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番外『怠惰』のつくりかた
ヨウ兄
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温かい色をした、名前の知らない花が散っていた。
温かい手だった。
ずっとずっと大きな右手に、優しく手を引かれる。
学生だろうか。僕が普段着ている制服の、装飾を極限まで削ぎ落としたような詰襟を着ている。実際、それは制服なのだろうと思った。
とにかく、制服に包まれた広くて大きな背が、目の前で窮屈そうに揺れる。
「マコト」
その人は、僕の手を引きながら振り返る。
美しい顔をしていた。どちらかと言うと、女性的な美貌を持った青年だった。
濡羽色の髪の毛に、眩しい光沢に濡れた黒目。その人の瞳には、『マコト』の姿がよく反射している。
藤色の瞳を除いて、『マコト』の容貌は青年の生写しのようだった。まだ所々丸みが残る分、少女に見紛わうほどに可憐で可愛らしい。
「なに、ヨウ兄」
鈴を転がすような声は、よく弾む。この青年──『ヨウ兄』に、心底懐いているのだろうと思った。
「いつも、苦労をかけてごめんね」
「どうしてヨウ兄が謝るのさ」
「だって、母さんのせいでお前は────」
「ヨウ兄」
小さな手で、青年の手を握る。どこか虚な黒目が、驚いたように見開かれた。
「ヨウ兄が居てくれるから、ぼく、辛くないよ」
「……………」
「大好きだよ」
膝を負る。青年が、切羽詰まったように僕を──否、マコトの肢体を掻き抱いた。
高い鼻が、首元に埋まっている。
今はもう見えないけど、一瞬見えた青年の表情は、酷く苦しそうな物に見えた。「すまない」「本当にすまない」なんて、何度も何度も謝って。
「にいちゃんは、ずっとお前のことが大好きだから」
刹那。
ドロ、と。生温い感触が、肩口に伝う。
ギシギシ、ギシギシと何かが軋むような音。
「………………ヨウ兄?」
暗い部屋にいた。
先刻までの温かな景色は、見る影もなかった。鼻をつく激臭。耳奥にこびりつくような、粘ついた水音。
そんな尋常じゃない空間の中央で、青年はこちらを見下ろしていた。
虚に開かれた黒目はひどく乾いていて、先刻までの面影はない。不自然な体勢で、首も、不自然なくらいに伸び切って。
その首には、ギシギシと音を立てる荒縄が────
***
「お前の生態にすごい興味があるんだけどさぁ」
「奇遇だな。僕も、幾つか君に訊きたいことがある」
目が覚めると、鼻先には僕の顔。今日も整っている。
唇を震わせ唾を飛ばせば、ちょっと形容しがたい表情でマコトはその場にひっくり返った。
胡乱な目をして、身体を起こすマコト。
その所作は、先刻見た『マコト』のいじらしさからは、想像もつかないような太々しさだった。
「………『ヨウ兄』」
「…………」
ピリ、と。終始平坦だった翠眼に、緊張が走ったのが分かった。
だがそれも一瞬で、次の瞬間後頭部を掻いたその顔に、緊張感は残ってすらいない。最も、確信を得るのにはそれだけで十分だったが。
「やい、変態覗き見陰毛野郎。お前、どこでその名を──」
「マコト君は陰毛もサラサラストレートなのか?それともまだ生えてもない?」
「…………言うじゃあないか。確かめてみるか?」
「どうやって」
「この上で」
足を組み直せば、マコトは口端を吊り上げてベッドへともたれ掛かる。ギシ、とスプリング軋む音が、あの不愉快な夢にリンクして気持ち悪い。
「……今の僕をどうやって抱くつもりだ?」
「はは。やっぱそう言うのに偏見はないのか、この世界は」
「当たり前だ。潔癖も極めれば王家すら途絶える」
「そう言う話じゃないよ」
呆れたように張り上げられた声は、妙に神経を逆撫でする。「男色家の王家が……」と言うボヤきは、意味は分からないが、痛烈に何かを冒涜するような響きを伴っていた。
「な、なんだよ……」
「いーや、精神疾患者の妄言だ。聞き流せ」
「面白くないぞ、その冗談」
「じゃあ言わせてもらうけどね。王妃が男、父上が男、母上も男、挙句、兄上がお熱の『ギネヴィア』様まで男ときたもんだ。こんな話ってあるか?俺はてっきり、ギネヴィア様とは金髪碧眼の儚げ美女だと……」
「兄上って呼ぶな、兄上って。僕の兄様だ」
「男のケツ穴からどうやってガキひり出すんだよ。それともなんだ、コウノトリが運んでくるのか?桃から生まれてくるのか?ああ、皆んなが皆桃太郎ってか」
「…………僕は庭園のキャベツ畑から生まれたが」
「勘弁してくれ……」
『ギネヴィア』と言う名前に苦い物を感じながらも、それのどこがおかしいのか分からない。人を食ったような男が、本気で狼狽する様はかなり愉快だが。
「今度は君の番だぞ、マコト」
「……?」
「君の身の上を話してもらう」
「意外だな。お前は俺に興味ないかと思ってた」
「…………話が変わってきた」
目を逸らす。問われても、自分でも分からなかったからだ。何故、自分がここまでこの男に興味を持っているのか。
ただあの少年の──あの、純粋に兄を慕う少年の笑顔が、頭にこびり付いて離れない。他人だと思えなかった。
あの男の抱えているものが、もし。もし、僕と同じ類の物だとしたら。
僕らがこうなった理由は、そこにあるのではないか。
……理由を知って、特にどうするわけでもないけれど。
「ふぅん」
「おい、何だその気のない返……おい、何をしている」
「お前と違って俺は忙しいの。話してやっても良いけど、移動しながらな」
男らしく服を脱ぎ捨て、制服に着替えるマコト。今日は確か、休日の筈だが。
「お前何日寝てたと思う」
唐突な問いに、デジャヴじみた物を感じながら眉を寄せる。
「はん……」
「ブッブー!60日つまりこっちの暦で約1ヶ月!」
「早いな!って、60日?」
今度は僕が仰反る番だった。
本当にどうなってるんだ、僕の身体は。
***
「おはようございます、ロード・モーガン」
「ご機嫌よう、モーガン様」
「ああ、モーガン様は今日も麗しいわ」
眠って、60日経って。目が覚めたら、全く知らない世界が広がっていた。
悪い夢でも見ているのかと思った。
「マコト、これはなんだ」
「何だってなにが……やあ、おはよう。ミスタードゥナツ、エビオス嬢」
「ふざけるなよ、とぼけるな。何がどうして────」
僕の知っている学園は、こうも温順で能天気な物では無かった。道を歩けば陰口、誹り。廊下を歩いたとて、遠巻きにされることはあれど、まるで親友のように名を呼ばれることは一度も無かった。
それが、どうだ。
僕を『妾の子』と罵ったのと同じ口で、僕を愛称で呼び、称賛する。その厚顔に吐き気がしたし、何よりこの状況が気持ち悪くて仕方が無い。
「人は変わるのさ。60日もあれば」
「ああ、だが周りはそうも行かない」
「マジで面倒くさいね、お前。じゃあこれだけ」
苛立たしげに髪を掻き上げて、マコトはかぶりを振る。足を止め、前を見据え。
「…………やあ、モーガン」
「ああ。ご機嫌よう、兄上」
眩しい金髪に、透き通った翠眼。
反射的に遮断されそうになる意識に鞭打ち、何とか踏みとどまる。ここで寝たら、本当に次いつ起きられるのかわからない。
マコトはというと、いつかのように恭しく腰を折りながら、左目を瞑って見せる。
「兄貴とは良好な関係を築いた方が良い」
***
人が何百人横並びになってもまだ余裕があるような赤煉瓦の建物は、縦にもデカい。首に鈍い痛みを感じながら建物の天頂を仰ぐ。同じように上を見上げたまま、マコトは日差しの眩しさに目を細めた。
「ここが王立病院か……」
「君は本当に……」
集められた『来訪者』たちは、王立病院の特殊疾患病棟に収容される。親族すら難しい患者達との面会許可が降りたのは、ひとえに、ユーチェスター公爵が長男──つまりは、兄様のツテのおかげである。
「おい、そこの猫っぽい生き物の死骸。お前あれに乗り移ったりできないの」
「ネコってなんだ。……ええ、まさか虫が集ってるあれのこと言ってるのか?」
「魂の性質を知るための実証実験だ。そもそもお前は自分の事にちょっと無頓着すぎるよ。道理を知ることは大事だぜ、火が起こる道理、魂の構造。克服して、自分の物にするには────」
「おい、足が腐って動けな……あー!お尻の穴から放り出された!」
「………………ブリブリモーガンくんさぁ」
「僕はうんちだ」
そんな軽口を叩きながら、兄様の書いた紹介状を提示して、兄様が『寄付』してる病院へと立ち入る。
病院内に立ち込めるこの匂いは、昔から好きにはなれなかった。
「……俺の世界の病院とは違うな、当たり前だけど。研究施設って感じだ」
「実際それであってるんだろう」
「マジ、ここエリア51だったのかよ。そんで俺はエイリアン?」
「助詞と主語意外、君がなにを言っているのか全くわからない」
マコトのトンチキ発言は、気にするだけ無駄だ。説明を受けたって意味はわからないし、そもそも説明らしい説明をコイツから受けたことがない。
寂漠とした院内に響き渡る、1人分の足音に耳を澄ませる。「マコト」と声をかけると、緑色の目が、きろと僕を捉えた。
「どうやった」
「なにが」
「どうやって話をつけた」
「兄弟は大事にしろ」
「僕が寝てる60日間に、兄様と何があったって聞いてる」
「茶をシバいて、お話して、親睦を深めただけだっ──」
「僕がなにをしても、兄様は16年間僕に興味を持たなかった」
マコトは口を噤む。口を噤んで、僕の横顔をまじまじと見つめる。我が表情筋ながら、もっと柔軟に動くことは出来ないのかと思う。人形でも眺めているような気になって、感情らしい感情が読み取れない。いや、こいつの場合そこのところ完璧にコントロールできるみたいだから、これは意図的だ。意図的に、表情を落としている。
「…………『ヨウ兄』は、俺の兄貴だ」
次に落とされた声音に、先刻までの軽薄さは全く無い。僕の方は内面が顔に出ていたようで、「そんな顔するなよ」と嗜められる。
「さっき言っただろ、話してやるって」
「……君は本当に話を逸らすのが得意だな」
「マァ聞けって。そのヨウ兄はできたお人でな。それこそ妾の子の俺を、実の弟みたいに可愛がってくれた」
「妾の子?」
思わず表情が強張る。目を剥けば、マコトは目を細め、口端を吊り上げる。僕はこの男の、こうも穏やかな表情を初めて見たかもしれない。ともすれば、これは彼が初めて見せる素の表情なのか。
「そうだよ、腹違いのね。お揃いだな」
「それにしては似てた」
「…………どこで見た?」
「夢で」
「何、やっぱ記憶が勝手に共有されるわけ。それについても後々調べなきゃな」
「どうなんだよ」
「ぐいぐい来るな……そうだよ。父親の遺伝子が強いんだよ。多分、知らねーけど」
その表情には、純然たる無関心が横たわっているようだった。恐らく、本当にどうでも良いのだろう。
僕と怖いくらいに似た境遇に身を置きながら、僕とは全く対局の位置にいるのだと思った。
だって、こうも自分や、父親に無関心でいる事が可能なのか。少なくとも僕には無理だと思った。僕は僕の目と頭髪は父様似で好きだが、母親似の鼻は嫌いだ。
「んで、俺の母親の方は俺を産んだ後すぐ死んで、俺は本家……親父の家に引き取られたんだよね」
「…………」
「当然、面白くないのは義母さん。俺を妾の子って呼びながら、義兄……ヨウ兄じゃない方の兄貴と一緒に突き回した。親父も親父で、火遊びの副産物でしかない俺に無関心だった」
「……でも、『ヨウ兄』は違った?」
「そー。それで、その人格者アニキが言うにはね」
「君は────」
言葉が継げなかった。
あまりにも壮絶な身の上だった。けれどそれを語る口調は、あまりに淡々としていて、まるで、他人事みたいで。もしその痛みをそうも無頓着に扱う事ができるとしたら、それは彼が傷に慣れきってしまっているか、無自覚であるかだろう。
「血が繋がっていようとなか──は、なに、お前。え、泣いてる?」
「泣いてない」
「し、しかもキレてるぅ……」
「キレてないし泣いてない。やめろ、その露骨に腫れ物見つけちゃった!みたいな顔をするのを」
「いやキレてんじゃん……これだからボンボンは……」
ウゲ、と舌を突き出して、胡乱な目をするマコト。その態度が余計神経を逆撫でしてきて、こう、もうダメだった。本当に。本当に恥ずべきことだが、涙が止まらない。
「何で、お前そんな平気な顔できるんだよ……」
「え、俺……?」
「もっと、こう、傷付いた顔をしろよ!」
「ええー……、俺の話は良いんだよ。もうとっくに折り合いついてるし。それよりヨウ兄様の有難い言葉をだな……」
「良くないだろぉ!辛いときは、辛いって……、」
マコトとの距離がゼロになる。
感じるはずの無い温もりが、上躯を包んだようだった。僕を抱き締めるようなポーズを取るマコトは、側から見ると虚空を抱き締める変人である。
「おい、何してる。君、すごく変だぞ」
「駄々っ子をあやしてるんだよ!」
「抱き締めてか?……というか駄々っ子ってまさか僕のことじゃ……」
「お前以外に誰が居んだよ。ヨウ兄の直伝だ。ほら、現にお前は泣き止んだ。」
自分(中身は別人)の痴態を客観視して、冷静になっただけである。
とは言えず、大人しくマコトのしたいようにさせておく。だが飄々として、何事も要領良くこなすように見えていたコイツに、こんな不器用な一面があったとは。人間味が一気に増してきたぞ。
「…………落ち着いたか」
「僕は最初から落ち着いてる」
「良かったな、鏡に映らない体で」
「凄い皮肉言う……」
モラルもクソも無い発言に、小声でドン引きする。マコトは「とにかく、あれだ」と、強引に話題を切り替えるように、ぶっきらぼうに言った。
「ヨウ兄が言うには、『血が繋がってようと無かろうと、兄弟を大事にできないやつはクソだ』って」
「…………」
「そんで話した印象からして、お前の兄様はクソだ」
「兄様を侮辱するか」
「ああ、するね。だからこの際言わせてもらうけど、お前がそのクソ野郎のご機嫌を必死にとって、一喜一憂して振り回される必要はないよ」
「………………」
あまりにも軽薄な物言いだが、どこか妙な説得力があった。
「俺には俺を助けてくれる兄貴がいた。けどお前にはいない。お前を助ける人間が」
「…………」
「………………そりゃ、死にたくなるわな」
俺の頭に、手を置く。本当に分からないやつだと思った。そんな事したって、触れやしないのに。けどアイツの手は透けないから、アイツがどんな表情でそれを言ったのかは見えなかった。
「オラ、着いたぞ」
何を言うか考えあぐねるうちに、マコトはさっさと手を引っ込め、扉に向き合う。面会室と書かれたそのドアプレートは、不自然なほどに綺麗だった。
***
「僕はモーガン・ル・フェイ。はじめまして」
「………………」
青白い顔をした女は肯首するように顔を伏せ、黙り込む。『来訪者』であると言うその女は、実に4人目の面会者だった。
「わ、たしに、なんの御用でしょうか」
「あなたの事を知りたくて」
「お話出来ることなんて、何もありません」
「僕はあなたのお話を信じます、全て」
「そんな、必要ありません、私は────、」
「お辛かったでしょう。わかりますよ、この世界はあまりにも生き辛い」
傷一つない机に投げ出された女性の手に、マコトはそっと手を添える。煙る睫毛が物鬱げに伏せられ、翠眼が上目遣いで女性を覗き込んだ。
「目が覚めると全く知らない人間で、全く知らない世界に1人放り出されて。加えて周りは碌に取り合わず、挙句精神異常者扱いだ」
「あなたに何が分かるんですか」
「全てです。あなたの苦しみ全て」
「…………なぜ」
「蜒輔b縺ゅ↑縺溘→蜷後§縺ァ縺吶°繝ゥ」
同時に、女性の目が見開かれる。驚愕に塗れた表情にも関わらず、その双眸の奥の氷が、一瞬にして溶けてしまったような感覚を覚える。
まただ。
今までの3人も同じだった。皆が皆、何かに怯えたような目をして、この部屋に入ってくる。けれどもある時から、こちらに完全に心を開き自分から身の上を語り始める。
マコトが、この一言を口にしたときから。
「………………どうして」
「先刻も言った通りです。だから僕は、あなたの辛さも、苦しみも痛いほどわかる。力になりたいんです」
「………………」
「あなたは病気なんかじゃない。あなたは正常です」
その言葉に、女性は目を細め、肩を震わせる。泣いている。これははじめての反応だった。
マコトが立ち上がり、女性の隣の椅子へと腰掛ける。慣れた手つきでその肩を摩りながら、女性が口を開くのを待っていた。先刻──僕をあやす時からは想像もつかないようなスマートさだ。
「わからなく、なっていたんです」
辿々しく、どこか違和感のある発音のまま、女性は零す。
「おかしいのが、自分なのか世界なのか。そしたら日に日に、自分の境目も分からなくなって行って。私は、『アン』なのか、『私』なのか。私は誰なのか……」
「…………あなたの名前をここに書いて」
「アン・フォーキンズ」
「そちらではない方の」
震える手にペンを持ち、『アン』は名前を羊皮紙へと書き綴る。
『伊藤沙織』
見覚えのない幾何学に思わず目を細めるが、マコトはそれを見て「綺麗な名前だ」と笑った。
「イトウさん。イトウ、サオリさん。それがあなたの名前だ」
「…………っ、」
アンは顔を覆う。どうやら本当に彼女の自認は、『イトウサオリ』であるらしい。
彼女はアン・フォーキンズとして生まれながら、ある時点から、イトウサオリとなった。それでも周りは彼女を、アンとして扱う。彼女はそれを『自分の境目がわからなくなる』と表現したが、僕には想像も及ばない苦痛である。
ただ一つ確かなのは、アン・フォーキンズは完全に死んだと言う事だ。
同様に、僕は死んだ。
そう、あの日、確かに僕は、死んだはずだった。
改めて沸いた実感に、指先が冷たくなるような感覚を覚える。足場が端から崩れていくようだ。そして、再三言葉を交わした筈だったイガタマコトと言う男の異質さに、寒気がした。
「…………私、伊藤沙織ははいじめを受けていました」
ぽつりと零された声に、意識を引き戻す。イトウサオリは自分の手の甲を見つめながら、淡々と口を開いた。
「そして、自殺しました。アイツらを呼び出して、目の前で、飛び降りてやりました。少しでも後悔すれば良い、傷になれば良いと……すみません、そんな事はどうでも良いですね。ええ、重要なのは、私は確かに死んだと言う事です」
「…………」
「けれど、私は生き返った。……ご存知の通りです。死んだ筈の私は、死んだ筈のアン・フォーキンズに成り代わっていました」
「死んだ?アン・フォーキンズが」
「はい。アンは、貧しい村娘です。病で父と母を早くに亡くし、身寄りの無い状態で漸く勤めた奉公先でも虐げられ。……焼身自殺を図りました。屋敷や何人かの同僚や。色々な物が燃え落ちた焼け跡の中心で、私は目を覚ましました」
やはり、と確信する。
前の3人もそうだった。皆が世を儚み、怨を背負って死に、類似した境遇の人間として生まれ変わっている。彼女らの場合は、周りに虐げられた末に。他の3人は、過労が祟った事故死や罪悪感による自死、果ては周囲を傷つけた末の他殺などを通して、成り代わりを果たしていた。
「……『月』は」
「月」
「あなたが亡くなった夜に、月は出ていましたか」
マコトの問いかけに、イトウサオリは目を見張る。
「どうだったでしょうか。……ああ、屋上から見えた月が、非常に美しかったのを覚えています。ええ、とても立派な満月でした。けれど、何故そのような事を」
「…………炎と満月、そして当事者以外の人間の死」
「…………?」
「あなた以外の『来訪者』にも話を聞きましたが、彼らの証言にも、決まってこれらの3つが関わってきていました。いずれも、宗教・呪術的に大きな意味を持ちますね」
「それが?」
「仮説ではありますが。完全に無作為というわけではなく、『来訪者』に選ばれるためには一定の条件があるのではないかと考えています」
思い返してみると確かに、その通りだと思った。
だが満月については、今みたいにマコトの方から切り出す方が多かったので、マコトの中にはあらかじめ、この仮説があったのかもしれない。
「『来訪者』についての調査という名目で、僕はあなたと対話することを許された。だからこそ、僕にはそのメカニズムを解明し、貴方のような人を救う責務がある」
「救う……?」
「はい。魂と肉体、この世界と彼方の世界の関係。それらを理解する事で、応用的に貴方を解放できるかもしれない」
「…………解放」
ここで言う解放とはすなわち、彼女にとって2度目の死を意味するのだろう。だが、イトウサオリの瞳には透き通った光が宿る。
その光景があまりにも異様で、なんだかマコトの方が、綺麗なだけの死神のように見えて来る。耳障りの良い言葉で人を誑かし、その魂を掌握するのだ。
そんなことを悶々と考えるうちに、マコトは懐中時計を確認する素振りを見せる。この面会に時間制限は無いし、このあとにも予定は無いはずだが。
「……辛いお話をさせてしまって、申し訳ございませんでした」
「いえ……」
「名残惜しいですが、時間です。また、機会が──」
言葉が途切れる。
イトウサオリが、マコトの手を掴んだからだ。澱んだ青色をした目が、覗き込むようにマコトを見つめていた。
「…………あなたは、どうしてだと思いますか」
「はい?」
「何故、私たちが選ばれたのでしょう。なぜまた、私がこんな目に──」
「さぁ、」
今度は、マコトが言葉を遮る番だった。掴まれた手を一瞥したかと思えば、その相貌には笑みが浮かぶ。
「僕は、神様からの贈り物だと思っていますよ」
「何を、」
「神様はチャンスをくださったんです、僕に」
「……貴方は私を『解放』してくださるのですよね?」
「ええ。ですが僕にとっては、死は救済ではありません。それだけの話です」
その笑みは、完璧だった。口角の角度も、目尻の下げ方も。けれどそれを見て覚えたのは、得も言われぬ薄気味悪さである。
発言の内容は元より、この得体の知れなさ。何を考えているのか全くわからない。何か、理解の及ばない存在に睨まれたような、そんな感じ。男の輪郭が、いびつに歪むような錯覚を覚えた。
それはイトウサオリも同じようだった。
引き攣り、青褪めた顔で掴んだ手を下ろす。
「では、イトウサオリさん。また機会があれば」
微笑んだまま、恭しく礼をするマコト。制服を翻してさっさと部屋を出て行くその背を、慌てて追う。
閉じる扉の隙間から見えた女の目には、最初と同じ拒絶が蹲っていた。
温かい手だった。
ずっとずっと大きな右手に、優しく手を引かれる。
学生だろうか。僕が普段着ている制服の、装飾を極限まで削ぎ落としたような詰襟を着ている。実際、それは制服なのだろうと思った。
とにかく、制服に包まれた広くて大きな背が、目の前で窮屈そうに揺れる。
「マコト」
その人は、僕の手を引きながら振り返る。
美しい顔をしていた。どちらかと言うと、女性的な美貌を持った青年だった。
濡羽色の髪の毛に、眩しい光沢に濡れた黒目。その人の瞳には、『マコト』の姿がよく反射している。
藤色の瞳を除いて、『マコト』の容貌は青年の生写しのようだった。まだ所々丸みが残る分、少女に見紛わうほどに可憐で可愛らしい。
「なに、ヨウ兄」
鈴を転がすような声は、よく弾む。この青年──『ヨウ兄』に、心底懐いているのだろうと思った。
「いつも、苦労をかけてごめんね」
「どうしてヨウ兄が謝るのさ」
「だって、母さんのせいでお前は────」
「ヨウ兄」
小さな手で、青年の手を握る。どこか虚な黒目が、驚いたように見開かれた。
「ヨウ兄が居てくれるから、ぼく、辛くないよ」
「……………」
「大好きだよ」
膝を負る。青年が、切羽詰まったように僕を──否、マコトの肢体を掻き抱いた。
高い鼻が、首元に埋まっている。
今はもう見えないけど、一瞬見えた青年の表情は、酷く苦しそうな物に見えた。「すまない」「本当にすまない」なんて、何度も何度も謝って。
「にいちゃんは、ずっとお前のことが大好きだから」
刹那。
ドロ、と。生温い感触が、肩口に伝う。
ギシギシ、ギシギシと何かが軋むような音。
「………………ヨウ兄?」
暗い部屋にいた。
先刻までの温かな景色は、見る影もなかった。鼻をつく激臭。耳奥にこびりつくような、粘ついた水音。
そんな尋常じゃない空間の中央で、青年はこちらを見下ろしていた。
虚に開かれた黒目はひどく乾いていて、先刻までの面影はない。不自然な体勢で、首も、不自然なくらいに伸び切って。
その首には、ギシギシと音を立てる荒縄が────
***
「お前の生態にすごい興味があるんだけどさぁ」
「奇遇だな。僕も、幾つか君に訊きたいことがある」
目が覚めると、鼻先には僕の顔。今日も整っている。
唇を震わせ唾を飛ばせば、ちょっと形容しがたい表情でマコトはその場にひっくり返った。
胡乱な目をして、身体を起こすマコト。
その所作は、先刻見た『マコト』のいじらしさからは、想像もつかないような太々しさだった。
「………『ヨウ兄』」
「…………」
ピリ、と。終始平坦だった翠眼に、緊張が走ったのが分かった。
だがそれも一瞬で、次の瞬間後頭部を掻いたその顔に、緊張感は残ってすらいない。最も、確信を得るのにはそれだけで十分だったが。
「やい、変態覗き見陰毛野郎。お前、どこでその名を──」
「マコト君は陰毛もサラサラストレートなのか?それともまだ生えてもない?」
「…………言うじゃあないか。確かめてみるか?」
「どうやって」
「この上で」
足を組み直せば、マコトは口端を吊り上げてベッドへともたれ掛かる。ギシ、とスプリング軋む音が、あの不愉快な夢にリンクして気持ち悪い。
「……今の僕をどうやって抱くつもりだ?」
「はは。やっぱそう言うのに偏見はないのか、この世界は」
「当たり前だ。潔癖も極めれば王家すら途絶える」
「そう言う話じゃないよ」
呆れたように張り上げられた声は、妙に神経を逆撫でする。「男色家の王家が……」と言うボヤきは、意味は分からないが、痛烈に何かを冒涜するような響きを伴っていた。
「な、なんだよ……」
「いーや、精神疾患者の妄言だ。聞き流せ」
「面白くないぞ、その冗談」
「じゃあ言わせてもらうけどね。王妃が男、父上が男、母上も男、挙句、兄上がお熱の『ギネヴィア』様まで男ときたもんだ。こんな話ってあるか?俺はてっきり、ギネヴィア様とは金髪碧眼の儚げ美女だと……」
「兄上って呼ぶな、兄上って。僕の兄様だ」
「男のケツ穴からどうやってガキひり出すんだよ。それともなんだ、コウノトリが運んでくるのか?桃から生まれてくるのか?ああ、皆んなが皆桃太郎ってか」
「…………僕は庭園のキャベツ畑から生まれたが」
「勘弁してくれ……」
『ギネヴィア』と言う名前に苦い物を感じながらも、それのどこがおかしいのか分からない。人を食ったような男が、本気で狼狽する様はかなり愉快だが。
「今度は君の番だぞ、マコト」
「……?」
「君の身の上を話してもらう」
「意外だな。お前は俺に興味ないかと思ってた」
「…………話が変わってきた」
目を逸らす。問われても、自分でも分からなかったからだ。何故、自分がここまでこの男に興味を持っているのか。
ただあの少年の──あの、純粋に兄を慕う少年の笑顔が、頭にこびり付いて離れない。他人だと思えなかった。
あの男の抱えているものが、もし。もし、僕と同じ類の物だとしたら。
僕らがこうなった理由は、そこにあるのではないか。
……理由を知って、特にどうするわけでもないけれど。
「ふぅん」
「おい、何だその気のない返……おい、何をしている」
「お前と違って俺は忙しいの。話してやっても良いけど、移動しながらな」
男らしく服を脱ぎ捨て、制服に着替えるマコト。今日は確か、休日の筈だが。
「お前何日寝てたと思う」
唐突な問いに、デジャヴじみた物を感じながら眉を寄せる。
「はん……」
「ブッブー!60日つまりこっちの暦で約1ヶ月!」
「早いな!って、60日?」
今度は僕が仰反る番だった。
本当にどうなってるんだ、僕の身体は。
***
「おはようございます、ロード・モーガン」
「ご機嫌よう、モーガン様」
「ああ、モーガン様は今日も麗しいわ」
眠って、60日経って。目が覚めたら、全く知らない世界が広がっていた。
悪い夢でも見ているのかと思った。
「マコト、これはなんだ」
「何だってなにが……やあ、おはよう。ミスタードゥナツ、エビオス嬢」
「ふざけるなよ、とぼけるな。何がどうして────」
僕の知っている学園は、こうも温順で能天気な物では無かった。道を歩けば陰口、誹り。廊下を歩いたとて、遠巻きにされることはあれど、まるで親友のように名を呼ばれることは一度も無かった。
それが、どうだ。
僕を『妾の子』と罵ったのと同じ口で、僕を愛称で呼び、称賛する。その厚顔に吐き気がしたし、何よりこの状況が気持ち悪くて仕方が無い。
「人は変わるのさ。60日もあれば」
「ああ、だが周りはそうも行かない」
「マジで面倒くさいね、お前。じゃあこれだけ」
苛立たしげに髪を掻き上げて、マコトはかぶりを振る。足を止め、前を見据え。
「…………やあ、モーガン」
「ああ。ご機嫌よう、兄上」
眩しい金髪に、透き通った翠眼。
反射的に遮断されそうになる意識に鞭打ち、何とか踏みとどまる。ここで寝たら、本当に次いつ起きられるのかわからない。
マコトはというと、いつかのように恭しく腰を折りながら、左目を瞑って見せる。
「兄貴とは良好な関係を築いた方が良い」
***
人が何百人横並びになってもまだ余裕があるような赤煉瓦の建物は、縦にもデカい。首に鈍い痛みを感じながら建物の天頂を仰ぐ。同じように上を見上げたまま、マコトは日差しの眩しさに目を細めた。
「ここが王立病院か……」
「君は本当に……」
集められた『来訪者』たちは、王立病院の特殊疾患病棟に収容される。親族すら難しい患者達との面会許可が降りたのは、ひとえに、ユーチェスター公爵が長男──つまりは、兄様のツテのおかげである。
「おい、そこの猫っぽい生き物の死骸。お前あれに乗り移ったりできないの」
「ネコってなんだ。……ええ、まさか虫が集ってるあれのこと言ってるのか?」
「魂の性質を知るための実証実験だ。そもそもお前は自分の事にちょっと無頓着すぎるよ。道理を知ることは大事だぜ、火が起こる道理、魂の構造。克服して、自分の物にするには────」
「おい、足が腐って動けな……あー!お尻の穴から放り出された!」
「………………ブリブリモーガンくんさぁ」
「僕はうんちだ」
そんな軽口を叩きながら、兄様の書いた紹介状を提示して、兄様が『寄付』してる病院へと立ち入る。
病院内に立ち込めるこの匂いは、昔から好きにはなれなかった。
「……俺の世界の病院とは違うな、当たり前だけど。研究施設って感じだ」
「実際それであってるんだろう」
「マジ、ここエリア51だったのかよ。そんで俺はエイリアン?」
「助詞と主語意外、君がなにを言っているのか全くわからない」
マコトのトンチキ発言は、気にするだけ無駄だ。説明を受けたって意味はわからないし、そもそも説明らしい説明をコイツから受けたことがない。
寂漠とした院内に響き渡る、1人分の足音に耳を澄ませる。「マコト」と声をかけると、緑色の目が、きろと僕を捉えた。
「どうやった」
「なにが」
「どうやって話をつけた」
「兄弟は大事にしろ」
「僕が寝てる60日間に、兄様と何があったって聞いてる」
「茶をシバいて、お話して、親睦を深めただけだっ──」
「僕がなにをしても、兄様は16年間僕に興味を持たなかった」
マコトは口を噤む。口を噤んで、僕の横顔をまじまじと見つめる。我が表情筋ながら、もっと柔軟に動くことは出来ないのかと思う。人形でも眺めているような気になって、感情らしい感情が読み取れない。いや、こいつの場合そこのところ完璧にコントロールできるみたいだから、これは意図的だ。意図的に、表情を落としている。
「…………『ヨウ兄』は、俺の兄貴だ」
次に落とされた声音に、先刻までの軽薄さは全く無い。僕の方は内面が顔に出ていたようで、「そんな顔するなよ」と嗜められる。
「さっき言っただろ、話してやるって」
「……君は本当に話を逸らすのが得意だな」
「マァ聞けって。そのヨウ兄はできたお人でな。それこそ妾の子の俺を、実の弟みたいに可愛がってくれた」
「妾の子?」
思わず表情が強張る。目を剥けば、マコトは目を細め、口端を吊り上げる。僕はこの男の、こうも穏やかな表情を初めて見たかもしれない。ともすれば、これは彼が初めて見せる素の表情なのか。
「そうだよ、腹違いのね。お揃いだな」
「それにしては似てた」
「…………どこで見た?」
「夢で」
「何、やっぱ記憶が勝手に共有されるわけ。それについても後々調べなきゃな」
「どうなんだよ」
「ぐいぐい来るな……そうだよ。父親の遺伝子が強いんだよ。多分、知らねーけど」
その表情には、純然たる無関心が横たわっているようだった。恐らく、本当にどうでも良いのだろう。
僕と怖いくらいに似た境遇に身を置きながら、僕とは全く対局の位置にいるのだと思った。
だって、こうも自分や、父親に無関心でいる事が可能なのか。少なくとも僕には無理だと思った。僕は僕の目と頭髪は父様似で好きだが、母親似の鼻は嫌いだ。
「んで、俺の母親の方は俺を産んだ後すぐ死んで、俺は本家……親父の家に引き取られたんだよね」
「…………」
「当然、面白くないのは義母さん。俺を妾の子って呼びながら、義兄……ヨウ兄じゃない方の兄貴と一緒に突き回した。親父も親父で、火遊びの副産物でしかない俺に無関心だった」
「……でも、『ヨウ兄』は違った?」
「そー。それで、その人格者アニキが言うにはね」
「君は────」
言葉が継げなかった。
あまりにも壮絶な身の上だった。けれどそれを語る口調は、あまりに淡々としていて、まるで、他人事みたいで。もしその痛みをそうも無頓着に扱う事ができるとしたら、それは彼が傷に慣れきってしまっているか、無自覚であるかだろう。
「血が繋がっていようとなか──は、なに、お前。え、泣いてる?」
「泣いてない」
「し、しかもキレてるぅ……」
「キレてないし泣いてない。やめろ、その露骨に腫れ物見つけちゃった!みたいな顔をするのを」
「いやキレてんじゃん……これだからボンボンは……」
ウゲ、と舌を突き出して、胡乱な目をするマコト。その態度が余計神経を逆撫でしてきて、こう、もうダメだった。本当に。本当に恥ずべきことだが、涙が止まらない。
「何で、お前そんな平気な顔できるんだよ……」
「え、俺……?」
「もっと、こう、傷付いた顔をしろよ!」
「ええー……、俺の話は良いんだよ。もうとっくに折り合いついてるし。それよりヨウ兄様の有難い言葉をだな……」
「良くないだろぉ!辛いときは、辛いって……、」
マコトとの距離がゼロになる。
感じるはずの無い温もりが、上躯を包んだようだった。僕を抱き締めるようなポーズを取るマコトは、側から見ると虚空を抱き締める変人である。
「おい、何してる。君、すごく変だぞ」
「駄々っ子をあやしてるんだよ!」
「抱き締めてか?……というか駄々っ子ってまさか僕のことじゃ……」
「お前以外に誰が居んだよ。ヨウ兄の直伝だ。ほら、現にお前は泣き止んだ。」
自分(中身は別人)の痴態を客観視して、冷静になっただけである。
とは言えず、大人しくマコトのしたいようにさせておく。だが飄々として、何事も要領良くこなすように見えていたコイツに、こんな不器用な一面があったとは。人間味が一気に増してきたぞ。
「…………落ち着いたか」
「僕は最初から落ち着いてる」
「良かったな、鏡に映らない体で」
「凄い皮肉言う……」
モラルもクソも無い発言に、小声でドン引きする。マコトは「とにかく、あれだ」と、強引に話題を切り替えるように、ぶっきらぼうに言った。
「ヨウ兄が言うには、『血が繋がってようと無かろうと、兄弟を大事にできないやつはクソだ』って」
「…………」
「そんで話した印象からして、お前の兄様はクソだ」
「兄様を侮辱するか」
「ああ、するね。だからこの際言わせてもらうけど、お前がそのクソ野郎のご機嫌を必死にとって、一喜一憂して振り回される必要はないよ」
「………………」
あまりにも軽薄な物言いだが、どこか妙な説得力があった。
「俺には俺を助けてくれる兄貴がいた。けどお前にはいない。お前を助ける人間が」
「…………」
「………………そりゃ、死にたくなるわな」
俺の頭に、手を置く。本当に分からないやつだと思った。そんな事したって、触れやしないのに。けどアイツの手は透けないから、アイツがどんな表情でそれを言ったのかは見えなかった。
「オラ、着いたぞ」
何を言うか考えあぐねるうちに、マコトはさっさと手を引っ込め、扉に向き合う。面会室と書かれたそのドアプレートは、不自然なほどに綺麗だった。
***
「僕はモーガン・ル・フェイ。はじめまして」
「………………」
青白い顔をした女は肯首するように顔を伏せ、黙り込む。『来訪者』であると言うその女は、実に4人目の面会者だった。
「わ、たしに、なんの御用でしょうか」
「あなたの事を知りたくて」
「お話出来ることなんて、何もありません」
「僕はあなたのお話を信じます、全て」
「そんな、必要ありません、私は────、」
「お辛かったでしょう。わかりますよ、この世界はあまりにも生き辛い」
傷一つない机に投げ出された女性の手に、マコトはそっと手を添える。煙る睫毛が物鬱げに伏せられ、翠眼が上目遣いで女性を覗き込んだ。
「目が覚めると全く知らない人間で、全く知らない世界に1人放り出されて。加えて周りは碌に取り合わず、挙句精神異常者扱いだ」
「あなたに何が分かるんですか」
「全てです。あなたの苦しみ全て」
「…………なぜ」
「蜒輔b縺ゅ↑縺溘→蜷後§縺ァ縺吶°繝ゥ」
同時に、女性の目が見開かれる。驚愕に塗れた表情にも関わらず、その双眸の奥の氷が、一瞬にして溶けてしまったような感覚を覚える。
まただ。
今までの3人も同じだった。皆が皆、何かに怯えたような目をして、この部屋に入ってくる。けれどもある時から、こちらに完全に心を開き自分から身の上を語り始める。
マコトが、この一言を口にしたときから。
「………………どうして」
「先刻も言った通りです。だから僕は、あなたの辛さも、苦しみも痛いほどわかる。力になりたいんです」
「………………」
「あなたは病気なんかじゃない。あなたは正常です」
その言葉に、女性は目を細め、肩を震わせる。泣いている。これははじめての反応だった。
マコトが立ち上がり、女性の隣の椅子へと腰掛ける。慣れた手つきでその肩を摩りながら、女性が口を開くのを待っていた。先刻──僕をあやす時からは想像もつかないようなスマートさだ。
「わからなく、なっていたんです」
辿々しく、どこか違和感のある発音のまま、女性は零す。
「おかしいのが、自分なのか世界なのか。そしたら日に日に、自分の境目も分からなくなって行って。私は、『アン』なのか、『私』なのか。私は誰なのか……」
「…………あなたの名前をここに書いて」
「アン・フォーキンズ」
「そちらではない方の」
震える手にペンを持ち、『アン』は名前を羊皮紙へと書き綴る。
『伊藤沙織』
見覚えのない幾何学に思わず目を細めるが、マコトはそれを見て「綺麗な名前だ」と笑った。
「イトウさん。イトウ、サオリさん。それがあなたの名前だ」
「…………っ、」
アンは顔を覆う。どうやら本当に彼女の自認は、『イトウサオリ』であるらしい。
彼女はアン・フォーキンズとして生まれながら、ある時点から、イトウサオリとなった。それでも周りは彼女を、アンとして扱う。彼女はそれを『自分の境目がわからなくなる』と表現したが、僕には想像も及ばない苦痛である。
ただ一つ確かなのは、アン・フォーキンズは完全に死んだと言う事だ。
同様に、僕は死んだ。
そう、あの日、確かに僕は、死んだはずだった。
改めて沸いた実感に、指先が冷たくなるような感覚を覚える。足場が端から崩れていくようだ。そして、再三言葉を交わした筈だったイガタマコトと言う男の異質さに、寒気がした。
「…………私、伊藤沙織ははいじめを受けていました」
ぽつりと零された声に、意識を引き戻す。イトウサオリは自分の手の甲を見つめながら、淡々と口を開いた。
「そして、自殺しました。アイツらを呼び出して、目の前で、飛び降りてやりました。少しでも後悔すれば良い、傷になれば良いと……すみません、そんな事はどうでも良いですね。ええ、重要なのは、私は確かに死んだと言う事です」
「…………」
「けれど、私は生き返った。……ご存知の通りです。死んだ筈の私は、死んだ筈のアン・フォーキンズに成り代わっていました」
「死んだ?アン・フォーキンズが」
「はい。アンは、貧しい村娘です。病で父と母を早くに亡くし、身寄りの無い状態で漸く勤めた奉公先でも虐げられ。……焼身自殺を図りました。屋敷や何人かの同僚や。色々な物が燃え落ちた焼け跡の中心で、私は目を覚ましました」
やはり、と確信する。
前の3人もそうだった。皆が世を儚み、怨を背負って死に、類似した境遇の人間として生まれ変わっている。彼女らの場合は、周りに虐げられた末に。他の3人は、過労が祟った事故死や罪悪感による自死、果ては周囲を傷つけた末の他殺などを通して、成り代わりを果たしていた。
「……『月』は」
「月」
「あなたが亡くなった夜に、月は出ていましたか」
マコトの問いかけに、イトウサオリは目を見張る。
「どうだったでしょうか。……ああ、屋上から見えた月が、非常に美しかったのを覚えています。ええ、とても立派な満月でした。けれど、何故そのような事を」
「…………炎と満月、そして当事者以外の人間の死」
「…………?」
「あなた以外の『来訪者』にも話を聞きましたが、彼らの証言にも、決まってこれらの3つが関わってきていました。いずれも、宗教・呪術的に大きな意味を持ちますね」
「それが?」
「仮説ではありますが。完全に無作為というわけではなく、『来訪者』に選ばれるためには一定の条件があるのではないかと考えています」
思い返してみると確かに、その通りだと思った。
だが満月については、今みたいにマコトの方から切り出す方が多かったので、マコトの中にはあらかじめ、この仮説があったのかもしれない。
「『来訪者』についての調査という名目で、僕はあなたと対話することを許された。だからこそ、僕にはそのメカニズムを解明し、貴方のような人を救う責務がある」
「救う……?」
「はい。魂と肉体、この世界と彼方の世界の関係。それらを理解する事で、応用的に貴方を解放できるかもしれない」
「…………解放」
ここで言う解放とはすなわち、彼女にとって2度目の死を意味するのだろう。だが、イトウサオリの瞳には透き通った光が宿る。
その光景があまりにも異様で、なんだかマコトの方が、綺麗なだけの死神のように見えて来る。耳障りの良い言葉で人を誑かし、その魂を掌握するのだ。
そんなことを悶々と考えるうちに、マコトは懐中時計を確認する素振りを見せる。この面会に時間制限は無いし、このあとにも予定は無いはずだが。
「……辛いお話をさせてしまって、申し訳ございませんでした」
「いえ……」
「名残惜しいですが、時間です。また、機会が──」
言葉が途切れる。
イトウサオリが、マコトの手を掴んだからだ。澱んだ青色をした目が、覗き込むようにマコトを見つめていた。
「…………あなたは、どうしてだと思いますか」
「はい?」
「何故、私たちが選ばれたのでしょう。なぜまた、私がこんな目に──」
「さぁ、」
今度は、マコトが言葉を遮る番だった。掴まれた手を一瞥したかと思えば、その相貌には笑みが浮かぶ。
「僕は、神様からの贈り物だと思っていますよ」
「何を、」
「神様はチャンスをくださったんです、僕に」
「……貴方は私を『解放』してくださるのですよね?」
「ええ。ですが僕にとっては、死は救済ではありません。それだけの話です」
その笑みは、完璧だった。口角の角度も、目尻の下げ方も。けれどそれを見て覚えたのは、得も言われぬ薄気味悪さである。
発言の内容は元より、この得体の知れなさ。何を考えているのか全くわからない。何か、理解の及ばない存在に睨まれたような、そんな感じ。男の輪郭が、いびつに歪むような錯覚を覚えた。
それはイトウサオリも同じようだった。
引き攣り、青褪めた顔で掴んだ手を下ろす。
「では、イトウサオリさん。また機会があれば」
微笑んだまま、恭しく礼をするマコト。制服を翻してさっさと部屋を出て行くその背を、慌てて追う。
閉じる扉の隙間から見えた女の目には、最初と同じ拒絶が蹲っていた。
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