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プロローグ、少し未来のオリヴィアとリオ

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 時は十八世紀。千七百三十年代も終わりに差し掛かろうという頃――

 ヴェネツィアのサン・カッシアーノ劇場は観客で埋め尽くされていた。

 平土間プラテーアには立ち見のゴンドラ漕ぎたちが陣取り、ボックス席には着飾った貴族の男女がひしめいている。

 人いきれと香水の混ざりあった匂い、そして無数のロウソクから立ちのぼる熱と煙に浮かされて、人々はオペラの興奮に酔いしれるのだ。

 気取ったフィレンツェの劇場とはまるで違う、庶民をも巻き込む開放的で情熱的なヴェネツィアのオペラに、私はすでに魅せられていた。薄暗い舞台袖で出番を待つ私の胸は、まるでデビュー当時のように高鳴る。

 すぐ隣に立っているのは、私の愛するリオ。私を落ち着けるように優しく手を握ってくれる。私より少しだけ背の高い彼の唇が、ふわりと耳元に近付いた。

「今日もとても綺麗だよ、オリヴィア」

 彼の甘い吐息が、私の耳たぶをかすめる。

 薄闇の中で彼に微笑みかけたとき、ちょうど曲が終わった。いよいよ私の出番だ。

 豪華な宮殿を描いた書き割りが引き上げられ、青空と青い海がどこまでも広がる港が現れた。舞台下のオーケストラが伸びやかな旋律を奏でる。

 リオのあたたかい手のひらが、私の背中を押した。

 私は背筋を伸ばし、堂々と舞台へ姿を現す。羽根飾りをあしらった兜をかぶり、銀糸の刺繍が眩しいコバルトブルーの衣装に身を包んだ私は、全ての観客を魅了するだろう。

 舞台の上までせり出したボックス席から、若い貴族女性が身を乗り出した。

「なんて美しいのかしら、オリヴィエーロ様!」

 この劇場にいる誰もが、私を男性歌手オリヴィエーロだと信じて疑わない。ただ一人、舞台袖から私を見守るリオを除いて。家族のように育ってきた彼だけは、私がオリヴィアだと知っている。

「わたくしの理想の貴公子だわ!」

 別の貴婦人が扇子の影でささやくのが聞こえる。私の艶やかな黒髪も、静かな湖面のように澄んだ緑の瞳も、伸びやかな手足も人々を魅了してやまない。

 舞台下でマエストロがチェンバロを奏でる。貴婦人が身に着ける宝石のようにきらめく音色は、華やかな劇場にぴったりだ。

 私は名匠の手による彫像のように右手をかかげ、絵になる仕草で演じ始める。

「風よ、海よ、我らを祝福したまえ!
 我が偉大なるローマ帝国は
 今日の晴れ渡る青空の如く
 どこまでも広がっている」

 私の役は古代ローマに実在した英雄ジュリアスジュリオシーザーチェーザレだ。堂々とした身振りで、人々の上に立つ者らしく高貴な威厳を保って叙唱レチタティーヴォを演じきる。

 管楽器を加えたオーケストラが華やかな前奏を奏で始めると、エジプトの女王クレオパトラに扮したリオが、舞台袖から洗練された所作で姿を現した。無数の宝石をちりばめた薔薇色のドレスに身を包み、しなやかなキャラメルブロンドを高く結い上げている。

 観客は誰も時代考証など気にしないし、クレオパトラの髪色が明るすぎても文句を言わない。天使の歌声を持つ美青年が着飾った姿を見て、目と耳を満たすだけだ。

「私の愛する方!」

 リオの輝かしいソプラノが劇場に満ちる。

「美しきひとよ!」

 私は両手を広げ、包み込むようなアルトで答えた。

「君は私の全てだ」

「あなたはわたくしの命です。
 どうぞこの王冠をお受け取り下さい」

 リオは両手に乗せた小道具の冠を、優雅な仕草で私に差し出した。大きくふくらんだスカートの中で膝を折り、私より背が低くなるように調節してくれている。私を見上げるとび色の瞳は、舞台に並んだロウソクを映して星のようにまたたいていた。

「玉座の象徴は、シーザーチェーザレ様、
 あなたにこそふさわしい」

 子供の頃から魅せられ続けてきたリオの歌声が私の鼓膜を震わせ、脳を揺さぶり、全身の血管をくまなく駆け巡る。快楽に身をゆだねているのは私だけではない。観客も皆、庶民から貴族まで一様に口を半開きにして、天使の歌声に聴き入っている。

 そう、リオこそは本物の男性高音歌手。私のような偽物とは違う。

 私はリオから王冠を受け取って、彼の額に嵌めた。

「この王冠は君の髪に飾ってこそ
 本来放つべき黄金の光を取り戻すだろう」

 腰を落としてまつ毛を伏せたリオは、古代を生きたクレオパトラもかくやと思わせる美貌をたたえている。

 私の心に歌うことへの憧れを植えつけたのも彼ならば、幼いリオを弟のようにしか思っていなかった私に恋を教えたのも彼なのだ。リオがいなければ私は今日、この舞台に立っていなかっただろう。だから黄金の王冠をかぶるのは君しかいない。

「この世で最も美しきクレオパトラよ、
 エジプトの女王として君臨するがよい」

 私はリオと出会ってからの十五年間に思いを馳せながら、最後のソロを歌いあげた。

 マエストロがチェンバロを連打し、弦楽合奏がさらに盛り上がったあとで、最後のデュエットが始まる。

『ああ、なんと美しきかんばせ
 なんて魅惑的なまなさし
 この耳に心地よい甘い吐息』

 私はリオの三度下を歌う。張りのある彼の声と、なめらかな私の音色が混ざりあって清らかな調べが生まれたとき、不思議な現象が起こった。

 三階ボックス席でふんぞり返っていた男が、目を開けたまま意識を失った。開いたままの口から黒い煙が湧き上がる。だが私たちの歌声が震わせる空気に触れた途端、不気味な煙は跡形もなく消え去った。

 今の私たちはもう、この現象に驚いたりはしない。あの男性貴族は体内に悪魔を飼っていたのだ。

『これほどの愛がいまだかつてあっただろうか。
 魂が響き合いたえなるハーモニーを奏でるとき、
 世界は喜びの光に包まれる』

 私たちが想いを交わして歌うと、音楽は神聖な力を帯びる。人の心にとりついた悪魔を浄化して霧散させるのだ。

 また一人、貴族令嬢が意識を失った。彼女の口からも黒い気体が立ちのぼり、虚空で消滅した。

 この世界を滅ぼそうと企む悪魔を、私とリオは消して回っている。オペラ劇場は大勢の人間が一堂に会するから実に都合がよい。悪魔に取りつかれた人間は堕落して教会へ寄り付かなくなるが、音楽の快楽に身を浸すため劇場になら現れる。人が多く集まる場所で次なる犠牲者を探す彼らを待ち伏せ、浄化するのだ。

 だが私たちも最初は、自分たちの歌にそんな不思議な力が宿っているなんて知らなかった。

 そもそもなぜこの世界に悪魔がいるのか? またなぜ私が男性歌手のふりをしているのか、男性であるはずのリオがソプラノの美声を保っているのか説明するには、十五年前までさかのぼらねばならない。

 私がここに書き記すのは、リオと私が育んできた愛のうたであり、同時に悪魔から世界を救う英雄譚なのだ。




─ * ─



次回、『オリヴィアとリオの出会い』です。
互いの第一印象は? 初々しい二人をお楽しみください!
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