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番外 その前とその後の話
満月の夜は 中
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「すみません、少し寄っただけなのにお邪魔してしまって」
「とんでもないです。丁度、夕飯を作りすぎて困っていたんです」
網戸から吹き込んだ微風が、カーテンを揺らす。
初秋とカレーの香りに包まれた室内は、整然としていながらどこか温かい。
客人──佐原をダイニングへと案内しながら、狩野はコンロの火を点けた。
『丁度近くに用事があって』と。つい数時間前、佐原から連絡があったのだ。タクシー代を返しに来た佐原を、狩野は大いに歓迎しては、もてなそうと家に上げたわけだが。
「浅葱には、次の日メッセージで平謝りされましたよ。飲み代もちゃんと返ってきて」
「……あの後圭一と会われたんですか?」
「いえ。対面で会ったのは確か、あれが最後だったはず。……もう三ヶ月か。早いな」
「…………」
「……そういえば、浅葱は、」
食卓の椅子に行儀よく腰かけたまま、家主の一人であるはずの男をキョロキョロ探す。
白米を皿によそいながら、「不在です」と狩野がキッチンから答えた。
「クライアントとの打ち合わせで大阪まで。帰ってくるのは、早くても明日の夜ですね」
「…………そうでしたか」
生返事を返しながら、黒い目で室内をぐると見回して。
「はい、お待たせしました」
「おお…………」
眼前に出されたカレーに、感嘆の声を上げる。鼻腔を刺激するスパイスの香りに、生唾を呑む。「いただきます…………」と手を合わせては、正面からにこにこ顔で眺めてくる男を、おずと見上げた。
「タクシー代返しに来たのに、もてなされちゃって」
「いえいえ、一度しっかりとお礼がしたかったんです」
────2人きりで。
そんな言葉に、佐原は薄い唇を舐めた。
「大学時代?趣味が合う友達とつるんでたみたいでしたけど……すみません、当時は中々関わる機会がなかったので、詳しくは」
「萌黄さんは?幼馴染なんでしょう」
「あ、確かに。よく一緒にいたかも。不思議な組み合わせだと思ってたけど、幼馴染だったのか。あとは……あ、」
「?」
「一時期ずっと波多野といたな。知りません?波多野佐久、モデルの。2コ上なのに、敬語で、『先生、先生」っつって。どういう関係だったんでしょうね?」
「……へぇ」
滑らかな会話は、良く弾む。
話題は主に、本日不在の浅葱についてだった。
自らの知らない恋人の話を前のめりで聞きながら、幸せそうに相槌をうつ。
そして、サラダとカレーが3分の1ほどになったとき、不意に、佐原は「ふふ」と口元を覆った。
コップを持ち上げたまま小首をかしげる男に、俯いたまま待ったをかけて。
「……本当に、浅葱のことが好きなんだなぁと思って」
「…!」
その言葉に、白いかんばせにまた熱が集まる。みるみる赤くなっていく耳に、佐原は、悪戯っぽく笑みを深めた。
「この調子だと、余計な心配だったみたいだ」
「な、ななななにが……」
「レス問題」
「ブック!」
口は抑えた物の、隙間からダバダバと水が垂れてくる。とうとう腹を抱えて大笑いし始めた佐原に、恨めしげな視線を向けた。
「納得いってないんですよ、それ。普段はこちらが我慢させられてるくらいなのに」
「……へぇ?」
「負担が大きいのはあちらなので、無理は言えません……が……」
尻すぼみになった言葉が、霧散する。
布巾を机に押し当てる手に、佐原の手が重なったからだ。
「さ、はらさん……?」
「俺はどうですか」
「どう、とは……」
困惑に揺れる金眼が、やおら擡げられる。
視線がぶつかると同時に佩かれた微笑は、いつかのように妖しい艶を湛えていた。
「俺、面食いなんです」
「…………」
「一目見て、あなたを抱きたいし抱かれたいとも思った」
「……困ります」
「そうですか?俺のことは、気が向いた時に、好きなように使ってもらって構いません。性欲処理の道具──性玩具と同じです」
身を捩る狩野の手を、さらに両手で包み込む。
揺れる琥珀色の目を、熱っぽく覗き込む。そこには、気怠げでありながら、真摯な熱が灯っていた。
「貴方が望むなら、何でもします。タチでもネコでも、どれだけハードなプレイでも。……ねぇ?助け合わなきゃやってられないでしょ、俺たちみたいなマイノリティは」
「……圭一を裏切るような真似はできません」
硬い声で、相貌を逸らす。拒絶を露に半身を逸らせば、佐原は口端を吊り上げた。
「白々しいなぁ」
その声音からは、先刻までのしおらしさは消え失せていた。弾かれるように相貌を上げてまず目に入ったのは、悪辣な笑みを浮かべた美丈夫だった。
「最初からそのつもりだったでしょう?あなたも」
「へ……」
「だって、俺変な男だったでしょう。直接連絡先交換したわけでもないのに、急に電話してきて。タクシー代返したいとか、馬鹿みたいな口実で訪ねてきて……しかも、ゲイだ。そんなやつ普通家にあげませんよ、恋人がいない日に。それを今更、『自分はそんなつもりなかった』なんて、意外と強かなんだ、狩野さんって」
指折り数えながら、天井を仰ぐ。
狩野の手を開放しては、どこか横柄に足を組み替えた。背もたれに背を預けて、「あと、なんでしたっけ?」と半笑いで唸って。
「『明日の夜まで恋人は帰ってきません』?あれ、あからさま過ぎて笑っちゃいました。まぁ、気持ちは分からなくもない。あれを抱けだなんて──波多野といいそういう系統の美人って、ゲテモノ趣味でもあるんですかね」
「…………」
「実を言うと俺、飛び上がるほど驚いたんですよ、浅葱と再会したとき。だってあまりにも変わってなくて。……貧相な体に、ヨレヨレの垢抜けないシャツ。愛される努力を微塵もしていない。あれのどこが良いんですか?あれは何をあなたに還元──」
言葉が途切れる。
先刻から押し黙っていた男の肩が、小刻みに震えていることに気付いたからだ。
「っふ、」
そして、男が漏らした笑み声に、佐原は薄ら笑いを消す。
男の纏う雰囲気が、先刻のそれと明らかに異なる物だったからだ。
「…………狩野さん?」
「いえ、すみません。どうぞ、続けてください」
「…………………」
「……終わりですか?他に何か言いたいことがあったんじゃないんです?」
佐原は答えない。代わりに、懐疑の滲んだ目で顔を伏せた男を凝視する。赤い唇を、開いては閉じて。
一挙手一投足。一つの間違いが、命取りとなる。
頸椎に手をかけられたような。そんな言いようのない緊張感に、言葉を継ぐことが出来なかったのだ。
口を開こうとしない佐原に、小ぶりな相貌がゆったりと擡げられる。
「勿論」
穏かな声だった。擡げられた相貌には、声音に違わぬ柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ええ、最初から気付いてましたよ。あの日圭一に声を掛けたのは、おれに近付くためだ」
「…………っ、」
「だって、……あはは。佐原さん、ずーっとおれのことしか見ていないんですから」
眦を下げたまま、線の細い指先を唇に添える。
相貌を傾けた拍子に、艶めいた黒髪がサラと揺れた。
「常々思っています。良い恋人になりたいって。だから、交友関係には口を出さないし、外に出るのだって泣く泣く許してる。歯止めが効かなくならないように」
カツン、と。
そんな硬質な音に、縫い留められた視線が初めて解放される。綺麗に平らげられた皿に、匙を乗せて。「でもね」と。伏せられた長い睫毛が、白い肌に影を落とした。
「実害が出るようなら、話は別なんです」
「実、害」
「そう」
か細い声で復唱して、初めて、喉が張り付くほどに乾いていることに気付く。
佐原がコップに唇を付けるのを眺めながら、狩野は相貌の前で指を組んだ。
「圭一の酒に、睡眠薬を盛りましたね?」
「とんでもないです。丁度、夕飯を作りすぎて困っていたんです」
網戸から吹き込んだ微風が、カーテンを揺らす。
初秋とカレーの香りに包まれた室内は、整然としていながらどこか温かい。
客人──佐原をダイニングへと案内しながら、狩野はコンロの火を点けた。
『丁度近くに用事があって』と。つい数時間前、佐原から連絡があったのだ。タクシー代を返しに来た佐原を、狩野は大いに歓迎しては、もてなそうと家に上げたわけだが。
「浅葱には、次の日メッセージで平謝りされましたよ。飲み代もちゃんと返ってきて」
「……あの後圭一と会われたんですか?」
「いえ。対面で会ったのは確か、あれが最後だったはず。……もう三ヶ月か。早いな」
「…………」
「……そういえば、浅葱は、」
食卓の椅子に行儀よく腰かけたまま、家主の一人であるはずの男をキョロキョロ探す。
白米を皿によそいながら、「不在です」と狩野がキッチンから答えた。
「クライアントとの打ち合わせで大阪まで。帰ってくるのは、早くても明日の夜ですね」
「…………そうでしたか」
生返事を返しながら、黒い目で室内をぐると見回して。
「はい、お待たせしました」
「おお…………」
眼前に出されたカレーに、感嘆の声を上げる。鼻腔を刺激するスパイスの香りに、生唾を呑む。「いただきます…………」と手を合わせては、正面からにこにこ顔で眺めてくる男を、おずと見上げた。
「タクシー代返しに来たのに、もてなされちゃって」
「いえいえ、一度しっかりとお礼がしたかったんです」
────2人きりで。
そんな言葉に、佐原は薄い唇を舐めた。
「大学時代?趣味が合う友達とつるんでたみたいでしたけど……すみません、当時は中々関わる機会がなかったので、詳しくは」
「萌黄さんは?幼馴染なんでしょう」
「あ、確かに。よく一緒にいたかも。不思議な組み合わせだと思ってたけど、幼馴染だったのか。あとは……あ、」
「?」
「一時期ずっと波多野といたな。知りません?波多野佐久、モデルの。2コ上なのに、敬語で、『先生、先生」っつって。どういう関係だったんでしょうね?」
「……へぇ」
滑らかな会話は、良く弾む。
話題は主に、本日不在の浅葱についてだった。
自らの知らない恋人の話を前のめりで聞きながら、幸せそうに相槌をうつ。
そして、サラダとカレーが3分の1ほどになったとき、不意に、佐原は「ふふ」と口元を覆った。
コップを持ち上げたまま小首をかしげる男に、俯いたまま待ったをかけて。
「……本当に、浅葱のことが好きなんだなぁと思って」
「…!」
その言葉に、白いかんばせにまた熱が集まる。みるみる赤くなっていく耳に、佐原は、悪戯っぽく笑みを深めた。
「この調子だと、余計な心配だったみたいだ」
「な、ななななにが……」
「レス問題」
「ブック!」
口は抑えた物の、隙間からダバダバと水が垂れてくる。とうとう腹を抱えて大笑いし始めた佐原に、恨めしげな視線を向けた。
「納得いってないんですよ、それ。普段はこちらが我慢させられてるくらいなのに」
「……へぇ?」
「負担が大きいのはあちらなので、無理は言えません……が……」
尻すぼみになった言葉が、霧散する。
布巾を机に押し当てる手に、佐原の手が重なったからだ。
「さ、はらさん……?」
「俺はどうですか」
「どう、とは……」
困惑に揺れる金眼が、やおら擡げられる。
視線がぶつかると同時に佩かれた微笑は、いつかのように妖しい艶を湛えていた。
「俺、面食いなんです」
「…………」
「一目見て、あなたを抱きたいし抱かれたいとも思った」
「……困ります」
「そうですか?俺のことは、気が向いた時に、好きなように使ってもらって構いません。性欲処理の道具──性玩具と同じです」
身を捩る狩野の手を、さらに両手で包み込む。
揺れる琥珀色の目を、熱っぽく覗き込む。そこには、気怠げでありながら、真摯な熱が灯っていた。
「貴方が望むなら、何でもします。タチでもネコでも、どれだけハードなプレイでも。……ねぇ?助け合わなきゃやってられないでしょ、俺たちみたいなマイノリティは」
「……圭一を裏切るような真似はできません」
硬い声で、相貌を逸らす。拒絶を露に半身を逸らせば、佐原は口端を吊り上げた。
「白々しいなぁ」
その声音からは、先刻までのしおらしさは消え失せていた。弾かれるように相貌を上げてまず目に入ったのは、悪辣な笑みを浮かべた美丈夫だった。
「最初からそのつもりだったでしょう?あなたも」
「へ……」
「だって、俺変な男だったでしょう。直接連絡先交換したわけでもないのに、急に電話してきて。タクシー代返したいとか、馬鹿みたいな口実で訪ねてきて……しかも、ゲイだ。そんなやつ普通家にあげませんよ、恋人がいない日に。それを今更、『自分はそんなつもりなかった』なんて、意外と強かなんだ、狩野さんって」
指折り数えながら、天井を仰ぐ。
狩野の手を開放しては、どこか横柄に足を組み替えた。背もたれに背を預けて、「あと、なんでしたっけ?」と半笑いで唸って。
「『明日の夜まで恋人は帰ってきません』?あれ、あからさま過ぎて笑っちゃいました。まぁ、気持ちは分からなくもない。あれを抱けだなんて──波多野といいそういう系統の美人って、ゲテモノ趣味でもあるんですかね」
「…………」
「実を言うと俺、飛び上がるほど驚いたんですよ、浅葱と再会したとき。だってあまりにも変わってなくて。……貧相な体に、ヨレヨレの垢抜けないシャツ。愛される努力を微塵もしていない。あれのどこが良いんですか?あれは何をあなたに還元──」
言葉が途切れる。
先刻から押し黙っていた男の肩が、小刻みに震えていることに気付いたからだ。
「っふ、」
そして、男が漏らした笑み声に、佐原は薄ら笑いを消す。
男の纏う雰囲気が、先刻のそれと明らかに異なる物だったからだ。
「…………狩野さん?」
「いえ、すみません。どうぞ、続けてください」
「…………………」
「……終わりですか?他に何か言いたいことがあったんじゃないんです?」
佐原は答えない。代わりに、懐疑の滲んだ目で顔を伏せた男を凝視する。赤い唇を、開いては閉じて。
一挙手一投足。一つの間違いが、命取りとなる。
頸椎に手をかけられたような。そんな言いようのない緊張感に、言葉を継ぐことが出来なかったのだ。
口を開こうとしない佐原に、小ぶりな相貌がゆったりと擡げられる。
「勿論」
穏かな声だった。擡げられた相貌には、声音に違わぬ柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ええ、最初から気付いてましたよ。あの日圭一に声を掛けたのは、おれに近付くためだ」
「…………っ、」
「だって、……あはは。佐原さん、ずーっとおれのことしか見ていないんですから」
眦を下げたまま、線の細い指先を唇に添える。
相貌を傾けた拍子に、艶めいた黒髪がサラと揺れた。
「常々思っています。良い恋人になりたいって。だから、交友関係には口を出さないし、外に出るのだって泣く泣く許してる。歯止めが効かなくならないように」
カツン、と。
そんな硬質な音に、縫い留められた視線が初めて解放される。綺麗に平らげられた皿に、匙を乗せて。「でもね」と。伏せられた長い睫毛が、白い肌に影を落とした。
「実害が出るようなら、話は別なんです」
「実、害」
「そう」
か細い声で復唱して、初めて、喉が張り付くほどに乾いていることに気付く。
佐原がコップに唇を付けるのを眺めながら、狩野は相貌の前で指を組んだ。
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