字架につけられ」を私に与えた。表現しきれる自信がないと首を振る私にリオは、「オリヴィアの強い思いがこもった声なら歌える」と太鼓判を押した。
晩秋の風が庭を駆け抜け、色づいた葉をさらっていく。私はリオに習った通り背筋を伸ばすと、少し冷たい風をゆったりと吸い込んだ。
中音域の旋律を歌うため、私はリオのソプラノではなく、なつかしい母さんの声を思い描いた。母さんが私たち兄弟と一緒に歌ってくれた、おおらかでホッとさせてくれる声――
「Crucifixus――」
歌い始めた途端、家族と声を合わせた楽しい情景は消え、目の前には故郷の教会に描かれていた磔刑図が浮かび上がった。十字架には瘦せ衰え青ざめたイエス様が、腰布を巻いただけの姿で磔にされている。両脇には憔悴しきった聖母マリア様と、若い弟子である聖ヨハネが描かれ、十字架の足元ではマグダラのマリアが泣き崩れていた。
「etiam pro nobis」
人間の罪をつぐない、私たちを救済するため自ら犠牲となったイエス様の絵が、まばたきした瞬間、いとけないリオの姿に変わっていた。私を救うため自らの未来を差し出したリオが、白い肌をさらして十字架にかけられていた。苦しげにうつむいた頬にかかる淡い金髪が、乾いた風に揺れている。
胸が張り裂けそうになるのをこらえながら、私は歌い続けた。
「sub Pontio Pilato」
耐え難い悲しみと同時に愛があふれ出し、体じゅうを駆け巡り、歌となって解き放たれる。
「passus et sepultus est」
静かに歌を締めくくったとき、痛ましいリオの幻は消えていた。私は荘厳な礼拝堂の中に一人、立ち尽くしていた。天井画に描かれた空の上へ、私の声は昇っていく。
ルイジおじさんとリオが手を叩く音で我に返った。秋の空は高く、午後の日差しが荒れた庭に降り注いでいる。
現実に戻ってきた途端、ジャンが拍手をしていないことに不安が募った。彼は真剣な表情のまま近づいてくると、
「お嬢さん、どこで歌を勉強しましたか?」
私を見下ろして尋ねた。
「えっと、リオにこの二十日間くらい特訓してもらって――」
「まさか」
彼の頬に、いつもの人を嘲るような笑みが戻った。
「初心者が素人にちょっと教わったくらいで歌えるようになるほど、声楽とは甘いものじゃない」
私は返す言葉もなく、奥歯を嚙みしめた。
「お嬢さんはかなり正しい音程で歌っている。何か楽器を演奏するんですか?」
「いいえ――」
思いがけない言葉に、私はあわててかぶりを振った。
「あ、でも楽器職人だった父がよくリュートやギターを弾いていたので、私もさわっていました」
「ほう。それで音感を身に着けたと」
まぶたの裏に、父の工房がありありとよみがえった。木くずが舞う工房はいつも森の匂いがした。作業用のエプロンに油やニスの染みをつけた父がネックの反りを調節しながら、弦をはじいて聞かせる。
――最初の音のほうがちょっと高い。こっちは低い。分かるか?
私が首を振ると、今度は二本の弦を同時にはじいて和音を聞かせてくれた。
最初の音は澄んでいて、二番目の音は濁って聞こえた。父にそれを伝えると、
――よく分かったな。濁った音、つまり不協和な二音は、かすかにうなって聞こえるんだ。
父は弦の張りをこまかく調節して、完全な協和音を聞かせてくれた。
――どうだ? 完全に調和させるとうなりが消えただろう?
――それが正しい和音ってこと?
私の問いに父は笑った。
――音楽は正しいとか、間違ってるとかじゃないんだよ。完全に調和した音程だけで音階を作ることはできないんだぞ? どこかにひずみが出てしまうんだ。
一オクターブに含まれる十二の半音全てが、互いに調和することはできないそうだ。父はいたずらっぽい笑みを浮かべ、
――これは神様のちょっとしたいたずらさ。完璧に綺麗なものだけを求めてもつまらないって教えてくれてるんだ。不協和音こそスパイスなのさ。
私は気づけば、父との会話をジャンに伝えていた。
「驚いた」
ジャンは目を丸くした。
「お嬢さんは音律に関しても基礎を学んでいるのか」
音律ってなんだろう? でも父と過ごした楽しい時間が、私の耳を育ててくれたんだと思うと、嬉しくて笑いだしそうになる。
「音感については納得しました。それで発声の方は誰に習ったのですか?」
ジャンはしつこく尋ねてきた。
「身近にプロの歌手でもいたんですか?」
「えっと、私のお母さんは若いころ酒場の歌手だったそうです。いつも私たち兄弟のために歌ってくれたの」
「ふむ。それを聴いて自然に学んだと」
「聴いてっていうか、いつも母さんの声をまねして歌っていたから」
私が小声で答えると、ジャンはあごを撫でながらうなずいた。ルイジおじさんと違って、今朝きちんとカミソリを当てたことが分かる、無精ひげなど一本も生えていないあごが、余計に彼を気障に見せる。
「一応、基礎訓練を終えていたとはな」
独り言のようにつぶやいてから、
「歌手として成功するには運や見目の良さも重要です。だがその前にまず必要な条件がある」
指折りながら解説を始めた。
「一に才能、二に環境、最後に本人の意志です」
才能という言葉におびえる私のことなど構わず、
「私は音楽愛好家だ。失敗すると分かっている子供に音楽の道を勧めることはない」
と宣言した。私は審判を待つ罪びとのように、震える声で尋ねた。
「私はその条件を満たしているの?」
「よく響く声と、声に情熱を乗せる感性を持っているようだ」
それが才能ってこと?
ジャンは二本目の指を折りながら続けた。
「生まれたときから恵まれた環境で正しい音感を身に着けている。燃えるような意志もある」
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